追憶のオランダ(6)クラーリンゲンのお化け屋敷

ロッテルダム市のほぼ中心のクラーリンゲンという地区に、今なお豊かな森の緑が残り満々と水をたたえたクラーリンゲンプラスという大きな池があります。その水は澄み切ってはいないが、かと言って混濁はしていない植物のタンニンが溶け出した茶色の水。そこは、休みの日などには多くの人が訪れる風光明媚なところで、みな思い思いのやり方でゆったりと過ごします。テニスコートやショートコースながらゴルフコースもあり、池の周りは乗馬コースもあり、水の上では夏場はボート・ヨットセーリング、冬は一面氷が張り詰めてしまうので広いスケートリンク。また、池の周り・森の中にはいくつものレストラン(以前にお話した「ミナンカバウ」というレストランもそのうちのひとつです)や、古い風車のあるカフェなどもあり、ちょっとした市民の憩いの場といったところです。 今からお話するクラーリンゲンの家というのは150年以上前に建てられた赤レンガ造りの地上3階・地下1階の立派な邸宅です(左の写真は、Google earthからの借用です)。これは私が勤めていた会社の公邸として利用され、3代目の住人として管理人も兼ねて私も住むことになりました。私はそれまで住んでいた郊外の5-6軒連なった棟割長屋の方が生活するのには合理的で私の性に合っていたのですが、そこへ引っ越すことをある知り合いの年配のオランダ人に話したところ、「あー、あのクラーリンゲンのお化け屋敷ね。(お気の毒に、というニュアンスで)」と言うではありませんか。「かなり古いから、建物のあちこちにガタが来てますからね。床も傾いて、ビール瓶が部屋の隅まで転がりますよ。」と、いかにもよくご存じのように話してくれました。その時はそれだけの話で終わったのですが、後で、お化け屋敷とはどういうことかな、何か曰くがあるのかとちょっと気にはなりましたが、要するに建物が古いということを強調したかっただけなんだろうな、と勝手に思っていました。 そこに引っ越して来たのは、3月初め、まだまだ寒い頃。引っ越し当日の夜、昼間の引っ越し作業でくたびれて2階の寝室でベッドに入りまさに眠りに落ちる直前です。どこからともなくコツコツと微かな音が聞こえてくるような気がしました。思わず眠気も吹っ飛び、よく耳をすましていると、確かにコツコツと音が聞こえるではありませんか。しかも、その音はどうも近づいてきているように思えたのです。すぐさま飛び起き、家中の電気を全部つけ、寝室のある2階の四つある部屋を一部屋ずつ戸締りを確認して回りましたが、皆きっちり中から締まっています。どこも開いた窓などありません。そこでその音のする方へそっと近づいてみました。どうも寝室のドアの外の廊下のあたりの感じがしたのですが、見ても何も異常がありません。さらに注意して聞くと、2階ではなく下からのようです。さては1階に何かいるのかと、今度は慌てて1階に駆け下り調べてみましたが何も見当たりません。一体どうなっているのか、と思いつつまた寝室に戻り再度ベッドの側でじっと耳をすましていると、今度はその音はなんと部屋の中まで入ってきているではありませんか。さすがに気味悪くなりましたが、その音は遠慮せずにどんどん近づいて来てとうとうベッドの足元近くまで来るではありませんか。 ここで、やっと重大なことに気づきました。 後で分かってみれば、笑い話以外の何物でもないのですが・・・。 実は、この家はセントラルヒーティングのパイプが地下のボイラー室から各部屋に配管されていて、2階は廊下側から寝室のドアのところを通り、部屋を斜めに横切りベッドの下を通り反対側の窓際のラジエーターのところまでつながっているのでした。部屋の温度は一年中約20度に設定されているので、それ以下になれば自動的にボイラーが稼働しだす。コツコツという音は夜になって部屋の気温が下がりボイラーが再び稼働しだして、パイプが蒸気でだんだん温まって膨張する時に出る音だった!ただそれだけのことでした。 オランダ人にお化け屋敷と言われたこともあり、余計な想像をめぐらしてしまったという笑い話でした。それでも、コツコツという音が部屋の外から、部屋の中まで入ってくるというのはさすがにいい気持ちはしませんでした。

追憶のオランダ(5)ロッテルダムマラソン

マラソンは今や世界中人気のある競技の一つで、いろいろな都市で大々的な国際マラソンが開催されるようになりました。そのなかでも毎年4月の週末にロンドン・ボストンと相前後して開催されるのがロッテルダムマラソンです。オランダは国中非常に起伏が少なく、そのためかいいタイムが出やすいという言わば高速コースとして有名です。過去に何度も世界最高の記録が出ています。 日本人選手はと言えば、過去に男女あわせて5人もの選手が優勝しています。 そのコースはロッテルダム市庁舎をスタート・ゴール地点とした市内をめぐる循環コースで、私が住んでいた所は、マラソンで最も面白いといわれるコースの35km地点を少し過ぎたあたりのすぐ近くで、毎年欠かさず沿道まで応援に駆けつけていました。私がいた期間には残念ながら日本人選手の優勝者は出ませんでしたが、懸命に応援をしたことを思い出します。 オランダの4月は、まだ肌寒い日が多く、沿道でじっと選手たちが走ってくるのを待っているのはかなり厳しいものがありました。風は冷たく、ジッとしていると足から冷えてくる。近隣に住む日本人も皆日の丸の小旗を手作りして、選手が通り過ぎると盛んにうち振ります。急に愛国心をくすぐられるようで、小さな子供たちも親と一緒に黄色い声を張り上げて応援する様子は見ているものにも非常に微笑ましいものです。そういう私も、滅多に出さない大声をはりあげていました。ロッテルダム日本人学校の生徒たちも教師たちと一緒に応援に来て盛んに応援していました。因みに、今年は先日7日に行われました。

追憶のオランダ(4)蕗を採る話

おかしなことに、ただ日本を離れていると思うだけで、どういう訳か日本ではあまり好んで食べなかったものでも無性に食べてみたくなることがあるものです。私にとっては、蕗(フキ)もその一つでした。子どもの頃から、蕗はあの独特の匂いが嫌で食べなかったものの一つでもありました。それが、オランダに住むようになって、なぜか食べたくなったのです。 ある時オランダ国内を車で走っていて、高速道路沿いに少し葉は大きいが立派な蕗らしいものがたくさん生えているのを見かけたのです。それ以前にも一度、八百屋で蕗によく似た、しかし茎が少し赤みを帯びたものがあったのでてっきり蕗の一種だと思って買ったことがありました。でも、それは似ても似つかぬ歯ごたえ、酸味のある味。後で調べると、それはルバーブというものでした。見事当てが外れてしまいました。ルバーブは例えばクタクタに煮たりしてジャムにしたり、それなりの食べ方はあるらしいのですが、こちらとしては蕗が目当てだったので、がっかり。ということで、それ以降は自分なりに探していて、ついに高速道路沿いに見つけたと思ったのです。 これはルバーブのように茎も赤くないので間違いないと思い、他人の目など気にせずおもむろに車を止め、ガードレールを乗り越え外側に出て、手ごろなのを10本ばかり切取り、そこではすぐ大きな葉だけ落とし車に戻り、意気揚々帰宅。まだ期待していました。家に帰りもう一度よく香りを確認しようとしたのですが、殆ど蕗のあの香りはなし。見た目にはルバーブよりははるかに蕗らしいのですが、少しだけ悪い予感がよぎります。ともかく、煮てみることに。しかし、やはりあの香りはせず、灰汁だけは蕗よりも強く、醤油を濃くして煮つけてみたものの結構硬く、お世辞でもうまいと言える代物ではありませんでした。これが二度目のがっかり。 三度目は、三度目の正直と言いますが、昔から住んでいる日本人から耳よりな話、蕗の種を日本から取り寄せ庭に植えていると。そんな人もいるんだ、それだ!訪ねて行ってみると、まさに蕗畑がありました。香りも正真正銘日本の蕗です。4年目にして、オランダで生の蕗が手に入り、食べることができました。その人も私と同じような経験をしながらやはり最後には日本から種を取り寄せ、自分で育てることになったようなのです。蕗は、日本原産の植物なのです。でも、悲しいかな、その人も今はもうこの世にはおられません。蕗はちょうど今頃が旬ですが、蕗を食べるたびに思い出します。4月12日が、その人の祥月命日です。合掌。

追憶のオランダ(3)腐った牛乳

オランダで生活を始めた当初、牛乳でちょっと困ったことがありました。近所のスーパーで他の食料品と一緒にパック入りの牛乳を2銘柄、初めて買った時のことです。 牛乳は0.5リットルとか1リットルの紙パックで売られていて、日本とほぼ同じです。家に帰ってその一つを開けると、たった今買ったばかりなのにどうも酸っぱい味がするのです。腐っているんじゃないか?と思い、そこでもう一つの銘柄のものを開けたら、これは日本のものと変わらずに飲める。ということで、その時は店に文句も言わず、それ以降は後で開けた銘柄を選んで買うことにしました。 しばらくして分かったことですが、実際、それは牛乳が腐っていたからでも銘柄の違いからでもなく、牛乳の種類そのものが違っていたからなのでした。また、牛乳は単身生活の時はそれほどたくさん飲むわけでもありませんので、1リットルパックを買ったら、少しずつ飲み、残りは2-3日くらいは冷蔵庫に入れたままになります。ある時、冷蔵庫に入れておいた残りの牛乳を飲もうとすると、何と豆腐状態に固まってしまっているのです。あー、ほんとに腐らせてしまった・・・。これを2-3回やってから、先輩たちに聞くと、オランダは何種類かの組成の異なる牛乳があることを教えられました。一番最初に酸っぱい、腐っているのではと思ったのはKarne melk(写真:赤いパック)といってバターを取った後の発酵している飲み物。なるほど、よく見るとそういう表示になっています。別に腐っているわけではなく、そういう飲み物なんだと、遅ればせながら納得。日本の牛乳と同じだと思っていたものでも簡単に豆腐状に固まってしまうのは、日本のように高温殺菌していないから。どちらかというと牛乳が生きている証拠、したがって足も速いということがだいぶん経ってから分かったのです。つまり、日本の牛乳は長期保存ができるがオランダの牛乳はそれには向いていないということです。さらにそのなかでも、全脂肪の牛乳(Volle melk)と脂肪分を半分に抑えた健康志向のもの(Half volle melk)との2種類があるのです(写真:青いパック)。毎日飲む牛乳でも国が違うとなかなか種類の違いなどもあって、分かりにくいものです。    

追憶のオランダ (2)中華料理?それともインドネシア料理?

中華料理だけは世界の果てに行っても食べられる。もちろんオランダでも中華料理は食べられます。しかし、中華料理といってもちょっと違うのです。もちろん、本格的な中華料理のレストランもあるにはありますが、オランダでは大体「インドシネース料理」というのが一般的な中華料理なのです。それは、純粋の中華料理というものではなく、インドネシア風にアレンジされた「インドネシア風中華料理」で、さらにオランダ人の口に合うようにもう一度アレンジされているものなのです。日本人の感覚からすれば、香辛料の使い方などから見て、中華料理というよりもインドネシア料理そのものだよと言いたくなります。実際、ナシゴレンとかバミゴレン、さらにサテ等々、まさにインドネシア料理そのものです。 それもそのはず、オランダは400年近くもインドネシアを植民地にしていたこともあり、料理にしても結構馴染み深いものになってしまっています。例えて見れば、イギリスのインドカレーみたいなものです。今や、すっかり旧宗主国の料理として定着しています。 ロッテルダムの中心に近いところにクラーリンゲン・プラス(Kralingen Plas)という大きな池(泥炭を掘り出した後の窪地に水がたまった池)がありますが、その傍らに屋根の端が細く空に反り返って突き出したインドネシア風の建物があり、ここは正真正銘のインドネシアレストランです。そこの主人は国籍までは分かりませんが本当のインドネシアのミナンカバウ族の血が流れている人なのかもしれません。レストランの名前が「ミナンカバウ」なのです。 残念ながら、20年くらい前、風格のあった建物は火事ですっかり焼け落ち、後に新しいものが再建されたと聞きますが、まだ行ったことはありません。この写真は新しい建物です。

追憶のオランダ (1)実質本位の国

皆さん、再びオランダの話題で恐縮です。 私がオランダ勤務を終えて帰国したのは1998年ですから、もう20年以上昔のことになります。オランダという国は非常に保守的な面もあると同時に、結構大胆に新しいものにチャレンジする精神も持ち合わせており、しばらく見ぬ間に街そのものの姿やそれを支えるシステムやインフラなどが様変わりしていることがあります。おそらく、私など今オランダに行くと、もう浦島太郎状態かもしれません。「10年ひと昔」と言いますから、ふた昔前の昔話になるかもしれませんが、しばらくお付き合いください。   1.実質本位の国 オランダの特徴を一言で言えば・・・。 私なら「実質本位の国」と言います。大多数の国では今や非合法になってしまったこと(昔はどこの国も合法だったこと)が、いまだに合法のままで通っていることもいろいろあるし、また反対に昔はどこの国も非合法だったことをいち早く合法化していることもあります。ということで、一見、融通無碍、平たく言えば「何でもありの国」のように見えなくもありません。まず一番に思い浮かぶのは、ドラッグ・公娼制度。さらに早々と同性婚・安楽死などが合法化されているのはオランダならでは、ということになるでしょう。 これらは、どれをとっても賛否両論のある非常に難しい問題でもあり、単純にああだこうだと決めつけられない問題でもあると思います。その意味でオランダ人の考え方が実質本位であり、しかも非常に柔軟(見方によっては柔軟過ぎるとも言える)であることの証拠でもあります。一体なぜオランダは他の国々から非難を浴びながらもそれらを変えようとしないのか。それには彼らに一理も二理もありそうです。その点は、観念的、情緒的な考えに基づいて議論し合っても、お互いなかなか理解し合えないかもしれませんが。 この実質本位というのは、オランダ人の衣食住の普段の日常生活にもよく表れています。 「衣」は、まず、あまり飾りません。一般に地味ですが、意外に色使いなど原色を結構多用することが多く、どちらかと言えば奇抜な感じさえします。でも、衣服は、基本的に暑さ寒さを調節するものという点に徹していて、実質本位と言えるでしょう。 「食」も、然り。とりたてて美食を追及するとういうことは少ないように思います。一日のうちの食事でも暖かいものを食べるのは夕食だけ。年中同じものを食べても特に不平はない様子。日本人のように、今日は和食、明日は中華だ、それともイタリアンだというように外国風の料理を食べたがることもあまりないようです。これも、食は体を維持するに必要なものを食べればよいという、これまた実質本位。 「住」は、持ち家だろうが借家であろうが、自分たちが快適に住むためには、自分流に好き勝手に手を加え整えるのが一般的。床・壁・家具、さらには電気・水回り等、まさにDIYの見本のような生活。やはり、これも実質本位。 生活態度については、個人でそれぞれの考えはあるでしょうが、仮に何かちょっとした問題が発生しても、それが決定的・致命的な事でさえなければ、それこそ実質本位に処理してしまいます。ある意味、なし崩しで適当に処理してしまうことも案外多いのです。意地悪く見れば、誰も実質被害がないなら、そんなことなどいい加減に片付けてしまう。結構、雑な感じもしないではないですが、形式張らずに融通がきくところがあり、私個人としてはこのオランダ人の生き方、案外気に入っていました。

オランダ点描(25)水との戦い + 最後のご挨拶

オランダは国土の4分の1が海面下。そのオランダの中で最も低い地点は私が今住んでいるロッテルダム市にあり、海抜マイナス6.7m。私の家からそれほど遠くではありません。私の家も自慢じゃないですが、マイナス6m程度だと思います。海面下だからといって別にジメジメしているとかは一切ありません。ロッテルダムの町そのものがライン川の下流にあたるマース川が北海に注ぎ込むその河口近くのデルタに出来た町で、他の場所よりも低いところなのです。昔から常に風車で溜まる水をくみ上げて排水しなければなりません。今では排水の主力は電気によるものですが、もしもこの排水作業を怠ればあっという間に国土が水没しかねません。オランダの4分の1がそんな状態なのです。日本では下水処理の代金は水道代とセットで払っていますが、ここでは特に低い地域の人々は自分で風車を回したり水を汲みだしたりしませんが下水処理とは別に「排水作業のための税金」を払っています。しかも、「深さ」によって若干の差が付けられています。 オランダで作られた地図を見ると分かるのですが、あちこちに池か湖かのような青く塗られた箇所があちこちにあります。そして、湖にはオランダ語で「・・・Meer」とあります。もう一つ「・・・Plas」とあるのは昔泥炭を掘った後に水がたまった水溜まり・池なのです。地図で見る限りかなり広いものでも、池の中に細い堤のようなものが微妙に残っているものがありますが、これは昔その場所で泥炭を掘り運び出した時に使った運搬路なのです。その低湿地から泥炭を掘り出し燃料にする一方、低湿地から排水して徐々に牧草地や農地に変え、さらには「・・・ポルダー」という名で呼ばれる干拓地に新しい街を作っていったのです。排水のため一定区域を直線状に排水路を残しながら干拓していった結果、面白い形の土地ができあがります。また、第2次世界大戦後オランダも食料不足で、新しい農地が必要ということで干拓がどんどん進められた時期がありました。 国土が低いことで、大変な災害が起こることもあります。昔、お話で「手で堤防の穴を塞ぎ決壊を防いだ男の子」の話を覚えています。土手からちょろちょろ水が漏れているのに気付いた男の子は、勇敢にも自分の手でその水漏れを防ぎ、村を守った!と。その話はどうも脚色されたもののようですが、オランダ人はやはり水と戦い続けてきたことだけは確かです。 2年ほど前、春先にスイス・南ドイツで季節外れの大雨が降り、雨と融けた雪のためライン川が氾濫し、ケルンやデユツセルドルフのアルトシュタットが水浸しになったことがありますが、その時は洪水の水は川下へと押し寄せては来たのですが、一部オランダの中部あたりでハイウェイが何キロにもわたって水浸しにはなりましたが、河口に近いロッテルダムはむしろ水の被害はゼロでした。川下の方が危なそうに思いましたが、河口付近は水の流れが何本にも枝分かれして水を分散させ水位を下げていたのです。ほんとうに河口地域が恐ろしいのは、高潮で河口から大量の海水が逆流する時です。1950年代、大変な高潮で被害が発生し、それを契機に河口付近の川にはたくさんの大きな水門を作り海からの逆流をコントロールするシステムが作られており、そのおかげでこの30-40年は高潮による被害からは解放されています。   ご愛読いただいた皆様へ: 今回の「水との戦い」で私の「オランダ点描」はひとまず終了となりました。 拙い話に最後までお付き合い頂き有難うございました。 少しだけ注書きは付けましたが、文章の書かれた90年代当時の話となっておりますので、最近オランダに行かれた方はこれを読まれて、「何だか話が違うよ」と思われるところもあったかもしれません。 オランダは、昔からの古い伝統を頑固に守るところもある反面、結構新し物好きで、街などもどんどん新しく変化します。また、国民性として突飛な発想をする非常におもしろい面も持ち合わせています。その意味で、融通無碍、なんでもあり、なのです。それに加えて、関西風の「イチビリ」精神もあり、外国人としてですが、我々家族はオランダ人相手に約6年のあいだ楽しく生活することができました。 今後は、「点描」で書けなかったことなどを20年以上前の古い記憶をたどりながら、「追憶のオランダ」と題して思いつくままに投稿させて頂く予定です。その時までしばしお別れです。 Tot ziens. Dag! 宮川直遠

追憶のオランダ(86)幻のゴリラ

これは1995年当時の話で、まだ少し生々し過ぎて書くのを少し憚られ、「オランダ点描」には書けなかった話です。2018年の今、時効でもないですがやっと今ならよかろうと思い、当時を思い出して書くことにしたものです。 1995年東京恩賜上野動物園(以下上野動物園)で故増井光子さんが園長をなさっていた頃、ゴリラの飼育も可能な新しい設備を用意してどこかからゴリラの家族を譲ってくれる先を探しておられたようでした。オランダの東部アペルドーンという町にある猿園「アーペンフル」がその情報を聞きつけ、私の勤めている会社に上野動物園への仲介を打診してきました。というのは、その猿園の園長の兄弟がたまたま私の会社で勤務していたことがきっかけだったのです。 アーペンフルはいろいろな種類の猿を広い敷地内で長年飼育して、それまでにもリクレーションで子供を連れて遊びに行ったこともありました。ゴリラについては既に2組の家族を飼育しており、そのうちの1家族(確か7-8頭だった)を上野動物園に譲渡することには前向きであり、我々も本社経由上野動物園と連絡を取り、また輸送に関する問題点などを詳細に詰める作業に掛かりました。 問題は、5月でもあり東京都の予算が既になく、急遽臨時の予算を組んでもらう必要がありましたが、当時の知事は青島さん、何とか博を間際で取りやめにした実績を持つ方だったので、この臨時予算も承認されるかどうか非常に不安がありました。しかし、非公式な話では感度は悪くなさそうとのことで、皆の期待が膨らんでいました。 当時ゴリラ飼育を担当されることになっていた方にも輸送時の対応・受け入れ態勢のこととか随分ご尽力いただきました(この方は後に多摩動物園長として転出されました)。そして、すべて本決まりになるかならぬかの寸前でした。急に思わぬところから横槍が入り、突然アーペンフルから正式にこの交渉の打ち切りを通告してきたのです。 ゴリラとか絶滅危惧種の動植物については、いろいろ国際的な条約等もあり厳しい制約を受けることは知っていましたが、このゴリラたちは人工飼育による動物でもあり、動物園同士その点についてはいかようにも調整できるものと我々は素人であるがゆえに安易に考えて心配はしておりませんでした。 その時知ったのですが、ゴリラについてはドイツ西部のある町にある協会の会長が最後になって「日本に譲渡することは認めない。」との最終決定を下したというのです。しかも理由は最後まで明らかにされませんでした。我々としては口惜しさに、何が背景にあるのかいろいろ考えてみましたが分からず、理由なき反対、日本はこの会長の覚えが愛でたくなかった、としか受け取れませんでした。 その騒動の後、私は一時帰国し大変申し訳ない結果に終わったこと上野動物園には深くお詫び申し上げました。さらに、数か月後漏れ聞くところでは、ヨーロッパ内の国になら譲渡は問題ないとかで、真偽の程は定かではありませんがその候補としてとしてフランス・スペインの動物園の名前が上がっていたようです。 日本では、ゴリラの飼育は難しいというのか?と思わずこの会長に聞きたくなりました。しかし、同時に協会の考え、会長の個性までしっかり掴めていなかったことが、結局はこちらの敗因だったと反省しきりでした。 宮川直遠