荻悦子詩集「樫の火」より~「ス―プ」

スープ 娘がスープを作ります それは丁寧に本格的に作る のです レンガの壁を背にして おごそかな口調で 翠さんが言った 大きな鍋には既に何かがたぎって いる 翠さんの娘はその中に刻んだベーコンを入れ た 厚みのあるベーコン さいの目に切られたベー コンに さっそく絡みつくものがある 解けたチー ズのように見える 左手で髪を後ろに払いながら 翠さんの娘は右手に持った木のへらで鍋の中をさっ と掻きまわした 鍋の中身は まるでチーズフォン デュではないか カウンター越しに やや離れた所 から 私は疑わしげな目でその様子を眺めた カウンターにはチューリップが生けてある 花びら はオレンジ色 端をクリーム色が縁取っている 花 びらの縁は細かく裂けており 鋸状に尖っている チューリップとしては異型の姿をしている 花びら は開ききり 今にも散りそうに緩んでいる 散り落 ちれば ぎざぎざの花びらの縁はすぐに縮むだろう 翠さんが私に訊いた 日頃どんなスープを作ります か 馬鈴薯で南瓜で玉蜀黍でポタージュスープ 野 菜のコンソメ 馬鈴薯のビシソワーズ 白菜で若布 で茸で中華スープ 卵のスープ 私はそう数え上げ ていく 床から数センチ 私の両足は浮いているよ うなのだ 浮いてはいるが スープのレシピを思い 浮かべると 日常をなんなくこなしていると思えて きて 恬とした気分が漲ってくる チューリップの花びらが一枚 ぱらっと落ちた 縁 を内側に縮ませて オレンジ色の花びらの窪み 人 の耳の形に似てくる 空調機から来る微風に震えな がら 人の声や物音を感じ取っている 窪みにはか すかな香りが留まり 見えない塵が舞い降りている 海辺に住む大伯母のことを思い出した 尖った声と 厳しい話し方 美しい昔の顔が浮かんでくる 百歳 になった大伯母はゼリー状の食物を摂っていると聞 いた 高慢だが私には優しかった人に 今こそスー プをと思う 大伯母はどんなスープが好きだったの か 百歳の人の 衰弱したひとの命を繋ぐこともで きるスープ 喉越しの優しいスープ いつの間にか翠さんの娘がいなくなった カウンタ ーの向こう 鍋の中のスープの正体はわからないま ま 自動スープ釜というのがあるようです 外見は 湯を沸かす電気ポットに似ています 野菜を刻んで 入れるだけ スープキューブを加えるだけ それを 買おうかと思うのです 虫に喰われたような穴があ る赤茶色の古いレンガの壁を背にして いつしか独 り言のように うっとりと私は話している 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。