シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その4)成田待機生活初日の巻

成田のビジネスホテルで15 日間の待機生活が始まりましたんや。その初日の朝ですわ。私はインドネシアでは毎朝5時頃に目が覚めてました。日本とは2時間の時差があるさかい日本の時間でいうと7 時ですわな。けど成田のホテルではなんと日本時間の朝5 時に目が覚めてしもたんです。インドネシア時間ではまだ深夜の 3 時でっせ。 私の体内時計は一体どうなっているやろね。それとも体が衛星電波時計みたいに自動的に日本時間に切り替えてくれたんでしゃろか。外はまだ真っ暗でした。テレビをつけましたら「おはよう日本」をやってまして、久しぶりでした桑子さん、ちょっと前までジャカルタでは夜の9 時のニュース、チカランでは7 時にお会いしていましたわな。 そんでチャンネルを回して、ちゃう、回すんと違います、押すんですね。これって同じことを河野大臣がツイッタ ーで書いてましたな。どこの局も台風がゆっくりと関 東に向かってるちゅうニュースばっかりでしたわ。ええですな日本は、日本語でしゃべってくれるテレビ番組ばっかりで。それに番組表がテレビ画面に出るん ですよ。いちいち新聞の番組表を見んでもええんですわ。それに見たい番組のとこにや矢印で移動してリモコンを押すだけでそこに替わるんでっせ。受像機は Samsung やのうてSony でしたもんね。 そんであちこちのテレビ番組を見てましたけどお腹が空いて来たんで前の晩にコンビニで買ったオニギリ1個ととん汁で腹ごしらえをしたんですわ。7 時半すぎにルームサービスで朝食が来ることは知っていましたけど空腹には勝てんかったんです。オニギリを食べ終わってもルームサービスまで時間があったんでコンビニに行くことにしましたんです。まるで買い物好きの主婦みたいでやね。外は曇ってましたけどもう十分に明るかったですわ。何を買いに行ったんかちゅうと寒かったんで下着のシャツを買おうと思ったんです。 日本はまだ 10 月やからT シャツ一枚で過ごせるやろと思ってまして肌着のシャツを持ってきておらんかったんですわ。けど前の日から関東地方は11 月中旬の寒さになってたんです。シャツはそのコンビニには置いていませんでしたけど何か買わんとあかんと思ってドリップコーヒー10個入りを買ってホテルに戻りましたんや。 そして7 時半過ぎにドアがノックされたんでドアを半分引くとネクタイ締めたホテルマンがルームサービスの弁当をドア越しに渡してくれましたわ。なんか収 容所で一人分の食事を係官から受け取ったような感じでしたで。弁当のほかにはインスタント味噌汁とパン2個とバターやマーガリン、ジャムのあの小さなパックもそのビニール袋に入ってましたわ。ちょっと前にオニギリを食べていましたんで空腹感はおませんでしたけど弁当とパン二個 を全部平らげましたわ。我ながらよく食べるもんですな。なんも運動してへんのにね。そうそう部 屋が狭いんで机の上で食事したりパソコンしたりするときにイスに座るとその脚がベッドにビッタリ  とくっついてそれ以上後ろにずらすことができんのです。 そんでイスから離れるときにちょっと腰をひねらなあきませんのや。するとちょっと腰がグキッと痛んだんです。ちゅうのは帰国前の土曜  日にアパートで大きなトランクに荷造りしたときに腰を痛めたんですわ。飛行場で預け入れる荷物は一個23kgにせなアカンのです。そんで重いトランクを手に持って体重計に何回ものって23kg以下に収めたんですわ。二個も大きいトランクがあったさかいに中のもんを出したり入れたり、入れ替えたりで大変でしたで。そんで日曜日に昼食送別会をしてくれるちゅうお誘いをお断りして寝てましたら腰の痛みはのうなったんです。けど長時間の飛行機の中とホテルでの座ってばかりの姿勢やったさかい腰に負担がかかったんでやろね。 それで私はコルセットを付けましたんや。なんで私がコルセット持ってるのかって?そのコルセットはチカランで同じ年配の飲み友達がもってけって私にくれたんですわ。その友達は数か月前にひどい腰痛になって座ることしかできん  かった時があったんですわ。そんで私が腰痛になったことを知って飛行機の中では狭いところに  座ってばっかりやからと彼が使ってたコルセットと腰痛用の薬4 種類をくれたんです。それも出発前夜の送別会の席でですわ。薬は病院でもらったんと同じもんをその日にわざわざ薬局で買ってきてくれたんでっせ。ありがたいもんですな。まさかの友は真の友Rainy day friend is a true friend でっか、いや学校では A friend in need is a friend indeed と習ったたんとちゃうかな、どっちやろ。そして同病相哀れむFellow sufferers pity each other ちゅうやつでわな。 帰国する飛行機の中では腰は痛まんかったんやけどえらい冷房が効いてて鼻水が出て止まらんようにな ってたんで薬局で腰の痛み止めの湿布薬と風邪薬を買おうと思ってスマホで近くに薬局がない かどうか調べましたんや。すると歩いて行けるところに薬局がおましたんです。そんで「シャツ」と「湿布薬」と「風邪薬」と机の上にあったメモ用紙に書いてから午前中は横になって休んで昼過ぎに外出することにしましたんや。 最近は買い物に行くときにメモしとかんと忘れますんですわ。チカランでも自炊してましたんでスーパーに買いもんに行って帰ってきて、あれ買うのを忘れてちゅうてまたスーパーに買いにいったことが何回もありましたわ。それからですわメモするくせがついたんわ。日本にいるときに嫁はんがいつもスーパーに行く前に買うもんをメモしてて、そんなん全 部頭に入らへんのかなあと思ってましたけどよう理解できるようになりましたわ。単身赴任ちゅう のは主婦の苦労がようわかりまんな。嫁さんに感謝、感謝ですわ。若い時に食事中に新聞読んでてごめんなさいです。 そんで午後になりましたんで外出しようと部屋のドアを開けますとドアの 下に何かを包んだ白いビニール袋が置いてありましたんや。その中には新しいシーツやガウンや アメニティちゅうもんが入っているもんでした。そのビニール袋を部屋の中に入れてまた廊下に出ますとどの部屋のドアの下にもおんなじ白いビニール袋が置いてありましたわ。ホテルの外に出ますと曇り空でした。 スマホの地図を頼りに歩いていくとJR 成田駅に出ましたんや。駅舎を見て二年前に家族旅行で千葉に来たときに嫁さんと次女とこの駅に来たことを思い出しましたわ。その時は長女も一緒に千葉の養老渓谷に2泊3日の旅行しましたんです。房総半島を横断する  小湊鉄道といすみ鉄道に乗りましたんやで。お寺で写経したり港町の魚市場に行ったり、そうそう「月の沙漠」ってどこが舞台か知ってまっか。 あれは鳥取県の砂漠やのうて千葉県の御宿(おんじゅく)でっせ。それにあの歌の題名は「砂漠」やのうて「沙漠」なんですわ。沙には「すなはま」ち ゅう意味があるんやそうです。 そんで最後の日に長女は一足先に岡崎に帰って私はジャカルタ  に次女はシンガポールに戻る前の晩でしたわ。二人を見送りたいちゅう嫁さんと3人で空港近くのホテルに泊まったんです。そんで3人で夜に成田山に来て参道で日本最後の夜やちゅうてウ ナギ料理を食べて三重塔を見に行ったんですわ。成田山の参道ってウナギ料理で有名なんです。ちゅうのは成田の西にある印旛沼でウナギがぎょうさんとれたんで成田さんへの参拝客にも てなしてきたそうですわ。JR 成田駅から新勝寺までの参道のおおよそ800mの間に60軒ほどのウナギ料理屋さんがあるそうでっせ。私は今回二週間も成田におるんやけどウナギ料理は見るだけの生活ですわ。待機生活が終わる最後の日にウナギ料理を食べて岡崎に帰ったろかいな。けど岡崎で食べる一色ウナギの方が美味しいやろかなあ。 あかん、私は薬を買いに行った んですわな。私は JR 成田駅の構内を通り抜けて西口に出ましたんや。そして西口に続く高い遊歩道を降りで少し歩きますと目指す薬局があったんやけど閉まっていましたわ。他に薬局がないかと近くを歩いてみますとクリニックがありその横に処方箋を扱う薬局がありましたんや。けどそこも閉まっていたんですわ、きっとその日は空海さんの宿曜経でいうと運の悪い日やないかと思い ましたわ。 なんで空海さんが出てきたかちゅうとね成田の新勝寺は空海さんが始めた真言宗やからですわ。そんでその日は薬を買うのをあきらめて駅の方に戻りますとなんと駅に上る階段のすぐ横にマツモトキヨシがあったんですわ。さっき来た時は駅から続く高い遊歩道を歩いて違う方向へ降りたんわでお店があることがわからへんかったんです。わあ、やっぱり空海さんは私を 見すてんと助けてくれはったと感謝しましたわ。 そのお店で痛み止めと風邪薬を買いましたんや。年配の男性店員さんはえらい親切で「どのような症状ですか」と聞いて鼻炎に聞く「鼻炎」ちゅう薬と腰痛用の貼り薬を選んでくれましたわ。支払いを済ませてお店を出ようとすると雨が本 降りになっていましたんでその薬屋さんで透明のビニールの雨傘を買いましたわ。 そしてその傘をさして歩いてホテルに戻る途中の大きなコンビニで買い物をしましたんや。そのコンビニは駅に行くときにみつけましてね、その時は中に入ってシャツがあることを確認しておったんですわ。そで帰りに買いたかったんはシャツと夕飯の弁当とドリップコーヒーを飲むのためのコップですわ。 ドリップコーヒーを朝に買うたんですけどカップを買うんを忘れておったんですわ。やっぱり買いもんするときはメモをしなあきませんな。コップは普通の紙コップ 10 個入りしかありませんでしたわ。 そんで半袖のシャツ二枚と紙コップ10  個セットとコンビニ弁当を持ってレジに行ってお金を払おうとしますと店員さんの後ろにジュースを売る機械が置いてあってその横に長い紙コップがあるのが目に入ったんですわ。そのLサイズのコップにコーヒーをようけ入れることがでけると思って欲しくなったんで弁当を温めてもらっている間に店員さんに「あの長いコップを売ってください」とお願いすると店員さんは「ちょっと待ってください」と言ってジュースのメニューをジッーと見てコップだけの値段を調べてましたが価格が載ってないようだったんで「ただです」と言ってその大きなコップを温め終わった弁当と同じビニール袋に入れてくれましたわ。 マツモトキヨシといいコンビニといい日本の店員さんは優しくて親切でんな。それに道路を横断するときすべての車が止まって私が渡るのを待ってくれますんや。日本は歩く人に親切な国になったんやね。そして雨の中を傘さしてビニール袋を三つ手にもってホテルに戻りましたんや。そんで食事する前にメールを開きますとチカランのサービスアパートからメールの連絡が入ってて預かった洗濯もんや退去した 部屋にある棚やスタンドはどうしますかって問い合わせが入ってましたんや。というのはアパート  との契約があと一カ月残ってましたんですわ。私はジャカルタから通ってる部下がひとりおりまし たんで、もし暴動かなんかでジャカルタに戻れん時には私のおったアパートに泊れるようにと備品も少し残してきたんですわ。ちゅうのはね私がジャカルタから帰国する前の日から学生や労働者が大きなデモをしだしたんですわ。それは政府が雇用を創出するために投資をしやすいようにと労働法や投資法など11 分野をひとくくりにして改定するちゅうもんですわ。インドネシアはタイやベトナムに外国からの投資で負けてますんでちょっと投資する企業の方に有利にしたんですわ。その法案が最近国会を通ったんで学生や労働者が最低賃金や退職金が下がるゆうて政府に反発しだしたんです。けど日本と同じできっと裏では政治的な駆け引きがあるんとちがいますやろか。 そうそう、それに二つもらってました部屋のカードキィのうち一つを返さなアカンかったけど私が空港で運転手さんに渡すのを忘れてしもて持って来てしまってたんですわ。そのカードキィについて費用を払う必要があるかどうかもメールで聞いていたんです。それで私はアパートの メールをくれた人にすべてチカランの私の後任者に話してあるので彼に聞いてくださいと返事し ましたわ。その日はそのあと弁当を食べてマッチ箱のような浴槽で体を縮めて温まってから寝ましたわ。鼻水もまだ出てたんで前の晩に買うたウィスキーもワインも封を切らずに机の上に置いたままでしたわ。それらは風邪が治ってからいただくことにします。 これが待機生活一日目です。はい。それにしてもコロナ感染者についてはどのテレビ局も東京の感染者や死亡者ばっかり話してまんな。これは成田が関東で東京の放送局のテレビ番組のせいやろか。けど検疫で 7 人の感染者がでたって言ってましたわ。待機生活に入った人が感染者になる割合ってなんぼなんでっ しゃろな。けど明日からこんな生活が続くんでしゃろか。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(25)  シンガポールへ社員旅行(前編)の巻

(記載内容は2019年当時のものです。) 11月早々に社員旅行でシンガポールに二泊3日で行ってきました。 社員の家族も入れて総勢50余名でした。 到着したシンガポールの空港は新しいターミナル4でした。 機内から建物に移るとすぐに手荷物検査と身体検査がありました。普通は出国時に出発ゲートで行う検査を入国してすぐに行うので不思議に思いました。身体検査はあの小さな円形のケージに入って透視される機械です。 検査を終えてイミグレに向かう途中でみながトイレに行き、出てきた社員たちはトイレがきれいであることに感心していました。 またイミグレでは指紋を取る機械にスクリーンが付いていて、そこにパスポートの顔写真が映し出されるなど今までみたことがない新しい設備でした。 皆が入国検査を終えて荷物受取場に一緒に行こうと集まっていると、私と同年齢の現地側取締役が検査中にどこかに連れて行かれたと報告がありました。 同行していた旅行社のガイドにどうなってるのと聞くと『彼の名前がインドネシアの汚職で騒がれているリッポー財閥のファミリー名と似ているので本国照会を受けているのです。』とのことでした。 リッポー財閥は開発した土地(メイカルタ)で県知事を巻き込んだ汚職事件があり、ファミリーのひとりがシンガポールにいたとかで新聞で騒がれていました。 現地取締役が疑われた理由というのは、そのリッポ^-財閥のファミリー名がリアディで、現地取締役の名前はハリアディさんだったからなのです。私たちは先に荷物を受け取り、ロビーに出て取締役を待っていました。一時間ほどすると我が取締役は嫌疑が晴れ私たちのもとに無事戻ってくることができました。 シンガポールでの日程は初日が市内観光、二日目がユニバーサル・スタジオ・シンガポール(USS)見学、そして最終日は朝から自由行動で午後にホテルに集合しバスで空港に向かうと言うものでした。 空港で時間を取られたため、昼食前の市内観光の時間がなくなり、レストランに直接向かいました。昼食後はGardens by the Bayに行き集合写真を撮ったあとに20分くらいの自由行動時間がありましたので、私は家族連れや夫婦で来た社員の邪魔をしないよう一人で歩きました。Gardens by the Bayには大きなドームの植物園がありましたが、今回は時間が無くて入ることが出来ず外からドームの中を覗きこむだけでした。 バスに戻る時間が迫ったので集合場所の方に向かいましたが、同じような景色ばかりで道に迷ってしまいました。私の携帯にはスタッフから早く戻って来てくださいと連絡がありました。 私は通りかかった女性係員に観光バスの乗り場がわからなくなったので教えてほしいと頼むと、彼女は親切にその乗り場近くまで案内してくれました。さすが観光立国シンガポールですね。 みなと合流すると今度はマリーナ・ベイを海を挟んで眺める場所に行きました。 その後は定番のマー・ライオン見学となりました。バスが黒いラッフル像のある博物館の前に駐車させたので、ラッフル像の前で記念写真を撮り、歩いてシンガポール・リパーに掛かった橋を歩いて渡り、マー・ラインの広場に向かいました。 そのあとはインドネシア人が好きだと言うチョコレート屋さんと観光客相手のお土産屋さんと二軒続けての買い物ツアーとなり、そして夕食を取るレストランに向かいました。 レストランにはこれまた売店が併設されており、店の人が我々に番号のついてシールを上着に貼って行きました。これは旅行会社かバス会社に売上の手数料を払う目的だったでしょうが、食事前に買い物を済ませていたので誰一人として売店に立つものがはいませんでした。 私たちが宿泊したホテルはインド人が多く住むセラングーン・ロードの近くにある団体旅行客専用の小さなホテルでした。私の部屋は狭いシングルルームで、バス・ルームに浴槽はあるのですが、長手方向と短手方向の一方がコの字方に壁になっており、もう一方の短手方向から浴槽に入るという窮屈な造りでした。 シンガポール旅行二日目です。 その日はユニバーサル・スタジオ(USS)にバスで直行し、10時から17時までそこで過ごす予定でした。でも、私は夕方に皆と別れてシンガポール住む娘と食事をすることにしていました。 USSでも私はひとりで歩いていろんなアトラクションを見ました。 各アトラクションへの料金はすでに入場料に含まれているので無料でしたが、人気のあるところは一時間以上の待ち時間となっていました。映画会社が作った遊園地なので映像やアクションが満載でした。ちなみに私は日本のユニバーサル・スタジオに行ったことがありません。 私が駐在していた頃のシンガポールの観光スポットと言えば、セントサ島、小さなマーライオン像、植物園、チャイナタウン、オーチャード・ロードのプラナカン、ラッフルズホテル、シンガポール博物館などで、テーマパーク的なものはハウ・パー・ヴィラ(旧タイガーバームガーデン、1937年)、バード・パーク(1971年開園)、タン・ダイナスティ(中国時代劇映画村、1992年開園、1999年閉鎖)、ナイト・サファリ(1994年開園)、それに加えて中国庭園/日本庭園やワニ園もありました。 17時にイースト・コーストで娘との夕食の待ち合わせのため16時に部下二名とUSSを出ました。 セントサから本島への移動は、朝はバスで橋を渡ってきましたが、帰りは昔、乗ったゴンドラで戻ることにしました。しかし、どの乗り場からゴンドラに乗れば良いのかわかりませんでした。 島内にモノレールが走っていて、ゴンドラ乗り場がどの駅からでるのかよく分らなかったのです。 モノレールは無料でしたが、ゴンドラは往復チケットを買わねばならないと言われちょっと高い出費となりました。 ゴンドラから見下ろすと、セントサ島が埋めててられているのでしょうか、本島とセントサ島の間の海の部分が狭くなっていました。 マウント・フェーバーでゴンドラから下りて、タクシー乗り場を探し、イーストコーストに向かいました。 タクシーの運転手はかつて日系の船会社のコンテナー関係の仕事をしていたという60歳を超えた人でした。運転手さんはタクシーを始めて間がないが、GPSで目的地がわかり、スマホで予約が出来るので経験が必要ないと言っていました。そして、シンガポール政府は頭が良いよねと言うので、私は駐在時に覚えた政府批判のシャレを思い出し、与党の人民行動党(PAP)の略語は『Pay And  Pay』や『Poor Also Pay』 の頭文字だよねと言って笑いをとりました。 イーストコーストのレストランへはちょっと遅れて着き、先に来ていた娘と合流しました。 娘はその店に友達とよく食事をしに来るらしく、女性副店長と顔見知りで、大きな蟹を注文するとその副店長は親切に殻を割って私たちのお皿に身を分けてくれました。 部下二人と娘はほぼ同年配なので楽しく語り合い、美味しく食事を終えました。 また私は最近購入した360度カメラで食事風景を撮って楽しみました。 食事後は娘と別れ部下とホテルに戻りました。 その日は日曜日で、二日後にはインドのデバリ(燈明祭り)でしたので、ホテルの近くの大通りはアーチ状に色鮮やかなイルミネーションが飾られていました。 ホテルに一旦戻ったのですが、部下のひとりが夜の町を歩きましょうと言うので私もホテルの外にでました。そして、二人して片道一キロほどの通りをほろ酔い気分で歩きました。 通りを歩いている人、商店で買い物する人はすべてインドの人たちばかりでした。 ですから店の名前にチェンナイやマドラスが付けられているがいくつかありました。 シンガポールおよびマレーシアのインド人たちは歴史的にまた地理的にも南インドのタミール人が多いのです。よく言われるのはマレー半島がポルトガルや英国の植民地時代だったころにヤシ園やゴム園で働く労働者として南インドのタミール人が連れてこられたというものです。 二日目が終わり、最終日の三日目は後編に続きます。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その3)の巻

ジャカルタから成田に到着してPCR 検査などの手続きをしてホテルへ送ってもらう帰国者専用バスを待ってたとこから始めますわ。 時刻は夜の7時半を過ぎてましたわ。ちゅうのは飛行機が成田に着陸したんが 3 時半、機内で1時間待って、PCR 検査の結果待ちが2時間でそれが終わって預けた荷物を取りに行ったんが6時半でしたわ。そんで税関を通り宅急便や銀行のATM に行ったりで1時間かかってバス停に行きましたんで 7 時半となったんですわ。 帰国者専用バスの案内板は暗い隅に置いてありましたんでしっかり見て探さんとわかりませんでしたわ。案内板には時刻表やのうて朝の9 時15 分から夜11 時15 分までが運行時間で1時間置きに出るゆうて書いてありましたわ。 そんできっとバスは毎時 15 分に空港を出るんで 7 時 15 分のバスに乗り遅れたんやと思いましたわ。そうすると次は8時15分やと思うて空港の中に入ってイスに座ってバスを待つことにしましたんや。 寒かったんですわ空港の外は、私はTシャツとジャケットだけやったさかいな。その日の東京は11 月中旬の温度やったとホテルに着いてから見たニュースで言ってましたわ。それに台風が日本に近づいておりましたんで小雨も降ってましたわ。 スマホのバッテリーが8%になって赤色になってましたんで休憩場所の壁の下の方にあったコンセントから自分の充電器を使って充電させてもらいましたわ。8時過ぎにバス停に戻ってきますとバスを待つ人は私を入れて3人だけでしたわ。 ちょっと待つと帰国者用専用バスが来て前の入り口のドアが開いたんで私がドアの外から運転手さんに「乗っていいですか」と聞くと「まだです」と運転手さんは席に座ったまんま手元に持ったボードに何か書き込みながらこっちを向かんと愛想のう言わはったんですわ。 やっぱ関東の人の言葉は冷た いなあと感じましたわ。私は「まだ乗ったらアカンのやったらドアを開けんでもええやないか、閉めた まんまにしといたらどないや」とボヤきたかったんですが言えませんでしたわ。きっと寒さと暗いところでバスを待っておったしお腹が空いてたんで温厚な私でもイライラしてたんやろね。 そして運転手さんが手に紙を挟んだボードを持って降りてきて3人にどこのホテルに行くんか聞かはって3人の荷物をバスの横腹にある荷物入れに入れてくれましたんや。私は荷物を運転手さんに渡した後に「もう乗っていいですか」と聞きますとね「どうぞ」とまたそっけない言葉でしたわ。ついでに私が「(私の 泊まる)〇〇ホテルはバスに乗って最後のほうですか?」と聞くと「そうです、最後から2番目かな」 と答えてくれはったんですわ。 バスに乗り込みますとすでに4人ほどの人が乗ってはりましたわ。バ スが出発すると何回か止まり人が降りその都度運転手さんは席を立っては外に降りて荷物を車体の横腹から出してまたバスに戻ってきて運転してはりましたわ。空港を出て15分くらいしてからやろか私の泊まるホテルの近くに着きましたんや、お客さんはまだ一人残っておりましたわ。運転手さんはやっぱりパスを降りて車体の横腹の荷物入れから私のトランクを出してくれましたんや。親切でんな日本のバスの運転手さんは。運転して、車内アナウンスをして、荷物を入れたり出したりして、行先を教えてくれたりと一人で何人もの仕事をこなすんですわ。工場でいう多機能工ですわな。日本の文化ですわ、よその国では考えられへんことですわ。 その運転手さんに私は「ホテルにはどっちの方向に歩いていくのですか」聞くと「ここをまっすぐ行ってあそこを右に回って左側にあるよ」と簡単に教えてくれはったんです。けど私には初めてのところやさかいようわかりませんでしたんや。ええ  わスマホで調べればわかるやろなと思って運転手さんには「ありがとうございました」とお礼を言いま  したんや。 降りたとこのすぐ近くにコンビニがありましたんでホテルにチェックインしたらすぐに弁当とお酒を買いに来ようと心がはやりましたわ。はよう日本の弁当を食べたかったんですわ。ホテルまではちょっとした坂道を上って行かなあきませんでした。小雨が降り始め坂をすべらんように上るの はちょっとしんどかったでっせ。駅の周りには多くのホテルやマンションが立ち並んでいましたわ。 ホテルはビジネスホテルでしたんや。中に入ると透明なプラスチックで仕切ったカウンターが2つあってひとつの方でホテルマンが先客と話してましたわ。私はソーシャルディスタンスを守り先客の後ろに離れて立って順番を待ちましたんや。そうしてましたらもう一人ホテルマンが外から戻ってきてカウンターのなかに入って私にどうぞと言わはったんで私はチェックインの手続きを始めましたんや。 ホテルには会社から予約を入れてましたけどホテルマンは私に「どこから来たのですかそのあとどこへ行かれますか」とゴーギャンの有名な絵の題みたいなことを言わはりましたわ。そして私が帰国 者であることを確認すると「連泊のお客様へのお願いと案内」と書いた一枚の紙を渡してくれてその説明を始めましたんや。 仕事で長期に滞在する人を対象とするんで「連泊」と書いてはあるんですが、これは帰国者を対象にしたもんやと思いましたわ。なぜかちゅうとねその内容が次の通りやったからですわ。 〇朝食付きですがレストランの食事はご遠慮いただいております。お部屋までお待ちします。 書いてある言葉は丁寧ですけど「帰国者は人と接触してはアカン」ちゅうことですわな。けどポジティブに考えればこれはルームサービスですわ。私は海外の出張でもホテルのルームサービスを取ったことがおませんでしたさかい初体験になるんで嬉しかったですわ。けどあとで部屋に行くときに乗 ったエレベーターの中には「朝食はレストランでおいしい食事をどうぞ」いう写真付きのポスターが貼ってありましたけどな。それにビジネスホテルでルームサービスはあまりお目にかかれませんわな。 〇毎朝ドアの前にタオル、歯ブラシのなどのアメニティの入ったセットを置かせていただきます。 「シーツ・枕カバーの交換もご自身でお願いしております」とも書いてありましたんや。私は今までサービスアパートに住んでましたんでシーツの取り替えを自分でしたことはおまへんのですわ。そんで だんだんと自分が人と接触してはあかん ET みたいな存在になったようで淋しくなったんですわ。せっかく久しぶりに日本に帰ってきたのに人と接触できんのはむなしいなあと思いましたわ。 〇その中にはビニール袋が三枚用意しています。使用済のタオルやガウンはその袋に入れて縛ってからドアの前にお出しくださいませ。 これまた「帰国者はホテルの清掃スタッフとも接触してはアカン」ちゅうことですわな。さらにわびしくなりましたんや。シーツや枕カバーを自分替えるんやったらその分の料金は安うなっとるんやろか。 〇アメニティー類とリネン類は別々の袋に入れ、ドア前に置いて頂きますようお願いします。 「清掃スタッフはお部屋への入室を控えさせていただきますので、ご滞在中の客室清掃はお受けできません」とも書いてありましたわ。15 日間私は掃除をしない部屋で過ごすのですわ。バスタブもトイレも自分で掃除せなあきませんわ。けどこれは禅宗のお寺の修業コースだと覚悟しましたわ。 〇外出はなるべくお控えいただくようお願い致します。(万が一外出する際は必ずマスクの着用をお願いします。) なるべく控えるってどのくらいの頻度なんやろ。私は PCR 検査が陰性やったんでっせ、ある国の大統領なんか陽性で入院したのに一週間もたたへんうちに人前に出てきてますやないか。だいたいやがねぇ、待機生活の二週間が終わってから PCR 検査もラピッドテストもないっちゅうのはおかしいんとちゃいまっか。そんなんもう一回チェックして陰性であることを確認してから人前に出れるように せなアカンと思いまっせ。ちゃいまっか、ねぇ、責任者出て来い。「ほんまに来はったらどうしますんや。」「謝りますわ。」「なんて?」「ゴメンちゃい。」なんや人生幸朗生恵幸子のボヤキ漫才やがな。 結果判明後について(厚生労働省Q&A より) Q 陰性の結果が判明した後は自由に行動ができるのですか A 入国した次の日から起算して 14 日間は、事前に申告いただいたご自宅又はご自身で確保したホテル等にて待機していただきます。その際、自宅・ホテル等の待機場所からの外出や、公共交通機関(不特定多数が利用する電車、バス、タクシー、国内線の飛行機、旅客船など)を使用しないでください。 ※待機宿泊時の食事は、デリバリーサービスなどのご利用が推奨されております。 私の同僚でインドに長期出張しておったんが一週間前にやっと帰国できましてな羽田のビジネスホテルでの待機生活に入ってましたんや。彼からは朝食はレストランで取れるけど昼と夜はコンビニで弁当を買って食べてると連絡をうけてましたわ。そして近くに見える東京タワーの写真を送ってくれてましたんや。私は会社からホテルの名前を連絡してきた時にネットでその場所を調べてホテルが 成田山新勝寺に歩いて行ける距離にあることを知りましたんや。そんでチェックインする時にホテル マンに「新勝寺には散歩に行けますよね?」と念のために聞いてみたんですわ。すると「行くのでしたらひと気のない夜か早朝に行ってください」と冷たく言われましたわ。これまた帰国者は感染の可能性があるから人と接触をしてはアカンということですわな。 そして私が「洗濯ものを出すことができますね」と聞くと「ちょっと待ってください」とゆうて隣のカウンターの人と小声で耳打ちしだしましたん や。そして耳打ちされたホテルマンが「業者が受け付けてくれません。洗濯はホテルの〇階にある コインランドリーでしてください。百円玉5枚でできます。」と言わはったんですわ。チカランではサー ビスアパートやったんで自分で洗濯をしたことがおませんでしたわ。こりゃまた面倒やなと思いました わ。 私が「洗剤は自分で買って来るのですか?」と聞くと「洗剤は入れなくても自動で出てきます」とのことでしたわ。そのやり取りを引き次いで最初のホテルマンが「洗濯はできるだけ昼間のお客さんがいないときにしてください」と言わはったんですわ。なんやなんや私は完全にコロナ感染者として扱われているのかと思いましたわ。私が不服そうな顔をしていたからか「外食はできませんがホテルの周りにデリバリーのできるお店がありますので取り寄せることができます」との説明がありましたわ。 平安時代の 939 年に関東の武将・平将門が新皇と名乗り朝廷と敵対し乱が勃発しました。朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正は弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発し成田の地にて御護摩祈祷を行い結願の日に平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れました。寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げここに成田山新勝寺が開山されたのです。(新勝寺のHP から抜粋) 私が受け付けをしている間に隣のカウンターに新しいお客さんが来ましたんや。日本の隣の大きな国から来た人のようでしたわ。対応したホテルマンが「予約されてるお名前は何ですか」とか「パスポートを見せてください」とか「どこの代理店を通じて予約しました」と聞いてましたわ。 その若い旅人はカタコトの日本語で答えていましたが結局予約をしていなかったようですわ。するとホテルマンが「予約がないと泊まれません。部屋がないのです。」とはっきりと答えたんでその旅人はあき らめてホテルを出ていきましたんや。そらあホンマに部屋がなかったらしょうがおませんわな。きっと旅人はダメ元で来たんでしょうな。 そんなんで私はホテルマンから説明を聞き終えて 15  日間の宿泊代金を前払いして部屋のキィーを受け取って部屋に入りましたんや。日本のビジネスホテルですやろ狭いのは仕方おまへんで、覚悟はしてましたわ。思った通り机とイスとベッドがあってバス・トイレ・洗面台付きのユニットバスだけですわ。私は荷物を部屋に置いてからホテルを出てさっきバスから降りたとこのコンビニに向 かいましたんや。外は暗く小雨が降っていましたわ。けど日本のコンビニで物が買えると思うと小雨も気なりませんでしたわ。日本のコンビニは本当にええですわ。味噌汁、とん汁、しじみ汁、なめこ汁、長ネギ汁などいろんな汁物があっていろんな種類の弁当がありますもんね。一番うれしいのはお酒の値段がインドネシアより  メチャクチャに安いことですわ。五分の一くらいとちゃいまっか。ワ イン(375ml)とウィスキー(180ml)とソーダを買っても二千円し ませんでしたで、ちょっと信じられませんわ。私の住んでいたチカ ランで最近密造酒を飲んだ日本人が死亡したニュースがありましたんや。 安いお酒に手を出したんですわ。私にもその気持ちはよくわかりますで。そやから他人事やおませんでしたわ。 私はお酒類のほかにコンビニ弁当ととん汁を買うてさらにペットボトルのお茶とオ ニギリも二個買いましたわ。鼻水が止まらなかったんで風邪薬をさがしたんですが置いていませんでしたわ。そんで薬は翌日に買いに行こうと決めて勘定をすませましたんや。レジでは袋が要りますかと聞かれましたで袋は有料なんやね。インドネシアではマイバッグですけどな。 そしてルンルン気 分でこれまた暗くて小雨ふる寒い中をホテルに戻りましたんや。 お腹が空いてましたけど弁当を食べる前にスマホをホテルの Wi―Fi  に接続したんですわ。そしたらラインがドドッーと入ってきましたわ。 空港でPCR   検査の結果待ちの時に友人や家族に打ったラインの返事ですわ。そんで私は食事するのを後にしてみんなにまるで罪人扱いや収容所生活やとボヤキを書き込んで送りましたんや。 すると中には「コンビニへの外出が許可されとるんやったら遠くのとこに行ってもコンビニに行って来  たといえるわな。ほならついでにデズニ―シーにでも行って気晴らししたらどうや」というのもありましたんや。そんで私は冷静に「公共の交通機関に乗れないのです。」と返事をすると「そうなんや」との返事がありましたわ。 そして嬉しかったのはその日の朝別れたばかりの会社の運転手さんからのラインですわ。私がいなくなって淋しいとちゅうラインですわ。私は彼に沢山の思い出をくれてありがとうと返事しましたわ。ラインへの書き込みがひと段落したんで食事をすませました。チカランでも部屋で一人の食事をすることがありましたけどビジネスホテルで三方を壁に囲まれた狭い部屋で一人で食事するのは侘しいものでんな。飲もうと思って買ったウィスキーとワインでしたが風邪気味だったので結局飲めませんでしたわ。 その晩はマッチ箱のような浴槽に体を沈めて、チカランのアパートの大浴場をなつかしがりながら体を温めそのままベッドに入り明日からの15日間の監獄生活、ちゃう待機生活をどうやって楽しもうか 考えながら眠りにつきましたわ。今日はここまでにしますわ。 […]

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その2)の巻

朝の6時半に予定通りに飛びたった飛行機は午後3時半に予定通りに成田空港に着きましたんや。 私は出発してすぐに出た弁当、ちゃう機内食を食べただけでこの3週間の連日の送別会の飲み疲れのためにあとはずっ―と寝てましたんや。そやから途中で配られたチーズとハム入りクロワッサンを食べ損ねてしまいましたわ。 そうそう搭乗したらすぐにコロナ関係の書類を二枚渡されたんで必要 事項を記入しましたで。機内の搭乗客の割合は3割でしたわ。インドネシアの人が多かったんでっせ。そうそうそれに大変ですわ。機内が寒かったんですわ。私はTシャツにジャケットを羽織っただけでしたんでフィリピン上空を過ぎたあたりから鼻水がでてきて往生しましたわ。マスクと鼻の間にハンケ  チを挟んで水分を吸収させたんやけどすぐに鼻先が冷たくなるんで何回もハンケチをずらしたり折り 返したりして水分を吸ってへんところを鼻に当たるようにせなあかんかったですわ。それに台風が日本に近づいてるせいか寝ていても時々大きな揺れで目をさましたんですわ。 先を急ぎまっせ、3時 半に成田に着きましたら機内アナウンスがありましてな検疫のために機内で待機してくれですわ。 そんでしばらくするとまたアナウンスがあって国際線乗り継ぎの人が先に降りて検査を受ける、そして帰国者は2番目やとのことでしたわ。そんで一時間も機内で待ちましたで。けど大勢のインドネシア   の人たちが先に出ていきよったさかい CA が私の近くに来たとき「あの人たちは乗り継ぎの人ですか」と聞くと「そうです、アメリカです」との答えでしたわ。今どきにインドネシアの人がアメリカに何しにいくんでしゃろな。まあそんな詮索せんでええか。そんで帰国者が降りる番になりましたわ。私は機内で一番うしろの席に座っておったんで一番最後に出ましたわ。機内から通路に出ると人々が壁際に一列に並んでおったんですが私は機内から私の前を歩いて行く人について行って並んでいる人の列の横を素通りしていったんですわ。そしたら動く歩道がある広い通路に係の人がいて検査場はあちらですゆうたんでそっちの方に歩いていきましたんや。私の前を歩いていた人は動く通路に出たときに検査場と反対の方向に歩いて行ってしましたんや。そんで検査場に向かう通路にはイスが窓側に間隔を置いてぎょうさん並んでましたわ。けど誰も座っておらんかったですわ。その並んだイ スの先が検査場の入り口で机があって二人の人がいるのが見えました。けどそこまで私たちを案内してきた人が私に「すみませんが降りた順番で検査場に入ってください」ちゅうてさっき私が追い抜いてきた人達を先に通すように言わはったんですわ。あれっなんでや、と思って案内してきた人に 「私は機内から私の前を歩いいた人について来ただけです」というと「あの人達は航空会社の人ですから」と言われました。あちゃー、それならそうとはよう言ってもらわんと困りますがな。私は息を  切らして老骨に鞭打って急いで検査場に向って歩いてきたんが無駄骨に終わりましたがな。まぁ、ええですわ。そんで降りてきた人たちが私の目の前を通りすぎてその一番あとに検査受付に行くとプラスチックの小さな試験管とジョウゴちゅうかロートを渡されました。私はPCR 検査が鼻に棒を突っ込んで調べるもんやと思っていたら違うんですわ。そんでまた歩いていくと選挙の時みたいに仕切 ったブースがあってその中でその試験管に唾液を入れてくださいと言われたんですわ。ブースの中   の壁には選挙人名簿の代わりに梅干しとレモンの写真が貼ってありましたわ。私はその写真を見ながら何回も唾液を絞り出してはブースの外の立っていた検査官と「これでいいですか」「まだ足りません」「まだだめですか」「もっとです」「これで十分でしょう」「まだです」「もう出ませんよ」「あと一回お願いします」というやり取りをしてやっと終わってブース横の机のところの検査官に試験管を渡したんですわ。すると検査官は機内で記入した質問票に番号の書いてあるシールを貼って下の待合室に行ってくださいといわはったんですわ。私たちが到着したフロアーは4階でしたんや、そんで3階に降りていくとそこは大きなホールみたいなところでしたわ。 降りてすぐのところに一列で透明なプラス チックカーテンで仕切られたカウンターがいくつも並んでおりましたわ。そしてその広いホールにはイ   スが卒業式みたいに仰山きれいに並んでいて NHK の歌合戦みたいに座席の合間に A、B、C ちゅう文字の書いた立て札が立ってましたわ。 私はそのホールに降りて一列に並んで順番待ってカウン ターにいくとそこで質問表に書いてあることを確認されて「今日はどこに泊まりますか」かと聞かれま したんや。私は会社が指定したホテルに泊まることになっていましたんでそのホテルの名前を言うと「そこまではどうやって行きますか」と聞かれたので「バスが出ていると聞いています」と答えると「それは帰国者専用のバスです。空港のこの出口から出ています」と空港からの出口を示したパンフレットを渡してもらいましたわ。 そして  A-33と書いたシールを質問表に貼られそこで座って待つように言われましたんや。帰国者は公共の交通機関の利用が禁止されてますんや。家族が迎えに来て自宅で待機するか、帰国者専用バスで指定のホテルで待機生活を送るかなんですわ。そんで私は A の立て札のあるところに行きましたんや。そこは一列に並んだイスの一つ置きに番号が書いてあり私は33の席に座りましたんや。 そのホールの写真を撮ろうとしたらあちこちに「撮影禁止」の貼り紙がしてありましたけどその貼り紙を見る前にスマホで1枚写真を撮ってしもてましたわ。すんません、その写真はお見せできません。なんせ機密扱いやさかい。見せたら私は国家機密法漏洩違反で逮捕されてしまうさかいな。 その待合ホールでは2時間も待たされましたんでっせ。5分置き位に10人ほどの人が番号を呼ばれて立ち上がっては次の場所に行くんですわ。私は鼻水をかんだティッシュをホールの隅に置いてあるごみ箱に何回も捨てに行きましたわ。検査結果を待ってる間にインドネシアの会社や本社の関係者や友人や家族に安着と検査待ちの状況をラインやメールしましたで。 私たちのフライトがその日の最後の方のやったんやろかB、Cの人たちがだんだんいなくな っていきました。そして  A  グループの私の前の番号に座っていた人たちも番号を呼ばれていなくなっていきました。検査場に入って2時間後の6時半にやっと自分の番号も呼ばれて席を立ちましたわ。歩いて行って次の場所で一列に並んで待つとパーティションの向こうに机が2つがあり二人の検査官が向かい合って座っていて結果を教えてくれたんですわ。私は鼻水が出てましたんで風邪の症状が出てPCR 検査で陽性と間違えられへんやろかと心配でしたんやけど陰性の証明書をもらえましたんや。ありがたや、ありがたや。ああ守屋浩も亡くなってしもたんですね。僕の恋人東京へ行っちっち。すんません。         そんでやっと荷物を受け取るコンベアところへ行きましたんや。ジャカルタからの便の荷物は一番端っこのコンベアでしたわ。荷物はちゃんとありました。そんでジャカルタの空港で確認できたように1台の カートに荷物を全部載っけてみどり色のカウンターを通りました。 私のギターケースを見て係官が「ミュージシャンですか」と聞きました。この顔がミュージシャンに見えますか?これから旅行するとき  はギターケースもって行ったろかな。そんで私は税関を終えてロビーに出ましたがな。9か月振りの日本ですわ。ああ秋の日本、ああわが祖国ですわ。 帰国者用バスに乗る前に荷物を岡崎の家に送るべく宅急便屋さんを捜しました。というかロビーのインフォメーショのお嬢さんに聞きましたんや。すると建物の端っこにあると教えてもろたんでそこまでカートを押していきました。 すごいもんですね、きょうびの印刷技術は。宅急便の伝票の一枚に届け先を書いただけやのに荷物分の個数の伝票がすぐに出来てきましたんやで。伝票って一個分でも何枚かの感熱紙でっしゃろ、なんで伝票一枚にしか住所を書いてへんのに複数の感熱紙の伝票におんなじもんが印字できるか不思議に思いましたんや。 そんで理由が知りたくて聞くとそういう機械があるんですと言ってその機械を指指してくれま した。へぇー。確か家で嫁さんが宅急便を出すときに荷物の個数分の伝票をせっせと書いていたのになあ、私も荷物分の伝票を書く心つもりできたので嬉しい拍子抜けでしたわ。 そんで荷物預けて手が空いたんですぐに嫁さんにラインでそんな機械があるんやでと連絡しましたがな。そしたら嫁さ  んから「へぇー」ちゅう返事とともに伝票を写メして送れって指示してきたんですわ。しっかりしてまっしゃろ、うちの嫁さん。 そやそやここでもギターケースを見て私にギタリストですかって聞かれましたわ。私がプロの音楽家に見えたんかなと思たんですが、そうではのうて高額な楽器は30万円が補償の限度だからのようですわ。やっぱり私は音楽家に見えへんのかなあ。 私は荷物が少のうなったんで次はインドネシアで両替してきた日本円を銀行に預け入れようと私の口座のある銀行の ATM を捜したんですわ。他の銀行の ATM は一階のフロアーに何台もあったんやけど私の銀行のが見当たらなかったんでまたインフォメーションに行ってさっきのお嬢さんに聞きに行ったんですわ。するとお嬢さんは「4階です」と教えてくれました。 あまりに親切だったんで思わず「帰国者用のバスはどの 出口から出ますか」と知ってたことをつい聞いてしまいましたがな。するとお嬢さんは  A3用紙に地図の書いてあるもんを使って「あそこの看板の下のエレベーターで4階に行って左に銀行のATMに  行ってまた1階に降りて左に曲がって、、、」と親切丁寧に説明くれはったんですわ。ええですなあ、 日本のインフォメーションのお嬢さん、めっちゃ親切やわ。 そんで私は4階のATMに行ってついでにひとけのない出発ロビーの写真を撮って1階に降りて帰国者専用バスの乗り場に行きましたんや。それからが今回のボヤキの始まりでんがな。 あかん、ボヤキが始まる前にようさんしゃべってもうたんで、のどが渇いてしまいましたがな。続きはまたにしますけどな、ちょっとだけ言わせてくださいな。 帰国者専用の無料バスは朝の 9 時 15 分から夜の 23 時 15 分まで出てまんのやけど一時間置きなんですわ。間が悪うて私がそこに行った時は7 時15 分のバスが出発したすぐ後でしたわ。そんでまた空港の建物の中に戻って待ち時間ですわ。そして8 時15 分のバスに乗ってホテルに着いたんが夜の9時前でしたんや。 そんで本当にボヤきたいんはホテルに入ってからのことですわ。でもあれでんな、日本の技術はすごいもんでんな。空港で自動警備ロボットを見ましたんや。ガランとした空港の床の上を「こちらは空港の警備ロボットです」と声を出しながら動いてましたで。 ほな私のボヤキは後からお話しますわ。いったんこのラインのビデオ通話を切りますわな。鼻水が出てしょうがおませんねん。それに荷造りしてたんで腰も痛うなってきたんですわ。 (その3に続く) 丹羽慎吾

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その1)の巻

まあ、みなさん、聞いておくんなはれ。帰国者はまるでコロナ感染者扱いですわ。 えっ、何をボヤいとるんやてですか。私はジャカルタから10月7日に帰国して成田のホテルで2週間の待機生活をしてますんや。 その前にこのホテルに来るまでのお話をさせてもらいますわ。 私は朝6時半に出発する飛行機に乗るためにチカランのアパートを深夜2時に出たんでっせ。すると1時間半もかからんと空港に着いてしまいましたんや。何年か前のレバラン休みで帰国した時には3時間あれば余裕を持って着くと思 ったのに5時間近くかかって高速道路の上で飛行機に間に合わへんちゃうかとハラハラしてたことが嘘のようですわ。私は持ち帰る荷物を別送便とせんと全部トランクに詰めて帰ったさかいトランク の大きいの2個、中くらい2個、リュック一個、手提げ一個それにギターケース一個とぎょうさんありましたんや。えっ、ギターが弾けるんですかって。弾けるちゅうか、 これな、私がタイに駐在した20年位前に嫁さんが記念にって買ってくれたんですわ。高価なもんやから飾っておるだけすわ。えっ、ど このメーカーですかって?すんません、ヤイリですねん。岐阜県は 可児市の有名なギターメーカーでっせ。ヤイリには一期一会、ちゃう一五一会ちゅう4本弦の有名なギターがおますんやで、このギターな、指一本でコードが弾けるちゅう優れもんなんですわ。あの沖縄の BEGIN さんと一緒に作ったギターなんですわ。私のは普通のクラッシック・ギターですわ。 あかん、あかん、話が岐阜に向かってもうたわ。そんで私の手荷物のことですわな、トランクが大きいちゅうても1個の重さは23㎏にしてくださいちゅう決まりがあるんでっせ。そんでそれらを空港のカート1一台に載せて私が一人で運べるかどうか心配やったけど、なんと1台に全部載るもんでんな。 空港について荷物をカートに積んで4年半働いてくれた私の運転手さんにお礼を言って別れて空港の建物に入りましたんや。運転手さんは無言でちょっと寂しそうでしたわ。一緒に何回も日帰り旅行に行ったり、朝晩の通勤では車の中   で彼から新聞の話題や彼の田舎話を聞いたり、私の日本半分ホラ話をまじめに聞いてくれたりしてくれましたもんね。それになんといっても2年前に運転手さんに次男が生まれたときには私の名前を付けてくれたんでっせ。そやさかい今回はいつもの遠出の時より多い心付けを渡しましたんや。 タイの時もインドの時も毎日話をしてた運転手さんと別れるのはつらいもんでんな。あかん、なかなか本題に入っていけませんわ。 そんなんでチェックインは一番乗りでしたで、係員がまだ列を整理するあ  れ、あれ、あのー、あれです、あのテープの出てくるスタンドを立てながらお客さんの通路を作って   ましたわ。そんで30分ちょっと列の一番前に立って並んで待ってチェックインでしたわ。 そやけど日系の航空会社でんな、受付開始する前にスタッフの皆さんがお客さんの方を向いて並んで開始の挨拶をしましたで。そんでね、私の荷物は当然重量オーバーでしたんや。そんで別のカウンターに  連れて行ってもろてそこで追加料金払って搭乗券をもらいましたんや。けど超過料金のレシートをみたら重量やのうて荷物 3 個オーバーで計算した料金でしたわ。あの金額で私は儲けたんかなあ、損したんゃろかなあ。 それから手荷物検査に行く前にフロアーをいろいろ見て歩きましたんや。朝まだ4時のせいかコロナのせいかほとんどのお店が閉まってましたわ。あのスター何とかちゅうコーヒーの店も日本のうどん屋さんの店も閉まってましたけど牛丼の店は開いてましたで。私は前の晩も何回目かの最後のお別れ会を仲間にやってもろて食べて飲んでましたさかいお腹は空いてませんでしたんや。 空港のフロアーの真ん中へんに窓口がいくつか並んだとこがあってその前に人が列を 作っておったさかいそこはなんやろうなと思って行ってみたんですわ。そしたらそこはラピッドテストの証明書を発行するところでしたんや。インドネシアでは国内線にラピッドテストの証明書がいるちゅうて聞いたことありましたんで、ああこれがそれかと思いましたわ。 それ以外に見るもんがなかったんで早かったけど税関に行きましたんや。この前に帰国したときには広い建物の反対側にある国内線の入り口に行ってしもたのですが今回は間違えませんでしたで。学習効果ちゅうやつですわ。けど国際線の方に入っていつものように奥の普通客のラインに行こうとしたら女性係官がおって手前のVIP の方に行けちゅうんですわ。なんでVIP なんやと思ったんですけど飛行機に乗る人が少ないからやと思いましたわ。 そんで手荷物検査ですわ。久しぶりの飛行機やさかい何をX 線に通すか忘れてしもて、パソコンと携帯だけトレーに入れて門型検査機をくぐろうとしたら、検査機の向こうにいた   検査官からポケットの中のもん出してトレーに入れろ、時計をバンドも外してトレーに入れろ、帽子もトレーに入れろですわ。しょうがおま せんわな。泣く子と役人にはかてませんわ。 そんでX 線の機械を通した後でバンドはせなあかん、ジャケットは着なあかん、財布はちゃんとあるか、そんであれっ時計はどこやと思うたら検査官が床を指さしましたんや、ちゅうのは私は時計を最後に慌てて外して上着の上にのっけたもんやさかい機械の出口のゴムのノレンに引っかかってベルトコンベアの上に落ちてそれがその次のローラーコンベアーに来てローラーの隙間から床に落ちてしもてたんですわ。難儀な帰国ですな。 そしてイミグレですわ。もうビザ終了の手続きのEPO これなEXIT PURPOSE ONLY の略ですわ、それも先週終わってパスポートにそのスタンプ押されてましたんですわ。けど私はパスポートを見せるんは Foreigner のカウンターかKITAS HOLDER のカウンターかどっちやろかと一瞬悩んでKITAS HOLDER の方に行ったんですわ。そしたらすんなりスタンプ押してくれましたわ。 すんなりちゅうてもマスクを口から外して顔をしっかり見せろっていわれましたけどね。あの~、EPO  って日本では女性のシンガーソングライターがおりますんやね。本名を宮川栄子ちゅうて東京生まれで沖縄在住ですってね。高見知佳や香坂みゆきに楽曲を提供してるそうですわ。これらの歌手を知らん人が増えてきてまんな。 あかん、まだジャカルタ空港の中の話でしたわ。ほなら急ぎますわな。 (その2に続く) 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(24)  ジャカルタ点描の巻

私が初めてインドネシアに来たのは大学三年の1973年でした。 あれから43年経ちました。ずいぶん発展したなあと思います。 この四月に何年か振りにジャカルタに向かう機中で、イミグレと税関の記入用紙をCAに依頼すると税関申告書しかくれませんでした。「イミグレ用のフォーマットはないの?」と聞くと「これしかありません」とのことでした。きっとイミグレ用のフォーマットは空港の中にあるのだろうと思いました。 しかし、空港に着きイミグレに向かって歩いて行ってもその用紙は置いてありませんでした。 そして、VOA(Visa On Arrival)の窓口で35ドル相当の円を払い、隣のイミグレの列に並びました。 なんとイミグレの窓口ではスタンプを押してくれるだけで申告書を提出する必要はありませんでした。インドネシアのイミグレも簡略化されたものですね。 そして、荷物受取場に向かう前に用を足そうとトイレに入りました。ちょっとビックリしました。 小便器に飛沫防止のプラスチックカバーがしてあるのです。多くの人がいましたので、その時は写真が取れませんでした。それで出張中にほかの場所で見た飛沫防止カバーや、そのほかに目についた便器を紹介します。 ついでに大きい方も紹介します。トイレは昔、日本で厠(かわや、川屋)と言われました。昔から人々は川の上にトイレを設け、川の水で洗ったのです。ウシュレットはそれを日本が技術化したものです。 私もインドネシアの田舎で川の上に設けられた小屋や、田の中に組まれた櫓の上で用を足したことがあります。 川や田の中にお魚さんが泳いでいました。 生物の生態ピラミッドというか、食物連鎖のようなものを感じました。 久し振りのジャカルタ出張では、今年2月に亡くなった代理店の社長のお墓にお参りしました。 彼が好きだったギターを形取った中に花ビラを撒いて敷き、お祈りをしま した。彼は私よりも5才年上でした。小さな商社を立ち上げたジャワ出身の苦労人でした。私がジャカルタに出張する度にあちこち有名レストランに連れて行ってくれました。かれはギター演奏ができ、歌も得意なので、あるレストランでは舞台に上がり、ビートルズの歌を演奏しながら自ら歌ったりしました。なんでも学生のころはお金がなくてバスの中に仲間とギターを持って乗り込み演奏し学費を稼いだとも言っていました。彼の事務所の自分の部屋にはギターが何本も飾ってありました。また、彼がマウンテンバイクに凝った時には車に自転車を載せて遠くまで彼の子供たちと一緒に出かけたとこもありました。彼がシンガポールに来たときには私の家で食事したりと家族付き合をしていました。 お酒も飲み、煙草もバンバン吸っていた人でした。日本食が大好きでホテルやブロックMの日本食レストランのたいちゃんラーメンの常連客で、お店の主人や板前さんと顔なじみでした。社員には厳しかったのですが、笑うと人懐っこい顔になり、私に日本について子供のように歴史や文化を聞きたがりました。「なぜ日本のラーメンはあんなにおいしいのか」と聞かれ、「それはトンコツが、、」とは、はっきり言えませんでした。数年前に中国で開催された海外主管者会議に呼ばれた彼と会ったきりでした。そんな彼が肺がんにかかり、シンガポールの病院で治療を受けていると連絡を受けていました。そして、とうとう亡くなってしまったのです。 ジャカルタの町のあちこちで見かけるシンボルマークは、私が今興味を持っている家紋に見えてきました。 ジャカルタの大通りは日曜日の午前中は歩行者天国になります。私は5月の出張の時、その大通りに面したホテルに泊まっていましたので、ある日曜日の朝、ホテルを出て北上して独立記念塔に向かいました。若い人たちがグループで歩いていきます。家族連れもいます。まるで日本のお祭りのように屋台や路上販売がたくさん出ていました。 途中では道路を塞ぐかのように多くの人たちが体操をしている場面をありました。子供をまじえた大道芸を見たり、断食前のためかイスラム教主義を守ろうと主張するプラカードを掲げて行進する人たち、お祭り用の大型人形で歩く人たちなどにぎやかなものでした。また、ヒゲメガネをつけてパントマイムをしているおじさんとか、幽霊装束で歩き一緒に写真を撮る一団もいました。初代大統領で演説がうまかったスカルノの立て看板や、初代副大統領ハッタに扮しロウ人形のように動かない人とか、ある場所では、子供が路上に並べてあるおもちゃの拳銃を向けると倒れる格好をする軍人とか、愛国心を呼びかける場面もありました。 扮装ばかりでなく、政府も協会もプロモーションをしていました。 独立記念塔で一服し、ホテルへ戻る途中ではいろいろな形をしたビルに目が留まりました。 ジャカルタのショッピングセンターにも入りました。華僑の所有するビルでしょうか、4階の表示のないところがありました。4階は3Aで表示されているのです。そして別のオフィスビルでは4階どころか13階も表示がなく12Aとなっていました。 飛行機などでもB席がない場合がありますよね。ご存知でしたか。Bは13に通じるからです。 タイでは6(ホック)という数字がひっくり返るの発音で嫌われていました。タイで縁起のいい数字は9(カウ、前進)でした。部下の結納の父親役をしたときは9月9日9時9分にいいなずけの家にお嫁さんに下さいと同行しました。   インドネシアというかジャワ島では5が縁起の良い数字のようです。パンシャシラは建国五原則です。また、ジャワ暦は5日単位だったそうです。 ジャカルタ空港で、出発ターミナルで。 付録:シンガポールの空港で 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(23)  日帰り旅行 その5 温泉をはしごの巻

ジャカルタから日帰りで行ける温泉にできるだけ多く行ってみようと思いました。 私のインドネシアでの温泉経験は昨年の中部ジャワのグチ、バンドン近郊のチアテル、そして今年に入り訪れたスカブミ県のインド洋側のチソラックです。 他の温泉をネットで調べるとジャカルタから日帰りできるところが一杯紹介してありました。 それに載っていたボゴール近くのティルタ・サニタに行くことにしました。 しかし、今回の旅行は帰ってきてからもっとネットでの紹介をよく読んで行くべきだったと反省しました。というのは、ティルタ・サニタは温泉が一カ所でなく辺りに三か所ものの源泉があるとネットに書いてあったの、それを流し読みしたので一番奥の魅力的な源泉に行きそびれたのです。しかし、そのため時間が出来て他の場所に移動して楽しい旅行ともなりました。 朝8時にチカランを出て1時間半で目的地に着きました。 駐車場に車を停めて温泉への入り口を近くの人に聞くと、道路を挟んだ反対側にあると教えてくれました。それでそこに行き入口で入場料を払い中に入って行きました。 受け取ったチケットにはティルタ・サヤガと書いてありました。 ネットで調べたのはティルタ・サニタですので、私は違うところへ来てしまったのかと不安になりました。でも、温泉に入れるのであれば問題ないと思い、着替えを入れた袋を持って中に入りました。 入ってすぐに『Hot Spring, Tirta Sayaga』と書いた看板があり、その向こうには白い丘が見えました。 その白い丘は石灰と塩でできた丘でした。 そこは温泉地というよりも遊園地みたいでした。そしてまだ昼前でしたので訪れる人は少なかったのです。私と運転手さんは温泉を探して丘に登ったり、丘の回りを歩いてみました。 子供用のプールやセラピーと書いた建物はあるのですが温泉らしいものが見つからず結局白い丘の回りを一周しただけでした。 私は運転手さんにここは失敗だ、歩き疲れたので休憩したあとに他の温泉に行こうと言いました。 そして入口付近の売店で三位一体のインスタントコーヒーを飲むことにしました。 インドネシアのインスタントコーヒーですから粉が底に沈むまで待たねばなりません。 売店の前を歩く家族連れや団体の人たちが増えてきたので、売店のオヤジさんが店先でシャボン玉セットを実演して売り出しました。 私は運転手さんが近くの温泉をスマホで探している間にそのお手伝いをすることにしました。 スマホで調べていた運転手さんが別の温泉が駐車場の反対側にあると言ってきました。 それで休憩を切り上げて、駐車場へもどり、近くの人に聞くと、先ほどの公園とは反対の山の上に温泉があると教えてくれました。私たちはそこへ行くことにしました。 その温泉はグヌング・パンジャンで、売店と売店との間に挟まれた狭い入口で入場料を払うと側にFish Spaの生け簀があり、数人の女性客が水の中に素足を入れていました。 このFish Spaはほかでも見たことがあるのですが、私は試したことがありません。 そこのFish Spaは無料だというので運転手さんと試してみることにしました。 サンダルを外して足を入れるとフナのような小さな魚が私の足の爪から踵までに寄ってきました。 最初はあちこちをちょっと刺されるような痛みを感じましたが、慣れて来るとくすぐったくなってきました。足の古くなった皮を餌として食べているのでしょうね。申し訳ない気がしました。 片方ずつ足を入れてFish Spaを堪能したあと、そこを離れ丘の上に上っていきました。 するとそこには細い道を挟んで掘立小屋が立っていて、多くの人が休んでいました。 そしてよく見ると通路の横に岩をくり抜いた湯船が四つほどあり、そこから流れる湯がその下の池に流れ、さらに一番下の大きな池に流れ、その先は広く広がる田園風景になっていました。 私たちはで通路横に机だけ置いた場所で入浴料を払い、粗末な小屋で水泳パンツに着替え、一番上の岩の湯船に向かいました。運転手さんは私よりも先に湯船につかり先客二人と一緒に湯船のそこから泥の様なものをすくい顔や、体になすりつけては湯で洗いおとしていました。 二段目、三段目の浴槽というか池の湯の温度はほんのわずか温かいといった程度でした。 それでそこに浸かる気にはなれませんでしたが、そこから眺める田園風景は絵になるものでした。 浴槽から上がり小屋で着替えて、戻る途中に料金所で写真を撮り、丘を下りて駐車場に戻りました。 私は運転手さんにまだ昼前だから、遠くてもいいから別の温泉に行こうと提案しました。 運転手さんはまたスマホで探してくれて、そこよりももっと先に別の温泉があると言うのです。 それではそこへ行って昼食を取り、温泉に入ろうと提案しました。 次の温泉地へは田舎道ばかりを通った長いドライブで、途中で午後1時を過ぎてしまいました。 食事をしようにも麺や揚げ物の屋台のある狭い家並みは通るのですがレストランが見つかりませんでした。運転手さんにはお腹が空いたら好きなものを食べていいよと伝えましたが、彼は目的地まで行きますと言って運転を続けました。 道は次第に坂道となりどんどんと登っていくと温泉地らしいところに着きました。 するといつものように道路に料金所があり入山料、通行料などを支払いました。 その温泉地はボゴールのサラック山(標高2,210m)の麓の温泉国立公園内にあるものでした。 その日は日曜日でしたので、料金が休日料金となっていました。 私たちは温泉よりもお腹が空いたので、温泉への小さな入口を通り過ぎ、レストランらしきところを探して車を走らせました。 するとヴィラ風の建物があったので車を停めて、入り口で食事ができるかと守衛さんらしき人に尋ねるとできますということでしたので、中に入っていきました。 車を駐車場に置いてレストランがどこかを係の人に聞くと、入口横の事務所に案内され、女性担当者からノートに名前と電話番号、メールアドレスを記入してくださいと言われそうしました。 その係の女性がヴィラの案内は必要ですかと聞きましたが、私は食事だけで結構ですと答えました。そしてレストランに案内されましたが、お客さんは私たち二人だけでした。 メニューを見て食事を選び注文すると、運転手さんがトイレに立ち、席に戻ってくると外の景色が素晴らしいですよと教えてくれました。 それで私はレストランの人に外の景色を見に行っていいか尋ねるとその人はそのまま敷地内のヴィラのいくつかを案内してくれることとなりました。 そのヴィラは斜面を利用して広い土地のあちこちに立派な個室を持っていました。 また会社の会議や研修なども宿泊してできる設備も持っていました。 ヴィラでの食事は美味しいものでした、そして食事を終えてから目的の温泉地へ向かうために来た道を戻り、脇道の温泉への狭い道路に入り、さらに走った先に狭い駐車場がありました。 そこからコンクリートの急な階段を下りていくと途中に展望台のような ところがあり、山々の景色を眺めることがきました。 コンクリートの階段その段差が一律でなく歩きにくいものでした。 さらえにどんどんと下りて行きましたので帰りの坂道がしんどいものに なるだろうなと思いましたが、頑張って下りて行くと、大きな岩が 沢山ある川の中で多くの人が水遊びをしているのが見えました。 川沿いに温泉の水がパイプで引いてきてあり、頭から湯を浴びる 場所もありました。 私はゆっくり浸かれるところが無いかとあたりを見回すと、坂の上に幼稚園のプールのようなものがあり、子供たちが入って遊んでいるのが見えました。 その入口に料金所があったのでそこの人に、どこに温泉があるかを尋ねるとその子供プールを上ったところに温泉があるといいました。 私はまずそこを見せてくださいと料金を払わずに上がっていくと、そこもプールになっていて中に大勢の人たちが湯に浸かっていました。 その湯に手を入れてみましたが、あまり熱くはありませんでした。 プールの横には建物がありその中には個室のバスがあるようでしたが、私はもう帰る時間も気になり、お湯に入る気分も失せていましたので入り口で待つ運転手さんのところに戻りました。 そして彼に川の上流に掛かっている橋から向かい側に渡り、下流に掛かっている橋でこちら側に戻ってこようと伝えました。 川に掛かる橋は歩けば揺れるような橋で、また川の両側の売店兼休憩所は遠くから眺めると昔の日本の湯治場のような風景に思えました。 川から駐車場へ戻るコンクリートの坂道は予想通り私には堪(こた)えました。 時には運転手さんにタオルの端を持って引っ張ってもらったり、休んでは深呼吸し、休んでは深呼吸をしながら上っていきました。 インドネシアの温泉も駐車場から温泉場へのアクセスや湯に浸かる設備が早く整備されればいいなと思います。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(22)  日帰り旅行 その4 サーフィンと温泉の巻

日帰り旅行の4回目はインド洋を見に行きました。 私の部下がインド洋でサーフィンを楽しんでいると聞いたので、私の前任地のインドと繋がるその海を見に行きたくなったのです。また、ジャワ海の方ではサーフィンが出来る波が起きないようです。 その日は朝7時にチカランを出発しボゴールを抜けスカブミ県に入り、長い山道を上り、下るとに港町が目の前に開けました。着いたのは11時ころでした。 長時間休憩なしのドライブでしたのでコーヒーブレイクにしようと入ったレストランにはフィルターで濾したコーヒーはなくインドネシアのコピ・ヒタム(Kopi Hitam=黒いコーヒー)しかありませんでした。 それで他の店を探しましたが、どこもコピ・ヒタムばかりでした。ホテルならドリップ式コーヒーが飲めるだろうとホテルに入りましたが、ホテルのコーヒーもコピ・ヒタムでした。 私はあきらめてあの口の中にコーヒーを挽いた粒々が入ってくるコピ・ヒタムを飲むことにしました。 休憩してホテルを出ると駐車場に同じ模様の入ったオートバイが数台並んでいて車体にはGogobliと書いてありました。そして、そのオートバイたちが一台一台と駐車場から整列して出発して行きました。私は車に乗り込んで運転手さんにあの一団はGojek(オートバイタクシー)のようなものかと聞くと、オンラインで化粧品や健康食品を販売している会社ですと教えてくれました。 ホテルを出る時に運転手さんがサーフィンをする部下の車の運転手に電話をしてサーフィンをする場所を確認しました。 そして、海岸線に沿って走っていくと、道路の真ん中に机を置き、両側に人か立ち車を止めていました。独立記念日の前になると村々ではお祝い行事をするための資金を集めるために道路を走っている車を停めて運転手から小銭を徴収することがあります。 私はその寄付集めかなと思ったら海岸の通行料30,00ルピア(約240円)を払う場所でした。 そのあと運転手さんは大通りから小道に入っていきました。 すると、そこには手動式の踏切のように錘のついた竹竿が道をブロックしていました。 それは竹竿の先に紐をつけ手で上げ下げするゲートで、そこで入場料を10,000ルピア払いました。 ゲートを上げてもらい細い道をさらに進んでいくと、海がみえました。 そして海に面した狭い駐車場があり、車が三台ほど駐車していました。車から降りて海を眺めると少し沖に10人くらいのサーファーが波に浮かび、大きな波を待っているのが見えました。 そこで、サーファーたちの波と戯れる様子を眺めました。 海岸の一角には「ゴミは持ち帰りましょう」とインドネシア語、英語、そして 日本語で書いたサーフボードが立てられていました。 海を眺めているとちょうど12時になったので、私たちはから食事に行くこと にしました。 海ですから美味しい海鮮料理が食べられると期待しました。 大きな道路に戻り美味しそうな料理が食べられそうなレストランを探しました。 そしてちょっとしたホテルのような建物を見つけ、入り口の人に聞くとレストラン があるというので車を駐車場に入れ、建物に入っていき、階段を上がり2階に 行くと、テラスから海を眺めながら食事ができところでした。 しかし、お客さんは私と運転手さんの二人だけでした。 料理を注文し、出て来るまで運転手さんと写真を撮り合いました。 料理が出て来るのに時間がかかるので運転手さんが二回ほど調理場に督促に行きました。 結局料理が出てきたのは注文して一時間経ってからでした。 料理中に運転手さんがこの近くに温泉があると教えてくれました。それで料理を食べ終わってからそこに行くことにしました。 レストランから出て海岸線を少し西に走り山の方に上っていき ました。するとまた道路上で通行料を払いました。 なんでこんな山道で通行料を払うのだろうと運転手さんに聞くと そこが温泉地への入場料だったのです。 売店が並ぶ駐車場に車には大型バスが何台も停まっていました。 私たちも車を停め、売店横の坂道を降りて行きました。 すると川から蒸気が吹き上がる光景が目に入ってきました。 川に近づいて行くと硫黄の匂いが鼻に入ってきました。 川の中では噴き上がる蒸気の回りで多くの人が水に浸かっていました。 しかし、川の水がちょっと汚れていたので私は川に浸かるのをあきらめました。 すると運転手さんがお湯に浸かれるところがあると言い、そちらを見ると温水プールの入口がありました。入場料は一人2,500ルピア(約20円)でした。中に入ると近くに大きなプールがありました。 私は海に行くためにとTシャツと短パンの着替えは持って来ていましたが、下着は準備していなかったのでプールに浸かることはやめました。 すると係のおじさんが奥にもっと熱いプールがあるよと教えてくれました。 それでは足湯をしてみようとそこに向かうと、すでに多くの人がプールの縁に腰かけていました。 私も腰かけて足を入れてみると熱くてとても2秒と浸かっていることのできない湯でした。 私は顔を上げてプールの対面を見ると座っている人たちが私の様子をみていました。 帽子を被った日本人か韓国人がわからない人物が来て、足湯をしているのが珍しかったのでしょうね。なかには私の方を見ながら自分は熱い湯に太ももまで浸かることが出来るぞとプールに足を突っ込んでくれる人がいました。すると回りからはやんやの声が湧き上がりました。 私の運転手さんはこうなることがわかっていたのか、早々と入り口近くの低い温度のプールに浸かっていました。私は彼を呼びに行き他のお客さんと一緒に足を湯に入れているところの写真を撮ってもらいました。そして彼にちょっと湯に足を入れてみてと頼むとその暑さにびっくりしていました。そしてまた低い温度のプールに戻って行きました。 私も足湯を終えて低い温度のプールで運転手さんが上がるのを待っていたら、マッサージをしませんかと呼びかけて来る人がいました。でも、どんなマッサージがわからなかったので躊躇していると、その人は「ちょっと試してみて、ダメでもいいですよ」と言いました。 近くにいた運転手さんも「まだ時間があるので、行って来て下さい」とすすめてくれました。 それで私はマッサージを試してみることにしました。 案内されたところはシャワールームにタイルの段があるところでした。 中にはおじさんがいて、ホースで温泉の湯を高圧で体に掛けて行くというものでした。 下着はつけたままでよいということでした。替えを持ってこなかった私はこれまた躊躇しましたが、帰りは下着なしで短パンをはけばよいと決心してマッサージを受けることにしました。 高圧のお湯が最初に足、そしてタイルの上にうつぶせで背中に掛けられ、それが終わると、湯の華のようなものを体に刷り込みながら湯を掛けてくれました。気持ち良かったです。 マッサージを終えると帰りの時間が気になったのですぐに着替えて帰途に着きました。 帰りは来た道とは違う道を通って帰りましょうと運転手さんに言いました。 そして私はマッサージの後の気持ち良さと車の振動で眠ってしまいました。 そして目を覚ますと辺りはすでに暗くなっていました。スマホで位置の確認をするとまだボゴールの手前でした。来るときは4時間かかっただけでしたので、もうとっくにアパートに着いている時刻のはずですが、運転手さんが道を間違えたようでした。 彼はしきりにスマホの地図を見ながら帰り道を確認していました。帰り道は違う道を通ろうと言ったのは私ですので文句が言えません。アパートには出発してから7時間後の夜10時に到着しました。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(22)  日帰り旅行 その3 階段畑の巻

ボゴール植物園、タマン・ブンガ・ヌサンタラ(庭園)と続いた日曜毎の日帰り旅行の三回目は運転手さんに頼んで滝を見に行くことにしました。 彼が選んでくれた滝はジャカルタから東に車で三時間ほど行ったマジャレンカ県のセレメ(Cereme)山(標高3,078m)の麓でした。マジャレンカ県は運転手さんの出身県でもあるのです。 マジャレンカといえば今年5月に西ジャワ国際空港が開港したことで有名です。 滝はセレメ山の麓に登る途中にあったのですが、運転手さんはそこを通り過ぎて山麓の中腹まで車を走らせました。 セレメ山の頂上へは車で行くことができません。自動車で行ける道路がまだ出来ていないのです。 また、途中までの道路もつづら折りの狭い道で対向車に出会うと一方が停まって待っていなければすれ違いが出来ないほどでした。 滝を見に来たのにどんどん山道を車で登っていきました。 そして、標高1200メートルのところの茶店の横に車を停め、近くの見晴らしの良い丘に登ることにしました。上り口で一人5,000ルピア(約40円)の入山料?を支払いました。 細い畑の横の道を通って丘に登り、そこから見渡す景色は素晴らしいものでした。 急な斜面に作られた畑は畝が一列だけで、段々畑というより階段のような畑でした。 丘の上では家族連れ、恋人同士、友人同士など多くの人々が景色を眺め、写真を撮っていました。上から斜面下の駐車場を見下ろすと沢山のオートバイと数台の車が停めてありました。 みんなオートバイに乗ってあの急な坂道を登って来たのです。 私と運転手さんは360度見渡せるその丘の上で写真を撮りまくりました。 こんな急峻な山の斜面を耕して野菜を作るという人々の生活力に感動しました。 丘を下りる時は上りと違う道を通りました。その道は足で土を踏み固めただけの細道でした。 片側に竹で作った素朴な手すりがあり、足を滑らせないようにそれにつかまりながら下りていきました。坂道を下りて道路にでると脇に茶店があり、その横に停まっていたオートバイの後部座席の両側にカゴの中にはドリアンが一杯入っていました。 私が運転手さんにこれは買うことが出来るのかと聞くと、彼が茶店に座っているそのドリアン売りらしき人に聞くと、ここで売っているということでした。 それでその人に良く熟れたドリアンを一個選んでもらい運転手さんと二人で食べました。 ドリアンを食べ終わるとドリアン売りはもっと食べるかと聞いてきましたが、お腹が一杯となったのでもう十分ですと答えました。 そして、売店でペットボトルを買いドリアンを食べてべトついた手をその水で洗いました。 ちなみにドリアン一個は50,000ルピア(約400円です)でした。 ドリアンを食べたあと駐車場までの上りの坂を息を切らせて歩きました。 そして、朝来るときに素通りした滝を見に行くことにしました。 滝の駐車場に着いて入口で入場料を支払いました。ひとり15,000ルピア(約120円)でした。 滝を見るためには坂道を歩いて下りて行かねばなりませんでした。 最初は両側がキャベツ畑の緩やかな坂だったのですが、途中からコンクリートの階段となり急な坂道となりました。 私は運転手さんに「こんな坂を下ると帰りは大変だよ。まだ昼ごはんも食べていないし。」とぐちりました。急な階段を下りる途中で滝は見えたのですが、折角歩いて来たのだからと更に階段を下り、滝そのものの近くまで下りて行きました。そして滝の入口で1000ルピア(8円)の料金を払いました。 滝を見て、写真を撮り、駐車場へ戻ることにしました。上りの坂道は心臓にきついものでした。 私は休んでは深呼吸し、休んでは深呼吸して上っていきました。 コンクリートの階段を上り切り、畑の中の緩い坂道の途中で畑に種を蒔いている夫婦がいました。 私はそれは何ですかと声を掛けると、奥さんはわざわざ私の傍まで近づいてきて籠の中のタネを見せてくれました。それはキャベツのタネで、この地域では4カ月で大きくなるとのことでした。 この高原の村の家々はきれいなものでした。きっと高原野菜が年中取れて、ジャカルタなどに即日配達できるので収入が安定しているのであろうと思いました。 駐車場に戻り、私は運転手さんに『次は昼ごはんを食べよう、私は糖質制限中だからご飯は要らない、お魚とお肉と野菜が食べたい』とお願いしました。 それまでの高原の茶店や滝のお店ではカップヌードルや揚げ物ばかり販売していたので、食事をしなかったのです。車で麓に下って行く途中に展望レストランがありました。 朝登って来るときにそこで休憩しようと思いましたが運転手さんがまだ大丈夫ですと言ってそのまま通り過ぎたところでした。そこで私は鶏と魚の焼き物ともやし炒めを頼んで空腹を満たしました。 帰りの車中で私は疲れた足からサンダルを脱ぎ、シートに持たれ、眠りながら帰宅しました。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(21)  日帰り旅行 その2 花公園の巻

インドネシアの草花が見たくなり、ボゴール植物園に行きましたが、そこは樹木が主体の植物園でした。それで期待したように沢山の草花を見ることができませんでした。 私は運転手さんに頼んで、どこかに大きな花畑がないかを調べてもらいました。 彼が紹介してくれたのがボゴールを過ぎプンチャック峠を越えたチアンジュール県にあるタマン・ブンガ・ヌサンタラでした。それでボゴール植物園に行った次の日曜日にそのお花畑というか庭園というか植物園に行ってみました。 そこは私の住むチカランからボゴール経由で110km、車で3時間ちょっとのところでした。 ボゴールを過ぎてプンチャック峠で標高をスマホのアプリで測ると標高1500m近い高さでした。 出発して二時間以上経っていましたので、峠のテッペンのレストランでコーヒー休憩としました。 屋外のベランダに立つと、吹き寄せて来る風が肌に冷たかったです。 休憩後に峠を越えて行くとそこは斜面となり、坂となった畑が広がっていました。 そして、峠からさらに一時間ほど走ると目的のタマン・ブンガ・ヌサンタラに到着しました この庭園は故スハルト元大統領の夫人ティエン・スハルトが1995年に作ったものです。 広さは23ヘクタールあり、様々な展示物があります。例えば、フランス庭園、バリ庭園、日本庭園、温室、バラ園、地中海の庭、ヤシの庭、花の絨毯の他、ウォーターパーク、迷路、恐竜、等々があります。入場料は一人40,000ルピア(約320円)でした。 入ってすぐの広場にはクジャクや白鳥を花で作った大きなモニュメントがありました。 広い庭園をどこから回るか悩みましたが、ボゴールの植物園の時と同様に、庭園の全体図を見て、 右回りに歩いて行くことにしました。 歩き始めて最初にあった建物はベゴニアばかりが集められた温室でした。 建物の入口で一人5,000ルピア(約40円)と言われお金払いましたが、もらった領収書に印刷されているのは2,000ルピアで、赤いスタンプで5,000ルピアと押されていました。日曜日は特別料金としているのです。 ベゴニアの温室を見終わって外に出ると、隣に日本園がありました。 和風の門から中に入って樹木の名前が書いてある立札を見ると、多くの樹木は中国、ブラジル、ヒマラヤそしてインドネシアのものでした。 日本園の中は日本庭園を模して池が作られ中には鯉が泳いでおり、橋も架かっていました。 紫陽花があったので、運転手さんにこれは日本原産だよと説明し、花の名前を書いたプレートを探したのですが見つかりませんでした。 日本園には池や、宍脅し、灯篭などが配置してありました 衣装を着せて写真を撮るコーナーがありましたが、その衣装はなんと中国服でした。 日本園をでてどんどん歩いていきました。広い庭園の中を無料のバスが走っていました。 しかし、私と運転手さんはそれに乗らずに歩いて回りました。 すると生垣で作った迷路があり、そばには四階建てのような塔が立って いました。 運転手さんが上に登って行って迷路を眺めようと言いました。 私はすでに歩き疲れ、お腹も空いてきていたので、階段を上って行くのが 億劫になっていました。 高い塔だからエレベーターがあるだろうとその塔に近づきました。 するとやはりエレベーターはあったのですが壊れていて使用不可でした。 私はちょっと疲れていましたが、折角来た庭園だからこの際、その塔に 登ってみようと決心し、二人で階段を上っていきました。 息を切らして最上階まで上って、下を見下ろし、迷路をバックに運転手さんが取るポーズをカメラに収めたり、高い位置から見える庭園の景色をパノラマで撮影したりしました。 塔の上で時間を費やしたあと等を下り、食事をするためにレストランを探しました。 庭園の中にはあちこちに小さな食堂はあるのですが、どこもご飯ものと麺類ばかりなのです。 それらは糖質制限中の私にはご法度の料理ばかりなのです。 私は炭水化物(デンプン)でなく、タンパク質豊富な魚やお肉が食べたいのです。 お肉が食べられそうな食堂に立ち寄ったのですが、ご飯が付く定食ばかりでした。 それで、その店の人にお肉や魚が食べられるレストランがありませんかと聞くと、その先の遊園地の中にあるといいました。 私たちはさらに歩いて行き、釣り堀を眺めながら食事ができるところで昼食を取りました。 食後はフランス園、バラ園、ダリア園などを見て回りながら入口に向かいました。 多くの家族が来ていましたが、目に付いたのはアラブの家族連れでした。 目だけで頭からすっぽりかぶるニカブを被った女性たちもたくさんいました。 運転手さんとあれでは自分の奥さんかどうかわからないのではないだろうかと冗談を言いながら歩いて行きました。ジャカルタ近郊にはアラブ人の人たちが住む一角があるそうです。同じイスラム教徒と言ってもアラブ人とインドネシア人は宗教に対して大きく違いがあるような気がしました。 食後に歩いたので二人ともちょっと疲れてきました。もう庭園散策を切り上げて帰ろうと言うことになり出口い向かって歩いて行きました。するとその庭園のシンボルになっている女神像があり、その前で女神像と同じポーズで写真を撮ったり、大きな花時計をバックに写真に納まりました。 とても一日で回り切れる庭園ではありませんでした。 そして、私たちは駐車場に戻り、来た道と違う道で帰ることにしました。 帰りはヤシ畑やゴム畑を通る山道で、少し麓に近づくと段々畑の見える 高台に出ました。 私は一軒しかない小さな茶店の横に車を止めさせ、 車から下り、また坂道を下りて段々畑の写真を撮りに行きました。 樹木に囲まれてあまり良い写真が撮れず、坂道を登って茶店に戻って くると、運転手さんが地元の年配の人とコーヒーを飲んでいました。 年配の人は近くにヤギの餌となる草を毎日山に取りにくるそうで、近くの オートバイの後部座席に刈り込んだ草が丸めて積んでありました。 年配の人に年を聞くと70歳でした。 私が元気でいいですねというと、彼は自分の歯が少なくなり、私の歯が 沢山あっていいですねと答えてきました。 年配の人と話したあと車に乗って走り出すと、運転手さんが先ほどの人 は私が田を見に坂を下りて行ったので日本人が土地を買いに来たのだ と思ったようですと話してくれました。 私は次の休みは滝のあるところに行きたいと旅行案内人でもある運転手 さんにお願いすると、わかりましたと返事が返ってきました。 その日アパートに戻ったのは夜の8時を過ぎていました。 丹羽慎吾