新加坡回想録(61))カマル・クチル
シンガポールの国土面積は2017年現在で、721.5㎢(平方キロメートル)です 。東京都区内の面積(2019年現在、627.57㎢)より少し広いだけで国としてはいかに小さいかがわかります。世はグローバルの時代と言われて久しいですが、国内資源を持たないシンガポールは独立以来、貿易・金融立国としてその地位を確立してきました。 ここでの駐在の仕事のメインは、やはり金融や世界中の国々との貿易が主体となります。穀物・食品を担当していた私は、特に近隣の国へ出かけるのが常でした。隣国インドネシアの首都ジャカルタへ出かけた時に聞いたちょっと面白いエピソードを紹介しましょう。 某商社の若手社員であるA君は、仕事もできて性格も明るい将来を嘱望される存在でした。入社数年目で担当の仕事も率なくこなしていたA君に、ある日、海外赴任の命令が下されました。駐在先はインドネシアの首都ジャカルタ。願ってもない話にA君は、事前の語学研修にも張り切って望み、短期間の間にみるみる上達していきました。 さて、ジャカルタ支店に赴任したA君は、新たに覚えたインドネシア語が通じるのがうれしくてたまりません。赴任後すぐに現地の人とのコミュニケーションがうまくとれたのですっかり自信をつけ、順調に仕事をこなしていきました。ある日、日本から出張してきた得意先を夕食に案内することになりました。いつも贔屓にしているレストランに電話して席を予約せねばなりません。今回の得意先は3名で比較的少人数だったので、小さな個室を予約しようと受話器をとりました。 A君は、電話口で大きな声で「カマル・クチル」を頼みました。インドネシア語で、「カマル」は「部屋」、「クチル」は「小さい、狭い」です。日本語と違い、修飾語である形容詞は後にくるのでこのような順序になります。みなさんご存知の「ナシ・ゴレン」も同様です。赴任前によく勉強したA君は、このへんの文法もよく承知しており、自信を持って予約したはずだったのですが・・・。 インドネシア語は、比較的習得しやすい言語です。何故なら、言葉の数が少なく覚える単語が少なくて済むからです。その代わりに、1つの言葉で複数の意味を表すようになっています。例えば、皆さんもよくご存知の「JALAN(ジャラン)」という言葉は、「道」という名詞であり、「行く」という動詞にもなります。二つ重ねて「JALAN JALAN」といえば「散歩する」になります。また、動詞の時制変化はありません。「食べる」も「食べた」も「makan」でOKです。 さて、レストランに予約の電話を入れたA君、どうなったのでしょうか? 電話を受けた途端、レストランではみんな吹き出して爆笑の渦となりました。何と、「カマル・クチル」とは「トイレ」のことだったのです!A君は、「トイレ」を予約したのでした。A君の耳は真っ赤になったのはいうまでもありません。「小さな部屋」で「トイレ」、聞いてみると納得ですが、知らないということは、恐ろしくもあり、可笑しいことですね! P.S. それでは、「小さな部屋」はどういえばいいのでしょう?「kamar yang kecil」(カマル・ヤン・クチル)です。 (西 敏)
シンゴ旅日記ジャカルタ編(29) 頭痛三度目の正直の巻
一ヶ月以上前から右後頭部が痛みだしました。 それで、先々週に病院でMRIを撮ると脳には異常がなく、虫歯が原因ではないかと言われました。 なので、先週は同じ病院の歯科虫歯だった右奥歯を抜いてもらいました。 しかし、頭痛は治りませんでした。それどころか右の耳も痛くなってきたのです。 なので、今週はまたまた同じ病院の耳鼻科に行きました。 それは、火曜日の午後5時の予約でした。 けれど、4時に病院に着いたので、コーヒーショップでカフェ・ラッテを飲んで時間を潰しました。 そして、5時前に前回と同じ医療サービスの青年とロビーで会い、耳鼻科の診療室に行きました。 しかし、5時に先生は現われませんでした。 やっと、30分程遅れて先生が到着し。診察が始まりました。 先生は若い女医さんでした。私が最初に診てもらう患者でした。 はじめに、先生は私が持参したMRIの写真を見ながら、これは右の鼻が詰まっているからですと指摘しました。先生は写真の鼻の部分を示しながらここが少し曲がっており、右側の副鼻腔への入口を圧迫していて空気が入らず、酸素不足で神経を痛めているとの説明してくれました。 その説明が終わると検査に移りました。 細いパイプの先にカメラが付いた内視鏡を右の鼻の中に入れられました。 目の前にあるスクリーンにそのカメラが撮る映像が映し出されました。 鼻の中に入るまでは鼻の下のヒゲが、中に入ると鼻毛がまるで植物園で見たツル草のように思えました。その中をカメラがどんどん進んで行くのです。まるでジャングルを進む探検隊です。 そしてツルが無くなると、そこからは岩で閉じ込められたような洞窟が映しだされました。 先生がこのように扉が閉じられていて空気の通り道がありませんと説明してくれました。 そして次に左側の鼻の中に同じように内視鏡を入れ、こちらは通り道があるでしょうと洞窟の割れ目のような入口を見せてくれました。 その後に同じ内視鏡で耳の中を調べられました。 私は右の耳が痛かったのでそちらは掃除をしていましたが、左の耳の方はあまり掃除をしていませんでした。右の耳の検査を終えて左の耳の中を内視鏡が進んでいき鼓膜を写し出すまでに、その通路にカスが散乱しているのをスクリーンで診てしっかり掃除してくるのだったと後悔するとともに女医さんの手前恥ずかしくもありました。 その次は喉の検査でした。これは内視鏡は使わずヘラで舌を押さえて行われました。 扁桃腺が一つしかありませんねと聞かれました。そうなのです。私は子供の時に扁桃腺の手術を受けたのですが一個切ってから泣き出したのでそれで手術中断となりまだ一個は残ったままなのです。すべての検査を終えて先生から治療方法を聞きました。 まず一週間分の鼻腔へのスプレー薬を2種類と、錠剤を二種類出すこと、一週間後にまた検査に来ること、そして、この病気は完治するまで3ヶ月は様子を見る必要があるとのことでした。 私は通訳の人に一体なんという病気ですかと聞くと、彼は英語で答えましたが、よく分らなかったので日本語で何というのですかと聞くと、スマホでその日本語を教えてくれました。 スマホには「急性鼻副鼻腔炎」とありました。そして、鼻の構造の複雑さを始めて知りました。 治療を終えて2階に上がり、薬局で薬を出してもらうまで通訳の青年と話をしながら待ちました。 通訳 実は今夜は会社の送別会があるのですよ 私 遅くまで同行してもらって申し訳ありません 通訳 いいえ、仕事ですから問題ありません 私 食事会の会場までお送りしますよ 通訳 いいです、この時間は道が混んでいますからゴージェックで行きます。 私 会場はどこですか 通訳 近いです、ここから30分くらいのところです 私 じゃあ、やっぱりお送りしますよ 通訳 それでは、食事会に参加しませんか 私 あなたの会社の食事会に他人が入ったらしらけますよ 通訳 問題ありません、日本に行く仲間の送別会なのです 日本の会社の社長さんが参加するとなれば皆が喜びますよ 私 じゃあ、顔だけ出して失礼することにしましょうか 通訳 ちょっと待ってください、リーダーに確認します。 (電話をした後で) リーダーが歓迎すると言っています、是非とも参加してください。 私 ありがとう、でも、私は今、糖質制限中で、ご飯なしでお肉が食べたいのです。 通訳 そのお店はオージービーフの美味しいお店です、 値段は高くありません、みなで割り勘ですから問題ありません。 私 そうですか、それではご一緒します。 ということで彼を送りながら彼の会社の食事会に参加しました。 13人のメンバーで食事会が行われていて、私たちが到着した時にはほぼ食事は終わっていました、そして、二組くらいにわかれて楽しくお話しをしていました。 私と通訳の人のステーキはあらかじめ注文してあったので到着するとすぐに出てきました。 私は食事を終えると、参加していた3人の日本人にそれぞれの出身地や今までの勤務地を聞いたり、私のアジアでの経験を話したりして座を盛り上げました。 そしてお勘定の時間になったので、私から皆で記念写真を撮りましょうと言って、女性陣は椅子に座り、男性陣は後ろに立ってもらいました。 私は「はい、笑って」「はい、親指をたてて、サムアップ」と音頭を取りながら何枚もの集合写真を撮りました。 みなさんはそれから二次会に行くようでしたが、いくら図々しい私でも、そこまではついて行かず、みなさんと握手をして別れ、車に乗り込みチカランに帰りました。 医療サービスの青年からは病院で先生が来るまでや、薬局での待ち時間に、いろいろ日本での介護士の経験を聞きました。 彼は介護施設、精薄施設で働いた経験があり、認知症の人の介護は大変ですと教えてくれました。 中には食べ物と排泄物との区別がつかない人がいるので、相手がわかるまで何度も何度も来り返して教えなければないなかったとか、すぐに怒り物を投げつけるひとがいるとか、夜中に徘徊する人がいる時は一時間ごとに見回りに行かねばならないとかです。大変な労力だと思います。 また、インドネシア人の看護師介護福祉士候補の受け入れ制度はEPA(経済連携協定)によ10年ほど前に始まり、その青年は第二期生であるとのことでした。 私は知り合いから介護士看護師に合格したインドネシアの人が日本での就職をしないですぐにインドネシアに帰国してしまうらしいねとか、最近、日本政府はインドネシアよりもベトナムから介護士看護師を多く受け入れるようですよとか、台湾では多くのインドネシア人がハウスキービングで働いていますよとかの話題をiPadで新聞記事を見せながらお話ししました。 彼からは政府間の制度であるEPAとは別に、最近は技能実習生制度で看護師や介護士の資格がとれる民間交流の制度ができたとききました。 EPAは日本語がわからない人たちを日本に派遣し日本で日本語を学ぶ方法を取っているが、技能実習生制度はインドネシアで日本語検定試験(N4)を合格した人だけが行ける制度にして、日本ですぐに役立てるようにしていく仕組み作りが必要であるとのことでした。 技能実習生制度では送り出し側と受け入れ側が民間ですので、インドネシア側の送り出す団体と日本側の受け入れる団体がしっかりしている必要があることなどの説明もありました。 私は耳の治療を始めて5日が経ちました。まだ頭痛が少しありますが、時間をかけて治します。 でも、頭痛の原因であると診断され、抜いてしまった私の奥歯は何だったんでしょうね。 日本の歌舞伎の隈取りも副鼻腔に関係あるのでしょうか? 丹羽慎吾
シンゴ旅日記ジャカルタ編(28) ジャカルタの病院で歯を抜くの巻
「インドネシアの歯医者に行くと抜かなくてよい歯まで抜かれるよ」と聞かされていました。 しかし、私はジャカルタの病院に行き、歯を抜いてもらいました。その顛末です。 右後頭部の痛みが一週間続いたので先週の木曜日にジャカルタの病院の脳神経外科でMRIを撮ると、脳に異常はなく虫歯となっている右の奥歯が原因だろう言われました。 すぐにその病院の歯医者で翌日の4時半の予約を取りました。 翌金曜のお昼に二時間半の余裕を持ってジャカルタに車で出かけましたが、金曜午後の渋滞に巻き込まれ車は進まず予定の時間に到着できず、歯の治療をキャンセルせざるを得ませんでした。 それで土曜、日曜と脳神経外科でもらった痛み止めと抗炎症の薬を飲んで過ごしたのですが、頭の痛みは治まりませんでした。 月曜に出社して早速、医療サービス会社に歯医者の予約がすぐにできないかと聞きました。 すると翌日の火曜日の午後2時15分に診察できるという返事が返ってきました。 それで月曜日は痛みを我慢して仕事をし、翌日の火曜日に今度は渋滞に巻き込まれてもよいようにと、時間に余裕をもたせ午前11時に会社をでました。 すると午後1時前に病院に着いてしまいました。 診察時間まで待ち時間ができたので病院の中をゆっくりと見ることにしました。 一階にはコンビニもカフェショップもあり、ロビーではグランドピアノが置かれ年配の男性が静かな音楽を奏でていました。まるで大きなホテルのロビーでした。 二階に上がるとレストランがありました。私はお腹が空いたので食事を取りたくなりました。 しかし、歯の診療を受けるのですから食後に歯を磨いておこうと一階に降りてコンビニで歯ブラシを求めたのですが売っていませんでした。 それでも空腹には耐えられなかったので、二階のレストランに戻り食事を取ることにしました。 私は、只今糖質制限中です。おコメは食べないようにしています。 メニューを見ると私の好きなソト・ブントゥット(オックス・テール・スープ)がありましたが、その日はソト・ベタウィ(牛肉のココナッツ・カレー・スープ)がおいしそうに見えたので、ライス抜きで二人前を頼みました。食事を終えてもまだ時間がありましたので一階に降りカフェでコーヒーを飲みました。 2時を過ぎたのでその日に対応してくれる医療サービス会社の担当者に電話をしました。 すると一階のロビーの遠くでスマホを耳に当てながらキョロキョロと人を探している男性が現われました。私がカフェの方にいるよと電話で知らせると、彼が私を見つけ来てくれました。 そして、簡単な打合せをすると彼は一階の右側の診療室のあるコーナーに入って行きました。 私はコーヒーを飲み終えると彼が消えたコーナーに入って行きました。 その入口には「Uro Nephirogy Center」と書いてありました。 何のことだろうとスマホで意味を調べると尿と腎臓と出てきました。泌尿器科のことです。 中の待合室には医療サービスの男性の姿が見当たりませんでした。 私は待合室に座って先ほどの医療サービスの人が来るのを待ちましたが、診察時間が来ても彼は現われませんでした。ここは泌尿器関係だから彼の入って行ったコーナーを私が間違えたのだろうと考え、その待合室を出てロビーで彼が現われるのを待つことにしました。 ロビーの椅子に腰を掛けるとピアノの曲が五輪真弓の「心の友」に変わりました。 ピアノを弾く人が私を日本人と知ってサービス心で弾いてくれたのでしょうね。 その気遣いにお礼を示したくて私はピアニストの方を見て笑顔で答え、足でリズムを取りました。 診察時間をかなり過ぎていたのに医療サービスの男性が現われないので私から電話をすると、先ほど私が待っていた泌尿器科のコーナーのドアが開いて彼が現われました、 そして彼は歯医者さんが間もなく戻ってきますので中に入って待っていてくださいといいました。 一緒にそのコーナーに入って行くと歯科の待合室は泌尿器科の受付より更に奥にあったのです。 歯医者の先生が来るまで待合室で医療サービスの男性からいろいろと話を聞きました。 彼は日本で介護士の試験に受かり倉敷に5年いてインドネシアに戻り今の会社で働いているのです。今年に入りチカランのマンションで自殺した新婚の日本人男性や、空港で脳梗塞で亡くなった日本人男性の後処理を担当したとのことでした。 彼に一旦世話になったお客さんがコールセンターを通さずいろいろと相談してくるようです。 また、彼は日本とインドネシアの介護士の交流をもっと深めて行けるようにしたいと夢を語ってくれました。しばらくするとお医者さんが来たので二人で診療室に入りました。 先生に挨拶して診察椅子に座わると先生は私の歯の全体を見てから、歯のパノラマ写真を三階で撮って来るように指示しました。 三階は先週脳のMRIを撮った階でいろんな先端設備が置いてありところでした。 日本と同じように頭の回りをグルっと回転する機械で歯のレントゲンを撮りました。 そしてまた一階の歯医者さんの部屋に戻ると、すでにその写真が出来ており、お医者さんからいろいろ説明がありました。 医者 右奥の歯に穴が開いていて、そこに食べ物のカスが溜まり神経を犯している この写真のこの歯茎のところに神経の腫れがでているのがわかるでしょう 私 それは歯を抜かねばならないということですか 医者 もう歯に穴があいているので抜いた方が良いと思う 私 歯を抜くと他の歯の安定が悪くなるので日本では歯を抜かない治療をしますよ 医者 それは前歯の話です。あなたの歯は一番奥なので他の歯には影響ないと思います 私 王冠とかブリッジとかの方法はありませんか 医者 一旦抜いて数か月後にインプラントをされてはどうですか、この病院でもできますよ 私の虫歯となった奥歯は5月の帰国時にかかりつけの歯医者さんから王冠を作りましょうと言われていた歯でした。さらにその日本のお医者さんからはなるべく早く帰国して治療してください、その治療期間には一週間はかかりますとも言われていました。 私 今、ここで歯を抜くことができますか? 医者 はい、できます。 私は歯を抜く覚悟を決めました。 ヒトの歯は親知らずを入れて上下16本づつでで32本あります。親知らずを入れないと14本づつでで28本です。 8020(ハチマル二イマル)運動というのがあります。80歳になっても自分の歯を20本持っていればなんでも美味しく食べられると言うものです。昭和62年(1987年)には80歳の人の平均は4.7本でした、歯を大切にしようとする意識が浸透してきて平成28年(2016年)にはそれが15.2本まで増えて来ています。しかし、これは平均で数字なので、自分の歯を20本以上持っている人と、数本しかない人との二層化の傾向にあるようです。 私は抜歯手術が始まる前に手術の様子を写真に撮るように医療サービスの人に依頼しました。 私は手術中に目を閉じていました。麻酔が掛かっていますが、あのチクッとする注射の針の痛みも、器具でグイグイと歯を抜いて行くのも顎から伝わってきました。 しかし思ったより短時間で抜歯は終了しました。 手術後に先生へお礼を述べ、医療サービスの人と薬局に行って薬をもらいました。 私は抜いた歯を小さなプラスチックの容器に入れてもらい持ち帰りました。 長い時間一緒に生きてきた私の分身ですから成仏するようにどこかで埋葬してあげようと思います。歯の治療費は海外旅行者保険の適用を受けることができません。 治療費全額を一旦本人が払い、医者の診断書、領収書そして規定の用紙に記入して日本本社に送り健康保険の適用を受けるのです。本人負担分は治療手術項目が点数によって違うのです。 これで私の歯は27本になってしまいました。8020以上になるようにこれからは気をつけます。 今日は歯を抜いてから5日経ち、右後頭部の痛みはほとんどなくなりましたが、今度は首の後ろが少し張ってきました。これはジャカルタまで何回も車で往復したので、その長時間乗車で首が疲れてしまったのでしょうか? 丹羽慎吾
シンゴ旅日記 帰国者のボヤキ(その7)GOTO成田山の巻
ひょんなことから成田山新勝寺(以下成田山)の由来にはまってしまい、現地に行って調べてみたいことがありました。 それは寺紋です。お寺を記号で表すと法輪紋が描かれることがあります。お釈迦様が法の輪を転ずるがごとく仏教を広め人々を救済したことから仏教を法輪で表すのです。 また法輪はチャクラと言いヒンズー教のインドラ神の力を象徴する戦車の車 輪とする説や世界を照らす日輪とする説、古代インドで用いられた輪状の投擲武器・チャクラムとする説などもあります。 成田山の寺紋はかつて皇室と関係がある葉菊紋でしたが1869年(明治2年)の菊花紋章禁止令により皇室と関係のない寺院は菊の紋章の使用 が禁止されたのです。成田山もそれまでの葉菊を改めて葉牡丹に替わりました。ただし花は菊から牡丹に替わったのですが葉だけは菊のままです。 私が調べたかったのは成田山には菊花紋章禁止令以前に建立された建物や建造物があるのでそれらに菊の紋章が残っているのではないかということです。大本堂は昭和 43 年の建立ですから葉菊紋は残っていません。 そして他のお堂も大半は葉牡丹に替えられています。でもありました。一番よくわかるのは JR 成田駅から成田山に向かって参道を歩くと途中にある薬師堂です。現地にある説明文で納得がいきました。それには次のよう に書いてありました。「ご本尊 薬師如来、 脇侍 日光菩薩 月光菩薩、 御祈願 健康長寿 病気平癒、 薬師堂は明暦元年(1655 年)に建立された旧本堂で徳川光圀公や初代市川團十郎が参詣した成田山現存最古の御堂です。 元禄14 年(1701 年)の本堂「現光明堂」再建の折、この御堂は新本堂の後方に移築され、約150 年にわたり伽藍の一部を担いました。安政 2 年(1855年)の本堂「現釈迦堂」建立を機に明暦の旧本堂を薬師堂と改称、この地に移 築し現在 に至ります。」 つまり成田山の本堂を初代から表すと現薬師堂⇒現光明堂⇒現釈迦堂⇒大本堂と替わって来ているのです。そして本堂が変わるたびに本尊も替わってしまうは面白いですよね。初代の本堂の薬師堂は薬師如来と日光菩薩、月光菩薩を、二代目の光明堂は大日如来、不動明王と愛染明王を本尊として縁結びにご利益を、三代目の釈迦堂は釈迦如来と普賢菩薩と文殊菩薩の釈迦三尊になっているのです。 大本堂の前でボランティアのガイドさんの説明によると釈迦堂はかつて現在の大本堂のところにあって昭和 43 年(1968 年)に大本堂が建立されたときにコロで今の場所まで運ばれたとのことです。そして彼はその移設の時の写真をお手持ちの資料の中から見せてくれました。 また成田山は古い建物を壊さないで残していくお寺なのですよと説明もありました。それで多くのお 堂が残っており、 お堂ごとに御朱印も絵馬もあります。成 田山には他にもなぜか聖徳太子堂、ガネーシャの聖天堂、弁財天などが祀られています。また建物としては総門、仁王門、三重塔、額堂、一切経堂、醫王院そして平和の大塔があるのです。最近の御堂の建設は大林組が一手に請け負っているようです。 なお境内を離れても成田山の参道には見どころが一杯あります。薬師堂の前に地元出身の女流俳人三橋鷹女(1899 年~1972 年)の像が建っていてその横の説明文にかいてあった一首に惹かれました。 「夏痩せて 嫌いなものは 嫌いなり」 わがままな女性だったようですね。またJR 成田駅前のカラクリ時計は各時ごとに時計台が上がると囃子や歌舞伎の獅子が現れます。獅子は牡丹の花の匂いに狂い踊るのですよね。 成田山の参道には名物の胡瓜の鉄砲漬け、おせんべい屋さん、鰻料理屋さん、お土産屋さんのほかに中華料理店、タイ料理店などいっぱいあります。大船駅、横浜駅、品川駅、東京駅などから成田エクスプレスで直通ですよ。 すでに成田山に行かれた方も多いと思いますが今度は成田山の由来を知ってさらに楽しくお詣りすることができること請け合いです。のーまくさんまんだーばーざらだん せんだーまーか ろしゃーだー。 丹羽慎吾
シンゴ旅日記ジャカルタ編(27) ジャカルタの病院への巻
先週の台湾出張中から右後頭部に痛みが生じ出しました。 台湾では毎晩、紹興酒、ウィスキーを飲んでいましたので、頭の痛みはお酒の所為だろうくらいに軽く考えていました。しかし、今週に入りその痛みがひどくなってきたのです。 しかし月曜から木曜までは私が担当する営業案件で日本からの出張者と一緒に客先と業者を回り価格や仕様、納期を決める大事な時でした。 週半ばになり頭痛がひどくなってきましたし、仕事の方も予定より一日早く片付いたので木曜日に病院で診てもらうことにしました。 心臓や血管についてはいろいろと調べていましたので、単なる頭痛が大きな病気につながるケールもあるのでちょっと心配になったのです。 検査は一時帰国して日本で受けなくてもこちらの病院でできるだろうと思いました。 会社のシステムでは駐在員が病気やケガをした時には現地の医療サービス会社が病院の手配、通訳、海外旅行者保険の支払いの代行をしてくれることになっています。 この制度は昨年から本社が医療サービス会社と契約して始めてくれたのです。 それで私はまづ医療サービス会社のコールセンターに電話しました。 電話番号が001-で始まりましたので電話の相手がどこの国にあるのかわかりませんでした。 電話から聞こえたのは男男性の声で、日本語での対応でした。 彼は会員番号を聞き本人確認を済ませ、頭痛の症状を聞くとインドネシアの医療サービス会社の担当者から私に電話連絡すると言いました。 私は電話を切る前に、その電話がどこの国につながっているのかを聞くと上海とのことでした。 ついでにその男性の名前を聞くと中国名でした。 電話を切って、しばらくすると私の携帯にインドネシアの医療サービス会社の男性から電話があり、日本語でいろいろ聞かれました。 男の人 頭痛はいつからしますか? 私 先週からです。 男の人 どこが痛いですか 私 右の後頭部です。 そこまでは良かったのですが、次の質問にはびっくりしました。 男の人 頭痛の原因はなんですか? 私 それがわからないので診てもらいたいのです。 男の人 痛いだけですか? 私 ???(なんて答えればいいのだろう) 男の人 希望する病院はありますか? 私 マヤパダ病院をお願いします。 私が伝えた病院は医療サービス会社のからもらったパンフレットに日本で学んだ脳外科医がいる病院でした。そして、その病院には今年なって私の部下や部下の奥さんがすでにお腹や歯の治療を受けていたのです。そして彼らから大きな新しい設備を持った良い病院だと聞いていたからです。 電話が終わると、携帯を机の上に置いて私は仕事の打ち合わせで別室に入ってしまいました。 打合せが終わり席に戻ると携帯のショートメールに病院の予約が午後2時に取れたことと通訳する人が病院で待っているとのメッセージが日本語で入っていました。 私はチカランからその病院までの所要時間をスマホのグーグルで調べると二時間掛かるとでていました。それで私は12時に会社を出て昼食を取らずに病院に向かいました。 2時ちょっと前に病院に着き、通訳の人に電話して一階のロビーで待っていると、インドネシア人女性が近づいてきて「丹羽さんですね」と日本語で聞き、私が「そうです」と答えると二階の脳外科のセンターに案内してくれました。 センターの受付で診察を受ける前に助手の人からいろいろとインドネシア語で質問されました。 質問された項目はほとんど理解できましたが通訳の女性の手前、私は日本語で答えました。 それが終わって診察室に入ると先生はまだ来ておられませんでしたが、先生が座る机の後ろの壁には墨で「神手」と書かれた額が飾ってありました。 きっとここはパンフレットにあった日本で学んだ脳外科医の部屋だと思い安心しました。 しばらくすると中国人とも日本人とも見える小柄な老医者が入ってきました。 流ちょうな日本語でいろいろ質問し、ベッドの上に座った私の触診を始めました。 そして歯か、顎が痛くありませんかと聞きました。 私は最近冷たい水を飲むと右の奥歯が痛むと答えました。 そうしたら奥歯の虫歯の所為もしれませんが、一応MRA、MRIを撮って調べてみましょうといわれました。MRAは頭部の撮影であることは知っていましたが、MRIが何であるか私は知らなかったので、MRIとは何ですかと聞くと背骨の画像を撮影するのだといわれました。 そして三階のMRAの機械がある部屋に行き、あのゴーゴー音のする機械の中に上半身を二回入れられました。撮影したMRAの機械のメーカーはPHILIPSでした。 MRA/MRIの撮影終わると二階に戻り、診察室の前の椅子に座って待っているとすぐに名前を呼ばれました。 診療室に入ると、先生の机の後ろに先生がいて、その後ろにはMRA、MRIで撮ったレントゲン写真のようなものが三枚貼られ後ろから光が当たっていました。 その下の台には何枚もの他の写真が置いてありました。 先生は一枚一枚の写真を入れ替えながら、脳には異常がないこと、しかし、右の奥歯の炎症が右の鼻の穴をふさいでいることを説明してくれました。 先生は「抗炎症剤と痛み止めの薬を出すのでそれを飲んでください、またこの病院の歯医者で治療を受けてください」と言われました。そして先生はその場で助手に歯科に連絡を入れさせましたが、その日はもう予約で埋まっているとのことでした。 私は脳内出血などの大きな症状でなかったのでほっとしました。 そして、記念にと思い先生とのツゥーショットを通訳の人に頼んで撮ってもらいました。 ついでに先生に年齢を伺うと「昭和13年生れです」と答えられました。80歳になられるのです。 私は何度もお礼を述べて診療室を出て待合室にいきました。 通訳の人が薬局に行き薬をもらい支払いをして戻ってきました。 支払は海外旅行者保険に入っていて、その手続きを医療サービス会社が代行してくれるので私たちはお金を支払う必要がありません。 通訳の人は歯科の予約を翌日の金曜日の午後4時半に取れたと伝えてくれました。 そして歯科治療は海外旅行者保険が利用できないので、治療費を私が払い、あとで本社に健康保険で支払いの請求をするようにと説明してくれました。 彼女はその病院でまだ他の仕事があるとのことでしたので、私たちは待合室の外で別れました。 私は一階の売店に行ってペットボトルを買って早速薬を飲みました。 鎮痛剤はカプセルと錠剤の二種類がありました。錠剤は一回の服用が半分と書いてありました。 私は錠剤を半分にしようと爪を立てましたが、割れませんでしたので歯で噛んで半分にしました。 その日は真っ直ぐアパートに帰り、夕食を取らずに眠ってしまいました。 翌日の金曜日です。朝起きてから前日の検査と薬代がいくらだったかが気になり、SNSで昨日の通訳の人に領収書をメールで送ってほしいと頼みました。 会社に行き、昼前に病院での4時半の歯科診察に間に合うためには何時に出発すればいいのだろうとスマホのグーグルマップを見ると、所要時間が二時間とでましたので午後2時に会社を出ました。 しかし、高速に入ると渋滞につかまり、車が順調に進まなくなりました。 金曜の午後2時過ぎは上り、下りとも混雑するようです。 スマホを見た昼前と午後2時では混雑状況がまったく違っていたのです。 3時半ころに通訳の人から4時のキャンセルがでたのでその時間に診察受けれますかと電話がありました。私はまだ高速道路に居るので無理であることを伝え携帯を切りました。 そしてグーグルマップで病院までの所要時間を調べると、病院まで二時間近くかかることがわかりました。その時は私の車はまだジャカルタ郊外のブカシ市のあたりを走っていたのです。 とても予約した4時半には間に合いません。 今度は私から通訳の人に電話をして、予約した4時半にに着くことができない、6時に延期してほしいと伝えました。 すると向こう側で誰かと話している声が聞こえましたが、通訳の人からその日は予約で全部埋まっているので変更は無理であるとの返事がありました。 それで私はその日の歯の診療はあきらめ、来週の予約をお願いしました。 すると歯科は金曜日と土曜日しか診療しておらず、翌日の土曜の診療は予約で満杯であり、とれるのは金曜の午後3時であるといわれました。私はそれでお願いしますと答え、運転手さんに車をUターンするように指示しました。 仕方がありません。私はそれまで抗炎症と鎮痛剤で我慢します。 なお、脳外科で通訳してくれた女性は日本の看護師受入れ制度に受かり看護師として三年長崎で働いた経験を持つ人でした。 それにしても発展途上国の医療体制も進歩してきていますね。 シンガポールは医療先進国ですが、タイはバンコク病院やバンムンラード病院など最新設備を備えた病院がいくつもあり、インドもアポロ病院などが世界中から患者が治療に来ています。私もそれらの病院で入院したり治療を受けたりしたことがあります。 私のインドネシアの医療のイメージは昔のままでしたが、今回、マヤパダ病院に行ってみてこの国の医療体制も進んできていることがわかりました。 きっとこれからは医療を含めた国民への厚生が大きなビジネスや国の政策の中心になって行くのでしょうね。 丹羽慎吾
シンゴ旅日記 特別寄稿 帰国者のボヤキ(その5)寺社巡り成田不動山の巻
インドネシアから帰国し待機生活をしていたホテルから歩いて15分くらいとのところに真言宗の成田山新勝寺がありました。 真言宗は密教です。インドで生まれた仏教には顕教と密教の二つがあります。顕教はお釈迦様が聞く人にわかりやすい言葉で説いた教えです。しかし密教は真理そのものを表す大日如来の秘密の教えを師匠から弟子 へ師資相承で伝えていく方法です。その密教にも台密と天蜜の二つがあります。 台密とは最澄(767 年~822 年)が開いた天台宗の密教で、東密とは空海(弘法大師)(774 年~ 835 年)が真言宗の根本道場であった京都の東寺で教えた密教です。東寺は平安京鎮護のために建てられた お寺で教王護国寺とも呼ばれます。成田山新勝寺は真言宗の18ある本山のうちの智山派です。その智山派の総本山は京都の智積院(ちしゃくいん)でその下に大本山が三つあって成田山新勝寺、川崎大師平間寺(へいげんじ)そして八王子の高尾山薬王院です。 大本山のひとつの成田山新勝寺は全国に71 カ寺の別院・分院・末寺・末教会・成田山教会があります。この成田山新勝寺の由来は平安時代におきた 平将門の乱に始まります。この乱は京都の天皇に対して関東で平将門(903 年~940 年)が新皇と称して独立しようとしたものです。 この乱が起きると朝廷は追討軍とともに将門調伏の祈願を大きな 寺社や密教の僧に命じました。その中に第 59 代天皇の宇多天皇(867 年~931 年)を祖父にもつ寛朝(916 年~998 年)がいました。寛朝は京都の高雄山(神護寺)に安置されていた空海作の不動明王像をもって房総半島に上陸して護摩を焚いて祈願しました。すると祈願最後の日に将門が戦死したのです。 そして寛朝が京都に帰ろうとしても不動明王像が動こうとしないのでそこに寛朝を開祖として成田山新勝寺が建立されたのです。 一方、討伐された平将門は怨霊伝説で有名です。討ち取られて京都の七条河原にさらされた将門の首が関東を目指して空高く飛んでいったというものです。有名なのが千代田区大手町の将門塚です。昔からその近辺にたたりがあったといわれ関東大震災の後に大蔵省が仮庁舎を建てようと計画したところ工事関係者や省職員や時の大蔵大臣が不審な死をとげたりとか、戦後に都市計画で首塚を撤去して区画整理しようとすると不審な事故が起きたりしました。それで首塚は今でも同じところで祀られています。 また美濃国の一宮の南宮大社は将門の首が関東に戻ってまた乱が起こるのを恐れ祈願したところ神社に座す隼人神が矢で平将門の首を射落とし落ちた場所にその首の怒りを鎮め霊を慰めるために創建された御首神社(みくびじんじゃ)があります。 なお南宮神社は鉱山の神様である金山彦命が祭神です。平将門は 朝廷に逆らったので悪役になっていますが神田明神や千代田区九段の築土神社は将門を祀っています。これは忠臣蔵で吉良の殿様がいつも悪役となりますが、地元の愛知県西尾市吉良では 数々の善政を行った名君として愛されているのと同じです。そして将門が成田山開祖の寛朝に打ち 取られた関係から平将門やその家来の子孫、神田明神や築土神社の氏子たちは今でも成田山に お参りしないのです。また成田山では毎年の節分には大相撲力士や芸能人、その年のNHK大河ドラマの出演者たちが豆まきをします。 しかし 1976 年の大河ドラマの「風と雲と虹と」は平将門を主人公にしたため将門役の加藤剛ほかの出演者はお参りにいきませんでした。 歌舞伎役者の市川海老蔵が名乗る「成田屋」は市川流宗家を表す屋号で歌舞伎における屋号の始まりといわれています。 その由来は子宝に恵まれなかった初代市川團十郎(1660 年~1704 年)が成田山新勝寺に祈願して御利益を受け長男を授かることができこれに感謝してあらわした「兵根源曽我(つわものこんげんそが)」という不動明王をテーマにした演目を上演しました。これが大当たりとなり成田山に大鏡を奉納しました。そして成田屋の屋号を使うようになりました。 真言宗の本尊は宇宙の根源であり真理を表すという大日如来ですが成田山新勝寺の本尊は大日如来ではなく燃え盛る炎の中で右手に剣 を左手には羂索という網を持ってにらんでいる不動明王です。それで成田山新勝寺は「成田不動」 とか「お不動さん」とも呼ばれるのです。というのは不動明王の本来の姿が大日如来だからです。 大日如来は最高神ですから不動明王以外でも阿弥陀仏にも薬師如来も姿を変えることができるのです。インドのアバター(化身)です。大日とは偉大な太陽という意味です。奈良の大仏の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)も太陽をつかさどる仏様ですがこれも大日如来が化身した仏様だと言われています。 不動明王を唱える真言はノウマク サンマンダ バザラダン カンです。また不動明王は五大明王の中心となる明王です。五大明王は真言宗だけでなく天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されています。成田山新勝寺の別院は八か所にあります。東京別 院深川不動堂、札幌別院新栄寺、函館別院函館寺、横浜別院延命院、川越別院本行院、大阪別院明王院、福井別院九頭龍寺、そして愛知県犬山市の名古屋別院大聖寺です。 私の生まれた岐阜県にも成田山があります。それは恵那市にある成田山明智大教会と各務原(かがみがはら)市の成田山貞照寺です。貞照寺は日本最初の女優と呼ばれる川上貞奴(明治4 年~昭和21 年)が建てたお寺です。川上貞奴は1985 年にNHK の大河ドラマ「春の波濤」で松阪慶子さんが演じ、同じくNHK の2014 年の朝ドラ「花子とアン」では仲間由紀恵さんが扮していました。 話を宗紋、寺紋に変えます。真言宗の空海が開いた高野山の金剛峯寺には「五三の桐」と「三つ巴」の二つの紋があります。「五三の桐」は天皇から弘法大師の称号を下賜された時に天皇家の家紋である五三の桐紋 も頂いたといわれます。「三つ巴」の紋は神霊の印として神仏の加護求める神社の神紋につかわれ高野山の鎮守である丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の定紋から取り入れられました。 【丹生都比売神社公式ホームページ】 ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し『魏志倭人伝』には既に古代邪馬 台国の時代に丹の山があったことが記載され その鉱脈 のあるところに「丹生」の地名と神社がありま す。丹生都比売大神は この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀 る女神とされてい ます。全国にある丹生神社は八十八社 丹生都比売大神を祀る神社は百八社摂 末社を入れると百 八 十社余を数え当社は その総本社であります。 また巴紋は空海の生まれた讃岐国の佐伯家の家紋でもありました。真言宗の智山派の新勝寺成田山 の総本山は智積院です。智山派の寺紋は桔梗紋です。 智積院の歴史は複雑です。紀州にあった 大伝法院と豊臣秀吉が3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という 2 つの寺が関係しているのです。これは智積院の正式名が五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院であることからもわかります。もともと智積院はお寺ではなく紀州の根来山大伝法院(根来寺)の塔頭でした。とい言いま すのは真言宗の中興の祖である覚鑁(かくばん、1095 年~1143 年)が最初に高野山に大伝法院を創建したのですが教義上の問題で高野山を去り大伝法院を根来山に移して新しい真言宗を打ち立てたのです。覚鑁がなくなったあとに別の僧が根来山内の学問所として智積院という塔頭が建立したのです。 そして豊臣秀吉の 1585 年の根来攻めで根来山は全山炎上してしまいました。当時の根来山には 2,000 もの堂舎があったといわれます。智積院の住職であった玄宥(1529 年~1605 年)が根来攻めが始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出て高野山に逃れました。 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年に家康は東山の秀吉を祀った豊国神社の付属寺院の土地建物を 玄宥に与え智積院は復興したのです。そして大阪城の戦いで豊臣氏が滅び隣接地の豊臣家ゆかりの祥雲禅寺(臨済宗)の寺地を与えられてさらに規模を拡大し山号を根来に名を残す山の五百佛 山、寺号を根来寺としたのです。なお、祥雲禅寺は豊臣秀吉が 3 歳で死去した愛児鶴松の菩提のために建立した寺でした。 その時の造営奉行だったのが築城の名手と言われた加藤清正でした。清正の紋は蛇の目が知られていますが桔梗紋も使用されており祥雲禅寺はその清正の桔梗紋を引き継いだのです。しかしもともと清正は桔梗紋を使用しておらず秀吉の家臣である尾藤知宣が使用していた紋なのです。知宣は秀吉の咎めをうけて失脚し、所領を没収されました。それで秀吉は 知宣が用いていた家具や武具を清正に与えたため使用されていた桔梗紋だったのです。しかし総本山の智山派智積院の下に位置する成田山新勝寺の寺紋は桔梗紋でなく葉菊だったのです。だったと言うのは成田山は開祖寛朝が宇多天皇の孫であったように皇室との縁が深く、「葉菊」が許されていましたが明治2年の「菊花紋章禁止令」によって親王家及び一部の門跡寺院を除く社寺に対して菊花紋章の使用が制限されて「葉牡丹」となったからです。 成田山にはたくさんのお堂や建築物、石像などがあります。ゆっくりと歩いてひとつひとつの由来を調べ歴史の中に浮き上がってくる風景を想像したりするのも寺社巡りの楽しみのひとつですよね。 丹羽慎吾
シンゴ旅日記ジャカルタ編(26) シンガポールへ社員旅行(後編)の巻
シンガポール社員旅行の最終日(三日目)は朝から自由行動で、午後3時にホテルに集合してバスで空港に向かうことになっていました。 会社のみんなはガイドさんに案内してもらい買い物に出かけて行きました。 私はシンガポール駐在時代から一番のお気に入りであるチャイナ・タウンにひとりで出かけました。 古い町並みを残す通りを歩き、その周りのビル群の眺めがシンガポールの過去、現在を表していて好きな場所なのです。私はチャイナ・タウンへは地下鉄に乗って行くことにしました。 地下鉄の駅に着いて路線図を見ると駅の数も増えていました、またプラットフォームが地下四階にあり、複雑化していました。チャイナ・タウンの駅に着いて地上に出て、昔の記憶をもとにまずはシンガポールで一番古いヒンズー寺院であるスリ・アマナン寺院に向かいました。そして同寺院の入口から中を覗いたあと、これまたシンガポールで一番古い中国寺院であるシアン・ホッケン寺院に向かいました。シアン・ホッケン寺院に着いて、昔と変わらぬ門をくぐって中庭に入りました。 同寺を一周するように建てられた神々を祀るお堂を歩いていると、インド人の観光客グループが中国系シンガポール人のガイドの英語の説明を聞いていました。昔はインド人観光客は少なかったのに、またインド人が中国人に興味を持って訪問していることに時代の移り変わりを感じました。 シアン・ホッケン寺院を見学し、道路に出て隣の小さな寺院の前を通ると、入口に『オルゴール博物館』と書いた看板がありました。 シンガポールとオルゴールとの取り合わせが不思議だったので見学してみようと門をくぐって中に入って行きました。中庭には三階建ての塔が立っていて、その後ろの建物の片隅に小さな売店がありました。その中に居た人に博物館を見学をしたいと申し入れました。 すると、その博物館には日本人のガイドが居て説明してくれると言われました。しかし、ちょうどその時は昼食休憩の時間で、そのガイドさんが食事に出ているので、13時にまた来てくださいと言われました。 私は近くの韓国料理店でランチ定食を済ませたあと、またオルゴール博物館に向かいました。博物館には日本人ガイドさんが戻って来ており、館内を案内してもらうこととなりました。 オルゴール博物館(Singapore Musical Box Musium)(シンガポール経済新聞のHPより転記) 創設者の大類猶人(おおるい なおと)さんは、愛知県でオルゴール博物館と私設美術館を運営し、京都嵐山オルゴール博物館をはじめ数々のオルゴール館を手掛けた実績を持ちます。 イギリスでオルゴール制作の修業を重ね、師であるグラハム・ウェブさんからシンガポール製のオルゴールを託され、「シンガポールでオルゴール博物館を」と故人の意思を実現するために開館しました。 「1860年頃、当時イギリスの植民地だったシンガポールは、イギリスから時計の機械を輸入し、外箱の生産をはじめ、置き時計や掛け時計を作っていた」と大類さんは言います。 当時は家内手工業程度のレベルであったが、勤勉なシンガポール人たちは、イギリスの時計職人から知識を学び、技術を向上させていったとのことです。 大類さんは「母国から遠いアジアの植民地で暮らす外国人たちは、ナイトライフを充実させたいとの思いからオルゴールの輸入が始まった。そのメンテナンスを手掛けるうちに、いくつかのオルゴールがシンガポールで作られ始めた」と説明します。 同館には大小合わせて200点以上の収蔵品が並び、「THE GEISHA」という曲を演奏するオルゴールも展示しています。 歴史の裏に隠されたさまざまなストーリーを、オルゴールを通じて体感することができ、知られざるシンガポールの歴史を垣間見ることができる内容となっています。 20世紀初頭の豪華客船タイタニック号に乗るはずだったというオルゴールも展示してして、当時の情景を思い描きながら音楽の世界に浸ることができます。 日本人女性のガイドさんは私一人のために一つ一つのオルゴールの詳しい説明や、それらを実際に動かしてきれいな音色を聞かせてくれました。見学時間は約一時間ほどでした。 オルゴール博物館の見学を終えて、ホテルに戻るために地下鉄の駅に向って歩きました。 途中でレンタル自転車の広告を見かけ、中国のようにレンタル自転車が多く走っているのだなと思いました。しかし、道路脇の野原にチューブが外れたレンタル自転車が捨てられるように放置してあるのを見て、レンタル・ビジネスの問題点を垣間見たような気がしました。また、あるところには道路上にカー・シェアリングと書いてあり、電気自動車のような車が駐車していました。 ホテルの近くの地下鉄で降りて、まだ集合時間まで時間があったので、シンガポール時代に好きだったバクテー(骨肉茶)のスープを買って帰ろうと思い、ホテルの周り商店で探しました。しかし、どのお店もインド人が経営するお店だったので見つけることができませんでした。バクテーとは英国の植民地時代に福建省の中国人が港湾やスズ鉱山で苦力として働いていて、その安い栄養補給源として食事の一つが豚を解体したあとの肉片を利用したバクテ-だったのです ホテルに戻ると皆が徐々に戻って来てバスに乗り空港に向かいました。 出発ターミナルもT-4でした。荷物を預け、搭乗券をもらいイミグレに向かうと、入国時に指紋登録して入国した人は無人の機械に搭乗券をかざすだけで手続きが終わるシステムでした。 私も搭乗券を機械にかざしたのですが、印刷されたバーコードがまだ乾いていなかったのか機械が読み取りませんでした。それで私は検査官のいるマニュアルの方に移動しなければなりませんでした。T-4の空港内ロビーは綺麗でした。私は出発時間までコーヒーショップで持参した日本の小説を読んで過ごしました。 夜9時ころにジャカルタ空港に着き、全員荷物受取場に集合できたのですが、皆は疲れたのか荷物が出てくるまでコンベアのフレームに腰かけて休むなどしていました。私が『危ないからそこには座らないように、またシンガポールと違ってみなきちんとしていないよ』言うと『ここはインドネシアですから』という言葉が返ってきました。私は全員が無事に帰国できたことに安堵するとともに、次回の社員旅行はインドネシア国内にしようと思いました。 丹羽慎吾