追憶のオランダ(86 付録)幻のゴリラ

これは1995年当時の話で、まだ少し生々し過ぎて書くのを少し憚られ、「オランダ点描」には書けなかった話です。2018年の今、時効でもないですがやっと今ならよかろうと思い、当時を思い出して書くことにしたものです。 1995年東京恩賜上野動物園(以下上野動物園)で故増井光子さんが園長をなさっていた頃、ゴリラの飼育も可能な新しい設備を用意してどこかからゴリラの家族を譲ってくれる先を探しておられたようでした。オランダの東部アペルドーンという町にある猿園「アーペンフル」がその情報を聞きつけ、私の勤めている会社に上野動物園への仲介を打診してきました。というのは、その猿園の園長の兄弟がたまたま私の会社で勤務していたことがきっかけだったのです。 アーペンフルはいろいろな種類の猿を広い敷地内で長年飼育して、それまでにもリクレーションで子供を連れて遊びに行ったこともありました。ゴリラについては既に2組の家族を飼育しており、そのうちの1家族(確か7-8頭だった)を上野動物園に譲渡することには前向きであり、我々も本社経由上野動物園と連絡を取り、また輸送に関する問題点などを詳細に詰める作業に掛かりました。 問題は、5月でもあり東京都の予算が既になく、急遽臨時の予算を組んでもらう必要がありましたが、当時の知事は青島さん、何とか博を間際で取りやめにした実績を持つ方だったので、この臨時予算も承認されるかどうか非常に不安がありました。しかし、非公式な話では感度は悪くなさそうとのことで、皆の期待が膨らんでいました。 当時ゴリラ飼育を担当されることになっていた方にも輸送時の対応・受け入れ態勢のこととか随分ご尽力いただきました(この方は後に多摩動物園長として転出されました)。そして、すべて本決まりになるかならぬかの寸前でした。急に思わぬところから横槍が入り、突然アーペンフルから正式にこの交渉の打ち切りを通告してきたのです。 ゴリラとか絶滅危惧種の動植物については、いろいろ国際的な条約等もあり厳しい制約を受けることは知っていましたが、このゴリラたちは人工飼育による動物でもあり、動物園同士その点についてはいかようにも調整できるものと我々は素人であるがゆえに安易に考えて心配はしておりませんでした。 その時知ったのですが、ゴリラについてはドイツ西部のある町にある協会の会長が最後になって「日本に譲渡することは認めない。」との最終決定を下したというのです。しかも理由は最後まで明らかにされませんでした。我々としては口惜しさに、何が背景にあるのかいろいろ考えてみましたが分からず、理由なき反対、日本はこの会長の覚えが愛でたくなかった、としか受け取れませんでした。 その騒動の後、私は一時帰国し大変申し訳ない結果に終わったこと上野動物園には深くお詫び申し上げました。さらに、数か月後漏れ聞くところでは、ヨーロッパ内の国になら譲渡は問題ないとかで、真偽の程は定かではありませんがその候補としてとしてフランス・スペインの動物園の名前が上がっていたようです。 日本では、ゴリラの飼育は難しいというのか?と思わずこの会長に聞きたくなりました。しかし、同時に協会の考え、会長の個性までしっかり掴めていなかったことが、結局はこちらの敗因だったと反省しきりでした。 宮川直遠

追憶のオランダ(85)最終回 航空会社職員の機転

最近は事情がかなり変わったと思われるが、今から20年以上もの昔は飛行機を利用する場合空港に着いてから実際に搭乗するまで随分と時間を要したものだ。特に、行楽シーズンなどはカウンターの前に延々と列を作らされる羽目になる。出発時刻が刻々近づくのになかなかチェックインさえできない、ハラハラ、イライラという経験をされた方も多いことだろう。あるいは空港までの途中の道路で渋滞に巻き込まれて、空港になかなかたどり着けそうになかったことがあるかもしれない。たとえ運よくギリギリ空港に滑り込めても、無事搭乗できるかどうか。私もこんな経験を何度もしたものだ。心に残った二つのケース。 ひとつのケースは、乗っていた便の到着が遅れたが、乗り継ぐべき便はその日の最終便ということもあってか乗り継ぎ便は出発を遅らせ待っていてくれるという機内でのアナウンスがあったので安心していた。ところが、着いてみると乗り継ぐはずの便のチェックインカウンターは既に手続きを終了してしまって誰もいない。万事休すかと、そこでの一泊を覚悟しかけた時だった。しかし、天祐とはこのこと、救われたのだ。。その航空会社の係員と思われる若い男性を見つけので事情を話すと、「大丈夫、その便に乗れますよ。僕がお連れします。ただし、ちょっと距離があるのでこれに乗って。」と、大したことではないような感じ。そして、空港でよく見るカートに乗せてくれ、普段は通らないいわば空港の裏方の通路を走り、ゲートまで案内してくれた。アタッシェケースだけだったのでできたことだと思うが、少なくとも、カウンターではチェックインしていない(記憶は定かではないが、ゲートでチェックインしたのか)。おかげで、その最終便に乗ることができ、翌日のアポイントもキャンセルせずに済んだ。これは英国航空、ヒースロー空港でのこと。 もう一つのケースは、ある朝バルセロナに出張するため自分の車で空港まで運転していたが、途中で大渋滞に巻き込まれ、時間的に充分余裕を見ていたはずなのに空港到着が予定よりもかなり遅れてしまった。ともかく車を駐車場に入れ、チェックインカウンターに走った。着いた時は既にその便の手続きは終わっていたようだったが、手荷物一つだったので係員の女性は笑顔ですぐにチェックインを済ませ搭乗券を渡してくれた。時計を見ると、既に出発時刻を過ぎている。その搭乗券を見て、さらに驚いた。便名だけは正しく記載されているが、私の名前はなく、その代わりにLast moment passenger(最後の乗客)とのみ。そして座席番号もなくNo seat, no meal guaranteed.(座席・食事は保証されません)と書いてあるので、この期に及んで余計な事だが彼女に尋ねてみた。「食事などなくてもいいが、座席はあるんでしょうね?」と。すると彼女がウインクして言うことには「Run!(走って!)」と。このバルセロナ行きは一番遠いゲートなのだ。ともかく、走りに走って搭乗ゲートに着くと、殆どの人が搭乗し終わりあと3-4人が残っているのみ。ともかく、ゼーゼー息を切らしながら最後の人の後に続いた。これぞ滑り込みセーフであった。名前こそないもののチェックインだけは済ませてあるので、別にそんなに走らなくてもよかったのだが、出発をさらに遅らせてしまうのは他の大勢の乗客にも申し訳ないので、真剣に走った。時々、迷惑な客がいますよね。皆が搭乗してしまっているのに「出発が遅れて申し訳ございません。あと一人のお客様を待っています。」というアナウンスがあり、その後で悠々と悪びれもせず乗ってきて皆の出発を遅らせる横柄で迷惑な客が。私はこんな客にはならずにすんだ。それよりも心配だったのが、もし乗り遅れてしまうと、その日の予定が完全にくるってしまい相手に迷惑をかけてしまうことだった。もしそうなっていたら、どこか公衆電話から(その頃は携帯電話は普及していなかった)相手の会社に今日のアポイントは私が飛行機に乗り遅れたのでキャンセルして欲しいと伝え、謝ることになっていただろう。保証はしません(No guaranteed)ということだった座席にも座れて、機体が動き出した時には、改めて彼女の機転に救われたという思いが強かった。これは、KLMオランダ航空、スキポール空港でのことでした。 この2社の職員の機転のきく対応に助けられたというお話でした。 *********************************** これまでご愛読頂いた読者の皆様へ: この文芸館に「オランダ点描」の投稿を始めたのは一昨年の11月2日のことでした。気が付けば今月末でちょうど丸2年となります。最初の「オランダ点描」が終わったあとスポットで2話を挟みましたが、さらに続いて「追憶のオランダ」ということでオランダのあれこれをこれまた筆者の独断と偏見で書き綴ってきました。当初はすぐにネタ切れになってしまわないかと心配していたことを思うと、こうして2年もの間よく続いたものだと筆者自身が正直驚いています。 追憶ということで、あれこれ思い出しつつの当時のオランダの様子をご紹介してきました。しかし、この浅学ではやはり書けるネタがだんだんと尽き果て来たこともあり、また30年近くも前のことなので記憶自体も定かではなくなって来ました。ということで、誠に勝手ながら今回の「追憶のオランダ85話」をもちまして最終回とさせていただきます。 長い間この拙いものをご愛読頂いた皆様には心より感謝申し上げます。 本当に有難うございました。 宮川直遠

追憶のオランダ(84)Late FridayとBlaak の青空市場

オランダは日本のように店が夜遅くまで開いているということはなく、レストランとかは別にして、通常の日用品などを商っている店は早々と閉まってしまう。ただ、それでは皆不便に違いなかろうが、それはそういう昔からの習慣だから仕方がないと思っているようす。しかし、やはり不便さには抗しきれなかったのか、昔からの慣習を破り、我々が生活をしていた頃にも「週に一度だけ」曜日を決めて夜遅く(確か10-11時頃までだったと思うが)まで店を開けるようになっていた。町によってその曜日は違っていたらしいが、ロッテルダムでは金曜日がそうだった。「Late Friday」といって、この日は店が遅くまで開いているので、私が仕事を終えて一旦家に帰ってからまた家族と一緒に食事や買い物に出かけたものだ。別に買い物をしなくても、まだ店が営業をしている明るい夜の町に家族そろって出かけるのはある種の解放感というのもあり、それはそれでいいものだった。 買い物と言えば、食料品などは近所にあるスーパーマーケットで十分だ。私の住んでいる近所にもアルバートハインというオランダ全国に店を持つ最大手のスーパーマーケットや、デントームという店もあった。しかし、野菜などの生鮮食材などは、毎週市がたつ青空市場によく買いに行ったものだ。場所はロッテルダムセントラムのBlaak(ブラーク)の広場。すぐそばに有名なキュービックハウスなどがある。毎週土曜日には多くのテント張りの店がでる。食料品から日用雑貨、お花、植木等々、ほとんどの生活用品が揃っている。みな対面販売だから、別に買い物をしなくても見物してまわるだけでも結構楽しめる。オランダは多民族国家なので、いろんな国の珍しいものも売られているし、いろんな人種にも出会える。 また、オランダ人は非常に気さくで、店の商品に触っても別に文句を言われることはない。私はそこまではしなかったが、オランダ人は平気であちこち味見をしてから買うこともしているようだった。とてもおおらか。その点では同じゲルマン民族ながら、隣のドイツとは大分違う。ドイツでは勝手に店の商品を触ることはご法度だ。 冬場になると、私はBlaakの市場に出る屋台のベトナムルンピアを食べるのが楽しみだった。ベトナム風揚げ春巻きであるが、香辛料が独特で一度食べてからというもの病みつきになった。その熱々をほう張りながら店を次々覗いて回る。同じルンピアを持った人、フライドポテトの三角の入れ物を持った人、それぞれの匂いを振りまきながらざわざわと雑踏の中をすれ違う。 野菜などは、もちろん少量でも売ってはくれるが、大体はキロ単位でとなる。だから、果物・ジャガイモ・玉ねぎとか買い出すと、あっという間に4-5キロになってしまう。重くなると一旦車まで戻りトランクに放り込んで、もう一度引き返してまた市の雑踏の中をブラブラ見て回る。 いくつかある八百屋の中の一つにとてもひょうきんなオヤジがいた。その人が、先日日本のテレビ局の取材を受けていたらしく、偶然つけたテレビの街歩きの番組に出ているではないか。Blaak 青空市場の有名人だったのだ。しかし、往時の市場の風景もオヤジの姿も残念なことに写真としては全く残してなかった。今はおそらくガラリと様変わりしていることだろう。  

追憶のオランダ(83)4月30日は女王の日

今は「昭和の日」と言いますが、はるか昭和の時代には4月29日は「天皇誕生日」と言っていました。オランダではその翌日の30日が「女王の日」で、祝日になっていました。この日には極端に言えばオランダの国中がオレンジ色一色になる感じで、いろいろなイベントなども催され、お祭り騒ぎで大いに盛り上がります。ご存じかもしれませんが、現在のオランダ王家はオラニエ公ウィレムから始まったことから、オレンジ(オラニエ)色が国を代表する色となっていて、サッカーなどスポーツでもオランダはオレンジ色のグッズを使って応援していますね。 オランダでは4月30日だけは誰もが好きな場所で自由に店を開いてもよく、小さい子供までが町中の道路沿いに好き勝手に陣取って自分がいらなくなったおもちゃなどを並べて店を開いています。日本の天皇誕生日とはだいぶ趣が違うなあと思いました。それで、4月30日というのはてっきり当時ベアトリックス女王の誕生日かと思ったのですが、実はそうではなく、その前のユリアナ女王の誕生日だったのです。また、ベアトリックス女王が即位したのが1980年4月30日でもあったことから、この日を「女王の日」としたようなのでした。その後、私たちが帰国してからのことですが、2013年にベアトリックス前女王の長男アレキサンダー王子が久々のオランダ国王として即位しました。そして、4月30日は引き続き「国王の日」とするはずだったようですが、たまたま彼の誕生日が4月27日ということで、これまでの4月30日に替えて、現在はこの4月27日を「国王の日(国王誕生日)」として祝日にしているとのことです。写真はwikipediaより。 まったくの余談ですが、むかし現国王が王子の頃、ロッテルダム市内の私どもが住んでいた所に程近いところの地名や国鉄・地下鉄の駅名に「Prince Alexander」という名称を付けられていました。だから、国王になったからにはそのままPrinceでもあるまいし「King Alexander」に変えるのかと思っていましたら、そうはせずにただPrinceだけはとって「Alexander」のみとしているようですが、まだまだなじみのあるPrince Alexanderの名称を使用しているところもあるようです。

追憶のオランダ(82)ゼンマイを採る

日本ではあまりやらなかったことを、異国の地にいるというだけで、なぜかやってみたくなるのもおかしなものだ。山里の生活に慣れている人なら春が来ると山に分け入り、春の山菜採りに夢中になるという。都会で暮らしていて、ワラビやゼンマイなどといった山菜は山菜そばとかで時々お目にかかるくらいで、とても自分自身で山で採ることなど思いもつかない。しかし、不思議なことに日本にいたときは都会暮らしだったような人でもオランダまで来てゼンマイを採りに行くのである。オランダは山ではないがうっそうとした林が結構残っていて、そんなところにあるらしい。友人の一人が日本人コミュニティーの知り合いに山菜採りを誘われてからというもの、ある特定の場所に採りに出かけていた。しかし、他の人には決してその場所を教えないというのである。これに似たような話は日本にいた時にも聞いたことがある。高価なマツタケならいざ知らず、たかがゼンマイ・ワラビのたぐい。しかし、自分自身の秘密の場所というのがあるらしい。オランダに来てまで日本流を押し通すのかと思った。 我が女房もその友人に誘われて一度連れて行ってもらったらしいが、ただついて行っただけでその場所がどこなのか覚えるつもりもなかったようで、それ以降自分からは行く気にはならなかったようだ。 これは帰国してからの話だが、今住んでいるところも近くに生田の丘陵が低く続いており、春、桜が咲くころになるとゼンマイが出始める場所があった。それはたまたま桜を見ながら散歩していた時発見した所だ。それで、昔の話を思い出し軽く一握り採ってきたことがある。 採ったゼンマイは重曹であく抜きが必要。塩蔵品とは違い新鮮なものは意外と柔らかくお浸しでも酢の物でも結構いけた。それから数年、桜の時期になると少しだけ採っては楽しんでいたが、数年前にその場所は浄水場関連の大規模改造工事に伴って整地されてしまい、たくさんあった桜の古木も惜しげもなくすべて伐採され、付近のゼンマイのあった場所も同時に完全になくなってしまった。大したことではないが、自分が知っている特定(秘密ではない)の場所がなくなるというのは何か寂しい気持ちがするものだ。そういえば、その近くにはゼンマイよりも早くフキノトウが採れたことも思い出した。

追憶のオランダ(81)KLMからの手紙

読者の皆様は、以前に書いたイースターホリデーの話を覚えておられますか? これからがその「おまけの話」です。 私どもの初めてのイースターホリデーは、最後の段階で飛行機に危うく乗り損ないそうになるドタバタ劇がついていましたが無事(?)終わりました。実際問題、結果的には私ども家族は予定通りの便で帰国できたわけですが、その最終場面たるや楽しい休暇とは程遠いものであったことも事実でした。そこで、私としては一言だけは言っておきたいと、旅行代理店経由でKLM宛に簡単な手紙を書きました。決してクレームをしたわけではなく、事実だけ伝えたかったのです。要旨は、初めてのイースターの休暇は楽しんだものの、最後の段階でのオーバーブック騒ぎのためにせっかくの楽しい気分が一挙に吹き飛んでしまったことが残念だったと。 私自身は、これでこの件は一応終わったと、思っていました。 しかし、それから1か月くらいして、全く予期せぬことにKLMから手紙で返事が来たのです。そこには、せっかくの楽しい旅行を台無しにして申し訳ないという詫びる文章、から始まり、オーバーブックに関するIATA(国際航空運送協会)の規則とかいろいろ理由の説明などが丁寧に書かれていました。驚いたことに、3ページにわたる手紙の中に何度謝罪の言葉が繰り返されていたことでしょう。大体、西欧社会ではそう簡単に謝罪の言葉を使わず、事故の正当性のみを主張するものだとばかり思っていたので、それは意外なことでした。そして最後に、次回の世界のどの地域への旅行の場合でも、窓口でこの手紙を提示してくだされば家族全員のグレードアップを約束します、ということが書かれていたのです。 まさか、私の手紙にKLMからいちいち返事が来るとも思っていないし、さらにグレードアップを約束などとは信じられませんでした。しかし、それから約一年後一時帰国したときにその手紙の効果が窓口で確認でき、改めて驚いたのでした。買っていたエコノミー切符が窓口でビジネスクラスに!この約束は本当だったのです。 小市民の心をくすぐるKLM のサービスなのかどうか私は知りませんが、このようにIATAの規則で許される範囲でのオーバーブックをすることが航空会社の経営の効率化に役立っていて、他の航空会社もやっていることなんでしょうか。この手紙は、記念にと残しておいていたのですが、どこかに紛れてしまって今はちょっと見当たりません。

追憶のオランダ(80)バケツ入りの豆腐

またまた日本食材の話で恐縮だが、日本から生のままで運べないものがある。もちろん冷凍もできない。それは豆腐。海外で生活していて日本人はやはり豆腐が恋しくなるようだ。しかし、冷ややっこで食べられる豆腐を日本からそのまま取り寄せることは難しい。今ではそれも可能なのかもしれないが、当時は難しかった。そこで日本の食品会社が考えたのが、粉末の豆腐粉、これを使って本物に近い豆腐を作れるのだ。それともう一つが、牛乳パックのように紙パックに入った生の豆腐、これはパックをあけるとスルッと生の滑らかな豆腐が出てきて、十分冷ややっこでもおいしく食べられる。ということで、もっぱら豆腐粉による豆腐かパック入りの豆腐を愛用していた。 それがある時、友人経由耳寄りな情報が入った。本物の豆腐をオランダで、しかもロッテルダムの近くのパーペンドレヒトという町で作っている人がいるという。さっそく、試しにその友人に頼んで買ってきてもらった。届いたのは、4-5リットルくらいはあろうか、プラスチックのバケツのような入れ物に、白い豆腐がいっぱい入っている。 蓋を取った時から豆腐特有の大豆の香りがする。一目で、これは豆腐だと思った。 さっそくスプーンで掬って一口、やはり本物の豆腐だ。むしろ、日本でそれまで買っていたパックに入った市販品よりも本物に近いと思ったくらいだ。どんな人が作っているのか尋ねると、日本人ではなかった。なんと中国の人だとか。なぜ、このような日本の豆腐を中国人が作るようになったのか理由までは聞けなかったが、何度か友人に頼んでこの豆腐を買うことになった。しかし、何しろ3人家族には4-5リットルは多すぎる。いかに豆腐好きでも、毎食食べるわけではない。また、保存剤を使っていないこともおいしさの秘密である反面、日持ちがしない。一度は残してダメにしたこともあった。また、この人も注文を聞いてある程度まとまったらその時々に作っていたようだ。だからいつもほしい時に手に入るというものでもなかった。さらに、いつもいつも友人に頼むわけにもいかず、また近いとはいえ、豆腐だけ買いにパーペンドレヒトまで車を走らせるのも、ということでいつの間にか簡便なパック豆腐に逆戻りしていたのだった。でも、あれは確かに本物の豆腐だった。

追憶のオランダ(79)オランダの切手

子どもの頃熱中したものの中に切手の収集というのがあった。もっぱら、日本の切手だったが、たまに外国の切手を友達の間の交換で手に入れることがあり、どんな国なのか興味を持った記憶がある。 一度は熱中した切手収集だが、高校の頃にはその熱は完全に冷めていた。そして、それまでに収集した切手・ストックブックは本棚の片隅で長い休眠に入っていた。 それが、また再び日の目を見たのは子供たちが小学校に入るころだった。この年頃の子供はどうも興味を持つものらしい。仕事の関係で海外からの郵便物に貼られている切手をもらってきた。その頃は中南米・ヨーロッパの国々のものが多かったが、その個性的なデザインに心が再び動き、親の私自身も再び収集することになった。 そして、オランダに赴任。家族が来るまでの間の単身生活の間、休みの日にはあちこちで開かれているマーケットや催しなどを見て回った中に切手の市がロッテルダム市のセントローレンス教会の広場で毎週に開かれていた。その市に何度か足を運んだ結果、今度はオランダの切手を収集してみようということになった。大きな袋に入った封筒から切り取っただけの古い使用済みのものから、ある程度値段が張る古い未使用のものまで。また、いくつかのシリーズものに限定して探したりもした。貨幣価値があまり感じられなかった頃の出費だが、あとで思えば随分無駄遣いのようだった。さらには、1-2年前に発行された比較的新しいものは、郵便局に収集家向けの窓口が毎週金曜日だったか開かれていて、これは額面通りの価格でまとめて購入することができた。 しかし、家族が来て雑用も増えると、それまでの切手収集からは次第に遠ざかっていくこととなった。やはり、暇つぶしであったのか。それでも、新しく発行されるものだけは帰国直前まで定期的に郵便局に足を運んでは買っていた。そのなかで、タイルをモチーフにしたものが発行された時(実は、発行日は1998年1月2日、私の誕生日だった)、秘書の女性が「こんな切手が出たが知っているか?」と実物をもって見せに来た。私がアンティークタイルを収集していることを知っていてのこと。有難うと礼を言って、すぐ郵便局に直行した。下2枚の写真がその切手です。やはりオランダらしい。このデザインは「子供の遊び」の伝統的なモチーフのひとつ「逆立ち」です。

追憶のオランダ(78)高速道路でコンボイに遊ばれる

ある時、高速道路を走っていて大きなトラックの一団に出くわした。二連になったものもいるし、これらのトラックはかなり大きいものばかりだ。そんなトラックの後ろについてしまうと、前が見通せないので、一刻も早くこの一団とは離れたかった。何とか何台かを追い越したもののまだまだ先がいるようだ。しかし、追い越し車線に入っても、すぐ前にも大きいのが立ち塞がっている。しかし、しばらく走っても退いてくれそうにない。真横には、当然壁のように大きい別のトラックが並んで走っているが、私の運転席からはトラックの運転手の様子を見ることはできない。トラックの方は高いところからこちらの動きがよくわかるようだ。後ろはと、ミラーを見るとすぐ真後ろまで大きなトラックがピタリと付いてきている。完全に雪隠詰めの状態が続いた。その間、スピードは100km以上出ている。そのうち、前にトラックが走行車線に戻るウインカーを出したので、前に出られるかと期待したのだが見事に裏切られた。さらに前にも別の大きいのが立ふさがっていて、状況は全く変わらない。トラックの運転手たちは、どうも仲間同士で連携して遊んでいるようなのだ。一台がそれほど長い時間道を塞いでいるわけではないが、ともかく数が多い。同じことを繰り返しながら一台ずつ躱しながら一番先頭に出るまで随分長い時間がかかったように感じた。逃げ場がない状態で、圧迫感をひしひしと感じながら、トラックの連中と同じ速度を保ちながら運転するのは非常に緊張した。おそらく、私の車以外にも、同じように遊ばれていた車もいたことだろう。

追憶のオランダ(77)停電でも交通渋滞にならない

最近の日本では停電ということは滅多に起こらない、ということが当たり前のようになっています。昨年台風の影響で一部の地域が長期間大停電に見舞われたことはむしろ例外中の例外のようにさえ思ってしまいますが、電力事情のあまりよくなかった私の子供の頃はよく停電が発生していた記憶があります。 今でももし停電になるとテレビをはじめとして日頃当たり前のように使っているすべての身の回りの電気製品がとたんに使えなくなり、電力会社に復旧してもらうまで自分自身ではどうすることもできず、ある意味では昔よりも電力に頼りすぎているがために停電時の不便さは増大するかもしれません。まして、それが夜だとしたらなおさらです。 オランダは電力事情がいいと言われていましたが、私のいる時に何度か停電を経験しました。その一回がロッテルダム市の大半が停電する大停電でした。その時は昼間で事務所にいたのですが、室内の照明は消え空調も止まりました。すぐさま予備電源が作動したのですが停電が長引き予備電源もそのうち使えなくなりました。 困ったことは、建物への出入り口が電動になっていたため、停電と同時に閉まったままとなったことでした。つまり、建物の中に閉じ込められた状態です。ビルにある事務所というのは照明が消えると昼間でも薄暗いのです。メインの入り口は閉じたままですが、非常口だけは手動なので出入りはすべてそこから、不便極まりない。さらに、水道も(トイレも含む)使えなくなったことでした。これは、先ごろ我がハイムでも経験したことですね。そこで、外はと見ると信号機などもすべて消えているのですが、交通は思ったよりもスムーズに流れているようなのです。事務所の近くの大きな交差点とかロッテルダムの中央駅前あたりでは大渋滞が発生しているのではと思ったのですが、日ごろあまり聞かない車のクラクションの音が時折聞こえるものの案外渋滞にもならず車は動いているのです。これには驚きと同時に感心しました。そして、おそらく日本ではこうはいくまいと思いました。その大きな理由は「右側優先」の交通ルールがしっかりと定着しているからに他ならないと思われました。たとえ四方から交差点に突っ込んできても、わずかな差で自分から見て右側の車を優先させることで、四すくみ状態が避けられるというもの。すべてこれで片付くということではないと思いますが、信号機に頼れなくなった時でも、このルールがある限り無用な混乱は避けやすくなっているということのようでした。日本にこれを当てはめれば、右ハンドルですからオランダとは反対に「左側優先」というルールを皆が徹底できれば、何かの理由で信号機が作動しなくなった時にも無用の大渋滞はある程度避けられるかもしれません。