荻悦子詩集「時の娘」より「ハチソン街・秋」
ハチソン街・秋 Ⅰ スーパーマーケットでクッキーを手にしたら 腰の曲がった老女がすり寄ってきて 濃い紅の口元をもぞもぞさせたが ベリ・スウィートしか聞きとれなかった あの老女が帰っていく先は 歩く人の足元に窓が開く地下室か ―――一人暮らしの私の老母は もう一年も掃除をしません 猫をたくさん飼っているので すさまじいものです どうすればいいのでしょう――― ―――精神分析医にお見せなさい――― 画家が古い建物を細密に描き写している ハチソン街の信号のそば 地下室の窓の内側で レースのカーテンが閉まる Ⅱ アントニオにはドラスティックな姉がいる 昨日 フェルナンドがそう言った 髪を洗いながら反芻する ドラスティックな姉 ドラステシックな姉がいる 文法あやしく語彙力乏しい彼らが 常に雄弁であるとはどういうことか アントニオはペルーからやって来た 動詞の変化もあいまいだが 大学に入りたいらしいのだ フェルナンドは頭髪の薄くなったメキシコ男 スイスの経済学士を持っているのが自慢だ ハーバードでドクターを取るのだと 言い放つ彼らのタフネス 河口の町で トーキョーで ドラスティックな姉ですらなかった私よ 髪は今日もさっぱりと洗い上がらない Ⅲ 窓の金具をはずすと 一枚のガラスが鎖の長さだけ中に傾き 淡い青い空が見える 洗面所の窓から外を覗くと パリの裏町の地理がよくわかったという N先生の言葉がふっと浮かぶ ここには迷路はない 平行に並ぶ街路の表と裏 未舗装の裏道のガレージの入り口 ガーベッジの収集場所 激しい州選挙戦が展開されていると 新聞やテレビは報じているが ポスター一枚見かけないハチソン街 埃っぽい草の上を リスがちょろちょろ走る Ⅳ ピーターは「ともだち」のマリーを連れて現れた 厳重に包まれた袋の中にバラが数本 雪ににじんだカードには ピエールとマリーより フランス系のマリーと暮らし始めて ピーターはもはや絶対ピエールなのだ ―――選挙にはケベック党に勝って貰いたい――― オタワのカレッジに入るまで 英語をしゃべったことがなかったマリーと ケベック州で生き抜くには フランス語が必須であると思い始めたピーター アルバムに花嫁衣裳の写真を見つけて ―――わたしの夢――― マリーがつぶやくと ピーターは気のない笑い方をした ガレージが暗い口をあけている夜の裏道に 粉雪まじりの風が吹いて 気温は一挙にさがって行く 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。