森本剛史君との思い出8~森本剛史の10冊

2014年12月8日(月)、森本剛史君を偲ぶ会が、彼が生前勤務していた代官山蔦屋書店Garden Galleryにて開催されました。18:30開場で19:00から始まりましたが、会場は彼と親交の深かった人たちで足の踏み場もないほどに溢れていました。誰とでも気さくに付き合っていた彼の顔の広さが今更ながら感じられました。 受付をすませると、「森本剛史の10冊」と題したビラをいただきました。そこには、生涯を旅にかけた森本剛史が勧める10冊の書名が書かれてありました。65年間生きてきて、彼が絞りに絞った10冊の旅に関する名作リストです。既に読んだ本も多いですが、還暦を過ぎたこの歳になって、改めて読んでみようと思った次第です。以下に紹介しましよう。 森本剛史の10冊 1  百年の孤独 ガルシア=マルケス 新潮社 2  ユリシーズ【1】【2】【3】【4】 ジョイス 集英社文庫 3  夏の闇 開高健 新潮社 4  何でも見てやろう 小田実 講談社文庫 5  西江雅之自選紀行集 西江雅之 JTB 6  Ambarvalia/旅人かへらず 西脇順三郎 講談社文芸文庫 7  世界は一冊の本 definitive edit 長田弘 みすず書房 8  罪と罰〈1〉 | 〈2〉| 〈3〉 ドストエフスキー 光文社文庫 9  坊ちゃん 夏目漱石 新潮文庫 10  ブルックリン・フォリーズ オースター 新潮社 教養を身につけるには、古今東西の名作を読むに限る。「百年の孤独」は南米コロンビアが舞台だし、「ユリシーズ」はダブリンの一日の物語、「ブルックリン・フォーリーズ」はニューヨークのブルックリン地区を背景に素敵な変わり者たちの幸福の物語。すべて旅と関連する本を選んでみた。(森本)

森本剛史君との思い出7~社会人時代・大阪編

大学を出ると、剛やんは東京で、私は大阪で就職しました。社会人となって1、2年目は、誰でも仕事を早く覚えようと懸命に働くものです。商社に入った私は、ちょうど石油ショックのころで景気も良くそのせいか残業も多く、会社と独身寮を毎日往復するだけという忙しい日々を過ごしていました。まして東京と大阪なので会う機会はほとんどなく、会えうのは帰省した時くらいでした。 大阪での久々の再会 社会人となって3年半経ったころに私は結婚して吹田市の社宅に住んでいました。ある日のこと、久しぶりに剛やんから連絡があり彼の奥さんを同伴して我が家を訪ねてくるというのです。もちろん大歓迎で再会を喜び合ったのはいうまでもありません。それまでのお互いの無沙汰のすきまを埋めるようにして飲むビールの味は格別の旨さでした。聞くと、新婚旅行を兼ねて再び世界一周の旅に出る直前でした。相変わらずの行動力で学生時代と少しも変わらない若々しさにまた刺激を受けました。 久しぶりの再会を喜び、二人を送り出してからまもなくして私の人生においての大きな波がやってきました。それは、勤めていた会社の合併と義父の経営する会社の倒産、そして義母の難病罹患でした。とてつもない大きな波が一挙に押し寄せてきたのです。自分の勤める会社が吸収合併されて、首切りが始まり全社員の10分の1しか残れないという状況の中、明日の生活に不安を抱えた毎日でした。 残れる確率が10%という戦々恐々とした日々を過ごす中、一人二人と去っていく同僚たちを見ながらさて自分はどうしたものかと考えていました。まだ20代だったので、年配の社員より少しは可能性はあると言われましたが、団塊の世代で景気のいい時の大量採用により同期入社の社員も大勢いました。そのうち私にも、ある大手酒造メーカーからサンフランシスコに出す新しい事務所の駐在員を探しているのでどうかという話が舞いこんできました。 この話は学生時代から抱いてきた夢を叶えられる非常に魅力的な話でしたが、種々の理由から断念しました。また、義父からはこの際、自分が経営する会社へこないかという誘いがありましたが、考えた末これも断りました。結局は、最後まで10%の確立にかけてみようと、もし駄目なら、言葉は悪いけれど日雇い人夫をしてもいい、何でもやると開き直って心に決めると何だか胆が座った感じで少し落ち着きました。ただ、妻は自分の実母の病のこともあったのでもっと苦しかったと思います。 結果は、何とか残留組に入ることができ、新会社の名古屋支店勤務が決まりました。しかしほぼ同時に、義父の経営する会社が倒産し、義母の難病にかかっていた高額なヘルパー代が払えなくなりました。致し方なく、妻が母親の看病につくことにし、当時1歳だった長女を新宮の実家に預かってもらうことにしました。一難去ってまた一難、ふたつの会社の倒産、重病、転勤、別居と続きましたが何とかなると思うほかありませんでした。 大阪を出るとき、妻と「この三重苦を乗り越えられたら、その先にはきっといいことがあるから!」とくじけないで頑張ることを誓い合いました。親元とはいえまだ1歳だった娘は元気にやっていけるだろうかと心配はつきませんでしたが、妻も母親の看病によく頑張ってくれました。 ちょっと自分の話しが長くなり、剛やんの話が出てきませんが、この頃は、旧交を温める余裕がなかったからかもしれません。しかしこの名古屋転勤がきっかけとなってまた、意外なところで彼と再会することになるのです。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出6~大学時代・教育実習

こうして森本君と私は、高校時代まではよく顔を合わせて一緒に何かをするということが多かったですが、大学に入ると会うことすらほとんどなくなりました。自宅から通っていた高校までの生活とは違い、大学に入るとまずはそれぞれの土地での新しい生活に慣れなければならない。会う機会と言えば、お互いがたまに帰省したときくらいになりましたが、久しぶりに会って近況を報告し合うのも楽しいものでした。なかでも忘れられないのは、私が城南中学校で行なった教育実習でした。 教育実習 私は、かねがね英語を使う仕事、海外へ行くチャンスのある仕事をしたいと思っていました。とりあえず教員免許を取得しておこうと思い関連の単位はすべて取得していました。3年生の時に教育実習があり、実習をする場所は自分の故郷でもよいということだったので、迷わず自分が卒業した城南中学校を選んだのです。 久しぶりに、自分の母校にやってきて英語を教えるということは何だか不思議な感覚でもあり、また楽しいことでもありました。教えた生徒の中には、自分の弟や剛やんの弟(現新宮市観光協会専務理事)もいました。実習では、英語が苦手な生徒に、ちょっとした関心を持って取り組めば、それほど苦労しなくても楽しく覚えられるコツを伝えたく思い実践しました。 その頃、剛やんの家(森本薬局)では、AFSの交換留学生としてアメリカから新宮にやってきた女子生徒を受け入れていました。名前は、Pamela Ann Napierさん=パムちゃんで、剛やんの妹さんが同級生でいろいろと彼女のお世話をしていました。ふと思いついて、このパムちゃんが学校にきてくれたら、生徒たちもいい体験ができるのではと思ったのです。 頼んでみると、快く引き受けてくれました。ある日の放課後、私は学校の図書館を借りて、パムちゃんと生徒たちとの懇談会を開催しました。パムちゃんは、さすがに交換留学生で、社交的でいろいろと生徒たちに話しかけてくれましたが、生徒たちは恥ずかしさもあってなかなか話ができないでいました。生徒の殆どが外国人と初めて話をするという状況だったので無理もありません。前もって質問を用意して練習しておくなど、もう少し準備をしておけばよかったと思いました。なにせ、実習期間が2週間だったので、その時間がなかったことが残念でした。 その後も、パムちゃんとは、森本きょうだいと一緒に海に泳ぎにいったりと、自分も楽しいひとときを過ごしました。昔も今も、新宮では外国人を見かけることは少ないように思っていましたが、熊野古道が有名になってからは、訪れる外国人が増えて少しは出合う機会も増えているようです。若い人は外国語を身につけてどんどん世界へ進出していってほしいと思っています。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出5 ̄高校時代・英会話

蓬莱小学校、城南中学校と進み、森本君と私は当然のように新宮高校に入学。市内ではあるが少し距離があったので自転車通学ということになった。このころになると、将来の進む道も少しは考えるようになるものだろうが、奥手というか子供だったのか私はそれほど真剣に考えたことはなく、ただ漫然と英語を生かせる仕事につきたいと思うようになっていた。 英会話 小さい頃、父親に教えてもらったことはたくさんありましたが、将棋のほかに特に興味を引いたのがA、B、Cという見られない文字でした。何故か興味を覚えた私は、比較的早くアルファベットを覚えてしまいましたがその後何をどうすればよいのかわからずにいました。小学校6年生になってようやくそのチャンスが巡って来て、町の英語塾に通うことになったのです。 これが何故か楽しくて、当時学校で借りて読んでいたシャーロック・ホームズもいずれは原書で読みたいと思い始めていました。後に、Sherlock Holmsを英語で読むことが実現し、更にはホームズが住んでいたことになっているロンドンのベーカー街221bを訪れさえしたのです。塾の石垣先生(実は高校3年の時のクラス担任でもある)もちょっと変わった面白い先生で益々英語に魅かれていきました。 剛やんは、私よりももっと早く目覚めて英語に強い関心があり、当時、有名だった松本亨のラジオ英会話を勉強していました。リンガフォンとかの専用テープ(当時はCDではなくテープやソニックシートが一般的だった)もありましたが、高額でとても手に入る代物ではありませんでした。その点、NHKのラジオテキストは数百円だったので小遣いでも買えるので、よし僕もと思ったのです。 外国に行ってみたい、英語を不自由なく話せるようになれば外国人と何でも語りあうことができると、他の勉強はさしおいて英語だけに興味が集中していたころでした。例によってまた剛やんの登場です。 高校ではESSに所属していましたが、学校内では外国人と話す機会は皆無でした。高校のすぐ近くにテレジア教会かあり、それに隣接して幼稚園がありました。そこに教会があることは知っていましたが、信徒でもない自分が教会に足を踏み入れるという発想はゼロでした。そこが、剛やんの発想の違うところで、外国人の神父さんがいるのだから行けば英語で話しができるので利用しない手はないというのです。(写真はESSメンバー。真ん中が森本、左が私) これまで彼の言うことをいろいろと一緒にやってきて楽しいことは多かったけど、後悔するようなことはありませんでした。こうして教会通いが始まりました。土曜日だったか、日曜日だったか、数人のグループで毎週通うようになると神父さんもわれわれの訪問を快く迎えてくれました。今なら幼稚園児がやっているようなことを私たちは高校生になって始めたのです。 当時、その教会には、イギリス人のベテラン神父さんとアメリカ人の若い神父さん(多分修業中)の二人がいました。行くとまず、聖書に書いてあることの勉強を少しして、あとは会話をしたりゲームをしたりで楽しい時を過ごしました。手と膝をたたいてリズムをとりながら、自分の役割名と誰かの役割名を続けて言う「大統領」というゲームがありました。名前を言われた者は、即座に反応して同じように言わなければいけないというものでした。 日本語でもあるこのゲームの役割名を英語に変えて省略したものを用いました。大統領は「President」なので、略して「Pres」、書記は「Secretary」なので「Sec」というように。ちょっと頭を使うようで難しいと思うかもしれませんが、要は、慣れの問題でした。そうやって、日頃外国人と話すというチャンスがなかなかない新宮の町で、全く新しい世界が始まりました。 時には、若い神父さんと一緒に電車に乗って遠出して(阿田和だったと思う)、ボーリングをしたこともありました。このようにして高校時代もやっぱり剛やんと関わりながら過ぎていきました。この神父さんとの付き合いで、自分の英会話能力が向上したとは思いませんが、少なくとも、外国人と面と向かって相手の目を見て話をするというある種の度胸のようなものは確実に身についたように思います。怖気づくことがなくなりました。 英会話の方は、中学生にあがった頃から、剛やんがやっていたラジオ英会話(松本亨先生)、その後テレビ英会話(初級が田崎清忠先生、中級が同時通訳者で後、参議院議員となった國広正雄先生)と移り、続けて受講していました。後々社会人になって貿易の仕事で英会話が必要になった時、この頃に覚えた例題の決まり文句がすらすら出てきたのには驚きました。やはり無駄ではなかったと思いました。そこそこしゃべれるようになったのは、剛やんからの刺激のお蔭だと思っています。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出4~中学校時代・授業で先生をいじめる

授業で先生をいじめる(「いじる」のほうが正解か?) 私は好奇心が強くどんなことにも興味があったので、学校の授業自体は嫌いではなかった。ただ、家に帰ってからの予習や復習が嫌いでまずしたことがなかった。自由に好きなことができる時間がなくなるからだ。その代わり、成績が悪いと言われるのも嫌だったので授業中は集中して真剣に聞くことだけは実践していた。(いじめることになるN先生から授業中の目つきが鋭いと言われていた) ある日、剛やんがやってきて、「とっちゃん、ちょっと面白いことを考えたんやけど、どうやろ?」という。「なに?」と身を乗り出す私。今度はどんな提案か興味津々で聞いてみるとそれは、これまでにはないちょっと変わったものだった。国語のN先生の授業の時に、数名で質問攻めをすれば、1時間のその授業を潰せるのではないかというものだった。要は、真面目な生徒を演じながら授業の邪魔をしようという魂胆なのだ。 丁度その日の時間割に、N先生の授業が入っていたのでさっそく実行に移したのです。授業が始まってすぐに、剛やんがまず、「先生、前回の授業についての質問があります!」と手を上げた。このように、受け身ではなく自分から積極的に質問してくる生徒を特に評価している先生だったので、もちろんこれに答えて熱心に説明を始めた。ある程度、やり取りが進んだころを見計らって今度は私が手を上げて意見をいう。この辺りは阿吽の呼吸というやつだ。同じように、次は例の森君が続ける。 この時の授業内容は、「・・・は」「・・・が」などの助詞についてであった。(60年近く前の話だが、まだ覚えている!)「断定の助詞はどれか」という話題で意見を言い合った。これを繰り返して結果は大成功!とうとう新しいところには進めず授業をまるまる潰した結果になったので、3人は英雄気分で大満足!今なら、ハイタッチというところだろうか。先生には少し気の毒なことをしたが、若気の至りで反省しつつも、一方で忘れられない楽しい思い出となっている。その後、何年経ってもこの話題を出してはそのたびに大笑いした。(今の時代なら逆いじめで問題になりそう) これまで、いろいろと彼の提案したアイデアに乗ってきたが、今回のようないたずらっぽいものはこれが最初で最後だった。その先生に恨みとかがあるわけではなく、ただ、面白がって、ほんとうにできるかどうか試したいという軽い気持ちなのだ。そしてこのイタズラが、職員室では、あのクラスは真面目で熱心な生徒が多く素晴らしいと評判をとったのだからわからない!きっと読者の中にも同じような経験があるのではないだろうか。 私は、このような遊びを含めたすべての行動のアイデアが、彼のどこからどうして湧いてくるのかを考えてみた。結論は、彼が読んだ様々な本から来ているのではないかと思っている。彼は本好きで、どこに行くにもいつも片手に本を持っていた。それに私と会うと、いつもまず最近読んだ本の話をした。このことは学生時代から社会人になってもずっと変わらなかった。 森本君が世界一周の旅に出たのも、小田実の「何でも見てやろう」がきっかけだったし、まさにその精神で、100か国以上もの外国へ出かけていって何でも見てきたのであろう。森本剛史を作り上げたのはまさしく「本」だったような気がしている。もちろん、本を読んでも理解力と吸収力とが必要であるし、それを実戦に活かすことができるかどうかはまた別の能力が必要であろう。旺盛な行動力とその活かし方に秀でていたのが森本剛史だったと思うのだ。 小学校時代の話に戻るが、私は本を読むことよりも体を動かす方が好きな子供だった。放課後はほとんど毎日、ソフトボール、それもクラスのチームと別の草野球チームに所属していた。人数が集まらないときは相撲だった。栃錦と若乃花が活躍した栃若時代の真っただ中だった。クラスの番長で体の大きい原君とはいつも勝負していた。コンクリートの階段の角におでこをぶつけて3針縫う羽目になった、しかも原君と私と同じ部分をお互いに一度ずつ。 読んだ本の冊数では絶対に完敗している。 ~つづく~ 西 敏    

森本剛史君との想い出3~中学校時代・クラブ活動

森本君とは、小学校4年生から別のクラスとなり、中学校でまた一緒になったりしたが、家が比較的近かったこともあり会いたければいつでも会えた。お互いに他にも新しい友達ができ、常に一緒にいたわけでなかったが、何かあると声がかかるという関係はずっと続いていた。今回は中学時代の話である。 クラブ活動 城南中学校へ進んでからは、お互いにクラブ活動に力を入れるようになり、会う時間は減っていった。森本君はバスケットボール、私は野球に夢中になった。その昔、新宮高校野球部は甲子園で”古豪”と呼ばれた時期があり、高校野球ファンには平安高校や北海高校と並んで全国でよく知られていた。そんな過去の栄光もあり、練習といえばそれは厳しいものがあった。 毎朝、5時過ぎに近くの小高い山「蓬城山」に集合して、山道の階段を何十回と上り下りして走る。別の日には、大浜に集合して砂浜を1時間ほど走る、走る。私は身体はそれほど大きくはなかったが、運動神経には少々自身があり、小学校の少年野球(実はほとんどがソフトボール)では常にピッチャーで4番だった。意地もあって、1年生の春から毎日の猛練習に耐えて抜く覚悟でいた。 そんな頑張りにも限界があり、半年後の秋に実施された健康診断で非情な結果が待っていた。新入部員の1年生(20名くらいいたと記憶している)のうち私を含め9名が全員、急性腎臓病と診断され、即クラブ活動を中止せざるを得なくなった。これ以上やると本来の勉学に差しつかえるというのが理由だった。こうなると本人よりも親が反対する。こうして甲子園への夢は絶たれた。 昭和33年、長嶋茂雄が颯爽とプロ野球界に登場し、その大活躍で日本の全国民の目をひきつけていた。そして、新宮高校の前岡投手はあの金田投手の再来といわれ一世を風靡したのだ。甲子園で流れる校歌も素晴らしいなどと持ち上げられたりもした。そんなこともあって、地元の野球少年はみんな憧れをもって野球部に入り、練習がどれだけきつくても音を上げず、甲子園を目指して懸命について行ったのだった。しかし残念ながら前岡投手はプロではその才能を発揮することができずやがて忘れ去られていtった。 急性腎臓病、若年性高血圧症、ネフローゼ症候群などと診断された私は、尿にタンパクがたくさん出てしまう結果、身体のあちこちにむくみが出るようになった。向う脛を指で押すと、押した部分だけペコンとへこんで暫く元に戻らないという症状が典型的だった。以後、食事療法として塩気のものを食べられずに嫌な思いをしながら悶々と時を過ごした。 そんな状態が半年以上続いて、少し良くなった頃、運動好きだった私はめげずに今度は卓球部(野球部よりは少し軽めで楽だと思った)に入り卒業まで続けた。森本君はバスケットを続けていて、同じ体育館だったので、「おー、やってるな」と時々確認し合うような感じだった。ただ、クラブ活動に専念するあまり時間的な余裕がなくなり、小学校のときのようにいつもつるんで歩くということはなくなっていた。 天文部創設 そんな忙しい日々を過ごしていたある日のこと、剛(たけ)やん(みなずっとそう呼んでいた)が、当時城南中学校にはなかった天文部を創りたいと持ちかけてきた。そういえば、一度、校庭に天体望遠鏡を据えつけて、夜、希望者に星を見せるというイベントがあった。たしか、土星の輪っかがかろうじて見えるなどと騒いだことがあったような気がするがはっきりとは思い出せない。 思うことを何でもやってしまうのが剛やんの得意とするところ。提案してくることが何故か私にも興味のあることが多く、ついそれに乗っかることになる。結局、もう一人、クラスメイトの森誠君を加えて3人で城南中学天文部を結成!当時、森君の家が相筋というところにあり、町の灯りからはちょっと離れて夜になると真っ暗になる場所だったので、夜空の観測にはもってこい。徹夜して、星の移動写真を撮ったりした。 星の移動写真を撮る方法は、三脚にセットしたカメラのレンズを空に向け開放(バルブ)にしておいて、学生帽で蓋をする。一定の時間ごとに学生帽の蓋をさっとはずしてまた閉じるという原始的なやり方だった。これが結構うまくいったので、市が主催した何かの展示会に、太陽系の惑星の位置模型を作り応募した。冬場の徹夜観測は凍えるほど寒いので、あまり痛くない柔らかめのボクシンググラブをはめてお互いがプロボクサーの真似事をして暖まった。 部としての活動は結局大したことはしなかったが、何せ「無」から「有」を作ってしまうところが森本君の行動力の凄いところ。今、城南中学校に天文部はあるのだろうか? ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出2~ブラジルに渡った1年5組の級友

2011年秋、故郷新宮で合併のため間もなく閉鎖となる蓬莱小学校の同窓会が開かれました。卒業以来ちょうど50年になる年で初めての同窓会でした。幹事から開催の連絡を受けた私は、閉校と言う言葉に寂しさを感じながら、一も二もなく参加を決めました。 閉校に伴って発行された記念誌「ふじだな」には、森本剛史君が書いた文が、卒業生のメッセージとして掲載されていました。彼は、東京でトラベルライターとして活躍する先輩の一人として新宮高校でも公演を行ったこともあり、原稿の依頼がいったものと思われます。 内容はブラジルに渡った1年5組の級友についてのエピソードでしたが、当時、遠くアメリカやブラジルへの移民団が新天地を求めて海を渡ったことが思いだされます。旅立ちの日、クラスの仲間が新宮駅まで見送りに行きました。幼な過ぎて移民と言う意味がよくわからないまま、ただ友とのわかれが寂しかったものです。 私自身は、数か月後にブラジルに渡った女の子から一通の手紙を受けとりました。大半は忘れてしまいましたが、「お元気ですか?ブラジルでは、お父さんのことを「パパヤ」お母さんのことを「ママヤ」といいます。」と書かれた言葉だけは今でも鮮明に覚えています。大きく乱れた子供の字でしたが、友と別れた寂しさが滲み出ていました。 森本君の書いた文章の最後の部分で親しかった友人として私の名前が紹介されていました。このことは彼から直接聞いておらず、見つけた私の姉から知らされました。仲がよく小学校から高校までずっと行動を共にしていたことの表れだと思います。ここでは、その文章をそのまま紹介します。 ー--------- ブラジルに渡った1年5組の級友 蓬莱小学校 昭和35年度卒業生 森本剛史 「俺よう、来月ブラジルへ行くんや。」蓬莱小学校校庭で、三角ベースの野球を楽しんでいたときだった。1年5組(担任は、榎本玲子先生)の同級生、堀切君が突然こう言った。「移民やろう?」と僕は切り替えした。「うん、家族全員で神戸からな。ブラジルのサンパウロへ行くんや。」昭和30年代初頭のことだった。 熊野地方は、明治時代から移民が盛んだったので、堀切君が突然地球の裏側へ行くと言っても、それほどびっくりすることではなかった。まわりを見渡せば、どこそこのいとこが、ブラジルでコーヒー栽培をして大成功しているとか、という話をよく聞いていた。 1976年、新婚旅行を兼ねて9か月間世界一周をしたとき、サンパウロに立ち寄った。日本人街を歩いているときに、ふと堀切君のことを思い出した。そうや、彼が移民でやって来たのはこの街や。僕はさっそく和歌山県人会へと足を伸ばした。たくさんの和歌山県出身者がサンパウロに住んでいたので、県人会館も立派な建物だった。 県人会館で事情を説明し、名簿を見せてもらったが彼の名前はなかった。担当の人は、それなら「串本」という日本食レストランへ行って聞いてみたら。あそこのおばあちゃん新宮の出身と聞きましたから」と言ってくれた。 「串本」で久しぶりの和食を食べ、店を切り盛りしていたおばあちゃんに堀切君のことを尋ねて・・「堀切ねえ、聞いたことない名前やねえ。それやったら新宮出身で故郷の人脈に詳しいAさんのとこへ行ってみたら、どうかいのう。」とアドバイスされた。 結局、4軒の熊野出身者のお宅を訪ねた末に、彼の勤務先がわかった。サンパウロ最大の青果市場の中の花屋さんで働いているという情報だった。その翌日、僕は市場に向かった。彼は僕のこと、覚えてくれたるかいね。ちょっとしかクラス同じやなかったさか、多分僕のこと知らんやろね。そう思いながら市場に行くと、が~ん、市場は休みの日だった。翌日早朝、サンパウロからイグアスの滝に飛ぶことになっていたので、結局彼とは会わずじまい。でもいつかは会えると信じよう。 もうひとつ、多分蓬莱小5年生のときだったと思う。担任は南良一先生だった。クラスメートの下部さんが、家族でロサンジェルスに渡った。彼女は阿須賀神社の近くに住んでいた。 ロサンジェルスにグルメの取材に行ったときのことだ。高校時代のクラスメートがロスに住んでいて、彼に連絡を取り久ぶりに旧交を温めた。彼と話していると新宮人で蓬莱小学校出身の女性を紹介してやるということで、会ったのが下部さんだった。何たる奇遇。小学校時代はふっくらとしていたが、実際の彼女はほっそりとしていて、美人になっていた。 蓬莱時代の友達の話で盛り上がったが、僕のことはほとんど覚えていなかった。でも、僕の実家の前の山中善行君のことはよく覚えていて、少しがっかりした思い出がある。 僕は還暦を過ぎてはや4年。まだまだ現役で仕事をしているが、仕事の合間の楽しみは故郷の仲間と会うことだ。蓬莱時代の友達では、伊藤忠を定年退職した西敏君、白百合女子高校でフランス語を教えていた稲垣雅子さん、イトーキに勤めていた榎本善行たちがいる。会えば故郷の話。故郷は遠くにありて思うもの。でも蓬莱小学校が廃校になるのはやはり寂しい。 ー------------------------- (これは、森本剛史君がまだ元気だったころに書いた文章で、読むと懐かしさと共に先に逝ってしまった寂しさが募ってくる。) 西 敏 ~つづく~    

森本剛史君との想い出1~出会い・小学校時代

私の親しい友人であった森本剛史君が2014年9月22日、闘病むなしく亡くなって7年になります。生前、彼は、代官山蔦屋書店で、旅行コーナーのコンシェルジュとして多くのファンを集め、大人気を得ていました。書店勤務を始める前は、フリーのトラベルライターとして世界100ヶ国以上を巡り、数々の旅行情報を世に提供していました。一例をあげれば、一時東北新幹線の車内におかれたパンフレットに三内丸山遺跡についての記事がありましたが、これも彼の手によるものでした。 豊富な経験を生かして蔦屋書店のコンシェルジュとなった彼は、まさに水を得た魚のごとくでした。彼の訃報は毎日充実した日々を送っていた矢先のことで、私にとって大変大きなショックでした。小さいころから一緒に遊び、学び、還暦を過ぎるまで60年近い年月を友として付き合ってきた彼は、私の一生に少なからざる影響をを及ぼした人物で想い出は泉のように湧き出てきて尽きることはありません。 ふと思い立ち彼との想い出を少しばかり書いてみようということになりました。まず思い出すのは、若いころ「将来は古本屋のおやじになりたい」と彼がよく言っていたことです。君は、古本屋どころか大書店の一角を任されるという大任を果たしたのだから、今はそちらで、案外満足しているのかも知れないね。君のことを少し書くので見ていてほしいと思います。 ①小学校時代 昭和30年4月、蓬莱小学校に入学、クラス分けが行われて私は1年5組に入りましたが、同じ組に森本剛史君がいました。担任は榎本玲子先生といって若くて美しい先生でした。 剛やんは市内で薬局を経営する森本薬店の長男で近所でも元気で評判の子供でした。一方、私の父親は国鉄に勤務し新宮駅の電信室で毎日トンツー・トンツーとモールス信号を打ちながら地道に一家を支えるサラリーマンでした。 違った環境で育った二人でしたが何となくウマが合って親しくなるのにさほど時間はかかりませんでした。クラスは3年生までそのまま持ちあがりとなったこともあり、放課後は彼と遊ぶことが増えていきました。 彼はとても明るくて人見知りをしない、そして人一倍好奇心の強い性格でした。好奇心の強いところが私と似ていてそれがお互いに引きあった要因だったかもしれません。今日は何をして遊ぼうか、つぎつぎと新しいことを提案してくるのです。 ある時は、ウクレレを弾き、ある時は本を読んだ影響で催眠術に興味を持って弟にかけてみたりと行動範囲に際限がありません。彼の影響で、私も後にウクレレを弾き、やがてギターへと興味が続いていきました。 ~つづく~ 西  敏 (小学校6年生)

新加坡回想録(61))カマル・クチル

シンガポールの国土面積は2017年現在で、721.5㎢(平方キロメートル)です 。東京都区内の面積(2019年現在、627.57㎢)より少し広いだけで国としてはいかに小さいかがわかります。世はグローバルの時代と言われて久しいですが、国内資源を持たないシンガポールは独立以来、貿易・金融立国としてその地位を確立してきました。 ここでの駐在の仕事のメインは、やはり金融や世界中の国々との貿易が主体となります。穀物・食品を担当していた私は、特に近隣の国へ出かけるのが常でした。隣国インドネシアの首都ジャカルタへ出かけた時に聞いたちょっと面白いエピソードを紹介しましょう。 某商社の若手社員であるA君は、仕事もできて性格も明るい将来を嘱望される存在でした。入社数年目で担当の仕事も率なくこなしていたA君に、ある日、海外赴任の命令が下されました。駐在先はインドネシアの首都ジャカルタ。願ってもない話にA君は、事前の語学研修にも張り切って望み、短期間の間にみるみる上達していきました。 さて、ジャカルタ支店に赴任したA君は、新たに覚えたインドネシア語が通じるのがうれしくてたまりません。赴任後すぐに現地の人とのコミュニケーションがうまくとれたのですっかり自信をつけ、順調に仕事をこなしていきました。ある日、日本から出張してきた得意先を夕食に案内することになりました。いつも贔屓にしているレストランに電話して席を予約せねばなりません。今回の得意先は3名で比較的少人数だったので、小さな個室を予約しようと受話器をとりました。 A君は、電話口で大きな声で「カマル・クチル」を頼みました。インドネシア語で、「カマル」は「部屋」、「クチル」は「小さい、狭い」です。日本語と違い、修飾語である形容詞は後にくるのでこのような順序になります。みなさんご存知の「ナシ・ゴレン」も同様です。赴任前によく勉強したA君は、このへんの文法もよく承知しており、自信を持って予約したはずだったのですが・・・。 インドネシア語は、比較的習得しやすい言語です。何故なら、言葉の数が少なく覚える単語が少なくて済むからです。その代わりに、1つの言葉で複数の意味を表すようになっています。例えば、皆さんもよくご存知の「JALAN(ジャラン)」という言葉は、「道」という名詞であり、「行く」という動詞にもなります。二つ重ねて「JALAN JALAN」といえば「散歩する」になります。また、動詞の時制変化はありません。「食べる」も「食べた」も「makan」でOKです。 さて、レストランに予約の電話を入れたA君、どうなったのでしょうか? 電話を受けた途端、レストランではみんな吹き出して爆笑の渦となりました。何と、「カマル・クチル」とは「トイレ」のことだったのです!A君は、「トイレ」を予約したのでした。A君の耳は真っ赤になったのはいうまでもありません。「小さな部屋」で「トイレ」、聞いてみると納得ですが、知らないということは、恐ろしくもあり、可笑しいことですね! P.S. それでは、「小さな部屋」はどういえばいいのでしょう?「kamar yang kecil」(カマル・ヤン・クチル)です。 (西  敏)

新加坡回想録(60)ホールインワン2

この記事の題名を見ると、えっ!またやったの?とお思いの方がいるかもしれませんが、そうではありません。この事件(?)があったあとの事後報告というか後日談といったところです。 前回、私がホールインワンを達成したことを書きましたが、それに関しての話を少し追加します。この Raffles Country Club は、当時私が駐在していたシンガポールに新しくできたゴルフ場で、メンバー募集の時は人気が高く抽選となっていました。日本人の多くが応募しましたが、当選した人はごくわずかでした。この日の同伴者の一人が、運よくその抽選に当たりメンバーシップを手にしていて、彼の紹介でプレーしたものでした。 新しくできたということは、古いコースと違ってプレーした人数も、回数も当然ながら少ない。ということは、そうなんです。このゴルフ場での最初のホールインワンは私が記録したのです!クラブのマスターにも確認しましたが、それまでにホールインワンを達成した人はおらず、この事実に間違いはありませんでした。 となると、このゴルフ場が続く限り未来永劫、私の名前が残るということになるのではと同伴者の3人が騒ぎ出したのです。私自身は、やってしまったことに自分で驚いてしまってそこまで頭が回りませんでした。その3人はクラブのマスターとしきりにそんな話をしていましたが、結論をいうとそうはなりませんでした。 何故かというと、その日はまだ、オフィシャルオープンしていない期間だったのです。もし、オフィシャルオープン後であったら、確実に記録に残ったでしょうとマスターは言っていました。残念!ということで、会報で少し触れられただけで終わりました。 ついでに後日談をもうひとつ。このゴルフ場の募集価格は、日本円で100万円ほどでした。私を含めて多くの日本人が応募したのですが、抽選で当たった人はそれほどいませんでした。その数年後、なんと10倍の1000万円まで高騰したのです。当時はバブル景気の真っ最中でした。同伴者の1人U氏はまんまとこの幸運をゲットしました。 嗚呼、ホールインワンの思い出よりも、こちらの方がどれほど良かっただろうかと今更ながら思う今日この頃です。 (西 敏)