フランスあれこれ22~Hop step & jump! (ドイツの友人との別れ)

出会いも突然でしたが別れも突然でした。お付き合いも3か月程度だったかと思います。ある日彼が事務所に現れた時、真面目な相談をしたいので近くのカフェに行こうと言います。私もちょっと休憩という事で気楽にお付き合いしました。 彼曰く、毎週末に飛行機のパイロットの訓練に行こうと思う、一緒に行かないかと言います。場所はベルサーユの近く、一応下見をしてきたが申し込んではいない、是非一緒にと強く勧誘されました。何故突然に? すぐに今の仕事を辞める訳ではないが一応の見切りをつけた心算だと言います。逆に君はいつまで今の仕事を続けるのだ?・・・ 彼の説明は人生の在り方は「ホップ・ステップ・ジャンプ」だと言います。まず世の中を見て、少し勉強、そしてこれというのが見つかったところで、思い切って飛び込む、これがジャンプだと。当然の人生の歩き方だろう。 とても私にはついて行ける話ではありません。確かに私は就職ではなく就社をしていたというのが実情かも知れない。しかし今までこの会社とは一生のお付き合いだと思って努力を厭わずやってきた心算です。残念ながら君の話にはすぐにはついて行けない。私は入社以来いかにして会社に貢献するかを基本に考えてきた。何故なら会社こそ私の重要な財産なのだから。この考えは変更できない。 彼も私もほとんど同時に日本とヨーロッパの社会構造の違い、会社と個人の関係の違いを理解した瞬間だったかと思います。 最後のワインで”Bon courage! (頑張って)”と言い合って別れました。以来彼は私共の事務所に姿を見せませんでした。 彼は上手く行けば世界を飛び回るパイロットになっていたかもしれません。いや多分間違いなく頑張ったと信じたい。  

フランスあれこれ21~パリの地下道探訪(ドイツの友人との出会い)

半世紀を超す昔の思い出です。パリの事務所に突然現れたドイツ人、有名なドイツの機械メーカーのパリ事務所の青年です。私達のパリ事務所には機械部門がなかったのでたまたま私が応対した次第です。丁度同じくらいの年齢、駐在と言っても新米で共に右も左も良く分からない状態だったかと思います。何となく仲良くなった次第。彼の事務所はパリの郊外でパリに来た時を見計らって時々顔を見せるようになりました。ある日一度週末に一緒にパリの勉強をしようという事になり、事務所に近いマドレーヌ寺院で待ち合わせた。序だからと言って寺院のドアを開けて中に入ってビックリ、週末のミサの最中でほぼ満席の状態。荘厳なミサの最後に司教さんが薄い煎餅を一枚ずつ配っていたかと思います。 軽い食事のあと彼の提案でまず向ったのはオペラ座。裏口から知った道という風情で進む彼について入った。あとはしっかりと覚えている訳ではないが階段を下りて薄暗い廊下を進んでまた階段を下りるといった具合。薄暗い洞窟の中に舞台装置の古いものがほこりまみれで放置されていたように思う。 オペラ座の次に近くの商店街でアーケードになっているところに行ったと思う。ここでも勝手知った様子ですいすいと進む。とある街角から裏にそれて階段を降りる。地下一階にも何軒かの商店が並ぶが一般客相手ではなかった様子。その道を更に進むと商店もなく、昨今のシャッター街の雰囲気になった。ところどころに明かりがついているので覗くとケーキを作る厨房であったり、商品の倉庫だったり。 次に向かったのがコンコルド広場、大きなロータリーになっているがその昔は一面に路上の駐車場になっていた。このロータリーの片隅の小さな建物(写真)のドアを開けて階段を降りる。どういう構造になっていたか定かでないがパリの立派な下水道に出た。結構きれいな水がさらさらと流れていたように思う。直線の水路をしばらく歩くと突き当りに格子戸のある外界につながっている。明るい光が入っていて、多分セーヌ川に流れていたのではないかと思う。 それから数年、或いは十数年後にカルチャーショックに襲われました。それは映画「オペラ座の怪人」、同じく映画「第三の男」を見た時の事。特別の興味も持たず、ただのんびりと眺めた景色が現実のものとなったのです。映画の現場はいずれも私自身が足を運んだところだ?この場所で映画の撮影が行われたのだ?という錯覚です。この印象は未だにはっきりせず、夢なのか現実なのかさまよっている次第です。 本稿を書く前にもう一度両方の映画をDVDで見ました。いずれもテレビの録画を保存していましたが、それも何かの因縁でしょうか。右は映画「オペラ座の怪人」及び「第三の男」の一シーンです。 パリの地下について先に「パリのカタコンブ」を寄稿しました。パリにはほかにも広大な地下空間が多数存在します。古くはローマ時代の遺跡に始まり、町の発展とともに石材の発掘場として広がりました。私がパリで勤務した事務所に近いところにヴァンドーム広場があります。一流のショップの並ぶ高級商店街の一角ですがこの広場の地下が広大な地下駐車場です。改めて機会があればご案内させて頂きます。

フランスあれこれ20~シラク大統領を偲ぶ

親日派で知られたフランスの元大統領ジャック・シラク氏が去る9月26日86歳で亡くなったと報じられました。1995年大統領に就任2期12年間ドゴール大統領の後継ぎという期待に応えて立派に職務を全うしました。引退後は色々個人的な問題や健康上の問題もあって政界から姿を消しました。 今年9月30日アンバリッド(廃兵院)で国葬、サンシュルピス教会で告別式、そしてモンパルナス墓地に埋葬されました。 1995年大統領就任直後南太平洋フランス領ムルロア環礁で核実験を強行しました。核禁止の世界的な動きに対する駆け込み的な実験だったのか、それともシラク自身、或いはフランスの国威発揚を考えたのでしょうか。丁度この時期私はパリに駐在していました。その時の思い出をご紹介します。と言いましても大統領に直接お目に掛かる機会などある筈もありません。 この少し前のこと、あるフランス人女性が日本人会からの紹介で私の事務所に現れました。彼女は30歳位だったでしょうか。以前日本に住んだことがあり片言の日本語が出来ました。乳幼児施設の仕事をしているが近年日本企業のフランス進出が目覚ましく、もう一度日本と関わりのある仕事に就きたいというのが趣旨でした。丁度欠員が出来る前でもあり一応面談した次第です。タイミングは良かったものの職種は助手の仕事でパートナーの使い走り、これでは彼女の期待を裏切るものと考えお断りしました。ただし他の日系企業の紹介や問い合わせには協力しましょうと約束しました。以来一、二度近くを通りがかったといって顔を見せていましたが、ある日改めてのご相談という事で面談しました。 彼女曰く、父はフランス外務省出身で日本には日仏会館担当で赴任していました。彼女の日本語はその時のもの。相談の中身は近日外務大臣が日本を訪問することになり、今回の核実験問題で日本との対応をどうするかという事でした。被爆国の日本でもこの件について非常に神経質で国会議員もチームを作って現地に反対運動を繰り広げたと聞いています。 回答は至って簡単、私はこんな話の相談に乗れる立場にはない。でも考えて見るとフランスはドゴール大統領以来第五共和制、大統領の権限が非常に大きく外務大臣でも国防大臣でも反対できないのでは?!もう一つ付け加えれば日本人はすぐ忘れるよ。以上でお引き取り頂きました。 翌日彼女のお父さんから電話を頂きました。「娘への話は非常に参考になりました。また娘の件今後ともよろしくお願いします。」以上でこのお話はお終いです。外務大臣の帰国後の報告は聞いていません。

フランスあれこれ19~消費税で消費税で思う事(フランスTVAとの比較)

来年10月の消費税の2%アップで昨今色々と議論が持ち上がっています。心なしかご近所での住宅建設も今のうちにと言う風情で建設が進んでいるようにも思います。税率アップ後の消費の落ち込みを懸念して、政府もしばらくの間消費税の還元を考えているようです。 1968年(丁度50年前になります)フランスが世界に先駆けて消費税の導入に踏み切りました。ドゴール大統領の時代です。私の知識で何がどう変わろうとしているのか十分理解できない状態でしたが巷は喧々諤々議論が持ち上がっていたことを記憶しています。新聞ではガソリンの値上がり対策として買いだめをして風呂桶に蓄え、警察沙汰や消防が出動と言う事件が報じられたりもしました。 この時の消費税率は一気に20%と設定されたのです。逆に直接税はほぼ半減させるというのが大統領の説明だったかと思います。誤解のないように申し上げると古くからフランスでは消費税的な考えがあったようで、一気にゼロから20%になったともいえない事情もあったかと思います。 ドゴール大統領の説明では、新しい税制の導入は当時の人口減少、産業の低迷、これに伴う投資の減少、ひいては企業の国外逃避、産業の海外流出が背景にあり、何としてもこの流れを逆行させねば明日のフランスはないというものでした。消費税は国民の大きな負担だが企業収入にかかる税金は無論一般労働者の収入に掛かる税金(所得税)など所謂直接税を大幅に引き下げるという事でした。(付随して申し上げるとこの時期フランスとして必要な多くの企業が吸収・合併されたりして国営化しています) ここで簡単に日仏税制の違いを比較してみたいと思います。と申しましても日本の税制にも疎い私です。正確な勉強は皆さんにお任せするとしてイメージとして違いを認識して頂ければと思います。 (1)税収に占める間接税   日本35%位  フランス60%位 内 消費税            18%位          48%位 間接税に占める消費税以外の項目で特記すべきは日本では車の重量税やガソリン税が極めて高い。フランスでもガソリンやたばこが高い。(両国の比較の話) フランスの消費税は標準が20%ですが軽減税率として (a)食品・本 5% (b) 食品以外の農産物 10% (c) 医薬品 2.1% (2)フランスでの所得税の概算(あくまでも概算です) (a)年収120万円(月収10万円)までは無税 (b)年収350万円までの人は120万円を超える部分に対し14% (c)年収950万円までの人は350万円を超える部分に対し30%+(b) (d)年収2000万円までの人は950万円を超える部分に対し41%+(b)+(c) (e)年収2000万円以上は2000万円を超える部分に対し45%+(b)+(c)+(d) (3)税額の表示は日仏全くの真逆。フランスは税込み表示で括弧で内税を記載していま す。例えば商品価格120円(内税20円)と言うものですが、日本の場合商品価格 100円(税込み120円)と表示されています。日本では往々にして表示価格ではす ぐに支払いの代金が判らないこともあります。 ここからは私の独り言です。昨今の日本も少子化で人口減少が着実に進行しています。国会でも海外からの労働者導入が緊急の議題となっています。何となく50年前のドゴール時代のフランスを思い出す次第です。だが消費税率の引き上げがわずか2%、それでも引き上げ後の景気後退を懸念して消費税の還元、しかも5%を9か月間などと言っています。 我が国はバブル崩壊以来借金経営の政府となっていて国と地方の借金の合計が1100兆円、今や国民一人当たり1000万近くになる。この上人口減で老齢化すると福祉・厚生予算の膨張で益々借金は膨らむばかり。それでも政府の内外に少子化が進めば遺産相続人が減って逆に相続税収入が増えるなどと逃げ口上の発言もあるとかないとか?本気で日本の将来を考える人はいないのか!やはり最後は超インフレで借金帳消しにするしか方法はないのだろうか? 東 孝昭

フランスあれこれ(18)ボジョレーワインの話

これからお話するボジョレーワインの話ですが、どこまで本当か、ひょっとしたら全て作り話かも知れません。 実はフランスの酒飲み、しかも酔っ払い状態の人から聞いた話です。それにしては滔々と流れるような演説を聞いた印象でした。まずはその話をお聞きください。 『ボジョレ―なんて最近のワインだ、歴史なんてないさ。フルーティーなんて言うけれど熟成しても旨くならない酒だ。売れずに困っていた時、だれか機転の利く商社マンがアメリカに紹介したのだ。 偶々安いレストラン、想像してみろ、大きな草履のようなステーキのレストランを!腹の減った労働者の昼飯だよ。ワインを樽からグラスに注ぐと言えば格好がいいけれどフランスでは一般庶民のやることさ。 これが偶々当たったのだよ、恐ろしいことだ。赤い血の滴るようなステーキにぴったりのワインだと。マスコミでも取り上げられ一気に需要が拡大したのさ。 小さなボジョレ―村のワインでは間に合わない。それ!とばかり、アルジェリアやエジプトからワインを仕入れ、港でブレンドして輸出したのさ。政府がびっくりして樽での輸出を禁止した。 この商社マン頭がいいね。それならばとご近所の村にも声をかけてボジョレ―ブランドを拡大したのさ。ご本家がそれでは困るという事で名前に少しだけ格好をつけて「ボジョレー・ヴィラージュ」(ボジョレ―村)。同時に値段も上がったが熟成すると味が落ちる。 それじゃあ、ということで一気に売り切ることにして「解禁日」を設けたのさ。本当に商売上手だよな。わしに言わせれば、この段階で日本人が悪乗りしたのだよ。これも商社マンの腕の・・・、いやいや君たち日本の商社マンの話ではないよ。』 この話を聞いたのはバブル崩壊の前後、11月15日(現在は11月第3木曜日)解禁とともに日本にも大量空輸されていた時の事です。パリの酒場(カフェ)でも「ボジョレ―入荷」と言ったポスターが小さく張り出されていました。時には季節だからと一杯注文する人もいたかと思いますが、私が見る限りフランス人は見向きもしなかったと思います。 私の心証は自分の思いと違うワインが海外の金持ちにもてているというフランス人のひがみ根性から出た発言?これが誤解であってほしいとも思うし、それとも本音の話だった方がよかったのか、いずれにしても私には困った話でした。 (東 孝昭)

フランスあれこれ(17)フランスのマイスター

まず右の写真をご覧ください。古いアルバムで見つけたものですが、1995年のステンドグラスのアトリエで撮影したものです。 アトリエでは新しい作品が完成するとシャンパンを抜いてお祝いをするのが慣習となっていました。作品の制作者が招待するので正確には内祝い、或いは新作の披露宴という事でしょうか。この日も当日の出席者10名くらいが集合したと思います。しかし作品はなく写真の二人からのご招待だったのです。 「暫くの間でしたが息子がお世話になりました。この度中学を卒業、新しい世界に旅立つことになりました。将来の夢パティシエを目指して南仏の専門店に勉強に行くことになりました。」非常に仲の良い親子でした。子供の方はちょっとした小物を作っていましたが、それなりの作品で、親子の会話も作品に関するもので、時に子供が父親にアイデアを話すようなこともありました。それにしてもこの年で親元を離れ、しかもとても日帰りも出来ない遠方にと思ったものでした。 この留学について色々話が出たのですが一言で言えば丁稚奉公(使用禁止用語?)で、この表現が一番ぴったりだと思います。彼らは盛んにメイトル(Maitreフランス語でマイスターを意味する)と言う言葉を使っていましたが、そんな制度がフランスにもあったのか!と言うのが正直な印象です。三食付きで住み込み、しかも無給だと言います。いや逆に無償で技術を貰うのだと言う印象すら伺えます。この親子はお父さんが学校の先生らしい。子供の成績や希望を聞いての決断だろうと思います。日本と比較して隔世の思いです。 二人が帰ったあとマイスターの話しを聞くことが出来ました。ドイツではしっかりとした制度になっている様子。しかしこの制度が出来るまでは職人と師弟の間の不和があり、職人が組合を作って共同で対処、これに対し弟子の方はある程度腕が出来た段階で職人(師匠)から離れ、時には流浪の旅に出て自分の腕を確かめ、時には新しい師匠を見つけ更に上を目指す、或いは新しい独り立ちの環境を見つける。しっかり確かめたわけではないが師匠を継ぐとか、暖簾分けのような環境は全くないという事。流浪の旅のあとしっかり自分の腕を磨き元の師匠の隣に店を開き、強引に自分で暖簾を勝ち取った例もあるとか。かくして専門店街が出来、お互いに切磋琢磨して繁盛したというハッピーエンドの話も。 以来約25年、坊やも今や40歳前後、フランスのどこかで、いやパリの一角で一流のパティシエとして頑張っていることと信じます。 この間ドイツのマイスター制度も進化して我が国でもしっかり知られる制度になっていることはご存知の通り。 フランスにも呼び方は異なるがマイスターに近い制度があります。上級技術免許(通称BTS)で、高等教育をベースとした国家資格でちょっとドイツの制度とは異なるようです。フランスで習ったステンドグラスの先生も国立高等工芸美術学校(通称 Ecole des Metiers)のステンドグラス科の卒業と聞いています。 ところで皆さん、「川崎マイスター」と言うのをご存知でしょうか。私の知人の一人も川崎マイスターなのですが、どういうことでこの称号を貰われたのかご本人に伺うのを躊躇しています。  

フランスあれこれ(16)ラングドック(南仏)の想い出=フランスの別世界=

50年以上前の思い出です。パリに赴任して暫くの頃、内地から一通の手紙が来ました。調査依頼です。内容を簡単に説明します。粉末ジュースなど食品添加物の一つ酒石酸と言う化学品があります。酸味料の一つとして欠かせないものですが、従来フランスのマルセイユの「カサドー商会」から輸入されていたが、最近カサドーさんが亡くなったため連絡がつかず商品の調達の目途が立たなくなった。至急実情を調査して対案を探してほしいというもの。早速行動を開始したもののどうしても電話がつながらないので、ここは行くしかないと夜行列車でマルセイユに向かいました。 マルセイユには早朝の到着で時間を持て余し、駅前で朝食、公園を散策、やっと目的地に到着して目にしたのはドアに貼られた手書きの案内でした。内容は単純ですが極めて読みづらい文字でしたが何とか記載の連絡先をメモして公衆電話からコンタクトを試みました。 私はまだまともにフランス語が出来ない頃で電話の相手は英語が出来ない、それでも何とか住所を教えて貰って伺うことが出来ました。さほど遠くないお宅に伺ったのですが、玄関先で待って頂いたようでした。若い人でしたが急遽仕事をお休みして私に面談することにした様子。英語とフランス語双方ともたどたどしく、筆談も交えての会話でした。 カサドーさんは日本人でフランス人と結婚、長くマルセイユに住んでいた。面会の人はどうやら奥さんの関係らしい。でも仕事の内容は殆ど知らないという。それでも彼から耳に入ったのはマルセイユに酒石酸のメーカーがあること、その原料はワインの搾りかすで「アルゴール」とか「タートル」と言い、ベジエという町の商工会議所が力を持っているなど。 マルセイユの駅に戻って電話帳で耳にした酒石酸のメーカーを探して早速電話。先ほどの面談者の紹介だと話してすぐに訪問することが出来ました。社長直々に面談、極めて有意義と言うか、先方もちょっと途方に暮れていたタイミングだったらしい。ここでもカサドーさんに全幅の信頼をしていた様子で私に対しても丁重、しかもすべてを教えてくれた次第で順風満帆という結果でした。 ここまでの状況を事務所に電話連絡してマルセイユにもう一泊、更に原料のワイン滓事情を調べておこうと考えて翌日ベジエに向かうことにしました。ベジエはマルセイユから列車で2時間くらい西方。ベジエの駅で商工会議所を教えてもらって直行、何とか事情を説明して紹介されたのが“Tartre Union”(「タルトル・ユニオン」あえて言えばワイン滓組合)と言う同業組合、小さな事務所だったが待つこと暫く大物らしいお爺さんが現れた。これがまた全く言葉が通じない。歯がなく口先でもぐもぐ喋っているのだがどうもフランス語でもなそうだ。一人二人と関係者が駆け付け来たが矢張り殆ど通じないまま時間が経過した。お昼近くなって車に乗れという事で案内願ったのがワインヤード、広大な見渡す限りのブドウ畑だった。 そして大農園の中央にそびえる背の高い矢倉に着いた。1階は作業道具置き場でトラックターなども散見、階段を上がった2階が結構広い食堂兼居間、四方が窓になっていて遥かな彼方まで見渡すことが出来る。彼は黙って窓を開け、ポケットから笛を取り出し一発“ピー・ピーピー!” 畑のあちらこちらから黒い頭が見えた。出稼ぎ労働者が皆さぼっていたという事らしい。同時に我が農園はこれほど広いのだ!と私に示したかったのかもしれない。そこでワインを開けてしっかりご馳走になって事務所に戻り、ちょっとドタバタしているうちに学生らしいのが現れた。英語の通訳の心算だったようだが残念でした。 パリに帰った翌日、秘書にこの同業組合の長老に電話をさせて会話の内容を確認しようとしたのだが、これがまた不思議。言葉が通じなかった。秘書が電話にかじりついて汗をかきながら顔を赤くして必死に説明しているのだが一向に通じない様子。私がすぐにわれらが事務所の長老(ご存知のメムランさん)を呼び秘書に代わらせたがやはり思うように通じなかった。我が長老いわく、相手はフランス語をしゃべっていない!でも明後日通訳を連れて上京、即ちパリに来ることになったと聞きました。 長老の説明によると、この地域は“Langue d’Oc”(ラングドック)と言って今でも古くからの方言が日常使われているようだ。フランスの憲法で「フランス国民はフランス語を国語とする」と規定されているのだが・・・という事だった。この地方ではオック語と言う方言を使う事からLangue d’Oc即ちオック語地方(ラングドック地方)と呼ばれる由。 その後ベジエの長老が通訳を連れて現れ、すべての事情が判明した。私が最初にあったカサドー商会関係の人の話、酒石酸製造メーカーを訪問したこと、私の行動の全てが耳に入っていた由。カサドーさんが亡くなって立ち往生していた時に私が現れたという事らしい。 フランスワインに詳しい人なら「ラングドック」という言葉は聞かれたことがあると思います。著名なワインのブランドの一つです。この地方のワインは天候に恵まれ大量生産されるので良いワインでも価格的に高い評価にはならないそうだ。そこで地域を限って、例えば「ラングドック・ルシオン」などと銘打ってブランドの差別化を図っている様子。 余談は止めて仕事の方?ですか。お蔭で極めて順調に新しいビジネスがスタート出来ました。緊急事態に需要と供給ががっちり握手と言ったところでしょうか。 (追記します。多分この地方の今の人たちはしっかりフランス語を話していると思います。この思い出話はあくまでも50年以上前の経験です。)

フランスあれこれ(15)私はアルザシアン

50年位前の話です。まだパリに赴任して暫く、フランスの北東部ドイツに近いストラスブルグの近郊に出張した時の話です。予定の時間より早く着き時間を持て余しました。田舎の小さな町で見物するところもなくどうしたものか考えあぐねた時に目に入ったのが散髪屋さんでした。丁度散髪の終わった客がお金を払っているところで非常に良いタイミングだったようです。でも二人の楽しそうな会話にちょっとした違和感を感じました。フランス語ではなかったのです。 いつもの癖で良く言葉も判らないのについ口を滑らせて「ひょっとしてドイツの方ですか?」と聞いたのですが、その返事で私はびっくり「私はドイツ人ではありません。フランスに住んでいますがフランス人でもありません!」そこで彼は姿勢を正して「私はアルザス人です!」続いて散髪屋のおじさんも改めて姿勢を正して「私もアルザス人です!」お客の帰ったあと散髪をしながら色々とフランス語で話をしてくれましたが良く理解できませんでした。要はこの地方の方言がドイツ語に近い発音で残っているようで未だに(当時)日常会話はその方言だという事でした。 パリに帰って事務所の長老メムランさん(前にも登場頂きました)にこの話をしました。彼の説明を要約すると、フランスとドイツの間で長年領土争いをしてきたという歴史があります。ゲルマン民族がラインを渡ったのはギリシャローマ時代、同じゲルマン民族でドイツ語に近い方言が残ったのだろう。最近では第一次大戦でドイツに占領されたが終戦でフランスに、第二次大戦でも同じようなことが繰り返されたようです。その間に一時独立を目指したこともあったとか。 メムランさんに言わせるとライン川の西側(フランス側)に立地することもあるが、基本的な原因はゲルマン民族ながら川向うという事でゲルマンに軽んじられたことがあるようだが、最も基本的な理由はアルザスロレーン地方に鉄鉱石と石炭が産出されることだったらしい。フランス・ドイツ共にこの資源が欲しい、いや相手に渡したくない。この事情がこの地域のスタンスを複雑にしていると言います。しかしメムランさんの更なるコメントが私の心に突き刺さったのです。それは第一次或いは第二次大戦でもドイツがラインを渡って進攻すると、フランスはすぐに前線を後退させアルザスを見捨てる結果となったと言います。アルザスの人たちから見てドイツにさげすまされ、フランスに見捨てられ、結局はアルザシアンとして独立闊歩する以外に道がなかったのではないかと思います。 アルザス地方は実に風光明媚です。中世の面影を残す町が散在します。ライン川に沿った町では入り江や運河がその風情を一層際立たせます。またこの地方はワインの産地です。それがまた不思議、ドイツのように甘くない、でもフランスワインとは一味異なります。このワインで水辺の一杯は最高です。 ご存知のストラスブルグは古くからの交通の要所、EUの中心でもあり、そこには欧州議会が立地しています。折しも議会選挙があり、今までの主流派が後退し批判派が票を伸ばしたと報道されています。 近年日系企業も多く進出しています。代表的な企業ではソニーやリコー、それにヤマハエレクトロニクスなどがあり、今後のアルザス地域は欧州の中心舞台に進みつつあるように見受けます。  

フランスあれこれ(14)7月14日はパリ祭

7月14日はパリ祭です。今までにもテレビなどでご覧になったと思います。朝からシャンデリゼ大通りで盛大な軍事パレードがあり、大統領の閲兵のもと、パレードには陸海空軍は無論、戦車、騎兵隊、更には消防団や看護師などが登場、そして最後を飾るのは退役軍人や外人部隊です。そのさなか空軍の三色旗煙幕が轟音とともに上空を通過します。即ち国を守る集団全てが参加します。午後はエッフェル塔の麓での大音楽祭、更に夜はセーヌ川での花火大会と終日お祭り騒ぎです。 フランス国民にとってパリ祭は特別のもので、この日ばかりはフランス国民の心が一つになります。年中行事となっているストなどすべてを忘れて国を支える人たちへの共感を覚える一日なのです。翌日は一転してバカンスの始まり、南に向かう主要幹線道路に車が溢れ終日渋滞となります。パリ祭を見て、これでひと安心と言うことでしょうか。 ところで皆さん、ご存知ですか?パレードの先頭集団が学生だ!という事を。一見海軍将校集団にも見えるのですがこれがエコール・ポリテクニック(通称ポリテク)と言う最高学府の一つです。しかも理工学部だけしかありません。長いサーベルをもって胸を張って先頭を行進します。大統領の前まで来ると号令一発、高々とサーベルを上げて“頭~左!”と言った感じ。軍国主義の時代を思わせる風情です。この集団の次が陸軍士官学校更には海軍兵学校の学生。こちらは短刀をもっています。 何時の頃かはっきりしないのですが、イラクのクエート進攻、或いはベルリンの壁が取り払われたころだったろうか、いずれにせよ1990年頃だったと思います。この先頭集団、すなわちポリテクニックの先頭リーダーに女性がいたのです。パレードを見ていた人たちから女性だ!と言う声とともに拍手が沸き上がり、「信じられない」「これはジャンヌダルクの生まれかわりだ!」と周囲が騒然となりました。私はそんなに珍しいのかと思いましたが、その後ポリテク卒業の友人から聞いた話では、数年前に女性がポリテクに初めて入学したと言って大騒ぎをした由、その後人数も徐々に増え、当時は例年2~5名くらいの入学があるとのこと。それにしても成績トップならこそ先頭を進むのだという話。フランス人が驚くのも納得です。 皆さんの疑問は「一体パリ祭とは何だ?」でしょうね。それはフランス共和国誕生記念日と言うか建国記念日です。単純に”14 juillet”(キャトーズ・ジュイエ即ち7月14日)と呼んでいますが、1789年フランス革命の発端となったバスティーユ襲撃がこの日なのです。英語では”Bastille Day”です。 ポリテクニックの話を少し追記します。フランスでは高等学校を卒業した後バカロレアという全国一斉の試験を受けて大学入学の資格を手にします。成績に応じて自分の道を進むのですが、一部の秀才は2年間の予備校に進み、再度の厳しい試験に合格してやっとグランデコールに入学します。そのグランデコールの一つがポリテクニックです。大学の授業料は無料ですが、グランデコールの学生は給料をもらうと言います。すなわち公務員としての待遇です。さらに卒業生の大半が官僚や大企業のトップを目指します。日産=ルノーのカルロス・ゴーン前会長もポリテクニックの卒業生です。 もう一つ裏話をお耳に入れます。パリのルーブル美術館の近く、ある日本レストランにミッテラン大統領(当時現役)が隠し子と一緒に現れると耳にしました。可愛い娘さんだとも噂されていました。数年後その娘さんがポリテクニックに入学したと聞きました。今は多分政界或いは官僚として、はたまた一流企業で大活躍していることでしょう。

フランスあれこれ(13)パリのカタコンブ

カタコンブと言うと通常は地下の墓地ですが、パリのカタコンブは違います。ひと言でいうと地下の遺骨埋葬地です。わざわざ墓地から遺骨を移送再埋葬したものです。正確には市営納骨堂です。 私がこのカタコンブに行ったのは50年以上前のことです。何故カタコンブに入る事になったのか、当時の事情は全く思い出せませんが大変衝撃的な思い出だけが記憶に残っています。その頃はまだ人気の観光スポットでもなく、ひっそりとした遺跡の一つに過ぎなかったと思います。入り口で入場料を払ったかどうかも記憶がありません。当時は午後の一定時間のみの入場が可能で、その日は入り口にせいぜい20名程度の人が集まっていました。夫々番号札を受け取って入場します。出口で回収するので紛失しないように注意がありました。もう一つ必需品があります、それは懐中電灯かローソクです。私は準備不足で使い残しのローソクを頂きました。 いよいよ入場です。厳重な注意事項がありました。それは勝手な行動はしない!集団で移動することでした。暗くて細い道を少し進むと急な、そして狭い螺旋階段をひたすら下ります。あっという間に方角を失います。全くの闇夜になりました。そして細い道を一列で前進するのですが非常に長く感じました。やっと入り口に到着ドアを開けてもらいましたがそこは死者の世界。ミイラではなく白骨の街道です。2~3mほどの道幅の両側に人骨を壁のように積み上げ、壁の上に一列に整列した頭蓋骨が私たちを監視するように見つめています。手元はローソクか懐中電灯、光の届くのもごく近いところだけ、一歩前進すると頭蓋骨が一つ近寄ります。 やがて少しは目も暗闇に慣れかすかに前方を見ることが出来るようになり、道幅も広がり、交差点があり、心も落ち着いてくると何となく死者の街、パリの裏道を歩いているような気分になりました。やはりここは死者の街なのだ。学生風の若者が横道に入り次の交差点まで点検に向かいます。途端に大声で「そこからは曲がらないで帰って下さい!」、ガイドさんの話によると、それ以上進むと声が聞こえない、万一明かりが消えると全くの暗闇、人間の世界に帰れません!とのこと。時々迷子が出て大騒ぎになる由。そのために番号札を回収して全員帰ったことを確認するのだと言います。 若い人は慣れるのも早い、やがてこれは美人だとか、頭蓋骨に傷があるので事故か事件だとか。或いは両目に指を突っ込んだりするものまで出てくる始末、またもや案内員から厳重注意!私は子供の頃からのしつけのせいか全くそんな感情にはなりません。むしろ一人一人の人生を思い辛く悲しい感傷に沈んでいました。 交差点を曲がるごとに反対方向を眺めましたが同じような街道としか見えません、見えないだけに大変不気味な気分です。20分くらい歩いて出口に出ました。入り口と違って明るい世界に飛び出したという感じです。 パリのカタコンブについて少し調べてみました。日本人には今一つ人気が薄いようですが大変な人気の観光スポットになっているようです。来場者の多い日には2時間待ちだとも言います。ただ見学できるのは今も昔も同じ1.7㎞、しかし照明をはじめ完全整備されているようです。横道に入ることも閉鎖されたりして不安も心配もなくなっているようです。入り口の螺旋階段は130段、地下約20m、そして遺骨の配列も色々と遊びが入ってワインの樽だったり、ハートマークに頭蓋骨が配列されたりしています。遺骨の総数は500~600万体、総延長500kmにも及ぶ街道に配列されているとやら。 ではどうしてこんな納骨堂が出来たのか?それはパリの街の発展と共に教会隣接の墓地が満杯になり、更には異臭や腐敗で衛生上も耐えられなくなったため18世紀後半から現在地に移送したと言います。カタコンブの場所は当時パリの郊外、石切り場のあとだった由。 私は一つの疑問を持っています。何故フランス人は人骨を素直に触り、面白く悪戯をしたりできるのか?と言う事です。亡くなった人は既に神のもとにと言う事でしょうか。 (写真は最近のネット検索です)