異変(その2・運命なるもの)

院長は母と同じ年くらいの、がっしりした体格で頼もしい感じの人だった。母と私に、ゆっくりした口調でこう言った。 「カメラで言えばフィルムにあたる眼底の網膜が剥がれています。視力の回復は望めませんが、放っておくと眼球が小さくなって外見が悪くなります。女のお子さんですし、手術しましょう。」 入院したのは、普通の家の2階みたいなところだった。 西日が差す暑い部屋で、畳敷きにベッドが置いてあった。 翌日手術を受けたが、そのときのことは記憶からきれいに抜け落ちている。全身麻酔だったのだろうか。 両眼に包帯がきつく巻かれ、その晩はできるだけ姿勢を変えず、仰向けのまま寝るように言われた。 母は私が動いたら仰向けに直そうと、一睡もせずに見守ってくれたそうだ。私は天井を向いたまま、全く寝返りを打たなかったという。 翌日の回診のとき包帯が取られた。右目はもう、光を取り戻していた。「何か見えますか?」と聞かれて、「ぼんやりだけど、明るく見えます。」と答えた。院長の「え、見える?」と確認する声は大きく、ちょっと弾んでいるように聞こえた。 * それからの毎日は、ベッドに寝たきりで、診察の時を除けば包帯が解かれることはなかった。 そのうち、できあがった新しい病室に移ることになった。院長は私を負ぶって階段を下り、病室までの結構長い距離を運んでくれた。大きな病院の院長が人任せにせず、自分で負ぶってくれている。広い背中で揺られながら私は、温かいものを感じていた。 手術から2週間経ったころ、包帯は右眼だけになり、さらに1週間くらいでガーゼになった。横向きでいいとか、上半身を起こしていいとか、徐々に許可が出たが、都合3週間ベッドから下りられなかった。 ようやく歩いてトイレに行ってよいと許しがあったときには、足が萎えてひとりで歩くことができなかった。 それから20日くらい後だったろうか、退院前の検査を終えた院長は「手術はとてもうまくいきました。あなたもよく精進したし。」と言った。『精進』という古風な言い回しがなんだか面映ゆかった。 * あのころの入院には、家族が付き添うか、付添婦さんを雇うことになっていた。もう何年もM病院専属で付添婦をしているお喋りな小母さんや、同室の患者さんの話から、それまで聞いたこともない、いろんな眼の病気があることを知った。 私の病気、網膜剥離は、片方の眼が罹ると、もう片方にも起きる確率が高い。再発の危険性もある。時期を逃すと、あるいは手術がうまくいかないと、失明につながる。 16歳になったばかりの私は、以後ずっと、その不安に怯えることになった。 高校への通学途上でバスを乗り換えるとき、背広姿に白い杖の、ほっそりした若い男性をしばしば見かけた。私もそうなったらどうしようという不安に襲われた。 車のヘッドライトが虹の輪のように見え、私の斜め向かいのベッドに入院していた女性と同じ病気ではないかと、慌てて診察を受けに行ったこともある。 自覚症状が出る前に検査で発病がわかり入院、手術を受けたこと、ごく初期にレーザー治療で治ったこともある。 この病気を抱えたことは、その後の人生を選び取っていく上での、大きな鍵となった。 私の検査通院は今も続いている。 * ところで、それほど自分の病気に悩んでいたはずの私が、「視力の回復は望めません」という言葉をあたりまえに理解したのは何と、10年も経ってからのことだった。 当時見えなくなっていた右眼の視力の回復が望めないということは、つまりは失明するということである。 なのに私は、手術をしても強い近視が治らないという意味だと勝手に思い込んだ。 あのときの院長の言葉は今でも諳んじることができる。そう言われたときの診察室の様子や院長の声までも。 だからその思い込みは、無意識に自分を守るためのものだったという気がする。 でなければ、高校1年生から25歳までの、誰もが人生の岐路に何度も立たされる10年間を、しかも計3度の手術入院を繰り返しながら、うまく乗り切ることはできなかっただろう。 私は他の人によく「何の悩みもないみたい、元気一杯に見える。」と言われる。「そんなことないよ、たくさんあるよ。」と答えてはいるけれど、もしかしたら私は、生来の楽天家かもしれない。 優 海

異変(その1・白い巨塔)

それは、じき16歳の誕生日を迎える、高校1年生の6月のことだった。 浴室の戸を開けた私は、いきなり透明なドアにぶつかって押し戻されたような感じを受けて、その場に立ちすくんだ。反射的に左眼をつぶると、丸い天井灯が上弦の月のように欠けて見えた。胸の鼓動が高く、速く、聞こえるような気がした。 翌日、近所の眼科で診察を受けた。院長は首を傾げながら、九州では一番権威のある市内のQ大病院への紹介状を書いてくれた。 病院では、若い医師の予診のあとでベテラン医師が診てくれた。そして、「心配するような病気はありません。」と。 その「病気」とは、どうも、脳腫瘍らしかった。 しかし、何日経っても、私の右眼は普通に見えるようにはならなかった。夜、期末試験の勉強しているとき、ふと気づくと、教科書の読もうとしているまさにその行が、右眼では全然見えていないのだ。 泣きたい気持ちで「おかあさん、見えない。」と言いに行くと、父から「心配ないと言われただろう。きみがそんなことを言うとおかあさんが眠られなくなる。辛抱することを覚えなさい。」と叱られた。 父は戦前不治の病と言われた結核を、雪の降りしきる金沢で全部の窓を開け放しにして寝て治した「意志」の人である。こらえ性のない私が腹立たしかったのだ。 しかし、私の眼は治るどころか、夜になると暗闇に稲妻が走るようになった。黙っているのも口に出すのも両方怖くて、毎日高校に通うことで自分を支えていた。 夏休みの初日から体育の授業として始まるはずの水泳教室が、プールの水が汚れていて中止になった。ほんとうの夏休みが始まった。 ついに私は母に、右眼が見えないこと、夜に稲妻が走ることを打ち明けた。 驚いた母に連れられて、Q大病院を再受診した。 前回と同じふたりの医師が診てくれた。ほかに患者がいなくなるくらいまで時間をかけた診察の後、年長のT医師が「困ったな」と呟くのが聞こえた。そして「手術をしないといけないが、夏休みでベットが満杯になったばかり。2〜3週間かかるだろうが、空いたらすぐに連絡する。それまで家で静かに寝ておきなさい。」と言った。それでよいのかと念を押す母に「昔は寝て治した病気だから大丈夫だ。」とも。 帰り道、母は私を連れて、病院から1キロほど離れた伯母の家に向かった。 今思い返して不思議なのは「家で静かに寝ているように」と指示されたのに、母はなぜそんな寄り道をしたのだろう。 もしかしたら、まっすぐ帰宅して父の帰りを待つ時間が耐えられないと思ったのかもしれない。 ともかくも、そのことが、私の運命を大きく変えることになった。 * 話を聞いた伯母は、そこからまた500mほど先のH医師に診てもらえば、と勧めた。 もとQ大病院の偉い先生だった人で、とても上手だと評判だから、と。 市内の幹線道路に面した商店の2階にあるクリニックは、伯母の言葉通りの評判らしく、狭い廊下や待合室に患者が溢れていた。診察机のすぐ横にまで椅子が並べられていて、プライバシーもなにもありはしなかった。 普通の視力検査表は見えないので、検査技師が手に持った大きなC の字型の厚紙を動かして、どこが開いているかと聞いた。 右眼だけでは、10cmの距離まで近づけられても見えない。見えないが、人が大勢いるところでそう言うのは恥ずかしくて、でたらめを答えた。 H医師は、「すぐ手術しなければ。Q大病院では誰が診たか。」と聞いた。T先生、と答えたところ、一瞬黙りこんだ。「今手術しても治るかどうかわからないのに、2~3週間も待ったら、絶対に治らない。最初に誤診したから、今さらすぐに入院しろと言えないのだ。T先生は入退院の権限を持つ医局長だから、正面切って入院させてはもらえない。お父さんがNに勤めているのなら、コネで入院させてもらいなさい。」 それまで涙ひとつこぼさないでいた私の緊張の糸が、音を立てて切れた。人目もはばからず泣きじゃくった。父がコネを作るようなことを決してしない人間だということをよく知っていたから。 H医師はしばらく考えた後、「では、私の弟子の中で一番腕がいいのが開業しているから。」と言いながら電話をかけ、「いや、そんなことはいいよ」と頼んでくれた。 M病院は全面立て替え中で、1週間後の竣工まで待ってほしいというのに、即入院の了解を取り付けてくれたのだ。 母と私はその足でM病院に向かった。あたりはもう、薄暗くなっていたが、院長が診てくれ、翌日の入院が決まった。 Q大病院から入院指示の通知が来たのは、私が手術を受けて10日以上過ぎた頃だった。  (つづく) 優 海