シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その4)成田待機生活初日の巻

成田のビジネスホテルで15 日間の待機生活が始まりましたんや。その初日の朝ですわ。私はインドネシアでは毎朝5時頃に目が覚めてました。日本とは2時間の時差があるさかい日本の時間でいうと7 時ですわな。けど成田のホテルではなんと日本時間の朝5 時に目が覚めてしもたんです。インドネシア時間ではまだ深夜の 3 時でっせ。 私の体内時計は一体どうなっているやろね。それとも体が衛星電波時計みたいに自動的に日本時間に切り替えてくれたんでしゃろか。外はまだ真っ暗でした。テレビをつけましたら「おはよう日本」をやってまして、久しぶりでした桑子さん、ちょっと前までジャカルタでは夜の9 時のニュース、チカランでは7 時にお会いしていましたわな。 そんでチャンネルを回して、ちゃう、回すんと違います、押すんですね。これって同じことを河野大臣がツイッタ ーで書いてましたな。どこの局も台風がゆっくりと関 東に向かってるちゅうニュースばっかりでしたわ。ええですな日本は、日本語でしゃべってくれるテレビ番組ばっかりで。それに番組表がテレビ画面に出るん ですよ。いちいち新聞の番組表を見んでもええんですわ。それに見たい番組のとこにや矢印で移動してリモコンを押すだけでそこに替わるんでっせ。受像機は Samsung やのうてSony でしたもんね。 そんであちこちのテレビ番組を見てましたけどお腹が空いて来たんで前の晩にコンビニで買ったオニギリ1個ととん汁で腹ごしらえをしたんですわ。7 時半すぎにルームサービスで朝食が来ることは知っていましたけど空腹には勝てんかったんです。オニギリを食べ終わってもルームサービスまで時間があったんでコンビニに行くことにしましたんです。まるで買い物好きの主婦みたいでやね。外は曇ってましたけどもう十分に明るかったですわ。何を買いに行ったんかちゅうと寒かったんで下着のシャツを買おうと思ったんです。 日本はまだ 10 月やからT シャツ一枚で過ごせるやろと思ってまして肌着のシャツを持ってきておらんかったんですわ。けど前の日から関東地方は11 月中旬の寒さになってたんです。シャツはそのコンビニには置いていませんでしたけど何か買わんとあかんと思ってドリップコーヒー10個入りを買ってホテルに戻りましたんや。 そして7 時半過ぎにドアがノックされたんでドアを半分引くとネクタイ締めたホテルマンがルームサービスの弁当をドア越しに渡してくれましたわ。なんか収 容所で一人分の食事を係官から受け取ったような感じでしたで。弁当のほかにはインスタント味噌汁とパン2個とバターやマーガリン、ジャムのあの小さなパックもそのビニール袋に入ってましたわ。ちょっと前にオニギリを食べていましたんで空腹感はおませんでしたけど弁当とパン二個 を全部平らげましたわ。我ながらよく食べるもんですな。なんも運動してへんのにね。そうそう部 屋が狭いんで机の上で食事したりパソコンしたりするときにイスに座るとその脚がベッドにビッタリ  とくっついてそれ以上後ろにずらすことができんのです。 そんでイスから離れるときにちょっと腰をひねらなあきませんのや。するとちょっと腰がグキッと痛んだんです。ちゅうのは帰国前の土曜  日にアパートで大きなトランクに荷造りしたときに腰を痛めたんですわ。飛行場で預け入れる荷物は一個23kgにせなアカンのです。そんで重いトランクを手に持って体重計に何回ものって23kg以下に収めたんですわ。二個も大きいトランクがあったさかいに中のもんを出したり入れたり、入れ替えたりで大変でしたで。そんで日曜日に昼食送別会をしてくれるちゅうお誘いをお断りして寝てましたら腰の痛みはのうなったんです。けど長時間の飛行機の中とホテルでの座ってばかりの姿勢やったさかい腰に負担がかかったんでやろね。 それで私はコルセットを付けましたんや。なんで私がコルセット持ってるのかって?そのコルセットはチカランで同じ年配の飲み友達がもってけって私にくれたんですわ。その友達は数か月前にひどい腰痛になって座ることしかできん  かった時があったんですわ。そんで私が腰痛になったことを知って飛行機の中では狭いところに  座ってばっかりやからと彼が使ってたコルセットと腰痛用の薬4 種類をくれたんです。それも出発前夜の送別会の席でですわ。薬は病院でもらったんと同じもんをその日にわざわざ薬局で買ってきてくれたんでっせ。ありがたいもんですな。まさかの友は真の友Rainy day friend is a true friend でっか、いや学校では A friend in need is a friend indeed と習ったたんとちゃうかな、どっちやろ。そして同病相哀れむFellow sufferers pity each other ちゅうやつでわな。 帰国する飛行機の中では腰は痛まんかったんやけどえらい冷房が効いてて鼻水が出て止まらんようにな ってたんで薬局で腰の痛み止めの湿布薬と風邪薬を買おうと思ってスマホで近くに薬局がない かどうか調べましたんや。すると歩いて行けるところに薬局がおましたんです。そんで「シャツ」と「湿布薬」と「風邪薬」と机の上にあったメモ用紙に書いてから午前中は横になって休んで昼過ぎに外出することにしましたんや。 最近は買い物に行くときにメモしとかんと忘れますんですわ。チカランでも自炊してましたんでスーパーに買いもんに行って帰ってきて、あれ買うのを忘れてちゅうてまたスーパーに買いにいったことが何回もありましたわ。それからですわメモするくせがついたんわ。日本にいるときに嫁はんがいつもスーパーに行く前に買うもんをメモしてて、そんなん全 部頭に入らへんのかなあと思ってましたけどよう理解できるようになりましたわ。単身赴任ちゅう のは主婦の苦労がようわかりまんな。嫁さんに感謝、感謝ですわ。若い時に食事中に新聞読んでてごめんなさいです。 そんで午後になりましたんで外出しようと部屋のドアを開けますとドアの 下に何かを包んだ白いビニール袋が置いてありましたんや。その中には新しいシーツやガウンや アメニティちゅうもんが入っているもんでした。そのビニール袋を部屋の中に入れてまた廊下に出ますとどの部屋のドアの下にもおんなじ白いビニール袋が置いてありましたわ。ホテルの外に出ますと曇り空でした。 スマホの地図を頼りに歩いていくとJR 成田駅に出ましたんや。駅舎を見て二年前に家族旅行で千葉に来たときに嫁さんと次女とこの駅に来たことを思い出しましたわ。その時は長女も一緒に千葉の養老渓谷に2泊3日の旅行しましたんです。房総半島を横断する  小湊鉄道といすみ鉄道に乗りましたんやで。お寺で写経したり港町の魚市場に行ったり、そうそう「月の沙漠」ってどこが舞台か知ってまっか。 あれは鳥取県の砂漠やのうて千葉県の御宿(おんじゅく)でっせ。それにあの歌の題名は「砂漠」やのうて「沙漠」なんですわ。沙には「すなはま」ち ゅう意味があるんやそうです。 そんで最後の日に長女は一足先に岡崎に帰って私はジャカルタ  に次女はシンガポールに戻る前の晩でしたわ。二人を見送りたいちゅう嫁さんと3人で空港近くのホテルに泊まったんです。そんで3人で夜に成田山に来て参道で日本最後の夜やちゅうてウ ナギ料理を食べて三重塔を見に行ったんですわ。成田山の参道ってウナギ料理で有名なんです。ちゅうのは成田の西にある印旛沼でウナギがぎょうさんとれたんで成田さんへの参拝客にも てなしてきたそうですわ。JR 成田駅から新勝寺までの参道のおおよそ800mの間に60軒ほどのウナギ料理屋さんがあるそうでっせ。私は今回二週間も成田におるんやけどウナギ料理は見るだけの生活ですわ。待機生活が終わる最後の日にウナギ料理を食べて岡崎に帰ったろかいな。けど岡崎で食べる一色ウナギの方が美味しいやろかなあ。 あかん、私は薬を買いに行った んですわな。私は JR 成田駅の構内を通り抜けて西口に出ましたんや。そして西口に続く高い遊歩道を降りで少し歩きますと目指す薬局があったんやけど閉まっていましたわ。他に薬局がないかと近くを歩いてみますとクリニックがありその横に処方箋を扱う薬局がありましたんや。けどそこも閉まっていたんですわ、きっとその日は空海さんの宿曜経でいうと運の悪い日やないかと思い ましたわ。 なんで空海さんが出てきたかちゅうとね成田の新勝寺は空海さんが始めた真言宗やからですわ。そんでその日は薬を買うのをあきらめて駅の方に戻りますとなんと駅に上る階段のすぐ横にマツモトキヨシがあったんですわ。さっき来た時は駅から続く高い遊歩道を歩いて違う方向へ降りたんわでお店があることがわからへんかったんです。わあ、やっぱり空海さんは私を 見すてんと助けてくれはったと感謝しましたわ。 そのお店で痛み止めと風邪薬を買いましたんや。年配の男性店員さんはえらい親切で「どのような症状ですか」と聞いて鼻炎に聞く「鼻炎」ちゅう薬と腰痛用の貼り薬を選んでくれましたわ。支払いを済ませてお店を出ようとすると雨が本 降りになっていましたんでその薬屋さんで透明のビニールの雨傘を買いましたわ。 そしてその傘をさして歩いてホテルに戻る途中の大きなコンビニで買い物をしましたんや。そのコンビニは駅に行くときにみつけましてね、その時は中に入ってシャツがあることを確認しておったんですわ。そで帰りに買いたかったんはシャツと夕飯の弁当とドリップコーヒーを飲むのためのコップですわ。 ドリップコーヒーを朝に買うたんですけどカップを買うんを忘れておったんですわ。やっぱり買いもんするときはメモをしなあきませんな。コップは普通の紙コップ 10 個入りしかありませんでしたわ。 そんで半袖のシャツ二枚と紙コップ10  個セットとコンビニ弁当を持ってレジに行ってお金を払おうとしますと店員さんの後ろにジュースを売る機械が置いてあってその横に長い紙コップがあるのが目に入ったんですわ。そのLサイズのコップにコーヒーをようけ入れることがでけると思って欲しくなったんで弁当を温めてもらっている間に店員さんに「あの長いコップを売ってください」とお願いすると店員さんは「ちょっと待ってください」と言ってジュースのメニューをジッーと見てコップだけの値段を調べてましたが価格が載ってないようだったんで「ただです」と言ってその大きなコップを温め終わった弁当と同じビニール袋に入れてくれましたわ。 マツモトキヨシといいコンビニといい日本の店員さんは優しくて親切でんな。それに道路を横断するときすべての車が止まって私が渡るのを待ってくれますんや。日本は歩く人に親切な国になったんやね。そして雨の中を傘さしてビニール袋を三つ手にもってホテルに戻りましたんや。そんで食事する前にメールを開きますとチカランのサービスアパートからメールの連絡が入ってて預かった洗濯もんや退去した 部屋にある棚やスタンドはどうしますかって問い合わせが入ってましたんや。というのはアパート  との契約があと一カ月残ってましたんですわ。私はジャカルタから通ってる部下がひとりおりまし たんで、もし暴動かなんかでジャカルタに戻れん時には私のおったアパートに泊れるようにと備品も少し残してきたんですわ。ちゅうのはね私がジャカルタから帰国する前の日から学生や労働者が大きなデモをしだしたんですわ。それは政府が雇用を創出するために投資をしやすいようにと労働法や投資法など11 分野をひとくくりにして改定するちゅうもんですわ。インドネシアはタイやベトナムに外国からの投資で負けてますんでちょっと投資する企業の方に有利にしたんですわ。その法案が最近国会を通ったんで学生や労働者が最低賃金や退職金が下がるゆうて政府に反発しだしたんです。けど日本と同じできっと裏では政治的な駆け引きがあるんとちがいますやろか。 そうそう、それに二つもらってました部屋のカードキィのうち一つを返さなアカンかったけど私が空港で運転手さんに渡すのを忘れてしもて持って来てしまってたんですわ。そのカードキィについて費用を払う必要があるかどうかもメールで聞いていたんです。それで私はアパートの メールをくれた人にすべてチカランの私の後任者に話してあるので彼に聞いてくださいと返事し ましたわ。その日はそのあと弁当を食べてマッチ箱のような浴槽で体を縮めて温まってから寝ましたわ。鼻水もまだ出てたんで前の晩に買うたウィスキーもワインも封を切らずに机の上に置いたままでしたわ。それらは風邪が治ってからいただくことにします。 これが待機生活一日目です。はい。それにしてもコロナ感染者についてはどのテレビ局も東京の感染者や死亡者ばっかり話してまんな。これは成田が関東で東京の放送局のテレビ番組のせいやろか。けど検疫で 7 人の感染者がでたって言ってましたわ。待機生活に入った人が感染者になる割合ってなんぼなんでっ しゃろな。けど明日からこんな生活が続くんでしゃろか。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(25)  シンガポールへ社員旅行(前編)の巻

(記載内容は2019年当時のものです。) 11月早々に社員旅行でシンガポールに二泊3日で行ってきました。 社員の家族も入れて総勢50余名でした。 到着したシンガポールの空港は新しいターミナル4でした。 機内から建物に移るとすぐに手荷物検査と身体検査がありました。普通は出国時に出発ゲートで行う検査を入国してすぐに行うので不思議に思いました。身体検査はあの小さな円形のケージに入って透視される機械です。 検査を終えてイミグレに向かう途中でみながトイレに行き、出てきた社員たちはトイレがきれいであることに感心していました。 またイミグレでは指紋を取る機械にスクリーンが付いていて、そこにパスポートの顔写真が映し出されるなど今までみたことがない新しい設備でした。 皆が入国検査を終えて荷物受取場に一緒に行こうと集まっていると、私と同年齢の現地側取締役が検査中にどこかに連れて行かれたと報告がありました。 同行していた旅行社のガイドにどうなってるのと聞くと『彼の名前がインドネシアの汚職で騒がれているリッポー財閥のファミリー名と似ているので本国照会を受けているのです。』とのことでした。 リッポー財閥は開発した土地(メイカルタ)で県知事を巻き込んだ汚職事件があり、ファミリーのひとりがシンガポールにいたとかで新聞で騒がれていました。 現地取締役が疑われた理由というのは、そのリッポ^-財閥のファミリー名がリアディで、現地取締役の名前はハリアディさんだったからなのです。私たちは先に荷物を受け取り、ロビーに出て取締役を待っていました。一時間ほどすると我が取締役は嫌疑が晴れ私たちのもとに無事戻ってくることができました。 シンガポールでの日程は初日が市内観光、二日目がユニバーサル・スタジオ・シンガポール(USS)見学、そして最終日は朝から自由行動で午後にホテルに集合しバスで空港に向かうと言うものでした。 空港で時間を取られたため、昼食前の市内観光の時間がなくなり、レストランに直接向かいました。昼食後はGardens by the Bayに行き集合写真を撮ったあとに20分くらいの自由行動時間がありましたので、私は家族連れや夫婦で来た社員の邪魔をしないよう一人で歩きました。Gardens by the Bayには大きなドームの植物園がありましたが、今回は時間が無くて入ることが出来ず外からドームの中を覗きこむだけでした。 バスに戻る時間が迫ったので集合場所の方に向かいましたが、同じような景色ばかりで道に迷ってしまいました。私の携帯にはスタッフから早く戻って来てくださいと連絡がありました。 私は通りかかった女性係員に観光バスの乗り場がわからなくなったので教えてほしいと頼むと、彼女は親切にその乗り場近くまで案内してくれました。さすが観光立国シンガポールですね。 みなと合流すると今度はマリーナ・ベイを海を挟んで眺める場所に行きました。 その後は定番のマー・ライオン見学となりました。バスが黒いラッフル像のある博物館の前に駐車させたので、ラッフル像の前で記念写真を撮り、歩いてシンガポール・リパーに掛かった橋を歩いて渡り、マー・ラインの広場に向かいました。 そのあとはインドネシア人が好きだと言うチョコレート屋さんと観光客相手のお土産屋さんと二軒続けての買い物ツアーとなり、そして夕食を取るレストランに向かいました。 レストランにはこれまた売店が併設されており、店の人が我々に番号のついてシールを上着に貼って行きました。これは旅行会社かバス会社に売上の手数料を払う目的だったでしょうが、食事前に買い物を済ませていたので誰一人として売店に立つものがはいませんでした。 私たちが宿泊したホテルはインド人が多く住むセラングーン・ロードの近くにある団体旅行客専用の小さなホテルでした。私の部屋は狭いシングルルームで、バス・ルームに浴槽はあるのですが、長手方向と短手方向の一方がコの字方に壁になっており、もう一方の短手方向から浴槽に入るという窮屈な造りでした。 シンガポール旅行二日目です。 その日はユニバーサル・スタジオ(USS)にバスで直行し、10時から17時までそこで過ごす予定でした。でも、私は夕方に皆と別れてシンガポール住む娘と食事をすることにしていました。 USSでも私はひとりで歩いていろんなアトラクションを見ました。 各アトラクションへの料金はすでに入場料に含まれているので無料でしたが、人気のあるところは一時間以上の待ち時間となっていました。映画会社が作った遊園地なので映像やアクションが満載でした。ちなみに私は日本のユニバーサル・スタジオに行ったことがありません。 私が駐在していた頃のシンガポールの観光スポットと言えば、セントサ島、小さなマーライオン像、植物園、チャイナタウン、オーチャード・ロードのプラナカン、ラッフルズホテル、シンガポール博物館などで、テーマパーク的なものはハウ・パー・ヴィラ(旧タイガーバームガーデン、1937年)、バード・パーク(1971年開園)、タン・ダイナスティ(中国時代劇映画村、1992年開園、1999年閉鎖)、ナイト・サファリ(1994年開園)、それに加えて中国庭園/日本庭園やワニ園もありました。 17時にイースト・コーストで娘との夕食の待ち合わせのため16時に部下二名とUSSを出ました。 セントサから本島への移動は、朝はバスで橋を渡ってきましたが、帰りは昔、乗ったゴンドラで戻ることにしました。しかし、どの乗り場からゴンドラに乗れば良いのかわかりませんでした。 島内にモノレールが走っていて、ゴンドラ乗り場がどの駅からでるのかよく分らなかったのです。 モノレールは無料でしたが、ゴンドラは往復チケットを買わねばならないと言われちょっと高い出費となりました。 ゴンドラから見下ろすと、セントサ島が埋めててられているのでしょうか、本島とセントサ島の間の海の部分が狭くなっていました。 マウント・フェーバーでゴンドラから下りて、タクシー乗り場を探し、イーストコーストに向かいました。 タクシーの運転手はかつて日系の船会社のコンテナー関係の仕事をしていたという60歳を超えた人でした。運転手さんはタクシーを始めて間がないが、GPSで目的地がわかり、スマホで予約が出来るので経験が必要ないと言っていました。そして、シンガポール政府は頭が良いよねと言うので、私は駐在時に覚えた政府批判のシャレを思い出し、与党の人民行動党(PAP)の略語は『Pay And  Pay』や『Poor Also Pay』 の頭文字だよねと言って笑いをとりました。 イーストコーストのレストランへはちょっと遅れて着き、先に来ていた娘と合流しました。 娘はその店に友達とよく食事をしに来るらしく、女性副店長と顔見知りで、大きな蟹を注文するとその副店長は親切に殻を割って私たちのお皿に身を分けてくれました。 部下二人と娘はほぼ同年配なので楽しく語り合い、美味しく食事を終えました。 また私は最近購入した360度カメラで食事風景を撮って楽しみました。 食事後は娘と別れ部下とホテルに戻りました。 その日は日曜日で、二日後にはインドのデバリ(燈明祭り)でしたので、ホテルの近くの大通りはアーチ状に色鮮やかなイルミネーションが飾られていました。 ホテルに一旦戻ったのですが、部下のひとりが夜の町を歩きましょうと言うので私もホテルの外にでました。そして、二人して片道一キロほどの通りをほろ酔い気分で歩きました。 通りを歩いている人、商店で買い物する人はすべてインドの人たちばかりでした。 ですから店の名前にチェンナイやマドラスが付けられているがいくつかありました。 シンガポールおよびマレーシアのインド人たちは歴史的にまた地理的にも南インドのタミール人が多いのです。よく言われるのはマレー半島がポルトガルや英国の植民地時代だったころにヤシ園やゴム園で働く労働者として南インドのタミール人が連れてこられたというものです。 二日目が終わり、最終日の三日目は後編に続きます。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(107)走れ!インど演歌(その3)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) 演歌には人妻を愛する歌がたくさんあります。日本では昔から不倫や間男など、男の人が女性と遊ぶ面白さを『一盗二卑三妾四妻』で表していますもんね。かあちゃん、これは昔のことですからね、念のため。 いや、今では男女逆の時代でしょうか?かあちゃん、心から愛してるよ。 『さざんかの宿』(1982年)は大川栄策の歌です。彼は本名を荒巻逸造といい、福岡県大川市の生まれです。作曲家古賀政男の最後の弟子です。1969年に『目ン無い千鳥』でデビューしました。苦労した歌手です。 インド駐在員も苦労しています。広いインド市場を回る必要があるのであります。 さざんかの宿(作詞:吉岡治) インドの宿 くもりガラスを 手で拭いて あなた 明日が 見えますか 愛しても 愛しても あゝ他人(ひと)の妻 赤く咲いても 冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿ぬいた指輪の 罪のあと かんでください 思いきり 燃えたって 燃えたって あゝ他人(ひと)の妻 運命(さだめ)かなしい 冬の花 明日はいらない さざんかの宿せめて朝まで 腕の中 夢を見させて くれますか つくしても つくしても あゝ他人の妻 ふたり咲いても 冬の花 春はいつくる さざんかの宿 くもるメガネを 手で拭いて あなた 工場が 見えますか さがしても さがしても ああ砂のなか 赤く染まるは グジャラート 夕陽わびしい 西インドの宿ぬけた車の タイヤあと 埋めてください 思いきり 押したって 押したって ああ泥の中 出張かなしい 雨のケララ 傘はいらない 南インドの宿せめて朝まで 部屋のなか 原価を見させて くれますか たしてたって かけたって ああ赤字です いつもきている カルカッタ 利益はいつ出る 東インドの宿 丹羽慎吾

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その3)の巻

ジャカルタから成田に到着してPCR 検査などの手続きをしてホテルへ送ってもらう帰国者専用バスを待ってたとこから始めますわ。 時刻は夜の7時半を過ぎてましたわ。ちゅうのは飛行機が成田に着陸したんが 3 時半、機内で1時間待って、PCR 検査の結果待ちが2時間でそれが終わって預けた荷物を取りに行ったんが6時半でしたわ。そんで税関を通り宅急便や銀行のATM に行ったりで1時間かかってバス停に行きましたんで 7 時半となったんですわ。 帰国者専用バスの案内板は暗い隅に置いてありましたんでしっかり見て探さんとわかりませんでしたわ。案内板には時刻表やのうて朝の9 時15 分から夜11 時15 分までが運行時間で1時間置きに出るゆうて書いてありましたわ。 そんできっとバスは毎時 15 分に空港を出るんで 7 時 15 分のバスに乗り遅れたんやと思いましたわ。そうすると次は8時15分やと思うて空港の中に入ってイスに座ってバスを待つことにしましたんや。 寒かったんですわ空港の外は、私はTシャツとジャケットだけやったさかいな。その日の東京は11 月中旬の温度やったとホテルに着いてから見たニュースで言ってましたわ。それに台風が日本に近づいておりましたんで小雨も降ってましたわ。 スマホのバッテリーが8%になって赤色になってましたんで休憩場所の壁の下の方にあったコンセントから自分の充電器を使って充電させてもらいましたわ。8時過ぎにバス停に戻ってきますとバスを待つ人は私を入れて3人だけでしたわ。 ちょっと待つと帰国者用専用バスが来て前の入り口のドアが開いたんで私がドアの外から運転手さんに「乗っていいですか」と聞くと「まだです」と運転手さんは席に座ったまんま手元に持ったボードに何か書き込みながらこっちを向かんと愛想のう言わはったんですわ。 やっぱ関東の人の言葉は冷た いなあと感じましたわ。私は「まだ乗ったらアカンのやったらドアを開けんでもええやないか、閉めた まんまにしといたらどないや」とボヤきたかったんですが言えませんでしたわ。きっと寒さと暗いところでバスを待っておったしお腹が空いてたんで温厚な私でもイライラしてたんやろね。 そして運転手さんが手に紙を挟んだボードを持って降りてきて3人にどこのホテルに行くんか聞かはって3人の荷物をバスの横腹にある荷物入れに入れてくれましたんや。私は荷物を運転手さんに渡した後に「もう乗っていいですか」と聞きますとね「どうぞ」とまたそっけない言葉でしたわ。ついでに私が「(私の 泊まる)〇〇ホテルはバスに乗って最後のほうですか?」と聞くと「そうです、最後から2番目かな」 と答えてくれはったんですわ。 バスに乗り込みますとすでに4人ほどの人が乗ってはりましたわ。バ スが出発すると何回か止まり人が降りその都度運転手さんは席を立っては外に降りて荷物を車体の横腹から出してまたバスに戻ってきて運転してはりましたわ。空港を出て15分くらいしてからやろか私の泊まるホテルの近くに着きましたんや、お客さんはまだ一人残っておりましたわ。運転手さんはやっぱりパスを降りて車体の横腹の荷物入れから私のトランクを出してくれましたんや。親切でんな日本のバスの運転手さんは。運転して、車内アナウンスをして、荷物を入れたり出したりして、行先を教えてくれたりと一人で何人もの仕事をこなすんですわ。工場でいう多機能工ですわな。日本の文化ですわ、よその国では考えられへんことですわ。 その運転手さんに私は「ホテルにはどっちの方向に歩いていくのですか」聞くと「ここをまっすぐ行ってあそこを右に回って左側にあるよ」と簡単に教えてくれはったんです。けど私には初めてのところやさかいようわかりませんでしたんや。ええ  わスマホで調べればわかるやろなと思って運転手さんには「ありがとうございました」とお礼を言いま  したんや。 降りたとこのすぐ近くにコンビニがありましたんでホテルにチェックインしたらすぐに弁当とお酒を買いに来ようと心がはやりましたわ。はよう日本の弁当を食べたかったんですわ。ホテルまではちょっとした坂道を上って行かなあきませんでした。小雨が降り始め坂をすべらんように上るの はちょっとしんどかったでっせ。駅の周りには多くのホテルやマンションが立ち並んでいましたわ。 ホテルはビジネスホテルでしたんや。中に入ると透明なプラスチックで仕切ったカウンターが2つあってひとつの方でホテルマンが先客と話してましたわ。私はソーシャルディスタンスを守り先客の後ろに離れて立って順番を待ちましたんや。そうしてましたらもう一人ホテルマンが外から戻ってきてカウンターのなかに入って私にどうぞと言わはったんで私はチェックインの手続きを始めましたんや。 ホテルには会社から予約を入れてましたけどホテルマンは私に「どこから来たのですかそのあとどこへ行かれますか」とゴーギャンの有名な絵の題みたいなことを言わはりましたわ。そして私が帰国 者であることを確認すると「連泊のお客様へのお願いと案内」と書いた一枚の紙を渡してくれてその説明を始めましたんや。 仕事で長期に滞在する人を対象とするんで「連泊」と書いてはあるんですが、これは帰国者を対象にしたもんやと思いましたわ。なぜかちゅうとねその内容が次の通りやったからですわ。 〇朝食付きですがレストランの食事はご遠慮いただいております。お部屋までお待ちします。 書いてある言葉は丁寧ですけど「帰国者は人と接触してはアカン」ちゅうことですわな。けどポジティブに考えればこれはルームサービスですわ。私は海外の出張でもホテルのルームサービスを取ったことがおませんでしたさかい初体験になるんで嬉しかったですわ。けどあとで部屋に行くときに乗 ったエレベーターの中には「朝食はレストランでおいしい食事をどうぞ」いう写真付きのポスターが貼ってありましたけどな。それにビジネスホテルでルームサービスはあまりお目にかかれませんわな。 〇毎朝ドアの前にタオル、歯ブラシのなどのアメニティの入ったセットを置かせていただきます。 「シーツ・枕カバーの交換もご自身でお願いしております」とも書いてありましたんや。私は今までサービスアパートに住んでましたんでシーツの取り替えを自分でしたことはおまへんのですわ。そんで だんだんと自分が人と接触してはあかん ET みたいな存在になったようで淋しくなったんですわ。せっかく久しぶりに日本に帰ってきたのに人と接触できんのはむなしいなあと思いましたわ。 〇その中にはビニール袋が三枚用意しています。使用済のタオルやガウンはその袋に入れて縛ってからドアの前にお出しくださいませ。 これまた「帰国者はホテルの清掃スタッフとも接触してはアカン」ちゅうことですわな。さらにわびしくなりましたんや。シーツや枕カバーを自分替えるんやったらその分の料金は安うなっとるんやろか。 〇アメニティー類とリネン類は別々の袋に入れ、ドア前に置いて頂きますようお願いします。 「清掃スタッフはお部屋への入室を控えさせていただきますので、ご滞在中の客室清掃はお受けできません」とも書いてありましたわ。15 日間私は掃除をしない部屋で過ごすのですわ。バスタブもトイレも自分で掃除せなあきませんわ。けどこれは禅宗のお寺の修業コースだと覚悟しましたわ。 〇外出はなるべくお控えいただくようお願い致します。(万が一外出する際は必ずマスクの着用をお願いします。) なるべく控えるってどのくらいの頻度なんやろ。私は PCR 検査が陰性やったんでっせ、ある国の大統領なんか陽性で入院したのに一週間もたたへんうちに人前に出てきてますやないか。だいたいやがねぇ、待機生活の二週間が終わってから PCR 検査もラピッドテストもないっちゅうのはおかしいんとちゃいまっか。そんなんもう一回チェックして陰性であることを確認してから人前に出れるように せなアカンと思いまっせ。ちゃいまっか、ねぇ、責任者出て来い。「ほんまに来はったらどうしますんや。」「謝りますわ。」「なんて?」「ゴメンちゃい。」なんや人生幸朗生恵幸子のボヤキ漫才やがな。 結果判明後について(厚生労働省Q&A より) Q 陰性の結果が判明した後は自由に行動ができるのですか A 入国した次の日から起算して 14 日間は、事前に申告いただいたご自宅又はご自身で確保したホテル等にて待機していただきます。その際、自宅・ホテル等の待機場所からの外出や、公共交通機関(不特定多数が利用する電車、バス、タクシー、国内線の飛行機、旅客船など)を使用しないでください。 ※待機宿泊時の食事は、デリバリーサービスなどのご利用が推奨されております。 私の同僚でインドに長期出張しておったんが一週間前にやっと帰国できましてな羽田のビジネスホテルでの待機生活に入ってましたんや。彼からは朝食はレストランで取れるけど昼と夜はコンビニで弁当を買って食べてると連絡をうけてましたわ。そして近くに見える東京タワーの写真を送ってくれてましたんや。私は会社からホテルの名前を連絡してきた時にネットでその場所を調べてホテルが 成田山新勝寺に歩いて行ける距離にあることを知りましたんや。そんでチェックインする時にホテル マンに「新勝寺には散歩に行けますよね?」と念のために聞いてみたんですわ。すると「行くのでしたらひと気のない夜か早朝に行ってください」と冷たく言われましたわ。これまた帰国者は感染の可能性があるから人と接触をしてはアカンということですわな。 そして私が「洗濯ものを出すことができますね」と聞くと「ちょっと待ってください」とゆうて隣のカウンターの人と小声で耳打ちしだしましたん や。そして耳打ちされたホテルマンが「業者が受け付けてくれません。洗濯はホテルの〇階にある コインランドリーでしてください。百円玉5枚でできます。」と言わはったんですわ。チカランではサー ビスアパートやったんで自分で洗濯をしたことがおませんでしたわ。こりゃまた面倒やなと思いました わ。 私が「洗剤は自分で買って来るのですか?」と聞くと「洗剤は入れなくても自動で出てきます」とのことでしたわ。そのやり取りを引き次いで最初のホテルマンが「洗濯はできるだけ昼間のお客さんがいないときにしてください」と言わはったんですわ。なんやなんや私は完全にコロナ感染者として扱われているのかと思いましたわ。私が不服そうな顔をしていたからか「外食はできませんがホテルの周りにデリバリーのできるお店がありますので取り寄せることができます」との説明がありましたわ。 平安時代の 939 年に関東の武将・平将門が新皇と名乗り朝廷と敵対し乱が勃発しました。朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正は弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発し成田の地にて御護摩祈祷を行い結願の日に平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れました。寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げここに成田山新勝寺が開山されたのです。(新勝寺のHP から抜粋) 私が受け付けをしている間に隣のカウンターに新しいお客さんが来ましたんや。日本の隣の大きな国から来た人のようでしたわ。対応したホテルマンが「予約されてるお名前は何ですか」とか「パスポートを見せてください」とか「どこの代理店を通じて予約しました」と聞いてましたわ。 その若い旅人はカタコトの日本語で答えていましたが結局予約をしていなかったようですわ。するとホテルマンが「予約がないと泊まれません。部屋がないのです。」とはっきりと答えたんでその旅人はあき らめてホテルを出ていきましたんや。そらあホンマに部屋がなかったらしょうがおませんわな。きっと旅人はダメ元で来たんでしょうな。 そんなんで私はホテルマンから説明を聞き終えて 15  日間の宿泊代金を前払いして部屋のキィーを受け取って部屋に入りましたんや。日本のビジネスホテルですやろ狭いのは仕方おまへんで、覚悟はしてましたわ。思った通り机とイスとベッドがあってバス・トイレ・洗面台付きのユニットバスだけですわ。私は荷物を部屋に置いてからホテルを出てさっきバスから降りたとこのコンビニに向 かいましたんや。外は暗く小雨が降っていましたわ。けど日本のコンビニで物が買えると思うと小雨も気なりませんでしたわ。日本のコンビニは本当にええですわ。味噌汁、とん汁、しじみ汁、なめこ汁、長ネギ汁などいろんな汁物があっていろんな種類の弁当がありますもんね。一番うれしいのはお酒の値段がインドネシアより  メチャクチャに安いことですわ。五分の一くらいとちゃいまっか。ワ イン(375ml)とウィスキー(180ml)とソーダを買っても二千円し ませんでしたで、ちょっと信じられませんわ。私の住んでいたチカ ランで最近密造酒を飲んだ日本人が死亡したニュースがありましたんや。 安いお酒に手を出したんですわ。私にもその気持ちはよくわかりますで。そやから他人事やおませんでしたわ。 私はお酒類のほかにコンビニ弁当ととん汁を買うてさらにペットボトルのお茶とオ ニギリも二個買いましたわ。鼻水が止まらなかったんで風邪薬をさがしたんですが置いていませんでしたわ。そんで薬は翌日に買いに行こうと決めて勘定をすませましたんや。レジでは袋が要りますかと聞かれましたで袋は有料なんやね。インドネシアではマイバッグですけどな。 そしてルンルン気 分でこれまた暗くて小雨ふる寒い中をホテルに戻りましたんや。 お腹が空いてましたけど弁当を食べる前にスマホをホテルの Wi―Fi  に接続したんですわ。そしたらラインがドドッーと入ってきましたわ。 空港でPCR   検査の結果待ちの時に友人や家族に打ったラインの返事ですわ。そんで私は食事するのを後にしてみんなにまるで罪人扱いや収容所生活やとボヤキを書き込んで送りましたんや。 すると中には「コンビニへの外出が許可されとるんやったら遠くのとこに行ってもコンビニに行って来  たといえるわな。ほならついでにデズニ―シーにでも行って気晴らししたらどうや」というのもありましたんや。そんで私は冷静に「公共の交通機関に乗れないのです。」と返事をすると「そうなんや」との返事がありましたわ。 そして嬉しかったのはその日の朝別れたばかりの会社の運転手さんからのラインですわ。私がいなくなって淋しいとちゅうラインですわ。私は彼に沢山の思い出をくれてありがとうと返事しましたわ。ラインへの書き込みがひと段落したんで食事をすませました。チカランでも部屋で一人の食事をすることがありましたけどビジネスホテルで三方を壁に囲まれた狭い部屋で一人で食事するのは侘しいものでんな。飲もうと思って買ったウィスキーとワインでしたが風邪気味だったので結局飲めませんでしたわ。 その晩はマッチ箱のような浴槽に体を沈めて、チカランのアパートの大浴場をなつかしがりながら体を温めそのままベッドに入り明日からの15日間の監獄生活、ちゃう待機生活をどうやって楽しもうか 考えながら眠りにつきましたわ。今日はここまでにしますわ。 […]

シンゴ旅日記インド編(106)走れ!インど演歌(その2)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) 『女のみち』の次は、おなじくコミックバンドの殿さまキングズが1973年にヒットさせた『なみだの操』です。インドで過ごしている駐在員は一刻も早く、家族のもとに、日本に、そして、本社に戻りたいのです。しかし、なかなか本社にも交替要員がいないのです。インドの生活の中で我慢するしかないのですよ、これも私のことではありませんから、本当に。ねっ、おさむちゃん。 なみだの操(作詞:千家和也) なみだの駐在 あなたのために 守り通した女の操 今さら人に 捧げられないわ あなたの決して お邪魔はしないから おそばに置いて ほしいのよ お別れするより 死にたいわ 女だから 家族のために 守り通した単身赴任 今なら人に 譲ってあげたいわ 本社の決して お邪魔はしないから おそばに置いて ほしいのよ 延期となるより 辞めたいわ インドだから あなたの匂い 肌に沁みつく女の操 棄てられたあと 暮らしてゆけない 私に悪いところが あるのなら 教えてきっと 直すから 恨みはしません この恋を 女だから カレーの匂い 肌に沁みつく私のからだ お仕事したあと 飲みにもいけない 和食を食べるところが あるのなら 教えてきっと さがすから 恨みはしません この町を インドだから あなたにだけは 分かるはずなの女の操 汚れを知らぬ 乙女になれたら 誰にも心変わりは あるけれど あなたを 疑いたくない 泣かずに待ちます いつまでも 女だから 前任にだけは 分かるはずなのインドのくらし 怒りを知らぬ 坊さんになれたら 誰にも我慢の限度は あるけれど 言い訳を 信じたくない 怒鳴らず待ちます いつまでも インドだから 丹羽慎吾

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その2)の巻

朝の6時半に予定通りに飛びたった飛行機は午後3時半に予定通りに成田空港に着きましたんや。 私は出発してすぐに出た弁当、ちゃう機内食を食べただけでこの3週間の連日の送別会の飲み疲れのためにあとはずっ―と寝てましたんや。そやから途中で配られたチーズとハム入りクロワッサンを食べ損ねてしまいましたわ。 そうそう搭乗したらすぐにコロナ関係の書類を二枚渡されたんで必要 事項を記入しましたで。機内の搭乗客の割合は3割でしたわ。インドネシアの人が多かったんでっせ。そうそうそれに大変ですわ。機内が寒かったんですわ。私はTシャツにジャケットを羽織っただけでしたんでフィリピン上空を過ぎたあたりから鼻水がでてきて往生しましたわ。マスクと鼻の間にハンケ  チを挟んで水分を吸収させたんやけどすぐに鼻先が冷たくなるんで何回もハンケチをずらしたり折り 返したりして水分を吸ってへんところを鼻に当たるようにせなあかんかったですわ。それに台風が日本に近づいてるせいか寝ていても時々大きな揺れで目をさましたんですわ。 先を急ぎまっせ、3時 半に成田に着きましたら機内アナウンスがありましてな検疫のために機内で待機してくれですわ。 そんでしばらくするとまたアナウンスがあって国際線乗り継ぎの人が先に降りて検査を受ける、そして帰国者は2番目やとのことでしたわ。そんで一時間も機内で待ちましたで。けど大勢のインドネシア   の人たちが先に出ていきよったさかい CA が私の近くに来たとき「あの人たちは乗り継ぎの人ですか」と聞くと「そうです、アメリカです」との答えでしたわ。今どきにインドネシアの人がアメリカに何しにいくんでしゃろな。まあそんな詮索せんでええか。そんで帰国者が降りる番になりましたわ。私は機内で一番うしろの席に座っておったんで一番最後に出ましたわ。機内から通路に出ると人々が壁際に一列に並んでおったんですが私は機内から私の前を歩いて行く人について行って並んでいる人の列の横を素通りしていったんですわ。そしたら動く歩道がある広い通路に係の人がいて検査場はあちらですゆうたんでそっちの方に歩いていきましたんや。私の前を歩いていた人は動く通路に出たときに検査場と反対の方向に歩いて行ってしましたんや。そんで検査場に向かう通路にはイスが窓側に間隔を置いてぎょうさん並んでましたわ。けど誰も座っておらんかったですわ。その並んだイ スの先が検査場の入り口で机があって二人の人がいるのが見えました。けどそこまで私たちを案内してきた人が私に「すみませんが降りた順番で検査場に入ってください」ちゅうてさっき私が追い抜いてきた人達を先に通すように言わはったんですわ。あれっなんでや、と思って案内してきた人に 「私は機内から私の前を歩いいた人について来ただけです」というと「あの人達は航空会社の人ですから」と言われました。あちゃー、それならそうとはよう言ってもらわんと困りますがな。私は息を  切らして老骨に鞭打って急いで検査場に向って歩いてきたんが無駄骨に終わりましたがな。まぁ、ええですわ。そんで降りてきた人たちが私の目の前を通りすぎてその一番あとに検査受付に行くとプラスチックの小さな試験管とジョウゴちゅうかロートを渡されました。私はPCR 検査が鼻に棒を突っ込んで調べるもんやと思っていたら違うんですわ。そんでまた歩いていくと選挙の時みたいに仕切 ったブースがあってその中でその試験管に唾液を入れてくださいと言われたんですわ。ブースの中   の壁には選挙人名簿の代わりに梅干しとレモンの写真が貼ってありましたわ。私はその写真を見ながら何回も唾液を絞り出してはブースの外の立っていた検査官と「これでいいですか」「まだ足りません」「まだだめですか」「もっとです」「これで十分でしょう」「まだです」「もう出ませんよ」「あと一回お願いします」というやり取りをしてやっと終わってブース横の机のところの検査官に試験管を渡したんですわ。すると検査官は機内で記入した質問票に番号の書いてあるシールを貼って下の待合室に行ってくださいといわはったんですわ。私たちが到着したフロアーは4階でしたんや、そんで3階に降りていくとそこは大きなホールみたいなところでしたわ。 降りてすぐのところに一列で透明なプラス チックカーテンで仕切られたカウンターがいくつも並んでおりましたわ。そしてその広いホールにはイ   スが卒業式みたいに仰山きれいに並んでいて NHK の歌合戦みたいに座席の合間に A、B、C ちゅう文字の書いた立て札が立ってましたわ。 私はそのホールに降りて一列に並んで順番待ってカウン ターにいくとそこで質問表に書いてあることを確認されて「今日はどこに泊まりますか」かと聞かれま したんや。私は会社が指定したホテルに泊まることになっていましたんでそのホテルの名前を言うと「そこまではどうやって行きますか」と聞かれたので「バスが出ていると聞いています」と答えると「それは帰国者専用のバスです。空港のこの出口から出ています」と空港からの出口を示したパンフレットを渡してもらいましたわ。 そして  A-33と書いたシールを質問表に貼られそこで座って待つように言われましたんや。帰国者は公共の交通機関の利用が禁止されてますんや。家族が迎えに来て自宅で待機するか、帰国者専用バスで指定のホテルで待機生活を送るかなんですわ。そんで私は A の立て札のあるところに行きましたんや。そこは一列に並んだイスの一つ置きに番号が書いてあり私は33の席に座りましたんや。 そのホールの写真を撮ろうとしたらあちこちに「撮影禁止」の貼り紙がしてありましたけどその貼り紙を見る前にスマホで1枚写真を撮ってしもてましたわ。すんません、その写真はお見せできません。なんせ機密扱いやさかい。見せたら私は国家機密法漏洩違反で逮捕されてしまうさかいな。 その待合ホールでは2時間も待たされましたんでっせ。5分置き位に10人ほどの人が番号を呼ばれて立ち上がっては次の場所に行くんですわ。私は鼻水をかんだティッシュをホールの隅に置いてあるごみ箱に何回も捨てに行きましたわ。検査結果を待ってる間にインドネシアの会社や本社の関係者や友人や家族に安着と検査待ちの状況をラインやメールしましたで。 私たちのフライトがその日の最後の方のやったんやろかB、Cの人たちがだんだんいなくな っていきました。そして  A  グループの私の前の番号に座っていた人たちも番号を呼ばれていなくなっていきました。検査場に入って2時間後の6時半にやっと自分の番号も呼ばれて席を立ちましたわ。歩いて行って次の場所で一列に並んで待つとパーティションの向こうに机が2つがあり二人の検査官が向かい合って座っていて結果を教えてくれたんですわ。私は鼻水が出てましたんで風邪の症状が出てPCR 検査で陽性と間違えられへんやろかと心配でしたんやけど陰性の証明書をもらえましたんや。ありがたや、ありがたや。ああ守屋浩も亡くなってしもたんですね。僕の恋人東京へ行っちっち。すんません。         そんでやっと荷物を受け取るコンベアところへ行きましたんや。ジャカルタからの便の荷物は一番端っこのコンベアでしたわ。荷物はちゃんとありました。そんでジャカルタの空港で確認できたように1台の カートに荷物を全部載っけてみどり色のカウンターを通りました。 私のギターケースを見て係官が「ミュージシャンですか」と聞きました。この顔がミュージシャンに見えますか?これから旅行するとき  はギターケースもって行ったろかな。そんで私は税関を終えてロビーに出ましたがな。9か月振りの日本ですわ。ああ秋の日本、ああわが祖国ですわ。 帰国者用バスに乗る前に荷物を岡崎の家に送るべく宅急便屋さんを捜しました。というかロビーのインフォメーショのお嬢さんに聞きましたんや。すると建物の端っこにあると教えてもろたんでそこまでカートを押していきました。 すごいもんですね、きょうびの印刷技術は。宅急便の伝票の一枚に届け先を書いただけやのに荷物分の個数の伝票がすぐに出来てきましたんやで。伝票って一個分でも何枚かの感熱紙でっしゃろ、なんで伝票一枚にしか住所を書いてへんのに複数の感熱紙の伝票におんなじもんが印字できるか不思議に思いましたんや。 そんで理由が知りたくて聞くとそういう機械があるんですと言ってその機械を指指してくれま した。へぇー。確か家で嫁さんが宅急便を出すときに荷物の個数分の伝票をせっせと書いていたのになあ、私も荷物分の伝票を書く心つもりできたので嬉しい拍子抜けでしたわ。 そんで荷物預けて手が空いたんですぐに嫁さんにラインでそんな機械があるんやでと連絡しましたがな。そしたら嫁さ  んから「へぇー」ちゅう返事とともに伝票を写メして送れって指示してきたんですわ。しっかりしてまっしゃろ、うちの嫁さん。 そやそやここでもギターケースを見て私にギタリストですかって聞かれましたわ。私がプロの音楽家に見えたんかなと思たんですが、そうではのうて高額な楽器は30万円が補償の限度だからのようですわ。やっぱり私は音楽家に見えへんのかなあ。 私は荷物が少のうなったんで次はインドネシアで両替してきた日本円を銀行に預け入れようと私の口座のある銀行の ATM を捜したんですわ。他の銀行の ATM は一階のフロアーに何台もあったんやけど私の銀行のが見当たらなかったんでまたインフォメーションに行ってさっきのお嬢さんに聞きに行ったんですわ。するとお嬢さんは「4階です」と教えてくれました。 あまりに親切だったんで思わず「帰国者用のバスはどの 出口から出ますか」と知ってたことをつい聞いてしまいましたがな。するとお嬢さんは  A3用紙に地図の書いてあるもんを使って「あそこの看板の下のエレベーターで4階に行って左に銀行のATMに  行ってまた1階に降りて左に曲がって、、、」と親切丁寧に説明くれはったんですわ。ええですなあ、 日本のインフォメーションのお嬢さん、めっちゃ親切やわ。 そんで私は4階のATMに行ってついでにひとけのない出発ロビーの写真を撮って1階に降りて帰国者専用バスの乗り場に行きましたんや。それからが今回のボヤキの始まりでんがな。 あかん、ボヤキが始まる前にようさんしゃべってもうたんで、のどが渇いてしまいましたがな。続きはまたにしますけどな、ちょっとだけ言わせてくださいな。 帰国者専用の無料バスは朝の 9 時 15 分から夜の 23 時 15 分まで出てまんのやけど一時間置きなんですわ。間が悪うて私がそこに行った時は7 時15 分のバスが出発したすぐ後でしたわ。そんでまた空港の建物の中に戻って待ち時間ですわ。そして8 時15 分のバスに乗ってホテルに着いたんが夜の9時前でしたんや。 そんで本当にボヤきたいんはホテルに入ってからのことですわ。でもあれでんな、日本の技術はすごいもんでんな。空港で自動警備ロボットを見ましたんや。ガランとした空港の床の上を「こちらは空港の警備ロボットです」と声を出しながら動いてましたで。 ほな私のボヤキは後からお話しますわ。いったんこのラインのビデオ通話を切りますわな。鼻水が出てしょうがおませんねん。それに荷造りしてたんで腰も痛うなってきたんですわ。 (その3に続く) 丹羽慎吾

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その1)の巻

まあ、みなさん、聞いておくんなはれ。帰国者はまるでコロナ感染者扱いですわ。 えっ、何をボヤいとるんやてですか。私はジャカルタから10月7日に帰国して成田のホテルで2週間の待機生活をしてますんや。 その前にこのホテルに来るまでのお話をさせてもらいますわ。 私は朝6時半に出発する飛行機に乗るためにチカランのアパートを深夜2時に出たんでっせ。すると1時間半もかからんと空港に着いてしまいましたんや。何年か前のレバラン休みで帰国した時には3時間あれば余裕を持って着くと思 ったのに5時間近くかかって高速道路の上で飛行機に間に合わへんちゃうかとハラハラしてたことが嘘のようですわ。私は持ち帰る荷物を別送便とせんと全部トランクに詰めて帰ったさかいトランク の大きいの2個、中くらい2個、リュック一個、手提げ一個それにギターケース一個とぎょうさんありましたんや。えっ、ギターが弾けるんですかって。弾けるちゅうか、 これな、私がタイに駐在した20年位前に嫁さんが記念にって買ってくれたんですわ。高価なもんやから飾っておるだけすわ。えっ、ど このメーカーですかって?すんません、ヤイリですねん。岐阜県は 可児市の有名なギターメーカーでっせ。ヤイリには一期一会、ちゃう一五一会ちゅう4本弦の有名なギターがおますんやで、このギターな、指一本でコードが弾けるちゅう優れもんなんですわ。あの沖縄の BEGIN さんと一緒に作ったギターなんですわ。私のは普通のクラッシック・ギターですわ。 あかん、あかん、話が岐阜に向かってもうたわ。そんで私の手荷物のことですわな、トランクが大きいちゅうても1個の重さは23㎏にしてくださいちゅう決まりがあるんでっせ。そんでそれらを空港のカート1一台に載せて私が一人で運べるかどうか心配やったけど、なんと1台に全部載るもんでんな。 空港について荷物をカートに積んで4年半働いてくれた私の運転手さんにお礼を言って別れて空港の建物に入りましたんや。運転手さんは無言でちょっと寂しそうでしたわ。一緒に何回も日帰り旅行に行ったり、朝晩の通勤では車の中   で彼から新聞の話題や彼の田舎話を聞いたり、私の日本半分ホラ話をまじめに聞いてくれたりしてくれましたもんね。それになんといっても2年前に運転手さんに次男が生まれたときには私の名前を付けてくれたんでっせ。そやさかい今回はいつもの遠出の時より多い心付けを渡しましたんや。 タイの時もインドの時も毎日話をしてた運転手さんと別れるのはつらいもんでんな。あかん、なかなか本題に入っていけませんわ。 そんなんでチェックインは一番乗りでしたで、係員がまだ列を整理するあ  れ、あれ、あのー、あれです、あのテープの出てくるスタンドを立てながらお客さんの通路を作って   ましたわ。そんで30分ちょっと列の一番前に立って並んで待ってチェックインでしたわ。 そやけど日系の航空会社でんな、受付開始する前にスタッフの皆さんがお客さんの方を向いて並んで開始の挨拶をしましたで。そんでね、私の荷物は当然重量オーバーでしたんや。そんで別のカウンターに  連れて行ってもろてそこで追加料金払って搭乗券をもらいましたんや。けど超過料金のレシートをみたら重量やのうて荷物 3 個オーバーで計算した料金でしたわ。あの金額で私は儲けたんかなあ、損したんゃろかなあ。 それから手荷物検査に行く前にフロアーをいろいろ見て歩きましたんや。朝まだ4時のせいかコロナのせいかほとんどのお店が閉まってましたわ。あのスター何とかちゅうコーヒーの店も日本のうどん屋さんの店も閉まってましたけど牛丼の店は開いてましたで。私は前の晩も何回目かの最後のお別れ会を仲間にやってもろて食べて飲んでましたさかいお腹は空いてませんでしたんや。 空港のフロアーの真ん中へんに窓口がいくつか並んだとこがあってその前に人が列を 作っておったさかいそこはなんやろうなと思って行ってみたんですわ。そしたらそこはラピッドテストの証明書を発行するところでしたんや。インドネシアでは国内線にラピッドテストの証明書がいるちゅうて聞いたことありましたんで、ああこれがそれかと思いましたわ。 それ以外に見るもんがなかったんで早かったけど税関に行きましたんや。この前に帰国したときには広い建物の反対側にある国内線の入り口に行ってしもたのですが今回は間違えませんでしたで。学習効果ちゅうやつですわ。けど国際線の方に入っていつものように奥の普通客のラインに行こうとしたら女性係官がおって手前のVIP の方に行けちゅうんですわ。なんでVIP なんやと思ったんですけど飛行機に乗る人が少ないからやと思いましたわ。 そんで手荷物検査ですわ。久しぶりの飛行機やさかい何をX 線に通すか忘れてしもて、パソコンと携帯だけトレーに入れて門型検査機をくぐろうとしたら、検査機の向こうにいた   検査官からポケットの中のもん出してトレーに入れろ、時計をバンドも外してトレーに入れろ、帽子もトレーに入れろですわ。しょうがおま せんわな。泣く子と役人にはかてませんわ。 そんでX 線の機械を通した後でバンドはせなあかん、ジャケットは着なあかん、財布はちゃんとあるか、そんであれっ時計はどこやと思うたら検査官が床を指さしましたんや、ちゅうのは私は時計を最後に慌てて外して上着の上にのっけたもんやさかい機械の出口のゴムのノレンに引っかかってベルトコンベアの上に落ちてそれがその次のローラーコンベアーに来てローラーの隙間から床に落ちてしもてたんですわ。難儀な帰国ですな。 そしてイミグレですわ。もうビザ終了の手続きのEPO これなEXIT PURPOSE ONLY の略ですわ、それも先週終わってパスポートにそのスタンプ押されてましたんですわ。けど私はパスポートを見せるんは Foreigner のカウンターかKITAS HOLDER のカウンターかどっちやろかと一瞬悩んでKITAS HOLDER の方に行ったんですわ。そしたらすんなりスタンプ押してくれましたわ。 すんなりちゅうてもマスクを口から外して顔をしっかり見せろっていわれましたけどね。あの~、EPO  って日本では女性のシンガーソングライターがおりますんやね。本名を宮川栄子ちゅうて東京生まれで沖縄在住ですってね。高見知佳や香坂みゆきに楽曲を提供してるそうですわ。これらの歌手を知らん人が増えてきてまんな。 あかん、まだジャカルタ空港の中の話でしたわ。ほなら急ぎますわな。 (その2に続く) 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(105)走れ!インど演歌(その1)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) 演歌の中には『ど演歌』と言われるものがあります。コブシとビブラートを強調するのです。そして、インド生活を歌う演歌は、略してインエン?インカ?いや、ど演歌なのです。 また、演歌の詩をよくよく読むと、演歌の中の男女の関係は昔の日本の会社とその従業員の関係に似ていますね。それでど演歌で昔のインド駐在員を歌ってみます。 まずは、日本の企業がインド市場を狙って業務部の担当者をインドに出張させました。帰国後、その部員が新聞雑誌のインド記事を写して増員を起案をしました。そうしたら本人がインド駐在となったのです。それを、ど演歌の決定版といわれるこの歌、ぴんから兄弟、もとい、ぴんからトリオが1972年にヒットさせた『おんなの道』 で歌います。あの~、その業務部の人というのは私ではありませんよ。えっ、実感がこもっているって。 女のみち(作詞:宮史郎) インドのみち 私がささげた その人に あなただけよと すがって泣いた うぶな私が いけないの 二度としないわ 恋なんか   これが 女のみちならば わたしが仕上げた その報告に インドの時代よと はっきり書いた 業務の私が いけないの 二度としないわ 丸写し これが わたしへの辞令ならば ぬれたひとみに またうかぶ 捨てたあなたの 面影が どうしてこんなに いじめるの 二度と来ないで つらいから これが 女のみちならば ぬれた背中が またとおる 黒い野牛(のうし)の 一団が どうしてこんなに あるいてるの 二度と来ないで 遅刻するから これが 会社へのみちならば 暗い坂道 一筋に 行けば 心の灯がともる きっとつかむわ 幸せを 二度とあかりを けさないで これが 女のみちならば 暗い業績 一筋に 聞けば 今期は利益なし きっとつかむわ 大口を 二度と 赤字にさせないわ これが インドの店ならば 丹羽慎吾

シンゴ旅日記ジャカルタ編(24)  ジャカルタ点描の巻

私が初めてインドネシアに来たのは大学三年の1973年でした。 あれから43年経ちました。ずいぶん発展したなあと思います。 この四月に何年か振りにジャカルタに向かう機中で、イミグレと税関の記入用紙をCAに依頼すると税関申告書しかくれませんでした。「イミグレ用のフォーマットはないの?」と聞くと「これしかありません」とのことでした。きっとイミグレ用のフォーマットは空港の中にあるのだろうと思いました。 しかし、空港に着きイミグレに向かって歩いて行ってもその用紙は置いてありませんでした。 そして、VOA(Visa On Arrival)の窓口で35ドル相当の円を払い、隣のイミグレの列に並びました。 なんとイミグレの窓口ではスタンプを押してくれるだけで申告書を提出する必要はありませんでした。インドネシアのイミグレも簡略化されたものですね。 そして、荷物受取場に向かう前に用を足そうとトイレに入りました。ちょっとビックリしました。 小便器に飛沫防止のプラスチックカバーがしてあるのです。多くの人がいましたので、その時は写真が取れませんでした。それで出張中にほかの場所で見た飛沫防止カバーや、そのほかに目についた便器を紹介します。 ついでに大きい方も紹介します。トイレは昔、日本で厠(かわや、川屋)と言われました。昔から人々は川の上にトイレを設け、川の水で洗ったのです。ウシュレットはそれを日本が技術化したものです。 私もインドネシアの田舎で川の上に設けられた小屋や、田の中に組まれた櫓の上で用を足したことがあります。 川や田の中にお魚さんが泳いでいました。 生物の生態ピラミッドというか、食物連鎖のようなものを感じました。 久し振りのジャカルタ出張では、今年2月に亡くなった代理店の社長のお墓にお参りしました。 彼が好きだったギターを形取った中に花ビラを撒いて敷き、お祈りをしま した。彼は私よりも5才年上でした。小さな商社を立ち上げたジャワ出身の苦労人でした。私がジャカルタに出張する度にあちこち有名レストランに連れて行ってくれました。かれはギター演奏ができ、歌も得意なので、あるレストランでは舞台に上がり、ビートルズの歌を演奏しながら自ら歌ったりしました。なんでも学生のころはお金がなくてバスの中に仲間とギターを持って乗り込み演奏し学費を稼いだとも言っていました。彼の事務所の自分の部屋にはギターが何本も飾ってありました。また、彼がマウンテンバイクに凝った時には車に自転車を載せて遠くまで彼の子供たちと一緒に出かけたとこもありました。彼がシンガポールに来たときには私の家で食事したりと家族付き合をしていました。 お酒も飲み、煙草もバンバン吸っていた人でした。日本食が大好きでホテルやブロックMの日本食レストランのたいちゃんラーメンの常連客で、お店の主人や板前さんと顔なじみでした。社員には厳しかったのですが、笑うと人懐っこい顔になり、私に日本について子供のように歴史や文化を聞きたがりました。「なぜ日本のラーメンはあんなにおいしいのか」と聞かれ、「それはトンコツが、、」とは、はっきり言えませんでした。数年前に中国で開催された海外主管者会議に呼ばれた彼と会ったきりでした。そんな彼が肺がんにかかり、シンガポールの病院で治療を受けていると連絡を受けていました。そして、とうとう亡くなってしまったのです。 ジャカルタの町のあちこちで見かけるシンボルマークは、私が今興味を持っている家紋に見えてきました。 ジャカルタの大通りは日曜日の午前中は歩行者天国になります。私は5月の出張の時、その大通りに面したホテルに泊まっていましたので、ある日曜日の朝、ホテルを出て北上して独立記念塔に向かいました。若い人たちがグループで歩いていきます。家族連れもいます。まるで日本のお祭りのように屋台や路上販売がたくさん出ていました。 途中では道路を塞ぐかのように多くの人たちが体操をしている場面をありました。子供をまじえた大道芸を見たり、断食前のためかイスラム教主義を守ろうと主張するプラカードを掲げて行進する人たち、お祭り用の大型人形で歩く人たちなどにぎやかなものでした。また、ヒゲメガネをつけてパントマイムをしているおじさんとか、幽霊装束で歩き一緒に写真を撮る一団もいました。初代大統領で演説がうまかったスカルノの立て看板や、初代副大統領ハッタに扮しロウ人形のように動かない人とか、ある場所では、子供が路上に並べてあるおもちゃの拳銃を向けると倒れる格好をする軍人とか、愛国心を呼びかける場面もありました。 扮装ばかりでなく、政府も協会もプロモーションをしていました。 独立記念塔で一服し、ホテルへ戻る途中ではいろいろな形をしたビルに目が留まりました。 ジャカルタのショッピングセンターにも入りました。華僑の所有するビルでしょうか、4階の表示のないところがありました。4階は3Aで表示されているのです。そして別のオフィスビルでは4階どころか13階も表示がなく12Aとなっていました。 飛行機などでもB席がない場合がありますよね。ご存知でしたか。Bは13に通じるからです。 タイでは6(ホック)という数字がひっくり返るの発音で嫌われていました。タイで縁起のいい数字は9(カウ、前進)でした。部下の結納の父親役をしたときは9月9日9時9分にいいなずけの家にお嫁さんに下さいと同行しました。   インドネシアというかジャワ島では5が縁起の良い数字のようです。パンシャシラは建国五原則です。また、ジャワ暦は5日単位だったそうです。 ジャカルタ空港で、出発ターミナルで。 付録:シンガポールの空港で 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(104)町を歩けばの巻

町を歩けばの巻 (2010年7月記) インドのプネに着任して三か月が経ちました。 日曜日は散歩の日です。私はゴルフはしません、というか上手くならないので止めました。日本にいるときも休日は万歩計を付けて家の近くを歩いていました。 ここはプネです。日曜日にはスーパーへ一週間分の朝食などを買いに行くのです。いつもはアパートを出るとオート(三輪のタクシー)を拾って町へ出るのですが、ある日私は散歩がてらスーパーに歩いて行くことにしました。 記憶とは不確かなものです。 いつもは会社の車で通っている道なのにスーパーへの通りになかなか出ません。全く知らないところに出てしまったようです。 それで散歩しながら面白い木が無いかなと林を見ていたらオートバイに乗ったお兄さんが200年前のお寺を見せてあげると言って近づいてきました。まじめそうな感じの青年だったので連れて行ってもらうこととしました。 オートバイの後ろに乗ると、わずか10秒のところでした。そこは瞑想の村でした。お寺の跡形はなく簡単な調理道具と数人の瞑想者が生活しているみたいです。でも廟やサイババ、ガネーシャの像がありました。みなさん親切でした。 そこを出てひとりで歩き続けていたら下町に迷い込んでしまいました。豚肉を売る店がありました。ヒンズー教の国ですから牛は食べません。そして豚も不潔な動物と思われて入れ食べません。 ヒンズー教徒にはベジタリアンが多いので豚肉ばかりか鶏も魚も食べない人がいます。またイスラム教徒も豚を食べません。でも豚肉屋さんはあるのです。しかし豚肉屋さんはこじんまりと店を構えているのです。 表通りではたむろしている若者たちがいました。私がカメラを下げているので、自分たちの写真を撮れとせがみました。私もそんな風景を撮りたいのでカメラを向けました。 また町の一角ではゲームに興じる若者たちもいました。みな愛想がいいのです。昼過ぎから歩いて3時間半。喉が渇いてペットボトル買ってしまったので小銭が無くなりました。もっているお札は500ルピーの札が数枚です。これでは大金過ぎてオートに乗れません。おつりがないと言ってぼられるのです。 歩いていると近代的な床屋さんがあったので入って小銭作りの散髪をしようと思いました。お店に入ると直ぐに着席させられました。でも前に洗面台がありません。散髪の作業が始まりました。 言葉は分らないのでOK,OKなんでもOKと答えました。すると水吹きで何回もシューシューと顔に水を掛けてきました。おいおい私は観葉植物か。 見ていると私は左分けなのにオールバックにして髪を切っていました。その次は石鹸を付けずにカミソリで生え際を剃っていきました。 髪切り20分あとフェースマッサージ、手に振動機付けての肩マッサージでみっちり1時間半かかり450ルピーでした。 そしてオートでスーパーへ向かい食材を買ってアパートにもどりました。そしてシャワーを浴びた後に鏡を見ると髪の毛が赤穂浪士の討ち入り後のようになっていました。 せっかく不足する髪を左から補っていたのに。これは写真を撮っていません。悪しからず。ぐふっ。 丹羽慎吾