追憶のオランダ(16)ロッテフィルの想い出

私はもともとクラシック音楽にはあまり興味がなく、したがって持っているレコード・CD類もほとんどがフォークかロック、またはカントリーが殆ど。もちろん、有名なクラシックの曲のいくつかは教養程度には知ってはいますが、それ以上に広がりはありませんでした。 しかし、あるきっかけで当時のロッテルダム・フィルハーモニー(以下ロッテフィル)のメンバーである二人の方と知り合いになりました。一人はコントラバス奏者、もう一人はバイオリン奏者です。お二人とも親切に、素人が分かりそうな曲目が演奏される時には声をかけて頂けるようになりました。しかも、ロッテフィルのメンバーは皆それぞれ一般よりも格安の特別のチケットを持っておられ、それを分けて頂いていました。ヨーロッパで初めてコンサートに行くとなると、服装を正してというのが一般的だと思って、それも面倒だなと尻込みしていたのですが、「いや、普段着で気楽にどうぞ。」と。もちろん、キチンと正装しておられる方もたくさんいましたが、かたやジーンズにジャンパー・T-シャツという人もたくさんいて、これなら肩が凝らなくていいと、声がかかるたびに出かけたものでした。まさに、俄クラシックファンになりました。 重たく感じられる曲や、愉快な曲など実に様々、誰の作曲かとか曲名が何かなど全く気にせず覚えもせず、その時の全体の雰囲気を楽しみました。ロッテフィルの根拠地はロッテルダム・セントラムにある de Doelen(最近の写真:wikipediaより)というホールで、アムステルダムのコンセルトヘボウに次ぐ立派な近代的なコンサートホールです。 当時は指揮者についても全く知識がなく聞いていましたが、カーリーヘアの英国人サイモン・ラトル、昔の俳優藤岡重慶に似たグルジア人のゲルゲーエフ。この二人はよく見たせいで名前と顔は覚えていました。日本に帰ってからやはりあの時は売り出し中の有望な指揮者だったんだと改めて思いました。 私にクラシックの楽しみ方を教えて下さったお二人の奏者ですが、お二人とも私の帰国を前後して不幸にも病でお亡くなりになりました。もうそれから20年近く経ってしまいました。心からご冥福をお祈りします。

追憶のオランダ(15)アントン・ピーク

皆さん、アントン・ピーク(Anton Pieck)という人を御存知でしょうか?オランダの画家で、本の挿絵などもたくさん描いたグラフィックアーティストでもあります。おとぎ話に出てくるような独特の画風をもった人です。 私が彼の絵と出合ったのはもう30年以上も前のこと、出張でオランダを訪ねた時、小さなデコパージュというかシャドウボックスに目が留まったのが最初でした。小さな女の子がピアノに向かっている後姿です(写真左)。非常に優しい線でメルヘンチックに描かれています。私は誰がその作品を作ったのか知りたくて、店の人に「誰の作品ですか?」と尋ねたら、「アントン・ピークよ。」という答え。もちろん聞いたことのない名前でした。また、シャドウボックスというものにも知識がなく、その時はそれで分かったつもりでいたのです。アントン・ピークという人がこのシャドウボックスの製作者なのかと。 オランダ滞在中、オランダ語の本は殆ど読めないのに本屋にだけはよく通っていました。観光ガイドの本、写真集、歴史物でも写真や図解の多いものは少しくらい言葉が分からなくても非常に参考になります。そんな時、見たことのあるタッチの絵が表紙になっている立派な装丁の本を見つけました(写真右)。パラパラとページをめくると、何とあのピアノを弾く女の子の絵があるのです。 描いた人の名前を見ると、Anton Pieck。そうか、この人が描いた絵だったんだ。それであの時、店の人はアントン・ピークと答えたのだということが何年も後にやっとわかったのです。彼の絵は、100年くらい前の昔のオランダの風俗画として描かれているのが多く、どれもメルヘンチックで、何とはなしに郷愁をそそられる感じです。シャドウボックス作品を作る人は、このアントン・ピークの絵に魅せられて彼の原画をもとに独自に立体的に組み立てるわけですが、中にはそれを商売にしている人もいるようです。店で初めて出会ったものも、おそらくそんな作品の一つだったのかもしれません。じつは、その時、娘への土産に買って帰り、今も我家の壁に掛けられています。ということは、この作品は、2度オランダと日本の間を行き来しているのです。 オランダ・アムステルダムの少し北にHattemという小さい町があります。そこにはアントン・ピークの名前の付いた美術館があり、彼の原画などをたくさん収蔵しています。ある時その情報を聞き、是非とも見たいと女房ともども車を飛ばしたこともありました。女房もいつのころからか、友人と一緒にシャドウボックスを始め、やはりアントン・ピークの作品をたくさん作っています。ある意味では、アントン・ピークと言えばシャドウボックス、シャドウボックスと言えばアントン・ピークという感じになっていました。今でも、季節ごとに壁に作品をかけ替えますが、いろいろある中で12月のシント・ニコラス祭のものと、街角の駄菓子屋の前で子供たちが見入っている絵が何とも言えず微笑ましく、気に入っています。

追憶のオランダ(14)日本食に飢える

海外旅行・出張の時などはそんなに感じたことはないが、海外赴任で5年6年となるとやはり日本食は恋しくなるものだ。特に本格的な日本食は。 自分自身が経験したことだが、日本から海外出張した時、その地で勤務している同僚や取引先の日本人駐在員は日本からの出張者が来ると、決まったように「日本食はどうですか?」と勧めてくれる。親切でもあろうが、実際のところは彼ら自身が久しぶりの日本食(大体において、日本食、しかもチャンとした日本食レストランは高い。)を食べたがっているのがよく分かる。それで、こちらも敢えてこの地の料理を食べたいと意地悪(?)も言えず、「それじゃ、そうしようか。」となる。こちらとしては、つい昨日まで日本食とは言わず日本で当たり前に食事してきているので、本当のところはその地の何か旨いものでも食べてみたいと心の底では思っているのだが。 それが、今度は立場が替わり自分自身が海外駐在員となってみると、半年もすると確かに本当の日本食が恋しくなってくる。不思議なものだ。家で普段食べるのはもちろん日本食が多いが、食材には制約があり、日本にいた時と全く同じというわけにはいかない。でも、女房殿の努力で大体満足できるものが食べられている。海外で、本格的な日本料理を出す店は、それほど多くはない。どの都市でも、最近は日本食ブームにあやかって、ちょっと日本で下働きをしたくらいの日本人ではない料理人が怪しげな日本料理店をやっている。メニューから始まり料理自体も怪しげである。日本人としては、日本食を宣伝してくれるなら、もっとちゃんとしたものを出せと言いたい。腹立たしくもある。まず、店の雰囲気からして日本とは思えないところが多い。当然、出される料理も、現地流にアレンジされているならまだ許せるが、どこの料理か分からないようなものも結構ある。ヨーロッパなら、ロンドン・パリあたりには高級な日本料理店もあろうが(高級が必ずしも本格的とはかぎらない)、オランダはその数が少ない。個人の感想としては、別に宣伝をするわけではないがアムステルダムのホテルオークラの「山里」が一番いい。ということで、月に一度は車を飛ばして、家族で「山里」まで出かけたものだ。ロッテルダムでは、ちゃんとしたところは「弁慶」一軒のみ。この店は昔、ロッテルダム勤務の日本人のために、本当の日本料理を食べてもらおうと男気を出した店主が日本から移住し、店員も日本でスカウトして連れてきて始めた店で、料理の味付けから、店員の作法まで実によく仕込まれている。私は、事務所とこの店が目と鼻の先だったので、家族が来るまでの約半年は、毎日昼・夜と入り浸っていた。また、慣れない新米駐在員の心得ておくべきこの土地のことなどをいろいろ親切に教わりもした。店主をはじめその店の人たちには随分助けられた、大いに感謝している。もちろん家族が来てからも、家族サービスで結構な頻度で食事に行った。ほかの日本食レストランらしきところには一切浮気していない。私の場合、日本からの客、オランダ人の客問わずに必ずお連れしたのはこの「弁慶」だけだった。 余談だが、この「弁慶」の店主の御曹司の名前が慶(けい)ちゃんという。彼は、オランダ育ちだからオランダ語はペラペラ。その彼が自己紹介をする時、Ik ben Kei.と言う。オランダ語で、私はケイです、と言っているだけなのだが、慶ちゃんは、きっちり親父の店の名前を宣伝をしていたのだ。店のことを知っている人は、それを聞いて笑いが止まらなかった、息子にいい名前をつけたなあって。

追憶のオランダ(13)オランダ暮らしの便利帳

確かこんな名前だった。「オランダ暮らしの便利帳」、この小冊子には随分助けられた人は多いだろう。小冊子というには立派過ぎる非常によくできたガイドブックなのだ。特に、慣れない土地で生活を始める人のためにきめ細かく作られている。私たち家族もこの恩恵を受けた。たしか、在蘭日本商工会議所が作成したものと記憶している。手作り感のある、しかし、生活に密着した生きた情報が満載の本である。 外国人として、まず最初に何をすればいいのか。外国人登録の仕方、車がないと身動きが取れないので、運転免許の切り替えはどうするのか、家はどうやって見つけて借りるのか、そのあとガス・水道・電気は・・・。買い物は、食料品から日常使う道具類、どこにどんな店がるのか、日常使うものをオランダ語ではどう表現するのか・・・等々。日常生活を初めて、何か困った時には、まずこの本を見れば対処法がどこかに書いてある、なるほど便利帳である。 私ども家族は、前任者が置いて行ってくれたものを使っていた。かなり使い込んだ感じのものだったが、非常に役に立った。後で新版なるものを見たら、装丁もよくなり、内容もずっと充実していて驚いた。ちゃんと定期的に新しい情報を補って新版を発行しているとはさすがだと思った。 今、あれから20年以上たって思い出そうとしたが、当時何に困っていたかすぐには思いだせない。すべてに戸惑っていた感じもあったし、しばらくは周りの日本人たちのやることを真似していたような気もする。自然と行動半径が伸びていき、生活にもぎこちなさがなくなってきたように思う。女房などは、「私たち、所詮外国人だもの、オランダ人から見ると随分変な事してるわよ。」と、神経質なくせに至って呑気なものである。家族は私より半年遅れて来たから、住む場所の確保、壁紙・カーペット・家具類・電気製品・その他必要な日用品等すぐに生活ができるために必要なものの調達までの私がやったすべての手続き、その苦労は一切知らず、まことに結構な御身分である。 家具選びからして大変。女房が気に入るか要らぬかまで一応考えて注文した。また注文はしても、配達が日本のように時間の指定など出来ないため、その配達日には会社を休み、何時に来るか分からない荷物を一日中待っていなければならない。そんなことを何度もやった。なんと効率の悪いことと思ったが、それが当たり前の土地である以上、そうするよりほかに道はなかった。ある意味では、宅配一つをとっても、日本のサービスは過剰すぎるくらい親切だったことを痛感させられた。

追憶のオランダ(12)市庁舎はなぜ無傷で残った

第二次世界大戦が勃発して、オランダは真っ先に大打撃を受けた。1940年5月14日のドイツ軍による大空襲でロッテルダムは壊滅的な被害を受けた。ロッテルダム港はその当時から貿易の中心であったことから、戦略的に一番に狙われたらしい。空襲後の写真を見ると、ポツンポツンといくつかの建物は残っているが、その中で目に付くのが市庁舎、セントローレンス教会、それとマース川に近い通称ヴィットハウスなど(冒頭の写真は戦後すぐの1946年に撮影されたもの)。 ドイツ軍が破壊し忘れたからか? そのようには思えない、明らか何らかの意図をもって残された。それは、すべて破壊しつくすとどこがどこだか分からなくなる。さらなる展開のために目印(ランドマーク)として市庁舎は残された感じもする。 その市庁舎は目抜き通りであるコールシンゲル通りに面し、私の勤めていた会社の事務所から目と鼻の先のところにある。着任当時はしばらく家がなく、これまた市庁舎のすぐ近くにホテル住まいをしていたが、ロッテルダムのサッカーチーム、フェイエノールドがリーグ優勝か何かをしたらしく(当時はよく知らなかった)、昼間から街中がドンチャン騒ぎ。選手たちが市庁舎のバルコニーに勢揃いして集まった群衆に手を振り、群衆もまた旗を振り、町中が祝賀ムード一色だった。当然、殆どの人たちが酒を飲んでいる。私も、雰囲気を味わおうと、ビールを片手に2-30分歩いてみた。 でも、夕方から徐々に雰囲気が変わり始め、昼間は集まった観衆も警備にあたる警官も非常に和気あいあいだったものが、夜には一転大乱闘に突入。怒鳴り散らす、物は投げる。ビールなどの缶や瓶も投げるし、石を投げたいのだと思うが、石は道路には転がっていないので、舗装のレンガを剥がし、砕いて投げる。店のウィンドーを軒並み割る、それはひどいことになっていた。しばらくホテルの窓から見ていたが、初めての光景に唖然としたものである。深夜遅くまで、パトカーのサイレンと、空にはヘリコプターが何機も飛び回りと、騒乱状態が続いていた。うるさくてなかなか寝付けない。昼間のあの和やかさは何だったんだよ、お互い優勝を喜んでいたのではないか? 翌朝、早く起きて散歩して昨夜の後をみてまわったが、事務所が入っている建物の1階の店は、略奪こそなかったものの、ショーウィンドウの大きなガラスは何枚かを残しほとんどが割られ、ひびが入っていた。それと、裏通りには膨大な量のごみ、それと無数の小便のあと、むかつく匂い。私自身、その後フーリガンという言葉を知ったが、それに似た連中がオランダにもいたことがわかった。 でも、市庁舎だけはなぜか無傷だった。フーリガンたちもさすがに遠慮したのか?ドイツ軍でも手をつけなかったくらいだから。

追憶のオランダ(11)ホワイトアスパラガス

今から30年近くも前の話になりますが、何度目かにオランダに出張で行った時のことです。時期は5月末頃。午前中に訪問先での仕事を終えて帰ろうとしたら、先方の人から昼食に誘われ、とあるレストランへ。そこで食べたのが初めてのホワイトアスパラガス料理でした。それまで、日本で瓶詰になった細いフニャフニャしたアスパラガスしか食べたことがありませんでしたし、それは何かの付け合わせといった感じのものでした。しかし、レストランで出されたものは形こそ瓶詰のものとよく似てはいますが、存在感が全く違い、太く立派なものが大皿に確か4-5本、その上にゆで卵を微塵に刻んで何かマヨネーズ風のソースがかかっているものでした。立派なメイン料理と言えるものでした。 聞くと、ホワイトアスパラガスはこのあたりでは5-6月頃に旬を迎える食べ物(野菜)で、その時期に味わうのが一番という、いわば日本の筍のような感じです。 その時期になると、街の市場・スーパーなど至る所で新鮮な朝採れのアスパラガスが店先で見られるようになります。見ると直径2センチ以上の太い20センチ以上のものが何本も束にされて並んでいます。 家族とともにオランダで生活を始めてからは、毎年この時期を楽しみにしていました。最初は料理の仕方がよく分からず、皮をむいて茹でるということしかわかっておらず、茹でたもののすじが強くて歯に挟またり口に筋が残って食べにくいのです。昔レストランで食べたものを思い出して、どうもどこか違う・・・。何度か試行錯誤をして分かったことは、まずできるだけ太いものを買って、厚めに大胆に皮をむくこと、内側に籠が付いた縦長のアスパラ専用の鍋を使うこと、茹でる時には剥いた皮も一緒にゆでること(皮を一緒に茹でることでアスパラガスの持つ旨味が失われない)。ソースはそれぞれの好みがあろうし、茹で加減にも各人の好みがあります。私自身は、あまり茹ですぎずに、熱々に生醤油を滴々たらして、フーフー言いながら食べるのが好きです。 日本に帰国してからというもの、5-6月になると家族みんなで「ホワイトアスパラ食べたいな」という会話をしていましたが、何年か経ってある日、それまではお目にかかったことのないホワイトアスパラですが、時々スーパーなどでも生で3-4本束にしたものを売っているのを見かけるようになりました。ちょっと細くて、しかも値段が割と高くて大いに不満はありましたが、3束ほど買ってきて昔を思い出しながら食べたことが何度かあります。 最近は、その頻度が増えてきたように思っています。日本でもファンが増えたのかなとも思っていますが、どうでしょうか?

追憶のオランダ(10)ロッテルダム日本人学校

当時(1990年代)、オランダはあのように狭い国(と言っても、面積は九州くらいです)なのに、日本人学校がわずか75kmしか離れていないところに2校もありました。アムステルダムとロッテルダムです。当初ロッテルダム近辺から南の地域の子供たちは、毎日バスで1時間以上かかってアムステルダムまで通うか、現地校かアメリカンスクールに通いながら補習校で勉強していたわけです。そこでロッテルダム在住日本企業の人々がなんとかせねばと尽力し、さらに大阪府、ロッテルダム市の絶大なる支援を得てオランダで2校目の日本人学校がロッテルダムに実現したのでした。両校にはそれぞれ文科省から先生を派遣してもらい、日本の公立の小中学校と同じ質の授業が受けられるという恵まれた環境ですが、学校としてはあくまでも私立学校なのです(公立学校ではありません)。したがって、日本からの先生派遣のこと以外の学校運営にかかわるすべてのことは私立学校として理事会による運営になるのです。これは、世界どの国にある日本人学校でも同様です。私も他の日本企業の方々と一緒に、微力ながら3年間理事としてお手伝いをさせていただきました。 学校の土地と校舎についてはロッテルダム市から「年1ギルダー」の契約で借り受けていました。それとロッテルダム日本人学校がユニークだったのは、同じ敷地に、しかも建物も一体になった校舎で半分はアメリカンスクール、半分が日本人学校というものでした。共通の設備を使用することもあるし、時々、授業でも交流もしていました。International Education Center of Rotterdamというのが正式名称です。日蘭交流400年を祝う学校での記念行事には、現アレキサンダー国王(当時は皇太子)が来賓で見えられたこともありました。この写真は、Google earthから借用した最近の様子です、正面玄関が写ってないのは残念ですが。 しかし、学校運営の費用というのはそれなりにかかり、小学校から中学校までの9学年がありますがロッテルダムくらいの規模の生徒数(当時80-100人弱)ではどうしても授業料収入だけでは経済的な面で運営が厳しくならざるを得ませんでした。隣の国のデュッセルドルフのような日本人が多く住んでいるところは別としても、その他のヨーロッパの都市の日本人学校は運営に頭を痛めていたようです。私も、他のヨーロッパの事務所の同僚からその地の日本人学校の様子を聞いたりして参考にしていました。生徒の親たちの中には、日本人学校なのにどうして授業料を払うのか、というクレームもでてきます。そもそも日本の公立学校と同じだと思っているところから誤解をされているわけで、これは何度も説明して理解してもらいました。また、厳しい学校運営から、授業料の値上げの話をした時には、もうこれ以上の値上げは受けられないと抵抗される親御さんもおられました。皆さん、海外での子女教育に関心がなかった方は(以前の私も似たようなものでしたが)公立の小中学校はタダという感覚があって、それには一人一人懇切丁寧に説明し、それでも納得されない時は、「それでは、隣のアメリカンスクールはいかがですか?ところで、彼らの授業料はいくらかご存知ですか?一桁お高いですよ。」ということにしていました。日本人学校は、子供が通っているといないにかかわらず、ここに住んでいる人たちの善意で運営されているので、特にお子さんが通っている家庭の皆さんは学校行事とかにも是非積極的に参加しご協力ください、とお願いもしていました。 最後の写真は、理事を退任し帰国するにあたり同校より頂いた記念のデルフト焼き絵皿です。校舎正面と校章(チューリップと桜がモチーフです)が描かれています。

追憶のオランダ(9)水よりも安いビール

私はもともと酒が嫌いではありません。ビールでもウイスキーでも日本酒でもワインでも、なんでも飲みます。しかし、アルコール依存症でもありませんし、アル中などである訳はありません。自分で言うのも変ですが、私が酒を好きというよりも、酒の方が私を好いてくれていると勝手に思っているのです。 オランダに赴任するまでは、毎日の昼食でアルコールを飲む習慣はありませんでした。まあ日本の一般的なサラリーマンの昼食ほどあわただしいものはなく、ビールにしても飲むことはほんとうにたまにしかありませんでした。 しかし、オランダでは昼食時何か飲もうと思っても、日本みたいにタダで美味しい水やお茶が黙って出されるわけではありません。何か飲みたければ、食事と一緒に何か飲み物を注文する。水も当然有料で、何ギルダーだったか忘れましたが、ボトル入りの水を注文することになります。それなら、ビールは?と聞くと、ビールの方がわずかですが水より安かったのです。じゃあ、ビールにしようとなります。(左の写真は、ビールよりも高い水です。)これは当然の帰結であり、これが私の昼アルコールの始まりでした。もう25年以上続く習慣になりました。日本では一応、昼から車を運転する予定のある時は我慢せざるを得ませんが、オランダの時はビール2-3杯なら全く問題ありませんでした。よく飲んだのは、多分皆さんもご存知のハイネケンビールです。また、少しだけ値段が高い銘柄で、Grolsch(フロルシュと発音します)という昔ながらのゴム栓のついた瓶ビール(写真右)もなかなかいけました。 ビールから少し脱線しますが、オランダでの飲酒運転について一言。 結婚式披露パーティーとかクリスマスパーティーなどの時、レストランの前には警官がちゃんと張っているのですが、多少赤ら顔、饒舌になった客が車を運転して帰ろうとしても、ウインクして「気を付けて帰れよ」でおしまい。真っ直ぐに歩けないような輩は、酒が醒めるまでブタ箱に連れていかれるはずですが、そんな現場は私の滞在期間中にはついぞ見たことがありませんでした。  

追憶のオランダ(8)アンパンを買いに行く

私が住んでいた当時(1990年代)のロッテルダムには日本人が大人子供を合わせて約400人、他のヨーロッパの大都市のように日本食材を売っている店はなく、中国人の経営する店の何ともエスニックな匂いの立ち込める中の中華食材に紛れて怪しげな日本食材や東南アジア向け日本から輸出されたお菓子類が期限切れ寸前、あるいは期限切れで置いてあるくらい。しかし、アムステルダムまで行けば(ロッテルダムから北へ約75kmの距離)明治屋があって生鮮食品を除けば欲しいものほぼ揃うのですが、そうたびたびというわけにはいきません。また、ドイツまで足をのばせばデュッセルドルフ(ロッテルダムから東へ230km)には日本人が大勢住んでいるので、食材屋もレストランも色々揃っていました。 そんな日本食に飢えた生活をしていると、不思議なことにそれまで日本ではあまり食べなかったものもなぜか無性に食べたくなったものです。ある時、日本人仲間で「アンパン」の話になり、デュッセルドルフには木村屋の店があり、本物のアンパンが食べられるということで、オランダからわざわざ買いに行くことになりました。片道230kmなら車を飛ばせば2時間弱で楽々行ける、こう考えるようになったということは、やはり禁断症状が進んでいる証拠でもあります。例えば、今、中野島から高速に乗って浜松の先までわざわざウナギを食べに行く、いやアンパンを買いに行く気になるでしょうか? ただのアンパンを、です。 たまたま、私はデュッセルドルフには仕事で行く機会も時々あったので、知り合いの注文も聞いて、最初は2―30個買ってきました。これに味をしめて、次行く機会があればと、また注文が入る。ということで、パン屋の出前ではないですが、都合何回かアンパンの買い出しに行くことになりました。 しかし、ある時、昼を過ぎてからパン屋に行ったらもう4-5個しか残っていなくて、「いつもオランダから買いに来てるんですが・・・。」と困った顔をしていると、店の人が「夕方、もう一度来てください。20個なら新しく用意します。」と言ってくれるではないですか。やはり日本人の店だ、おそらくドイツ人だとこうはいくまい、オランダから来た甲斐があったというもの。ともかく、仕事を早々に終えて夕方急いで店に行くと、もうできています。喜び勇んで大きな紙袋に入ったアンパンを車のトランクへ入れ、一路我が家へ。8時前には帰り、トランクを開けて紙袋を取り出したところまではよかったのですが、いざ紙袋を開けてみると、何とアンパンが大集合をしているではないですかーーー!出来立てのアンパンが車の中で振動のため隣同士がドンドンくっつき、丸いはずのアンパンがいろいろな形の角と面を持つ、何と言おうか、少し締まった多面体になっているではないですか。なんとも不思議な多面体のアンパン。でも、味は何らかわらないので、皆面白がって喜んで食べてくれました。 出来立てのパンにはくれぐれも御用心、ある程度冷まして、いくらか水分も蒸発させないと・・・。

追憶のオランダ(7)親切なお役人

オランダに赴任してすぐの頃、仕事の関係で、ある商品の欧州での登録方法について一般的な話を聞きたくてその管轄の役所を訪ねて行ったところ、下っ端の担当ではなくかなり上席と思われる人物が応対してくれました。こちらは概略の話だけ聞ければそれで十分だったのですが、あれこれ説明を聞いたところで、そのお役人に「まだ時間はあるか?」と尋ねられ、「少しくらいは」と答えると、「さあ、それでは少し早いがランチを食べよう、詳しい話はそれからだ。」とばかり、役所のレストランに連れていかれたのです。もうそれまでに小一時間は話しているのに、です。 ランチを食べ終わると「ここは安いんだ。客に金を払わせるわけにはいかぬ。」と昼を御馳走にまでなり、それからたっぷり一時間半以上彼の懇切丁寧な講義を受け、こちらの疑問にも答えてもらうことになりました。こちらはすっかりその日の午後のスケジュールは狂ってしまったのですが期待以上の収穫まで得られて大いに満足。いざ失礼しようとしたところ、「またおいで、いつでも相談に乗るよ。」と非常に親切です。この日はたまたま暇だったから、気まぐれで相手をしてくれたということでもなさそうに思えたのですが、日本に、こんな親切なお役人さんはいますかねえ? でも、最終的に私は大事なことを一つ抜かってしまっていました。要件をすべて終え車に戻ってみると、役所専用の駐車場だと思って止めていた車にオランダに来て初めての駐車禁止の切符を切られていたのです。これは、私自身の不注意のため、会社に罰金(2-300ギルダーだったと記憶している)の請求をするわけにもいかず身銭を切る羽目に。この日の授業料と考えればお安いものと無理やり納得はしたものの、それにしても、融通のきかぬ交通警官よ、見逃してくれてもいいではないか。せっかく、オランダのお役人は親切で素晴らしいと褒めたばかりなのに・・・。