森本剛史君との思い出11~社会人時代・東京編

シンガポール駐在を経て、東京に勤務することになった私でしたが、忙しさは相変わらずで毎日夜9時~10時まで残業することも多くあまり気持ちに余裕を持てない日が続きました。帰国後は、名古屋の自宅を賃貸に出し、社宅に住んでいました。後、諸事情で神奈川県に住まいを移しましたが、その頃から少しばかり気持ちにゆとりが出てきたように思います。 私は、もともと机に座って新聞を読んでいるような仕事が嫌いで、出来るだけ外に出て客先周りをするのが好きでした。出かける方向が合うと、ついでにちょっと立ち寄って森本君に合うのが楽しみでした。代々木八幡の事務所にも度々会いに行きましたし、小田急線相模原の事務所にも、足柄や海老名やに出かけた帰りによく立ち寄りました。 少し遅めの時間になったときには缶ビールで一杯やりながら、あの、本がいっぱい詰まった部屋で昔と同じように語りあったものです。そのうち、彼からひとつの相談を持ちかけられました。これまで、100か国以上の国を訪問して書いてきた彼自身の紀行文を紹介しつつ、若い人に紀行文の書き方を教えるコーナーを作って募集をかけるためのホームページを持ちたいというものでした。 ホームページ「旅好堂」 当時はまだホームページ制作を始めて間もない頃で技術も未熟でしたが、やりがいのあることだったので喜んで引き受けました。どんなサイトにしようかと意見を闘わせ、その結果、少しずつ形になっていくのがとても楽しく二人で悦に入っていました。彼は顔が広かったので友人たちも協力して素材を提供してくれバラエティに富んだものになっていきました。 こうして出来上がったのが「旅好堂」(数年前閉鎖)です。彼の多くの友人たちからの評判もよくとても喜んでくれました。私も一人の投稿者として自分の旅行記を載せ、娘たちの旅行記も追加してますます家族づきあいが深まっていきました。彼が亡くなったことがショックでこのサイトを一度閉鎖しましたが、後に思い出としてしばらく残すことにしました。 代官山蔦屋での活躍 こんなふうにときどき彼の事務所に立ち寄っていろいろな関心事を話し合うということが続きました。ある日、真剣な顔で、彼はこう言いました。「今まで、長年一匹狼で仕事を続けてきたけど、体力も落ちてくるし仕事の量も減ってきたこともあるし、ある会社の面接試験を受けようと思っている」と。 聞いてみると、今元気のいい会社「TSUTAYA」が代官山に今までにないコンセプトで書店を出す予定で人材を募集しているとのこと。面白いのは、各ジャンルにひとりコンシェルジュをおいて本の選定から構成までその担当コーナーのすべてを任せるというものでした。その旅行部門に応募してみようと思っているんだけど、どう思うというのです。 私は、剛やんからこの話を聞いたとき、これは決まり!と即座に思いました。若い時から世界中を飛び廻り100か国以上を訪れて、それらの国の歴史、文化をはじめ観光情報などを取材した蓄積は誰にも負けないものがあります。その蓄積の大半は頭の中に残っており、彼ならお客からどのような質問・相談があってもその場で即座に情報を提供できると思いました。 剛やん、天職見つけたり!と私は、思い切り彼の背中を押しました。そして見事合格!次に会った時の彼の喜びようはそれはもう大変なものでした。この歳になって少し不安になっていた収入も安定したので、やりたいことを思いきりできる。毎月給料が振り込まれるというサラリーマンの安定感を今この歳になって享受できるとほっとしていました。 「職場を見に来てくれよ」と言われていたので何度も行きました。ときには妻と娘たちを連れて一家総出で行きました。娘たちも彼の旅行記を読んでいましたし、書き方のコツを習いたいとも言っていました。彼は生き生きとして顧客の相談に応じ、標準語ながらちょっとだけ新宮弁のイントーネーションが混じるのを聞いて微笑ましく思いました。 そのうち、テレビやラジオの取材もどんどん増えていって、すっかり時の人、話題の人になりました。そうなると、会社の方も放っておきません。ただのコンシェルジュの仕事のほかにも、併設してある喫茶店でイベントを開いたり、関連の会社で熊野旅行の企画をして剛やんが一緒について行くようなことも始まりました。 彼が多忙になっていくにつれ、なかなか会うこともできなくなっていきましたが、ある日、小田急電車内で偶然会いました。聞くとその日は休みだけど新宿の紀伊国屋まで行くのだといいます。やはり本屋としては大手の代表格である紀伊国屋が今どんな本を揃えているのかなど、要は敵の様子を探りに行くところでした。燃えているなと感じました。 訃報 剛やんの訃報に接したのは、友人から届いた一枚の葉書でした。彼がTSUTAYAに入る前、まだそれほど忙しくなる前、東京近郊に住む数名の同級生の集まりがありました。この集まりも剛やんが率先して企画して始まったもので、ときどき都合のつくものが集まって食事会をしていました。そのメンバーのひとりからはがきが届いたのです。 聞くと、その前年の暮れに手術を受けていたとのことでした。ついこの間まで、あの洒落た書店で大活躍していた彼が突然いなくなることなど誰が想像できるでしょう。呆然として暫く何もできませんでした。小学校1年生のときから、57年間の長い間ずっと付き合ってきた友、私自身の人生にも少なからず影響を与えた大事な友が・・・。 新宮、蓬莱、城南、新高、大阪、シンガポール、代々木八幡、相模原、・・・それまでの思い出のシーンがほんとうに走馬灯のように浮かんできました。今、自分がちょっと体調が悪く気が弱くなっているからなのかどうか、剛やんのことを書き留めておきたいと急に思いたち、この思い出の綴りとなりました。 何だか中途半端な終わり方になりましたが、今回はここまでとしたいと思います。機会がもしあったら、また書くかもしれません。最後まで、拙文を読んでいただき、ありがとうございました。 友よ、ありがとう。 西  敏  

森本剛史君との思い出10~シンガポール2・炒飯編

剛やんと久しぶりにシンガポールで再会して以降も、妻の弟家族や長女の幼稚園のときの先生など様々な友人たちが来星してくれました。国内にいてもなかなか会えない人たちにも、外国にいるからこそ会えるということもあったと思います。 ある日、剛やんから、待望の一冊が届きました。彼がシンガポールで取材し、私がわずかながらも協力したあの一冊「海外食べあるき・ショッピング シンガポール」(1988年10月初版発行・S社)でした。 見ると、あの「幻の炒飯」は、どの高級レンストランよりも、どの一流ホテルよりも大きく、見開き2ページに亘って紹介されていました。やるな!剛やん。やっぱり感性は一緒やった!うれしかった!おまけに、あいつ、協力者として、私の名前まで巻末に紹介してくれていました。 でもこの本はもう、書店で見ることはありませんので、「幻の炒飯」のページのみ紹介したいと思います。 ◇究極の炒飯ここにあり◇ シンガポールに住んでいる日本人の間でつとに有名な幻の炒飯に遭遇することができた。 店の入り口左に炭火のかまどがあり、ここが調理場。痩せたおばさんが煙のなかで大きな中華鍋を握っていた。彼女の細腕の右の力こぶだけは小さなお餅をのっけたように盛り上がっている。鍋から空中に放り投げられた飯が炎と交差する時、ジャッと音が出た。香ばしい匂いが店内に漂う。 おばさんは米の一粒一粒がくっつかないように、しかも米の一粒一粒に卵がまんべんなく絡むように力を込めて鍋をかきまわし、飯を宙に舞い上げる。まるで、炎と決闘しているようだ。声をかけたが、口も利きいてくれない。注文は別のおばさんがとりに来た。 9卓の丸テーブルは全部ふさがり、お客は黙って待っている。その上をふたつの扇風機がゆっくり回っている。奥には神棚があり、その下には油でテカテカ光っているオレンジ色の電話機。隣の食器棚のガラス戸には12枚の茶色に変色したサッカーチームの絵葉書が貼ってあった。 30分たって、大きな皿に盛った3人前の炒飯ができ上がった。カニ肉をはじめとしてシーフードもたっぷりと入っている。口に入れてみると、ふわふわでしかもパラッとしている。口一杯にカニ肉のいい香りが広がった。実に気品のある、この逸品だった。 この店の名前は「榕光」(YONG KUANG)。チャイナタウンを横切るサウス・ブリッジ・ロードからネイル・ロードに入ってカントンメント・ロードの1本手前を右に入ったところにある。左斜め前が広東料理で有名な「マジェスティック・レストラン」だ。 ちなみにこの炒飯のお値段、1人前で10Sドル(標準の3倍)、3人前だと25Sドル。シンガポールで料金が一番高い究極の炒飯である。 「榕光」(YONG KUANG) 31, Teo Hong Rd. 11:00~16:00(無休) (文:ライター・伊藤ユキ子さん) ~つづく~ 西 敏

新加坡回想録(23)クリスマス

かれこれもう35年ほど前の話で、記憶が一部なくなっていたので、娘に連絡して事実確認をして書いています。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 12月上旬ともなると街はもうクリスマスムードいっぱいで、あちこちでイルミネーションがこれでもかと輝いています。特に、LEDが開発されてからは、色合いが微妙に違う複雑なものも出来るようになって、中にはもう立派な芸術作品と言えるものもありあります。 今でこそ日本でもそれぞれの街やお店が競うように装飾を施し、行きかう人の目を楽しませてくれていますが、35年ほど前は今ではもう想像できないくらい何もありませんでした。ところが、赴任先のシンガポールで迎えた初めてのクリスマスはまったく様子が違いました。 街全体がきらびやかに彩られ、特に中心街のオーチャード通りに行くと、そこには見たことない景色が広がっていてまさに眩しい光の海でした。これは、昔、イギリスが統治していたことの影響なのでしょうか。 上の娘が小学校3年生、下の娘が幼稚園の時でした。二人は、日ごろから欲しいと思っているものをいくつか挙げてサンタさんに手紙を書きました。サンタさんの存在については、幼稚園児はまだまだ信じ切っていましたが、姉の方も何となく疑問を持ちながらも確信が持てないような感じでした。その手紙で疑い深く「何頭のトナカイで来るんですか?」などいくつか質問をしていたようです。まだ少し疑いをもちながら。 そこで私は一計を案じました。娘たちの手紙に”英語”で返事を書いて枕元に置いたのです。ところ変わればで、どんな反応を示すか見てみたいと思ったからです。丁度、上の子は英会話学校と家庭教師で英語を学び始めたところでした。勿論、すべては理解できないので、あくまでもサンタさんからの手紙の体で訳してあげました。 やっぱりシンガポールだから手紙も英語で来るんだねと、その時は納得したように見えましたが、クリスマスシーズンであっても暑いシンガポールのこと、「まさかあの服装で来ないよね。アロハで海パンはいて、サーフボードに乗って来たりしてー!」などと話したことは覚えています。 後で聞くと、いつも一緒に遊んでいる友達の家でも、やはりサンタさんから手紙への返信があったけれど、そこには、日本語がローマ字で書いてあったそうです。その子はまだ英語を習っていなかったので、お父さんが気を使ってそうしたのだそうです。この時、娘は、各家庭でそれぞれのパパが読み手のスキルに合わせて対応していることを知って、「やっぱりパパだ!間違いない」と思ったといいます。 上の娘は、欲しいもののひとつに「英語のミニ辞書」を挙げていた。小さいころからこまっしゃくれていて、話す内容も大人びたちょっと変わった子でした。我が子ながら面白い子だなと思い、翌日、さりげなく「これ使う?」と言って英語のミニ辞典を渡したらしいです。(らしいというのは私自身はもう忘れていましたが、当の娘の方は、はっきり覚えているといいます。)この時、「あ、手紙見とるな・・・サンタやな?」と思ったそうです。 もうひとつ、シンガポールに行く前の年に、新聞の4コマ漫画で、ある家庭のお父さんが「そろそろプレゼントを置こうかなー」という描写があって、「やっぱりそうなんだ!」と思ったそうです。どおりで疑っていたわけです。 こうしてみると、子供たちも、周りで起こる様々なことから判断していろいろと考えを巡らせ、学びながら成長していくものだということよくわかります。3歳下の子は、ただただお姉ちゃんの言うことを信じてついていくだけだったようですが、もしかしたら、姉から聞いたことを自分の同級生に自慢げに話していたかもしれないと想像するのも面白いですね。 (西 敏)

新加坡回想録(4)資源を持たない国の悲哀

「増える国土面積」の記事でもお伝えしましたが、シンガポールという国は奄美大島ほどの大きさしかない島国です。国の発展・繁栄を目指すには当然何らかの産業を興していかなければなりませんが、国土が極端に狭いというハンディキャップは拭いようのない事実でありました。 大きな森があれば林業、広い土地があれば農業ができますが、木を切るべき森もなければ耕すべき土地もありません。良い漁場があれば漁業もできますが、ほとんどが外国から移民した人々であり伝統的な漁業で栄えたわけでもありませんでした。 島で最も高いところでも標高わずか173mほどの丘(ブキティマヒル)であって高い山がなく、水さえマレーシアから調達しなければならないという国です。とにかく狭さを少しでも補うべく海を埋め立てて国土を増やしてきましたがそんなことで根本的な解決にはなりません。 さて、1965年にマレーシアから分離独立したシンガポールは、どのようにしてあの驚異的な経済発展を遂げたのでしょうか?農村という後背地を持たないシンガポールは食料の自給自足は不可能で、生活必需品のほとんどを外国からの輸入に頼っている状況で、国民の誰もが明日からの生活に不安を感じていました。 政府がとった政策の第一は、外国企業の誘致でした。外国企業を誘致すると言ってもそれほど簡単なことではありません。政治的な安定度はどうなのか、労働力の勤勉さなど質的にはどうなのか、投資した資本を回収できる可能性はどうなのか、シンガポールとアジアの他の発展途上国との比較で優位性はあるのかなど、進出する方にとってはあらゆるリスクを検討しなければならないでしょう。 結果的には、外国資本の誘致に成功して、他のアジアのどの国よりも急激な発展を達成しましたが、その理由は何だったのでしょうか。この辺の事情は今後の記事に譲りたいと思います。 (西 敏)

新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(下)

日本による占領と軍政 イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していました。このため1941年に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けました。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わりました(シンガポールの戦い)。 その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名されました。その後日本から多くの官民が送られ、過酷な軍政が敷かれることになりました。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために強制徴用されました。 また当時は日中戦争の最中でもあったため、中華系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の「布告」を発行し、抗日独立運動家やその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害したといわれています(シンガポール華僑粛清事件)。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成しました。 再びイギリスによる植民地支配へ 1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなりました。 しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国イギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになりました。第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれていきます。 マレーシア連邦 1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任します。その後1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦(Malaysia)を結成しました。 しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化していきました。1964年7月には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生し死傷者が出る事態となりました。 分離独立 1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより関係が悪化します。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流しました。 (西 敏)

新加坡回想録(62)「ピ!ポ!パ!」

40年ほど前、まもなく30歳になろうかというくらいの時の話。後に駐在することになるシンガポールに初めて行くことになった。商社で澱粉の輸入を担当していた私は、東マレーシアのボルネオ島で生産されるサゴ澱粉(サゴ椰子の幹から抽出される澱粉)の仕入れ契約のために出張した。 現物の商品はボルネオから北上して直接日本に輸入されるが、取引は当時のシンガポール支店(現在は現地法人)経由でなされていたため、行き帰りは必ずシンガポールに立ち寄っていた。時には販売先である大手薬品会社の担当者を案内することもあり、その意味では、当時から観光地として人気のあったシンガポールに立ち寄ることがいい接待にもなった。 今や、世界でも先進国の仲間入りをしたと言っても過言ではないシンガポールだが、土地が狭い(淡路島くらいの面積)ことを逆手にとった政府の政策が功を奏し、当時でもロンドン、ニューヨークに次いで、世界の”3大金融都市”のひとつと言われるまでになっていた。 日本と大きく違うのは多民族国家であることで、国民の約70%が中国系、約15%がマレー系、約9%がインド系とさまざまな人種で構成されていた。開発途上国の中では成長率が著しく良かったので、そこに欧米をはじめ多くの国が進出していった。日本も負けじと多くの会社が事務所を置いていたので、世界でも珍しいほど日本人学校も充実しており、医療事情などと併せて日本人にとって住みやすい都市国家であった。 教育面でも、小学校3年生で生徒の最初の能力選別が始まるとういう徹底した英才教育で知られていた。多民族国家であるから、もちろん家庭ではそれぞれの出身の国の言葉を話すが、国語として指定されたのはマレー語と英語である。国民として英語を話す必要に迫られたが、年配の人やあまり教育を受けていない人たちの英語はよく言われる「シングリッシュ」で発音がよくなかった。 ある日のこと、多くの人々で賑わう旧ニュートンサーカスの屋台で食事を楽しんでいた。昔から屋台は有名だが観光化し過ぎた最近の屋台とは少し事情が違いまだ素朴さがたくさん残っていた。ガヤガヤと騒がしい中で隣のテーブルからひときわ大きい声が聞こえてきた。 「ピ、ポ、パ!」と叫ぶ声が聴こえる。「うん?、ピ、ポ、パ!」って何のこと?プッシュホンでもあるまいし。 耳をすましてよく聞いてみると、話しているのは紛れもなく中国系の人たちだが、言葉は中国語ではなくどうも英語らしい。悪いとは思いつつも、もう少し聞き耳をたててみた。 よく聞いてみてようやく意味がわかった。それは、「ピープルズパーク(People’s Park)」のことだった! 現地の人の英語の特徴のひとつで短く切るように話すのでそう聞こえたのだった。いわゆる「シングリッシュ」だ。シングリッシュをしゃべる彼らは、もっぱら中国系が多いように思う。それも中国南部地域特に福建省出身の人たちが多かった。しかし、この「シングリッシュ」を軽蔑することはできない。 発音がどうであろうと、日本人である私の目から(耳から)見ると、少なくとも彼らは、母国語以外の外国語を話している訳で、外国語を受けつけようとしない多くの日本人とは違う。それに、「ピ、ポ、パ!」に関しては、イントネーションを強調しているわけだから、案外日本人の平坦な発音よりは英語に近いとも言えなくもない。 多民族国家であることで、必要に迫られて毎日生活するために使っている英語。決してきれいな発音ではないが意思疎通には問題がない。帰国してこのことを同僚に話すと、笑い話のようにとられることが多かったが、40年経った今でも、本質は別のところにあると思っている。 世界中の誰もが母国語のように英語をしゃべることが重要ではない。それよりも母国語でしか話せないような”内容”をいかに世界で通用する言葉で伝えることができるかが重要ではないか。日本語で言えば、「寿司」や「津波」などよりも「わび」「さび」が英語で伝えられるようになることのほうが大事なのではないかと思う。歴史や文化の違いを乗り越えて国民感情の奥底にある機微を理解しあえれば無用な諍いがなくなるような気がしてならない。 西  敏