追憶のオランダ(26)パーリング

皆さん、「パーリング (Paling)」ってご存知でしょうか? これはオランダで食べられるウナギの燻製のことです。ウナギを燻製にして、中骨を抜き皮を剥ぎ蒲焼にする時のように開いたものが売られています。酒の肴にはぴったりの食べ物です。結構油が強く、ジュネーバーという酒には実によく合います。 オランダでは、ちょうどスモーク・サーモンの真空パックと同じように、パックに入ったものがスーパーなどでも売られています。また、スキポール空港でもオランダ土産としてチーズなどと一緒に置いてあります。私も日本への土産に持ち帰ったことがあり、呑兵衛には大うけでした。わが息子などは、「これはいける」と、とても気に入っていました。 任期を終え帰国してから、この味を思い出し、輸入食品を扱っている店などでいろいろ探しましたが、一度だけ、紀伊国屋で見つけたことがありましたが、その後紀伊国屋でも見かけなくなりました。日本人の好みには合わないから?それとも、他の理由で仕入れを止めた?のでしょうか。筆者個人としては非常に残念でなりません。未練がましく、それ以降もインターネットでいろいろ調べては見るものの、オランダ産の gerookte paling の紹介はありません。ただ、イギリスの smoked eel、ドイツの raucher aalがあり、材料も調理方法もそのものずばりですが、オランダのものとはどこか違うように思います。少なくとも、日本のウナギの燻製という名でネットで売られているのは全く違う代物のように見受けられます。ということで、この写真からどのようなものなのかご想像いただけますでしょうか? これは全くの偶然ですが、このパーリングを作っている工場の前を通りかかったことがありました。あたりは燻製を作るいぶした煙の臭いが立ち込め、どこかで燻製を作っていることはすぐに分かりました。すると一つの建物の扉が開き、そこから黄金色というかヤニ色というか、細いものがたくさんぶら下がってどんどん運び出されているではありませんか。ちょうど、洋服を陳列する時にハンガーごとつるすキャスターのついたもの。これにぶら下っているのはすべて燻し終えたウナギなのでした。ああ、これがさらに身の部分だけに調理加工され真空パックになって店先に並ぶのか、と思いながら通り過ぎたことを思い出しました。 最後に、最近知り合った友人が結構飲める方で、酒の席でこのパーリングの話をしたところ、オランダで食べてすっかりはまってしまったとか。しかし、この方も日本で食べられないのが残念と、私と同じようなことを言っていたのを聞いて、なぜか親近感が湧きました。パーリング仲間といったところです。

追憶のオランダ(25)バケツ一杯のムール貝

初めてムール貝というものを食べたのは30年以上前に出張でオランダに行った時だった。その時、友人とレストランへ行き、その友人が注文してくれた。そして出てきたのが小ぶりながら金属製のバケツ一杯の黒い貝。これがムール貝というものか、でも磯の岩についているムラサキ貝に似た貝で、これを食べるのかと思ったものだ。 いざ食べてみると意外にうまい。白ワインを飲みながら一つ一つ。そこで友人に教えられたのは、貝の身を一つ一つフォークで外すのではなく、一つ食べたあとの貝殻をピンセットのように持って、次の貝の身を挟んで外すやり方。そして、貝殻はその前に食べた貝の殻に入れ子にして重ねていくのだ。そうすると、バラバラに捨てると随分かさ張るが貝がスッキリと片付く。それを聞いて、自分でやってみて、なるほどと納得し、妙に感心したことを思い出す。 二人でバケツ一杯、気が付くとアッと言う間に空っぽになってしまった。注文した貝が出て来た時は、二人でとはいえ、そんなに貝ばかり食べられるものかと思ったが、食べ終わってみると、あとを引く食べ物だとも思った。 それからの数年はこの貝には縁がなかったが、オランダに赴任することになり、再度ご対面となった。今度は、わざわざレストランで食べなくてもそこらのスーパーで1キロ・2キロと袋詰めで売られているものを一緒に煮込む薬味(香草類を刻んだもの)とともに買ってきて自分で料理する。料理という大層なものではなく、白ワインを入れて香草類と一緒に大鍋で煮るだけ。要はムール貝のワイン蒸し。アサリの酒蒸しと同じ要領だ。私は、さらにタイム・ローズマリー・クローブ・レモン・ネギ、それにセロリーをたっぷり加えるのが好みである。要は、香り付けは何でも好きなものでよい。 この食べ方は日本に帰国してからも続いている。しかし、なかなかいいムール貝にお目にかかれない。たまにスーパー・魚屋で5-6個を大事そうにパックに入れたものを見かけるが、数が少なすぎ、オランダの時のように食べようと思うと、何パックも買わねばならず結構高い食事になってしまうのが難点。でも、昔を思い出しながら、貝のピンセットで身を外し、入れ子の貝をたくさん作りながら食べている。 この貝は、やはりムラサキ貝の近縁のものだが、ムラサキ貝のように貝毒はなく、オランダでは南西部のゼーラント州の汽水域でたくさんとれる。オランダだけではなく、フランス・ベルギーのレストランで出されるものの大半はオランダ産が輸出されたものと聞く。日本で手に入るものはどこで獲れるものだろう?

追憶のオランダ(24)エッシャーのこと

私はエッシャーの不思議な絵(版画)のファンである。もうかれこれ30年近くは経つと思うが、新宿の小田急百貨店で「エッシャーの不思議な世界展(甲賀正治コレクション)」という展覧会があり、そこで多くの作品をみたのがエッシャーにのめりこんだきっかけである。それまで、白い鳥と黒い鳥が夜昼の田園風景の上を互いに行き違う絵とか、水が無限に流れ落ち続けるあり得ない絵を何度となく見ていたし、それぞれ鮮明な記憶は残っていたが、当時は妙な絵を描く人がいるものだ、それにしても面白い・・・と思ったが、作者までは知らなかった。 この小田急での展覧会は、幸運にもエッシャーの膨大な作品を譲り受けることになった甲賀正治という人のコレクションとかで、その時4分冊になって黒い箱入りの豪華な作品集を買った。結構高価でもあった。上の写真は、その作品集と展覧会のチケット。それ以降、無限に反復・拡散・収斂する連続図形の面白さにもひかれ、その類の書籍も随分読み漁り、購入もした。ただ、彼の作品を表現する時に「だまし絵」という言い方をする方が結構いる。しかし、エッシャーの作品は興味本位で見る人を騙すことを目的にしたものでは決してない。むしろ、無限に反復・拡散・収斂する連続の中に微妙な変化が起こってくるその不思議さを明示してくれているものだと思う。 それから数年して、私は何とそのエッシャーの生まれた国に赴任することになったのだ。版画だから同じ作品が何点もある。それでいろいろ調べた。といっても、その頃はまだ今のように便利なインターネットなどは普及しておらず調べるにも苦労した。その結果、ハーグの美術館にたくさんの作品が収蔵されていることを知り、何度も足を運んだ。また、彼が影響を受けたというアラベスク模様の実物を見るためにスペインのアルハンブラ宮殿などにも行って実物を見て、その空間を埋め尽くす発想に驚かされもした。 いろいろエッシャーについて調べていて、さらに驚いたことがある。彼が父親を描いた作品は有名だ、サンバイザーのような帽子をかぶり、右手に大きな虫メガネをもって何か書類らしきものを見ているドングリ眼の老人。この人こそが、明治初期にオランダからのお雇い外国人技師としてその他のファン・ドールン、デ・レイケなどの土木技師の先輩格として日本に来て、淀川・木曽川など多くの河川の改修、あるいは福島の安積(あさか)疎水開削など数多くの日本の治水事業に貢献してくれた、いわば恩人だったのだ。当時は、日本ではエッシャーとは呼ばず、エッセルという呼び名で呼ばれていた。その父親がオランダに帰国して後に、この芸術家エッシャーが生まれている。絵だけでなく、何と不思議な縁で日本とつながっていたのである。 最後に、甲賀正治コレクションにも含まれていないエッシャーの作品を持っているので、ご紹介しましょう。 それは、オランダ最大の百貨店、バイエンコルフの包装紙です。たまたまこの百貨店で買い物をして、包んでくれたのがエッシャーがデザインした包装紙なのです。白と黒で”DE BIJENKORF(バイエンコルフと読み、意味はと言えば、「ハチの巣」のことです。)”と、反復するパターンです。写真上部には1933年、エッシャーが35歳の時、バイエンコルフのためにデザインしたことが印刷されています(拡大できます)。すぐには気付かず、洒落たデザインだな、くらいに思っていましたが、よく見ると何となんとエッシャー作品ではないですか! というわけで、エッシャー関連の書籍やグッズと一緒に今も大事に持っています。

追憶のオランダ(23)スヘーフェニンゲンの魚屋

どうも食べることに執着しているように見えるかもしれないが、私自身自分ではそれほど食にこだわる人間ではないと思っている。でも、オランダでの魚の話を一つ。 オランダでも鮮魚がスーパーや市場で売られているが、たとえ新鮮に見えてもやはり熱を加え調理して食べることを前提にしているので、そのまま生で刺身にして食べるには多少のリスクが伴う。やはり、煮たりソテーしたりフライにしたりということになる。また、日本流の焼き魚となると、西洋では魚を焼くにおいは嫌がられるということを事前に聞いていたので、我が家では一度も焼き魚をやった記憶はない。オランダ人がどのような反応をするか、一度くらいはやってみてもよかったと今更ながら思う。 しかし、旅行でポルトガルやギリシャに行った時、海辺の町では直火に大きな金網をのせそのうえでイワシやらサバやらを丸焼きにしていたのを思い出した。イカなども焼いていて、日本の縁日で嗅ぐ懐かしいイカ焼きの匂いがしていた。彼らもこうやって食べるんだと思ったが、これが彼らの本来の食べ方かどうかは不明だ。日本人の観光客も多かったので、日本人を目当ての焼き魚ではないかとさえ思った。 魚と言えばやはり刺身だが、日本人そのものが、太古からの習慣で魚は新鮮なものを生で食べたがるというDNAを持っているのではと思う。オランダに来てすぐの頃、日本人仲間の口コミで、ハーグの先、北海に面したスケベニンゲン(スヘーフェニンゲンという音に近い)に行けば刺身で食べられる鮮魚が手に入ると聞いた。すぐに車を飛ばして行ってみると、何軒もある店のうちある一軒の店では気に入った1尾を客の要望に応じて刺身用に丸ごと1匹をさばいてくれるサービスまでやっている。うろこを取り、頭を落とし、内臓を処理し、三枚におろし、皮も剥いでくれ、あっという間に刺身用の冊ができあがる。あとは、家で小さく切るだけ。自宅でさばくのは確かにチト骨が折れるので、このサービスは大いに助かる。魚の種類は日本ほど多くはないが、やはり土地柄、ヒラメ・サケ・サバなどはうまい。なかでもヒラメは絶品で、よく大きいのをさばいてもらってものだ。縁側もちゃんととっておいてくれる。アラはアラで、身とは別にちゃんと袋に入れてくれる。売る側の企業努力も見上げたものだ。 このスヘーフェニンゲンという地名、日本のテレビ番組などで面白い地名としてスケベニンゲン(すけべ人間)という呼び方で度々紹介される。しかし、実際の発音をよく聞くと、スヘーフェニンゲンと聞こえる。この地は北海に面し、いわばハーグの奥座敷とでも言える保養地として昔から知られ、19世紀初頭に上流階級のリゾートとして建てられ、その後5つ星ホテルとして開業したクアハウスが有名。観光客のみならず多くのヨーロッパの他の国からのVIPたちも訪れる。

追憶のオランダ(22)古地図の話

オランダで蒐集したものが二つある。一つがアンティークタイルで、もう一つが古地図である。古地図と言っても17-18世紀につくられたエッチングで印刷された地図で、オランダの各都市がそれぞれ一枚の中に克明に描かれている。その多くが城塞都市として星形やらの防御地形で外濠を備えている姿がよく分かる。 ある時、ハーグで夏場の木曜と日曜に開かれる青空骨董市を覗いていて、昔の風俗画や植物画などに混じってその古地図が売られていた。私の目当てはタイルで、何か掘り出し物でもないかと捜しながら何十軒もあるテント張りの店を軒並み見て回っていたのだが、その途中で一枚の古地図が気にいってしまったという訳。B4版くらいの一枚で、上の四分の一くらいに町の遠景が描かれ、その下に上空から見た町全体の地図が描かれている。ステゴザウルスの背中のトゲのような三角の出城を町の周りにいくつも備えた防御地形で、BOMMELという地名らしきものが書きこまれている。 何百ギルダーだったかは忘れたが、ついつい買ってしまった。そして、帰ってすぐに調べてみた、どこだろうBOMMELとは。しかし、調べると言ってもその頃は今のように便利なインターネットもないし、実際に日常使っているロードマップや、10万分の1の地形図くらいしか調べる手段がなかった。実際、10万分の1の地形図をその町の形だけを手掛かりに調べ、結局オランダ南部のヘルダーラント州のZALTBOMMELというところだと分かった。 それ以降、度々タイルと古地図を求めてハーグの青空市場には出かけ、店の親父とも仲良くなり、店に出していないものも見せてもらうようになった。そして、何枚も何枚も買うことになった。店の親父は、いいカモが出来たと、ほくそ笑んでいたかもしれない。それはともかく、それらの古地図はオランダの昔のガイドブックのような何冊かからなる大部の本をバラバラにして、その1ページの地図だけを切り離して売りに出されていたものだと分かった。地図の作者の名前が地図の片隅に書かれていて、ISSAC TIRIONと読める。このTIRIONさんのエッチングは実に美しい。 古地図関係でいろいろ現在の出版物をいろいろ見た中に、TIRION社という地図などの出版会社があるが、ISSAC TIRIONの子孫の会社なのか?・・・。その関係はまだ調べられてはいない。

追憶のオランダ(21)トイレ

ここ10年以上私はオランダに行く機会がほとんどなく、もしかするとオランダのことゆえ様子がガラッと変わっているかもしれませんが、私が住んでいた20年以上前に経験した昔の話をしましょう。 同じヨーロッパのなかでも、オランダの男子用のトイレの小用の便器というのはちょっと困りものでした。というのも、あまり背の高くない人たちにとっては、設置されている便器の高さが問題なのです。床面まである縦長のものは問題ないのですが、いわゆる朝顔型の便器の設置場所がオランダでは少し高すぎるのです。したがって、私など170cm程度の身長のものにとっては極端に言えば爪先先立ちして用を足さなければならないことがあるのです。物理法則に従えば、どのみち下に落ちるものなので、わざわざ朝顔を高く設置しなくてもよさそうなものです。オランダ人の背丈に合わせていると言えばそれまでですが、特に昔からの古いレストランやカフェなどのトイレはこのようなものが多かったような記憶があります。大の大人でも子どものように、踏み台が欲しいくらいでした。新しくできた店とか、空港・鉄道の駅などの公共の場所ではまあ標準的なものになってはいましたが・・・。 それと、トイレの関連でもう一つ面白いことを。 トイレを汚さないようにと、日本でも「もう一歩前へ」とかの面白い標語を目にすることがありますが、オランダの便器で、落下地点付近のほんの少しだけ左側に、小さなハエの絵が陶器製の便器に青く、あるいは黒く染め付けられていることがありました。利用する人が、思わず知らずそのハエを狙ってしまう心理を読んでのアイデアだと思いますが、これには苦笑せざるを得ませんでした。日本にこんな面白い便器ありましたか?なんとなく、オランダ人らしい発想だなと思ったのを今思い出しました。余計な標語を書くよりもよほどスマートです。

追憶のオランダ(20)骨董屋の話

正直言って、私は昔から骨董品というものにはあまり興味はありません。何百万円とかする茶碗や軸物などを有り金を叩いて買い求めることには、全く興味はないということです。ですから、日本でも骨董屋の前は殆ど素通りでした。オランダに住んでからも、最初の頃は同じでした。アンティークと書かれた店はただ眺めて通るだけでした。しかし、ある時その店先で足が止まってしまったことがありました。その店は、よく行っていたデルフトの広場の近く、市庁舎の脇を抜けた橋のたもとにある店です。左の写真、手前の茶色の建物が店で、その奥に見えるのがデルフト市庁舎。店の外に無造作に置いてあるかなり傷がある壁タイルに目がとまったのです。そこで、その一枚を買った時から、私と骨董屋の付き合いが始まったのでした。その店には何度足を運んだことか。右の写真、その店先で店主と。 また、同じようなタイルを扱っていそうな骨董屋もあちこち探し、デルフト以外の町にも足をのばし、骨董屋仲間に店も紹介してもらい訪ねて行ったり、業者仲間の市にも顔をだしたりと、急に熱心になりました。何人もの骨董屋の店主とも知り合いになりました。そのうちの一人とは、帰国後も新しい情報を送ってもらい、何度か彼から買ったことがあります。さらに、これは全くの偶然ですが、京都にある骨董屋にオランダのアンティークタイルがあることを知り、京都まで訪ねて行ったのですが、そこの御主人は私がたくさん買っていたデルフトの別のもう一軒の骨董屋の若主人と知り合いだったのです。世の中狭い。 ある時、アムステルダムの骨董屋に初めて行ったのですが、箱に詰められたアンティークのタイルを一つひとつ見ていると、後ろからいきなり「あたなが○○を探している日本人か?」と声をかけられました。こちらは、考えもしてなかったので、びっくりして「そうだが、でもなぜ?」と答えました。その後話を聞くと、店の主人曰く「同業仲間から、ある日本人が○○を探しているがなかなかいいのが見つからない、と言っているのを聞いたことがある。」と。あちこち探し回っていたので、知らぬ間にタイルを探し回っている日本人の噂が広まっていたのです。 結局、その店にもいいものはなくて、「いつ入荷するか分からないが、今度入荷したら連絡してやる。」ということで、電話番号を教えて帰ったことがありました。新しい(?)アンティークタイルというのは、古い邸宅を取り壊す時にしか出てこないので、なかなかチャンスはありません。改修すればそのままタイルはその家に残ってしまうことが殆どなので滅多に新しいものが骨董市場には出回らないということです。あるとすれば、昔取り壊した時に出たものでこれまで保管されていたものが売りに出されることくらいでしょうか。

追憶のオランダ(19)サッカー熱

今では日本もJ-1人気で、子供たちもそれまでの野球一辺倒だったのが、サッカー少年も随分ふえているようです。でも、ヨーロッパ(だけに限らず)のサッカーに対する熱の入れようはやはり日本の比ではないのも事実です。ワールドカップ・欧州チャンピオンリーグ等サッカーの国対抗の試合ともなると、皆驚くほど熱くなる。以前のこのシリーズでも書いたことがありますが、オランダ赴任直後にロッテルダムで大乱闘があった。これは喜びが爆発し過ぎて、大乱闘にまで発展したわけだが、何年か前の欧州チャンピオンリーグの試合が行なわれた時、たまたまバルセロナからの出張帰りに、飛行機から大勢のバルセロナサポーターがロッテルダムを目指しているのと乗り合わせ、スキポール空港からロッテルダムまでの列車の中でも大騒ぎ。また、地元オランダのサポーターも続々ロッテルダムに集合、徐々に異様な雰囲気が漂ってきました。 戻ってみると、その試合の日は、街なかの店は夕方早めに閉店してガラスのショー・ウィンドーは外からベニヤ板などで補強し、物々しい警戒態勢がとられていました。警官も普段より大勢出動して、これから一体どんな大変なことが始まるのかというピリピリした感じ。試合の結果は忘れましたが、その日も以前見たのと同じ大変な騒動になったことには変わりはありませんでした。試合そのものにも興奮するのでしょうが、一部のサポーターはその後の大乱闘にこそ生き甲斐を見つけているのでしょうか。写真は、フェイエノールトロッテルダムのスタジアム。 一方、こちらは乱闘こそしませんが、あちこち仲間内で試合の勝ち負けでささやかな賭け事に夢中になります。私の会社の連中も例外ではありませんでした。単なる勝ち負けだけの予想ではなく、両チームのスコアまで入れた予想になります。0-0から始まり予想されそうなスコアすべて。これは、なかなか当るようで当らない。でも当ると、最低でも配当5-6倍というのはよくあったようです。自分の国の勝ちを信じたいが、賭けで負けるのも癪だし、という複雑な思いで賭け、ビールを片手に、一喜一憂しながら試合の進行を熱く見守ります。それを横から醒めた目でながめているのも、また面白いものです。

追憶のオランダ(18)歩け歩け!

もう40年近く前になると思いますが、テレビのニュース番組か何かで面白い話を紹介していました。世界中から現役の軍人、アスリート、さらに民間の健脚自慢の人たちが集まって何日も長い距離を歩き通すというユニークな大会があり、日本からも毎年自衛隊員なども参加するのだと。この時は場所がヨーロッパということだけでどこの国なのかまでは覚えておりませんでした。しかし、オランダに住むようになって、それがオランダで毎年開かれる正式名称 De 4 Daagse(単に「4日間」という意味のオランダ語です。英語では、Internatinal four days marches Nijmegenといいます)という有名な国際大会であることが分かりました。オランダ東部、ドイツ国境に近いナイメーヘン(Nijmegen)という町で毎年7月第3火曜日から4日間開催されるウオ―キング大会でした。世界中から歩くことに自信のある人たちが集まり、30km・40km・50kmという距離にクラス分けされ、各々が4日間毎日その同じ距離を歩き通すという単純と言えばこれほど単純なことはないというくらいのユニークな大会です。参加者は自分に合った距離を選び、4日間合計120・160・200kmというとてつもない距離を踏破することになる訳です。 これは、いわば本式のレースではありますが、この時期オランダ各地で大人から子供に至るまで、地区単位や、会社仲間や、あるいは学校行事としてなど、いろいろなグループで近隣を3km・5km・10kmと体力に見合った距離を設定して夕方から一斉に歩きまわる光景が見られます。オランダのこの時期は日が長いので、夕方から数時間かけてこのユニークなイベントを4日間楽しみます。その距離を踏破するとメダルがもらえます。5年かけて5個目のメダルをもらうと、今度はさらに立派な大きなメダルをもらえます。 7月に入ると、同じ日にたくさんのグループがそれぞれ設定したコースで歩き出すと、お互いのコースが錯綜していたりすることはよくあります。また、大きなグループになると先頭から最後尾まで随分と距離が空いてしまうことがしばしばです。当然信号待ちもあるので、交差点では四方に長い行列ができることになり、そんなときなど、自分たちの進む方向をしっかり覚えておくか、地図でその都度よく確認しないと大変なことになります。全員がすべて知り合いという訳でもないですから、間違って他のグループについて行ってしまい迷子になる子供(大人も)も出来てきます。私は子供が通っていた関係もあり、ロッテルダム日本人学校のグループの引率役として他の父兄たちと一緒に毎年歩きましたが、大人も含め何人かは必ずコースを外れて大回りしたり迷子になったり、皆がゴールしてもなかなか帰ってこないというハプニングも何度か経験しました。出発地点が日本人学校付近ですから、たとえ迷ったとしても住所さえ言えれば親切なオランダ人が帰り道は教えてくれます。 この地域コミュニティーごとの小さな大会の呼び名は、Avond 4 Daagse (4日間の夕べ、という意味)、あるいは日本人社会では「歩け歩け大会」と呼んで楽しんでいます。

追憶のオランダ(17)漆との出会い

漆との出会い、これは私のオランダ生活の中で、また私の人生の中でも最も大きな出会いの一つでした。もちろん、子どもの頃から生活の中で漆器に触れる機会は多少なりともありましたが、それは年数回あるかなしかでした。その漆器は正月に使う重箱とか椀・盃の類で、日常使う椀や箸などは一見漆塗りのように見えても実際には漆塗りではなかったように思います。そのような日常生活ですから、40歳を過ぎてまさか自分が漆を使って器物を作る、そして自分でそれを日常に使うことなど想像することも出来ませんでした。しかし、それが日本国内ではなくオランダという外国に来て現実のものとなったのです。これまでこのことを友人たちに話すと、皆一様に「なぜオランダで漆なの?」と怪訝な顔をされました。今後も、多分そうでしょう。 しかし、そのきっかけは実にくだらないところに転がっていたのです。それは、当時使っていた餞別にと頂いた本物の漆塗りの箸の先をふとした拍子に噛んで少しですが折ってしまったのです。しまったと思ったが、後の祭り、しばらくの間は別の安物の箸を使っていましたが、どうもしっくりこず、かと言ってオランダですからすぐに代わりが手に入る訳もなし。そして、それから何か月かの後のこと、たまたま見ていた地域の日本人コミュニティー誌に、「漆塗り教えます。」という小さい広告が出ていたのを発見したのです。深く考えるより先に、「これだ。」と、躊躇わずすぐに申し込み、習い始めることにしました。そして、まず折れた箸の修理をしたいと先生に申し出ました。しかし、今まで漆そのものを見たことも触ったこともない素人ですから、そんなに簡単ではありません。我が家からは車で3-40分ほどかかるハウダ(Gouda)に近いところまで殆ど毎週土曜日、嵐の日もせっせと通い、基礎的な事を教わりつつ、念願の箸の修理もそのうちにできました。ほんとうに初歩の初歩から教わり、約1年半ののち私のオランダ勤務が終わり帰国する頃までには、何とか漆を自分で扱えるくらいまで仕込んで頂きました。先生は、オランダに移住された日本女性で、西出毬子さんという方です。その後も、先生には折に触れアドバイスをもらっていました。 ということで、もう20年以上漆との生活をしていることになります。その間、作ったものは箸・匙・大小さまざまな皿・椀などのシンプルな日常使いの雑器類が主ですが、知り合いに差し上げたりして大いに喜ばれています。私の作品は頑丈が売りですが、もし傷とか壊れるようなことがあった場合には、私が生きている間は無償で直しますという保証付き。ですが、幸いなことに差し上げた方々からは未だに直しを頼まれたことはありません。壊れていても面倒だから、または遠慮されて直しを頼まれないのかもしれませんが。もともとはこうした日用雑器を作ることに興味があったのですが、ここ10年くらい前からは、蒔絵・螺鈿などの加飾技法も加えたものも始め、また蒔絵による絵画作品も手掛けるようになっています。 オランダでの短い間に、幸運にも東京芸術大学で最近まで漆芸の教授をされていた三田村先生とその御子息ともお知り合いになり、さらに帰国後は同教室の面々とも知り合うことができ、私の漆の世界が一挙に広がることになりました。左の写真は、オランダ時代に三田村先生から頂いた色紙で、「漆三昧」と書かれています。そんなご縁から、毎年東京芸術大学の公開講座で漆の講座があるときは必ず受講するようになりました。そして、そこでも新しい同好の知り合いができ、漆を通した世界がさらに広がってきました。オランダでは土曜日は朝から夕方まで漆塗りの作業をして、それから飲み始め漆談議に花を咲かせながら皆深夜まで、そしてベロンベロンになるまで飲んだことも度々で、今も懐かしく思い出します。