韓国から来た香炉=私の思い出骨董品(4)

我が家の思い出陳列棚の片隅にこっそり鳴りを潜める香炉です。背丈15.5㎝で足が三本。本来仏壇の一角で鎮座するものです。 この香炉、実は韓国から来たものです。時あたかもわれらが住処ハイムの第2期工事の最中、人気絶頂で購入申し込みが殺到、数十倍の抽選会の当日でした。どうせ当たらないという事で何の打ち合わせもせず私は韓国に出張しました。難しい会議の最中、日本から緊急の電話ですと伝えられ、何事かと電話に出たのですが、秘書から抽選に当選したのでどうするかという家内からの相談でした。会議のメンバーを横に私は電話に向かって大きな声で「つまらんことで電話するな!そんなことは勝手にやれ!」がちゃん。会議のメンバーは何のことか知らないはずです。私は本来の会議で非常にいらいらしていることを皆さんに伝える絶好のチャンスとして利用させて頂いた次第です。その後、「このプロジェクトはもう一度原点に戻って最初の打ち合わせ通りに戻してほしい、さもなくば当社は撤退させてもらうかもしれません!」と捨てセリフを残して席を立ちました。 空港まで車で送って頂いた上、土産物屋にご一緒すると言って入った店であれでもないこれでもないと言いながら最後に選んだのがこの香炉です。私としては今日一日イライラし続けた心を癒すのも良かろうと考えての選択でした。 この思い出は文章にしない心算でしたが、いつもの散歩道のお寺で類似のものを見つけました。全く偶然の出会いです。こちらは高さ2m以上、地震対策でしっかりガードされているので直ぐには気が付きませんでした。住職さんに伺おうと訪ねたのですが不在、留守番の息子さんに聞いたところ住職も良く知らないらしい。ただ昔ある檀家さんにご寄贈頂いたものらしいが残念ながら詳細は全く不明だとのことでした。それにしても良く似ています。(このお寺は登戸小学校の裏の長念寺です。山門を入ってすぐ左、鐘楼との間にあります。) お香というものはお参りする人の心をお香の煙に乗せて天国まで届けるのだという事らしい。

フランスあれこれ67~聖ゲオルギオスの像=思い出骨董品(3)

 およそ30年前のお正月、イタリヤのフィレンツェに旅行しました。ウフツイ美術館を見学した後、賑やかな街角で見つけた彫刻に一目ぼれ!これぞ獅子王アレクサンダー大王だと思ったことでした。以来我が家の思い出陳列棚に鎮座していますが、後日これがタイトルの聖ゲオルギオス(古代のギリシャ語)と判明した次第です。そして聖人の名前を色々と耳にする中でも「サン・ジョルジュ」(St-Georges)(フランス語)がこの彫刻の戦士に一致することも知りました。   それからある日ロンドンに出張、時間の余裕を見て“ヴィクトリア・アルバート美術館”(ロンドン中心街の一角)に立ち寄りました。ぼつぼつ時間だと思った時でした、ある一室にステンドグラス6点が並んでいました。急いで中に入りましたが6点のうち最後の作品でSt-Georgeという文字が目に入りました。急いでこの写真を撮って帰路を急いだ次第です。「イングランドの英雄聖ジョージ(St-George)がドラゴンから王女を守る」と説明文が付いています。(これはDante Gabriel Rosetti (1828-1882)制作によるものです)後日譚ですが私はこのステンドグラスを帰国後コピー制作しました。(写真は下に掲示) パリの事務所でこの話をしたところ色々の情報を耳にしました。ドラゴンなんて実在しない。これは天変地変を表している。元来この話ローマ時代の終わり頃に出てきた神話でドラゴンは地震のことだ!溶岩の流れだ!多分ベスビオス火山だと。 登戸稲荷神社の本堂脇に木彫りの彫刻があります。日本の古典寓話「ヤマタノオロチを退治するスサノオの尊」ではないかと思いました。写真を添付します。その後宮司さんにお目に掛かり確認することが出来ました。宮司さん曰く、多摩川は昔は暴れ川だった、それを鎮める願いで神社が出来たと。 更にネットで検索しますと宗派を問わずキリスト教の教えとして今も語り継がれています。スタートはローマの落日の頃ディオクレチアヌス帝により殉教した龍退治の聖人として、そして英国ではSt. Gorgeの日として祝日、イタリヤではSan Georgioの日として本を贈る、更には同じような話がギリシャやエジプトでも伝えられていると言います。 ここで私のステンドグラスの写真をご覧いただきます。一つは最初に私が勘違いしたアレクサンダー大王(レンブラントの絵画)、もう一つは上のD.G. Rosettiの作品をコピーしたものです。

フランスあれこれ66~フランス救急病院(II)

以前私自身が救急病院に飛び込んだ話を書きました。(https://bungeikan.heimnohiroba.com/writers/azuma/kyukyu-byouin/) それから20年経過して大阪勤務時代です。久しぶりにパリに行きました。得意先でもあり、私の尊敬する仕事の大先輩(一応Kさんと呼ばせていただきます)からの声がかりでベルリンでのコンベンションに出席、そのあとアメリカの得意先を廻る1週間程度の出張に誘われました。直前の週末をパリで過ごそうということになり元気に出発しました。 金曜日の夕刻パリに到着。ホテル”George V”(シャンゼリゼや凱旋門にも近い一流ホテル)にチェックイン、近くの日本料理店で軽く食事をした後、夜のパリをご紹介、いや久しぶりの探訪に期待を含ませていたのですが、Kさんがパリ到着後あたりから少し体調不良の様子、一応夕食をして様子を見ることにしたのですが、これが大変、頭痛が始まり、食欲不振、挙句の果てはお味噌汁をテーブルにひっくり返し、挙句の果ては財布をホテルに忘れてきた!。慌ててホテルに帰ったのですが財布が見つからない!?。再度レストランに行くとテーブルの近くに落ちていたと言う始末。 ホテルの医者に相談しようとするもすぐの対応も難しそう。運よく昔の電話帳を持参していたのでパリ開業の日本人のお医者さんに電話。ところがすでに別荘に出かけているので目的地到着まで連絡がつかないとの返事、待つこと1時間、やっと電話連絡があり、事情を説明、再度の電話を待つこと30分、先生からの指示は「今すぐ救急病院“L’Hopital des Hopitaux”(病院町の病院の意味)へ直行してください」とのこと。早速タクシーで向かいました。受付で彼のパスポートを提示、診察室に入って大体の事情を私が説明、検査の間30分くらい待ちました。そして彼は元気そうな顔で出てきました。 同行して出てきたお医者さんから封筒を頂き、すぐ日本に引き返すか、それとも当地で6か月の入院を覚悟するか私に決めろと言います。私は即答で帰国しますと。フランスを離れるまで一日一度の痛み止めの注射を教えられました。注射専門の巡回看護師さんを紹介してもらいました。病院での費用はゼロでした。 以上が到着した金曜日の夜の話です。日本への飛行機の予約が取れたのは翌週の水曜日、しかもファーストクラスです。私にとっては最初で最後の経験です。この間私は色々と大変でした。時差のある日本への連絡、体調管理と許される範囲でのパリ見物にお土産など。 開港して間もなくの成田空港を経由して大阪伊丹空港に到着、会社の皆さんやご家族に迎えられたのですが、Kさん曰く「何か出発のお見送りの風景じゃない?今からもう一度行きますか?!」とご機嫌上々でしたが、その夜自宅近くの病院に直行して入院した旨電話がありました。帰宅の車の中で薬が切れて強い頭痛が始まったとのこと。 (以下特にお読みいただく必要はないのですが本件の結末として記録に残すものです。 しばらく面会謝絶で10日くらい経ってからでしょうかお見舞いをしました。ベッドに寝た切りで半身不随、病名は脳腫瘍、こぶし大の癌の摘出だったとのこと。Kさん曰く、高校時代の友人が近くの市立病院にいるのでそこで約一週間の人間ドックに入った。私の話をよく聞かず、或いは聞いてもそれをドックの担当医に伝わらなかったのだろう。頭の検査だけはしなかったと残念がっていました。Kさんは素晴らしいスポーツマン、何度かゴルフをご一緒していますが、ハーフ40が目標、発病少し前は前半40でも後半50近くなると嘆いていたのは事実です。この後私は東京に転勤、2~3か月に一度大阪出張の折のお見舞いとなりましたが、その後退院も好転の兆しもないまま発病後丁度一年で帰らぬ人となりました。)  

フランスあれこれ65~異常気象はアメリカから?

 私のアルバムから右の写真を見つけました。日付は1964年11月21日となっています。東京オリンピックの年です。 話のスタートはこの種の路上絵画です。平素は何の気もなく上手いものだと感心しては小銭を空き缶にチャリンと放り込んだものでした。その頃は写真も撮っていませんでしたが、ある日突如天候が急変、ザーッと夕立のような雨が降りました。季節はそんなタイミングではなかったと思います。みるみる折角の路上絵画が消えてしまいました。私も慌ててすぐ近くのアーケードに飛び込んだものです。何気なく土産物屋のお店を覗いたときです。お店の叔母さんがドル紙幣の札束をテーブルに叩きつけながら「この天候異変はアメリカから来たのだ!アメリカの乱開発で自然が壊されている。我々はその被害者だ!」と。 私はこの発想にまず驚きました。第2次大戦でアメリカに助けられ、戦後の復興では大勢のアメリカからの観光客でこの店は繁盛している。現におばさんが多くのドル紙片を束にして持っているではないか!この話のあと何日か経って路上絵画を改めて撮影したのが上の写真です。 その後20年位後の話です。フランスの友人がベルサーユに高級マンションを購入。早速冷房装置を設置しました。ところがご近所の評判極めて悪く、挙句の果ては管理組合の決議で取り外しとなったと聞きました。その頃既に時には夏の暑い夜を過ごすようにはなっていましたが冷房はまだまだ一般的ではありません。暑い暑いと言いながらも森や木陰に入ると爽やかな一陣の風を感じたものです。しかしそれから更に10年、雪解けが早くなり再三セーヌ川が氾濫、刻々と温暖化が進んでいたのでしょう。空調設備も自由化され、非常に一般化したとのこと。しかし異常気象が頻発、酷暑に豪雨、そして氾濫などかつては想像もしなかった被害に見舞われています。今年は40度以上の気温になることも多く、山火事が発生するなど。誰かの言葉を拝借すると「我欲だよ」という事になるのでしょうか。 関連のニュースを思い出しました。フランスアルプスの氷河で数十年前の遭難者の遺体が発見されました。氷河は無論氷の川で年々少しずつ上流から下流に流れています。数十年前の遭難者が下流に流れ着いたという事です。その後10年に20m位ずつ氷河が短縮しているという内容の記事もありました。 この記事を草稿中の8月フランス南部で68000ヘクタールに及ぶ山火事が発生しています。場所はマルセイユの近くプロバンス地方で多くの観光客も避難を余儀なくされているようです。40度を超す酷暑が続いていたようです。他にギリシャやスペインでも大きな山火事が発生しました。 今もフランス人は「すべて天気は大西洋を渡って西からくる」と言っているようです。地球の自転、偏西風を考えると当然と言える気象事情ではあるのですが。

フランスあれこれ64~バゲットは主食か副食か?

 こんな議論を思い出します。日本では米(ごはん)は主食と言われていますが、これは果たして現在も通用するのかどうか少々疑問があります。フランスではパンは主食や否や?答えは「ウイ!メ・ノン!」(Yes, but No!) 先ずはフランスパンの想い出を少し。サラーリーマンの帰宅時間、メトロ(地下鉄)の中で長いバゲットを片手に満員電車に揺られています。時々パンの隅を折り取って口に入れます。お腹がすいたのでしょうか、焼き立てのパンの誘惑に駆られています。家に帰りつくまでになくなるのでは?とはた目に心配したものです。 またある日、丁度学校が午前中で終わって帰宅の途中、ご近所の子供(小学校5~6年生くらい)と出会いました。いつもの調子で「こんにちは、坊や」と声を掛けた時です。この坊や、片手に教材、反対の手にバゲットパンを持っていたのですが、何の懸念も持たずバゲットを地面に置いて握手をしました。当時はワインはイエスの血、パンは肉体、決して汚れることはないと言われていました。 一流のレストランでメニューを選んで注文、ワインを選んで・・・ワインに見合ったグラスが出てデギュスタシオン(ワインの味見)、そのあとこっそりバゲットがテーブルの脇に出されますがお皿に載っていません。皆さん勝手気ままにつまんだり知らない顔で放置したり、決して一品の扱いではありません。 昔このサイトで投稿させて頂いた「ピエ・ド・コッション」(子豚の足という意味でレストランの名前)で最初に注文したのがオニオングラタン(スープ)。中央市場の一角という事もあって材料は残りものばかり。例えば牛や豚の骨でダシを取ったスープに乾燥して硬くなったバゲットパン、これにワインとチーズを溶かし込んだものです。立派な一品で味も上出来。しかしこれが家庭での立派な一品なのです。悪口を叩く人はこれは貧乏人の立派な一食だ!いや立派な主食だ! その昔フランスでは昼に立派な食事をして夜は軽食、その際の最適食事だった!なんて・・・・ こうなると矢張りフランスパン(バゲット)は主食かも!? (註)「ピエ・ド・コッション」の記事はこちらからご覧いただけます。https://bungeikan.heimnohiroba.com/writers/azuma/cafe-has-gone-in-paris-3-2-3/ (註2)右上の写真ですが息子がちょうど2歳になった頃の写真です。通りがかりのフランス人も日本人の子供を見るのが珍しいという雰囲気でした。アルバムでこの写真を見つけて上の話を思いついた次第です。

フランスあれこれ63~ニースの想い出

1964年東京オリンピックの年です。パリに赴任して約半年、内地勤務時代の上司がニューヨーク出張の後ヨーロッパに見えるという連絡が入りました。入社以来世話になった上司でもあり、どうせ週末の時間つぶしの観光だろうと推測していました。ところが到着するなり得意先をどこか訪問するところがないかと言われ、一度日本に来たことがある得意先に伺うことにしました。雑談の後ちょっと私共の意見を聞きたいものがあると言って夕食に招かれ、そのあと会社の研究室へ。出されたのが目下開発中だというブランディーのテイスティングでした。色々な植物の発酵アルコールです。どれも私の口が受け付けるものはありませんでしたが、我が先輩が色々コメントして実に楽しそうでした。遂に酔っぱらってホテルに帰るのも大変でした。  翌日週末を兼ねてと考えてマルセイユへ、一軒だけお邪魔したあと、予定通りニースにしようという事に決定、ホテルに部屋の予約電話をしますが何処も満杯空き部屋はありません。思い切って最後に電話したのが「ホテル・ネグレスコ」ニース最高のホテルです。ここで一部屋だけ見つかりやれやれ、部屋代を考えてまたやれやれの思いでした。夕食を駅近くで済ませ、暗くなってからチェックイン、荷物を置いてすぐに出掛けたのが近くのカジノです。私も初めてのカジノ経験でした。恐る恐るパスポートを提示して中に入り、10ドルをコインに交換。さっと一巡した後ルーレットの部屋に入ったのですが殆ど満席。暫く立ち見となったのですが、どこからか老人に誘われ少し席を離れたところで立ち話。要は先ほどのテーブルに座っている中年の男が負け続けて、この老人が見ている間だけでフォルクスワーゲン一台分は損をしたと。改めて本人を見た所、横に置いたウイスキーをちびちびやり続けながら、しかしよく見るとちょっと顔が引きつったような・・今に一発と踏ん張っているような・・この老人が私に言いたかった事はこんな賭け事に深入りすると人生を台無しにするという事だったらしい。それとなく話の意味を汲み取って「今日は見学だけです。今後日本からの観光を兼ねた来客を考えてのことです」と言い訳をして納得いただいた次第です。 一応の見学を終えてホテルに、どこかで賑やかな歌声が耳に入りました。ロビーでこれから地元の女子学生のダンスが始まるとのこと。色々なフォークダンスが次々と軽快な音楽とともに流れる中、頂くお酒も実にうまい、気分爽快でした。大体は老人ばかりの宿泊客ですが調子に乗って立ち上がりダンスの真似をしたり腰を振ったり・・・・大いに盛り上がったところで皆さんもご一緒に踊りましょうとのアナウンス。待ってましたとばかり皆さん立ち上がり参加します。我々若い日本人二人が取り残されるのも逆に恥ずかしい!とばかり思い切ってこれに参加。見様見真似のスタートでしたが、少しずつ調子に乗って・・腕を組んでは次にバトンする子供たちの可愛いこと、その子らのリードの実にうまいこと・・ やがて時間でお開きに。この時日本からの先輩の言葉「私が10歳、いや20歳若くしてこの経験をしていたらフランスに移民することを考えただろう」でした。  翌日も好天、早速ホテルの庭や昨夜のカジノを確認して散策、ホテルの目の前の海岸で早くも多くの人が日光浴、しかもほとんどの人がほとんど裸! (写真はネットで見つけたニースの写真と誰も私だと信じない私の当時の写真です。)

フランスあれこれ62~シトローエンは自滅した!

50年位前のことです。人事異動で事務所長が日本に帰国、社用車のシトロエンが残されました。法人スタッフで車の運転は私だけだったので後任が着任するまで私が車の面倒を見ることになりました。お蔭で閑な週末など家族と郊外のドライブを楽しんだものです。タイプは“DS21”(ご興味があればネット検索してください。1971年物が500~1000万円で中古販売されています。)エアークッションでスピードを出すと腰(重心)が下がり、ブレーキを踏んでも犬が座り込むような雰囲気になります。私が出した最高速度は160kmまで、200kmくらいまでは十分出るようでした。高速艇にでも乗っているような感触で、当時のドゴール大統領も愛用した車でした。 20年程の空白の後、私が2度目の赴任となりました。前任者はベンツを使っていたようです。古くなって買い替えようという事だったが後任が来るまで辛抱したと聞きました。私は「フランスでベンツはないでしょう、矢張りフランスの車を」と希望したのですが日本からの来客を考えるとベンツ以外には・・・」「シトロエンがあるでしょう、DS21の後継車が・・・」そこで帰ってきた返事は「シトロエンは自滅した!」でした。 こういう話になるとフランス人のコメントは非常に手厳しい。「シトロエンは顧客や平素のサービスガレージを無視して自分の利益と製造の合理性に目がくらんだため顧客から見放されたのだ!」「これこそ自爆だ!」背景は今では当たり前の技術、でも当時としては一般社会がついて行けなかったようだ。いくつかの別個のラインで製作された中間製品が最終ラインで組み立てられて完成するという製造ライン、当時としては画期的な製造ラインだったようです。時代がちょっと早すぎたという事でしょうか。フランス人に言わせればお客目線での発想に欠けると。ちょっとした部品の不具合でも、大きな部品を一つまた一つとクレーンで引き上げないと問題の部分に手が届かないとなると素人は無論、街の修理さんもお手上げという次第。その結果、まずガレージがそして消費者が横を向いてしまったという事らしい。 当時シトロエンは民間の自動車だけでなく、軍需用の装甲車など手広く製造していた様子。すかさず政府が介入、軍需部門を切り離し、民間自動車部門をシトロエンよりはるかに歴史も規模も後れを取っていたプジョーに再建を依頼する羽目になったとのこと。  

フランスあれこれ61~クロアチアから来たフラミンゴ=私の想い出骨董品(2)

 半世紀以上も昔の想い出です。時代は旧ユーゴスラビアの時代、ソ連の影響下にあった共産主義国家でした。日本からの来客がザグレブに到着、それに合わせて空港で落ち合うことにしました。私はミラノから陸路レンタカーを準備しました。現地での移動も考慮してのことです。順調に国境を通過、初日の宿泊地リエカに到着。当時は特別の知識も持たなかったのですがここは名だたる観光地です。夜遅いこともあり景色どころではありません。睡眠前の一杯と思ったのですがカフェやバーは既に電気が消えていました。ボーイさんに相談した結果、自分のボトルをお持ちしますと親切でしたがチップを期待してのことは言うまでもありません。 当時は高速道路もない時代、海岸沿いの道はともかく、リエカからは内陸と言っても山越え、でも走行する車が少なく一応予定通り空港で合流、得意先に向かいました。田舎町で実にのんびりした風景、昔の田舎の小学校のような事務所に到着しました。 私が社長ですと出て見えた老人(いや失礼、老紳士)と小一時間の商談ですべて終了。飛行機の時間までという事でワインで軽く雑談となりました。記憶にあるのは、当時の社長は選挙で決まるとか、社長の給料も月例の給与らしいことでした。 日本からの出張者からのお土産にお返しするものがないと言っていましたが、さて出立の時、思いついたように頂いたのが写真でご覧頂くフラミンゴの彫刻です。応接室の一角に静かに佇んでいたことは知っていました。現在は我が家の想い出陳列棚に鎮座しています。 その日のうちのパリ帰宅はとても無理と考え、ヴェニスで一泊することにし、ヴェニスでレンタカーを返却。翌日街をぶらぶら一巡、次回の旅行の下見で今回は我慢することに。  それから約50年、いやそれ以上経過、本稿を書くにあたり果たしてこの鳥は間違いなくコウノトリか、それともサギでは?と考え、ハイムの物知り博士にこの画像をお見せして判断を仰いだところ、即答で「いずれでもない!これはフラミンゴだ。欧州南部の塩水湖などで生息する。」とのご宣託。確かにくちばしが内側に折れていて「なるほど!」と納得、よくぞお聞きしたものだと思った次第です。 この機会にと少し勉強しました。フラミンゴは古代エジプトの神話の霊鳥「ペンス」で太陽と再生のシンボル、或いは不死の霊鳥、或いは鮮やかに舞い上がり光り輝く者などを意味する由。 コウノトリやサギと異なりフラミンゴの身体が赤いのは食料の関係(β-カロチン)でこれを接種しないとコウノトリのような白い体になるとのことです。

フランスあれこれ39~南仏プロヴァンスのローマ遺跡(1)マルセイユ

先ずはプロヴァンスについて一言。ここはフランスの南部地中海に面した一帯で、緑豊かで太陽がいっぱい、フランス人に最も好まれる地方の一つ、東に行けばニースにカンヌ、西に向かえばスペインの南バルセローナへと続きます。元来フランス人の元祖ガリアの人達の住んでいた地域です。 フランス第三の都市マルセイユ。ご存知のように地中海に面した大きな港町です。歴史的には紀元前600年頃ギリシャ(小アジアのフォーカイア族)が開港、当時はマッサリアと呼ばれ、貿易と文化の窓口として発展、その後ローマのガリア征服に大きく貢献したのですが、残念ながらこの街にはローマ遺跡はありません。しかしこの港を背景に栄えたプロヴァンス地方に多くのローマ遺跡をもたらしたことは間違いありません。 マルセイユにとっての不幸はローマの内戦でした。カエサルとポンペイウスの不仲の際、長い付き合い上マルセイユはポンペイウスを、そして近くの街アルルがカエサル側について戦うことになり、カエサルの勝利でアルルに良いところを全て持っていかれる結果となります。(アルルについては次回のテーマです。)  しかし港としての効用は消えることなく時代とともに発展、特に1869年スエズの開通で交易の要としての地位が揺るがぬものとなりました。直後1873年(明治6年)岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパの視察の後マルセイユから乗船してスエズを通過して帰国の途についています。50数年前私がパリに赴任した同じ頃、日本からの留学生の多くはマルセイユに上陸したと聞きました。 当時の港は現在レジャー用のヨットやクルーザーで埋め尽くされ、その西側に広大な貿易新港が出来ています。(写真は旧港です)  特別のローマ遺跡という訳ではないがギリシャ時代からの埠頭の残骸やローマ時代の城壁の名残は残っています。 もう一つ旧港の外に岩の小島シャトウー・ディフ(イフ島)があります。港の入り口をガードする自然の要塞でもあったようです。マルセイユをガードしながら街と港の発展を見守ってきたと言えます。実際1530年頃この島要塞の城が建造され(現在のイフ城)、その後何時の頃からか特別の留置場として利用されるようになり、政治犯・宗教犯などを中心に、本格的な刑務所に変革されて行ったようです。第2次大戦後まで監獄として使われていたとも聞きます。 (マルセイユについての私の思い出を一つ追記させて頂きます。やはり50年位前のことです。 ワインを醸造した際の樽の底に沈殿する糟から酒石酸という天然酸味料が取れます。日本で粉末ジュースが人気だったこともあり日本は上得意だったようです。マルセイユにこの酒石酸の大手メーカーがありお訪ねしました。社長さんが私の顔を見るなり両手を大きく広げて抱き着いてきました。一瞬大げさなご挨拶だと思ったのですが、気が付くと目に大粒の涙で泣きじゃくっていました。話を伺ったのですがその日の朝、丁度私くらいの年の作業員が樽に落ちて亡くなったのだと言います。勤勉ないい奴だったと言ってまた涙でした。以来その社長さんとは親子のような関係が出来ました。) (マルセイユ旧港の写真は30年位前のアルバムから、そしてイフ城はネットからです)

フランスあれこれ38~思い出のレストラン「ピエ・ド・コッション」(Au Pied de Cochon「子豚の足」)

今から50年位前の話です。 フランスに赴任してすぐの頃、単身赴任3名が残業の後一緒に食事をしようという事になり、相談の結果当時ちょっとした噂のレストラン「ピエ・ド・コッション」にしようという事になりました。このレストランは創業1945年、パリの中心部に近い中央卸売市場(当時)の一角でした。いずこも同じでしょうが深夜や早朝に全国からの食料品が到着、一息ついて腹ごしらえに備えたレストランであることは当然です。逆に夜は時間外で薄暗く物寂しい雰囲気でした。 まずはオニオングラタンスープ、ボリュームたっぷり、味も良くこれだけでもそこそこでした。ドリンクは無論赤のハウスワイン。ここまでは十分満足。 次に店の名前の通り、そして噂の一品ピエ・ド・コッション。子豚の足ですが蹄がついたまま!こんなゲテモノ見たことがない。無動作にテーブルに置かれたお皿を見ただけで心臓が高鳴りました。 恐る恐る口に入れてみたが不味くはない、だが子豚と思うと目を閉じたくなる。口に入るのは脂肪の塊に感じた。もう一品はクー・ド・ポール(”queue de por”豚のしっぽ)。 大きなお皿を大きくはみ出す長い鞭のよう。豚のしっぽは丸くまるまっていると思っていたのだが?こちらは殆どが骨、要は脊椎の延長。口に入れるとゼラチンの感じ。人間も進化の途中でしっぽを無くしたと言うではないか!しかも焼け残りの産毛が少し残っている! その後中央市場は郊外に移転、私が2度目にパリに赴任した時はこの付近すっかり近代化され昔の面影はなくなっていました。近くを散策したこともあるのですがピエ・ド・コッションについては私の記憶から消えていました。改めてネットで調べてみてビックリ!日本語のサイトもあり、すぐにでも予約ができる。メニューを調べてみたが子豚の足も豚の尻尾は見つからない。名前だけでは理解の難しい料理がずらり、しかも値段もお安くない。内装も一転して一般大衆化してスマートに変身。ブログのコメントも多く皆さんご満足の様子。実にうまく環境変化に適応して姿を変え、うまく発展したものだと感心します。 中央卸売センターの跡地はレアール・フォーブルグ”Les Hales-Beaubourg”として文化とショッピングの街として雰囲気を一変し、一大観光地になっている。ご興味があればパリの観光案内をご参照ください。 東 孝昭