シンゴ旅日記インド編(その42)寅さん 帝釈天案内の巻(3)

はい、そこのお店で売っておりますのが柴又名物の『はじき猿』という玩具であります。帝釈天の使いの猿が『難を去る、難をはじく』に掛けた江戸時代からある玩具でございます。良かったら一つお子さんか、お孫さんに買っていってやってくださいな。 ねえ、おばちゃん、名古屋にもあるんですかい、お猿のオモチャってのが? えっ、名古屋には有名な日本モンキー・センターってのが犬山にあるってですか?犬の山なのに猿がいるんでございますか?犬猿の仲ってのは兄弟のように仲が良い事を言うんでしょうかね。そのセンターの隣に京都大学の霊長類研究所があるんですってですか? 面白い土地でございますね、名古屋は。 さあ団子屋に着きましたよ。おいちゃ~ん、おばちゃ~ん、みなさんにお団子お願いね~。 みなさんはごゆっくり休んで団子を食べてって下さいな。 それで、この後どちらへ行かれるんですか?えっ、スカイ・ツリーを見てから名古屋に帰るってですか?それでもって今日は終わりで尾張へ帰るってわけですかい? そいじゃ、おわりってのはさみしくなるからよ。始まりについて一つ口上を申し上げてお開きにいたしやしょう。さぁ~て、モノの始まりが一なら、国の始まりは大和の国。島の始まりは淡路島。泥棒の始まりが石川五衛門。人殺しの始まりが熊坂長範。助べえの始まりは小平の義男、覗きの始まりは出っ歯で知られた池田の亀さん、出歯亀と来たよ。さあさ、兄さん、よってらっしゃい、見てらっしゃい。ってね。大変失礼いたしやした。でも、まだまだ、わたしゃ元気だね。 でも、『柴又帝釈天の案内はつらいよ』ですね。でも、みなさん、また、来て頂戴ね~。 寅さんの余談です。  帝釈天様はいつも梵天様とつるんでおられましてね、これも御前様の受け売りですがね、奈良のお寺にある二人は優し~い顔をしているのに、何故かそれ以降に作られた像は怖~い顔にされているようでございます。また、帝釈天、梵天のお二人はわが国の密教におきましては仏法を守る12天のメンバーなのでございます。十二天とは東西南北の四方、その対角線を合わせた八方に上下、昼夜の四つを足した12の神様のことでございます。 帝釈天様が東方を梵天様は上方を守っていらっしゃるのですよ。  庚申の日について、ちょいっとしゃべらせてもらいます。 十干というのは木火土金水(もくかどきんすい)の『き、ひ、つち、かね、みず』、それに『あに』『おとうと』の『え』と『と』をつけまして、『きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、みずのえ、みずのと、かのえ、かのと、つちのえ、つちのと』とで10干になるのであります。 これを漢字で『甲丙乙丁戊己壬癸庚辛戊己』と書くんであります。 十二支はご存知『子牛寅卯辰巳午未申酉戌亥』でございますよね。 その十干と十二支を『甲子、乙丑、丙寅、、、』と組み合わせていきますと60通りできます。 それで60日、あるいは60年に一回同じ干支(えと)が回ってくるのでございます。 本来の『えと』は兄弟のことで十干を言うのでありますが、今では干支と書くんであります。 みなさんは『男をつらいよ』をご覧になったことがあると思いますがね。 私がその映画の第一作で20年ぶりにこの柴又に帰って来て、題経寺の境内で宵庚申の纏奉納で纏を振りかざしている場面がございます。そして廊下に出てこられた御前様に長いご無沙汰をお詫びしているその時にウチワ太鼓を叩いてお参りしていた団体さんの中からおばちゃんが私を見つけて近寄って来る場面がございます。そのハッピの背中の真ん中に南無妙法蓮華経と書いてあったりするのがわかります。 また縁日でしたので庚申とか帝釈天と書いた赤い提灯がお店にぶら下がっているのが出て来たりもします。今度もう一度映画を観られる時にはそれを思い出していただければ本日お話しましたことがよ~く分っていただけると思います。 『男はつらいよ』で飄々とした御前様役の笠智衆さん(1904年~1993年)は熊本県の浄土真宗本願寺の生れでございます。道理で御前様の役が上手いはずですよね。地でやっておられたのではないでしょうかね。 なぜ私がその御前様の言うことをよく聞くのかってですか? それには深~い訳ありなのでございます。実は御前様は私の名付け親なのでございます。 私の死んだ親父というのは大変な道楽ものでございましてね。私はその親父と当時柴又で芸者をしておりました女との間に出来た子供なんでございますよ。その実のおふくろがですね、生まれたばかりの私を親父の家の前に置いてけぼりにして京都に身売りされて行ってしまったのであります。それでその次の日に、育ての母が、これがまたよく出来たお袋でしてね、御前様に乳飲み子の私を抱かえて相談に行きまして寅次郎と名前をつけて頂きましたんです。それは昭和11年の2月26日のことでございます。世の中は軍人さんが鉄砲を皇居に向けた日だったそうでございます。えっ、なぜ私の名前が寅次郎かってですか、さすがでございますね。私には竜一郎という名の優秀な兄がいたんでございますがね、若いときに釣りに出かけて時化に合い亡くなってしまいました。まあ、私の昔話はこれくらいにしましょう。 寅さん 帝釈天案内の巻 終わり 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(その41)寅さん 帝釈天案内の巻(2)

はい、やって来ましたのが題経寺の入り口の二天門でございます。 『二天門』の二天とは四天王のうちの増長天、広目天です。 この門は明治時代に作られて新しいんでございますが、その中に安置されております木像は平安時代の作と言われているんであります。なんでもお寺が出来たときに大阪の方から頂いたものらしいんですよ。 四天王って言いますとね、これまた御前様の受け売りなんですがね、人が死んでから閻魔様の裁きを受けて行くあの世に須弥山ってい言う高い山がありまして、そこに帝釈天が居て、四天王はその部下で東西南北を守る神さまだそうであります。 増長天が南方、広目天が西方、持国天が東方そして多聞天が北方を守っておられるそうです さて、四天王と言えば数字の四。四角四面は豆腐屋のむすめ、色は白いが水臭い、四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋なねえちゃん立ちションベンてなもんですね。 ちょっと汚かったかな。ねえ。おばさん。そんなに笑わないでおくんなさいな。 この二天門を潜りって境内に入りますと正面に見えますのが『帝釈堂』でございます。 手前を拝殿、奥を内殿と申します。内殿には先ほどご説明いたしやした板本尊の帝釈天をまん中にして四天王の残りの持国天と多聞天が両脇に祀られているのでありあます。 北方を守る多聞天はまた毘沙門天とも呼ばれるのであります。その毘沙門天は七福神の神様でもあります。そして、この柴又には柴又七福神と言うものがありまして、題経寺はその柴又七福神の毘沙門天を受け持っておるんであります。 また毘沙門天と言えば古くは源義経、楠正成、上杉謙信たちも篤く敬っていたことがよ~く知られているのでございますよ。 なお、この帝釈堂の内殿の外側には彫刻が施されておりまして、彫刻キャサリン、いやギャザリン、いや違う、お兄さん、お役者さんが貰うお給金を英語で何て言ったかい?ギャラ?そうそう、彫刻ギャラリーと呼ばれているのであります。最近は直ぐに言葉が出てこない私であります。 はい、そして正面の手前右にありますのが『釈迦堂』でございます。ここには釈迦如来そしてこのお寺を開いた日栄、そして中興の祖の日敬の木像が安置されております。 そして右手奥が『祖師堂』でございます。ここに本尊の大曼荼羅が祀られているのであります。 この題経寺にはこれらのお堂の他に関東一と言われる総ヒノキの大鐘楼、大客殿があります。また、裏庭には昭和に設計された庭園がございます。今日はそれらをごゆっくりご覧頂くことになっております。 (境内の見学を終えて) さて、これをもちまして題経寺の見学が終わりましたんで外に出ることといたしましょうや。 柴又帝釈天が沢山の人で賑わう縁日は庚申(こうしん)の日でございます。 この日には板本尊がご開帳となるのでございます。 なぜ縁日が庚申の日かってぇと言いますと、帝釈天の板本尊が見つかったのが庚申の日だったとされているからなんです。 えっ、庚申の日ってのは何かってですか、庚申の日と申しますのは十干と十二支の組み合わせで出来る『かのえ・さる』の日でございます。60日に一回やってくるのでございます。 昔から庚申信仰と言うものがあるのでございます。人間の体の頭と腹と足には三尸(さんし)と言う虫がおりまして、『かのえ・さる』の日の夜になりますとその虫が人間の体内から抜け出し帝釈天にその人の罪科を報告に行くといわれているのであります。その虫の報告によりその人の寿命が決まるため、身に覚えのある人はその虫が帝釈天に報告に行かないよう寝ないで夜明けを待つ必要があったのであります。しかし、寝ないで待つのは大変でござんしょ、そんでもって要は仲間で飲み会をして夜を明かしたのでございますね。この寄り合いを『庚申講』、『庚申待ち』と申しまして、平安の昔から一種の宴会となっていたのでございます。この庚申信仰は十二支のサルが関係しますのでサルが神の使いとする帝釈天、日吉(ひえ)神社、あの~、この日吉神社と申しますと比叡山は天台宗の延暦寺の守護神社であります。ええ。 それに日本神話でおなじみのアマテラスさんの孫のニニギノミコトさんが天上から地上に降りる時に道案内をしたと言うサルタヒコノミコトと結び付けられ道の神、道祖神にもなったのであります。それでもって。庚申塔や庚申塚で見ることの出来る『見ざる、言わざる、聞かざる』の三猿は巳をつつしみ、悪いことを見ない、言わない、聞かないという意味が込められているのであります。 えっ、寅さんはいろんなことをご存知ですねってですか。おねぇちゃん、良いこときくねぇ。 そりゃそうですよ。私の職業は書籍の出版というかセールスであります。扱う書籍の内容を知っておかないと商売になりません。何を扱っているのかってですか?そりゃ、その、あのですね、そうそう法律とか統計とか歴史、それに加えて英語、催眠術、灸点法、夢判断、メンタル・テスト、諸病看護法、しみぬき法、心中物、事件物などありとあらゆるものを扱っているんであります。こうなりゃ、もう半分やけですよ。やけのやんぱち、日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯で歯がたたないよってね。 寅さん 帝釈天案内の巻(3)に続く 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(その40)寅さん 帝釈天案内の巻(1)

みなさん、柴又へよくいらっしゃって下さいました。 私(わたくし)が映画でおなじみの寅次郎でございます。 そして、この横につっ立っておりますのが私の銅像であります。 ここの商店街のみなさんに建てて戴きやした。 私が柴又帝釈天を全国的に有名にしてくれたってことのようです。 銅像を作る話が出た時にはね、私は、こっぱずかしいから止めておくんなさいって頼んだんですがね、おいちゃんやおばちゃん、そしてさくら夫婦までもが私に少しでも柴又に恩返しをしなさいよって言うもんですから、そいじゃ、よろしくってなことになりまして、こんなんが出来ちゃったというわけであります。これね、私がおいちゃんたちと喧嘩して柴又を出て行く時にさくらが私を見送ってくれるところを元にしたんでございますよ。それにしてもよく出来てますでしょ。 さて、まずはお初にお目に掛かります御一統様へのいつもの仁義を切らせていただきます。 お控えなさっておくんなさい。私、生まれも育ちも東京は葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。さて、本日は御前様から御一統様を題経寺にご案内せよとのお申しつけにより、青二才ではございますが、私の存じおります限りお話させて戴きやすので一つよろしくお願い申し上げます。 とまあ、こんな堅苦しい口上なんですがね、これはこれまでで止しましょうや。 ねっ。みなさんはオイラのことを『寅さん』とか『寅ちゃん』とか呼んでおくんなさいな。 実はね、三日前に御前様から『寅、今度の土曜日はヒマか?』って聞かれましてね、『何でやすか?』ってお聞きしましたらね、『名古屋にいる古い友人から頼まれてな、ちょっと6人ほどの団体にこの寺の案内をしてもらえんか。』って言われやしたんですよ。ええ、あの愛想の無いお顔でね。まあ、あっしもヒマと言やぁーヒマ、忙しいと言やぁー忙しい身でござんしてね、でも御前様のお願いだから断るわけにはいきやせんや。と言う訳で今日、みなさん方をご案内することになったんでございます。 本当はね、源公の野郎が皆様をご案内する予定だったんですよ、でもね、冬子お嬢様の嫁ぎ先での用事に出かける必要があるとかで野郎が居なくなったもんですからね、そのお鉢が私に回ってきたんですよ。 さて、みなさんが降りられました柴又駅からお寺に続く200mばかりのこの道を帝釈天参道と申します。私がご幼少の頃に育った古い家、そして今では、おいちゃん、おばちゃんが団子を作っております店が直ぐそこにございます。あっ、居た居た、おばちゃん、ご苦労さん。おいちゃんは、元気で、まだ生きてるのかい?エッ、さっきオイラと一緒に朝飯を食べていたんじゃないかって。おばちゃん、そんな野暮なことは言いっこ無しだい。オイラ、そんな昔のことは覚えてないんだよ。今日は名古屋からのお客さんを題経寺にご案内するんだ。あとでみなさんとダンゴ食べに寄るから気張って仕事しておくれよ。 私のおいちゃんはね、おいらのことをいつも『馬鹿だねぇ、全く馬鹿だねぇ』って言うんですよ。でもこれね、本当に馬鹿だって言うことじゃないんですよ。私は分かっているんですよ。ええ。 でも、これをね、関西弁で『アホやねぇ、ホンマにアホやねぇ』って言われると本物の馬鹿みたいでござんしょ。それに、みなさんの名古屋では馬鹿とかアホとは言わないんでしょ。『タワケだがね、どえりゃ、タワケだわ』って言うんでございましたっけ?オイラは名古屋に生まれなくて本当に良かったと思いますよ、はい。私が言う台詞の『それを言っちゃあ、おしまいだよ』ってのは大阪弁では『あんさん、そんなん言うたら、ワヤでんがな』ってでも言うんでしょうかね。名古屋弁や英語だったら何て言うんでございしょうね。きっと面白い言葉になるんでございましょうね。 でも、名古屋といえば尾張でございますね。『伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ』ってですかい。言葉はチト使い勝手が違いますが、いい土地柄でございますよね。よっ、えびす屋、しっかり稼げよ、相変わらず馬鹿かっ。へへ。 さて、みなさん、この参道の突き当たりが御前様のいらっしゃる柴又帝釈天でございます。 帝釈天と言いましてもご本尊は帝釈天ではござんせんよ。 このお寺の正式の名前は経栄山題経寺と言うんであります。 寛永6年と言えば1629年という古~い昔に建った日蓮宗のお寺なのでございます。 日蓮宗といえばこの世が終わるという末法思想が流行った鎌倉時代に他の宗教を『真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊』と激しく攻撃し、法華経だけが末法の世から人々を救える教えであり、他の宗教は人々をかえって苦しめるだけであるとする、きつーい教えでございました。 みなさんは、さしずめインテリの方々でござんすよね。日本の大学に立正大学ってえのがありますでしょ。その大学は日蓮さんの表した『立正安国論』から取った日蓮宗の昔から続く教育機関なんでございますよ。ええ。 また、日蓮宗の場合、お寺のご本尊は仏像でなく『南無妙法蓮華教』の七文字でございます。そして、その周りに多くの仏様の名前が書いてある大曼荼羅なのでございます。 この題経寺もご本尊はその七文字を書いた大曼荼羅なのでございますよ。 その日蓮宗の題経寺が、なぜ帝釈天で有名になったかと言うとですね。 これまた古~い言い伝えがあるのでございます。 ちょっとおじさん、さっきからオネエチャンばっかり見てるけど、私の話も聞いてくださいよ。 折角覚えて来たんだから最後まで聞いて下さいね。 さあ、始めますよ、帝釈天で有名になった訳を。 はいっ、この題経寺には日蓮さんが自分で刻んだと言う板本尊があるのでございます。 縦は二尺五寸、横一尺5寸、厚さは五分と言われます。アレッ、みなさん尺で言ったら分らないって顔をされてますね。今ふうで言うなら縦75cm、横45cmそして厚みが8mmくらいと言うのでしょうかね。その板には片面に南無妙法連華経と書かれ、もう片面には剣を持った帝釈天が描かれているんでございます。私にはただの真っ黒い板にしか見えませんがね。こんなことを言うと御前様にまた叱られちゃいますよね。 その板本尊が行方不明になっていたのでございます。1779年に日敬という住職が本堂を修理しておりましたところその板きれ、いや板本尊が棟木の上から見つかったのであります。そして4年後の1783年の天明の大飢饉の時に、その日敬が背中にその板本尊を担いで江戸を回ったところ、苦しむ人々にご利益があったとのことでございます。それで、この寺が帝釈天の寺として江戸中で有名になったんでございます。たいしたもんじゃございませんか? 田にしたもんだよカエルのションベン、見上げたもんだよ屋根屋のふんどしってね。 寅さん 帝釈天案内の巻(2)へ続く 丹羽慎吾