フランスあれこれ(12)聖アントニオ像

日本のバブルが最高潮の頃2回目のフランス駐在でパリに赴任しました。パリ在住の日本人もバブルに浮かれ、週末になるとたむろしてゴルフ場に行ったり、集団で行動することが多く見られました。丁度その頃イラクがクエートに侵攻、中東戦争の始まりです。欧州の景気はこれを機に転換期を迎えましたが、日本はアジアの時代だとバブルに突っ込んでいきました。私はこの機会に日本人仲間と距離を少しおくことにして、以前から興味を持っていたヨーロッパ古典技法のステンドグラスを勉強することにしました。 初めてのステンドグラスはシャルトル大聖堂*の「ベルばら」の部分のまたその一部分でした。大半は先生の手になる作品で私の作品と言うのも聊か憚られるところです。(作品は色々意味のあるところですが、聖者が民衆を怪獣=外敵から守るというものです)以来我が家の居間で私共を見守っていました。 (*シャルトルはパリの西南約90km、大聖堂は1220年建立の世界遺産。ローマ時代の神殿跡に作られた。ステンドグラスはとくに有名でその聖地とも言われる。フランスの一大観光地です。) ある日私どもの事務所の女性スタッフがご夫妻で我が家に見えたのですが、このステンドグラスを見て、後日一つの聖者像が我が家に届くことになります。古いものを沢山コレクションしていることは聞いていたので特別の詮索もなくお預かりしたつもりでいました。簡単な聖者像の説明も伺ったかと思いますが長く記憶から消えていました。以来数年間のパリ生活を見守られ、やがて日本に帰ることになった折、この像は是非とも日本に連れて行ってほしいと言われました。私は我が家の守り神のように親しんできた像でもあり、また別れも惜しく有難く頂くことにしました。 日本に帰って二十年近くなって自分の年を考え、この像の将来についてふと思いを巡らすことになりました。同僚のクリスチャンに相談したところ、日本は清教徒の教会が主流でいわば偶像の崇拝はしないと冷たくあしらわれました。以来カトリックの教会を探してあちらこちらと相談して回ることになりました。渋谷の近辺で数軒の教会を巡りましたが正直冷たく断られ、一度はこっそりと教会の礼拝堂の片隅にでも置き去りにすることすら考えました。 ある日横浜の山手を散策していた時です。目の前に「カトリック山手教会」の文字が目に入りました。幼稚園なども運営する大きな教会です。子供のお迎えに見えていた若い奥さまに事務所の所在を伺い、早速にお尋ねしました。簡単に事情を説明、持っていた写真をお渡しして帰宅しました。我が家に帰った丁度その時電話が鳴りました。先ほどの事務所の方からでした。 「教会のシスターに相談しました。写真の像は聖アントニオで、この聖者像の行くところは日本ではただ一か所、それは世田谷の聖アントニオ神学院です。」住所などいろいろと教えて頂きましたが、この時私の肩にずっしりとのしかかっていた重い荷物が天国に舞い上がった気分になったことは間違いありません。正直ほっとしました。 一言、私はクリスチャンではありません。 聖アントニオはリスボン(ポルトガル)で貴族の子として生まれ、清貧にして秀才と言われます。貴族の世襲より清貧を選び、スペイン、フランスと精力的に布教に尽力しました。中でも聖フランシスコに共鳴しました。聖フランシスコはサンフランシスコの名前の渡来でもある聖フランシスコ。この人も裕福な貿易商人の息子ながら家業を継がず、清貧を旨とした活動で知られています。 カトリック山手教会は日本最初のカトリック教会です。当初は1862年横浜居留区に「横浜天主堂」として建立されましたが、市街化が進み現在地に移転、その後関東大震災の後再建されたものです。(左) 聖アントニオ神学院はカトリックの神学校ですが教会もあり、寄宿舎も完備されています。1952年現在地(東京・瀬田)に創立、聖フランシスコ会の神学校です。(右)

フランスあれこれ(11)日仏交通事情

日本人は横断歩道の信号をよく守っている、実に優等生だ。でも右からも左からも全く車の見えないときなど私にはチョット違和感を覚えます。郊外の車の少ない交差点でも信号が赤だからという理由だけで横断しない。フランスではそこにポリスが居たとすれば、そのポリスは今の内に渡りなさいと言うだろう。 この交差点の信号の変わる時間が日本では非常に長い。多分フランスの倍近い時間ではないだろうか。皆さんは信号待ちでイライラしませんか。(参考までにアメリカはフランスよりもっと短い) 交差点で黄色のランプが点灯すれば日本では車のアクセルを踏んでスピードを上げて交差点を通過する。もたもたしていると後続の車に衝突されかねない。向こうでは黄色になればすぐストップ出来るように、交差点近くでは予めスピードを落としているのが普通だ。信号の変わる時間の長さが影響しているように思う。 フランスでは右側優先、日本は確か左優先だったと思う。思うという事は現在の日本ではあまり必要でないからだろう。信号のない、そして聊かでも危険と思われる交差点には「止まれ」と道路に書いてある。日本のポリスが物陰に隠れて違反者を見張っていることがある。獲物が掛かればすぐ警笛を鳴らして飛びかかる? パリの有名な凱旋門は実は12車線の円形交差点だ。この交差点に既に入って走行中の車でも右側から入って来る車には道を譲らなければならない。侵入を一時ストップする赤信号もあるが時間が来れば青になる。交通量の多い時を想像頂きたい。 交差点での車の交差は日仏真逆だ。交差点の中央にポリスが立っていると想像してほしい。日本では前方から来る車と顔をすれ違うようにポリスの手前で交差するが、フランスでは出来るだけ交差点の奥まで突っ込んだ後で、即ち中央のポリスを通り越した向こうでハンドルを切る。そのため双方向の後続車が多い時には渋滞を作る。でも少しでも多くの車を通そうとする意図があるらしい。 ドライバーの交差点でのマナーは対照的だ。渋滞している時は日本では交差点手前で待機するがフランスでは突っ込んでくる。そのため渋滞以上の混乱が起こる。この状態で信号が変われば左右からの車も突っ込んでくる。この時ばかりは礼儀を知らない国民だと軽蔑したくなる。そこでこういう交差点ではお巡りさんがすぐ出てきて整理に当たる。特に週末など総出の勤務で信号の時間調整をしたり、手信号や笛で懸命の交通整理に当たっている。日本では警察は無関心、必要ないというか、或いは渋滞は既に諦めたという態度に見えるが如何なものか。 スピード制限では少し考えさせられる。日本は20キロオーバーまでは容認されて違反切符を切られることはない。高速道路で時速100キロ制限とすれば120キロまで容認され、130キロで走行していたとすれば途端に30キロオーバー分の罰金となる。正直なところ、ちょっと詐欺まがいの悪徳商法と言えば言い過ぎだろうか。市内の40キロ制限の場合60キロまで、即ち50%オーバーまで違反とならない。これに対しフランスはすべて5%が許容範囲となっている。高速道路が130キロ制限とすれば136.5キロを超すと違反となり、市内で40キロ制限の時は42キロと誤差は2キロまでとなる。この許容範囲は本当に誤差の範囲と言える。 高速道路での経験だが、郊外は大体130キロ制限で、三車線でも殆どの車が同じスピードの130キロで走行している。週末など交通量の多い時は実に壮観だ。私は一番外側の車線を走行していたが、ほんの少し5キロ程度スピードが落ちた時後続車から警笛が鳴った。「頑張れ!130キロで走れ!」ということだ。日本の高速道路と比較して情景を比較想像してほしい。 結論は警察も車の利用者も、そしてルールもマナーもすべてが別世界だと言える。国境を持たない日本では外国ナンバーの車を見たことがない。それだけに独自の交通マナーを作り上げたのだろう。帰国して20余年、いまだに日仏の交通ルールとマナーには違和感と戸惑いを覚えている。

フランスあれこれ(10)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(III)

2度のフランス駐在も終わり、20年ほど前に日本に帰国しました。叔母さんに最初にお目に掛かり大変お世話になって以来約40年位たっていました。突然柴田さんが私の前に現れたのです。場所は軽井沢です。 私の親友で同じ高校同級生、今も地元に住んでいる友人J.U君ですが、私の帰国以来10年、毎年夏の終わり頃に彼の会社(大阪朝日放送)の軽井沢寮で落ち合って数日を一緒に過ごしていました。今から10年ほど前の軽井沢でのことです。その友人から「今日は社長が来ることになっている」と聞きました。その社長さんの名前が柴田さんと聞いて一瞬ビックリ!まさかと思いましたが、元朝日新聞、パリ支局の経験もあるとの話。高い確率でありうる話、ぜひ食事もご一緒したいとJ.U君にお願いしました。 確かめるまでもなく下宿の先輩でした。暖炉の上にあったあの写真のご本人。フランス語学校のあと一年程トウールの大学に籍を置いていた様子。早速ワインを抜いて、思い出すまま色々とお話をしましたが、私の記憶違いが多くどんどん修正される始末、滞在期間の長さだけではなさそうでした。台所の手伝い、庭の草刈りや掃除、その他色々お手伝いしたことも伺いました。そうした平素の行いから叔母さんが柴田さんを我が子のように慈しまれたのではないかと想像しますが如何なものでしょうか。 結論を申し上げると、私がフランス語学校の事務所で下宿を紹介された折、一番のお勧めとして叔母さんを勧められたこと、これは日本人が来るというので僅か3か月という短期間の滞在にもかかわらず私を迎え入れてくれたこと、そして家庭教師をして頂いたこと、三度の食事で料理の話、チーズの事、ワインの知識など色々教えて頂いたこと、最後にワインのボトリングまで経験させて頂いたこと、すべては柴田さんの品行に魅せられた結果だとその時になって気づいた次第です。改めてお二人に心から感謝申し上げる次第です。「気が付くのが遅すぎる!」とお叱りを受けそうですね。 その後柴田さんについて少しばかり調べましたのでご報告させて頂きます。私より4年先輩、京都大学のあと朝日新聞、当初は社会部で警察廻りを、そしてフランス留学のあとサイゴン(ベトナム戦争時代)、パリ、ロンドン、やがてヨーロッパ総局長、本社の編集局長と栄進、私が二度目のパリに出向く頃は朝日放送役員、お目に掛かったときは社長をされていました。若い頃からフランスやヨーロッパに限らず世界のニュースや人々の暮らし、ものの見方などを紹介、週刊朝日にも連載で掲載したとのこと、更には多数の出版もされています。2013年6月最後の出版「地球の味わいⅢ」を大阪の友人J.U君経由でお送り頂きました。 私の知る範囲でフランス人を魅了した最初の日本人だったと思います。 (柴田さんの写真はインターネットで見つけたものです) 追記=友人のJ.U君から柴田さんに関する追加の情報が寄せられましたのでご紹介します。多分朝日新聞入社後間もない頃かと思います。1970年代から断続的に頻発した大阪釜ヶ崎騒乱の折、柴田さんがドヤ街に潜入して住民と寝食を共にして記事を書いたとのこと、その折の布団の嫌な臭いが忘れられないと言っていた由です。 私の持論ですが光の裏に影がある。日本の高度成長を支えた陰の力の貢献も忘れてはいけないと思います。

フランスあれこれ(9)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(II)

こんな写真が出てきました。5月21日(1964年)とメモされていました。叔母さんの隣には私が座っていました。ご主人が私のカメラで撮影したと思います。そう、叔母さんは私の家庭教師でした。ご記憶でしょうね。週末ごとに学校から作文の宿題が出されました。私が苦心惨憺しているのを見て私の作文を添削してもらった事があります。それを私の字で書き直して学校に提出しました。先生が皆の宿題を手にいつもと違ってげらげら笑いながら教室に現れました。教室の皆も訳も分からず貰い笑いをしたものです。私は何か不吉な雰囲気を感じていましたが、案の定先生が黒板に私の作文を書きだしました。先生曰く「私より先に作文を添削した先生が居られました。」文章はともかく単語が随分間違っているというか、多くのフランス人(特に老人)が間違って書いているものだと言うのです。私はちょっと苦笑いをしていたのでしょうか、多くの人が私の作文と理解したようで私を見つめる人が多かったと思います。でもお蔭で私は多くの人から声をかけて貰えることになり、良い意味で友人を得たという事です。 叔母さんには直接の勉強だけでなく日常の生活でも色々ご配慮いただいたことを知っています。食事の折、料理の名前や材料などを教えて頂きました。例えばチーズなどは毎日違ったものを買って出してくれたと承知しています。 一度セイロンから来たという友人に誘われ彼の下宿に行きました。古い2CV(Citroenの安い車)でしたが、下宿は歴史のありそうな豪華な農家でした。台所に続く大きな酒蔵があって樽からワインをグラスに直接取り出し、しかも次々の樽の味見をしたものです。「公認されているので盗み酒ではありません!」と言う風情でした。何れにせよ立派なワインカーヴでした。このセイロンからの学生、奥さんも子供もいて何となくセイロンの大金持ちか、或いは優雅な外交官だったかもしれません。 週末色々な企画であちらこちらの古城巡りをしました。言うまでもなく、フランスの中でも指折りの観光地、そしてトウールはその中心地ですよね。都度ガイド兼先生の解説付きなのですが私はまだ言葉も良く分からず残念至極。しかも当時は日本語の解説書を持ち合わせませんでした。 ある日叔母さんから今度の週末の昼頃は外出禁止、家にいるように言われました。先生の命令です。当日お昼前叔母さんの親戚の方らしい人やご主人の知人が数名集合。私も呼ばれて裏庭から半地下に入ったのですが、そこがワインの貯蔵庫。10個くらいのワイン樽がありました。先日の農家の樽に比べてはるかに小型でしたが、何種類かのワインの貯蔵庫だったのです。今日はその一部を瓶詰にするとのこと。作業のあと庭にテーブルを出して賑やかに味見のパーティーをしましたね。これも私の滞在期間中の一つの経験として企画してくれたことは間違いありませんね。そして今考えるとこれが多分私の研修終了でパリに旅立つ前の送別会だったのかもと推測します。 丁度この頃気が付いたのですが居間の暖炉の上に一枚の写真が額入りで置いてありました。日本人らしい、しかも私と似た年恰好、無論私ではありません。私はどなたですかと伺ったところ、「前に下宿していた日本人でムッシュー・シバタ」と聞きました。話はこれまででしたが柴田さんと言う名前はずっと私の耳に残っていました。やがて判明しますが、それは数十年後の事でした。その話は次回にさせて頂きます。 東 孝昭

フランスあれこれ(8)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(I)

こんな写真が出てきました。日付は1964年4月23日となっています。お世話になり始めて2週間くらいでしょうか。この頃は当然のことながらフランス語を話せる状態ではありませんでした。お世話になった3か月の事を思い出しながら、当時お話出来なかったハプニングをお耳に入れたいと思います。 パリ駐在を命ぜられ、東京羽田からオランダ航空で出発したのはその年の3月末だったと思います。アンカレッジ経由のボーイング707でしょうか。北極上空を通過したという証明書を貰った記憶があります。しかし目的地アムステルダムの天候不良でスコットランドの空港(Prestwick Airport)に予定を変更して緊急着陸、数時間の待機となりました。その後乗り換えも順調でなく結局最終目的地デュッセルドルフに到着したのは予定の翌日、しかもその日は復活祭の休日でした。出迎えてくれる筈の現地の駐在員とも連絡がつかず、空港で電話番号探しで右往左往しました。三日ほど打ち合わせと称して再びオランダに車で旅行、その後やっとパリに赴任しましたが、ホテルに一泊したあと事務所に顔を出したところ、すぐにもフランス語学校のあるトウールに移動するように言われました。学校は既に一週間くらい前から始まっていたようす。事務所のスタッフが列車の時間を調べてくれたり、幸いなことに丁度事務所に来ていた日本人留学生(ガイドのアルバイト探しで来ていた)が駅まで車で送ってくれました。 時間があったので軽い昼食としてサンドウィッチを買って駅の近辺で時間をつぶしました。丁度良い時間だと思って駅に帰ってびっくり!、列車は既に出発した後でした。腕時計が止まっていたのです。さて次の列車は?と調べたところ3時間位あと迄ありません。止むを得ずそれを待って再び駅に戻ったところこの列車は季節列車で不定期の由。更にその次の列車は?2時間後!パリとトゥールの距離は約230km、約3時間。そしてやっとの思いでトゥールに到着したのが夜の9時頃だったかと思います。 さて駅前でホテル探しです。駅頭に旅行鞄を置いて近くのホテルから順番にと思ったのですが、最初のホテルで満室と言われ、満室の場合はその旨の看板がドアに掛かっていることが判りました。どこも全てのホテルがコンプレ”Complet”即ち満室となっています。最初のホテルに戻って途方に暮れていたところホテルのオーナーさんでしょうか、今日は休日だからどこも満室でしょうと言います。何か良い方法?と相談しましたが英語が通じません。ちょっと待てと言って奥に入ったあと中学生くら いの女の子を連れて来て、学校で習っているのだから英語で話してみよといった感じ。結局通じなかったのですが、物置のような部屋を紹介してくれてこれで良ければという事になりました。 さて翌日フランス語の学校へ出向きました。遅れて入学の手続きと下宿の相談をしました。いずれもパリ事務所が事前に申し込んでくれていたものです。紹介された下宿は3軒、お勧めはこの順番ですとメモ付きでした。一日の勉強のあと教わった通りの順番でまず伺ったのが叔母さんのお宅でした。駅前のホテルに預けた荷物を持って参りますと伝えたのですが英語が通じなかったようです。ホテルに戻り、今度はタクシーで叔母さんのうちへ参りましたが、玄関に鍵が掛かっていました。またしても旅行鞄を玄関に置いてご近所を散策して戻ったところ今度はその鞄がなくなっていました。半分ひやひや、そして半分ヤレヤレ。結果オーライでした。 それから3か月大変お世話になりましたが、その折の思い出は次便でとさせて頂きます。 (写真はトウール駅前で噴水の周りにホテルが7軒くらい取り巻いていました) 東 孝昭

フランスあれこれ(7)垣間見た高齢者共同生活

パリの東西両端に大きな公園があります。西は高級住宅街に隣接するブローニュの森で、緑豊かで高級感あふれる落ち着いた森です。東にはヴァンセンヌの森、極めて健康的で庶民的な森というより広大な公園があります。大きな湖が複数あり、散策、ランニング、日光浴、そして動物園や花の公園、更には競馬場といった具合。しかもこちらの方は遙かに歴史があります。12世紀に起源をもつお城があり、14~15世紀に建てられた城の一角に大きな見晴らしの塔(ドンジョン=天守塔)が現存します。私の話の舞台はこのお城の一角でのことです。 今から30年位前の話です。暑い夏の日の午後、フランスの東部を旅行しての帰り道、いよいよ雑踏と狂騒のパリに入る前にひと休みと考え適当なところを探しながら運転をしていました。ヴァンセンヌの森の一角まで来た時、遙かに見える森の一角に数本の赤いパラソルが見えました。ここぞとばかり赤いパラソルをめがけて森に突入しました。緑の木陰に4~5本のパラソルが立ち、夫々にテーブルがあり10名位の人たちが楽しそうに談笑しながらお茶を飲んでいました。車を置いて近づきました。パラソルの向こうの建物から女性が顔を出し、非常に丁重な言葉で「ようこそお訪ね頂き有難うございます。こちらのテーブルは如何でしょうか。」言われるまま席に着いた途端、拍手と爆笑が天を突きました。 この段階でも私はまだよく理解出来ていませんでした。 コーヒーしか出せないとのことでしたが、恐縮しながらおいしく頂きました。そしてこの共同住宅について簡単な説明を聞きました。約20名位の高齢者が共同生活をしていると言います。毎日の生活に必要な作業を全ての人が交代で担当。例えば食事の献立、食料や日常品の買い物、炊事、洗濯、掃除。無論夫々に得意不得意があり、画一的に日程表が出来ている訳ではないものの、総合的に判断して一週間単位で日程表が出来ている由。建物はパリ市が提供するが元はお城の馬小屋だったとのこと。 当時はまだまだ老人ホームに興味がなかったこともあり詳しい話は聞かずに終わりましたが、夕方になると市の担当者が巡回してくるとのこと。と言う事は常駐する管理人は不在という事です。 今から考えると実に良い環境だったと思います。お天気が良ければ森の散策、或いはこのパラソルの下で談笑、夕方にはワインでも楽しむのだろうと想像します。 暫くして日本で旅友が出来ました。この旅友は非常にこまめに活動する人で、旅行ガイドの資格取得のための勉強などもしていたかと思います。旅友の設営で東北に旅行した折、その旅友が同じような老人共同住宅を企画していると耳にしました。思い出しながらヴァンセンヌの共同住宅の話をしました。そのような環境は望むべくもないが・・・ やがてその企画は残念ながら実現に至らなかったと聞きました。 東 孝昭

フランスあれこれ(6)フランス救急病院(1)

50年位前の話、私がパリに赴任して一年くらいたった時の話です。連日日本からの来客のアテンドで忙しい毎日を過ごしていました。 その日は珍しく日本からの来客もなくのんびりした土曜日を過ごしていました。言葉の勉強もあって夕食後、家内と映画を見に出かけました。言葉が判らなくても良さそうな愉快な映画を選びました。映画館の中は爆笑の連続でした。私共には冗談のような話は理解どころではありませんでした。ところが暫くして体に異変を感じました。まず頭が何となくかゆくなり、やがて両脇の下がかゆくなり遂には局部までかゆくなってきました。要は毛の生えているところがかゆくなってきたと言うことです。これは大変!毛がなくなったらどうしよう!さては夕食の刺身が良くなかったかと思い、慌てて映画館を飛び出し近くにいたタクシーを呼び止めて、「近くの救急病院へ!」と依頼しました。運転手はゆうゆうたるもので「救急病院に行くなら自宅の近くがよかろう、どこに住んでいる?」「パリ郊外のシュレンヌです」「了解!」と言う訳で直行しました。 我が家の近く小高い丘の上に病院のあることは知っていました。山の麓にゲートがあり、そこからS字型の登坂を駆け上がります。驚いたことに救急口に到着した時、数台のストレッチャーをゴロゴロさせながら若い医師達が看護婦さんと飛び出してきました。ゲートに光電管装置でもあったのではないかと思います。私がタクシー代の支払をしていたのですが、「患者さんはどこだ、どこだ?!」と言う具合で家内もおろおろと言う事態でした。 沢山の病室が並んでいましたがどこもガラガラ状態。そのうちの一つに案内された時には、先ほどからのかゆみも少し収まりつつあったと思います。フランス語に未熟な私はかゆいという言葉を知らないので、手まねで全く猿の風情だったことでしょう。刺身として「生魚を食べた・・・」・・何とか意味が通じたらしい。一人の医者が「日本人は毒の魚を生で食べる」と言うのが耳に入りました。すかさず何とか思い出して「新鮮だったので鯛を刺身にした」「だいぶ良くなってきたようだ」と説明、何とか事情が通じた次第です。 特別の診断も検査もなく、結論はこの薬を飲んで寝て下さいと言って赤い液体の入った2本のアンプルを渡されました。すぐに効くから寝る準備を完了してベッドに入ってから飲むように言われて帰宅しました。診察・薬ともに無料でした。 帰宅後風呂に入り寝間着に着替えて貰ったアンプルの1本を開けて飲みましたが、その後瞬時にして眠ったのでしょう、まったく記憶はありません。ベッドに入ったのは多分深夜12時頃、目が覚めたのは翌日の午後3時頃です。15時間前後眠ったことになります。 目が覚めてビックリ、世の中全くブライトと言うか気分爽快、明るく楽しく、口から冗談の飛び出すこと留まるところ知らず。我ながらこんな気分は初めて、これが麻薬だろうと認識をした次第です。 先述の通り貰ったアンプルは2本でした。あと1本を大切に保存していました。あの恍惚感を機会があればもう一度と考えていたものです。そのまま四年が経過して帰国命令が出ました。結局、再度!の期待も空しく捨てざるを得ませんでした。 私がフランスで垣間見た救急病院のお話をしましたが、その直後日本の新聞で知ったのですが、杉並で救急車が病人を載せたまま立ち往生し、結局その患者さんが亡くなったという「たらい回し」の話です。50年前のフランスと今の日本を比較して如何なものでしょうか。タクシーの代わりに救急車を呼ぶという話を聞く限り、どちらの国が天国か分かりませんね。 この話の後20年くらい経ってもう一度パリで救急病院を経験しています。別の機会にお話しさせて頂きます。 東 孝昭

フランスあれこれ(5)黒い腕章で結婚式

50年ほど前のフランスでの話です。パリ駐在でしたが同僚の秘書が結婚することになり、ある週末彼女の結婚式に招かれました。多分5月の初めころの季節だったかと思います、美人の花嫁にふさわしい明るく緑豊かで実に爽やかな絶好のお日柄でした。家族や友人30名くらいだったでしょうか、10時頃郊外の小さな教会で挙式、その別棟の部屋で昼食を賑やかに頂きました。お父さんからの挨拶と友人からの花束程度で特別の祝辞や形式ばったこともなく、各自ばらばらのワインの乾杯で食事をしました。 どこからともなく楽器のリズムが聞こえてきました。一人また二人と庭に出ていきます。花嫁も誘われて庭に。自然と踊りだす人がいて、それにつられてそれぞれ適当なカップルを作りながらダンスが始まりました。勝手バラバラながら多くの人が庭に出た頃、今度は賑やかな音楽に変わりました。途端に皆が手を取り合ってフォークダンスとなりました。全員が手を取り合って足を上げ、一回転して前進、挨拶をして後退、再び手を取って・・・といった具合です。 花嫁が私と手を取り合う隣になったとき、私が彼女に改めて「おめでとう」と祝福、同時に気になっていた質問を投げかけました。それは先ほどから気になっていたことですが、一人の古老の紳士が左腕に黒い腕章をしていたことでした。咄嗟に花嫁は大声で「ポール!ちょっと来て!」とその紳士を呼び、私を紹介、「叔父さんムッシュウ アヅマに叔父さんの腕章について説明してあげて」と言って二人をダンスから外しました。 そこで彼曰く、「先の大戦の無二の親友が昨夜亡くなりました。突然でした。知らせを受けてすぐにも飛んでいくべきかとも思いましたが、今日は大事な姪っ子の結婚式、外す訳にも行きません。彼とは東部の前線で同じ塹壕に入り、生死を共にした戦友でした。でも彼とは十分なほど同じ時間を過ごしています。私より一足早く彼は神に召されました。今日姪っ子は神の祝福を得て一世一代の結婚式です。彼も許してくれるでしょう。遠からず彼とは会えるでしょうが、姪っ子の結婚式は今回だけでしょう。私は人間生きている間のお付き合いを大事にしたいです。それでも私は今日一日親友を忍んで喪に服します。」ここで彼の瞼に白いものが光りました。 「人間生きている間のお付き合い」肝に銘じた一瞬でした。しかし日本に帰って後、私の仕事の机の引き出しにはいつも黒いネクタイと腕章が入っていました。得意先とはいえ、そのご家族などの訃報が届けばお通夜やご葬儀にどれだけ駆け付けたことやら。 数年後私の弟が急逝しました。最後まで激励を続けながら病院通いをしました。もう駄目だという話を耳にしながら海外出張に出ました。すぐに訃報が追いかけてきました。弟の葬儀には出席出来ませんでしたが、その日一日は黒い腕章をポケットに忍ばせました。 東 孝昭

フランスあれこれ(4)ワインで乾杯!

昔むかしの話。「うちの孫はワインを飲みたくないという、困ったものだよ。昔は子供も少し水で割ったワインを飲んだものだ。孫はコカが良いと言うんだ。」「お年は?」「7才だけど」(コカとはコカコーラのこと)かくしてフランスでは子供の時からワインの味を覚えるのだと思った次第です。 パリに赴任した直後、郊外のマンション3階に住んだのですが、すぐ近くを確かシトローエンという自動車メーカの鉄道輸送用の側線が通っていました。一日2~3便程度長い貨物列車が車を積んで通行しました。私が目にしたのだから多分日曜日、線路工夫が保守点検をしていましたが、線路の脇にワインボトルが見えました。 事務所には車で通勤していましたが、一年に何度かパリの出口で一斉検問があります。パリ市内で重大事件が発生した時などの対応策です。結構渋滞して窓越に身分証明を要求され、時にはトランクを開けろと言われます。当時は飲酒運転でしたが、この点は全く問題になりません。第一、検問しているポリスが足元にワインボトルを置いていたくらいです。 私の古い友人でルイさんというポリテク卒業生がいます。エコール・ポリテクニックというナポレオン創設と言われる秀才を集めた技術系の大学です。この学校を卒業すると末は大臣、高級官吏、或いは大会社の社長と言われています。(話題の日産ルノーのゴーンさんも同校卒業生) この学校では一年に一度パリの中心にあるオペラ座を借り切ってダンスパーティーが開催されるそうです。卒業生やその家族、そして現役学生も加わって大変盛況だそうです。卒業生は優秀な後輩を知るため、学生は将来の就職のため先輩と知り合いになりたいなどそれぞれに思惑があるようですが、何よりも重要なのは娘の伴侶を見つける、そして男どもはそんな彼女を見つけるためと言われています。そこで学生は懸命にある勉強をすると言います。勉強のテーマは「ワイン」です。ワインの話で家庭が判るということでしょう。 数年前その友人ルイさんが日本にやって来た時の話。最近日本酒「獺祭」がパリで大変人気を呼んでいると聞きました。私は耳にしたことのないブランドだったので、彼の発音では「ダッサイ」それとも「ザッサイ」?どちらの発音か不明でした。しばらくして品川で飲み会があり、安いチェーンの飲み屋でまさかと思いながらこの発音のお酒があるかどうか聞いてみました。それがあったのです!店に残る最後の一本、350ccのボトルでした。とにかく安い酒だったという事でしょう。 友人の話によるとまずアメリカで流行したらしいが最近パリの高級サラリーマンがランチの折、従来のグラスワインに代えてこの日本酒を好んで注文するようです。正直、世の中も変わったものだという思いでした。アメリカの酒類はすべて海外から、そして何もかも色々ブレンドしてカクテルにしたり、ソーダや水で割って飲むのが普通だったからです。 本来アルコールドリンクはそのまま頂くのが本来の味を楽しむことではないかと思っていたので、昨今と言わず戦後長く日本もアメリカの影響を受けて水割りやソーダ割を飲んでいたはずです。昨今は逆に日本のお酒がアメリカ経由でヨーロッパに行くなんて文化逆流の時代だという思いです。 さてここからは私の理屈です。結論を申し上げれば人がワインを選ぶのではなく、ワインが人を選ぶということです。私はレストランでワインを選ぶとき一度あのワインを飲みたいとか今度はこちらにしてみようとか余り考えたことはありません。素直にソムリエさんにおすすめを聞くことにします。 ソムリエさんというのはレストランのドリンク専門、そして私の注文をちゃんと知っていてそれに適したワインを勧めてくれます。ランチタイムのカフェレストランではハウスワインを頂くことにします。その日のランチに一番適したワインを今日のハウスワインとして提供しています。要は安くて料理にぴったりという理屈です。 レストランでワインを注文するとソムリエさんが注文主のグラスにほんの少しのワインを入れて味見を依頼します。デギュスタシオンと言いますが、味の確認とコルク屑をゲストのグラスに入れない配慮、更にもう一つ毒味の意味があると聞いています。 日本では乾杯!と言ってグラスをチーンと当てあってスタートしますが、向こうでは軽くグラスを挙げるだけです。テーブルはそんなに狭くないとかグラスに入っているワインの量が多いからこぼれる、或いは高級グラスに傷をつけたくないとか、まあそれが習慣ということです。 ボトルが空に近づいたとき、ボトルの最後の一滴を相手のグラスに「あなたに幸せを!」と言って注ぎます。最後の一滴を貰うと幸運が来るとか、年内に彼女が出来るとか適当な理屈で、要は「これでお終い!」と宣言する訳です。 私のワインボトルも底に近づきました。この残りをあなたのグラスに、そして「良いお年を!」と申し上げます。

フランスあれこれ(3)薬の功罪

私は医者ではないし薬学も素人だということをまず宣言します。 50年ほど前の話、ドイツのデュッセルドルフで聞いた話。冬の寒い時に子供が風邪を引いたとします。ドイツではその子を薄着にして街角を一周させます。暖房のきいた自宅に帰ると子供が高熱を出して、やがて回復する。確かに熱を出さないと風邪ひきは治らないと耳にした記憶があります。 今度は私自身の話です。 20年位前のフランスでのゴルフの話です。冬も近づく寒い頃肘を痛めて思うようなゴルフが出来なかったことがあります。スイートスポットにジャストミートした時は良いのですが、少しでも外れた時のひじの痛みは耐え難いものがあります。肘を抱えてうずくまります。 その場にいたフランス人の一人が、帰り道に医者を紹介するから彼についてくるよう言われました。勧められた医療はオメオパティー(日本語で確かホメオパティー?),、日本でも存在するようですが非常に珍しい治療です。要はごく微量のミネラル系の漢方と思えば良いかと思います。長期に服用して体質転換を図るものです。 もう一人が私に勧めたのが毎晩洗面器に氷水を入れて最初はひじを10秒程度、左右交互に入れ、10回くらい毎日冷やすというものです。慣れればもう少し時間を増やす。これも期待する効果は体質転換というか自然に肘が温まる体質を作ろうというものです。一方日本では痛み止めのシップ、そして肘を温かく保つためのサポーターではないでしょうか。 そこで登場願うのが今回ノーベル医学生理学賞を貰った本庶佑京都大学特別教授です。 体内では通常、免疫が働いてがん細胞を異物とみなして排除する。しかし、免疫細胞には自身の働きを抑えるブレーキ役の分子があるため、がん細胞はこれを使って攻撃を避け、がんは進行してしまう。そこでブレーキ役の分子の役割を発見し、この働きを抑えてがんへの攻撃を続けさせる新しい治療を提案した。(新聞記事) 要は今までがん細胞を直接攻撃していた外科手術、放射線、抗がん剤とは異なり、人間自身が持つ免疫力を使うと言ものです。 フランスで勧められた医療はいずれも本庶先生の発想に近い、或いは少なくとも何か共通するものを感じられませんか。 10年ほど前に今度は膝が痛くなりました。エジプト旅行をしたときです。場所はシナイ山、真っ赤に焼けた山並み、今も忘れられない光景でした。忘れられないのはそこからの帰り道です。シナイ山はモーゼが神から十戒を授かったところです。正直私は不信心の罰を受けたのではと思いました。 整形外科の先生の見立ては歩かないから筋肉が低下しているとして歩き方まで指導を頂きました。とりあえず痛み止めの注射、張り薬、そして付属のリハビリコーナーで超音波や、温熱治療を受けました。このリハビリをしっかり観察して、ご近所の鍼灸院で同じような治療を続けました。 治療を受けて帰宅、暫くすると膝がもう一度鍼灸院に行きたいと要求します。そこで気が付いたのはフランス人のアドバイスです。さりとてオメオパティーや氷水はしませんでしたが、きっぱり鍼灸院をやめて翌日から医者に勧められた歩行を始めました。お蔭で少しばかり筋肉も付き、今では往復徒歩での図書館通いが日課になっています。家では朝日新聞、図書館で産経新聞と言う具合です。 NHKの受け売りを一つ。便秘薬の常用は一週間程度まで、常習化すると逆に悪化すると。体が怠けて薬がないと動かなくなるという事でしょうか。 私は医者ではありません、念のため。 東 孝昭