おぼろげ記憶帖 15 フランスの医者

かかりつけの小児科の話。医者を見つけてランデブー(予約もランデブーなのです)を取ってもらう。ここまでは言葉の出来ない私はフランス人の秘書に頼みます。熱と咳、食欲の有る無しをメモ書きにして字引を2冊持っていきます。今ではもっと便利な電子辞書や翻訳機がありますが当時は大変苦労なことでした。 診察のあと薬の処方箋を貰い、薬と注射液を薬局で購入して、注射を打つ専門の診療所へ別途ランデブーを取ってから行くというシステムになっていました。専門分野に分かれていることはある意味で不便を感じます。ただバカンスで留守になる時は他の医者と薬局の住所が張り出されていることは命を守るという観点から親切で大切なことだと納得感心しています。 風邪を引いて日本人医師の診察を受けました。待合室は立派な応接間で左右に扉があり、入り口から入ってもう片方は診察室の入り口。診察室からは玄関に向かう扉がありました。次の人と顔を合わせることなく診察を終えたら戻らずに帰ることが出来るような間取りになっていました。尤も十分な時間の間隔を取って予約されていますが個人を大事に考えるフランスならではのことと思いました。先生は別の大病院に勤めながらの診察で中々予約が取れませんでした。まさかの時は間に合わず救急車を呼ぶことになるのでしょうか? 多くの患者を短時間で診察してベテランの先生になる日本の医者が多い中で日進月歩の医学を病院での症例を研究、二本立ていうのも日本とは異なる大切なことだと思います。 ある週末夕食を済ませてシャンセリゼへ映画を見に行きました。言葉の少ないアクション映画だったと思います。途中から夫がもぞもぞと動き出し、毛の生えている所が全て痒い。慌てて飛び出しタクシーへ。運転手は我が家の住所を聞き、郊外電車の駅近くの病院へ走ってくれました。お産で有名な病院でした。救急門を通ると電光が走りストレチャーが2台と看護婦さんが何人も走ってきました。金曜日のことだったのでしょう。魚の日でしたからマルシェで買った魚を刺身にして食べたのです。魚アレルギーでした。私は何ともなくて幸いでしたが魚の名前も知らず、日本人はフグという毒のある魚を食べるというからねと言ってなじみの少ない日本人の飛び込み診察に?大笑いでした。 ベッドに入って寝る寸前に1錠の薬を飲む。それは強い睡眠薬で夫は翌日の午後まで竜宮城にいるような楽しい夢を見続けたとのことでした。予備の1錠は捨てきれず長い年月お守りに持っていたようです。1990年代はまだ魚の鮮度が悪かったのでしょう。その後20年経った頃の魚は鮮度も良く種類も多くなっていてマグロのトロをふんだんに食べることが出来ました。フランス料理でマグロは丸のままの筒切り。トロの部分は使いませんのでお安く手に入ったのでした。魚の輸送方法の進歩には驚くべきものがありました。

おぼろげ記憶帖 14 フランスの犬

キース ヴアン ドンゲンというオランダの画家がいます。女性をこの上なく美しく素敵に描くことで有名な画家です。印象的に残る一枚は豪華なコートを着て、つばの広い帽子をかぶり、ダルメシアンを連れて街を歩く姿です。この画家は帽子と犬がモチーフになっているのが多くて記憶に残っています。犬はかなり大きいですが鎖は付いていません。人に寄り添うように並んで歩いています。 夏のバカンス中に幼児の体調が悪くなりました。診療所の入り口に”○日から〇日まで休診。△へ行ってください”と住所が張り付けられていました。和仏・仏和の辞書を片手に“はしか”ではないかと尋ねたら“そうではない“と。パリに帰ってきて掛かりつけの医者に行きましたらやっぱり”はしか“でした。地方の医者が藪医者だったのかも?と意地悪く思いました。待合室に薄茶色の大きな犬が置物よろしく動かずに吠えもせずじっと静かにしていました。飼い主が診察を終えた時医者から角砂糖のご褒美をもらっているのを見ました。勿論鎖は付いていませんでした。 犬を飼えるのは富裕層、大型小型の犬を連れてゆったりと静かに誇らしげに散歩しています。知人の家はスイスから連れて来た熊のように大きく真っ白い犬を飼っていました。問題は犬の糞。神聖とされるバゲットを地面に直かに立てかけて立ち話を楽しんでいるフランス人。そこには犬の糞やおしっこの跡があるのに!日本人にはとてもとても考えられないことなのです。誤って踏もうものなら一大事。右足で踏んだ? 朝踏んだの? それなら良いことがある!色々な理由を付けて大騒ぎになります。広い歩道を歩くのにも注意がいるのです。それで糞の後始末をしなかったら罰金を課すという公示が出ました。でも一度も始末をしている人も罰金を徴収している人も見ませんでした。ほどなく忘れ去られたのでしょう。元の木阿弥‼ 落ち葉と犬の糞は車道と歩道の段差に空いた穴に長い竹箒を持った黒人の掃除人が朝な夕なに水と共に流しています。その人たちの仕事を無くさないように失業対策だ!と聞きましたが本当の事は私には分かりません。

おぼろげ記憶帖 13 フランスの幼稚園

フランスの幼児は3歳から幼稚園に入園できます。我が家では親も子も言葉が出来ません。アパートの1階の肉屋の女の子パスカルは3歳で、息子は3歳半になった9月に入園しました。破傷風の予防注射を済ませた証明書を提出、授業料は無料でした。最初は入り口迄送って行くと親から離れるのが辛くて泣き叫ぶ子も先生にグイと手を引かれて入っていきます。息子は恨めしそうな顔をしながらも泣かずに入って行きました。親としては不安いっぱいの初めての場所へ連れて行かれることを思うと泣きわめかれるよりもほろりとしてしまうのでした。暫くするとどの子もバイバイと手を振って後ろを振り向きながら教室へ入って行くようになりました。片道15分余りの道のりを朝8時半に送って行き、11時半に迎えて家で昼食を済ませて1時半に送って行き4時半にさようならをする。という日課でした。子供は二往復、親は四往復。子供との触れ合いの多いお散歩は楽しくもありましたが時間に追われる子育ての幼稚園の懐かしい思い出です。何しろ幼児語のおしっこはpipiピピ、うんちはcacaカカという言葉さえ私も知らず、9月から12月の間に2度濡れたパンツを持って帰りました。洗って翌日届けましたが充分にお礼の言葉を言うことも出来ずに切ない思いをしました。忘れることの出来ない辛い思い出です。言葉を話すという事の大切さをつくづく感じたのでした。 10カ月で引っ越しをすることになり全く雰囲気の違った幼稚園にスモックを着て通い始めました。キリスト教系の寄宿舎のある女学校の付属で男の子も女の子も一緒でした。先生とシスターがおられました。水曜がお休みで土曜日は行きました。一週間は子供には負担が大きいとそのような決まりになっていましたが後になって土曜・日曜をお休みにする私学も出てきました。cantineと呼ばれる給食も頼めましたし4歳になっていましたので週に2・3回お願いしていました。寄宿舎の小学校の高学年か中学生のお姉さんが一人ずつ付き添って面倒を見て下さったようです。フランス食で育った子供でしたがポパイのほうれん草。熊手のように大きなほうれん草の葉っぱをグタグタに煮てサワークリームで味付けしてあるのですがそれだけはどうにも苦手だったらしく無理やりに食べさせるお姉さんは大嫌いとその献立の時はいつも不満を漏らしていました。 どのようなカリキュラムであったのかは判りません。またどのように過ごしていたのかも良く判りません。ただ子供ながらに緊張の日々だったと思われますが一度も行きたくないと言ったことがないのが親としては救いでした。歌はたくさん覚えてきました。ある日楽焼のお皿を持ち帰り、びっくり。でも裏にちゃんと子供の名前がありましたから間違いはないのでしょう。半世紀たった今も大切に飾っています。ノートに線を引いて“gare”(駅)という文字を筆記体で正しく書く練習をしたり。黒人の女の子とフランス語で喧嘩をしたり。皮の編み上げの靴を朝起きて夜寝るまで履いていましたから運動は余りしてなかったようです。その当時から子供に合わせてのカリキュラムを組んでいたのかも知れません。驚くことの多い幼稚園生活でした。

おぼろげ記憶帖 12 フランスでの子育て

1960年代、子供を連れて公園に行くと絵はがきのような風景の中でノンビリとベンチに腰掛けて日向ぼっこをしているおばあさんに出会います。そしてたいてい“どこから来たの?何歳?”と聞かれました。シノア(中国)? べトナミアン?(ベトナム人)Non!その後は両手を挙げて”それならどこ?“ ”ジャポネーズ(日本人)”と答えると暫くして日の出ずる・芸者・侍と返事が返ってきます。その頃はパリの大使館に届け出ていた日本人は2000人位だったそうですから致し方ないのかも知れません。それから20年の後では初めから日本人? と聞かれました。世の中がすっかり変わったのでした。 幼稚園の送り迎えは勿論、子供が10歳になるまでは小学校も親が付き添い、手を繋いで歩きます。広い歩道でも同じことです。万が一それをせずに交通事故にあったり、転んだり、ぶつかったりは全て親の責任。車でも他人でも道路でもないのです。日本とは責任の所在が全く違うのです。このような考えの中では自分の身は自分で守る。子供は親や周りの人が守る。もしよちよち歩きの子供でも芝生に入ると親が社会のマナーを教えると同時に叱りつけます。食料品店で息子が何かを触ったのです。幼児でしたし店で叱ることもないと思っていましたら”どうしてすぐに叱らないの?子供は後になったら忘れるからすぐに叱りなさい。日本ではこうなの?”と私が叱られました。会話は出来なくてもこの時はしっかりと理解出来ました。日本では?と言われると日頃から日の丸を背負って暮らしている感じでしたからその場ですぐに叱ったことがありました。そもそも大人と子供の生活環境ははっきり区別されていて、買い物、レストラン、お葬式には連れて行くことはないようです。 その頃は1LDKの狭いアパートに住んでいました。4歳になった頃”子供のベッドはどこに置いてある? 台所?”と聞かれてポカンとしました。4歳までは乗り物は無料ですがそれ以後は大人と同じ料金になります。半賃というのはありません。その上、三半気管の発育の為に揺れることも必要だとのことで幼児でも座席に座らせることなく親の傍にしっかりと立たせることになっていました。4歳で大人の仲間入りをするという事なのでしょうか? 日本とは何という違いでしょうか?「郷に入りては郷に従え」で即刻家探しをして引っ越したことは言うまでもありませんでした。 東 明江  

おぼろげ記憶帖 11 未熟なフランス語

日本語は情景・様子・風景などを説明してその後に主語と述語が来ます。フランス語では主語・述語の順、何がどうした!という事が判れば後はとても分かりやすいのです。例えば日本語では“美しい景色を私は見ました” フランス語では”私は見ました美しい景色を“という具合です。 大失敗をしたことがあります。食料品店で “レモン2つ”と頼んだら“甘いレモンはない”と言われ店の中で笑いものになり、50年経っても苦い思い出となっています。この時は主語も述語も文章も全く判らず、単語を2つ並べただけで買い物をしていました。つまりcitrons deux は日本式にレモン 2つ。フランス語ではcitron doux。2つと甘いが同じ発音だったのです。正確にはdeux citronsでやっと買い物が出来ました。言葉は全く出来ないのにこのように叱られたり意地悪をされたり笑われたりする時には本能的にしっかり理解できるのですから不思議です。 ABCの読み方も知らずに大学の第2外国語でフランス語を履修したという方からその頃流行っていたソノシート付のフランス語の本2冊を教えられて持って渡仏したのです。幸い1年前に着任していた夫が何を思ったのでしょうか、ミニ版のレコードを10枚も重ねて針を載せれば手間いらずに自然に流れていくという優れもののレコードプレイヤーを買っていました。生まれて14カ月でパリに来た息子は日本語を喋り始めるまでにフランス語の中に居ましたのでとても言葉の遅い子供でした。幼い頭の中はどんなだったでしょうか? 3歳半になって公立の幼稚園に通い始めました。勿論日本人の子は多分初めてで、たった一人だけでした。母親が言葉が喋れないのですから子供は当然無言のまま半年を過ごしました。おしっこという幼児語のpipiと云う言葉を知らなくておもらししたパンツを2度も持ち帰ったことがありました。幼児にまでこんな苦労‽をさせていたのは言葉のせいなのでした。喋ることはしなくても歌を覚えて来て口ずさんでいました。それでレコード屋へ連れて行って歌わせてそのレコードを買って帰りました。フランスの童謡でしたから店員さんもすぐに判ってくれました。それがミニバンのレコードで一日中掛けっぱなし。バックグラウンドミュージックでした。音符も歌詞もついていましたから私もいくつかの歌は覚えました。半世紀経た今でも発音は悪いながらも歌う事が出来ます。恐るべきは音楽の力です。自分だけでなく子供にまで後々になっても大変な思いをさせてしまいました。外国語は35歳までに覚えること。それ以後は教わってもなかなか上達しないと聞いています。これから世界の中で活躍するためには是非にも外国語を習得して欲しいと思います。会話が出来なくて不自由でも片言でも勇気を出して喋ること、勉強することで楽しい時間が持てると思います。海外旅行もうんと楽しくなると思います。私には”遅かりし由良助”でとても残念なことです。写真は「私の素敵なお城」という歌をお皿に焼き付けたもの。見つけた時は大喜びですぐに購入しました。 東 明江  

おぼろげ記憶帖 10 Café (カフェ・喫茶店)

街の辻々、5分も歩けばまたカフェ、それほどあちこちにあります。中はカウンターと座席。外には丸いテーブルと座席がビニールの籐編みで重ねて片付けられる椅子がひしめくように置かれています。大抵はおなじみ客が多く、出勤前にun café と言ってエクスプレッソをクッと飲んでいく人、ビールを一杯引っかけていく人。午後から夕方には旅行者、そぞろ歩きの人達のひと休み、カウンターに寄りかかって店主と駄弁っている男性。色々な役目を果すのがカフェです。 1960年代にはジュトンというコイン買って公衆電話を掛けていました。それはブルターニュ地方の岬から岬の突端まで車を走らせてバカンスを過ごしていた時のことでした。パリの事務所には毎日連絡を取っていました。相手の電話番号を申し込んで繋がるまで相当に長い時間が掛かりました。1時間も掛ったことがあってその日の日程をこなせなくなり困ったこともありました。今では信じられない古きよき時代?これが本来のフランス風バカンスなのです。ここで草履のように大きいサイズのステーキとポテトフライ、山盛りのサラダを食べながら電話を申し込むという事も出来たのですが相手も昼休み!上手くいくことが少なかったように記憶しています。 パリの中のちょっと洒落た人気の老舗Cafe。モンパルナスのロトンドやクーポール、 サンジエルマンのフロールやデユ マゴ、 オペラ座のカフエドラペ、シャンゼリゼのフーケなどいくつかあります。観光客の集まるCafe、画家たちのたまり場になっている所などそれぞれに特徴があります。ここでは入り口に入ってギャルソンの案内で着席。注文を聞きに来るまでじっと我慢。他のギャルソンに声を掛けても無視されます。それはテーブルの何席かを個々に営業する権利を持っているからです。当時はチップを10%以上自分で計算してテーブルに置く、おつりを受け取ることは決してなくそれは野暮なことでした。お馴染みさんや上客になると相当高額なチップを置きます。それがギャルソンの収入。それで長い時間をゆったりと過ごすことも何かしらの便宜を図ってもらう事も出来たようです。その権利を売ってハッピーリタイヤー(引退)をするのです。今はもうレシートにサービス料も打ち込まれてきますからチップもほとんど置かなくなりました。時代の移り変わりを感じます。そんな高級Cafeでも床にハンドバックを置いてお喋りに夢中になっている間に少しずつ引きずられて無くなっていたという物騒な話。シャンゼリゼのCafeで トイレに行ったまま帰って来ないという摩訶不思議な誘拐事件もありました。またホテルに併設された有名なCafeで赴任早々の夫が軽く一杯と夕方ワインをご馳走になった時おつまみは白い豆腐のような軟らかいものが出て来て名前を聞いても教えて貰えず “とにかく食べてみて下さい” とのこと。後で鹿の脳みそであったことが判りました。ジビエの季節で高級なゲテモノ。またとないチャンスだとご馳走したフランス人は食べて見たくて招待したのでしょう。以後食べたいと思わなかったようですし、その機会もなかったようです。まだまだ話題の多いであります。 東 明江  

おぼろげ記憶帖 9 夜のレストラン

3ツ星ではないけれど素敵なレストランを予約したということにします。予約なしに訪れることはありません。大抵は2人または4人。偶数のテーブルの方が料理人も手順よく都合が良いようです。ミシュランの星付きのレストランでは夜8時ではまだガラガラ。8時半を過ぎ9時頃にようやく席は落ち着きます。 先ず楽しみなのはメニュー選び。アペリティフに豪華にシャンパンやキール(白ワインとカシスリキュール)、アルコールに弱い私はシャンパン ノン アルコール。これはガスの一番強いソーダ水ペリエのことで最近は日本でも見かけるようになりました。(夏の暑い時キンキンに冷やして飲むと最高です)アミユーズ ド ブッシュというお口汚しとでもいうのでしょうか小さな一品が運ばれてきます。一品料理もありますが大抵はメニューからオードブル・メイン・デザートを選ぶことが多いようです。それぞれ3・4種類の料理があります。その中から組み合わせを考えるのですがこれがまた楽しく時間が掛かります。自分の好みとお腹の具合、肉か魚を決めて。どうしても食べてみたいというお皿があるとデザートから決めたり、メインを遠慮してオードブルを2つにしたり。タイミングよくギャルソンが注文を聞きに来ます。4人のテーブルとして先ずはお客様らしい女性・もう一人の女性・男性・最後に支払いをする様子の男性の順。座る席の決まりがあり、勝手に好きなテーブルに座ることはありません。男女は対角線に座り、支払い係の男性は入り口に一番近い席に座るのが常識のようです。料理が決まればワインリスト。ワインは料理に合わせて選ぶもの。完璧な自信のない時はソムニエに選んでもらうのが一番。店の格とソムニエとしてのプライドを持って料理に合う最高のワインを選んでくれます。当然お客のフトコロ事情も飲み込んでいますからべらぼうな高級ワインを薦められることもなく気持ちよく食事が出来るというものです。 メインのお皿は2人のギャルソンがそれぞれ両手に持って来て一斉に、そして間違いなく注文主のテーブルに置くのです。大抵は料理に銀の帽子が被っています。それを呼吸を合わせてさっと取るのです。思わず声が出ます。この儀式?が滞りなく終わって初めて一流のレストランといえるのです。この後デザート、チーズの出ることもありますがコーヒー・紅茶・リキュールと進みます。3時間は充分にかけてのフランス料理。満腹!ご馳走さまでした。 日本語に「いただきます」という言葉がありますがフランスではその意味の言葉がなく”ボ ナペティ!(Bon apetit!)”と言いますが、これは美味しく頂きましょうという感じです 東 明江  

おぼろげ記憶帖 8 フランスの食事

前夜しっかりとフルコースの食事を済ませた人は朝でも満腹。何時の頃までかクロアッサンとカフェオレをメイドがベッドまで運んでくると聞いていました。これは上流社会のことでしょう。普通は焼き立てのバゲットを朝買いに行くのです。料理の時はバターを付けませんが朝はパンにバター、ジュースとコーヒーの簡単なものです。各人それぞれのランチョンマットを持っていてナイフ、フォーク、スプーンで綺麗に食べて添えられたソースもパンで綺麗に拭い、オードブルもメインのお皿も1枚で済ませます。その後ランチョンマットでクルクル巻いておくとの事。これは聞いた話。どこまでが本当なのか分かりませんがまあこんな感じだと思われます。 ずっと以前は昼食には家に帰って家族と共にゆっくりと食事をとるのがフランス式でした。現在は経済が発達し、職住が接近でなくなったこともあり、そのようなことは少なくなりました。でも日本のサラリーマンよりはしっかりと食事をしているようです。ブラッスリーの一皿料理、カフエの特大ビフテキなどを勿論ワインと共に。簡単にオードブルとメインの一皿とコーヒーというレストランもあります。忙しい観光客はバゲットにチーズやハム、チキンと野菜を挟んだサンドイッチ。これがまたパリパリと香ばしいパンにはさまれていてとても美味しいのです。食パンはありませんので日本のサンドイッチとは全く違うものです。所変われば…です。オペラ座界隈にはうどん屋。寿司屋、ラーメン屋と日本人街もありますから日本が恋しくなった旅行者は利用されるようです。 中華街に行けば安価で手軽にベトナム中華が食べられます。それぞれ選んで運ばれてきたのは自分のもの。私は中華料理は分け合って食べるものと思っていました。別々のお皿を注文してそっと半分ずつ分けたり、こっそりお味見をしたりとお行儀の悪いこととは知りながら実行するのが日本人です。フランスでは絶対にないと言っても言い過ぎることはありません。オードブルからメインのお皿へと懐石料理のように次々出てくるのが正統のフランス料理ですが、お弁当も松花堂弁当もありません。最近では冷凍食品が出回り子供には冷凍の食事が多くなったと聞きました。それで以前にもまして20歳になったら独立して親元を離れることに拍車が掛かっているという事です。自分の生き方に義務と責任とは付いて回りますが束縛されない自由を謳歌するためでしょうか? 実り豊かな人生であってほしいと願うばかりです。 東 明江  

おぼろげ記憶帖 7 自己主張

ドゴール大統領の時代ですから今から55年位前の話。私は26・7歳で男児の母親でした。第二次世界大戦の戦没者のモニュメントがパリの西、広大なブローニュの森を越えてセーヌ川を渡った丘の上にありました。ある日“ドゴールが来る”というので曲がり角の辻まで夫と一緒に行き、人だかりの中で待っていました。その時突然 ‟ジエネラル・ドゴール!” と大声が上がりました。日本で言うならドゴール万歳!というところです。びっくりして振り返ると同じアパートに住み、隣のビルの1階で奥さんと一緒に美容院を開いているムッシユウでした。子供さんはいなくて普段はやさしく女性的な感じの方でしたから私達の驚きは大変なものでした。それでコンシェルジュのマダム・アリザに鉄工所に勤めているご主人のムッシュウは何党ですか?と不躾な質問をしました。労働者の加入する政党です!と胸を張った返事がありました。 それまでの私は政治に関心はなく、私の1票で世の中が変わるものではない、どうにもならない!と決め込んで選挙の投票にも行かない私 でした。この光景に出会った後は充分に判らないながらも政治・経済の世界情勢にも関心を持つように心掛けるようになりました。選挙権のないパリでは叶いませんでしたが、帰国後は公報を読んで棄権することなく投票に行っています。 ある時「自分のことは自分で守る」という言葉に出会いました。パリのイケメンのポリスから信号が赤でも自分が大丈夫、危険がないと思えば渡って良い。“さァ 渡って下さい!”と言いました。何とポリスです。また片道3車線のシャンゼリゼ通りは物凄い交通量です。でもいっとき信号の都合でしょうか車の途切れることがあり、その間に中央分離帯に行き、あとの半分は左右を見て渡り切るという光景を何度も見かけました。命がけの横断です。私も試したことがありますが正直ちょっと快感を味わいました。 食事にワインの欠かせないフランス人。飲まずに料理は食べられません。常に飲酒運転、いわく取り締まるポリスも飲んでいるよ。とのことで飲酒運転での交通事故は聞いたことはありませんでした。 それからは全てのことに「自分の身は自分で守る。そして責任を持つ」という生き方をしたいと思うようになりました。とてもその理想の実現は難しいですが意味の深い言葉をかみしめています。 東 明江  

おぼろげ記憶帖 6 簡単な挨拶

こんにちは・こんばんは・すみません・ありがとうなどとフランス人は出会った人たちと簡単な軽い挨拶をよく交わします。それも少し微笑んで! 礼儀正しいと言われている日本人は最近ご近所でもかかわりのない人は挨拶をしません。頭を下げるだけで言葉は発しないことが多いのです。道でぶつかりそうになっても後ろから追い越しても電車で降りられないでいても知らん顔です。私の住む地域だけのことかもしれませんがパリのマナーが懐かしく思われます。 「面識のない人たちとの挨拶はほんのひと時でも同じ空間を共有する場合知らん顔をするのではなく積極的に人間らしさを築き上げようとするフランス人の言語文化の一面である」という文章を見つけました。本当にそうだ!と思います。     Bonjour!  Monsieur /madame /mademoiselle 名前を付けて親しさを表すこともあります Bonsoir!       こんばんは Bonne journee!    さよならの代わりに軽く「よい一日を!」 Bon apres-midi !   良い午後を Bonne soiree!     楽しい夕べを Bon week-end !    よい週末を Bonne vacance !   楽しいバカンスを Mercy !  Mercy bien !  Mercy beaucoup ! ありがとうにいくつかの言い方があります Pardon !       日本語の“どうも”とか“すみません”の感じでご免なさいではありません Excuse moi !    ちょっとだけ“ご免なさい” Bon apetit !     食事を始める時の言葉。“いただきます”とは少し感じが違います Au revoir !     さようなら 或いは またね!        などと使います。 東 明江