アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その6

それでは巻末に今までに観たアルゼンチンの映画で気になっています作品を列挙してみますね。 作品リスト:順不同、ジャンル不同です。※「」は邦題、()内 の数字は日本公開年です。 「ローマ法王になるまで」(2015)、「2人のローマ教皇」(2019)、この作品は現ローマ教皇、南米初のアルゼンチンからの法王についてわかる作品です。 「人生スイッチ」(2014)、「笑う故郷」(2016)、「エル・グラン」(2015)、「永遠に僕のもの」(2018)、「しあわせな人生の選択」(2015)、「家に帰ろう」(2017)、「コロニアル」(2015)、「エビータ」(1996) 「蜘蛛女のキス」(1988)、「皆殺しの天使」(1981、メキシコ)、「ビリディアナ」(1964、メキシコ) 「ピアソラ永遠のリベルタンゴ」(2015)、「ラストタンゴ」(2015、ドイツ)、「タンゴリブレ」(2013、ベルギー、フランス) アイヒマンに関する映画。 「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」(2015)、「アイヒマンショー歴史を写した男たち」(2015)、 「ハンナ・アーレント」(2012)、「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」(1999)、 「検事フリッツ・バウアー、ナチスを追い詰めた男」(2016)、「顔のないヒトラーたち」(2014 それではまた~。

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その5

アルゼンチンの映画を観ていまして、私があれ!と思いましたことの幾つかの内の二つについてです。 アルゼンチン・タンゴがメインに描かれる作品が以外に少ないのではないかしらと思います。そしてナチス・ドイツとの関係が織り込まれた作品も多いように感じます。 アルゼンチンの旧宗主国はスペインなのに何故?ドイツ、そして何故?ナチス。 戦犯のアイヒマンがアルゼンチンで発見確保されたから?でしょうか。それ以外にも都市伝説てきなことも幾つもあるようです。 ちょっと、アイヒマンに関する映画で私が観ましたモノを幾つか参考にあげてみます。 ※本文中の「」は邦題、()内の数字は日本公開年です。 「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」(2015)、「アイヒマンショー歴史を写した男たち」(2015)、 「ハンナ・アーレント」(2012)、「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」(1999)、 「検事フリッツ・バウアー、ナチスを追い詰めた男」(2016)、「顔のないヒトラーたち」(2014) 戦後の西ドイツ、自らのドイツ国民の手でナチス戦犯を裁こうとする西ドイツ検事たちとサモド(イスラエル諜報特務庁)との攻防と時には冷やかなやり取り。 そしてエルサレムにて裁かれることになるアイヒマン、その裁判で明らかになるアイヒマンの実像が描かれている映画たちです。 その裁判を傍聴してレポートするハンナ・アーレント、 ハンナ・アーレントは女性でドイツ人でユダヤ人哲学者です。 彼女のレポートでは、アイヒマンは悪魔でも怪物でもなく、大衆のひとりで平凡な人間。彼をあの所業に突き進ませた闇の根源は我々の中にもあるモノだ。特殊なモノでも特別なモノでもない。 その後これは論争になり、ハンナ・アーレントはユダヤ人でありながらユダヤ人社会から攻撃を受けることになります。 これはいったいどの様なことなのか?映画を観てみて自身の解を一旦導いてみるのも良いかもしれません。 そして、アルゼンチンタンゴです。 アルゼンチンの映画でない作品だと、アルゼンチンタンゴがストーリの中心にあってドラマチックになっていることがあります~(^-^)。何故?不思議です。 「ラストタンゴ」(2015、ドイツ製作)、「タンゴリブレ」(2012、ベルギーとフランス製作)などは、 ヨーロッパが持つアルゼンチンタンゴへのなにがしらかの憧れがロマンチックな仕上がりさせるのでしょうか? 私はアルゼンチンタンゴをアルゼンチンを代表する舞踊のようにも思っていますが、実のところはそうでもないのかもしれません。 それはフラメンコがスペインを代表する舞踊ととらえられがちですが、フラメンコはスペイン南部アンダルシア地方の特徴的な舞踊です。 スペインもカタルーニャ、バスク、ガリシア、アラゴン、アンダルシアなどなどで風俗や習慣や文化も違いますものね。 このふたつの舞踊、 アルゼンチンタンゴとフラメンコは同じスペイン語圏の舞踊ですけれども、よ~くみますととても対照的でもあるように感じます。 アルゼンチンタンゴは、 とても男女が密着して官能的に踊るように見えるのですが、舞踊手の男女間の距離は常に一定で決して必要以上の密着はないように踊っているように思います。 官能的に思えた男女の距離感とその舞踊は、途端にその様子が冷静で冷徹にさえ思えてきます。 正確なところを私は調べられていませんが、一説に昔はアルゼンチンタンゴは男同士で踊っていた(らしい)。それは意中の女性にどちらが相応しいかを競うためにガウチョが男同士で踊った?競った?(らしい)。 一方、スペインのフラメンコは女性舞踊手(バイラオーラ)と男性舞踊手(バイラオール)は決して相手の身体には触れないし物理的な距離が存在するのが見てとれます。 舞う女性が自身の内面の美しさをまるで「どうよ!」と言わんばかりに舞踊のなかで出しているようです。でも決して女性は誘っているわけではない。「私に魅せられるのはあなたの勝手、私は知らないわ関係ないわ」と言う感じがします。 そこに情熱の表面温度の焦げるような高さや、トロリとした濃密な情や業の深さを感じるのは何故でしょう。不思議です。 アルゼンチンタンゴとフラメンコは、こんなにも違う感じがします。不思議ですね。 △△その6へ、つづく~。

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その4

私の好きな作品の一つに、「蜘蛛女のキス」(1976年作成、1988年日本公開、アルゼンチン)があります。 この映画、刑務所の監房の二人のやり取りではじまります。この二人は政治犯とゲイの囚人の組合せ?何故でしょうか、不思議です。 監房内での二人のやり取り、そして劇中物語の中で語られる架空?の映画のストーリ、現実と架空の世界の行き来するようなストーリ、不思議です。 これが南米文学で言うところのマジックリアリズム?なのかしらとも思いました。 何を愛するのか?愛するために何を手放し、何故どうしてそうするのだろうか? ゲイの囚人を演じたウィリアム・ハートの演技は強く印象に残ります。 まだLGBTですとか性の多様性と言うことが世間に公に論じられていなかった1970年代に仕草や内面を繊細に表現し演じているように感じます。 その後現在まで観た性の多様性を扱った作品の中でも秀逸の演技かもしれません。 そしてラスト近くでのゲイの囚人がとる行動、ラストシーンの二人で小舟に乗り沖に見える島へ向け漕ぎ出します。現実?か架空?か、このシーンに映画を観る人は何を思うのか。 アルゼンチンの映画ではありませんけれども、「皆殺しの天使」(1981年日本公開、メキシコ)、「ビリディアナ」(1964年日本公開、メキシコ)、ここにも「狂気(狂喜)」が在るように感じます。 南米の多くの国の成り立ちをみますと、現地の人々の元々の文化、植民地化、旧宗主国の文化などが色濃くあります。 元から原住していた人、旧宗主国の人、旧宗主国からの移民、各国の独立後の移民(日本人もここに多くの足跡を残しています)、黒人、そして混血の人びと、そのような複雑な人種構成と階層があり社会基盤があり歴史があります。 ブルーブラッド(青い血:Blueblood)と言う言葉もあります。 貴族の血と言う意味があるようです。ヨーロッパに血筋の礎をもち純血であることを高貴としてとらえていることがわかります。 アルゼンチンのワインでラベルに「青い心臓」が描かれているモノがありました。これも何か意味がありそうですね~(^-^)。 △△その5へ、つづく~。

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その3。

さて、ここでアルゼンチンめ含め南アメリカ大陸(南米)と言われたりラテンアメリカと言われて思い浮かぶコトやイメージはどのようなものでしょうか? 中学の社会科や高校地理A・Bを私は思い出しながら(^-^)、単語を思いつくままに列べてみました。 赤道直下、アマゾン、ジャングル、アンデス山脈、マチュピチュ、インカ・マヤ・アステカ遺跡、フンボルト海流、エル・ニーニョ、ラ・ニーニャ、ウェゲナーの大陸移動説、大航海時代、マゼラン海峡、パタゴニア、セルバ、カンポ、マットグロッソ、パンパ、サバナ、ボサノバ、ショーロ、マリアッチ、チャマメ、ガウチョ、アルゼンチンタンゴ、盆踊り(ラプラタ盆踊り)、死者の祭、とかとかとか~。 そこには地形と奥深く水平方向に広い自然環境あり、そこから生まれる気候と植生のなかに生きて根ざす人びとの文化と生活と歴史が在りますね。 南アメリカ大陸は、メキシコ半島とカリブ海沿岸からパタゴニアまでです。この中でアルゼンチンは南米大陸の半分から下(南)を占めます。強風吹きすさぶ氷河のあるロス・グラシアレスの少し先までがアルゼンチンの国土になります。そこはもう南極大陸のすぐ近くです。 アルゼンチンも、日本列島のように南北に長い長い国ですね。 南米アマゾンのジャングルなどの緑の地獄(グリーンイフェルノ)と言う感じではなく、乾燥して風吹きすさぶ荒涼とした草原、命の源になる母なる「水」から距離を感じさせられる世界なのかもしれません。 英語のドライ(dry)に乾燥と言う意味以外にも、飾らない、辛口、渇き、などの意味がありましたように思います。乾燥は「渇き」から生まれる「狂気(狂喜)」みたいな「何か」を生む要素のようにも感じます。 湿潤な温帯を生活の基盤に縄文時代から日本列島に住み続けてきました私たち日本人とは視点の違うこともあると思います。 そのような意味でもアルゼンチンが放つ「狂気(狂喜)」にひかれるのかもしれません。 △△その4へ、つづく~。

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その2。

今まで観た映画を振り返りますと映画産業が巨大なアメリカの映画以外ですと、何故かアルゼンチンの映画もしくはアルゼンチンに関する映画が以外に多いかも~と気付きました。 何故?かしらと考えてみました。 何となくですが、アルゼンチンの映画に描かれています「狂気」?もしくは「狂喜」?のような「何か」にひかれるのかもしれません。 その『狂気(狂喜)』には、大きな「狂気」、小さな「狂気」、優しい「狂気」、美しい「狂気」などなどが滲んで出ているように感じます。 優しいや美しいと言うような、あまり「狂気」とは縁遠い言葉を「狂気」と組合せて感じさせる「何か」を映画の中に視て取るからなのかもしれません。 この感じは、もしかする南アメリカ(南米)のアルゼンチン以外の国々の映画にも存在する「何か」なのかもしれないと思います。 南米の国だけではなく、どの国にも「狂気」を感じさせる「何か」かは必ずありますし、どの様な「狂気」なのかも様々と思います。その感じとり方も人それぞれかもしれません。 日本の「狂気(狂喜)」をどの様なコトやモノに感じます?でしょうか。 幾つかありますが、私は大和絵や浮世絵や地獄絵や春画やデロリなどなどの絵画表現や工藝表現、芸能の内に日本の「狂気(狂喜)」の「何か」の幾つか感じることがあります。 それは岩佐又兵衛、河鍋暁斎、月岡芳年、甲斐庄楠音、若冲、曾我蕭白、上村松園、鰭崎英朋、柴田是真、宮川香山、国芳や北斎、鶴屋南北、近松門左衛門などなどの作品や作風からも感じます。 狩野派や等伯や作者不詳の絵、平家納経の造作や平泉金色堂の螺鈿の柱、研ぎ出し蒔絵や横浜焼などなどの工藝、盆栽や庭園、文楽に歌舞伎、そして落語や講談などの話芸など『藝』のなかにも「狂気(狂喜)」は在るように感じています。 これらの「狂気(狂喜)」は何に畏怖し驚嘆したものなのでしょうか?そこには複雑な心理がこめられていますね。 △△その3へ、つづく~。