スマホライフ 今日の一枚 趣味の作品展 VOICE
スマホを上手に使って暮らしを便利に! 花や景色、何でもOK!今日の一枚を! 今週の作品
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プロカメラマンの秘密を探る⑥~本質と価値変化

「石は濡れている方がいい。乾いた石では絵にならない」 野村さんは、一枚の写真を見ながらこうつぶやいた。この言葉を聞いたとき、私は、ふと、阿久悠が書いたあの名曲「舟唄」の歌詞を思い出したのである。 「お酒はぬるめの燗がいい、さかなはあぶったイカでいい・・・灯りはぼんやり灯りゃいい」 ものの本質というものは、本来は簡単に変わるものではない。しかし、時と場合によって、ほんの少しのことでまるで違うものになりより大きな価値を生み出すことがある。一流の料理人はあり合わせの食材を使っても、それを見事な絶品料理に仕上げて見せるし、腕のあるカメラマンは、何でもない景色を感動を与えるものに変えてくれる。 野村さんは、さらにこう続けた。「もし、龍安寺の石庭の石に水をぶっかけたら、とんでもない犯罪行為になってしまうでしょうが、二ヶ領の川の石ならまず問題はないでしょう。来年は、柄杓でも持っていって水を掛けて撮ってやろうと思います」 この一枚の写真を見て、最初からそれを感じる人はまずいないと思う。しかし、野村さんのこの言葉を聞いてからもう一度じっくり見ると、確かに色気がないというか味気なさのようなものを感じる。わざわざ水を掛けてでも撮りたいという独特の発想は、素人にできるものではない。これが、プロカメラマンの技なのかもしれない。 実は、この写真は、桜の花びらが散る様子を撮るために二ヶ領用水に出向いたときのものである。水に流れる桜の花びらをとっていた時に偶然一本の草が岩にひっかかったものだ。これはこれで、自然が生み出した偶然の瞬間で、ある意味で面白い作品になっていると思う。 しかし、石の頭の部分が乾いていたために今一つの感があり、野村さんには不満が残るものになったに違いない。もし、石が濡れていたら、ワンランク上の写真になったはずだ。そのときの気持ちの表れが冒頭の言葉になったと思われる。いわば失敗作かもしれないが、その一枚からでも学ぶことができるし、やはりプロの目は違うものだと思った次第である。 (八咫烏)

しんごのキになる話② すごい植物たちの巻(落葉 その2)

オーキシンは葉の成長に大きく関わっているのです。 発芽して成長する植物は茎の先端にある芽(頂芽)が伸びていきます。しかし、頂芽だけでなくすべての葉っぱの付け根には側芽があります。 通常は頂芽だけが伸びていきますが、頂芽が動物に食べられたりした時は側芽が頂芽となって伸びていくのです。この現象は頂芽で作られるオーキシンという物質によって支配されます。そして、それを「頂芽優勢」と呼ぶのです。 離層ができる場所は植物によって異なり、一カ所とは限りません。 例えば、サクランボは花梗の先端と付け根の両方に離層ができます。 サクランボは本来、実と果柄の間の離層で離れる方が、鳥が実を食べやすく、タネを遠くに運んでくれるので子孫を増やすためには有利なのです。 しかし、ヒトは花梗付のサクランボを好むので食べられない花柄を残すように栽培してきたのです。 花梗とは花をつける柄(え)のことです。別名「花柄(かへい)」。種類によって柄の長短はさまざまです。 花から実になると「果梗(かこう)」に名が変わります。 ミカンやオレンジそしてカキなども果実とガクの間に離層があり、本来は実が熟するとガクを枝に残したままのガクなしミカンやカキができるのです。 しかし、これもガクなしのミカンやカキは市場価値がなく売れないので、ヒトはガクの離層を遅くするよう改良し育ててきたのです。 (落葉 その3 へつづく)

しんごのキになる話1 すごい植物たちの巻(落葉その1)

かつてインドネシアに在住しておられたビジネスマンのシンゴさんが、長年に亘って書き留めたエッセイ集の中から一部を厳選してをお届けします。お楽しみください。 ーーーーーーーーーー インドネシアに暮らしていて「木」のことが気になりました。 朝の散歩では雑木林の中で様々な形をした木々を眺め、住宅地では庭木や草花を見ながら歩きます。木々や草花はいつも緑の葉っぱをつけています。 日本のように一面の紅葉となる時はありません。どうして?秋や冬がないから? じゃあ、緑の葉っぱは休みなく光合成をしているの? じゃあ、暑い国の葉っぱはいつ、どうやって落ち葉になるの? また、果物は雨季と乾季のどちらに花を咲かせ、実をつけるの? などなどの小学生並みの疑問を持ち、植物に関する本を何冊も走り読みしました。 びっくりしました。   日本で秋に落葉するのは、葉っぱが自分から働きかけて枝から離れ落ちて行くからです。 感動しました。 葉っぱは春から働き詰めです。 光合成で二酸化炭素と水分と、太陽エネルギーからデンプンを作り酸素を産出します。また、タンパク質や脂質も自分で作ります。それは本体の成長や子孫を残すためです。 身につまされました。そんな働き詰めの会社員のような葉っぱは冬になるとその活動が衰え自分の役割が終わるのを知るのです。 役割が終わるのを知った葉っぱは蓄えたデンプンなどを樹木の本体に戻します。 そして、またまたびっくりし感動しました。 栄養を本体に送り返した葉っぱは、幹や枝と繋がっている付け根部分に本体と切り離す層を作るのです。その層を離層と言います。 そして離層の部分で葉っぱは自ら本体と切り離し落ちて行くのです。 潔いですね。 葉っぱの引き際。涙が出ます。 この作業は葉っぱに含まれるオーキシンという成長ホルモンが寒くなることにより活動を止めていき、エチレンという成熟ホルモンがそのオーキシンの老化を促すからなのです。 (落葉 その2 につづく)

プロカメラマンの秘密を探る⑤~集合の美

何かが一ヶ所にたくさん集まっている様を撮った写真がある。例えば、富良野のラベンダー畑。広々とした畑一面に紫色の絨毯が敷き詰められたような光景。あるいは、その隣にはピンク、黄、オレンジ、白などの帯がきれいに並んでいたりする。実にきれいだ。 一面に咲き乱れる花畑の背景に、建物や散策路そして歩く人々がもし写っていたとしたら、それは単なるスナップ写真である。ところが、びっしりと植わっている花に焦点を当てて、光と影をうまく使い、角度も慎重に考えて撮られたものは芸術作品にもなり得る。望遠レンズや広角レンズを使っているものもたくさんある。 さて、ものの美しさは本来、その「数」に直接関係はない。単独でも得もいわれぬ美しさを備えているものも当然ある。ところが、何でもないものでも一定の条件の下でその数が大量に集まった時にある種の「美」を作り出すことがある。大量に集まることで構図の面白さができる場合だ。このことは「集合の美」と言えるかもしれない。 この写真は野村さんが数年前に撮った作品のひとつである。かつて、多摩川を挟んで調布側と中野島側を結んでいた送電線にカワウが整然と並んでとまっている。「烏合の衆」ならぬ、これは「集合の鵜」といったところか。因みにこの送電線は、生田浄水場に電気を送るための送電線であったが既に撤去されて今はもうない。 この写真を見て「美」を感じるかどうかは個人差があると思うが、私自身は見た瞬間、「うわっ!」何とも言えない感動を覚えた。まるで、意図をもって並んだようにきれいに並んでいる。そう、小学校の運動会の隊列のように。 尚、「集合の美」という言葉は、私が勝手に感じたことであり、野村さんの解説の言葉に含まれていたものではりありません。 ~つづく~ (八咫烏)

プロカメラマンの秘密を探る④~シンメトリー2(上下対称)

風景写真の中で、対岸の景色が水面に鏡のように映りこんでいるものがよくあり人気が高い。「逆さ富士」は富士山の風景を表す雅称の1つであるが、河口湖の水面に上下反転した形で映り込む山影は、その代表的なものであろう。 プロもアマチュアも好んで撮るこの「上下対称シンメトリー」の写真を撮るためにはコツがある。水をぶれないように写すには速いシャッタースピードが必要だ。しかし、水面が強い風で揺れている場合は、いくらシャッタースピードを速くしてもブレて映り込みは不鮮明になる。 先日の講演会で野村さんが仰った一言もずばり「風」についてであった。風があると水面にさざ波が立って映像が乱れるのだ。きれいに映るためには無風状態がやはり理想なので、水面が水鏡みの状態になるような風のない日を選ぶことがベストの選択であろう。 今年1月19日早朝、小田急線の鉄橋下で野村さんが撮ったのがこの一枚。風のない日を選んで撮ったことで、見事な上下対称の構図になっている。さらに、拡大してみないとわからないが、丁度その時空をV字型に飛んでいた鳥の群れが映り込んでいる。空の鳥には気づいていたが、その鳥まで水面に映りこんでいることは帰宅するまで気づかなかったそうだ。このことがまた、この写真の価値をひとつ高めていると思う。 「早朝の多摩川畔」と題されたこの写真は、第61回川崎市観光写真コンクールにおいて優秀賞・「川崎市議会議長賞」を受賞し、3月23日に東海道かわさき宿交流館で表彰式が行われた。 この写真には後日談がある。もう一枚のこの写真。お気づきの通り構図がまったく同じである。実は、野村さんは、受賞写真を撮った後、その翌日もまたその翌日も同じ場所に出向いている。最初撮った写真に不満があったのか、はたまた、もっといい写真をと求めたからなのか。 そしてさらにその後、1月23日、身も凍えそうに寒い日に同じ場所に行くと水面は完全に凍っていた。その時の写真がこれだ。この状態では完全な上下対称とはならないが、これはこれで別の味わいがあるというものだ。 ふと足元をみると、氷が面白い絵を描いていた。氷の渦が幾重にも重なって、人間の目と口のように見える。そう、あの名画「ムンクの叫び」のように。さるところに「氷の叫び」と題してこれも出品したところ、版権を譲ってほしいとの話があったそうな。さすがプロだ。この写真は版権の関係でお見せできないが、当日会場におられた方は覚えておられると思う。 目的とする場所に行って目的とする写真を撮ろうとしても、気象条件その他の状況からその目的が達せられないことがある。そんな時は視点を変えてみるのもひとつの方法だ。正面ばかり見ていても埒が開かない時、ふと足元を見てみると思わぬ発見をすることもある。上記はそのいい例だと言える。これもプロカメラマンの仕業なのか。 ~つづく~ (八咫烏)

プロカメラマンの秘密を探る③~シンメトリー1

前回、「天使の階段」について述べたが、その写真を撮って20日ほど経ったある日、野村さんは、同じような時間にまた多摩川にやってきた。そこには、あのカヌー(カヤック)がまた音もたてず静かに水面を滑っている。前回は、1艘だけを撮ったが今回は2艘である。 丁度昇る朝日が背景にあり、これがポイントになっていい写真が撮れそうだ。ただ、今回は2艘のカヌーであるならば、なんとなく、2艘であることの特徴を出したいと思う。見ていると、2艘のカヌーはそれぞれのタイミングですいすいと前進しているが、ふと、パドックがきれいにシンメトリーを作る瞬間があることに気がつく。 これだ!この瞬間をレンズに収められたら面白い。そこで、太陽が丁度背景の真ん中に来るタイミングを狙って連射する。果たしてうまく撮れただろうか。連射の中の一枚に、幸い2つのパドルがほぼバランスの取れたシンメトリーになっているものがあった。これも儲けものの一枚だと野村さんは言う。 ある時、このカヌーの主に話を聞く機会があった。素人ならきっとバシャバシャと水しぶきが上がってしまうのにと思っていたが、すぐにこの疑問が解けた。聞くと、彼らはカヤックの選手とそのコーチだという。多摩川の上流にカヌーをつなぎ留めておく場所がありいつもここで練習しているという。 「シンメトリー(左右対称)」はデザイン用語のひとつである。当然、写真や絵画でもシンメトリーは重要な要素のひとつだ。反対の言葉は「アシンメトリー(左右非対称)」という。一見アンバランスに見えて、釣り合いを保っているデザインをインフォーマルバランスという。写真でも、シンメトリーとアシンメトリーの両方が生かされている。 日頃から、ホームページのデザインに取り組んでいる私にとっても、このことは非常に参考になる。単なるメニュー項目の並べ方にもバランスが重要だと思っている。私見だが、同じシンメトリーではあっても、偶数より奇数の方がバランス上収まりがいいとも思う。そして、どこからでも学ぶ余地はあると思う。野村さんのように謙虚さがある限り。 (今回でシリーズ3回目のこの記事は、6月10日に開催されたプロカメラマンの野村成次氏の講演会で披露された写真についてのものです。当日出席できなかった方やもう一度あの感激を確かめたいという方のために、実際に野村氏から伺った話を元に少々筆を加えて書いています。) ~つづく~ (八咫烏)

プロカメラマンの秘密を探る②~天使の階段

風景写真を撮るといっても自然界には様々な対象がある。特に島国である日本では、海、山、川とバラエティに富んだ景色に恵まれている。野村さんは、このところ、自宅から大体2㎞圏内の徒歩か自転車で行けるところにほぼ毎日のように出かけているという。そうなるとやはり目と鼻の先の多摩川が主な対象となるのは自然の成り行きであろう。 毎朝夜明け前に出かけて行き、多摩川にレンズを向け続けている。中野島側からよりも調布側から撮るほうが、光の加減でいいものが撮れると野村さんは言う。この言葉からも、写真にはやはり光が重要な要素であることがわかる。また、晴れわたった天気の良い日よりもむしろ雲が出ているときの方が面白い写真が期待できると言うのもいかにもプロらしい一言ではある。 この日、朝7時過ぎころ、空には黒っぽい雲が広がっていた。何か面白いものが撮れないかといつものように空に向かってカメラを構える。すると次第に雲が切れ始め、やがて雲間から太陽の光が次々と差してきた。これはチャンスとばかりに息をのんでシャッターを切る。所謂「天使の階段」に遭遇して、一枚もうけたと思う。 雲間から光が差すこの気象現象は「薄明光線」という。一般的にはよく「天使の階段(Angel’s stairs, Angel’s stairway)」と言われる。また、別名で「ヤコブの梯子(Jacob’s Ladder)」「天使の梯子(Angel’s Ladder)」とも言われる。この名称は、旧約聖書創世記28章12節に由来している。 記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされている。これがキリスト教徒の間で知れ渡り、やがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。 また、この現象は「レンブラント光線」とも言われることがある。画家のレンブラントがこれを好んで描いたことに由来する。その結果、絵画表現上においては、コントラストが強くなり、光の当たる部分と闇の部分との対比が強調され、宗教的な神々しさを表現することに成功したと言われている。 この写真は、確かに偶然撮れた一枚ではあろうが、ただの偶然ではない。日頃から「雲があると何か面白いものが撮れる」と意識していること、そしてその雲に向かって何度も繰り返しレンズを向け続けていることでチャンスが与えられるのだ。これがプロ意識というものであろうか。ますます、野村成次というカメラマンに魅せられていく。 (野村成次写真展) ~つづく~ (八咫烏)

プロカメラマンの秘密を探る①~影

写真は光と陰の芸術である。レンズに光を取り込んだり逆に絞って光を遮ることで撮影対象の映像が千変万化する。光と影の取り込み加減で様々な表情を引き出すのだ。どんな写真にも光と影がつきまとうが、ここに影そのものにテーマを絞り込んだ作品がある。 日が照っていれば人影ができる。時間によって長くなったり短くなったりする。夏の夕方、学校帰りに友達と長くなった影を踏みあって遊んだのを思い出す。子供の頃から何度も見た光景だ。 この一枚の写真も長く伸びた人影を撮っている。影が見事に道と平行になっている。登戸辺りの陸橋の上から川沿いにある小道を見下ろして撮ったものだ。時間は9時半ころだという。この場所でこの時間でしか影は道と平行にはならない。もし影が斜めに曲がっていたとしたら、どこにでもあるごく普通の写真だ。 これは果たして偶然の産物であろうか。筆者はそうは思わない。この写真の撮影者はこの場所をよく知っていて、この瞬間を狙って撮ったものだと思う。季節と時間、太陽の位置などを細かく計算し尽くして得られた瞬間の一枚だ。この日、撮影者はじっと待っていて、影が平行になる数分の間に偶然二人のジョガーが現れたものだと思う。 いったい何日ここへ通ったのだろう。待っていてもその短い時間の間に丁度うまく人が通りかかるかはわからない。わざわざ頼んでいない限り最後の瞬間は「偶然」で神のみが知る一瞬なのだ。そしてその偶然は単なる偶然ではなく、予め周到に準備されて初めて得られた”偶然”なのである。 種を明かせばそれほど複雑な仕掛けなどなく単純で素人でも考えられることではある。しかし、そこに至るまでの過程は簡単ではない。影が道と平行になれば面白いなという発想がまずあって、更にそういう写真を撮るための綿密な計算と努力があるのだ。プロ・カメラマンの極意とはこのようなものなのか。カメラマン・野村成次のことをもっと知りたいと思う。 ~つづく~ (八咫烏)

講演会・編集後記~”用意周到な偶然”

6月10日、ハイム住民のお一人、カメラマンの野村成次さんを招いて講演会が開催されました。講演を快諾していただいた野村さんには改めてお礼を申し上げます。また、お昼前というお忙しい時に時間を割いて参加していただいたみなさん、ありがとうございました。楽しんでいただけましたでしょうか。 素晴らしい写真と軽妙なおしゃべりを堪能させていただきましたが、数々の写真はいずれも見慣れた風景でありながら自分の目で見るものとは違うものがそこにはありました。この「違うもの」とはいったい何なのだろうと少し考えてみました。その結果自分なりに一つの結論を見つけました。 野村さんは、いろいろな写真の一枚一枚について解説しているとき、「偶然」「たまたま」「ラッキー」「儲けもの」という言葉を何度も使われていました。確かに、結果的に満足のいくその一枚は「偶然」の産物かもしれません。しかし、私は、野村さんの言う「偶然」は決して単なる偶然ではなくご自身を謙遜された言葉だと思いました。まるで、神の力には誰も及ばないと言っているように。 その一枚の写真を撮るために取った行動や考えをお聞きすると、これは偶然なのではなく、”用意周到”に準備された時に起こった”偶然”であると思いました。つまり、最後の最後、シャッターを切る瞬間、そこにはやはり「偶然」があり、人間の力の及ばない世界があるのでしょう。そのことに気づいている野村さんだからこそ「偶然」と仰るのだと思います。 しかし、そこに至るまでの過程には実に周到な準備があります。季節を選び、時間を選び、方角を選んだ上で、空に、川に、雲に、鳥にレンズを向ける。更に光と影に、そして風にまで心を配る。奇跡の一枚を信じて何時間でも待ち続ける。一秒の何分の一の”瞬間”を撮るためにかなり前からカメラを構えてシャッターを切り続ける。一日に何百枚も時には1000枚も撮ることがあるといいます。まさに、”用意周到な偶然”を待っているのです。 写真をまったくやらない私にとって、今回の講演はある意味で衝撃でした。子供のころからデザイン的なものへの関心は人一倍あったように思いますが、絵画や映像に関する習い事は一切したことがなく全く知識がありません。そんな私でも、否、そんな私だからこそ野村さんの話に聞き入ってしまったのかもしれません。何か今後も後を引きそうな大変貴重な1時間でした。 ~野村成次さんの講演会に参加して~ (八咫烏)

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