追憶のオランダ(56)世界一短い挨拶

「あー」とか「おー」とかの感嘆詞でのコミュニケーションは世界中大体どこの国でもあると思います。これは言葉でのあいさつ・会話という以前のものです。 筆者がオランダに住み始めてすぐの頃、彼らオランダ人同士の会話の中でよく耳にする非常に気になる言葉(言葉というよりこれも感嘆詞のような感じだった)がありました。それは、どう聞いても「ダー」としか聞こえません。ある時、何を言っているのか訊ねて疑問は氷解。彼らは「Dag!」と言っていたのです。特にお互い別れ際に、必ずと言っていいほどそう言っているのでした。要は、英語流に言えば「Have a good day!」の最後の「Day」の部分だけ言っていたのでした。英語のDayは、オランダ語でDag。日本語表記にするのは難しいのですが、あえて書くと「ダーツハ」なのです。数回前の「ヒートホーン」でも少し触れましたが、この最後の「G」のオランダ語の発音がとても厄介なのです。喉の奥を擦るような音で、同じゲルマン民族である隣のドイツ人などもなかなかこの音は出しにくいと言います。昔(今もそうかもしれませんが)、アントニオ猪木が「1・2・3、ダー」というのをくりかえしていましたが、まさにそんな感じですが、もっと軽く明るく言うのです。これは言葉が大幅に省略されてはいますが、立派な、もしかすると世界で一番短い挨拶(会話)の言葉かもしれません。たったの一音。 そして、このDag!は筆者が赴任した時の引継ぎを受けた前任者の一人息子(まだ1歳そこそこ)が、手を振ってさよならの仕草をすると「ダー」と声を出して言っていたのを思い出しました。日本語が喋れないこんな小さい子がオランダ語で挨拶をしていたのです。今、彼は20台後半の年齢になっているはずですが、オランダ語を忘れず話しているでしょうか。因みに、彼の父親は歴代の駐在員の中でもオランダ語が話せる数少ない御仁でした。  

追憶のオランダ(55)ほろ苦い初のイースターホリデー

オランダで家族とともに生活を始めた翌年の春、初めて経験するイースター(復活祭)の休みにギリシャへの家族旅行に行った。慣れぬこともあり、現地案内人付きの団体旅行を選んだ。それも日本人ばかりの20人ほどのグループで。 あちこちとギリシャの3日間を楽しんで帰りの日の日曜日。翌日からはまた仕事が待っているというやや重い気持ちで、その日の昼過ぎ発のアムステルダム行きの便に乗るべく空港へ行き、いざチェックインをしようとすると全員の席がオーバーブックのため全く確保されていないことが判明。当然のことながら、皆一斉に旅行会社の現地スタッフ(うら若き女性)に文句を言い出し、彼女はオタオタしながらも航空会社(KLM)の窓口で交渉を始めた。しかし、一向に埒が開かず、筆者も含め父親連中が揃ってチェックインカウンターでゴネることにした。おそらくは、この添乗員が帰りの便のリコンファームをし忘れたのではないかと思ったが、ともかくゴネ続けた。カウンターの係員は何度も電話で誰かとやりとりしていたが、その結果ブリュッセルで乗り継ぐ便で何席か確保できた。しかし、依然として6名分は席がない。しかもそのブリュッセル行きはアムステルダム行きの便より出発時刻が少し早く、もう出発が迫っており、どうするか決断を迫られた。そして、それぞれの家族が代表して誰が先にこの便に乗るかじゃんけんで決めた。勝ちぬけた家族は負けた2家族の6名にその場でサヨナラをして急いでゲートに向かってしまった。私たち2家族はじゃんけんに負けて残されてしまったのだ。 残されやりきれなかったが、さらに窓口で粘り続けざるを得なかった。もうこの際、「どこ経由でもいいから、モスクワ経由でもイスタンブール経由でもいいので席はないのか、何だこのサービスは。」とか言いたいことを言い続けたところ、これまた不思議、すぐに同じブリュッセル便でさらに3席追加で確保できたのだ。なんだ、6席ではないのかとガッカリしつつ、また、じゃんけんをし、憐れここでも私はまた負けてしまった。よくよく運がなかったのだ。しかし、娘も女房も、反対に喜んでいる様子。「もう一泊して遊んでいける、無理して急いで帰ることないよ、飛行機がないんだもの仕方ない。」と至って呑気なもの。私も一瞬そう思いかけたが、やはり翌日の仕事のことを気にせずにはいられない。 後の3人の家族ともすぐに別れて、今度は一人でカウンターに張り付くことになった。気の利いたセリフも言えないが、冗談らしきことも多少は言いながら、係員と話していた。初めてのイースターで楽しかったが、最後のこの瞬間の出来事ですべて台無しになったというようなことをまくしたてていた。すると、話していた係員が奥に入ってしまったので「これで万事休すか~~、さっき別れた連中はもうブリュッセル行きに搭乗した頃かな。」などと独り言を言いながら半ば諦め気分で待っていた。しかし、しばらくすると先程まではあまり愛想も良くなかった係員が満面の笑みで戻って来たではないか。そして私の名前を呼び言うことには、「お客様、(当初予定していた)アムステルダム行きの便で3席確保できました。すぐにゲートへお急ぎください。」と。何ということだ!一瞬わが耳を疑った。そして、娘はこれにはがっかりしていたようだが、ともかくゲートに急いだ。走りながら搭乗券を見ると3席はバラバラではなく、なんと横一列の続きの席なのだ。 そんなドタバタがあったが、オランダに帰りあとで聞いた話では、じゃんけんに勝って先にブリュッセル経由で出発したはずの他の人たちはアムステルダム行きの接続にかなりの時間があったため、結局家に帰り着いたのは最後までアテネに取り残さそうになった我家の方だったというオチまでついている。じゃんけんも、たまには負けてみるのもいいかな・・・。 この話には、さらにおまけの話がついているのだが、それはまた別の機会にお話しましょう。  

追憶のオランダ(54)ホテルオークラにお世話になった話

日本にいると、筆者のような一般庶民は日本一流のホテルには何か特別な目的、例えば誰かの結婚式があるとか海外からの来客が宿泊しているとか、そんな時に利用するくらいしかない。それは今でも変わっていない。しかし、不思議なことに、オランダで生活していた時にはホテルオークラが非常に身近な存在になっていたのだ。何かあっても、そこは日本だという妙な安心感と親近感があったことは事実。働いている従業員の大部分はオランダ人だが、そこは変なものである。オランダ人だけの世界にいるという感覚が薄れていた。 一番よく利用させてもらったのは、日本食のレストラン「山里」。本物の、しかも一流の日本食が楽しめる。値段は少しくらい高くてもその誘惑には勝てない。したがって、ロッテルダムから片道75km車を飛ばして家族で月に一度はオークラへ行って好きなものを食べることにしていた。アムステルダムで住む日本人は恵まれているなあ、と思いながら。食事の時には当然のように酒も飲んだが、帰りの車の運転は別に問題なかった。もちろん、運転できなくなる程は飲まない。 それと、ホテルの地下にある日本の本屋には必ず立ち寄ったものだ。価格は大体定価の3倍くらいしたが、これも日本語の活字に飢えていることもあって、高いとも思わなくなって、行けば何冊かまとめ買いをしたものだ。そして、そこにはYAMAという日本食材屋もあり、賞味期限切れ寸前、あるいは完全に切れているもの、そんなのお構いなしで、目ぼしいものはこの際と買い入れるのがお定まりのコースだ。ここでも誘惑の方が財布に対して完全勝利することになる。女房、子供もそれぞれ似た行動をする。 さらに言えば、私はそれ以外にも一人でアムステルダムまでアンティークタイルを探しに骨董屋巡りに出かけたり、美術館巡りをしたりしていたが、その時非常に重宝するのがホテルオークラの駐車場だった。街なか深くにまでは入らず、そこに車を止め、市内はもっぱらトラムで移動する。慣れぬ市内に車を乗り入れるのはなかなか難しいものだ。一方通行が多く行きたい場所を探し探して近くまで行けても近辺に駐車場がなく、今度は駐車場所を探すことになる。扇状に何重にもなった運河沿いの一方通行を走る間に方向感覚を完全に失ってしまい、結局随分遠いところに止めて歩かざるを得ないという失敗も何度かした。そのあと、オークラの駐車場+トラムというP+R(パーク&ライド)に落ち着いたもの。その時も本か何か買い物もしたので、駐車代はゼロ。 ほんとうに、ホテルオークラさん、お世話になりました。でも、残念ながら宿泊だけはする機会がありませんでしたね。

追憶のオランダ(53)キューケンホフ

キューケンホフ、この名前はご存知の方も多いのではないかと思う。チューリップで有名な、アムステルダム近郊のLisseという町にある植物園である。名前そのものの意味は厨房・台所ということで、それにしても奇妙な名前がついている。 オランダの冬は、雪はあまり降らず、凍てつくような寒さが厳しく、近辺の水路は冬の間は殆どがカチンカチンに凍り付く。しかし、3月中旬頃になるとようやく寒い冬もそろそろ終わりを迎え、皆が春の到来を感じる。殺風景な冬も実は2月下旬頃からはあちこちにクロッカスが咲き始め、それを追うように3月頃からはチューリップが芽を伸ばし出す。ちょうどその時期3月中下旬からの約2か月間、5月中下旬くらいまで期間限定でこのキューケンホフは開園する。その間世界中からチューリップを見に多くの観光客が訪れる。私ども家族も何度も見に行った。30ヘクタール以上の広大な園内には、こんな品種があるのかと思うくらいの多くの個性あるチューリップが一面に植えられている。約800種類、7百万株以上毎年植えられるとも言われている。確かにこんな光景はそれまでにもみたことがなくただただ圧倒される。 しかし、よく見ると、これは単なる見せるだけのチューリップを植えた花壇ではないことがわかる。それぞれ品種ごとにそれを育てた(品種改良をした)会社なり組織の名前が品種名とともに表示されている。それは、見て目を楽しませるだけではなく、花卉産業の一大展示場となっていることに気付いた。おそらく、その出来栄えを見て、その後商談が行なわれるのだろう。因みに、チューリップは17世紀に小アジア(現在のトルコ)あたりの野生種であったどちらかというと貧相な花を、オランダで園芸種として改良を重ね、現在のような多種多様なチューリップになっている。一時は、一粒の球根が非常な高値で取引されるなど一大バブルを引き起こし、莫大な財を築いた人、反対に破産をした人を出した歴史も持つことも有名な話である。 キューケンホフに近づくまでに、高速道路を降りてしばらく田舎道を走るのだが、その周りにもずっとチューリップ畑が広がっている。時期によってはまだ花を咲かせていなければ緑に見えて何か野菜でも作っているのかと思うが、そうではなく、右の写真のようにほとんどが球根を育てるためのチューリップ畑なのである。シーズンの土日ともなると、園まで続く田舎道は車の列が連なり、遅々として進まない。このキューケンホフの公園のある場所は、古くは貴族の狩猟場だったようだが、第二次大戦後、公園として整備され現在のような姿になったらしく、チューリップ園としての歴史はそれほど古いものではない。そんなキューケンホフだが、じつは私はこの公園にオランダ人夫婦を案内したことがある。この年配の御夫婦、オランダの一番南のマーストリヒト近くに住んでいて、名前だけは聞いて知ってはいたらしいがその時まで実際にこの場所を訪れる機会がなかったらしい。オランダを代表するキューケンホフに日本人がオランダ人を案内した?おやっ、と思われるかもしれないが、そういうことも実際あったのでした。愉快愉快。  

追憶のオランダ(52)近代建築の実験場

以前に「市庁舎はなぜ無傷で残った」でも少し触れましたが、ロッテルダムの街は他のヨーロッパの国々の歴史ある街に比べ少し変わったところがあるのです。この街は第二次世界大戦開始早々にドイツ軍の空襲により壊滅的な被害をこうむり、何カ所かの建物を除き瓦礫の山となりました。このような街はオランダ以外にも他に幾つもありますが、戦後他の街の多くは破壊された戦前の建物(歴史的に価値のある建物も多かった)を市民ができるだけ忠実に細部に至るまで復元することに情熱を注ぎ、実際瓦礫を拾い集め組み立て直したように元通りの街並みを再現しているのです。それは「復元・復旧」への情熱というよりも執念でしょう。その一つが有名なポーランドのワルシャワの旧市街です。 そのような例があるかと思えば、一方ではロッテルダムの市民はそれとはまったく異なった考え方をしていたのです。彼らが以前住んでいた旧市街の建物に未練がないわけではなかったのでしょうが、むしろそれより更地になってしまった以上は、昔にはこだわらず、思い切って全く新しい建物をどんどん建てて「復興」しようとしたのです。「復元・復旧」とは違い、「復興」なのです。古い様式にはこだわらず、新感覚の近代的なビルを建て始めたのです。その結果、数十年が経ちオランダ第二の都市ロッテルダムは実に奇抜な(あるものは奇抜過ぎるところもある)建物がたくさんたっているのです。ある意味では、新しい建築の実験場のような感じさえするのです。 この写真は、ロッテルダム中心部のBlaak(ブラーク)という広場で毎週青空市場が開かれる所ですが、右端に見えるサイコロのような建物(しかもそのサイコロが角で立っている)通称キュービックハウス、また写真中央の鉛筆のような形の建物、通称ペンシルハウス。いずれも普通?のアパートなのです。そして、写真左に見える白い建物にはまるで工場のように黄色い太いパイプがめぐらされています。これはなんと市の図書館なのですが、外観を見ただけではとても図書館には見えません。実は、筆者もしばらくここが図書館だとは気づきませんでした。かと思えば、折角きれいに四角に造った高いビルを袈裟懸けに斬ってずれた様な感じにしてしまったビルもあり、実にユニークな建物のオンパレードです。 筆者がロッテルダムを離れてから随分なりますので、今どんな新しい建物が建てられているか想像もつきません。以前にも増してユニークな建物に面食らうか、場合によっては呆れてしまう可能性が大であります。これぞ、ロッテルダマー!オランダ気質の真骨頂。要は、何でもあり、なのです。  

追憶のオランダ(51)海を渡ったお雛様

いつもこの季節になると、否応なしに思い出されることがある。我が家のお雛様は海を渡ったんだと。 我ら夫婦は一男一女に恵まれた。私がオランダ転勤の時には、息子はその春ちょうど高校に入ったばかりであったこともあり私の両親に息子を預け日本に残して行くことになった。その引っ越しの時、女房は荷物の中に娘のためにお雛様も入れていた。そのお雛様というのは、岳父が孫娘のために贈ってくれたもので七段飾りの大きなもの。貰った当時は私たちはまだ公団の2DKの団地住まいで、そんな大きなものは飾る場所に困るだけといったのだが、店に勧められてついに買ってしまったらしい。多分、七段飾りというのはその頃の流行りだったらしい。案の定、2DKには大きすぎた。飾る時期には、とたんに我々家族の寝る場所がなくなってしまい、親子4人雑魚寝になった。この写真がそのお雛様である。 そんなお雛様、オランダにいる間だけは随分ゆっくりとされたことだろう。一部屋を完全に占領でき、青い眼の人たちに好奇と賞賛の眼差しで迎えられ、さぞ満足もされたことだろう。はて、何十人に見てもらっただろう?お雛様を初めて見るオランダ人にとっては、ほんとうにどのように映ったことか。一緒に何枚もの写真を撮って皆さんに差し上げた。最初に住んだ家の隣の三姉妹、2軒目の家の隣の小さな女の子をはじめとして、会社の同僚たちやら日頃親しくしていた友人たち家族の人たち、さらに近所のおじいさん、おばあさん・・・、要はこの時期に我家を訪れる人すべてにご披露させてもらった。そして、この近所のおじいさんは若い頃(前回の東京オリンピックの前後らしい)日本に来たことがあるというビジネスマンで、東京で大手企業H製作所の工場を訪問したことがあるという。聞くと、その場所というのは、まさに私が結婚して最初に住んだ足立区にある住宅公団の団地の場所なのだ。つまりH製作所が移転した跡地に住宅公団が大きな団地を作り、私たちがこのハイムに引っ越してくるまで10年以上住んでいたところなのだ。何か、因縁を感じることでもあった。その時、御夫婦は既にかなりの高齢であったので今はもうこの世にはおられないかもしれない。でも、お雛様を見て大感激してくれた二人の顔を懐かしく思い出す。 なお、オランダから帰ってもう20年を超えるが、その間ずっと我が家がこのお雛様の保管場所・飾り付けの場所になっている。また、今年もその季節になった。二人いる孫娘たちのために急いで部屋を片付けないと・・・。

追憶のオランダ(50)GLASBAKービンのリサイクル

GLASBAK(グラスバク)、耳慣れない言葉でしょうね。Glas はガラス、Bakはコンテナーの意。つまり、これはガラス専用のリサイクルのための回収ボックスなのです。オランダの街角のあちこちにおかれていて、近所の住民は不要になったガラスビンなどを家から持ってきて捨てます(正しくは、リサイクルに回します)。それぞれの地方自治体ごとにリサイクルの方法が細かくきまっていて、GLASBAKはその形・大きさ等様々なものがありますが、いずれもかなり大きな頑丈な(多分鉄製などの)コンテナーで、その投入口がビンの色別に投入口が分かれていました。透明・緑(青)・茶色の3種類。このGLASBAKは普通の家庭ごみと同様定期的に地方自治体の回収係が来てコンテナーごと回収専用車に付いた重機で釣り上げ、中身を回収していきます。ガラス類のほか新聞紙などの紙類、衣類専用のリサイクル用の回収ボックスなども設置されています。 また、家庭の一般ごみについては下に車が付いた大きなプラスチック製のごみ箱が各家庭に配布されていて、指定回収日に玄関先に出しておくと、これまた回収車が来て付属の機械でゴミ箱ごと持ち上げ、内容物をバサッと車に投入、回収してくれるシステム。 ビールなどの特定のビンの回収はスーパーなどに専用の回収ボックスが設置されていることが多く、空ビン一本当り何セントかが返金されるシステムになっていた(ビンの裏のラベルには返金を受けられる金額が書かれていました)。そのボックスに入れると換金できるクーポン券が出てくるシステム。私の場合、ビールは大体がケース入りで近所の酒屋から配達してもらっていたので、この返金ボックスは使ったことがありませんでしたが。  

追憶のオランダ(49)煙草の自動販売機

ヨーロッパはどの国へ行っても日本のように自動販売機(自販機)というものをあまり見かけません。あまりというよりも、殆どと言っていいでしょう。そこには販売についての宗教上のものの考え方が根底にあるとも言われています。もしかすると、間違っているかもしれませんが、休日には一部の例外を除いて、ほぼ完全に店を閉め営業はしないということともどこかでつながっているような気もします。最近でこそ、週末にも営業をする店が増えては来ましたが、以前は、旅行者にとっては殆どの店が閉まっていて週末は実に淋しいものでした。そんな週末、店が開いていないのに夫婦連れだってその閉まっている店のウィンドーの中の商品を見て回っているのを見かけ、これぞまさに「ウィンドーショッピング」そのものだと感心したことがありました。ドイツでのこと。 そもそも歴史的には自販機は産業革命後のイギリスで実用化されたらしいのですが、その後ヨーロッパではあまり普及しなかったようです。一方、日本ではアメリカの清涼飲料水が自販機で販売されたあたりから急速に台数・種類が増え始め、今やタバコ・清涼飲料・酒類・菓子・新聞雑誌・切符等、多種多様の自販機が街のいたる所に設置されています。聞くところでは、自販機による年間売り上げは5兆円とも言われます。 前置きが長くなりましたが、オランダの自販機事情についてです。オランダで最もよく目にしたのは、駅などにある小さなコインロッカーか下足箱のようなコロッケの自販機です。それ以外ではカフェバーなどでのタバコの自販機でした。それは、何か横長くて一見ジュークボックスにも見えるようなもので、いろんな銘柄のタバコの箱の絵が表示してあります。左の写真はイギリスのものですが、これと似たような形式のものでした。当然硬貨(紙幣は使用できなかったと記憶している)を投入してその絵を押すとそのタバコが出てくる。ここまでは、日本程洗練されてはいないが一応自販機です。しかし、その自販機で使える硬貨が限定されているのです。そして驚くことに、つり銭のシステムがないのです。正確なことは忘れましたが、使える硬貨は5ギルダーと1ギルダーのみだった。 例えば、5.5ギルダーのタバコはどうやって買うの?それは、6ギルダー分を入れるのです。すると、なんとタバコの箱に25セント硬貨が2枚テープで張り付けられたのが出てくるのです!つまり、この自販機にはつり銭の機能がないからこうなのです。タバコの価格が値上げされれば、その都度貼り付けるつり銭の金額も変わるということなのです。ただ残念ながら、つり銭の硬貨を貼りつけられたタバコの証拠写真を残せていません。 この当時はこの自販機につり銭機能をつけた新しい自販機に設置し直すよりも、つり銭を貼りつける方がコスト的に安かったということかもしれませんが、日本ではちょっと考えられない事ですね。ただ、それは20年以上前の昔話ですから、今はもうつり銭機能が付いた新しいものが設置されているのかもしれません。 それと関連したことで、一つイギリスでの面白い話です。 日本からの出張者と一緒にイギリスに出張に行ったときのこと。彼は自販機を見つけ一箱買ってきたのはいいのですが、20本入りのはずが、本数が少ないのです。タバコが値上げされて間がない時のことだったのでしょう、まだ、自販機には値上げされる前の金額が表示されていて、買う人は旧価格の硬貨を入れるとその自販機からは従来のようにタバコは出てくるのですが、その箱には20本ではなく本数を値上げ分減らされて、16本入りの箱が出てきたのです。これは考えたな、と思いましたが、はたしてタバコの製造段階で本数を減らすか、自販機の設定を変更するか、どちらが合理的なのか?おそらく、国中に数多く散らばっている自販機を調整する手間よりもタバコ製造会社の生産ラインで本数を減らす方がコストがかからないということではないでしょうか。これも、証拠写真を残しておくべきだった・・・。

追憶のオランダ(48)アウデワーターの非魔女証明書

アウデワーター(Oudewater)は、ハウダ(Gouda)とユトレヒト(Utrecht)の間にある小さな町。しかし、小さい町ながら昔から「あること」で有名なのです。 皆さん、話には聞かれたことがおありだと思いますが、中世のヨーロッパでは天災・疫病・飢饉などの災害は魔女の仕業だと信じられ、そのために何万人という女性が魔女として命を奪われた歴史があります。誰かが、「あれは魔女だ。」と訴えると、その人は裁判にかけられ、魔女と認定されたら火あぶりなどで処刑されたり、あるいは裁判なしに魔女としてリンチで殺される、ということがあったようです。いわゆる魔女狩りです。単に宗教上の問題だけではなくそれ以外のいろいろな要素が混ざり合っているようですが、この時代の言わば集団ヒステリーのような状況であったと思われます。 その裁判の一つとして、魔女というのは体重が軽く、ほうきに乗って空を飛ぶということが信じられ、そのため嫌疑をかけられた人はてんびん秤で体重を測られます。軽いと魔女にされます。しかし、ここで告訴した人と体重を測る役人がグルになればどんな変な結果でも出すことが可能です。つまり、役人を買収すれば、告訴した人に都合の悪い人は魔女として抹殺することができるのです。さらに言えば、宗教上の問題に見せかけて、あまりその社会になじめていない人とか、単なる金銭トラブルを起こしてしまいそれを帳消しにするため相手を魔女として消し去る、というようなことも多かったともいいます。そのために役人に賄賂が使われるというようなことが横行していたということです。ひどい話では、大人の女性で体重が数キロと測定され魔女として処刑された記録も残っているそうです。あり得ないことが起こっていたのは、まさに狂気の沙汰、でも渦中の人々はそれと気づかないのです。 しかし、ここアウデワーターでは歴史的に一人の魔女も出していません。なぜなら、この町の裁判に使う秤が正確で、しかも裁判を行う役人が非常に清廉潔白な人が多く、賄賂が一切通用しなかったからということのようです。それで、時の神聖ローマ皇帝が全ヨーロッパに通用する「非魔女証明書」の発行する特権をアウデワーターに与えたそうです。そのため、オランダ以外からも多くの人が証明書を得ようと押し寄せたと聞きます。 さて、肝心のそのてんびん秤、現在も何代目かの木製のものが保存されていて、一見ブランコのように見えますが、町の観光資源として公開されています。そして、希望なら体重を測ってもらいその場で「非魔女証明書」を発行してくれますが、どうされますか?  

追憶のオランダ(47)日蘭交流400年

日蘭交流400年を祝う行事は、日本・オランダ双方でいろいろ企画され実施されたようだ。私はそのごく一部、オランダでの行事を目撃し、参加できるタイミングでオランダに住んでいたので、ほんの少しご紹介しよう。 400年と一言でいうが、何年から数えて400年なのか?これはどうもはっきりしない。 多分、多分である。5隻のオランダ商船がロッテルダム港を出港した時点1598年6月が一つの起点。だが、出航時点ではバタビアに向かう予定であったはずで日本などは眼中になかったはずだ。それが運命の悪戯で、偶然にも途中嵐で僚船も失い漂流して豊後の臼杵(現在の大分県臼杵市)に漂着した慶長5年3月(1600年4月)がもう一つの起点となる。因みに、慶長5年と言えば、その年の秋に関ケ原の戦いが起こる。実際は、日蘭がお互い初めて出会ったのは後者の1600年ということになろうが、そんな細かいことはどうでもいい。 それで、ロッテルダムでは1998年からはいろいろな行事が予定されていた。昔出航した6月27日にはロッテルダム港では、市が主催するデリーフデ号出航を再現する式典が開催された。この写真の中央に当時の衣装の男性とその横に、オランダ側での400年の起点である1598という数字が見える。もっといい写真が撮れていないことが返す返すも残念。当時は、まだデジタルカメラがなかったので、フィルムを現像するまでどんな写真が撮れているか確認できなかった。今なら、何度でも撮り直しができるのに・・・。 また、特に日本人コミュニティーでも、ロッテルダム・ジャパンクラブなど日蘭の企業関係者などで祝賀パーティーなどいくつもの行事が催された。ロッテルダム日本人学校生徒たちも一役かって、6月17日に招かれたロッテルダム市庁舎で日頃練習していた和太鼓「マース川太鼓」の演技を披露し、集まった多くの日蘭関係者の盛大な歓待をうけた。余談だが、中央の法被姿がわが娘。