漢字の感じ

高校生のころだったと思いますが、「世論」が「よろん」でも「せろん」でもいいことになりました。「せろん」は響きがなんとなく安っぽく感じられ、気づいてみれば今でも「よろん」と読んでいます。 その後、「独擅場」(どくせんじょう)を「どくだんじょう」と誤読して、「独壇場」と書く人が増えたので、認められるようになりました。今でも「独壇場」(どくだんじょう)を国語辞典で引くと、誤読だと書かれています。 働き始めた頃、「しんぼう」を「辛棒」と書いたら、大先輩に「辛抱」と直されました。「え」? 辞書を引いてみると、当時私が使っていたS社のには「辛棒・辛抱」の両方が載っています。有名なI社のには「辛抱」だけ。 やりとりを聞いていた別の先輩、「S社のは品がないからI社のを使いなさい。」 なるほど、辛さを抱えるから「辛抱」です。素直に仰せに従いました。 今では辞書はもちろん、パソコンの変換候補にも「辛棒」は出てきません。 割合最近の話ですが、「代替」(だいたい)を「だいがえ」と誤読する人が増えたので、ついに、「だいがえ」でも認められるようになりました。 「昂」・「嵩」・「讃」が常用漢字から外されたので、「激昂」は「激高」に、「嵩じる」は「高じる」、「讃美する」は「賛美する」。「稀」も同じで、「稀有」(けう)は「希有」に、「古稀」は「古希」に。 発音は同じでも、文字から受ける感じが全然違いますよね。 なでしこジャパンの澤穂希さん、なんで「ほまれ」と読めるんだろうと、かなりの間、謎でした。ある時、ふいに気が付きました。稀(まれ)が希になったからです。う~ん、なるほど。 人名はもともと、アルファベット以外、ひらがな、カタカナ、許容漢字の範囲内でどうつけてもいいことになっています。(初の例外が「悪魔」くん。裁判沙汰になりました。覚えておられますか?)しかも読み方は届けませんから、どんな文字をどう読ませてもよいわけです。 サザンの桑田佳祐さん、本来は「よしすけ」で、「けいすけ」とは読めません。けいすけと読ませるのなら「桂祐」か「圭祐」のはず。ですが、彼の影響絶大、佳をけいと読ませる人が急増して、今やパソコンで「けい・・」と打つと、変換候補に佳のつく人名をたくさん挙げてきます。 最近は、音読みと訓読みの一部ずつを組み合わせたりして、読みにくい名前が増えています。キラキラネームです。親がそれだけ思いを込めて命名するのでしょう。 ところが、実は今、戸籍の名前にふりがなを付けることが検討されているのだそうです。許容範囲をどうするかが大問題。 ひとつの案では、漢字から想像できるものはいいとかで、例えば「大空」をスカイ、「光宙」をピカチュウなら〇、「太郎」を じろう、「高」を ひくし は✕となるそうです。カタカナにするか、ひらがなにするかも案がまとまっていないようですが、スカイはともかく、ピカチュウは廃れるかもしれず、子どもが大きくなったら、読み方を変えたいと思わないでしょうか。戸籍訂正の手続きを取るのでしょうが、今なら簡単にミツヒロと読み替えられるのに、面倒ですよね。 文字は生き物。時代に連れ変化していくのが当たり前なのかもしれませんが、時々なんだか寂しいと思います。 と、こぼしたら「夏目漱石や芥川龍之介が文庫本になった自分の作品を読めば、もっとそう思うよ」と言われてしまいました。 ごもっとも。      

私のふるさと(?)~佐賀県佐賀市

ふだんは「福岡生まれの福岡育ち」を称している私ですが、実は幼いころ、父の転勤で隣県の佐賀に住んだことがあります。 『私のふるさと』という題で書こうとしたら、そのわずかな期間の佐賀での想い出が次々に浮かんでくるのです。生まれたのは福岡に違いなく、祖母に連れられて電停まで父を出迎えに行っていたそうですが、その記憶はありませんし。 福岡から佐賀への引っ越しは、鉄道でならまず南下して、鳥栖で西に向かうのですが、トラックだと県境の背振山地を越えていくのがずっと近道。 2歳を過ぎたばかりの私の最初の記憶は、このときの父と祖母と一緒の山越えです。母と生まれて間もない妹はもう一台のトラックに。 厳密に言うと、私の『原風景』は、ちょっと恥ずかしいのですが、遥かに青い山並みが見える山頂付近で「おしっこ」と言って父に抱かれてトラックを降り、木陰で用を足させてもらったことです。父は白地に藍色の模様の入った、今思えば、浴衣を仕立て直したようなシャツを着ていました。 ここを下ると、みつせ鶏の飼育で有名な三瀬村、あとはひたすら南を目指して、佐賀市の中心部に着きます。 その佐賀は、以前「はなわさん」がヒットさせた「佐賀県」の歌のとおり、印象の薄い、忘れられがちな県です。福岡の真西にあたる玄界灘に面する観光地・唐津、長崎との県境に位置する陶器で有名な伊万里・有田、ほかに最近発掘された吉野ケ里、点としては結構知られているのに、県全体はパッとしません。 幼いころはSLだったので、福岡の親戚を訪ねて泊まり、帰ってくると、体がいつまでも揺れていて寝付けなかったものですが、今は電車で40分、回数券を買うと片道千円あまり。ちょっと洒落たものを買うときには福岡に出かけてしまうので、街はさびれて行くばかりだそうです。 ところが、次の記憶は5歳くらいでしょうから、わずか3年分ほどの佐賀での思い出が、蓋の開いたおもちゃ箱から次々に飛び出してくるみたいに溢れ出てくるのです。 大人は自転車、子どもは歩くのが常でしたから、私の想い出もごく狭い範囲に限られています。住まいは佐賀駅から歩ける距離で、佐賀平野の真ん中、周囲には田圃がたくさんありました。(後で知ったことには、佐賀市の中心、佐賀城公園、お濠、県庁などはもう2筋くらい南でした。) まだ車もほとんど通らない時代、大通りからちょっと入ったら、そこはもう、子どもの遊び場。鬼ごっこ、陣取り、メンコ、道を占領して遊んでいました。 稲刈りの済んだ田圃、天日干し(はざかけと言うそうです)、稲子積み・・・今も光景が蘇ります。 畦道に咲いた蓮華や数珠の実を摘んで首飾りを作りました。 張り巡らされたクリークのそばに竹藪があり、季節になると無数の蛍が飛び交いました。 みずすましやメダカすくいも遊びと言えば遊び。捕まえては放しました。 一度大雨の時に川があふれて、家の前の路地に魚が泳いでいましたっけ。 夏には、川に泳ぎに行きました。と言っても、泳げない私は近くのお宅の庭を流れる小川で遊ばせてもらいました。 ドアを手でひねって開けると上段に氷が入っている冷蔵庫のある氷屋の友達、立派なお屋敷住まいの仲良しのところには、暇さえあれば出かけました。白馬童子の看板のかかった映画館の前、キクとイサムのポスター、あれこれ思い出します。 通学路に紡績工場があり、その排水溝に、杏仁豆腐そっくりの塊が無数に浮かんでいました。流れて行くのか、たびたび観察していたような気がします。(今思うと公害の一種?) 工場は立ち退いて、図書館などが建っています。 校庭に相撲の土俵ができたとき、校長先生が「赤土と言う、ここらでは手に入らない高い土を使って造った」と言いました。福岡に戻ったら、あたりはその赤土だらけ、なあんだと思ったものです。 その土俵の脇に、ヒガンバナが一斉に咲き、子ども心に気味が悪いと思いました。 おとなになって佐賀に行き、懐かしの場所を巡りました。道路にしろ、水遊びしたお宅の庭にしろ、狭くて小さくて驚きましたが、福岡の街に住んでいたらできなかった体験を重ねた懐かしい場所には違いありません。 福岡では短期間に2回転校して緊張、じきに思春期の入り口に差し掛かりました。伸び伸びと子ども時代を過ごした佐賀こそ、ふるさとなのかもしれません。    

異変(その2・運命なるもの)

院長は母と同じ年くらいの、がっしりした体格で頼もしい感じの人だった。母と私に、ゆっくりした口調でこう言った。 「カメラで言えばフィルムにあたる眼底の網膜が剥がれています。視力の回復は望めませんが、放っておくと眼球が小さくなって外見が悪くなります。女のお子さんですし、手術しましょう。」 入院したのは、普通の家の2階みたいなところだった。 西日が差す暑い部屋で、畳敷きにベッドが置いてあった。 翌日手術を受けたが、そのときのことは記憶からきれいに抜け落ちている。全身麻酔だったのだろうか。 両眼に包帯がきつく巻かれ、その晩はできるだけ姿勢を変えず、仰向けのまま寝るように言われた。 母は私が動いたら仰向けに直そうと、一睡もせずに見守ってくれたそうだ。私は天井を向いたまま、全く寝返りを打たなかったという。 翌日の回診のとき包帯が取られた。右目はもう、光を取り戻していた。「何か見えますか?」と聞かれて、「ぼんやりだけど、明るく見えます。」と答えた。院長の「え、見える?」と確認する声は大きく、ちょっと弾んでいるように聞こえた。 * それからの毎日は、ベッドに寝たきりで、診察の時を除けば包帯が解かれることはなかった。 そのうち、できあがった新しい病室に移ることになった。院長は私を負ぶって階段を下り、病室までの結構長い距離を運んでくれた。大きな病院の院長が人任せにせず、自分で負ぶってくれている。広い背中で揺られながら私は、温かいものを感じていた。 手術から2週間経ったころ、包帯は右眼だけになり、さらに1週間くらいでガーゼになった。横向きでいいとか、上半身を起こしていいとか、徐々に許可が出たが、都合3週間ベッドから下りられなかった。 ようやく歩いてトイレに行ってよいと許しがあったときには、足が萎えてひとりで歩くことができなかった。 それから20日くらい後だったろうか、退院前の検査を終えた院長は「手術はとてもうまくいきました。あなたもよく精進したし。」と言った。『精進』という古風な言い回しがなんだか面映ゆかった。 * あのころの入院には、家族が付き添うか、付添婦さんを雇うことになっていた。もう何年もM病院専属で付添婦をしているお喋りな小母さんや、同室の患者さんの話から、それまで聞いたこともない、いろんな眼の病気があることを知った。 私の病気、網膜剥離は、片方の眼が罹ると、もう片方にも起きる確率が高い。再発の危険性もある。時期を逃すと、あるいは手術がうまくいかないと、失明につながる。 16歳になったばかりの私は、以後ずっと、その不安に怯えることになった。 高校への通学途上でバスを乗り換えるとき、背広姿に白い杖の、ほっそりした若い男性をしばしば見かけた。私もそうなったらどうしようという不安に襲われた。 車のヘッドライトが虹の輪のように見え、私の斜め向かいのベッドに入院していた女性と同じ病気ではないかと、慌てて診察を受けに行ったこともある。 自覚症状が出る前に検査で発病がわかり入院、手術を受けたこと、ごく初期にレーザー治療で治ったこともある。 この病気を抱えたことは、その後の人生を選び取っていく上での、大きな鍵となった。 私の検査通院は今も続いている。 * ところで、それほど自分の病気に悩んでいたはずの私が、「視力の回復は望めません」という言葉をあたりまえに理解したのは何と、10年も経ってからのことだった。 当時見えなくなっていた右眼の視力の回復が望めないということは、つまりは失明するということである。 なのに私は、手術をしても強い近視が治らないという意味だと勝手に思い込んだ。 あのときの院長の言葉は今でも諳んじることができる。そう言われたときの診察室の様子や院長の声までも。 だからその思い込みは、無意識に自分を守るためのものだったという気がする。 でなければ、高校1年生から25歳までの、誰もが人生の岐路に何度も立たされる10年間を、しかも計3度の手術入院を繰り返しながら、うまく乗り切ることはできなかっただろう。 私は他の人によく「何の悩みもないみたい、元気一杯に見える。」と言われる。「そんなことないよ、たくさんあるよ。」と答えてはいるけれど、もしかしたら私は、生来の楽天家かもしれない。 優 海

異変(その1・白い巨塔)

それは、じき16歳の誕生日を迎える、高校1年生の6月のことだった。 浴室の戸を開けた私は、いきなり透明なドアにぶつかって押し戻されたような感じを受けて、その場に立ちすくんだ。反射的に左眼をつぶると、丸い天井灯が上弦の月のように欠けて見えた。胸の鼓動が高く、速く、聞こえるような気がした。 翌日、近所の眼科で診察を受けた。院長は首を傾げながら、九州では一番権威のある市内のQ大病院への紹介状を書いてくれた。 病院では、若い医師の予診のあとでベテラン医師が診てくれた。そして、「心配するような病気はありません。」と。 その「病気」とは、どうも、脳腫瘍らしかった。 しかし、何日経っても、私の右眼は普通に見えるようにはならなかった。夜、期末試験の勉強しているとき、ふと気づくと、教科書の読もうとしているまさにその行が、右眼では全然見えていないのだ。 泣きたい気持ちで「おかあさん、見えない。」と言いに行くと、父から「心配ないと言われただろう。きみがそんなことを言うとおかあさんが眠られなくなる。辛抱することを覚えなさい。」と叱られた。 父は戦前不治の病と言われた結核を、雪の降りしきる金沢で全部の窓を開け放しにして寝て治した「意志」の人である。こらえ性のない私が腹立たしかったのだ。 しかし、私の眼は治るどころか、夜になると暗闇に稲妻が走るようになった。黙っているのも口に出すのも両方怖くて、毎日高校に通うことで自分を支えていた。 夏休みの初日から体育の授業として始まるはずの水泳教室が、プールの水が汚れていて中止になった。ほんとうの夏休みが始まった。 ついに私は母に、右眼が見えないこと、夜に稲妻が走ることを打ち明けた。 驚いた母に連れられて、Q大病院を再受診した。 前回と同じふたりの医師が診てくれた。ほかに患者がいなくなるくらいまで時間をかけた診察の後、年長のT医師が「困ったな」と呟くのが聞こえた。そして「手術をしないといけないが、夏休みでベットが満杯になったばかり。2〜3週間かかるだろうが、空いたらすぐに連絡する。それまで家で静かに寝ておきなさい。」と言った。それでよいのかと念を押す母に「昔は寝て治した病気だから大丈夫だ。」とも。 帰り道、母は私を連れて、病院から1キロほど離れた伯母の家に向かった。 今思い返して不思議なのは「家で静かに寝ているように」と指示されたのに、母はなぜそんな寄り道をしたのだろう。 もしかしたら、まっすぐ帰宅して父の帰りを待つ時間が耐えられないと思ったのかもしれない。 ともかくも、そのことが、私の運命を大きく変えることになった。 * 話を聞いた伯母は、そこからまた500mほど先のH医師に診てもらえば、と勧めた。 もとQ大病院の偉い先生だった人で、とても上手だと評判だから、と。 市内の幹線道路に面した商店の2階にあるクリニックは、伯母の言葉通りの評判らしく、狭い廊下や待合室に患者が溢れていた。診察机のすぐ横にまで椅子が並べられていて、プライバシーもなにもありはしなかった。 普通の視力検査表は見えないので、検査技師が手に持った大きなC の字型の厚紙を動かして、どこが開いているかと聞いた。 右眼だけでは、10cmの距離まで近づけられても見えない。見えないが、人が大勢いるところでそう言うのは恥ずかしくて、でたらめを答えた。 H医師は、「すぐ手術しなければ。Q大病院では誰が診たか。」と聞いた。T先生、と答えたところ、一瞬黙りこんだ。「今手術しても治るかどうかわからないのに、2~3週間も待ったら、絶対に治らない。最初に誤診したから、今さらすぐに入院しろと言えないのだ。T先生は入退院の権限を持つ医局長だから、正面切って入院させてはもらえない。お父さんがNに勤めているのなら、コネで入院させてもらいなさい。」 それまで涙ひとつこぼさないでいた私の緊張の糸が、音を立てて切れた。人目もはばからず泣きじゃくった。父がコネを作るようなことを決してしない人間だということをよく知っていたから。 H医師はしばらく考えた後、「では、私の弟子の中で一番腕がいいのが開業しているから。」と言いながら電話をかけ、「いや、そんなことはいいよ」と頼んでくれた。 M病院は全面立て替え中で、1週間後の竣工まで待ってほしいというのに、即入院の了解を取り付けてくれたのだ。 母と私はその足でM病院に向かった。あたりはもう、薄暗くなっていたが、院長が診てくれ、翌日の入院が決まった。 Q大病院から入院指示の通知が来たのは、私が手術を受けて10日以上過ぎた頃だった。  (つづく) 優 海

続・とてもよくできた「詐欺メール」

長文にめげず、メールを読んでくださった方々、怪しいところにお気づきになりましたでしょうか? 「1」は本物っぽいですね。差出人のメールアドレスも、それらしい。 (本物は mail@qa.jxx.co.jpだそうですが、この方がむしろ怪しげ・・・) 「2」「3」は、言い回しが丁寧で、行き届いています。どこかのカード会社のものをコピペしたのかもしれません。 「4」になると、突然ボロが出ます。お客様が「あなた」になり、敬語を忘れてぞんざいな言い方に。肝心なところに2か所、脱落があります。 メールに張られたリンクは、一見それらしいですが、やたらに長く、『クリックして、ID/パスワードを再登録してください』なんて、もう、詐欺メール丸出しです。 「5」も、一部省略した「6」も行き届いていて、本物っぽい。Jxx Co.,Ltd. は本物と同じです。ただし、電話番号そのものは偽物でした。 こちらの電話番号を知られると面倒だし、かといって184を付けて非通知にすると相手が出ません。そこで、電話番号検索サイトでチェックしてみました。 フリーダイアルはJxxセキュリティーズという名前で登録されており、国際電話も可能という方は現在使われていないそうですが、どちらも頻繁に検索されていて、口コミ全部に、「詐欺メールに載っていた番号」と書いてありました。 Jxxのホームページには、昨年11月ころから、このような詐欺メールがいくつも発信されていると出ていました。(ここをクリックするとお読みになれます。) 11例挙げられていますが、問題のメールはパターン⑥にあたり、Jxxが不正使用を検知した場合の「真正メールの件名・本文に酷似」しているのだそうです。 お粗末な「4」だけ、犯人が作ったもので、残りはメールアドレス、電話番号を除いて、Jxxの本物をなぞったもの、完成度が高いのも当たり前、でした。 中には堂々と本物の電話番号を載せたものもありましたし、Jxxの本物と同じメールアドレスを取得する手段もあるそうです。それでは見分けられないのですね。 Jxxからのものに限らず、『文中のリンクにID/パスワードを書き込んでください』というメールが来たら、それは詐欺。 無視して削除。 一番安全で確実な対処法なのでしょうね。

とてもよくできた「詐欺メール」

ハイムにお住まいの方から、詐欺メールを受け取ったとのお知らせをいただきました。 IDやパスワードを盗み取ろうとするメールについては、これまで、『ひろば』でいくつかご紹介してきましたが、言葉遣いや内容から、すぐにそれとわかるものだったのに、今回のは、よく注意しないと引っかかりそうな、かなり完成度の高いものでした。たまたま受け取った方がITの専門家で、すぐにおかしいと気づかれたそうですが、さて、みなさんはどう思われるでしょう。長いですが全文掲載します。見破ってください。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ Subject:カードご利用内容の確認のお願い From:myjxx <postmaster@my.jxx.co.jp> To:xxxxxxxxxxxxxxx =================================== 本メールはJXXカードのご利用にあたっての、大切なご連絡事項です。 そのため、「JXXからのお知らせメール配信」を「希望しない」に設定しているお客様へもお送りしています。 =================================== いつもJXXカードをご利用いただきありがとうございます。 弊社では、お客様に安心してカードをご利用いただくことを目的に、第三者による不正使用を防止するモニタリングを行っています。 このたび、弊社の不正検知システムにおいて、現在、お客様がお持ちのJXXカードのご利用内容について、第三者による不正使用の可能性を検知しましたので、ご連絡を差しあげました。 ご不便とご心配をおかけしまして誠に申し訳ございませんが、何とぞご理解賜りたくお願い申しあげます。 =================================== 弊社におけるセキュリティー対策について あなたの口座が資金の安全のために凍結されたのですが、すぐにWEBサービスIDとパスワードを再登録して、制限を解除しなければなりません 変更をご WEBサービスよりお申込みください。 ■ 変更をご 方法 ▼MyJXXログインはこちら https://my-jXX.mzhrbs.work/isspc/member/user_manage/regist_id/userRegistIdInput.html =================================== 【お問い合わせ窓口】 株式会社JXXセキュリティーデスク 電話番号 : 0120-5○○-3○○(日本国内から 通話料無料) 04○-4〇-8〇○○(海外から コレクトコール可(※1)) ※1ご滞在国の国際電話のオペレーターを呼び出し、コレクトコールを依頼してください。 営業時間 : (平日)9:00AM~8:00PM(土・日・祝)9:00AM~6:00PM (いずれも年中無休) ※上の営業時間外でもお電話は24時間つながります。営業時間外は、JXXオーソリセンターにてご利用内容の確認をさせていただきます。 ※本メールに直接返信されましても対応できません。 ※お問い合わせは上の電話番号までご連絡をお願いいたします。 =================================== 本メールに掲載されているすべての記事、文章等の無断転載を禁止します。 著作権はすべて、株式会社ジェーxxに帰属します。 Copyright (C) JXX.Co.,Ltd. All rights reserved. JXX.Co.,Ltd.

あぁ、バレンタインデー

このところのバレンタインデー事情には疎いのですが、洋画を見ていると、その日は素敵なレストランに行って、男女を問わず豪華な贈り物をして、ときにプロポーズと、なかなか派手です。 日本のバレンタインデーの仕掛人がチョコレート屋さん(モロゾフ説と、メリー説があるようです)なのは有名ですし、最近すっかり定着した感のあるホワイトデーも、お菓子屋さんの陰謀(福岡は石村萬盛堂のマシュマロが最初)だそうです。 ホワイトデーのお返しは、バレンタインデーの二倍返し、三倍返しだとかで、職場では、チョコを上げると、男性陣がホワイトデーに気を遣うことになるので、自粛ムードでした。 ただ、休み明けだったりすると、手ぶらで出勤は寂しいので、テレビで見かけて以来、試行錯誤しながら作っていた簡単トリュフに挑戦です。 板チョコを削って湯煎にかけ、同量の生クリームと混ぜて冷蔵庫で1時間ほど寝かせ、転がして棒状にして切り分け、丸めます。 でもこのやり方、どうやってもタネはべとべと。棒状になんか、なりません。 仕方なく、ココアの粉の上にさじで落として、何とか形にします。 次の年はチョコレート2に対して、生クリームを1にしてみましたが、大差ありません。クックパッドを見ても、「絞り袋を使って」と書いてあります。テレビで肝心なコツを見落としたのかもしれません。 ココアをまぶしたのと、粉糖をかけたのと2色作ってみましたが、見栄えのせいか、白い粉糖が人気でした。味はココアの方がいいと思います。 ☆ ところでわが家の男性3人、義理チョコをもらってくる夫はまだしも、息子ふたりは手ぶらで帰ってきます。仕方なく、私がプレゼントしていました。 長男が6年生のときのことです。『学校でチョコを上げてはいけません』というお達しが出ました。 すると放課後、女の子がふたり、手作りらしいチョコを持ってきてくれました。息子は留守だったのですが、家に女の子がやってくるのも珍しく、喜んだのも束の間、「おばちゃん、〇〇くんの家、知りませんか?」 何のことはない、配って歩いていたのでした。 ホワイトデーがまた、情けない話です。せめて3人でひとつ、私にくれても良かろうに、それはナシ。それどころか、私がもらってきたクッキーを取り上げて食べてしまうのです・・・ そして、おとなになった息子たちが言うことに、「ほんとうは、バレンタインデーには結構、チョコをもらってたよ。だけど、お母さんには内緒にしてた。」 なんだそれは!! 優海

サンタさんってほんとにいるの?

子どもがいつまでサンタクロースの存在を信じているか、話題になることがあります。わが家の場合、はっきりじています。 実家では、小さいころからあっさり「サンタはいない」と教えられていました。 ご馳走を食べたりプレゼントをもらうのは誕生日、あいにく私も妹も夏生まれ。 クリスマスにはちょっとしたお菓子を買ってもらうくらいで、母の手作りおせちを待つのです。 だからなおさら、子どもの夢を壊したくないと、11月から1月まで、家族3人の誕生日とお正月に挟まれてはいるけれど、クリスマスも祝うことにしていました。 小学2年生くらいだったでしょうか、長男が「サンタさんってほんとにいるの?友だちは家の人がサンタのふりをしてプレゼントをくれるって言うよ。」と聞くようになりました。 「いるよ。」と答えてはみたものの、信じたかどうか。 4年生のとき、プレゼントに亀が欲しいと言い出しました。亀を飼うには、水槽と循環ポンプが必要です。家具の陰に隠しておきました。 イヴの夜も更けてくると、あたりはシーンとして、かすかにポンプの音が聞こえてきます。 長男が、「音がする。」と言いながら、家の中を探し始めました。半分困ったと思いながら「気のせいよ。もう寝なさい。」と止めるのですが、ますます必死の形相で探し回ります。 とうとう、音の出所を突き止め、途端にわぁわぁと大きな声で泣き出しました。目からは大粒の涙が。夢が壊れた瞬間だったのです。 おかしいやら、それまで信じていた長男がいじらしいやら・・・ 一部始終を見ていた1年生の二男は「サンタさんはいないよね?」 ケロッとしておしまいでした。 ⛄ 知人手作りのほわっとするクリスマスカードをここからどうぞ。 優海

福岡県の木

二十年以上前の話です。 私が川崎転勤の辞令をもらったその年は桜の開花が遅く、4月1日には当時の勤務先『久留米』で、満開の桜の下、お別れの写真を撮りました。 新任地は煙突の中だと覚悟していたのに、近代的なビルに囲まれ、中野島では再びの桜に続いて、一面白い梨の花が満開。予想はいい方に外れました。 そして5月。ハイムを彩る大輪のつつじに驚かされました。 この一文を書くために調べてみたら、『ツツジは交配・品種改良が進み、実に多くの種類があり、分類説明しても混乱するだけ』とありました。ざっと言うと、ヒラドツツジの一種なのでしょう。 川崎市の花がツツジで、当時、独立した地下街としては八重洲に次いで全国二位の川崎市地下街にアゼリアという名前が付けられていることも納得でした。 生まれも育ちも勤めもずっと福岡なのに、県の木を知らない私、調べてみたら、これがなんとツツジ。それもゆかりは、福岡での最後の勤務地『久留米』だったのです。 絣とゴムで栄え、ブリヂストン発祥の地なのですが、古くからツツジの栽培が盛んで、輸出もしていたのだそうです。 そういえば福岡ではあちこちの家の生け垣にツツジが植えてありました。それも、ヒラドツツジとは対照的な、花が小ぶりのクルメツヅジでした。 ※ ツツジも放っておくと2メートルにもなるそうですが、普通は刈り込んで形を整えますから、福岡県のように『木』に分類するよりも、川崎市の『花』の方がしっくりくるような気がします。 では、福岡県の『花』が何かと調べてみると『梅』です。 藤原氏の奸計で太宰府に流されるとき「東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」と詠んだ菅原道真を慕い、都から飛んできた飛梅の伝説に因んでいるのです。 菅原道真と言えば学問の神様、道真を祀った太宰府天満宮には、年間850万人以上が合格祈願で訪れるのだとか。 我が家の息子たちは幼い時から遠足などで何度行ったか分からないのに、福岡を離れたのが小中学生のときで、関東育ちのように、湯島天神こそ霊験あらたかと信じていたのです。面白いものです。