新加坡回想録(36)ワールドカップで命拾い!?

記事の題名を見て「これは何のこっちゃ?」と思われた方も多いと思います。私がシンガポールに赴任したのは1983年でしたから、まだ、Jリーグは発足前でした。世界中で最も普及し、かつ人気のあるスポーツはサッカーでしたが、シンガポールでもサッカーは最も人気のあるスポーツのひとつです。 FIFA rankingは、現在162位と下位に留まっていますが、日本とは今回のW杯1次予選で対戦した際にはホーム、アウェーとも1点差で敗れはしたものの、相当日本を苦しめました。昨年開催された東南アジア選手権(タイガー杯)では力を発揮して優勝しています。 サッカーが最も人気があることには変わらないのですが、実は、自国のSリーグよりも英国のEnglish Premier League(EPL)の方が人気があります。バーでのTVは必ずと言っていいほど、EPLのゲーム(録画含む)が流れており、週末にはいわゆる4強(チェルシー、マンチェスター・ユナイテッド(MANU)、リバプール、アーセナル)を中心に5、6試合程度が放映されています。 さて、わが社の事務所の運転手たち(マレー人)もサッカーが大好きで、ワールドカップ開催中は自国の代表は出ていなくても、毎日テレビで観戦します。そのこと自体はよいのですが、ここで一つ大きな問題があります。夜中に夢中に試合を見て睡眠不足のまま朝出社するのです。 ある日、私は到着するお客を迎えるために高速を空港へと向かって車を飛ばしていました。勿論、運転は我が部のマレー人運転手です。お客を迎えた後はどのように接客しようかと考えを巡らせていたところ、車がどときどき右に左にと逸れていきます。ふと気が付いて、ドライバーを見ると居眠りをしているのです。 びっくりして、「Kasmidi!」と運転手の名前を呼び、「Stop! Stop!」と大声で叫びました。しかし、ドライバーは、「No Problem!」と言って止めようとしません。そして、また、車はフラフラしています。命あってのものだねと私は、後部座席から身を乗り出してハンドルをつかみ、これ以上出せないという大声で「Stop!」といい、やっとのことで、車を止めさせました。 「完全な居眠り運転じゃないか!」と叱り、運転を交代するよう話をしました。しかし、素直にOKしません。もしそんなことをして総務部に報告されたら首になるか、或いは減給されるかもしれないという思いからです。 私は、「わかった!会社には何も言わないから交代しろ!お前は俺を殺す気か!いや、このままだと二人とも死ぬことになるぞ!」と言って、やっと運転を交代して事なきを得ました。 あの時の恐怖は、忘れられません。 (西 敏)

新加坡回想録(19)ワインとの出会いI

私のワインとの出会いはシンガポールで始まった。ワインの話で”シンガポール?”と不思議がる方もおられると思うが、勿論シンガポールでは、ワインは製造されていないだろう。赤道直下の国では、ワインの製造に適したブドウは出来ない。 ワインの生産される主な地域は 北緯30度~50度 南緯30度~50度、平均気温10℃~16℃の地域に限られていて、この地域を称してワインベルトと呼ばれている。多くの植物がそうであるように、ブドウにも栽培適地があり、ワイン用ブドウ品種の栽培適地がこの範囲となっているのだ。 5年以上の駐在期間に多くの訪問客のアテンドをしてきたが、その中で特に印象に残る一人がいた。その人は、日本の某チョコレートメーカーの技術者で、シンガポールのココア製造メーカーとマレーシアのカカオ農園を視察に来星していた一団の一人であった。 一日の仕事を終えた後、夕食にと海岸近くのシーフード・レストランに招待した。フレッシュな魚や貝に舌鼓を打っていただいたが、その時、ビールを飲む人が多い中一人だけワインを所望された。「牡蠣にはシャブリ」ときたものだから、ああ、この人も例の蘊蓄語りの嫌な人物かと訝しい思いでいた。 大事なお客だからむげにも出来ずふんふんと話を聞いていくうちに、少し違うものを感じるようになっていった。どうも、自分の知識をひけらかしているだけではないような気がして、敢えて意地悪な質問をいくつかぶつけてみた。すると、いかにも技術者らしくひとつひとつ丁寧に解説してくれた。 その中で、一つ気に入った言葉があった。それは、長い歴史の中で培われえてきたワインだから先人の言うことには一理はあるけれど、何も教科書通りに飲む必要はない。”牡蠣にはシャブリ”と言われるのもそれなりの理由があって言われているが、”一人だけが美味しいと感じるワインもある。” ボトルを開けるたびに私もご相伴に預かっていたが、さほどの感激もなく美味しいとも思わなかった。それまでワインを美味しいと思ったことはなく、炎天下で飲むビールが最高と思っていた。仕事の話はそっちのけで、この人にいろいろな質問をぶつけていくうちにワインに対する興味が少しだけ湧いてきた。 ~ワインとの出会いⅡにつづく~ (西 敏)

新加坡回想録(15)映画

シンガポールはよく文化のない国といわれます。文化のない国などあるはずがない、大なり小なりあるはずだと反論する方もおられるでしょう。考えてみるとどちらも正しい一面があります。要は、何をもって文化と定義するかの問題です。 ただ、歴史の長短がひとつのポイントになることは間違いないでしょう。まず単純に、独立して半世紀しかたっていないシンガポールでは所謂、長期間に亘って醸し出される民族伝統の文化が育つ素地はありませんでした。 国民は、中国、マレーシア、インドというそれぞれが長い歴史を持つ国から流れてきた人々が大半です。彼らは元いた国の文化を持ってこの国に来ましたが、その文化を自分達の民族社会で引き続き守っています。シンガポーリアンとしての文化はまだ育っておらず、これから何年もかけて新しい文化を作っていくことになるのでしょう。 たとえば映画の事情を見てみましょう。シンガポール人は映画が大好きです。映画館も充実していて、あちこちにありとにかく安いのがうれしい。聞くと最近は、9ドル(750円)~13ドル(1100円)程らしいですが、35年前は、2ドル(240円)~4ドル(480円)でびっくりするほど安かったのを覚えています。おまけに、ハリウッド映画が日本より早く来るケースも多く、もう見たよと言うのがちょっとした自慢になったこともあります。 ただし、字幕は中国語字幕で日本語字幕はありません。英語をよく理解できなくて何度も同じ映画を見た人もいました。そうでなくても好きな映画なら何度も見ることがありますから安いことはこれ以上ないメリットでした。 ハリウッドをはじめ、ヨーロッパ、日本、香港、台湾、インドなど世界中の映画を見ることには事欠かないのですが、地元の制作会社作った映画と言うのは聞いたことがありませんでした。映画製作の盛んな国と言うとやはり大きな人口をかかえているという背景があります。比較的安いチケットで大衆が楽しめるようにするためには、やはり多くの観客を対象にしていなければ採算が取れないのでしょう。たかが数百万人の人口では事業として見合わないということです。 ただ、シンガポールは当時既に発展途上国から先進国の仲間入りを果たした国でしたから、国民はそういった文化、特にエンターテインメントを楽しむ余裕は充分出来ていました。おそらくこの30年の間に事情は大きく変わっていると思います。最近の事情をご存知の方は是非教えていただきたいと思います。 (西 敏)  

新加坡回想録(12)北京語を習う

ことばについての記事が3回続きましたが、今回は私の北京語学習体験についてお話しします。 シンガポールへの駐在が決まる前によくマレーシアへ出張していました。東マレーシアのボルネオ島からサゴ澱粉(サゴ椰子の幹から取れる澱粉)の輸入を担当しており、行き帰りに必ずシンガポールに立ち寄っていました。当時からシンガポール国民の75%以上が中国系の人々でしたが、マレーシアの取引相手も実は、中国系(福建省出身)の会社でした。 私は英語しかできなかったのですべて話は英語でしたが、先方の社長は福建省出身で英語が得意ではありませんでした。普段は、シンガポール支店のローカル社員(後に私の部下となる福建人)と福建語で話をするので全く問題はなかったのです。出張で私が訪問した時は直接話さなければならないので英語で話すのですが、時々分かりにくいことがありました。そんな時は、社長の長女や長男が中に入って通訳してくれたのです。長男の英語はシングリッシュに近いものでしたが、長女は大学を出ておりきれいな英語を話しました。 出張の目的は、減少傾向にあった原料澱粉をできるだけ確保することで、輸出会社を経営するその社長と一緒に、サプライヤーの工場を訪ねて歩くことでした。歩くと言っても、工場はジャングルの中の辺鄙なところにあったので、交通手段はボートでした。マングローブが生い茂り泥のような色をした川を、船尾に”KAWASAKI”のモーターを付けた小さなボートで1軒1軒回って在庫をチェックするのです。社長はその場で次の船積みに間に合うロットが何トンになるかを確認して工場と値決めをします。 この時に、社長と工場のオーナーが交わす会話は福建語でした。工場側の人々は全く英語が話せないので直接話が出来ず、聞きたいことは全部社長に通訳してもらいます。肝腎の値決めをしている時に思いました。 「言葉がわかったら相場がわかるし、最後にするこの社長との値決め交渉に役立つのになあ・・・。こっそりと福建語を勉強してやろうかな」と。 このことがきっかけになったのは確かですが、さすがに福建語を学ぼうとは思いませんでした。この仕事以外にもシンガポールの会社との取引がいくつかあり、その相手の会社の中に中国系の会社が何社かありました。福建人でも、広東人でも、潮州人でも標準語である北京語は理解します。中国語を学ぶならやはり標準語である北京語(華語・普通語)ということになりました。 赴任してまもなく、シンガポール日本人会に北京語のクラス「中文班」があることを知りそこでの受講を決めました。そこでの授業は毎週火曜日の夜7時から8時半までで、講師は年配の中国人女性でした。先生は日本語が出来ないので英語で北京語を教えるというかたちでしたが、ほとんど北京語ですすめていました。生徒は男女合わせて10名前後いました。 週一回だけなのでなかなか進みませんでしたが、少しずつ慣れていき次第に溶け込めるようになったころ、先生から班長を任命されました。学習は順調に進んでいたのですが、来客の接待など仕事で欠席することが多くなり、そのうち辞めることになってしまいました。結局は半年くらいしか続かず中途半端に終わってしまい、あとは自習ということになりました。もう少しやっておけばよかったと今更ながら思います。 簡単な挨拶くらいはできるようになったので、取引先の人相手に時々話したりしているうちに、実際には大してできないにもかかわらず、この人は北京語が話せるといって紹介されるようになりました。食事会などの時にもその話題になることが多く、少しだけ披露すると、発音がいいとか、凄いとかおだてられていい気持ちになったものです。ずっと続けるとボロが出るので自然と英語に切り替えていましたが、先方もそれほど期待している訳ではないので問題ありませんでした。話題の一つになっただけプラスになったと思います。 (西 敏)

新加坡回想録(11)シングリッシュⅡ

前回、シングリッシュについての特徴や、どのようにしてシングリッシュが生まれたのかを私の推測を含めて紹介してきましたが、今回は、実際に使われている場面や考え方について少し捕捉したいと思います。 【代表的なシングリッシュの例】 シングリッシュの例として私が気にいっているものに次のような使い方があります。 あるお店での会話。 ——————- 客 :Discount, Can?(安くできますか?) 店員 : Can!              (できますよ!) 客   :Can?              (本当に?) 店員:Can, can!         (もちろんできますよ!) お分かりのように ”Can” だけで会話が成立している好例です。このような会話は、お店だけでなく事務所でも街中でもあらゆるところで実際によく耳にします。どうでしょうか?日本人にとっても分かりやすく、これなら英語が苦手と言う人でも簡単に会話できるのではないでしょうか。 他にも語尾に「ラ」を付けて、”Can lah” ”OK lah” (「できるよ」「いいよ」という意味)という表現も頻繁に使われています。この「ラ」は私は、中国語の「了(ラ)」から来ているのではとずっと思っているのですが、確かめたことはありません。 シンガポール人のシングリッシュと英語の使い分け シングリッシュは長らく、外国人に理解されない間違った英語だとみなされてきました。リー・クアンユー元首相をはじめ政府は、シングリッシュを「シンガポール人に負わせてはならないハンディキャップ」とし、正しい英語を話すよう国民に呼びかけてきました。 現在シンガポールのテレビなどの公共放送では、シングリッシュの使用が禁止され、一般的な英語で放送が行われています。政府のこうした働きかけにも関わらず、シンガポール人は自分たちならではの言語として、シングリッシュを好んで使い続けてきました。私見ですが、今やシングリッシュの使用は、文化がないと言われるシンガポールでこれこそが一つの文化であると言っても過言ではないかもしれません。 親しい友人との日常会話はシングリッシュで、ビジネスなど改まった場での会話は正しい英語で、というように使い分けるシンガポーリアンが多くなったようです。また、同じ民族の人との会話にはシングリッシュと中国語、シングリッシュとマレー語のように、シングリッシュと自分たちの母語をごちゃ混ぜにして使うことも多くあるようです。使い分けることができるということは正しい英語も話せるシンガポーリアンが増えたという証拠でもあるのです。 以上のようにみてくると、どんな言語を使おうと相手ときちんと意思疎通ができれば問題ない、というシンガポール人の言語に対する柔軟な考え方が感じられます。先に書いた ”Can”  だけで会話が成立する例など、笑い話のようでもあり、揶揄する人も多いですが私自身は嫌いではありません。むしろ、異文化のひとつとして聞いていて楽しくなります。 政府の熱心な正しい英語教育にもかかわらず、そして使い分けも出来るにもかかわらず、依然としてシングリッシュを使い続けている様子を見ていると、これは私の勝手な解釈ですが、このシングリッシュこそが多民族で構成されるシンガポーリアンのアイデンティティなのではないかと思うのです。 (西 敏)

新加坡回想録(9)多言語国家

シンガポールの官庁やビジネスマンの言語は、ほぼ英語ですが、華人の間では華語(マンダリン)も使われます。しかし、チャイナタウンや公団住宅のマーケットで買い物をする年配の華人、さらには若い華人同士でもくつろぐ時には福建語、広東語、潮州語などの方言が好んで使われています。そして、マレー人同士はマレー語、インド人同士はタミル語とそれぞれの言語が飛び交っているのです。 日本の場合、会社では標準語を話しても、同じ郷里出身者同士でくつろいでいる時は田舎の方言で話すのと似ています。ただその方言が、大阪弁や東北弁、または鹿児島弁というのではなく、中国語、マレー語、タミル語というれっきとした外国語なのです。彼らはシンガポール国民であるはずなのに、それぞれの文化、宗教、ことばが全く違うので「シンガポール人」というアイデンティティがないようにみえます。 実は、このことをリー・クアンユーも懸念し、どうすれば同じアイデンティティを持てるのかを考えた末に打ち出したのが英語を重視する政策でした。人口の75%以上を占める華人には、英語を学ぶグループと、英語を重視せず祖先から受け継いだ華語のみで育つグループに分かれていました。有力者でも英語を話さない人々がいました。わずかにあったマレーシア産の錫を加工する軽工業で財を成した華人は英語を話さないグループでした。 しかし、資金、技術、輸出市場を持ち込んでくれ、さらに雇用機会まで提供してくれる多国籍企業の誘致のためには英語は必須の言葉であったし、政府系の人々が英語教育を受け正しい英語を話すグループであったのは当然です。リー・クアンユーは自らはケンブリッジ大学で学びましたが、官僚として採用していったのも英才教育で選別した英語を話す精鋭ばかりでした。 さて、シンガポールの国語はマレー語です。英語でもなければ華語でもタミル語でもありません。このことは、マレーシアと一体になって発展していこうとしていたシンガポール政府(リー・クアンユー)のマレーシアに対するメッセージでした。また、シンガポールの国歌「Majulah Singapura(マジュラ・シンガプーラ)」の歌詞はマレー語になっており、今でも建国記念日の式典など公式の場ではシンガポール国民全員がマレー語で歌います。 ところが、マレー系民族以外のシンガポール国民の多くはマレー語の意味を理解することができないため、国語としてのマレー語の位置づけは、儀礼的なものでしかありません。因みに、シンガポール日本人学校の卒業生はみな、このマレー語のシンガポール国歌を歌うことができます。我が娘二人も完璧に覚えていますが、意味は殆どわかっていないようです。 ♪マリキターヤ ラサ シンガプーラ・・・ (西 敏)  

新加坡回想録(8)厳しい罰金制度

クリーンシティともグリーンシティとも言われるシンガポールですが、どうしてこんなに街がきれいなんだろうと疑問に思ったことはないでしょうか。私自身、駐在前に何度か出張で訪れたときに「これが東南アジアの国か?」と驚きました。仕事の相手先は主に隣国のマレーシア、それも東マレーシアであるボルネオ島だったので、数日間の仕事帰りにシンガポールに戻ると、美しい街並みを見てほっとした気持ちになったものです。 シンガポーリアンは、街角でゴミやガム、たばこのぽい捨てをしない礼儀正しい国民だったでしょうか。いやそうではありません。現地でこんな話を聞いたことがあります。ある時、華人が二階の窓から自転車を投げ捨てたといいます。どこの国の人でも、時には気がふれているのかと思うおかしい人はいますが、この話は、過去シンガポールに移民してきた中国人の礼儀知らず、道徳のなさを象徴して言った言葉だと思います。 このような社会道徳を持たない人々を世界に通用する国民に仕立て上げるために、政府(リー・クアンユー首相)が取った苦肉の策がこの罰金制度であったと思います。今ではもう有名になりましたが、シンガポールには厳しい罰金制度がいろいろとあります。その中でもポピュラーなものをいくつか紹介しましょう。 ゴミのポイ捨て 道路でゴミをポイ捨てするのが見つかると500ドル(現在約40000円)。しかし、それでも結構平気でゴミを捨てる人も多く、 見つからなければ平気だと思っているシンガポーリアンも多いようです。最近の事情はどうでしょうか。 煙草の持ち込み 海外からの煙草の持ち込みはすごく厳しい。何しろ税金が高く1箱700円ぐらいで売られていて、毎年値上げしています。空港で日本人の男性が一人で入国する場合、調べられるケースが多かったと聞きます。勿論、税金を払えば持ち込めますが、日本から持ち込んだ税金不払いの煙草をホーカーセンターで吸っているのを見つかり、罰金500ドルを支払う羽目になった日本人がいたそうです。 ガムの持ち込み これも有名になりましたが結構見かけます。日本からのお土産でガムを持っていくと喜ばれました。空港での煙草のチェックは厳しいですがガムはあまり調べられないとか聞いたこともありました。2004年に一部解禁:薬局で指定の商品のみを、登録した消費者のみに販売できるようになったとかいう話も聞きました。その後どうなっているのかわかりません。 禁止区域での喫煙 公共の施設・乗物・デパート・空調施設のあるレストランなどでは全て禁煙です。例外は、パブ・ディスコ・カラオケバー。違反すると、1000ドル以下の罰金です。 交通違反 日本同様いろいろな罰金があります。スピード違反、ピーク時のバスレーン走行、追い越しなど。特に駐車違反はうるさく、あちこちににカメラが据え付けられていて、交通違反は結構発見されるようです。 車内での飲食 最近日本では満員電車の中でも堂々と飲食している若者もいますが、シンガポールでは公共の乗物内での飲食は罰金を課せられます。 タンやつば吐き 結構罪は重く、初犯でも1000ドル、再犯は2000ドルの罰金です。 香港のディズニーランドでの中国人のタン・つば吐きのマナーの悪さがニュースになっていたことがありました、このように罰金制度を決めないと中国人は平気でタンやつばを吐くと言われている。 ボウフラ発生 赴任した時に最初にこのことを言われたような気がします。これは蚊の発生により感染しデング熱やマラリアに罹ることを防止するため。コンドミニアムでも定期的に薬の散布を行っていました。 トイレの水の流し忘れ 冗談みたいですが本当の話。放っておくと流さない人が多いらしいです。 その他、重犯罪で特に厳しく罰せられるのが、 ドラッグの所持・販売 これに関しては他の東南アジア諸国でも同様ですが非常に厳しい。シンガポールでは、大麻500g以上の所持は、有無を言わさず死刑になります。たまに外国人が捕まり、母国の政府が嘆願したが死刑は覆らなかったという話がニュースになりました。 わいせつ物所持・販売、賭博行為 小さい国だけあってマフィアは存在しませんが小悪人は結構います。仲間内での賭け事をこっそりやっている人は多いです。何しろ中国人は博打が大好きですが、賭博行為は見つかると重犯罪です。 罰としては、死刑以外に強制労働・鞭打ちなどがありますが、これは思ったよりかなりきつく、暫く立ち直れないと聞きます。 きれいな街と厳しい罰金制度を揶揄して「Fine City」と言われます。 英語で”fine”には、「素敵な」という意味のほかに「罰金」という意味があります。 (西 敏)

新加坡回想録(7)強い通貨・弱い通貨

シンガポールの通貨はシンガポールドル(S$)。お札は、円よりも米ドルよりも小さめで、一見おもちゃの札のようでもあります。初めて見たときは、何だか「まだまだ発展途上国です。ひとつよろしくお願いします」と遠慮がちに言っているような感じがしたのを覚えています。 マレーシアの通貨リンギット(マレーシアドル)とも何となく似ているのは元々同じ連邦国だったこともあるでしょう。1983年、私が赴任した当時の為替は、1シンガポ-ルドル=120円程度でした、米ドルが240円であったので丁度その半分です。この時のマレーシアドル(リンギット)はシンガポールドルより少し(10%ほど)弱かったと思います。 紙幣のデザインはどうでもよいですが、各国通貨の交換レートつまり為替の動きは非常に重要なファクターでその国が他国と比較して経済発展をしているのかどうかの良い指標となります。私が駐在した5年半の間にシンガポールドルは対日本円で、ざっくり言うと驚くなかれ何と120円から60円になりました。この間、日本円はというと対米ドルで、1ドル=240円から120~130円になっていたのです。シンガポールドルは米ドルにリンクしたように動き、ドル円の比率に従って同様の動きを見せたのでした。 当時日本は継続的に好調な経済を維持しその後のバブル崩壊に向かってまっしぐらでした。シンガポールは独立後まだ20年と経たない発展途上国ではありましたが、他の途上国に比べて驚異的な成長を遂げていました。豊富な国土を持たないデメリットを逆手にとり、外国資本の技術をうまく取り入れ、軽工業から石油精製などの重工業に切り替え、80年代になると土地が不要な金融や観光事業に力を入れました。あの時既にロンドン、ニューヨークに続いて世界の3大金融センターと言われるまでになっていました。(その後香港にその地位を譲ることになりますが) 私が帰国した1989年の後に、シンガポールが隣国のマレーシアと比較して経済発展のスピードを更に速めて行ったことの証しとして、為替レートの推移を見るとよくわかります。ざっくり比較すると次のようになります。 Year シンガポール(ドル) マレーシア(リンギット) 1983 1 1.1 1989 1 1.4 2019 1 3.0   (1983年~2019年:クリックして拡大表示できます)     (西 敏)

新加坡回想録(6)シンガポールの教育制度

シンガポールの教育制度は、日本のそれと似ているところもありますが、実は全く違う大きな特徴がります。通常6歳になると6年制の小学校に入学し、その後4年制の中学校に進みます。しかし、小学校の段階ですでに選別とエリート教育がスタートするのです。すなわち4年の終わりに、全員が能力クラス分けの試験を受け、中学に進めるコースと、卒業後は職業訓練学校に進むかもしくは就職するコースに分けられ、この時点で後者のグループは進学の道が閉ざされてしまいます。 小学校の終わりに、前者コースの生徒は、「小学校卒業試験」を受け、80%が合格して中学に進学しますが、残りの20%は職業訓練学校に行くか就職せざるを得ません。中学を終了すると「GCE”O”レベル)」(普通水準教育終了証)と呼ばれる卒業試験を受けますが、これに合格した生徒のうち優秀な生徒(上位10%)は「ジュニア・カレッジ」と呼ばれる二年制の高校に進みエリート教育を受けます。その次のランクの生徒が、「プリユニバーシティ」と呼ばれる3年制の高校に、残りが「ポリテクニック」(3~4年)と呼ばれる高等技術学校に入学することになります。 最後に高校を卒業すると「GCE”A”レベル」(上級水準教育終了証)と呼ばれる卒業試験があり、優秀なものがシンガポール国立大学か南洋工科大学に進学し、次のレベルはポリテクに進みなおします。大学は3年制ですが、優秀な10%の学生は、この後「オーナーズコース」と呼ばれる1年制コースに進みます。 他方、国家奨学金受給生は、まずジュニア・カレッジの1年目末の成績をもとに優秀な生徒がリストアップされ、2年目の成績を見て最終的に決められます。そして、将来エリート官僚となる100名強の高校生は、高校卒業後、国内ではなく欧米の有名大学に送り込まれます。 これがシンガポールの教育制度ですが、同じ年代でも、エリート学生は、小学校6年、中学4年、高校2年、大学4年の道を進み、能力なしと判断された生徒は小学校6年間で終えて、労働市場に放り出されてしまいます。この教育制度の特徴は、試験の成績によって義務教育段階からはっきりとコース分けすること、選別試験に漏れた生徒には復活の道がないことです。浪人とか、もう一度試験を受けるとかの再挑戦の道はありません。 そして、徹底的に振り分けられた優秀な者が、政府(人民行動党)に吸収され国の統治に関わっていきます。そのこと自体は悪いことではないと思いますが、優秀な若者が民間で活躍するチャンスが少なくなることはいかがなものでしょうか。ペーパーテストの成績が悪かった生徒が成長して会社を興し大成功をおさめるケースはたくさんあるので、さしたる心配は不要なのでしょうか。 ここまで読んだ読者の中には、きっと、「厳しすぎる」とか、「人間には大器晩成型やペーパーテストでは計れない豊かな才能の持った人々もいるのに、このような教育システムはそれを伸ばせないだけでなく、その芽を摘み取ることになるのでは」と思う人が多くおられると思います。 このような教育制度やエリート的能力観に対し批判的なシンガポール国民も大勢います。しかし、実態は政府の力が強過ぎてどうしようもないのが実情です。独立以来、人民行動党の一党独裁体制が続いていることで、資本主義国家で最も社会主義国家に近いと言われるゆえんです。 (西 敏)

新加坡回想録(5)三つの幸運

1965年、シンガポールはマレーシアから分離独立しました。それまでリー・クアンユー首相率いるシンガポール州政府は、マレーシアと一体となって国として繁栄して行こうと努めてきました。ところが、マレー系と華人系の民族についての根本的な政策の違いにより、はじき出されるという望まない形で独立することになってしまいました。それは言わば、「望まない独立」であったことを知らない人は少なくありません。 シンガポールは独立後、60年代後半、70年代、80年代と驚異的な経済発展を遂げました。そこには、リー・クアンユーというカリスマ的政治家が率いる政府(人民行動党)による的確な政策があったことは間違いない事実でしょう。しかし、それに加えて「三つの幸運」があったことも大きいと私は思います。 まず、第一の幸運として、東南アジアにおける地理的優位性を挙げなければいけないでしょう。この小さな島国はイギリスの植民地時代からこの地理的優位性を生かして東西貿易の中継地点として重要な役割を果たしてきました。活発な貿易を可能にする港湾、道路、通信などのインフラは植民地時代にある程度できていました。これに加え政府は、ジュロン地区の沼地を埋め立ててさらなる一大工業団地を整備しました。そしてこのことが、後の外国資本誘致政策に大いに役立つことになったのです。 次に、二つ目の幸運は政治面でのこと。シンガポールは多民族国家ですが、75%以上を華人が占める華人の国であると言えます。その華人国家が、北と南をマレー系(イスラム教)の国に挟まれ、民族、文化、宗教の面でも相いれない難しい関係にありました。 マレーシアのマレー人優先政策(ブミプトラ)とシンガポールが主張するすべての民族が平等であるとの政策とが相いれず結局は分離独立せざるを得なかった訳ですが、このことから、武力衝突こそなかったものの極めてとげとげしい関係が続き独立後も一触即発の状態でした。 一方、インドネシアは、63年に始めたシンガポールとの貿易禁止措置を独立後も継続していました。対インドネシア貿易は総貿易の三分の一程を占めており、地場産業のない貿易立国にとってこれは死活問題でした。ところが、独立後2か月も経たない65年10月にシンガポールと敵対関係にあったスカル大統領が失脚しました。新たに権力を握ったスハルト大統領は対外的には対立よりも強調、国内的には政治よりも開発重視の政策路線を打ち出したのです。 この事態は、隣国との友好関係なしには成り立っていかない小国の行く末に大いにプラスになりました。外国資本を呼び込むためには自国の政治的安定が第一の条件です。海外進出を図ろうとする諸外国は、治安に不安の残る国には二の足を踏むからです。このように、自助努力ではどうにもならに周辺地域の変化が二つ目の幸運をもたらしました。 最後に、当時、先進諸国の経済成長で世界貿易が飛躍的に拡大していましたが、これに伴って生産工程の分業化で、多国籍企業は安価な労働力を求めて途上国への大量投資・進出を始めていました。このことは、工業化推進のために外国企業を積極的に受け入れようとしていたシンガポールの政策とどんピシャリと一致したのです。そして進出した外国資本は開発に必要な資金、技術、輸出市場を”セット”でもってきました。外国資本は政府や地場産業では創出できない雇用機会まで提供してくれました。これが三つ目の幸運でした。 (西 敏)