シンゴ旅日記ジャカルタ編(10)  散歩しながら考える(出会い)の巻

散歩しながら考えるの巻 出会い (2018年1月記) 2018年になりました。私は今年の健康テーマを作り「めざせ2018」と名付けました。 えっ、それはなんですかって。はい、体重の20%である18kgを今年中に減量するのです。 あれっ、これで現在の体重がばれちゃいましたね。そうです、私はメタボリックなのです。 振り返りますと2015年はインドにいて運動不足を解消するために、マンションのジムのウォーキングマシンの上を歩いていました。2016年は3月に日本に本帰国となり、そしてインドネシアへの辞令をもらい7月からチカランに移りました。そして辺りのことを知りたくて早朝散歩を始めました。 しかし、翌年の2017年はお正月の一時帰国からこちらに戻ってからは朝がまだ暗い、仕事で疲れた、二日酔いで眠いとかいろいろ言い訳を作って散歩をサポっておりました。 下のグラフは2015年、2016年、2017年の月別の一日の平均歩行距離を表したものです。 スマホのアプリです。去年は一日1.4kmとほとんど歩いていないに等しい日々でした。 昨年11月に日本で受けた健康診断の結果、運動不足と肥満により健康状態が悪くなってきていることを数字で知りました。それで、体重を落とさねばならないと決断し、年末に日本から戻って来て、早朝散歩を再開することにしました。私の朝散歩では次のコースの組み合わせです。 私のサービスアパート前の住宅地。池を半周する一本道コース、通りの名前は湖の名前です。 雑木林。森林浴コース 雑木林の向こうの住宅地。広いので右回り、左回りとその日に合わせ歩く方向を変えます。 そしてアパートへ戻る時に道路に面した住宅地を通ります。 住宅地の中にある通りにはインドネシアの山、湖、丘、花の名前が付けられています。 自動車道路には昔の王朝の名前が付けられています。 たとえば私の住むアパートの前はパジャジャラン通りです。 西ジャワにあった王朝の名前で、バンドンにある大学の名前にもなっています。 自動車道路で魚の背骨のように中心を走っている通りの名前はタムリン通りといいます。 ジャカルタの目抜き通りと同じ名前です。タムリンとはインドネシアの民族主義者の指導者であったムハマッド・フスニ・タムリン(1894年~1941年)から付けられたものです。 池をめぐる住宅地に入って行くと入口近くの家で犬を何匹も飼っている家があります。 一昨年は3人の若者たちが一人一匹ずつの子犬を連れて歩く光景に出合いました。 しかし、今回はその人数が6人以上となり、犬の数もそれだけ増えていました。 それにその子犬の群れの他に中型犬、大型犬を一匹ずつ連れて歩いている若者にも出会いました。きっとあの家の人はブリーダーをやっていて、儲かっているのでしょうね。 犬の散歩といえば排泄物の処理をしっかりしているかが気になります。 日本ですと犬を連れて散歩する人はちゃんと後始末をする小道具を持って歩いています。 こちらではどうだろうかと気になりました。 その住宅地では犬が用を足すと、連れている人がポケットから袋を出して拾って袋に入れていました。インドネシアも町をきれいにする意識が生れて来たんだ、とその時は感心しました。 しかし、すぐにびっくりしました。犬の○○が入ったその袋を道路脇に置いてそのまま歩いて行くのです。持ち歩くのが嫌だから帰りがけにそれを拾っておうちに持って行くのでしょうね。 ある朝は赤い色、別の日には白い色の袋が道路脇に点々としていました。 でも、ほかの住宅地や通りではまだ犬が用を足してもそのままにして行く光景をみかけます。 インドもそうでしたが、公衆道徳を身に付けるには時間がかかるのでしょうね。 それにしてもあのたくさんの犬を飼っている家の前を通ると犬の鳴き声でうるさいです。 せめて住宅地では一軒に二匹までか、あるいは多くても家族の人数以上の犬は飼わないように規制できないのでしょうかね。 その池をめぐる住宅地の散歩コースは行き止まりのため、その突き当りの折り返し地点はロータリー状の草地となっています。 ある朝、その草地に生えている草を鎌で刈っている人がいました。 私は農家出身なので、子供のころはおじいさんに草刈りの指導も受けました。 鎌で草を刈る時は左手で草をつかんで右手の鎌をその根元にあてて同時に引きます。 右手と左手をシンクロさせることにより右手の鎌で、左手の指や腕を傷つけることがありません。 でもその人は草を手でつかまないで、鎌で草を殴るようにして刈っていました。 これでは草を根元まできれいに揃えて切れず、切り残る茎の高さがバラバラで美しくないのです。 きっとおじいさんが生きていてその刈り方を見たら、「これこれ、こうやってかるのだよ」と指導してしまうかも、と、そんなことを考えながら眺めていました。 そして、私はその男の人が持っている鎌が日本と同じ形状なのか気になり、その人に近づいて行きました。 私        すみません、鎌を見せてもらえますか。 その人  どうぞ。 私        日本にも鎌(サビット)があるのですよ。 その人 それはなんと呼ぶのですか 私        「KAMA」です。どうして草を刈っているのですか? その人 ヤギの餌です。ヤギを10匹飼っているのです。 私        乳を取るのですか? その人 いいえ、大きくして売るのです。 私       何年くらい飼うのですか その人  二年です。 私        一日にどれくらい刈るのですか その人  この袋に二杯です。 その草を刈る人と別れ、歩いて来た道を折り返して行くと、住宅地の出口近くでエンジン式の草刈り機を持った人たちが刃を回転させながらヤスリで刃を研いでいました。 さっきの人は機械で草を刈り取られて無くなる前にヤギのエサ用に草を手当していたのでしょう。 散歩中には私と同じように歩いている人やジョッギングしている人たちとも出会います。 私の印象では男の人は一人で歩いたり、ランニングしたり、あるいは奥様連れで散歩していますが、女性は一人で散歩する人は少ないようです。 女性は旦那様かお友達と一緒に散歩しながらおしゃべりをしている人が多いようです。 その話声から韓国の人たちが多いことがわかります。 ある時はインド人とわかる中年カップルとすれ違いました。 その時、旦那さんと目が合い「Good Morning」と挨拶されたので、私も英語で挨拶しました。 そして、すれ違って数歩歩いてから、「しまった。今度出会ったら「ナマステ」と返事をしよう」と思いました。 そして、朝ですから日本と同様に新聞配達をする人やパンを配達の人にも出会います。 朝のまだ静かな商店街通りを歩いていた時のことです。 道路横でオートバイを磨いていた人が、立ちとまって見ていた私に「スラマット パギ(おはようございます)」と声を掛けてきました。 私        おはよう。新しいオートバイですね。 その人  はい、ホンダの新型です。 私        なにが新しいのですか? その人  チューブレスなのです。 私        いくらしたのですか その人  18.1百万ルピア(13万円)です。 私        分割払いですか? その人  現金払いです。 私        お仕事は何ですか? その人  警備員です。 私        警備員ってお金持ちなんですね。私も警備員に転職しようかな。 と言って分かれました。 住宅地の散歩からサービスアパートに戻る途中に大きな庭木が道路に面している住宅があります。 ある土曜日にその住宅の一軒で、たわわに生っているランプ―タンを取っている中年夫婦がいました。 旦那さんが竹の竿を使って実を枝ごとひっかいて落とし、奥さんが落ちた実を拾い集めるのです。 私は立ちどまってその作業を眺めていました。 というのは、これまた私の田舎時代の渋柿取りに似ていたからです。 田舎では竹竿の先を割いて小さな枝を挟んでY字にし、そのY字の割れたところに柿のヘタの先を挟んで捩じって取りました。 ランブータン取りの竹竿の先がどうなっているのかを観察すると、先が割れているのでなく、竿の先には針金がフック状になっていました。 その針金のフックで枝ごとひっかけてランブータンを落としているのです。 その作業を見ていると、ランプ―タンのなった小枝を拾っていた奥さんが「持って行きなさい」と言って取れたばかりのランプ―タンを何本も私に渡そうとしました。 私は一人で住んでいるのですと言って一枝だけもらってそこを後にしました。 次の週の土曜日の同じような時間にまたそこを通ると、ご主人だけが庭に出ていて、ランブータンがまだたくさん残っている木を見上げていました。 私        […]

シンゴ旅日記ジャカルタ編(9)  散歩しながら考える(日の出時刻)の巻

散歩しながら考えるの巻 日の出時刻 (2017年12月記) 私は東南アジアやインドで駐在した国々の日の出、日の入りの時刻が日本と違って一年間を通じてあまり変わらないことを実感していました。 日本のように夏の季節の日の出は早く、冬の季節は遅いということがないのです。 インドネシアに着任した昨年11月は朝の5時半前には辺りは明るくなっていました。 しかし、3月ごろから日の出の時間が遅くなり、5時半ではまだ暗い朝の日が続きました。 そしてまた10月の半ばころから5時半になると辺りが見えるくらいの明るさになりました。 日本であれば日の出が一番早いのは夏至の6月ですので、違和感がありました。 散歩しながらインドネシアの日の出時刻は年間を通じてどう変化しているのだろうと思いました。 そして調べてみると次のグラフとなりました。データは2017年のものです。 縦軸の下から上に向かってが一日の時間経過で、横軸が1月から12月の一年間の推移です。 ジャカルタの日の出時間は11月が一番早く、8月が一番遅くなるのです。 これではよくわかりませんので東京の時刻と重ね合わせたのが次のグラフです。 インドネシアの日の出、日の入り時刻が日本のもの同じ傾向を示さないのはジャカルタが赤道に近く、そして南半球に位置しているからです。 夏至や冬至の日が日の出時間のピークになると思うのですが不思議ですね。 それで今まで私が駐在した都市のシンガポール、バンコク、チェンナイの日の出、日の入り時刻を調べてグラフにしてみました。 バンコクとチェンナイの日の出、日の入り時刻は同じようになります。 これは緯度がほぼ一緒だからです。 そしてシンガポールとジャカルタは同じ傾向を示しますが、約一時間半ばかりシンガポールの日の出、日の入時刻が遅いのです。これはシンガポールの経度が関係してきます。 ジャカルタは日本との時差が二時間あります。 シンガポールは日本と時差が二時間あるジャカルタやバンコクと同じような経度に位置するのにかかわらず日本との時差は一時間しかありません。 それぞれの都市の緯度、経度で表すと次のとおりです 経度は360度ですから一日の24時間で割れば、経度15度ごとに一時間の時差となる計算になります。 シンガポール、ジャカルタ、バンコク、香港、台湾、北京と東京の時差を東京の経度(東経139.43度)を元にして計算で求めたものと、実際に使われているUTCの時差との比較をしてみました。 東経 東京との差異 計算時差 UTCでの時差 ソウル 126.58 12.85 51分 なし 台北 121.33 18.10 1時間12分 1時間 マニラ 120.59 18.84 1時間15分 1時間 香港 114.06 25.37 1時間41分 1時間 北京 116.24 23.19 1時間33分 1時間 ジャカルタ 106.51 32.92 2時間12分 2時間 ハノイ 105.50 33.93 2時間16分 2時間 シンガポール 103.49 35.94 2時間24分 1時間 クアラルンプール 101.41 38.02 2時間32分 1時間 バンコク 100.30 39.13 2時間37分 2時間 チェンナイ 80.15 59.28 3時間57分 3時間30分 シンガポールは本来であれば東京と2時間の時差があってもしかるべきなのです。 それが1時間しかないのは、同じ華人社会の香港の株式市場と同じにするために香港の時差に合わせたという説があります。マレーシアはシンガポールに追従したのでしょうか?   日の出日の入り時間が緯度によって違うということは一日の日照時間が違うということです。 私が駐在した都市と東京の日照時間をグラフにすると次のとおりです。単位時間/日 突然ですが英語で気候を表すClimateの語源はギリシャ語の「(お日様)の傾き」なのです。 季節の代わり目の春分と秋分の日には太陽が赤道の真上に来ます。 その時に赤道地点にいると、太陽が南中した時に影が真下にくるのです。 その赤道0地点がカリマンタンのポンティアナックです。 春分には多くの人が真下の影を体験するためにでかけます。 ポンチアナックの日の出、日の入り、そして日照時間はどうなっているのでしょうか。 東京、ジャカルタと比較してみます。 そしてこれらから日照時間を計算すると次のようになるのです。 同じインドネシアでもジャカルタとポンティアナックでは日照時間が微妙に違うのです。   日照時間だけでなく、日本とインドネシアは気温、降水量そして湿度も違います。 日本では日照時間、気温、降水量、湿度が一年を通じて変化します季節があるののです。 春一番、春眠暁を覚えず、衣替え、夕涼み、秋の夜長、冬仕度、、、、、 そして、季節があるのでその時々の風景に感動する俳句が作れるのだと思います。 日本人の挨拶は季節用語で始まります。 「すっかり暑くなりましたね。」「まだまだ暑いですね」「寒くなりましたね。」「うっとおしい梅雨ですね」 そして、日本人の記憶は季節と一緒に表されます。 「あの時は桜が咲いていましたね。」 「あの時は雪が降った寒い朝でしたね。」 インドネシアでは「暑くなりましたね」とか言えないのです。 日本では田植えや稲刈りは季節の風物詩ですがインドネシアでは二期作、三期作ですから「あの時は稲が実った時期でしたね」とも言えないのです。 ジャカルタと東京では湿度も違います。 日本の哲学者・和辻哲郎は『風土―人間学的考察』(1935年)で世界の地域の中からモンスーン・砂漠・牧場という三分類の設定をし、「風土」は単なる自然現象ではないといして、その地域ごとの文芸、美術、宗教、風習、食物、植物などあらゆる人間生活の特質を浮き彫りにしています。 […]

シンゴ旅日記ジャカルタ編(9)  散歩しながら考える(インドネシア語)の巻

散歩しながら考えるの巻 インドネシア語 (2017年4月記) 散歩していると道路脇の木陰にポツンと停車しているタクシーをよく見かけます。 そのタクシーのテッペンにある表示には「TAKSI」と書いてあります。 英語のTAXIがインドネシア語ではTAKSIとなるのです。 タクシーをインドネシアの隣国のマレーシアでは「TEKSI」と表示します。 そして、バスはインドネシア語がBus,マレー語ではBasです。警察はインドネシア語がPolisi、マレー語はPolisです。同じ英単語がこの二つの国の人たちにはそれぞれ違った音に聞こえるのでしょうね。インドネシア語とマレー語は兄弟言語と言われ、60-70%は同じ単語を使います。 違いがある身近な単語の例は次のとおりです。 インドネシア語 マレー語 お店 TOKO KEDAI インドネシア語でKEDAIは飲み物を提供するお店です。  車 MOBIL KERETA インドネシア語ではKERETAは電車、汽車です。 病院 RUMAH SAKIT HOSPITAL 今度はマレー語が英語の外来語です。 ジャカルタ名物の交通渋滞をインドネシア語で「MACET(マチェット)」と言います。これがマレーシアでは通じないようです。マレーシアでは「TRAFIC JAM」と英語で言うとのことです。 多くの島からなるインドネシアは、ジャワ島が政治経済の中心で、総人口2億6千万人の60%以上が住んでいます。ジャワ島西部のジャカルタ、バンドンなどスンダ族の人々で日常会話はスンダ語で、ジャワ島中部、東部の人たちはジャワ語です。 しかし、現在の標準インドネシア語はスンダ語やジャワ語とは全く違い、マレー語に近い言葉なのです。なぜマレー語に近い言葉がインドネシアの標準語になったのでしょうか。 それは、標準インドネシア語がマラッカ海峡を挟んだスマトラ島の言葉を起源に持つからです。 なぜかと言うと、ジャカルタがインドネシアの中心地となったのは16世紀にオランダがインドネシアを植民地化し、ジャカルタに本拠地を置いてからで、それ以前はマラッカ海峡がインド洋から南シナ海に抜ける物産、文化の中心地だったのです。 マラッカと言えば15世紀のマラッカ王国(1402年~1511年)が思い起こされますが、それ以前にはマラッカ海峡をまたぐ王国がスマトラ島にあったのです。 それはシュリビジャヤ王国(6世紀初め~1414年)です。 そして、マラッカ王国はこのシュリビジャヤ王国が東ジャワのモジョハピド王国(1293年~1478年)の攻撃にあい、マレー半島に逃げ延びて建国した王国なのです。東方諸国記を著した16世紀のポルトガル人のトメ・ピレスは「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとしています。 マラッカ王国の前身であるシュリビジャヤ王国は仏教国で、ジャワ島にあった同じく仏教国のシャイレンドラ王国とも仲が良かったようです。 このシャイレンドラ王国は有名な仏教寺院であるボロブドゥールを建設しています。 そのボロブドゥール寺院の近くには、ヒンズー教を信奉したマタラム王国(古マタラム王国)がプランバナン寺院群を築造しています。 現在はイスラム教徒が国民の87%を占めるインドネシアですが、またイスラム教が興ったばかりの7-8世紀には仏教、ヒンズー教が盛んだったのですね。シュリビジャヤ王国の中心であったパレンバンには当時仏教大学のようなものがあり、唐の時代(618年~907年)の僧である義浄(635年~713年)が仏典を得るためにインド行ったときに立ち寄っています。 シュリビジャヤ王朝の系統を受け継ぐマラッカ王国は小国でしたので、中国の明(1368年~1644年)に朝貢を行い、永楽帝(1360年~1424年、在位1402年~1424年)からマラッカ国王に任じられました。 そして、永楽帝の命により鄭和(1371年~1434年)が指揮した船団は7度のインド、アラビア半島さらにアフリカまでの大航海をしていますが、その都度マラッカに寄港しています。なお、鄭和がイスラム教徒でした。マラッカ王国はその鄭和の来航を期に急成長するとともに、ヒンドゥー教のマジャパヒト王国に対抗して商業活動を抑え込みインド洋と南シナ海の中継貿易として繁栄したのです。 マラッカが交易の中心となるとアラビア語、ペルシャ語、タミル語、ジャワ語など交易の相手国で話されていた言葉が商業共通語であるマラッカ王国のマレー語に置き換わって行ったのです。 マラッカ王国は15世紀の半ばに中国との交易のバンランスをとるかのようにイスラム商船の来航を促すためにイスラム教を国教としました。 そして大航海時代が始まり、アジアへ進出してきたポルトガルによって1511年にマラッカは占領されました。しかし、王族は分家があったジョホールにジョホール王国を建設し、現在まで世襲のスルタンによって王位が継承されているのです。シュリビジャヤ王国から続くしたたかな王朝です。 その後、ポルトガルに代わり1641年にオランダ東インド会社がマラッカを占領しましたが、オランダの拠点はジャカルタでしたのでマラッカは地方港に過ぎなくなりました。 1824年の英蘭協約でスマトラ島の英領アチェ王国と交換にイギリスに譲渡されました。 英国はマラッカよりもシンガポールを発展させたためマラッカの港湾機能は衰退していったのです。 マレー語は当初は文字を持たない言語でした。 それで、マラッカ王国はイスラム教に改宗した時に、アラビア文字を取り入れました。 それがジャウィ文字です。インドのウルドゥー語のようなものでしょうか。 ジャウィ文字は現在でもブルネイやマレーシアの一部地域で使用されています。 その後、マレー半島がイギリスの植民地なった時にジャウィ文字はアルファベットに置き換えられました。 一方、インドネシアもジャウィ文字を使用していましたが、オランダの植民地となりオランダ語アルファベット文字が採用されていきました。 インドネシアではオランダの植民地下で独立の機運が高まると海峡マレー語をインドネシアの標準語とする運動が始まりました。 1928年の第二回インドネシア青年会議において次の青年の誓いとして決議されました。 「我々インドネシア青年男女は、インドネシアという一つの祖国をもつことを確認する。 我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族という一つの民族であることを確認する。 我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用する。」 しかし、インドネシア語が正式な国語となるのには1945年8月17日の独立まで待たなければなりませんでした。 インドネシア語は母音が6つしかありませんし、中国語やタイ語のように四声、五声といった声調もありません。複数形は日本語の山々、人々、家々いと同じく単語を二回続けます。日本語はウラルアルタイ語系と言われますが、きっと単語として南方から入って来ているのではないでしょうか? と、いうことは人々の交流もあったのです。そして、インドネシアの国章にヒンズー教のガルーダが描かれています。宗教の変遷をみても日本とインドネシアはよく似ていると思います。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(8)  散歩しながら考える(ダンドゥット)の巻

散歩しながら考えるの巻 ダンドゥット (2017年3月記) ジャワ島の中東部にヒンズー教のモジョパヒド王国(1293年~1478年)がありました。 王国は第4代ハヤム・ウルク王の時に最盛期を迎え、時の宰相ガジャ・マダの功績によりその版図はジャワ・バリを越えて、ラオス・カンボジア辺りにまで影響を与えたと言われています。 この王と宰相の名前はインドネシア各地の建物や通りの名前として今でも残っています。 ジョグジャカルタの名門国立大学名もガジャ・マダですし、ジャカルタの昔の中心地であるコタの2本の通り名には、ハヤム・ウルクとガジャ・マダの名前が付けられ運河を挟んで並行に走っています。 宰相ガジャ・マダ(怒った象の意)は1331年、宰相に就任する時に、黄金のクリス(短剣)を天にかざし、「パラパの誓い」を神に対して行いました。 その「パラパの誓い」とは「インドネシアのすべての地を征服するまでは、私は一切の贅沢や娯楽を絶つ、結婚もしない」と宣言した誓いのことです。 1976年にこの「パラパ」の名前をつけた通信衛星がインドネシアから打ち上げられました。 ソ連・カナダ・アメリカに続いて世界で4番目の打ち上げであり、日本の実験用放送衛星「ゆり」より2年早いのです。 また、インドネシアの初代大統領のスカルノも自分自身がガジャ・マダの生まれ変わりだと信じていたそうです。 そしてスカルノはガジャ・マダ由来のクリスを所持していたと言われています。 でも、ジャカルタ、バンドン地域のスンダ人は、このガジャマダに征服された側なのでこのモジョパパヒド王国やパラパの誓いを心良く思っていないようです。 前置きが長くなりました。 ある朝、森林浴しながら歩いていると、数人の若者が同じ黒い地のTシャツを着て道路の傍らに群がっていました。 近づいていくと、カメラを地面に置いて全員の記念写真を撮ろうとしているのです。 彼らに「皆さんは学校の生徒ですか」と聞くと「SNP」「ダンドゥット」という言葉が返ってきました。 ダンドゥット(Dangdut)とはインドネシアの大衆歌謡でロック音楽に民族楽器や電子楽器を使って歌うダンス音楽のようなものです。 「SNP」とはなんですか」と聞くと、「Saudara New Pallapa」の略だというのです。 つまり、彼らはパラパの名がつくSNPというグループのファンだったのでしょうね。 私はそんな若者に誘われ一緒に写真を撮ってもらい、またお返しに若者たちの集合写真を撮ってあげました。 SNPのSaudara New Pallapaとは「新しいパラパの仲間」といった意味となるのでしょうか。 SNPの名前が日本のSMAP似ているので、SMAPの名の由来も調べると「Sports Music Assemle People」 の略で、その前身であるスケートボーイズのキャッチコピーだったそうです。   インドネシアの音楽というとジャワやバリ島のガムラン音楽、「ブンガワン・ソロ」で有名なクロンチョン、そしてダンドゥットなどがあります。 そして、私が知っているインドネシアの歌と言えば、「ブンガワン・ソロ」「ノナマニス(可愛いあの娘)」そして「モスラ」です。 ブンガワン・ソロはそんなに難しい単語がありませんし、メロディもゆったりしているので、声楽家の秋山雅史の真似をしてオペラ風にして歌うとインドネシア人のスタッフや運転手に受けます。 このブンガワン・ソロは戦時中にインドネシア各地を巡回した小説家の林芙美子の小説「浮雲」(1953年発表)が1955年に映画化され、その一場面に流れていたような気がします。この映画は監督は成瀬巳喜男の名作と言われ、主演は高峰秀子で、森雅之が自堕落な男を演じていましたね。 小津安二郎(1903年~1963年)の映画「秋刀魚の歌」(1962年)の中にもブンガワン・ソロのメロディが流れます。それは主人公(笠智衆)が軍隊時代の部下(加藤大介)に偶然に再会し、二人で行くスナックを描写するときにブンワン・ソロのメロディが流れるのです。そして、スナックの中では二人がウィスキーを飲みながら戦争についての会話が続き、お店の人に「軍艦行進曲」のレコードをかけてもらうと、部下が敬礼のポーズで踊りだし、主人公が返礼をする場面があります。 なお、小津安二郎は「自分にできないシャシンは溝口の『祇園の姉妹』と成瀬の『浮雲』だけだと」語ったそうです。 ノナマニスは「可愛いあの娘は誰のもの」そしてインドネシア語の「ノーナ・マニス・シアパ・ヤン・プーニャン」という二つのフレーズが繰り返えされる印象的な歌です。 この歌はインドネシア東部の島々であるマルク地方の民謡でした。 日本では最初に高木義夫の訳詩でボニージャックスが歌い、そして、昭和40年に西沢爽作詞、遠藤実編曲で、「青春の城下町」のヒットを飛ばした梶光夫(1944年~)が歌いヒットしました。 その西沢爽の作詞の歌の一番は次のとおりです。 可愛い あの娘は誰のもの   可愛い あの娘は誰のもの 可愛い あの娘は誰のもの   いえ あの娘はひとりもの 今日(こんにち)は娘さん お話しましょう   恋人はいないの 淋しかないの 恋をするなら 若いうち   いいえ あの娘も 若いうち ノーナマニサバ ヤンプーニャン   ラササーヤ サーヤゲン この梶光夫の歌の「今日は娘さん、お話しましょう、恋人はいないの、淋しかないの、 恋をするなら 若いうち、いいえ、あの娘も 若いうち」の部分を、高木義夫氏の歌詞は元の詩に忠実に訳しています。それは「かたつむりはどこから 川からたんぼへ 恋人はどこから目から心へ 」というものです。 その文章はインドネシアでは韻を踏んでいるのです。 Darii mana  datangnya  lintah  dari  sawah  ke  kali Dari mana  datangnya  cinta  dari  mata  ke  hati 上の段のlintah(リンタ、かたつむり)が下の段のcinta(チンタ、愛)に、上の段の sawah(サワ、たんぼ)が下の段のmata(マタ、目)にそして上の段の kali(カリ、川)が下の段の hati(カリ、心)と韻が同じなのです。 あれっ、上段の原文は「たんぼから川へ」となっていますが、訳詩は「川からたんぼへ」と逆になってしまいますね。   そして「モスラ」です。1961年(昭和36年)の東宝映画です。日本に拉致された南の国インファント島の小美人双子(ザ・ピーナッツ)を救おうとする怪獣モスラの物語です。 その映画の中でザ・ピーナッツが歌う「モスラの歌」があります。 この歌はインドネシア語なのです。作詞は由紀こうじ、作曲は古関祐而です。 最初は中国語で作る事も考えられたようですが最終的にインドネシア語に決まりました。 この「モスラの歌」のインドネシア語の歌詞を会社のインドネシア人の部下に見てもらいました。 すこし古い表現があるようですが、儀式に使うような固いインドネシア語だそうです。 でもyoutubeで観てみるとザ・ピーナッツは映画の中で、一番だけを何回も繰り返しているのです。 Mothra Ya Mothra, Dengan Kesaktian Hidupmu Restula Doa Hamba-Hanbamu Yang Rendah Bangunla Dan tunjukanlah Kesaktianmu   Mothara Ya Mothra Dengan Hidupmu Yang Gemilang Lindungilah Kami Dan Jadila Pelindung Perdamaian Berdamaian Adala Hanya Jadilan Yang Tinnggal Bagi Kami Yang Dapat Membawa Kami Kekemakmuran Yand Abadi   […]

シンゴ旅日記ジャカルタ編(7)  散歩しながら考える(ジャムゥ)の巻

散歩しながら考えるの巻 ジャムゥ (2017年2月記) ジャムゥ(JAMU)とは、インドネシアに自生している植物の実や皮、葉、根、木の皮などを原料にした古来から伝わるハーブ薬のことです。 散歩を始めて間もないころ、背中に籠を背負いジャムゥを売り歩いている女の人にであいましたので、写真を撮らせてもらいました。 ふた月ほどして、朝の散歩中に同じ女の人に出会いました。どちらも土曜日の朝でした。 その時は彼女が一軒の家の前にある花壇の橋に腰を下ろし、籠を脇に置いてお家の人と何やら話し込んでいまいした。 それで、私は近づいて行って二人の会話に入り込み籠の中のものをじっくりと見せてもらいました。 プラスチック容器に入った液体以外に、薬局で売っている袋入りの粉末薬も見せてもらいました。 それらは女性用の痩せる薬とか健康を維持するものが多かったです。 ジャムゥの起源は古く、紀元前1200年前にインドからインドネシアにヒンドゥー教が伝えられた時、インドの古代医学であるアーユルヴェーダとして入ってきました。 アーユルヴェーダのハーブ調合を元に、インドネシアに自生するハーブを原料に、応用や改良を重ねて行き出来上がったのです。そして、ジャムゥが民間に伝わるようになったのは8世紀の中頃、中部ジャワのソロの王様がある村長にハーブを与えたのが始まりです。 病気の症状に従った処方の配合、適用症状の知識、調合技術やハーブの種類の見分け方等のすべてが世襲制で、口伝で伝承されてきました。 ヒンズー教は薬だけでなく科学、文化、習慣などいろんなものを持ち込んできたのでしょうね。 仏教やキリスト教、イスラム教などほかの宗教の広がりも同じだと思います。 インド発祥の仏教は中国や朝鮮を経由して日本に6世紀に伝わってきました。 聖武天皇(701年~756年、在位724年~749年)は仏教に帰依し全国の国分寺の総本山として東大寺と大仏の建立をし、その妃の光明皇后(701年~760年)は悲田院を設けて貧しい人たちを救済し、施薬院を置いて病人の治療にあたっています。 薬師寺とか薬師如来とか仏教には医療関係のものが多いですよね。 お茶も、元来は薬物であり、喫茶の習慣は臨済宗の栄西が中国から持ち込んだといわれています。また病気治癒には護摩を焚いたり、お経を唱えたりすることもありました。 また、タイマッサージも太極拳もすべて健康維持が目的ですが、これらも寺院絡みです。 戦国時代末期に日本に来たキリスト教の宣教師も医療との関係がありました。 スペインやポルトガルが海外に領地を求めていくにあたり、現地の人たちにまず宣教師がキリスト教への改宗を求め、貿易を行い、宣教師や貿易商人を守るかたちで軍隊が随行していました。 そして、宣教師、商人、軍人、特に軍人は戦いで傷を負うので、医師も不可欠だったと思います。 また。当時の後進国は多くの人が病気で苦しんでいて、そんな国々に宗教は心の病を、医学は体の病を直すという役割をももっていたのだと思います。 日本ではポルトガル人で医師免許を持つ貿易商人で、のちにイエスズ会の宣教師となったルイス・デ・アルメイダ(1525年~1583年)が大分市で乳児院や外科、内科、ハンセン病科を備えた総合病院を建てました。キリシタン大名大友宗麟の協力を得たのです。 これが日本へ西洋医学が初めて紹介された事例です。 大分市にはアルメイダ病院が昭和44年に建設されています。 日本はその後、鎖国となりましたが、長崎の出島のオランダ商館の医師から外科術などの蘭学を学んで行き、中国やアジアの国々に先駆けて先進医療を身に着けていったのです。 明治時代に医療宣教師というキリスト教の活動として医療伝道を行う外国人医師たちが来た時に日本の医療が進んでいるのに驚いたそうです。 赤十字社のマークは十字です。これはキリスト教と関係があるのでしょうか? いいえ、あの白地に赤の十字はスイスの国旗のマークを反転したものなのです。 赤十字社の創設者アンリー・デゥナン(1828年~1910年)の祖国であるスイスに敬意を表しているのです。スイスの国旗は、もともとは神聖ローマ帝国の軍旗でした。 1240年に神聖ローマ帝国皇帝フレデリック2世によって、スイス連邦の三つの州のひとつのシュヴィーツ州に与えられたものです。 多くの国では、赤十字社の識別マークは白地に赤い十字のマークを採用していて、団体の呼称は「赤十字社」が一般的です。 しかし、中国では「紅十字会」、北朝鮮では「赤十字会」と呼んでいます。 イスラム諸国では、「十字はキリスト教を意味し、十字軍を連想する」として嫌われたため、白地に赤色の新月を識別マークとし、「赤新月社」と呼んでいます。 しかし、イスラム教徒が大半を占めるインドネシアでは赤十字のマークなのです。 いろんなマーク(旗)が乱立したため2005年12年の赤十字・赤新月国際会議総会において赤のひし形を象った宗教的に中立な第三の標章「Red Cristal」が正式に承認されました。赤水晶、赤菱形、赤菱とも呼ばれます。 日本神話の中にも出雲の国造りにあたりオオクニヌシと一緒に活躍したスクナヒコナが医薬の神とされています。この神様たちは越前、能登、越中をも開発しました。 越中と言えば「越中富山の薬売り」で、その薬の売り方はインドネシアのジャムーと同じく訪問販売です。それに、インドネシアでも日本でもそれら薬の原料は植物です。 立山や白山の高山植物の中にその材料があったのでしょうね。 また、現在私たちが病院や薬局でもらう薬の原材料は化学合成で作り出されたものでしょうが、もともとは自然の動物や植物のエキスを培養したりして作ったものだと思います。 まさか原油からの化学合成ではないとは思います。しかし、原油だったとしても、原油はもとはエビやカニの堆積物ですからやはり動物のエキスとなるのでしょうね。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(6)  オジェック(OJEK)の巻

散歩しながら考えるの巻 OJEK (2017年2月記) 昨年3月インドから帰国し、日本でのおいしい料理を食べすぎて、体重が大きく増えました。 その11月にインドネシアに赴任してから、その体重を減らすため散歩をしています。 散歩と言っても住んでいるマンションの周りの限られたコースを朝食前に歩くだけです。 しかし、その途中でいろんな人や物に出会います。 マンションを出てまず出会う人たちは、朝早くから客待ちしているオジェック(OJEK、オートバイタクシー)の運転手さんたちです。 朝はマンションからの通勤客、その次はマンションに併設されているスーバーへ来る買い物客を待っているのです。 また、マンションと道路を挟んだ向かいに大きな教会があり、土日はそこへお祈りに来る人たちがお客様になります。 駐在員仲間からはオジェックは転倒したり、車とこすったりして危ないから乗らない方がいいよと忠告してくれます。 しかし、私はバンコク時代もマンションから近いところでの買い物はオートバイタクシーを使い、買い物のあとは両手で紙袋を下げ、道路を曲がるときはその方向に体を傾けたりして気楽に乗っていました。それで、こちらでもオジェックを時々利用しています。 この前の雨の日は、マンションで借りた傘をさしてオジェックの後部座席に乗ってモールに行き、帰りは左手に荷物を抱え、右手は傘をさしてオジェックに乗って帰ってきました。 しかし、散歩に出始めたころに運転手さんたちに「スラマット・パギ(おはよう)」と声をかけると、彼らは私に乗っていかないと誘いました。 私は歩く格好で両手を大きく前後に振って「クセハタン(健康)、オララガ(運動)」と返事して通り過ぎました。そんなことが数回続くと、挨拶をすると彼らはジョッギングのジェスチャーをしたりして答えてくれるようになりました。 ジャカルタ市内には配車オートバイタクシーであるゴージェック(GO-JEK)があります。 スマホで予約するものです。ウーバー(Uber)タクシーのオジェック版です。 OJEKとGO-JEK、インドネシア人もシャレ大好きですよね。 インドネシアの二輪車の年間の販売台数は600万台(2016年)です。 ちなみに日本の二輪車の販売台数は1983年の320万台をピークに下がり続け、最近は40万台を切ったようです。そういえば、昨年はシェアー一位のホンダと二位のヤマハが50㏄スクーターの生産、開発で提携を検討するというニュースがありましたね。 一方、インドネシアの四輪自動車の販売台数は2016年が106万台でしたので、まだまだオートバイが主流の国です。 オートバイの生産や販売台数は何と言っても人口が13億人もいる中国やインドです。 その次にインドネシアが入り、ベトナムとタイが続きます。 オートバイが出回る前のジャカルタは食べものを天秤棒でかついて売り歩いていました。 今でも時々その姿を時々見かけます。私はそれを見ると江戸時代の棒手振りを思いだします。 また。屋台に車輪をつけて運ぶカキリマ(Kaki Lima、五本足)もあります。 そして今ではオートバイが移動店舗となっているのです。 オートバイの後部座席に飲み物、食べ物、たばこなどを詰めた箱 を載せて道路端で販売しているのです。 その行商する商品と運んでいる箱の中を見させてもらいました。     マンション前で客待ちする運転手さんたちは私が散歩から帰ってきても、出発した時と同じ姿勢で客を待ち続けている人もいます。 ある朝、散歩からの戻りに、運転手さんたちが何か食べていたので、それは何かと聞くと「芋」だと言い、食べてみないかといわれました。 それでそれを食べてみるとサツマイモを煮たか蒸したものでした。 私は少し食べてからありがとうと言って皆の写真を撮らせてもらいました。 (参考資料) サツマイモとジャガイモ(農林水産省のHPから抜粋) サツマイモは、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれました。 紀元前800~1000年ごろには、中央アンデス地方でサツマイモがつくられていたのです。 ヨーロッパへは、コロンブスが15世紀の終わりにアメリカから持ちかえったのが始まりです。 でも、ヨーロッパでは気候が涼しすぎてあわなかったので、あまりつくられなかったのです。 あたたかいアフリカ、インド、東南アジアの植民地に持ちこまれたことで、世界中に広がりました 東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ちこんで、その後中国へと広がったとされています。 日本へは1600年ごろ、中国から伝わってきました。 琉球から薩摩に伝わったので、サツマイモとよばれています。 中国(唐)から来たいもで「からいも」とか、中国と同じく「かんしょ」とも呼ばれていたそうです。 八代将軍吉宗のころに、蘭学者の青木昆陽によって全国に広められました。 今の埼玉県川越市あたりはサツマイモの産地で、江戸から十三里あったので、ここから来る焼きいも屋のことを「十三里」とよんでいました。 それにひっかけて、焼きいも屋が「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」とふれて売っていたそうです。 一方、ジャガイモは中南米から、南米のアンデス山脈で生まれました。 今でも3000m以上の高地では、ジャガイモのもとになっている野生種がたくさん残っています。 15世紀の終わりにスペイン人が南アメリカから持ちかえったのが始まりで、ヨーロッパでは長い間、花を楽しむだけのものだったのだそうです。というのはヨーロッパはアンデスより日が長くてあたたかいので、葉や茎だけがしげって、芋ができにくかったのです。 日本には17世紀の初めにインドネシアのジャカルタからやってきました。 「ジャカルタから来たいも=じゃがたらいも」がなまって「ジャガイモ」になったといわれています。 その後、江戸時代に何度もあった飢饉(ききん)のたびに、飢えをしのぐための作物として広がったようです。 現在つくられている男爵、メークインといったジャガイモは、明治時代になってアメリカから入ってきた品種です。 ちなみにナスはインド東部が原産地です。 熱いほうが育ちやすいのです。 日本には中国からと、朝鮮半島からと、東南アジアからの、大きくわけて3つのルートではいってきて、奈良時代にはすでにつくられていたと考えられています 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(5)  新型コロナと朝散歩の巻

インドネシアでは新型コロナウィルスの感染者は 2 月までゼロでした。 ところが3 月2 日に2 名の感染者が確認されると3月末には感染者数1,528 人、死者138 人、そして4 月16 日には感染者数5,516 人、死者496 人と一挙に増え、その後も感染者数は毎日300 人ベースで増えています。 チカランに住む私は当初新型コロナ感染がジャカルタの出来事であると安心していましたが、3 月9 日の朝にアパートを出る時に受付嬢たち三人がマスクを着けているのをみてチカランも警戒するようになってきたのだなと思いました。 そして感染者や死者が増えるにつれジャカルタでは日本の緊急事態宣言に似た大規模社会的制   限という規制が4 月10 日に出され、15 日にはチカランのあるブカシ県も同じ規制が始まりました。 ブカシ県の規制の期間は4 月15 日(水)~28 日(火)の二週間です。 これは保険、食料、エネルギー、金融、ホテル、物流や工業団地のような生活に必要な企業の営    業は可能ですが、製造メーカーは産業省の許可のもと操業が可能で、商業関係は原則として在宅  勤務を行うというものです。 飲食店は店内での食事は禁止で、持ち帰り弁当の販売だけ可能となりました。 オートバイタクシーも人を乗せてはダメで、物だけの運送に限定されました。 乗用車は運転手を入れて三人までとなり、車内でもマスク着用が義務付けられました。 町のところどころにチェックポイントが設置され軍人、警察、セキュリティの人たちが違反者を監視するようになりました。 その規則の中に『60歳以上の者は在宅勤務とする』という項目がありました。  そのため私は15日(水)からアパートでテレ・ワークとなりました。 一方、新型コロナの騒ぎとは関係なく、チカランの朝方は青空が見えるようになってきました。 私はそれまでは雨が降っているとか、道が濡れているとか、雨が降りそうだという理由をつけてさぼ っていたアパートの周りの住宅地を巡る朝散歩を在宅勤務を機に再開しました。 アパートを出て最初の住宅地を通りすぎるときにその守衛所を見てびっくりしました。 そこには新型コロナへの注意喚起の看板があり、DESINFECTACT    と書かれた消毒ブースが設置されていたのです。 私はそこの守衛さんに中に入って散歩できますかと聞くと、ダメですとの回答でした。外来者は中に入れず、商品のデリバリーも守衛所で引き渡しをするとのことでした。 そして、その最初の住宅地を通りすぎ、広い敷地を歩いて回れる別の住宅地にたどり着くと、そこに    も消毒ブースがありました。守衛さんが住宅地の中に入れてくれるか心配でしたが、前に散歩していた私を覚えていてくれたのか私が挨拶すると彼らも笑顔で挨拶を返してくれました。私が消毒ブースを通らなければならないのと聞くと、どうぞといった感じでブースの中に入るように言いました。 ブースの中に入ると内側に垂れ下がるホースについている小さなノズルから消毒液が霧のように少し噴き出してきました。その中で体を一回転させて消毒液の霧を浴びるのです。   そしてブースを出てから住宅地の中を何カ月ぶりかで歩いて回りました。 コロナ禍でも植物たちは雨季の間にたっぷりと水分補給したのか葉は緑色で、白いや赤やピンクの    花を咲かせていました。 朝散歩初日は久しぶりに2時間歩き足の筋肉は問題なかったのですがちょっと息切れがしました。そして、二、三日目も同じ住宅地を散歩すると息切れは少なくなりましたが、ふくらはぎが張ってき    ました。それで四日目の散歩は中止しました。長い目で体調管理に努めます。 休んだ翌日は思い切って自動車道路を挟みチカランで最初にできた広い住宅地まで足をのばしました。ここには他の住宅地を三つ足したくらいの敷地があるのです。 その広い住宅地の入り口の守衛所も同じような垂れ幕が掲げてありました。 ここの守衛さんもインドネシア人特有の愛想のよさでニコニコ笑って私を通してくれました。 散歩をするときは熱中症にならないように水の入ったペットボトルを腰のホルダーに差して歩きます。 アパートから持ち出したペットボトルの水を散歩の途中で飲み干してしまう場合は、散歩途中にある     コンビニ(ローソン)で新しいペットボトルを買います。 ある日にコンビニでペットボトルを買おうとするとカウンターにインドネシアの漢方であるジャムゥ(Jamu)の入った箱が目につきました。 インドネシアでは新型コロナにジャムゥが効くとも言われています。私は何に効くジャムウだろうと箱から一個取り上げると‘Tolak Angin、Obat untuk Masuk Angin’と書いてあり、それは風邪の予防用でした。私は物は試しと思い三種類を一袋づつ買いました。ひと袋5,000 ルピア(35 円)でした。 ネットで調べると日本のアマゾンでも販売していました。 みなさんも通販で『Tolak Angin』を購入してインドネシアのジャムゥを試してみませんか?     丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(2)  湯の町グチの巻

湯の町グチの巻 (2017年9月記) インドネシアは日本と同じように火山が多くあり、温泉地が何カ所もある国です。 有名な温泉地はバンドン郊外のチアトルですが、中部ジャワにもグチという山あいの温泉地があるのです。 ジャカルタから高速道路で東へ300km行くとジャワ島の北の海岸沿いにチレボンという町があります。チレボンは西部ジャワ州の東の端といった感じです。そこからさらに高速道路で東に80km行くと中部ジャワ州になり、テガルという町があり、そこは砂糖やジャスミン茶の生産地で有名です。 またテガルの料理はほかの都市でワルテグ(Warung Tegal=Warteg)と呼ばれ、屋台(Warung)や小さな食堂で提供されており、西スマトラのパダン料理とともに有名です。 そのテガルに初めて機械を納入し、その据付に社員三名が二泊3日で出張しました。 私もお客様への挨拶のため最終日の金曜日にテガルに向かいました。 と、いうのはテガルに設備の納入が決まったとき、社員からテガルに近いところにグチという温泉地があることを聞いたからです。金曜日の夜を温泉に入って過ごそうと計画していたのです。 なお、グチの近くにはジャワ島で二番目に高い山のスラメト山(標高3,428m)があります。 無事に機械の納入が終わり、社員たちとともに車二台でテガルの町を出発しました。 田舎道を走り山道に入りました。窓を開けると空気が涼しくなってきました。 手入れされた棚田や段々畑がところどころに見えてきました。 山の中腹にはグチ地区へ入るための料金所があり、一人5,000ルピア(約40円)を払いました。 そしてまた曲がりくねった山道を登り、少し降りて民宿風のホテルにチェックインしました。 スマホのアプリで標高を調べると1,095mとありました。 私たちは部屋からバスタオルを持ち出して車で温泉場に向かいました。 ホテルからの山道を降り、さらに奥に入り、坂を上り、そして降りると狭い谷川が流れていました。 その谷川の橋から上流を眺めると左手の山側で人々が水に浸かっているのが目に入ってきました。駐車場が先にあるというのでその橋を通り過ぎると、狭い坂道の両側に小さなお土産屋さんが立ち並び、軒にかけてある商品に車が触れるかのように上りきると、そこには広い駐車場がありました。車を置いて、谷川に向かって歩いて行きました。 温泉に行くと言うのに、私は着替えを全く持たずに参加していましたので、お土産屋さんに立ち寄り水泳パンツとサンダルとグチの名前入りのTシャツを買いました。 谷川の温泉場に着くと着替えを預ける小屋が二か所ありましたが、私たちはそこに預けず、そのまま湯が流れているところに向かい、湯がかからないところで着替えて、脱いだものをまとめて置きました。谷川の温泉は日本の施設と比べると質素というか貧弱なものでした。 数本のホースを山肌に差して湯を落とし、コンクリートの仕切りで囲っただけなのです。 足場はヌルヌルとしていて、滑りやすく気を付けなくてはなりません。 私は転ぶのが怖くて、コンクリートに手をついてそれを乗り越えゆっくりと温泉に入って行きました。 温泉と言ってもそんなに熱くはなかったのです。でも少し多目の湯が落ちてくるところで、修験者のように滝を頭から受けたり、最近凝っている肩に打たせ湯をしたりしました。 湯から上がると、現地社員がバスタブに浸かれるところがありますよというので、人で込み合っている谷川温泉よりもゆっくりできるだろうと思い、そこに行ってみることにしました。 その建物は入口の両側に個室が5室ずつあり、各部屋の中にはバスタブだけがあり、湯が蛇口のないパイプから直接バスタブに注ぎこまれていました。入浴料は3,500ルピア(約30円)でした。 谷川温泉と違い湯温は40度ほどあり十分に体を温めることのできるところでした。 私はこのバスタブ温泉が気に入ったので明日の朝また来ようと皆に伝えました。 バスタブ温泉から上がり外に出ると、もう暗くなっていました。 そしてホテルに引き上げ、食堂で社員から今回一緒にきていない社員の噂話を聞いたりしながら、ゆっくりと食事をした後、それぞれの部屋に引き上げました。ビールはありませんでした。 夜は冷えたので布団のような分厚い毛布にくるまって寝ました。運転手のひとりは寒くて三時まで寝られなかったそうです。翌朝は7時に皆で朝食を取り、8時に温泉に再び出かけました。 途中にある駐車場を通ろうとするとすでにお店を開いているお土産物屋さんでジャムー(ハーブ薬)を籠にいれて売っているおばさんがいました。 私はおばさん近づきKunyit Asam(ウコン)はありますかと聞くと、おばさんはあるよと言って何本もボトルが入った籠の中から一つを取りだし、コップを布で拭き、それに黄色い液を注いでくれました。 私がそれを飲み干すと、おばさんは次にJahei(ショウガ)のハーブ薬を飲めと私に勧め、それを飲み干すと、今度はお米で作ったハーブ薬を勧めてきました。私はそれも飲み干しました。 私は新しいボトルに入ったウコンのハーブ薬を一本買いました。賞味期限は三日間とのことでした。 買ったジャムーを駐車場に停めてある車の中に置いて、バスタブ温泉でなく谷川温泉に行きました。と、いうのは運転手のひとりが、前日は体の調子が悪く、谷川温泉に入っておらず、朝になると調子が良くなったので是非とも谷川温泉に浸かりたいと言いだしたのです。 それで朝の明るい光の中で写真を撮りたかった私も谷川温泉に向かったのです。 結局、谷川温泉に少し浸かり、写真を撮ってから、日本人駐在員と二人でバスタブ温泉に行きました。入口で入浴料を払おうとすると土曜日でしたので入浴料が5,000ルピア(40円)と昨日より1,500ルピア高い休日料金になっていました。 バスタブには10分ほどずつ二度浸かり、満足して、駐車場に引き上げました。 駐車場には温泉に入らずお土産を買い込んで大きな袋を下げた社員二名と出会いました。 社員からここではウサギのサテがおいしいですよ、と聞いたのでそれを皆で食べることにしました。 ウサギは子供の頃に学校や家で飼ったことはありますが、食べたことはありません。 駐車場の横のお店に入り、ゴザの上に胡坐をかいて、ウサギ肉のサテを頼み、出来上がるまではテガル名産のお茶を飲みました。しばらくすると、サテが出来上がってきましたが、鶏肉のサテと姿形は一緒です。これがウサギの肉ですと言われてもその味の違いがよくわかりませんでした。 サテを食べてからホテルに戻り、帰り仕度をし、11時ころにホテルを出発しました。 前日に来たときは霧がかかっていて、はっきりとは風景が見えませんでしたが、帰りはすっかり晴れていたので高原野菜のキャベツ畑や、手入れされた段々畑、棚田がよく見えました。 山を下りてテガルの町に入ると、ベチャやオートバイトラックがたくさん街角を走っていました。 テガルから高速道路に入る前に、町で社員たちが名産のアヒルの茹で卵、焼き卵を大量に買いました。アヒルの茹で卵はチカランでも売っているのですが、焼き卵はテガルにしかないとのことでした。私はジャスミン茶(Melati)を買いました。中国風に急須に一袋ずつ入れて飲むタイプです。 お茶のブランド名のポチ(POCI)は急須(土瓶)のことです。急須はテコ(TEKO)とも言います。 買い物を終え、高速道路に入りチカランまでノンストップで走りました。その高速道路から眺める田園風景を見るとインドネシアは広大で肥沃な土地が多くあることを実感させられるものでした。 (おまけ)グチの温泉場の駐車場で宝石の指輪を箱に入れて売り歩く人たちがいました。 良く見かける猫目石とか、アフリカの石などを並べて執拗に寄ってくる人たちです。 私は興味がないよとはねつけていたのですが、水気のある指でこすると赤く発光する石を見せられました。私はびっくりして、それは何という石かと売り子に聞くと化石の一種だというのです。 私       : いくらするの? 売り子   : 150,000ルピア(約1,300円) 私        : 高すぎるよ。 売り子   : いくらなら買うのか 私        : 80,000ルピア(約700円) 売り子はそれはできないと言って一旦はその場を離れていきました。きっとその不思議な石を欲しそうにしている私が呼び止めると思ったのでしょう。でも、私はアジアでのこうゆう場面の買い物の駆け引きを心得ています。欲しくてもすぐに追いかけてはいけないのです。 私は心の中では100,000ルピア(約850円)なら買ってもいいと思っていました。 一旦離れて行った宝石売りは、やはり、すぐに戻ってきました。 そして100,000ルピアでどうかと値段を下げてきましたので、私は思わず財布を取り出して買ってしまいました。 そして、チカランのマンションに戻ってから、早速、水の入ったコップにその指輪を入れるとなんと本当にピカッと光り続けているのです。 私はスマホで映像を撮り、妻にこんな石を買ったけどみたことがありますかとラインで送りました。 妻が「見たことがない、面白いですね。なんという宝石ですか?」と聞いてきました。 私はネットで調べても赤く光る石のことが載っていなかったので、夜遅くに日本にいる博学の先輩にラインで同じ映像を送り、これは何という石ですか教えてくださいと書き送りました。 翌朝、早くその先輩から返事がありました。 「これは中にLEDが入っていて水に入れると短絡して光ります。日本では氷の形状をしたものがヒットしています。ワィンとかカクテル等に入れて光らせています。」とのことでした。 私は「LEDですと寿命がありますね」と返信すると、「そうですLEDは大丈夫ですが、寿命は電池で決まります。」との返事でした。 妻にその説明をラインで送ると「信じ易い人ですね~。払ったお金は勉強代でしたね(笑)」と返事がありました。実はその光る石の不思議さに驚き、私は二個も買ってしまっていたのです。 そして私はグチの駐車場でその石を私が買う時に社員たちが平然としていた理由に納得しました。 はやく悔しさを忘れて、インドネシアの温泉地を探してあちこちの湯に浸かってみたいと思います。 左の図は地震の発生場所です。地震と火山は関係がありますよね?地震は地球の海側のプレートが陸側のプレートに潜り込み、その先端がゆがむことによって発生すると言われます。 日本と同じようにインドネシアもインド・オーストラリアプレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートに囲まれた地震国なのです。 かつて私が駐在したシンガポール、バンコク、インド(西部、南部)は地震がほとんどないことが左の図でもわかります。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(4)  巨大都市開発メイカルタの巻

メイカルタの巻 (2017年9月記) テレビの前のみなさん、こんにちは、報道特集『火を吹く小ドラゴンたち』の時間です。 この番組では活気あふれるアジアの国々の発展の模様を個別のプロジェクトを通して検証して行こうとする番組です。 第一回目の中国のレンタル自転車市場、二回目のシンガポールの観光事情に続き、今回はインドネシアから大型都市開発をお伝えします。 中国は日本を抜いてGDPで世界第二位の国となり、援助される国から援助する国へと大きく変貌しました。また、シンガポールは何も資源のない島国から、今では一人当たりのGDPが日本を追い抜きました。 かつて発展途上国といわれていたアジアの国々が日本を追い越し、あるいは間もなく追いつこうとしているその裏側には、その国々に合った政府の対策、民間の努力があると思います。 インドネシアもかつては石油、ガスの輸出により貿易が成り立っていましたが、現在ではそのころとは様変わりです。今ではOPECのメンバーではなく、石油ガス以外の輸出により貿易黒字を計上するまでになりました。 今回は首都ジャカルタから離れたチカランという町で建設中の巨大都市に焦点を当ててみました。 かつてアジアの国ぐには日本を先頭にして発展していく雁行経済と呼ばれたことがあります。 しかし、今では失われた20年の日本よりも、世界の大国となった中国がアジアの国々に大きな影響を与えています。それで、この番組では一帯一路という名目で経済圏構想を打ち出した中国を竜の親と見立て、アジアの国々をその影響を受けている小さな竜に見立たてて実情を報告していくものです。 では早速現地からの報告をごらんください。 MG5テレビのジャカルタ支局の草刈正雄です。 私は今、建設用クレーンが数多く立ち並んでいる工事現場に来ています。 ここはジャカルタから高速道路に乗って東に40kmほど走ったチカランという田舎です。 このあたりには日本の商社が中心になり開発したいくつかの工業団地があり、インドネシア産業に大きなウエートを占めている地域なのです。それらの工業団地にはトヨタ自動車をはじめとする日本、韓国、そして欧米の自動車メーカー、その下請け、そのほか電気、電子、機械、食品そして化粧品で有名なマンダム社などあらゆる企業が進出してきています。(あっ、いけないスポンサーは資生堂だった。) 工業団地で働く人たちは現地の人も、駐在員の方も一部はブカシやチカランに住んでおられますが、まだジャカルタから朝晩の混雑にも負けず二時間、三時間と時間をかけて通勤されています。 そんな中、ブカシ近辺の将来の発展、人口の増加を見越して巨大都市を目指して建設が始まったプロジェクトがあります。その巨大都市名はメイカルタといいます。 メイカルタはインドネシアで第7位の華人財閥であるリッポー・グループが開発主体です。 リッポー・グループは1929年にマランで生まれた華人のモフタル・リアディ氏が1948年にリッポーバンクを設立したのが始まりです。そして同氏はブアナバンク、パニンバンクで銀行家として名を上げていきました。1975年に当時インドネシアで最大の華人財閥であったサリム・グループ総帥のスドノ・サリム氏の誘いでバンク・セントラル・アジア、通称BCAの共同経営者となりました。 モフタル氏は1990年の円満退社まで頭取として腕をふるい、BCAをインドネシア最大の民間銀行に育て上げました。しかし、リッポーバンクは2009年のアジア通貨危機のあと他の銀行に合併されました。しかし、モフタル氏の息子世代がビジネスを引きついて事業を拡大させていきました。 長男のアンドリュー氏はシンガポールや香港で不動産事業を成長させ、次男のジェームス氏がグループの社長としてインドネシアを担当し、不動産事業を中心として、メディア、通信、小売、医療、教育など多くの事業に参入しています。 また、インドネシア最大の小売り店であるマタハリ・モールはリッポーが展開しています。 そのリッポーは1990年にチカランに最初の工業団地リッポーチカランを完成させ、1994年にはジャカルタの西のバンテン州タンゲランのカラワチに、さらに南スラウェシ、ボゴールなどへと開発の足をのばしまして行きました。2007年には韓国に進出、さらに香港にもリッポーセンターという超高層ビルを所有しています。 そしてチカランでは工業団地ばかりでなく、牧場、ホテル、娯楽、ショッピング。モールなど様々な事業を展開しています。そしてついに二年前の2015年に、ここチカランに東南アジア最大で、かつ美しい、理想の都市の実現を目指してメイカルタを建設することを発表したのです。 なお、メイカルタのメイは創始者のモルタル氏の奥様の名前から名付けられたと聞いて言います。 このメイカルタの工事現場は私が赴任してきた昨年の11月は、まだのどかな田圃風景で、水田が広がり、なだらかな斜面では牛たちが草を食べていたところでした。 それが今年の5月ころからタンクローリーにコンクリートを積む設備が急にでき上がり、一般道路路の両側にメイカルタの完成図の写真を大きく張り付けた派手な塀に囲まれていきました。 そしてこの工事現場にはMという文字の入った大きなバルーンが所狭しと無数に上がっているのです。今回、私はその工事現場に入ることができました、できましたというより、工事中にも拘わらず、一部完成した場所には一般の人も自由に出入りすることができるのです。 リッポーグループが今年5月に発表したこの巨大都市の構想は次のとおりです。 今から20年以内にブカシ、カラワンなどジャカルタの東部首都圏の人口が2千万人規模となる。そうなると過密都市ジャカルタでは渋滞、住居不足に陥るのでその解決策としてチカランに最終的には投資総額278兆ルピア、約2.3兆円の大規模なニュータウンを建設する。その第一段階として3年の計画で200万人が住むための40万戸の住居の建築を始める。さらに長期的には40兆ルピア、約3.3千億円を投資して国際空港を、23兆ルピア、約2千億円d絵モノレールを建設するとしています。この8月末現在でまだ建設中の住宅が13万戸予約済となったとの発表がありました。 この巨大都市の面積は最終的に5、000Ha、東京ドーム約1000個分ともいわれますが、現場の事務所で確認したところ、三菱商事が当初計画していたオレンジ・カウンティという商業施設とその周辺の土地500Haが第一期の開発面積のようです。 それにしても工事現場の広さと建設機器の多さには圧倒されます。 私は今、番組の冒頭で紹介した現場から車で10分ほど離れた小高い丘の上に登ってきました。 ここから眺めると、辺り一体にすべてMの文字の入ったバルーンが浮き上がり、まるでおとぎの国のキノコにかこまれているような錯覚におちいります。 そして、ここでも工事現場には数多くの建設クレーンが立ち並び、忙しくタンクローリーが行きかい、作業者が立ち働き、工事現場を囲った塀にある数か所の入り口では守衛さんローリーが早く出入りできるように一般道路の車の通行の整理をしています。 このメイカルタには商業、住宅、文教地区だけでなく、東京ドームの約40倍もの広さをもつ広大な公園がつくられる予定で、その予定地にはすでに大きな池が出来上がっているのです。 では、その公園に行ってみましょう。はい、ここがその大きな池のある広い公園です。 この池の周りには、ごらんのようにすでに大きな木々やきれいな草花が植えられて、一般の人々が散策を楽しんでいます。とても日本の建設現場では考えられない風景です。 この公園には休日には朝から家族連れの人々散歩を楽しみ、平日の夕方には池の回りのベンチで夕涼みをしたりしている風景が見られます。また、そんな人々を当て込んで、食べものを売る車も来ています。 私が工事現場を取材中していた時に、東南アジア各国に長く駐在したことがあるという年配の日本人の方に出合いました。その人の話では、このような大規模な工事現場はかつて見たことがない、あえていうならば1970年代のシンガポールのジュロンの工業団地の建設現場を思い出す程度であるとのことでした。 ここでの工事は昼間ばかりでなく夜を通して行われています。私は夜の工事現場にも行ってみました。そこでは暗い空に建設クレーンのアームにいくつかの灯りが点き美しい光景を写しだしていました。日本ではかつて工場夜景クルーズとい工業地帯の工場エリアの夜景を船上から見学するツアーがありましたが、メイカルタの夜景もそれに勝るとも劣らないくらいの迫力があります。 私にはまるで夜の造船所かコンテナヤードのような風景にみえました。中には灯りが点いたまま動いているクレーンや、土を運ぶトラックが出入りしているところもありました。 また、昼間に訪れたた公園に行ってみると、そこにはベンチに座っているカップルたちがいました。 驚きました。インドネシアのある地域では夜9時を過ぎて歩いている男女は結婚しなければならないといった規則があると聞いています。ここチカランにはその規則が適用されているのでしょうか。 それでは最後になりましたが、リッポーが発表しているメイカルタの完成予想図をご紹介します。 (取材の合間に)私は空高く浮かぶバルーン見ていて、一体どれくらいの力で浮いているのか知りたく思い、バルーンに近づき固定している紐を引っ張ってみました。かなりの力で浮いています。数個をまとめれば私が宙に浮いてしまうような感じでした。取材のため使用した車の運転手も、公園内の写真を撮ったり私と風船で戯れたりしました。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(3)  インドネシアのお墓の巻

インドネシアのお墓の巻 (2017年8月記) ジャカルタから高速道路で東に向かうと日系商社各社が開発した工業団地群があります。 その中の一つの工業団地に隣接して大きな霊園が二つあります。 一つは中国人とキリスト教徒の霊園、もう一つはキリスト教徒とイスラム教徒の霊園です。 そして工業団地からは霊園の側に抜けるゲートがあり、いつもは閉まっているのですが、午後4時からはラッシュアワーを緩和するために解放されています。 ポチョン ある日、工業団地のお客様を訪問した後で、墓地に抜けるゲートを通って帰ろうとすると、そこには私設の通行税徴収者がお金を入れる缶を持ち、その側には白い布に身を包んだ人が立っていました。 私は運転手に聞きました。 私       : あの白い布を被った人は何ですか。 運転手 : ポチョンです。 私       : ポチョン? 運転手 : イスラム教では人が亡くなると、服を脱がされ、白い布で体をくるむのです。 頭の上の布を紐で結び、体と足は紐で縛ります。 私       : どうして裸なの? 運転手 : 人は生まれた時も裸で、死ぬ時も裸だからです。 私        : イスラム教もキリスト教と同じで、死んでもいつか神様が助けに来るんだよね、 運転手 : そうです。 私       : その時に、裸ではカッコ悪いんじゃないの。神様が服や靴を買ってくれるの? 運転手  : ..... その時はそんな会話をしただけでしたが、私はそれらの霊園に行って見たくなりました。 ある土曜日にその工業団地での客先との打合せが午前中で終わったので、私は運転手にこの前見た霊園の横を通ろうといいました。すると、運転手は霊園の中に入れますよというのです。それで霊園をゆっくりと見学することにしました。まずは中国人とキリスト教徒の霊園です。 私       : 昔の中国の葬式ではお金をお墓に埋めたりしたんだよ。 運転手 : そうです、だから昔は中国人のお墓がお金目当てで荒らされたことがあります。 イスラム教では死人は頭を北に、足を南に向けて置く姿勢をとります。 そして、右の頬を地面に付けるのです。 私        : 頬を地面って、棺桶に入れるんじゃないの? 運転手 : イスラムでは棺桶はありません。 私        : 頭が北で右頬を地面に付けるってことは、西を向くってことだね。 それはメッカの方角だからなの? 運転手  : そうです。イスラム教の中心はメッカなのです。 私        : じゃあ、メッカの西にあるアフリカの人は左頬を地面に付けることになるね。 運転手 : (自身なさげに)そうです。 私        : じゃあ、ロシアのイスラム教徒はどうするの?頭は西の方角それとも東の方角? 運転手 :.... 私たちは車を降りて広場のような墓地を歩きました。私はスマホを取り出してコンパスのアプリで方角を確認すると、確かにイスラム教のお墓は長手方向が南北になっていました。 私        : あれっ、この人は1985年に亡くなったと書いてあるよ。 でも、その頃に、ここの墓地はなかったんじゃない。 運転手  : 昔は人が死ぬと家の近くに埋めました。引っ越しするときはそこを掘り起こして土を持っ て新しい土地に行って埋めました。きっと、これもそうしたのでしょう。 私        :でも、死んだ人を棺桶に入れないで土に埋めると、息苦しいよね。 運転手 :(私の冗談を無視して)イスラム教はそのまま土をかぶせますから、お墓が低いのです。 私        : ヘェー、 運転手 : 見てください、イスラム教のお墓が同じ向きに並んでいるでしょう。 あちらのキリスト教のお墓は向きがバラバラです。 私        : なるほと。 運転手 : あっ、この人は大金持ちのひとです。 私        : なぜわかるの。 運転手 : この人の家族の名前が有名なお金持ちの一族だからです。 私は彼からこのほかにイスラム教では亡くなると一週間は家族がみそぎをすること、40日間はお祈りしたりすること、イスラム教でも死ねばそれきりと言った宗派があることを聞いたりしました。 また、お墓に花を蒔いてその花が萎れるまではなんとかであると聞いたのですが、忘れました。 2.中国式のお墓 華僑のお墓は中国式とキリスト教式の二種類があります。中国式の墓碑は中国語だけでなく、英語、インドネシア語で書いてあったり、ミックスして書いてあるものがあります。 どの墓石にも漢字で「金玉満堂」の表現がありました。 その意味が分からなかったのでアパートに帰ってから調べると「きんぎょくまんどう」と読み、「財産が蔵にたくさん集まるように」という願い事でした。 ちなみに、中国人のお店でよく見る逆さの「福」の字は、中国語で「福倒了」(福が逆さ)と言い、その発音が「福到了」(福来たる)と同じとなり、これまた「福が来ますように」というシャレになっているそうです。 他にも「母徳如山重」、「親恩以海深」、「子孫前世澤」「孫可継家聲」とか感謝の言葉や願い事がたくさん書いてありました。 また、日本のお墓でも夫婦が同じ墓石に名前を入れる場合、亡くなっていない方は朱色としますが、それと同じものもありました。 華僑のキリスト教式墓地では、聖書の一説が漢字とインドネシア語書いてある石碑が多くありました。イスラム教の墓石は生年月日と没年月日そして出身地と亡くなった土地だけでしたが、華僑の墓石にはそのほかに子や、孫、外孫まで掘ってあるものもありました。 余談: 寝仏 お釈迦様が涅槃に入る時の姿を仏像にしたものが寝仏像です。 その眠る姿勢は右胸を下にするでしょうか、左胸を下にするのでしょうか? 私の知っているタイの寝仏はほとんどが右胸を下にしていました。 ですから、お釈迦様は心臓が悪かったので左胸を上にして、血液を体に回りやすくしているのだと私は皆に冗談で説明していました。 丹羽慎吾