荻悦子詩集「樫の火」より~「冬の星」

冬の星   流星が見えない夜が明けると 父の命日だった 夜には昨年と同じように 近くの大学のホールへ クリスマスコンサートを聞きに行った 高名なヴァイオリン奏者は 姿からして鮮烈だった ドレスの色が真ん中で 縦に白と黒とに分かれていた その人はすぐに聴衆をひとつにした 流浪する人々から想を得たという ラヴェルのツィガーヌ 遠くにあった畏れ 耳で身体でそれに触れさせる 大きく弓を引き 最後の一音を終えたとたん 幼い男の子がわっと泣いた 演奏会が終わると 丘の上の空に 星がいくつか瞬いていた あれは何等星くらい? 推し測る目安をもう思い出せない それから幾日か過ぎ 同じ人の演奏をCDで聞いている リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ ひとつひとつの音がくっきりと立ち ヴァイオリンの音色は 太く深く響きながら高みへふいと舞い上がる このようには私は翔けられない 私は車輪梅の枝を手にしていた 黒い小さい実を棚に飾ろうとしていた 部屋の明るさ 椅子の綻び 実の枝を飾る位置 心にあったことが飛び去り 手近な物の色や形が遠退いてしまう 窓に近寄って空を見上げた 空は星の光を隠して暗く凪いでいる ピアノの音が 澄んで流れる水面を叩きながら渡ってきて 鳩尾の辺りから身体を揺さぶる 葉も実も乾いた車輪梅の枝を握ったまま 私はくっと頭を垂れた 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

荻悦子詩集「樫の火」より~「紫」

紫   自転車を折りたたんだ 硝子の水差しに水を満たした 人に伝えたいことを思いながら 何ということもない作業を重ねる 短い旋律が湧いてきた 丸く膨らんだ花 大きめの薊の花が色を失っていく 初めは冴えた紫だった 萼までが濃い紫だった 薊の花に水を注ぐ 注がない ここでわたしが何をしないでも あなたはすこやかに旅を終えるだろう 鮮やかな紫は目くらましだった 濃い紫が薄緑の茎の色に戻っていく 空が黄ばんだ灰色に変わった 薊を買ったのはあなたが住む町 その日ふと耳にした曲がつきまとう 地下街をもの憂く歩いていて 蛍光を帯びた紫に目を奪われた 太い雨がやってきた 重い速い雨の音があらゆるものを叩く 染料を吸い上げた花が窓際で乾く 長い棘だけがぴりぴり光る 激しい雨がこの空間を遮蔽する 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。  

荻悦子詩集「樫の火」より~「なつかしい人」

なつかしい人   散った花びらを握っている 乾いて褐色になり よじれたガーベラの花びら 綿毛の下に 細い種が付いている 一日一日を問い尽くし ほぐれた花びら 種との境にふわり冠毛を生やして 待っていた 鳥の柔毛に似た冠毛 ごく細い一本一本は堅い 指で押すと 扇の形に広がった なつかしい人と会いたかった ひと気がない真昼 広い道がまもなく下り坂になる 風を選んでもう少し先へ ボートを積んだ車が左に寄り過ぎ 被害が増えています 電話の声に騙されないようにと 市の有線放送が降ってくる どこかになつかしい人がいるのか 会いたかったのは誰なのか 崖がある ガーベラは濃い茶色だった 艶があり 光の加減で妖しい黒にも見えた 腕をさ下げたまま手のひらを緩く開く よじれた花びらは足元を離れ 低い方へ ふわり 冠毛 飛んで欲しい 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。  

荻悦子詩集「樫の木」より「影絵」

影絵   暮れかかるころ 真新しい教会の前を通った 教会の破風にはダビデの星が光っていたが 私はその先に用があるのだった 前方を男が歩いていた 男の右足の先に何か影があった 夕闇と見分けがつきにくい 影はすぐに左側にまわるようだった 色の濃い犬にちがいない できるだけゆっくり歩いた 男の歩調はもっとゆっくりだった 男に追いついてしまった 男は道の端に停まっているトラックに近づいた ドアを開けてエンジンキーを抜き取った そばに犬の姿はなかった 私は目を逸らせて通り過ぎた 昨日なぜか戻ってきた郵便物の 封筒を替えたものを同じ宛先にまた投函し 薄暗い道を折り返した 男がトラックを離れ やはりゆっくりと同じ道を引き返している 男のジャンパーが膨らんでいた 俯いて男を追い越した 教会のクリスマス飾りの明かりを抜けた 胸の辺りに重みを感じた 私は両腕を上げてそれを支えた 腕の中で重みは小さな犬になった 子犬は足をつっぱり 声をあげた しっかり抱いて 死んだ人の声だった 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

荻悦子詩集「樫の火」より~「徴」

文芸館では、これまで、荻悦子さんの詩集「流体」に収められた詩を紹介してきました。今後は、年に出版された詩集「樫の火」(思潮社)に収録された作品を順次紹介していきたいと思います。   徴(しるし)   夕ぐれ 空に仄白い光が瞬いた 金木犀の香りが漂ってくる 彼方にもうない源 徴を目にしたとき ことは 既に終わっていた 橙色の細やかな花がこぼれる 無くなった 失くしたすべて 落ちた花が樹の下に円く広がり 空に残滓が光って走り抜ける ことは私たちの外にあり そのように 初めから私たちは組み込まれ 昼と夜とを果てまで水が尽きるまで 回転しながら 螺旋状に巡りながら 突き進む渦巻の一点で樹が生い私たち どことも知れない縁へ逸れていく この星に錘を垂らし私たち 夕ぐれの空に遠い仄白い徴を追う 樹から花がこぼれ濃く匂う 荻悦子(おぎ・えつこ) 1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

詩~「タスマニア」

 タスマニア   コーティングされた紙の表面が照り タ ス マ ニ ア 零 時 至急返事をお送り下さい しゅわっと浮いて吐き出 されながら 床に届く前に 不均衡に巻き上がる こち ら 何時であっても 自在ではない外国語 至急返事は 送れません カミツルマ うえしたの上に 鳥の鶴 そ れにあいだの間という意味です 水田に鶴がたくさん舞 っていたのでしょう 雨が降ると 泥の池 とても歩い て坂の上まで来られませんでした そうでした 今その 泥の土地はコンクリートで固められ グランドに 舞台 もあって 演劇に野球にテニスに鼓笛隊 その地下は貯 水池 窪まった底にある川のふちの防災公園というわけ です 夜中まで何らかの生き物が遊んでいて 奇声や球 を打つ音 木の幹を叩くような乾いた音も聞こえます ここ丘の上 四の二十九の二 枯れた林に たよりなく 野鳥が鳴く練習 その西隣に窓がたくさんあって その ひとつの中で わたくし 野鳥の鳴き声のCDをかけ こじゅけい おけら 早がけて鶯の囀り 外の林の鳥た ちを刺激してやりながら 再びあなた タスマニア 会 ったことのないあなたに返すファックスの文面 変わっ た生き物が今でもたくさんいるのですか そちらには 白と黒に分かれた固い皮膚 刺や筋 動物の背を這う空 気がオレンジ色にゆらめいているような むかし 船乗りの叔父が マダガスカルの絵葉書を送っ てくれました 絵葉書の動物たちはあまりに奇妙で 古 い時代の想像の動物に見えたほどです マダガスカルは 太古の土地 神さまがお目こぼしされた小さな島 呪わ れた場所に思えました マダガスカルに寄港した 叔 父 は しかし無事に帰ってきましたし 叔父がそうのうな 動物や植物を実際に見たという話も聞きません マダガ スカルと海を隔てたタスマニア そちらでも あによう な動物を簡単に見ることが出来るのでしょうか それと も保護区で立ち入り禁止なのでしょうか 鮫の牙 乾燥 させた龍の落とし児 そういう物も 子供だったわたく しに叔父がくれました 鮫の牙は今もさえざえと香木の 箱のなか 田舎の家のどこかにあるはずです 牙 と 共 に ダカールやコ-トジボワールという地名が仄かな残 り香の底に沈んでいます マダガスカルやタスマニア 固い筋と皮膚 太古からの動物たちの上にも びっしり と情報網は張り巡らされていて 至急返事を下さい 回 線を細かく震えながら 届いたのですね あ な た の通 信 ヨコハマの近くと思って下さい カミツルマ 長い 紙が空調の風に煽られて ひゅるっと宙で縒れ て し ま い わたくしは 至急は無理です 叔父も もう船には 乗りません

詩~「砂の数行」

左の耳の下に左腕を敷いた姿勢で目覚める 玉砂利の岸 に打ち上げられている ひりひりする痛さ ここはあな たが書き始める言葉のありかだと感じる わたしはあな たのペンの先からにじむ黒い雫 紙に落ち たゆたい やがて揺れ動く線となって 少しざらつく紙のうえに軌 跡を残す 潮鳴りの方へ 素足で 眼を閉じて 熱い砂 わたしはあなたに書かれていく言葉 波に洗われる瑪瑙 の原石 長い十数行と短い数行を繰り返し わたしは 綴じられたページとして厚みを増してゆく いくつもの 半島を越え 夜半わたしの窓を叩く風 あなたに聞き入 った罪で わたしは 痛くあなたに追われてゆく言葉 硬く残響する音の架け橋を渡り 凍る葉先をかする け れど 息の長いセンテンス この行の配列 あなたのも のとしては異例ではないだろうか いぶかしい思いは 終行近くでついに確かなものとなる 言葉は季節の挨拶 のように型通りに収まり わたしは誰であってもよい一 人となる ありふれた物の名のように 無造作に紙の上 に染め出されてしまった わたしはあなたが綴る優しく 烈しいオマージュのはずだった わたしはもがき そこ からこぼれ落ちる 激しい雨を車が蹴たてる音が湧く 薄い闇 こぼれ落ちたわたしは 行間に隠された影のよ うな半透明な言葉の網 これから書かれるべき(書かれ てしまった)詩行として 仄かに明るんで浮いている 風となって夜半わたしの窓を叩く人よ いつだったか わたしはあなたの遠い声を 谷の底を滑る砂の音のよう に聞いた だから わたしによって書かれ ここに散り ばめられたあなたの わたしへの歌は 砂の数行

詩~「痕跡」

痕跡 こがれる こがれる巻き貝の眠り 自ら紡いだ石灰質の 螺旋のままに 身を沈めていく 底の尖った窪みの一点 まで しゅるしゅる回転する身体 轤に回る陶土のよう に 脹らみ細まり やむことのない変幻 沈んで行く 埋まって行く つま先から 底の尖った窪 みのなかへと 吸い寄せられる 硬い滑らかな艶のある 殻の内側 虹の七色が潜在する壁に眠りが包まれるとこ ろ 窪みが眠りを液体のように静かに湛えるところまで 巻き貝に 砂に 降り注ぐものがある 薄い光 夜明け の? それとも沈む陽の一瞬の光? ほそい雨ならなお いい 雨のなかを鋭い声を長くひいて 鳥が渡ることも あるから 何の鳥だろう 意識がかすかに動いて耳を呼 ぶ 殻は緻密な刻み目や螺旋状の脹らみを持ち その石灰質 の白さが 降りそそぐものをわずかに弾く 殻と空気の 境目で 降りそそぐものと弾かれたものとが うっすら と白い炎のように混じり合う 眠りながらわたしはそれ を見ている まどろみからまどろみへ 眠りは殻に包ま れたまま 最後の潮が退いた後も 洞窟の底に沈んでい る 洞窟の壁に残っているのは 途方もない過去の 溶け合 わなかった時間 それらは層を成して折り重なり 互い の境目を印している 真珠色を帯びたベージュに うっ すらとピンクに わずかずつ色さえ変えて 溶け合わな かった時間の痕跡が 乳白色の洞窟の壁に染め出され 波が残した跡のように 優しい模様に変わっている 溶け合う? 溶け合わない? 巻き貝の眠り 乾いてい く砂 こまかく尖った岩の縁 それらはすべて洞窟の底 に閉じ込められている