シンゴ旅日記ジャカルタ編(20)  日帰り旅行 その1 ボゴール植物園の巻

日帰り旅行 その1 ボゴール植物園の巻 インドネシアの草花が見たくなり、ある日曜日にボゴール植物園(クブン・ラヤ)に行きました。 しかし、そこは樹木が主体でしたので、期待したように沢山の草花を見ることができませんでした。 (ウィキペディアからの抜粋) ボゴール植物園はクブン・ラヤ(大植物園)といって、世界でも有数の大きな植物園です。植物園の面積は80ha以上あり、15,000種以上の植物を見ることができます。オランダの統治時代にボゴールはオランダ人居留地として発展しました。そして、ボコール植物園も元々は蘭印総督府の庭園だったのです。その後、一時的にジャワ島の支配が英国に移った1812-1816年に、ボロブドール遺跡を発見したり、巨大な花のラフレシアの発見で知られる英国人のラッフルズ(1781年~1826年、シンガポールの創設者)がボゴールに居住し、庭園も改造してイギリス風庭園としたのです。そして、英国の撤退後にオランダの所管に戻った1817年に正式に植物園として開園しました。この植物園はオランダの植民地経営がもたらしたアジアにおける輸出産品・育種研究の歴史的遺産の一つであり、タバコ、コーヒー、キャッサバ芋等の普及はボゴール植物園なくしては語れないとまで言われています。この他にも天然ゴムや茶,コーヒー,コショウ,サトウキビ,綿花,オイル・パームなどはこの植民地戦略に基づいて世界各地で栽培されるまでになったのです。日本の統治下では、植物園と標本館ともに、植物学者の中井猛之進が園長に就任し、日本軍隊からの大木の伐採要請を拒否して園を守ったとされています。 私と運転手さんは朝の7時にチカランを出発しました。 ボコールへの高速道路は混んでいなくて、9時前にボゴールの町に入りました。 歩道にはトレーニングウェアーを着た大勢の人たちが歩いていました。 運転手さんが休みの日はウォーキングが盛んであると説明してくれました。 朝食を食べて居たかったので運転手さんと植物園の近くのKFCに入って腹ごしらえをしました。 店内は多くの人たちで混雑していました。 インドネシアもファーストフードのお店が人々の生活に溶け込んできたのでしょうね。 その後植物園に行きました。入場料は一人16,000ルピア(約130円)でしたが、赤十字財団の寄付みたいなものを1,000ルピア(約80円)追加されました。 入場するとすぐに園内の案内板があり、それを見てどちらから回ろうかと運転手さんと相談しました。園内はあまりに広いでの一日では回り切れないだろうから、右回りに外側を歩いて行くことにしました。まず最初に歩いたところは道路の両脇がヤシの木ばかりのところでした。 そして歩けども歩けども大きな樹木ばかりでした。 私は歩きながら運転手さんに本で仕入れた植物のにわか知識を披露して行きました。 園内にはシードバンクの棟もありましたが、そこは閉まっていましたので、外側から窓を通して中を眺めると、いろいろな植物のタネが展示してありました。 また売店があり、お土産品として食虫植物のウツボカズラやハエトリクサも販売されていました。 私は運転手さんにこのように昆虫を食べる植物があるんだよと説明すると彼はびっくりし、ウツボカズラの中を覗いて虫がいるのを見てこれまた驚いた表情をしていました。 園内をどんどん歩いて行くと、高い木々ばかりに出合いました。 あるところでは太い、大きな木が二本並び、空に向かって高くそびえて立っていました。 私が商社の木材部時代にインドネシアから輸出したメランティ(フタバガキ科)の大木でした。 板根とは 樹木の地表近くからの側根の上部が平板状に著しく偏心肥大し樹木の支持や通気の働きをする根のこと。熱帯雨林の高木やマンぐろーず植物に多い 園内を右回りにどんどん歩いて行くと守衛さんが立っている門がありました。 そこは大統領の住むボゴール宮殿でした。デヴィ夫人も住んだところなのでしょうね。 ボゴール宮殿の建物は、1834年のサラック山の大噴火の後に再建されたもので、歴代のオランダ総督とイギリス総督一人 (ラッフルズ) そして戦中のジャワ島司令官だった今村中将が住んだ歴史があるそうです。   初代園長ラインヴァルト(1773年~1854年) ドイツ生れ、アムステルダムで植物、化学を学ぶ。 インドネシアがオランダの所管に戻った1817年にボゴールに着任。ジャワ人が家庭や医術で使用する植生の収集に乗り出した。農業と園芸におけるプロモーションを目的に、整備が進んだ。 在任中の1822年までに、約900種を47haの敷地に栽植・整備した。(ウィキペディアから抜粋) 日曜日でしたので植物園のあちこちでは家族連れ、会社のグループ、友達同士たちがあちこちに座り、食事をしたり、中にはカラオケをしているグループもありました。 私たちは9時前に入園し三時間以上歩き通しでしたので、ちょっと疲れ、お腹も空いてきました。 私は運転手さんにまだお昼だし、もっとお花が多い公園が近くにないか調べてもらいました。 すると、スマホで調べていた運転手さんがありますと答えましたので、そこへ向かうことにしました。 Callicrpa Jopanica クマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木。湿り気の多いところを好む 6月ころに淡い紫色の花を咲かせるが晩秋まで残る美しい紫色の実の方が印象的である。花の名は源氏物語の紫式部に由来する。 KFCの駐車場まで戻り、そこから花の多い公園をめざしました。 途中でスンダ料理のお店で食事をとりました。 食後に高速で花の多い公園を目指して高速道路を走っていると、渋滞に出合いました。 車がちっとも進まないので、その花の多い公園には次の日曜日に出かけることにして、その日の旅行は切り上げてチカランに戻りました。 大航海時代とモルッカ諸島(香料諸島) 15世紀初めからポルトガル、スペインによる大航海時代が始まりました。 そしてそれにオランダや英国などが加わりました。 大航海時代が始まった理由はインドネシアのモルッカ諸島で獲れる香辛料(ナツメグ、クローブなど)を獲得することであったと言っても過言ではないと思います。 香辛料は当時の西洋諸国において高価な商品だったのです。 それまでの地中海経由、イスラム商人経由でなくヨーロッパ諸国がインドネシアを目指したのです。 日本に初めてキリスト教をもたらしたイエスズ会のザビエルもポルトガルの商人、軍隊など一緒にアジアに来ました。 ザビエルはモルッカ諸島にも布教に出かけ、そしてマレーシアのマラッカで日本人のヤジローに出会い、日本に興味を持ち来日したのです。 一方、スペインは西回りで香料を入手できると思い、南北アメリカ大陸に向かいました。 歴史って面白いですね。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(19)  日帰り温泉地チアテルの巻の巻

日帰り温泉地チアテルの巻 (2017年10月記) 温泉と言ってもインドネシアの温泉と日本の温泉のイメージは異なります。 日本では温泉とは海や山にある大きなお風呂や露天風呂に裸でゆったりと浸かってリラックスするものです。そして美味しい地元の料理を食べたりします。インドネシアはそうではないのです。 私の今回を含めて二度目のインドネシアの温泉での経験からすると、こちらでいう温泉は山あいの小川に温かい水が流れ、そこで足湯、腰湯をするものです。そして、温泉地には家族、友人と行き持参した料理を一緒に食べるというピクニック気分だとだと思います。 私は先月末に中部ジャワのグチの温泉地に行ってから、インドネシアの温泉地に興味を持ち、きっと他には日本のように肩まで熱い湯に浸れるところがあるのではないかと期待しました。 それで会社で部下たちにジャカルタ、チカランの近郊にそんな温泉地がないか尋ねました。 そして勧められたのがバンドン近郊のチアテルでした。 ある日曜日に日本人部下と出張者とでそのチアテルに出かけることにしました。 チアテルに行ったことのある私の運転手さんが道案内を兼ねていました。 チアテルはジャカルタからは150km、私の住むチカランからは110kmの所にあります。 ネットでチアテルの写真を見ると、立派なホテル施設あり、サバイバル遊園地あり、そして美女たちが川の周りでポーズを取っている写真が紹介されており、私は期待に胸を弾ませるばかりでした。 朝8時にチカランを出発しました。 一緒に行った二人は私がタイ、インドに駐在時に機械の製作や据付で来てくれた気の置けない若い仲間でした。チアテルに向かう車中では一緒に仕事をしたころの楽しかった思い出や、ほかの仲間の失敗談などで語り合っていきました。 チアテルはバンドンの北35kmの所にあります。 バンドンへはチカランから高速道路に入り、途中の分疑点で右(南)に向かうのですが、我々はそこを曲がらず、そのまま真っ直ぐに東に進み、スバンで高速道路を下りて田舎道に入りました。 スバンの町並みを過ぎて田舎道に入ると道路脇ではパイナップルを売る小屋が立ち並んでいました。それを過ぎるとお茶畑が続く丘陵地帯でした。 あとで知ったのですがチアテルはタンクバン・パラフ(ひっくり返された船)という標高2,076mの火山の麓に位置する温泉地なのです。 この山の由来にはインドネシア人が誰でも知っていると言う有名な昔話があります。すみません、それを知りたい方はネットで『インドネシアの民話「サンクリアン」(Sangkuriang:タンクバンプラフの起源)』で検索してみてください。ギリシャ神話かディズニー映画にも出て来るような昔話なのです。 私たちは10時半に目的地のチアテルに到着しました。車で通過するゲートでひとり32,000ルピア(270円)、車30,000ルピア(250円)の入園料を払いました。 .私たちは土産物屋さんが回りに並ぶ駐車場に車を止め、車を降りて運転手さんと一緒に遊園地に向かいました。 入口近くではガメランの生演奏とラーマヤーナに出て来る人形の歓迎を受けました。チアテルの温泉地に来たことがある運転手さんの案内で園内を歩いて行くと、ここも山から流れている熱い湯の谷川を利用した温泉地であることがわかりました。 最初にあったのが足湯でした。リュックを背負ったまま湯に足をつけるとかなり熱いお湯でした。 そして足湯を終えて、谷川に沿って坂を下っていきました。 するとネットで見た広い池があり、多くの人々が腰湯をしていました。 しかしネットの画像に写っていたような若く美しい女性たちはいませんでした。 そこで湯に浸かるのかなと思っていたら、運転手さんがまだ先がありますと言って、私たちをその先に案内してくれました。 すると、人々が浸かっていた池から流れる水が滝となり、狭い谷を流れ、その両側が休憩所になっているところに出ました。その休憩所では家族連れがピクニックよろしく食事をしていたり、上半身裸で横になって気持ちよさそうにマッサージを受けている人たちもいました。 私たちはその休憩所を一周して池に戻り、近くの更衣室の入口で2,000ルピア(17円)を払って水着に着替えてから、池に向かいリュックなどの荷物を運転手さんに預け、池の中に入っていきました。池の底は丸い石が敷き詰められていてまるで川原をはだしで歩くようで、歩きにくいものでした。 それでも、慎重に前に進み、ちょっとした滝に打たれたり、三人で腰を下ろして湯に浸かりました。 私は体全体で湯に浸かりたいと思い、倒した体を後ろ手で支えようとしたら片足が上がってしまいました。その姿勢からシンクロナイズド・スイミングみたいに両足を水面に出したポーズとなりました。 それで、他の二人にも同じようなポーズを取るように言うと二人は恥ずかしがっていましたが意を決して私の真似をしました。それを荷物の番をしていた運転手さんが写真に撮ってくれました。 池から上がり、次にはいくつもの大きな急須から流れ落ちる湯を頭から浴びるところに行きました。 そこで三人で頭から湯を浴び、急須の出口を手でふさぐと他の出口の湯の流れがどうなるかなどして遊びこれで温泉も終りかなと思っていたら、運転手さんがまだ別の温泉があると言って、今度は下りて来た坂道と別の道を登って行きました。 すると湯けむりを立てて流れ落ちる滝が見えるところに出ました。 写真に撮っても湯けむりか水煙がわからないだろうねと言いながら記念撮影を取りました。 滝の場所から少し登って行くと、洋弓射撃場、カラーボールを使った戦争ゲーム場、そして薬草の足湯かと思ったら魚が古い皮膚を食べてくれるスキンケア―の池がありました。 そして歩いていると運転手さんがここにはプールもありますと言うので、私たちはそこに行くことにしました。運転手さんはプールの外でコーヒーを飲んで待つといいました。 プールの入場料はひとり45,000ルピア(380円)でした。プールは広く、深さによって二つに仕切られていました。十分に熱かったので泳ぐことよりも、ゆっくりと浸かることにしました。 ちょっと湯の中に潜ると少し塩分が混じっているのか目を開けると刺激がありました。 水中眼鏡(古い表現ですねえ)を持ってこなかったのを後悔しました。 プールから上がると12時近くになっていました。待ち合わせした運転手さんが、ここから5km先にタングバン・パラフと言う火山があると言って携帯で写真を見せてくれました。 私たちは折角ここに来たからとその火山に行くことにし、行く途中で食事をしようと言うことになりました。チアテルを出発し急な坂道に建っている食堂で鶏、ヤギ、ウサギのサテを食べました。 食事を終えて、さらに車で走り、火山の登り口に着くとゲートがあり入山料を支払うことになりました。 いくら支払うのかと運転手さんに聞くと、窓口の人が私たちにKITAS(滞在許可証)はあるかと聞いているというのです。 滞在許可証のあるかないかで入山料が違うのです。滞在許可証がある外国人の休日料金はインドネシア人と同じ3万ルピア(250円)で、それがないと30万ルピア(2,500円)とのことでした。 そして車は35,000ルピア(290円)支払う必要がありました。 平日料金はそれぞれ20,000ルピア(167円)、200,000ルピア(1,670円)でした。 それにしても10倍とはインドネシア観光局も考えねばなりませんね。 私はインドの観光地にも同様に外国人価格があったことを思い出しました。 ゲートを過ぎ山頂に向かう山道は急で、曲がりくねり、日本のように安全対策がとられていなので下りて来る車とすれ違う時はスリルのあるものでした。山頂では執拗な土産売りの人たちと楽しく会話し、ガイド代わりに火山の説明を聞き、景色を堪能してチカランに戻りました。 何年か前までは火口まで下りて行き、足湯などが出来たそうです。現在は火口を一周するコースも歩く場所が制限されています。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(18)  散歩しながら考える(ひこばえ)の巻

散歩しながら考えるの巻 ひこばえ (2019年10月記) 朝散歩で道路脇や家の庭先の花々や木々を眺めます。 植物はじっとしていて、動物のように動き回りませんが、したたかに生きています。 そのたくましく生きる力を「接ぎ木」や「挿し木」に見た時には驚きました。 さらに驚いたのは幹が根元や途中から切られても、残った幹から生えている枝とか葉を見た時です。元の幹の成長が止まってしまっても、それを乗り越えて生きて行こうとする若い枝や葉です。 それを見ると思わず「頑張れよ」と言いたくなってしまいます。 この幹を切られても生えてくる葉や枝のことを「蘖(ひこばえ)」ということを知りました。 大きな幹に対して若芽がまるで孫(ひこ)のようなので「孫生え」と名付けられたのです この「ひこばえ」は広葉樹によく見られる現象で、スギやマツなどの針葉樹ではあまりみられないようです。 このひこばえ(蘖)に昔から日本人は生命力の強さを感じ俳句にしています、 ひこばえは春から夏に掛けて見られるので春の季語になっています。 蘖や 涙に古き 涙はなし   中村草田男(1901年~1983年) 私がこの句に出会ったとき想像した場面は次のとおりです。 ある老人が幹を切られ朽ちかけた古い株に新しく生えてきたみずみずしいひこばえを見ました。 そして老人は思いました。 ああ、大木は切り取られてしまったが、新しい芽が出てきて生きようとしている。 まだ古い切株は死んだように見えても、その力を若い芽に与えようとしているのだ、若い芽に自分の知識や経験を与えようとしているのだ。 そして、若いひこばえは古い切株の代わりに生きて行こうと思っているのだ。 私もこの切株のように年を取ってしまったが、心の中ではひこばえのように生きる力があるのだ。 ああ、感動して思わず涙が流れ出てきてしまう。 ああ、この私の体は古い切株だが、今流れ出るこの私の涙は今の私だ、このひこばえのようだ。 「ひこばえ」でネットを検索していましたら、朝日新聞に重松清が「ひこばえ」という題名で小説を書いていました。2018年の6月1日にスタートして2019年9月30日に終了しました。 その小説の掲載前の作者紹介と作者の言葉は次のとおりです。 (作者紹介) 重松さんは1963年、岡山県生まれ。91年「ビフォア・ラン」でデビュー。 98年に本紙で連載した「エイジ」で翌年の山本周五郎賞を受賞しました。 01年に「ビタミンF」で直木賞。10年「十字架」で吉川英治文学賞。早稲田大学教授。 「ひこばえ」は父の死をテーマとした物語です。 弔いをめぐる様々な問題を通して、現代の家族の姿を見つめます。 (作者の言葉) 一昨年、父を亡くし、大学の教壇に立つようになって、自分は前の世代からなにを受け継ぎ、次の世代になにを手渡すのか、いわばリレーのバトンについて考えることが増えました。 新しいお話では、その問いを正面から、腰を据えて見つめるつもりです。 若い頃から父親と息子の物語を好んで書いてきた僕も、55歳。亡くなった親との付き合い方、すなわち、親をどう弔い、どう偲(しの)んでいくか……。 そんな問いも折り込みつつ、いまの歳でなければ書けないお話に挑みます。   なお、刈り取った稲の株から生えてくるひこばえを「ひつじ」と呼び穭、稲孫と書きます。 また、穭稲(ひつじいね)・穭生(ひつじばえ)ともいい、稲刈りのあと穭が茂った田を穭田(ひつじだ)といいます。俳句では秋の季語になります。 ひつぢ田に紅葉ちりかかる夕日哉   蕪村 「蕪村句集」 ひつぢ田の案山子もあちらこちらむき 蕪村 「夜半叟句集」 ひつぢ田や青みにうつる薄氷      一茶 「寛政句帖」   日本人の自然や季節を観察する鋭く優しい目、そしてそれを言葉や文字 に替えていく感性って素敵ですね。   丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(17)  散歩しながら考える(接ぎ木)の巻

散歩しながら考えるの巻 接ぎ木    (2019年9月記) 朝散歩で住宅地のお家の庭先の草花を眺めて歩きます。 ところどころに色の違う花の咲いたハイビスカスの植木や、すくっと伸びた幹の先に葉がトリミングされた植木がありました。 一本の木に複数の色を持つ花が咲くのだろうか? 綺麗にトリミングできる木があるのだろうか? それらの木々に近づいて枝をよーく見てみるとそれらは「接ぎ木」だったのです。 植物が子孫を増やしていくための生殖方法には有性生殖と無性生殖があります。 接ぎ木は無性生殖のうちの一つである栄養生殖なのです。 そして接ぎ木と言えば桜のソメイヨシノが有名です。 ソメイヨシノは江戸後期に伊豆諸島のオオシマザクラとエドヒガンとの交配で作られたクローンなのです。ソメイヨシノは江戸の染井村の植木職人たちによってつくられ、西行法師で有名な吉野と合わせて名付けられ、昭和の高度成長期に日本中にたくさん植えられました。 そのソメイヨシノは地域ごとで一斉に花を咲かせます。 それはソメイヨシノが接ぎ木や挿し木で増えていったからです。 接ぎ木の根のある下の部分を台木といい、切断してつなぐ上の部分を穂木(接ぎ穂)と言います。植物の根の上(台木)に目的の植物の枝(穂木)をつなぐため台木と穂木は近縁な方が定着しやすいのですが、実際には同種ではない組合せもよく使われます。うまくいけばつないだ部分で互いの組織が癒合し、一つの植物のような姿で成長します。接触させた位置より上は穂木から生長したものであり、それより下は台木の植物のものであり、遺伝的に異なっています。 ソメイヨシノは自家不和合性植物で同じ木の花のめしべとおしべでは受精しません。 違う木のソメイヨシノとは受精し種子はできるのですがクローンなので発芽できません。 他の桜の花とは受精しますが違う遺伝子を持つ桜になってしまいます。 ですから接ぎ木でできたソメイヨシノはすべてが同じ遺伝子を持っているので地域ごとに同時に花を咲かせるのです。そして、同じ遺伝子を持つがゆえに耐性のない病虫害には全ての木がやられてしまうという弱点も持つことになるのです。 ソメイヨシノの両親であるオオシマザクラは成長が早く、エドヒガンは丈夫で長生きする桜だったため、根が浅く広く張ります。それで最近では根本近くまで舗装されたり、花見の人で土の表面が固まって成長が阻害されたり、温暖化による悪影響も受けつつあるようです。 青森の弘前城のある弘前公園には日本一古いと言われる樹齢130年のソメイヨシノがあり、東京の小石川植物園には樹齢140年のソメイヨシノの株があります。 なお、日本には桜の種類は野生種10種、自生種100種、園芸品種200種の桜があるとのことです。さて、私の好きなアデニウムにも接ぎ木で色の違う花を咲かせている植木もありました。 また、接ぎ木を野菜に応用したトムテト(またはポメト)はご存じですよね。 ナスとジャガイモの組み合わせはエッグ・アンド・チップスというのですよ。 でも接ぎ木は人間世界でいうと昔の武家や商家のご主人様がふがいない跡取りの代わりに優秀な婿養子をもらってお家の跡を継がせていくのに似ていますね。   丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(16)  散歩しながら考える(愛しのアデニウム)の巻

散歩しながら考えるの巻 愛しのアデニウム  (2019年9月記) 根本が千種万様の形を持つ「砂漠のバラ」と言われるアデニウムに私は魅せられてしまいました。 人は物を好きになると自分の手元に置きたくなるものですよね、私も自分で育てたくなりました。 それで休日に運転手さんに頼んで花屋さんに連れて行ってもらいました。 花屋さんと言っても自動車道路沿いに鉢植えの植物が沢山並べてあるところでした。 そのうちの一つのお店というか小屋に入り、アデニウムの小さな苗木を二個買いました。 お店の人はこの花は乾燥を好むので水は与えず、そのまま育てれば良いといいました。 私はプラスチックの鉢と新しい土を買い花屋さんに苗木を入れ替えてもらいました。 そして鉢二個を車に積んで会社に向かいました。 というのは、私のアパートの部屋にはベランダないので、平日の大半を過ごす会社でアデニウムを育て、社員たちにも見せてあげたかったのです。 会社に着いて、玄関の入口の日当たりが良い場所に鉢を並べました。 そして毎日玄関を出入りするたびに苗木を眺め、我が子の成長記録のように写真を撮りました。 私は購入した時にすでに枝の先端が切られていた方の苗木が気になりました。 一週間経つとその苗木の切り口の横から葉が生えてきました。 そして、一ヶ月経つとその葉の枚数も増えてきました。 しかし、それから二ヶ月、三ヶ月経つと成長が止まったように見えました。 逆に根本のふくらみが買った時よりも痩せてきたようです。それはもう一方の苗木も同じようでした。 これはきっと栄養が足りないのではないかと思い、肥料を買おうと思いました。それでまた休日に運転手さんと肥料を買いに花屋さんが集合している団地のようなところへ出かけました。 その花屋団地の入口のお店に入りました。花の手入れをしていた若い青年に私は木が痩せて来たので肥料を下さいと言うと、その青年はきっと水をやり過ぎたのでしょうと言いました。 そして、私を案内して、店先に並んだ花木の間を縫うようにアデニウムの苗木の所に行き、その苗木を鉢から引っこ抜いてその根を見せて、このように水分が多いと成長が止まってしまうと説明してくれました。そして痩せたアデニウムの対処方法として、苗木を鉢から引き抜いて土を良く払い、逆さまにして三日間陰干しして植え直すようにとアドバイスしてくれました。 するとその時に側に居た私の運転手さんが土は替えなくていいのかと尋ねると、 青年は現在どんな土を使っているのかと聞き、運転手さんが最初に苗を買った 時のままだと答えました。 すると青年はパシール・マラン(マラン地方の砂)にしなさいと言って、砂という より粗い玉土のようなものが入った袋を勧めてくれました。 私は土を変えただけでは心配だったので小さな箱入りの肥料も砂と一緒に買い 会社に向かいました。 会社に着くと休日だったので守衛さんが何をしに来たのかと驚きましたが、 私は運転手さんと二人で苗木を鉢から引き抜き土を払い、紐で苗を縛って玄関前の陽のあたらない木陰に吊るしました。そして花の面倒をも見てくれてもいる守衛さんに、私たちの作業の説明をするとともに、絶対に水はやらないようにと念を押しました。 それから三日後の平日の午後になり私は、鉢への植え替えの約束をしていた運転手さんを電話で呼び出しても出ないので、私は待ちきれずに席を外して、玄関に向かい、陰干ししている苗木を紐から外して、新しくパシール・マランを入れた鉢に植え替え肥料を少し与えました。 今度は根本をすっかり覆うように砂を盛りあげました。 今は毎朝、会社に行くと「早く育てよ、早く太れよ」とアデニウムを眺めるばかりです。 それにしても、あの花屋の好青年が親切にそして熱っぽくアデニウムの対処方法を教えてくれた姿が忘れられません。花を愛する人は優しい人が多いのでしょうね。それは私も含めて。グフッ。 (余談)植え替えをして二日目の夕方、退社時に玄関に行くと鉢植えが玄関の中の受付の台の上においてありました。守衛さんに鉢がどうして受付台の上にあるのと聞くと、先ほど雨が少し降ったので花が濡れると私が怒ると聞いていたので中に入れましたとのことでした。守衛さんは夜と昼で交代します。雨が降り花を中に入れた守衛さんは私が水をやるなと言った守衛さんとは違いましたが、守衛さん同士できっと引き継ぎをしていたのでしょうね。ありがたきかな。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(15)  散歩しながら考える(出会う人たち)の巻

散歩しながら考えるの巻 出会う人たち (2019年9月記) 最近の早朝散歩は連夜のお酒が残っているので、毎朝は億劫になり土日の朝だけになりました。 アパートを出る時間は夜から朝に切り替わるつつある6時少し前です。 夜が明ける順番を日本語では暁(あかつき)→東雲(しののめ)→曙(あけぼの)というようですが、私が出かけるころは「朝ぼらけ」の表現が合うような気がします。 土日で大きな道路は車やオートバイが走っていますので、私はそれらの通行が少ない注宅地に入っていきます。私のアパートの周りには注宅地が5、6区画ありますのでその日の気分によって散歩する住宅地を変えています。 各住宅地の入口には守衛さんがいて、24時間体制で出入りする車やオートバイの運転手のIDカードを預かったりしていますが、歩いて出入りする人のチェックはしません。 どこの住宅地の入口の守衛さんとも私は顔見知りになりました。 住宅地に入る時には大きな声で「Selamat Pagi(お早う)」と挨拶し、出る時は「Terima Kasih(ありがとう)」と言って挨拶します。 ある朝、住宅地に入ったすぐのところに大きなバンヤンツリーがあり、気根が長く垂れ下がっていたので写真を撮ろうとすると、守衛所から一人出てきて、その気根にぶら下がり懸垂をして見せてくれました。愛嬌があるというかサービス精神が旺盛な人なのでしょうね。 また守衛さんたちは持ち場の道路の清掃もしたりしています。 オジェック(オートバイタクシー)の運転手さんも早朝からお客様を待っています。 その客待ちする場所は普通は守衛室の外ですが、広い住宅地では一定の場所に客待ち場所が決まっているようです。私のアパートの前にも朝から客待ちの運転手さんが何人か待機しています。 彼らにとって散歩する私は商売になりません。でも彼らは通り過ぎる私に「オララガ(運動)、ジャランジャラン(散歩)、クセハタン(健康)」と声を掛けてくれます。 ある住宅地では客待ちしていた暇そうにしていたゴジェックの運転手さんに写真を撮らせてくれと頼むと、喜んでと言った風にオートバイにまたがり、笑顔でポーズをとってくれました。 朝早くから商品を売り歩いている人たちとも出会います。定期的に出会うひとはインドネシアのジャムー(インドネシア古来のハーブ薬)を売り歩くおばさんです。 「ソーㇽ、ソ―ㇽ」と声を出して歩いているのは靴底ゴム張り屋さんです。 オートバイに乗り「ロティ、ロティ」と大声を出していた移動パン屋さんもいます。 ある朝は庭木の手入れをしていた素足の庭師さんもいました。 ある高級団地では血統書付の犬のブリーダーをしている家があり、毎朝若者が毛並の良い犬を連れて散歩しています。 別の家でお庭を拝見していたら家から出てきた同年配の人がこれから孫を連れて散歩すると言ってポーズを取ってくれました。このほかにも朝から鉢の木の手入れしている人と花木の手入れの仕方やどこで肥料を買うのかなどと話し込んだりしてゆっくりと2時間、時には3時間ほど散歩します。 最近見かけるようになったのがインド人グループのヨガ体操と、インドネシア人グループが楽しく踊る音楽体操です。 そして私はお日様が出てくると自分の影を写真に撮って遊んでいます。 日本と違って太陽はインドネシアの真上を通ります。その日の正午はどんな影になるのでしょうか? 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(14)  散歩しながら考える(砂漠のバラ)の巻

散歩しながら考えるの巻 砂漠のバラ (2019年9月記) 朝散歩のコースはアパートの近くのいくつかの住宅地をその日の気分に合わせて選んでいます。 それぞれの住宅地の入口には守衛さんがいますので、「スラマット・パギ」と挨拶しながら入っていきます。住宅地に入ると道路脇や家々の庭の木々を眺めながら歩きます。 最近は道路に面した庭先に並べてある鉢植えの花が気になるようになりました。 そして興味を惹く花があると立ちどまってゆっくりと眺めます。 そんな私が特に気になったのは根本が土偶のように太くて、枝が自由に伸びている小さな木でした。その根本の造形が素晴らしいのです。同じ形が二つとしてないのです。 見ているとその花の生い立ちがどんなんだったかを考えさせられてしまうのです。 みなさん、lこんな木をご覧になったことがありますか? 大体三軒に一軒の割合でその花の鉢植えが置いてあります。 中には盆栽のように庭先にたくさんの鉢が並べてある家もあります。 最初にその花を知ったのはその花の鉢植えがたくさん並んでいる家でした。 私がその花を眺めていると中からご主人が出てきましたので挨拶をしました。 そして、ご主人の話をしていて、私が日本人であるとわかると、彼はスンバワ島のスミトモの銅鉱山で働いたことがあると言いました。 私        この鉢に植えてある植物の名はなんですか 主人     私は知らないけど、女房が知ってると思うよ。 と言い、家に向かって大きな声を上げて奥さんを呼びました。 すると奥さんが玄関からから出てきて私に説明してくれました。 奥さん   これはカンボジアと言うのよ、同じ種類で大きな木はカンボジア・ジュパン(日本)よ。 ほら、この団地の入口にも生えているでしょ。 この花は挿し木でも増えるのよ。 でも、根本が太いのは苗から育てたもので、挿し木で育ったものは根本が太くならないのよ。よかったら、一鉢持っていきますか? 私        いいえ、結構です。私はアパート住まいだし、植物は日本には持って帰れないのです。        でも、面白い形の花ですね。   私はその木について知りたくなり、アパートに帰りネットで調べてみました。 「カンボジア」、「カンボジア・ジュパン」で検索しても出てきませんでした。 「インドネシア 植物」で検索し、現われた植物の画像を見て行くとその中にカンボジアがありました。 それは正式にはアデニウムという名の植物でした。 さらに検索して行くと「NHKの趣味の園芸」のページに次のように書いてありました。 (特徴) アデニウムの仲間は、南アフリカ、南西アフリカ、ソコトラ島、アラビア半島原産です。 美しい花が咲くものが多く、大きく肥大する幹や根が特徴の植物です。 「砂漠のバラ」と呼ばれるものがよく流通していて、そのほかにも八重咲きや多様な花色の園芸品種がつくられています。 アデニウムは、株を大きくして花を楽しむ以外にも、独特のフォルムを生かし、盆栽のように仕立て、肥大した根や幹を楽しむこともできます。 夏の暑さには強いですが、寒さには弱いので、休眠させて冬越しさせます。 日光不足だと徒長するので、春から秋はよく日に当て、堅く締まった株にします。 アデニウムの語源はアラビア半島のイエメン共和国の南端にある港町のアデンからです。 アデンはアダムのイブのエデンの園であったと言われる土地の一つです。 きっとアダムもイブの二人もアデニウムの花を見たのでしょうね。 なおインドネシアで「カンボジア・ジュパン」と呼ばれる木はレイに使われるプルメリアのことです。 アデニウムとプルメリアは幹の造形や花の形は違っても同じキョウチクトウ科の植物なのです。 植物は枝の先端を動物に食べられたり、雨風などで折られたりすると、折られた枝のすぐ下の部分から新しい芽がでて新しい枝が生えてきます。 住宅地の庭先にあるアデニウムの枝を良く観ると枝を切られて、その下のすぐ横から新しい枝が数本出ているのもありました。 ある家の庭さきで鉢に並んだアデ二ウムを眺め、写真を撮っていたら、家の中から女性が出てきて「どうして写真を撮っているの、どこにでもある花でしょ。」といわれました。きっと彼女は私が家の内部を調べている怪しい人だと思ったのでしょうね。。 アデニウムの根本の形を見ていたらその生い立ちに苦労しただろうなと思い句を作ってみました。 〇俺の過去 見ればわかると アデニウム 〇我は我 君は君だと アデニウム 〇咲くよりも 生きることだと アデニウム 〇一族が 肩寄せるよう アデニウム 〇この私 砂漠のバラと アデニウム 〇アデニウム どの花みても 個性的 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(13)  散歩しながら考える(メラッ・プティ)の巻

散歩しながら考えるの巻 その14 メラッ・プティ   (2019年8月記) 今年のインドネシアの8月は11日(日)が生贄祭で17日(土)が独立記念日でした。 私の会社は昨年と同じく二匹のヤギを買い、一匹は近くのイスラム寺院に寄付をし、もう一匹は会社で儀式をおこなって屠殺し、お肉を料理して社員で分け合っていただきました。 今年のインドネシアは独立後74周年になります。 それで町のあちこちでは紅白旗(メラッ・プティ)やお祝いの垂れ幕が飾られています。 この紅白旗の赤(メラッ)は勇気と情熱を、白(プティ)は真実と聖なる心を表しています。 また、赤色は太陽を、白色は月を表しているともいわれます。 レストランやスーパーでは17日に引っかけた17%引きの商品が出回っていました。 なお、インドネシアの紅白旗について日本では、第二次世界大戦とその後の独立戦争でインドネシアの独立に寄与した日本の日章旗の影響を受けているという説もあります。 インドネシアが独立したのは1945年8月17日です。 日本が連合軍に降伏した日よりも2日遅れています。 その理由をWikipediaの記事から抜粋します。 「1945年3月に日本軍政当局は独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させました。 そして同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立されました。 その第1回会議が8月18日に開催されるはずでしたが8月15日に日本が連合軍に降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなりました。 1945年8月15日、ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がっていたため、スカルノとハッタは山本茂一郎軍政監と接触して、確実な情報を得ようと務めましたが徒労に終わりました。そこで二人は同日14時半頃前田精海軍少将を訪ねたところ、前田は公式な情報がないという理由で回答を留保しました。 翌8月16日早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年グループに拉致されました。 スカルノ、ハッタおよびスバルジョは青年グループを説得し、8月17日の正午までに準備を整え独立を宣言をするべきと主張し、解放されてジャカルタへ向かいました。 8月16日23時頃、スカルノ、ハッタらは前田精海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基づいて独立宣言を起草し採択しました。 8月17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表しスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立したのです。」 ムルデカ(独立)広場中央に聳える高さ137mの独立記念塔(モナス)があります。 この地下1階に、インドネシアの「三種の神器」(独立宣言書・独立時に掲揚された国旗・国章)が奉納されています。 そのインドネシア独立宣言草案の宣言の日付が「05年」となっています。 それは当時日本が使っていた「皇紀2605年」を指しているのです。 独立宣言 我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。 権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。 ジャカルタ、05年8月17日 インドネシア人民の名において スカルノ/ハッタ また、インドネシアの最高額紙幣の10万ルピアです。三年前に新しいお札に切り替えられましたが、 そのデザインにはスカルノとハッタで変わっていません。 上が新札、下が旧札です。旧札は今でもまだたくさん流通しています。 スカルノ1901年- 1970年 インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。 初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けている。 モハマッド・ハッタ(1902年- 1980年)は初代副大統領(1945年-1956年)です。 スカルノとは出自、性格、信条において極めて対照的であり、スカルノの鋭い批判者でもありました。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(12)  散歩しながら考える(メジロ)の巻

散歩しながら考えるの巻 メジロ  (2018年4月記) 昨年末からの朝散歩を続けています。 犬を連れて散歩している人を見ると、子供のころに犬を飼ったことを思い出します。 雌犬を飼った時には子犬が何匹も生まれ一匹を残して残りを保健所に渡ししました。 母犬を散歩に連れ出そうとすると家の床下や物置に子犬たちがいるのではないかと探し始めました。その必死に探し続ける母犬の姿や、鎖を引っ張る強さを今でも忘れることができません。 散歩中に猫を見かけると、これまた猫を飼った時のことを思い出します。 犬と同じように首を紐でつないで散歩しようとすると紐がスルリと外れて逃げて行ってしまいました。 こちらでは住宅地で鳥かごが軒下や歩道の立木に吊るしてあるのを見かけることがあります。 そうです、小鳥を飼って楽しんでいる人たちがいるのです。 私も子供のころに小鳥も飼ったことがあります。ジユウシマツ、インコ、メジロなどです。 小鳥の世話は大変です。毎日餌や水の取り換え、糞の掃除をしなければなりません。 シンガポールに駐在していた時には、朝に多くの人が鳥かごを頭上に吊るし、鳴き声を聞きながら話し合っている一角(Bird Singing Corner)に出合ったことがあります。 タイでも鳥を飼う人を見かけたたような気がしますが、インドでは鳥を飼って楽しむ人は見かけなかったように思います。 飼われている鳥はインコのような色鮮やかな鳥が多いのですが、ある朝、びっくりしました。 歩道の木に吊るしてある鳥カゴの中を覗くと日本のメジロと同じような鳥が中にいたのです。 その家の方を見るとさらに鳥カゴが三つほど吊してあり、同じようにメジロ似の鳥が入っていました。 そこの飼い主が道路脇で鳥カゴを手入れをしていたので、私は近づいて行って話を聞きました。 私        この鳥の名前は何というのですか? 飼い主  プリチです。 私        プリチ?P-E-、、、? 飼い主  P‐L-E-C-I 私        これはジャワの鳥ですか? 飼い主 黒いカゴにいるのは東ジャワです。真ん中のはロンボクからです。 ロンボクの方が体が大きいです。 私        日本にも同じ鳥がいます。マタ・プティ(白い目)です。 飼い主  この鳥はメガネ鳥(マタ・カチャン)とも呼ばれますよ。 私        ちょっと待ってください。(スマホで日本のメジロの写真を検索して) 見てください。日本のプリチです。同じでしょ。 飼い主  ロンボクの方はヒヨコのような声で鳴きます。 私        ツー、ツー(鳴き声を真似ようとするができない) 私は子供のころ、山にこの鳥を獲りに行きました。枝にトリモチ(グタ)を巻いて、この鳥が入っているカゴに差して、カゴを木に吊るして、隠れるのです。 そしてやってきた仲間が枝にとまるとすぐに行って、捕まえるのです。 飼い主  こちらでも同じように捕まえますよ。 私        これは売るためですか? 飼い主  いいえ、私は鳥が好きなのです。この鳥はここでは私しか飼っていません。 私        買うといくらくらいするのですか? 飼い主  30万ルピア(2。3千円)と言われます。 私        私の頃の餌はミカンやリンゴや焼いたイモでした。 飼い主  ミカンをやることもありますが、私は専用の餌を食べさせています。 この左端の鳥はすでに6歳です。 私        えっ、そんなに長生きするのですか? 飼い主  飼い方次第ですよ。 そんな会話をしてそこを離れ、しばらくあるくと、長い鳥かごをシーソーにして、中の鳥を右左に移動させて遊んでいる人がいました。近づいていくと、その人は水鉄砲で鳥に水をかけているのです。 鳥が嫌がって反対側の止まり木に行くと、鳥カゴが傾くのです。 鳥カゴの底にはゴムボールが入っていて、傾くたびにコロコロと低い方に転がっていきました。 その人の傍にはまだ眠い顔をした小さな女の子がくっついていました。 私        あなたのお子さんですか 父親     そうです。 私        名前は何というのですか 父親     エンジェルです。 私        良い名前ですね。エンジェルは背中に羽根があって鳥のようですものね。 メジロ(スズメ目、メジロ科、メジロ属、メジロ種) 目の周りの白い輪が特徴であり、名前の由来ともなっている・ メジロ科に属する鳥は英名でも “White-eye” と呼ばれ、また 中国語名では「繡眼鳥」と呼ばれる。 またメジロは比較的警戒心が緩く、頻繁に鳴き交わしつつ群れで行動するため、慣れた人だと口笛で仲間がいると思いこませ、群れを呼び寄せることもできたという。 そして、メジロは良い声でさえずるため、古くから和鳥として飼われてきた。 江戸時代からメジロを鳴き合わせる競技(道楽)があった。 メジロにはお互いに押し合うように、ぴったりと枝に並ぶ習性がある。このことから、込み合っていることや物事が多くあることを意味する慣用句として「目白押し」がある。 和歌山県、大分県の県鳥に指定されている。 環境省は2012年4月からメジロの愛玩飼養を目的とした捕獲を原則許可しないことを発表した。これにより捕獲が許可される野鳥の種類は原則として皆無となった。(ウィキペディアから)

シンゴ旅日記ジャカルタ編(11)  散歩しながら考える(イヌとネコと)の巻

散歩しながら考えるの巻 イヌとネコと (2018年3月記) 早朝散歩で出会う動物はまずイヌです。 イヌを連れて散歩する人たちと出会います。 イスラム教ではイヌは忌み嫌われる動物ですから、イヌを飼っている家は中国系の人か外国人が大半だと思います。 中にはインドネシア人のメイドさんが朝の散歩をさせているところも見かけます。 そして首輪のない野良犬にも出会います。まだ夜が明け切れない薄暗い時に、野良犬が近づいてくると怖いです。というのは、私は狂犬病の予防接種を受けていないからです。 会社でスタッフにイヌとネコの鳴き声をインドネシア語で何というのか聞いてみました。 イヌはグッ、グッ(guk-guk)で、ネコはメオン、メオン(meong-meong)と鳴くそうです。 お国が変わると動物の鳴き声も変わるもんですね。   イヌの次にはネコを見かけます。 普通は家の玄関先に座っていたり、家から道路に出てきた時に出会います。 でも、一度、草地を走り抜けるネコを見かけたことがあります。 まるでヒョウかチーターのような走り方でした。 それもそのはずで動物分類では、ネコもライオンもトラもヒョウも種は別々ですが、その上の科はネコなのです。ネコがライオン科でなく、ライオンがネコ科なのです。 イヌもネコももともとは肉食の野生動物です。でも、その狩猟方法が違うのです。 イヌは追跡型で、草原を走り抜ける長い足を持ち、相手が息を切らして休むところを狙います。 でも、イヌは木には登れません。 一方、ネコは待ち伏せ型で、木に登って獲物がやってくるのを待ちます。 ネコが木に登ることができるのは、小さな鎖骨があり抱きつくことができるからです。   イヌとネコどちらがヒトとの関わりが長いかというとイヌの方なのです。 世界の歴史からみるとイヌはヒトの狩猟時代から獲物を追う猟犬や番犬として付き合ってきました。 しかし、ネコはヒトが農耕時代に入ってからの付き合いなのです。 ヒトが穀物を貯蔵するようになり、ネズミの被害から穀物を守るためにネコが飼われ始めたようです。日本では中国から経典を持ち帰るときに船内で大切な経典をネズミにかじられないようにとネコが船に持ち込まれ、それが日本に入って来たようです。 日本の歴史で書物にネコが現われるのは885年の宇多天皇(第59代、867年~931年)の日記に先の天皇の光孝天皇(第58代、830年~887年)から中国産のネコをもらった時の描写があります。   ネコよりもイヌの方が先に人間と関わった証拠として、漢字が示しています。 「けものへん」の犭が犬という字形からできていて、ネコの漢字『猫』にけものへんが使われているからです。 今年の干支は戌年です。でもなぜ十二支にネコがいないのでしょうか。 神様  動物たちよ、お前たちは喧嘩ばかりしているのでリーダーを決めることにするぞ。 正月に一番最初に私のところに挨拶に来たものをリーダーとする。 そして、翌年からはその来た順番に入れ替わりとする。 ネコ    ネズミさん、ごめん、今、ボク寝てたんで、神様が何と言ったか教えてください なんか、神様は元旦の朝に集まれっていったんだよね。 ネズミ  違うよ、ネコさん、元旦はゆっくりしてください、その代わりに二日の日に集まれっておっしゃ たんだよ ネコ  そうか、二日の朝か、じゃあ元日はゆっくり寝ていよう となったわけです。 そして、なぜ小さなネズミが一等になったかというと、ウシさんが「ボクは足が遅いから大晦日から出かけることにしよう」と言うのを聞いたネズミが広いウシの背中にこっそりと乗り込み、その上で寝て行ったのです。 そして神様の家の前に着くと、さっと起き上がって「ありがとうウシさん」と言って牛の背中から下りて一番乗りしたからなのです。 二日に神様の所へ行ったネコの後日談です。 ネコ     あけましておめでとうございます。 今日は誰もまだ来ていません、私が一番乗りですね。 神様     たわけたことを申すでない、来いと言ったのは昨日の元旦のことじゃ。 何を寝ぼけたことを言っておるのじゃ。顔を洗って出直して来い ということとなり、ネコはいつも顔を手で洗うようになり、そして、自分をだましたネズミを追っかけるようになったのです。 でも、ネコさん、安心してください。十二支には国によって動物の入れ替わりがあり、ネコさんの入る国もあるのですよ。 それらはチベット、タイ、ベトナムで、ウサギさんの代わりにネコさんが入っているのです。 良かったですね。ネコさん。 また、ほかの国ではイノシシがブタになったり、トラがヒョウになったりします。 なお、十二支の動物にはそれぞれ縁起の意味があります。 十二支 動物 縁起 十二支 動物 縁起 子 ねずみ 子孫繁栄、財 午 うま 健康、ほがらかさ 丑 うし 誠実さ 未 ひつじ 豊作、人情 寅 とら 決断力、物事の始まり 申 さる 日和、柔軟さ 卯 うさぎ 家内安全、温厚さ 酉 とり 収穫、世話好き 辰 たつ 生命活動、正義感、信頼 戌 いぬ 安産、努力 巳 へび 情熱、追求心 亥 いのしし 無病息災、勇気 でも、十二支の漢字をみても動物とは関係ありませんよね。 十二支は本来は動物ではありませんでした。 もともとは12年で天を一周する木星の天の位置を示すための「年」の数詞だったのです。 それが月日や時間、方角に使用されるようになったのです。 方角では北東の「ウシトラ」、南東の「タツミ」、南西の「ヒツジサル」、北西の「イヌイ」が漢字の艮、巽、坤、乾となりました。   私は散歩中に一回だけウサギを見たことがあります。 野生ではありません、飼いウサギだったのですが、よその家の庭の草を食べていました。 イヌ、ネコ、ウサギ以外では、朝や夕方に飛びかう鳥たちです。 きっと、巣で待つ小鳥たちにエサを与えるために飛び交う小さな虫をとらえているのでしょうね。 それを見ると私は子供の頃のテンカラ釣りを思いだします。 夏の夕立が来そうな時は面に羽根のある小さな虫たちが飛び交うのです。 […]