追憶のオランダ(66)住居設営奮闘記

赴任直後はしばらくホテル住まいが続いたが、そろそろ住む家を探さなくてはと不動産屋を何軒かまわり、あちこち物件を紹介してもらった。治安問題・自身の通勤の便、さらには子供の学校への通学の便などいろいろな条件があり、適当な物件に出会うまで仕事の合間合間でのことなので、随分時間を喰ってしまった。そして決まった家が、これも偶然にも同僚が住む家の真ん前、そして隣は前々任者が住んでいたというオンモールドという地区のローハウス(日本流で言えば、棟割り長屋)なのだ。また、近所には何人かの日本人も住んでおり、おそらく子供の通学ルート、つまりスクールバスの路線に近かったことからそうなったのだった。下の写真にみえるKruipbremという通りである。 ともかく、家は取りあえず決まったが、空っぽの殺風景な部屋を住める状態にするのが如何に大変かを味わうことになった。やはり、そこは日本と大いに事情が違う。コンクリートむき出しの床にカーペットを貼り、古い壁紙を剥がし新しく貼り直す。そして照明器具をとりつける。それと並行して電気・ガス・水道、それに電話の契約もせねばならない。さらに、家具類・電化製品も揃えなければ・・・。やることはいっぱいある。しかし、このままでは家の中が丸見えなので、カーテンだけは早めに用意せねば。オランダ人なら全部自分で楽しみながらDIY でやるようだが、こちらは単身赴任してきたばかり、道具もない外国人が全部一人でやるのは無理がある。ともかく仕事の合間に、材料屋・家具屋など関係先を回り注文もして回った。 実際にやってみて後でわかったことだが、問題は壁紙と照明器具だった。 壁紙は業者に貼ることを頼んだが、業者が見て言うには「古い物が重ねて貼ってあるようなので、全部剥がしておいてくれ。」と。ここで、後先考えずOK してしまい、大変な目に合うことになった。剥がすのは最初そんなに難しいことでもないと思ったが、それは手が届く壁の半分から下くらいまで。天井までは随分高いことに今さらながらに気付いた。そうだ脚立もないのだ。たまたま、脚立は隣の家で借りることができたが、壁というのは意外と広い。剥がした壁紙は確かに2枚重ねている部分が多く、剥がしたものは意外と嵩張って捨てるにも一度には捨てられない。悪戦苦闘して一週間近くかけて2階分を剥がし終わったところでいささかうんざりして、屋根裏部屋の壁にはとうとう手を付けなかった。この間も、カーテンはない。友人から簡易ベッドを借りて、裏庭に面した2階の部屋で寝起きすることにした。数日して、カーペット・壁紙・カーテンがついた。あとは、ちゃんとした照明器具と電化製品・家具類を揃えないと・・・。 (続く)

追憶のオランダ(65)アンティークタイルへの旅(続)

美術館での展示といえばは絵画・彫刻などが中心だが、アンティークタイルも芸術品としてそれぞれの美術館には展示・収蔵されている。その中で、最も心が躍ったのは家の近所でもあったのボイマンス( Boijmans )美術館(左の写真)。そこはブリューゲルの有名な「バベルの塔」をはじめ16-17世紀の有名なフランドル絵画がたくさん収蔵されていて、これはこれでよく観に行ったものだが、私のもう一つの興味は少し違った場所にあった。あまり目立たない殺風景な部屋に幾つものスチール製の大きなキャビネットだけが設置されているのだ。大きな地図などのようなものを収納するあまり底が深くない引き出しが何段にも付いている。その引き出しは想像するよりも重く、一段ずつそろりと引き開けてみると、中には何枚ものタイルが整然と並べられている。何という展示方法だ。 次から次へと引き出しを開け、その都度ため息の連続だったことを今でも思い出す。欲しいと思っている図柄のものがいくつもあるではないか。まさに、よだれが出そうな感じだった。実際、出ていたかもしれない。 タイルの展示では多くは何枚かを石膏・モルタルで一枚の大きなパネル状に固定して壁などに飾られていたり、ガラスケースの中に一枚ずつ並べられていたりしているが、ボイマンスでは引き出しの中。 また、実際に使われている建物でタイルを見学する場合は、ちとそれまでの鑑賞方法とは違う。フェルメールの絵をご覧になれば、タイルがどのように使われているかがよく分かるのだが、壁の一番下の部分、床と接するところに一列に約13cm四方のタイルがずらりと並べて貼り付けられている。彼の絵は殆どが室内の絵で、そこにはタイルが描きこまれていることが多く、そのタイルには天使とか子供の遊びなどのモチーフが細かく描かれている。代表作「牛乳を注ぐ女」の画面右下にご注目。 タイルの目的はと言えば、モップ・ほうきなどで床掃除をする時、水濡れしてもいいようにタイルが貼られているわけだ。というわけで、実際の建物に使われているものを見学する時には、薄暗い(大体が古い建物は照明がとても暗い)建物の中で殆ど床に這いつくばって壁際の一枚一枚を見て回ることになる。他に客がいる場合、「こいつ何をやっているのか」と怪訝な眼で見られることも何度かあった。そこでタイルを指さし、素晴らしいタイルを見ていると言うと納得してくれ、私と同じようにのぞき込む人もいた。また、古い建物では必ずといっていいほど各部屋に暖炉が切ってあり、その内壁を飾っているのもこの種のタイルだった。それも見て回る。ある時、古めかしいレストランで食事することになったが、その時、店の人は中庭に面した明るい窓際の席を勧めてくれたのだが、タイル張りの暖炉が目に入った私は当然のこと暖炉の側の席を希望した。おかげで、そこのタイルもじっくり見学できた。他の客が座ってしまっては、後ろでゴソゴソするわけにはゆかぬから。

追憶のオランダ(64)アンティークタイルへの旅

私のオランダ生活はたかだか6年弱。当初からアンティークタイルを収集しようなどとは思っていなかった。しかし、気が付くと随分のめり込んだものだ。それも後半の3年の間に、である。それは、ある古書店でタイルに関するある本と出合ったのが直接の引き金になったように思う。それは、ヤン・プラウス( Jan Pluis )という人の書いた「Kinderspeelen op Tegels(タイル上の子供の遊び)」という題名の本(左の写真)で、文字通り「子供の遊び」をモチーフにしたタイルばかりを収集し一冊にまとめてある。その本の内容に魅せられて自分自身でも収集を始めてしまったのだ。それからというもの、骨董屋を見て回るのは当然のこと、美術館もあちこち見て回った。さらに、古い建物なども公開されているもの、由緒ありそうなレストランなど覗いて見たが、こちらは、実際に使用されている建物の中でどんなタイルが、どのように使われているかを見るいいチャンスでもあった。また、タイル専門の博物館へも何度も足を運んだ。それは、オランダ東部のアーンヘム( Arnhem ) の郊外にあるオッテロー( Ottelo )という町のタイル博物館、デルフトのランベルト・ファン・メールテン( Lambert van Meerten )、北部フリースラントのレーウワーデン( Leeuwarden )にあるプリンセスホフ( Princesshof )など。   オッテローのタイル博物館では会員にもなりいろいろな関連情報をもらった。なかでもタイル関連の出版物の案内やタイルの即売会の情報は私にとってはとても有難かった。案内があればその都度どこであれ出かけて行ったものだ。顔なじみになった何人もの骨董屋ともそんな即売会場で度々出会い、何枚も買い込む(体よく買わされる?)ことになる。そうそう、思い出した。なぜオッテロー まで行くことになったのか。普通ではなかなか考えがおよばない場所なのだ。それは、アムステルダムの小さな骨董屋で、そこの親父と話していて「それなら、一度オッテローのタイル博物館に行ってみるといい」と勧められたからだ。小さな町だからすぐ見つけられるというので、翌日すぐ車を走らせた。それ以降、何度通ったことか。右の写真はその展示風景。 デルフトのランベルト・ファン・メールテン、は由緒ある17世紀の旧宅を博物館にしたもので、壁面いっぱいに往時のタイルが展示してある。殆ど客が来ることがないので、いつも独り占めの感覚を味わえる貴重な場所だった。また、ここではタイル関連のいろいろな出版物を買った。右の写真はその図録。オランダ語は難しいが豊富な写真があるのは参考になった。さらに、プリンセスホフは、あのエッシャーの父が日本から帰国後に一時住んでいたこともあるという昔のフリースラント州の貴族の邸宅で、そこを陶器専門の博物館にしている。ちなみに、芸術家のあのM.C.エッシャー もここで生まれたと聞く。ここでもまたエッシャーと出会ってしまった。 (続く)

追憶のオランダ(63)アムステルダムの南にロンドン?

先週の「乾いた雨」に続いて、今回も奇妙なタイトルが続きます。アムステルダムの南には・・・? ロッテルダムがある、パリがある。それらは正解です。しかし、本当にロンドンがあるのか? 怪訝に思われるかもしれませんが、高速道路でスキポール空港を南に少し行った辺りで、道路標識に「ロンドン何キロ・パリ何キロ」と表示してあるのです。昔のことで、具体的な距離数が思い出せません。私が赴任したころはその標識はもちろんありませんでした。それは、ドーバー海峡に海底トンネル、通称ユーロトンネルが出来てからなのです。確か500km程度だったと思うのですが、アムステルダムとロンドンは地続き(?)になっているということです。実際はフランスのカレーまで南に走り、そこでユーロトンネルの車専用の列車に車ごと乗りこんで運んでもらいロンドンまで行くという方式のようです。というのは、これは私自身経験したことがないのではっきりと申し上げられません。英国側のある地点まで右側だけの一方通行で行き、英国側に出るところで左側車線に合流し、反対に英国側から大陸側に来る時も左側だけの一方通行で入り大陸側の右車線に合流すればよいと、私自身は勝手に思っていたのです。でも、それは鉄道と自動車それぞれのスペースが必要になるので、トンネル掘削が大変になりあまり現実的ではないのかと、これも勝手に理解しました。それにしても車に乗ったまま列車の車両に乗り込み降りる方法を採用するとは大胆としか言いようがありません。 ともかく、アムステルダム郊外で見た道路標識には間違いはありませんでした。

追憶のオランダ(62)乾いた雨

「乾いた雨」とは随分おかしな表現だと思われるかもしれません。しかし、感覚的には私にはそう思えたのです。日本の雨はどんなに小降りの雨でも、濡れるとなかなか乾きにくい。それは雨が降る時には湿度が高いから簡単には乾かないという当たり前の理屈です。 しかし、オランダで感じたのは、少々雨に濡れてもすぐ乾いてしまう、というよりも、乾いた雨が降っているのではと思える程なのです。少し表現が極端ですが、そんな感じなのです。ですから、外出していて途中で雨が降り出しても、オランダでは日本のように誰も走り出したりしません。決して急ぎ足にもなりません。ましては傘を開く人など殆ど見ることがありません。降る雨の中をそれまでと同じく平然と何事もないように歩いて、建物に入ると上着をコート掛けに掛けるとそれでおしまい。今度外に出る頃には、さっきまで降っていた雨も上がっているし、その上着もきれいさっぱり乾いているのです。 天気が非常に頻繁に変化するオランダでは、春・秋の季節でも、一日のうちにすべての気候が目まぐるしく入れ替わり立ち代わり出てくることがよくあります。春なのに革ジャンが欲しいと思っていたら急に暑くなり半袖で十分なくらい気温が上がったり、突如大嵐になったりと。時には、雨もみぞれもザット来ますが、決して長降りはしません。ということで、着るものを何にするか非常に困る時があります。したがって、我が家でも着る洋服は年中すべてのものをいつでも着られるようにクローゼットにつるしてありました。衣替えで、季節ごとに揃えて、後は仕舞っておくということは一切ありませんでした。夏でも半袖の上に革ジャンというのもざらにありました。 そう、乾いた雨で思い出したのは私が育った札幌。内地(当時、道産子―ドサンコは津軽海峡以南のこと「内地」と呼んでいたのですが、いまだにそう呼びますか?)の雪は湿っているけど、「北海道の雪は乾いている」。雪の玉を作ろうとしても手の中でなかなか固まらない。雪が降りしきる中を歩いていても、誰も傘なんかさしていない。建物にはいって、体に降り積もった雪をパサパサっと払えばそれでおしまい。何か、オランダの乾いた雨と似ているとは思いませんか。

追憶のオランダ(61)「託送荷物」になった男の話

海外旅行中には盗難にあうことも稀ではない。何を盗られるかにもよるが、パスポートを盗られる(紛失する)となるとそれは大変なことになる。少なくとも、紛失後はさらに予定通りの旅行を続けることが困難になる。然るべく、パスポートの再発行の手続きをということになるが、今回はその話は省いて話を続ける。 私がロッテルダムで勤務している間にも、盗難の被害にあわれた来訪者が数人おられた。そのうちの一人に我が同僚がいた。彼は欧州出張の最後の週末に当地に立ち寄ってくれた。終末の一日をオランダで過し少しだけ観光して帰国予定だった。当日金曜日夕刻、ホテルまで迎えに行ったが到着が遅れているらしく予定時間を過ぎてもまだチェックインしていない。しばらく待っていると、彼がスーツケースを押しながら悄然として現れた。聞くと、先ほどロッテルダム中央駅の前でグループ犯らしい連中にアタッシェケースを盗られたと。なかには、パスポートはじめ帰りの航空券、トラベラーズチェックなども入っていた由。 ということで、パスポートはないが私も立ち会って急ぎホテルにチェックインして、すぐに盗難届を出すため、最寄りの警察に駆け込んだ。そこでは、非常に親切に盗難届の手続きを済ませてくれ、おまけにトラベラーズチェックの封鎖とかも警察でやってくれた。 あと、何をどうすべきか検討することになるが、まずは腹ごしらえということで私がいつも行くレストランへ行き、知恵を絞ることにした。といっても、すぐに妙案は浮かばない。やはり、パスポートが先決なので、もう金曜日も21時を回っており、土曜日直接ハーグの大使館まで出向くことにした。大至急で再発行を申請しても新しいパスポートを受け取れるのは火曜日か水曜日になりそう。彼は、月曜日には日本にいたいというが、それはどう考えても無理な事。 今夜は飲もうということで、飲みだした。すると、我々の雰囲気を察したか、懇意にしてもらっている店の主人が来たので、困っていると簡単に話した。すると、「こういう方法もないではありませんよ。」と、知恵を授けてくれたのだ。 N航空で、日本に帰るだけなら、パスポートなしでも予定通り帰れます。ただし、私が(というより、私の勤務している会社の名のもとに私自身が)N航空に対して彼の身元を保証して、しかも日本側で彼の家族が成田空港まで彼を受け取りにくることができれば、帰国は可能かもしれないと。そして、夜遅くて失礼とは思ったが、すぐにN航空の知り合いの方に直接電話を入れて、確認して頂いた。快く了承いただき、翌日朝早くから駆け足の観光?をして、予定通りの時刻に空港へ行った。そして簡単な手続きを済ませて彼を日本に帰すことができた。この時の有難さは今でも忘れない。 要は、パスポートを失くした彼はこの日「N航空に預けられ日本まで送り届けてもらう『託送荷物』」になったのだ。 この時の窃盗犯グループは至って巧妙。あとで彼に聞いたところでは、まず彼のコートの背中にケチャップをつけて、親切に注意してくれる。彼がスーツケースとアッタッシェケースから手を放しコートを脱いでそれを確認しようとしている時に、近くで別の仲間が小銭を落とす。その音に彼が反応して振り向き余計な親切心を起こして小銭を拾ってあげている間にアッタッシェケースをひったくりまた別の仲間に手渡す。彼はその瞬間さえ見ていない。小銭を拾い上げて向き直った時には既にアッタッシェケースは視界からは消えている。おそらくコートのケチャップと小銭にまだ気をとられていて、犯人グループが消えてから初めてアッタッシェケースがなくなっていることに気付いたのだ。彼が見せてくれたが、犯人が小道具として使った小銭はフランスの1フラン硬貨。 彼はこの種の犯罪についての予備知識も十分あったし、そんな仕掛けにまさか自分自身が見事に引っ掛かるとは思ってもいなかったようだが、いざその場に臨むと、ごく自然に余計な動作(大事なものから手を放し、コートを脱いで、おまけに小銭まで拾う動作)をしてしまっているのだ。この場合、本当に汚されてしまっているなら、もうあきらめて、「親切に、有難う。」と短く礼だけ言って、そのままその場からさっさと立ち去ることが肝心。 さらに親切そうに汚れを取ってやるなどと言われても、それには乗らぬこと。そのままトイレなどにノコノコついていくと、話はだんだん深刻になっていく危険性もあるので、ご注意を。「分かっている、分かっている。」と言っておられる、あなた。次はあなたかもしれませんよ。 これには、少しだが後日談が付いている。 盗難事件から1カ月以上経って、私のもとへ近所の小さなホテルから一本の電話があった。聞くと、盗難にあった彼のノートを預かっているので、良ければ受け取りに来てほしいと。何だか狐にでもつままれた感じもしたが、ともかくそのホテルまで出向いた。すると、話はこうだ。 数日前、そのホテルの前にそのノートだけが打ち捨てられているのをホテルの前を通りかかった人がホテルのフロントに届けてくれたらしい。そのホテルというのは、盗難にあった彼が泊まったホテルではない。中を見ると一枚の名刺が挟んであり、それが彼がこの出張の前半に訪問したわがイタリア法人の同僚のものだったのだ。そんな事情を一切知らないまま、ホテルの人は親切にもわざわざ名刺を頼りにイタリアまで電話をしてくれている。そして、そのノートの持ち主の会社のオランダ法人がロッテルダムにもあることを教えてもらい、今度は私のところまで電話で知らせてくれたのだった。殆ど読めないだろう日本語ばかりが書いてあるノートを、そこまでして持ち主に届けようとしてくれたホテルの人の熱意と親切心には頭が下がった。その日は、そのいきさつを聞いて彼に代ってただただ感謝しノートを受け取って帰った。 そして後日、またチョコレートを持って礼に行った。このチョコレート代を彼には請求はしていない。

追憶のオランダ(60)昼と夜

日本でも夏と冬では昼と夜の時間の長さが違うことは生活の中で十分体感しています。しかし、日本より緯度の高いところでは季節による差がもっと極端にでてきます。これは誰もが知っていること。私がオランダに赴任した時期は5月中旬、日本でも6月の夏至に向かってどんどん日が長くなってくる頃でした。その日勤務時間が終わって事務所の人たちと食事に行くことになり6時過ぎに建物から外に出たのですが、太陽はまだまだ高くとても夕食の時間のような気がしません。店で数時間酒を飲みながらゆっくりと食事をして外に出たのですが、これでようやく夕方になったなという感じなのでした。日本との緯度の差と夏時間を採用していることで、おそらく感覚的に日本の時間感覚より3時間は時計を早く進ませた設定になっていたようです。さらに夏至に向かって昼間が長くなる。ということで、春分の日以降は外の明るさだけで判断していると、ついうっかり夜更かしをしかねません。 したがって、家の窓、特に寝室の窓には厚手のカーテンが必要です。冬場の断熱効果を期待するのもそうですが、それよりも夏場に就寝時の外光を遮断するのも大きな目的なのです。 冬は、全くその反対で、朝はなかなか明るくなりません。やっと9時過ぎに薄明るくなるので、出勤時間はまだ真っ暗闇の中です。外に止めてある車のフロントガラスにびっしりと着いた霜ならぬ氷をガリガリと掻き落とし、車内を温めてなければすぐ出発とはいきません。事務所に着いてもまず大抵一番乗りで、真っ暗な部屋で非常口を示す緑のランプの薄明かりの中電気のスイッチを押し、部屋を明るくする。でも暖房だけは入っている。テレックスなどに一通り目を通して一仕事終わるころにようやく外の景色が窓越しに見えるようになるくらいです。夕方も日暮れは早く、3時頃にはもう薄暗くなり、曇りの日などは3時前でも外は夕方のよう。こんな調子ですから、もし時計がなければ大変困ります。おのずと時計に従って行動をするということになります。 昔、日本では、おてんとうさまの動きに合わせて夏冬ことなる昼間の時間を割り振って一日の時間を決めていたようですが、聞くとオランダでも夏場は長く冬場は短い時間働いていたとか。人間も自然の一部である以上、その方が照明・暖房などの無駄なエネルギーを使わずにすんで、生物の生き方としては理にかなっているのでしょうね。 昼と夜の長さとは関係ありませんが、特に冬場に車の運転をしていて感じたことがあります。緯度の高いところでは太陽の高度が上がらないため常に低いところから太陽に照らされること。夏場にギラギラした太陽を避けるためにサングラスをかけるのは理解できますが、高緯度の土地では冬場にこそサングラスが必要、何故なら太陽に向かって運転する場合、車のバイザーだけではどうしても前が見えにくくなるからです。したがって、朝ドイツ(オランダから見て東の方角)に向かって出かける時はほんとうに運転しにくかったのです。そして帰りがまた似た状況です。日が沈んでしまえば別ですが、ちょうど日没直前はサングラスなしでは運転しにくかったのを覚えています。

追憶のオランダ(59)逆方向に走り出した列車

慣れぬ海外生活を始めた頃はいろいろな面白い失敗の連続でした。 その頃まだ住む家も決まっておらずホテル住まいをしており、車もなかった。ロッテルダムからアムステルダムまで列車を使って何度か行った。そしてある日のこと、アムステルダムで友人と夕食を食べ10時過ぎに別れ、私は以前に何度か乗ったことのある時刻のロッテルダムが終点の(はずの?)列車に乗った。これなら乗り過ごすことはない。酒も入っていい心持ちでウトウトしていたが、どうも列車が止まったらしい。しかし外を見てもロッテルダムではないと思い、また目を閉じていたところ、突然動き出したのはいいが、今までとは違う反対方向に動き出したのだ。何ということだ! どうもこの日に限って、この列車は行先変更になってロッテルダムまで届かなくなっていたようだ。そして、さっき止まっていたのはどうもデルフトの駅。もともと3-4人しか乗客がいなかった車両だったが、気がつけば私以外は誰もいなくなっていた。皆デルフトか、デルフトに着くまでの途中駅で降りてしまっていたのだ。アナウンスがあったかどうかも分からないし、仮にあっても理解できずそのまま乗っていたと思う。 そして、デルフトからライデンまで逆戻りしてしまった。そこで、止む無くそこで降りることになったが、次のロッテルダム行きの列車の時刻を見ると深夜1時過ぎ(オランダでは深夜でも本数はわずかだが一応列車は走っている)。ライデンに着いた時には11時半頃で、結局ライデンの駅で1時間半以上待つ羽目になった。これも経験かと思い諦めて待つことにした。時期は6月下旬だったが、夜になると結構冷え込み、先ほどまでのほろ酔いが一度に醒めてしまった。手持無沙汰で薄暗い構内をブラブラしていると、同じように次の列車を待っている人がいて、お互い時間潰しに取り留めのない話をしたことを思い出す。結局その日は、というか既に日付が変わって、ホテルに着いたのは深夜2時を回っていた。 いつもはそうだったからというだけでは、今回もまた同じだとは限らない。おそらく、何かの理由でその日には変更があったことを知らせる何かサインがあったはずだ。それも列車の始発駅のアムステルダム駅で。それを見落としていた結果だ。もしも他の客がデルフトで一斉に降りた時、降りていればどうなったか。少なくともライデンまで逆戻りはしなくてよかったかもしれないが、結局次のロッテルダム行きがライデンで再度乗った深夜のものと同じであれば、デルフトで降りていても結果は同じだったはず。要は、アムステルダムで乗る時に、その日の最終のロッテルダムまで届く列車が何時発かを確かめて置く必要があったということ。これは、仕事でのことではなかったので、一人馬鹿なことをやった、で終わったが、これ以降少し注意を払うようになったと思っている。人間失敗せねば学ばない。失敗してもなお学ばないことも往々にしてあるにはあるが。  

追憶のオランダ(58)奇妙な命名

「ミカド」「ゲイシャ」「ジャパンミックス」、これらはある同じ食べ物に付けられたブランド銘だが、一体どんな食べ物でしょう? 答えは、米で作った「おかき」「あられ」なのだ。おかき・あられの袋に何やら妙なデザインでミカド・ゲイシャなどという文字が躍っている。もちろん、アルファベットでそう書いてある。これは何という命名か!?これらの言葉でしか日本の商品であることが表現できないのか、もっとましな名前は思いつかなかったのか、日本人としては非常に淋しい気持ちになったものである。 でも、正真正銘の日本のおかき類は時たま手土産で日本からの来訪者が持参して頂くくらいで、この「ゲイシャ」を怪しげな華僑かコリアン経営の食材屋の店先で発見した時は、充分に胡散臭さを感じつつも、ついつい買ってしまったものだ。しかし、いざ食してみると原材料からして多少の品質の良し悪しはあるとは思うが、殆ど純正日本産おかきに飢えている日本人としては大した問題もなく食べられた。というより、久しぶりに口にしたこともあり、悔しいけどうまかったと言わざるを得ない。日本品と比べても極端にひどいということだけはなかったように記憶している。 しかし、である。名前だけはもっと日本らしい洗練されたものにできないものか。これは、私が日本人だから言えることで、おそらく生産者はオランダ人とか日本人以外の他の国の人々を対象にしているはずなので、「ゲイシャ」の方が日本の食べ物としてよほど通りがいいのだろうと、一部納得してしまった。 食べ物の名前については、もう一つおやっと考えさせられたものがある。それは果物の「ミカン」である。オランダは果物だけでなく野菜なども温暖な外国産のものが随分売られている。ある時、青空市場の果物屋の店先にオレンジやらあまり見慣れぬ外国産の果物が並んでいる中に、少し小ぶりだが温州ミカンによく似たものが並んでいるのを見つけた。懐かしくて手に取ってみると、確かに我々が今まで食べていたような温州ミカンのようだ。そのミカンにはまたご丁寧にいちいち小さな赤い楕円形のラベルが貼ってあり、そのラベルにはSATSUMAと書かれているではないか。そのSATSUMAは薩摩以外に考えられなかったが、なぜ温州ミカンがSATSUMAなのか?そんなことが頭の中をよぎっていたが、その時は店先で試食させてもらい、これはミカンだと確認して、まず「Een kilo(1キロ)」と言って買って帰って食べた。 SATSUMAという命名の疑問については、その後もいろいろ考えた。おそらく幕末には温州ミカンの産地である紀州藩よりも薩摩藩の方が英国との関係が深くミカンの欧州向け輸出に力を入れていたのではないか、その名残で温州ミカン= SATSUMAとなったのではないかなどと勝手な想像をしながら、それ以降も見つけるたびに買っていたことが懐かしく思い出される。でも、私が買ったものは、少なくとも日本からの輸入品ではない。どこか地中海沿岸かどこか暖かい欧州に近い土地で栽培されたものではなかろうか。幕末のSATSUMAの味を知ったものが苗木を日本から移植して栽培されているものではなかろうかと想像はさらに膨らむ。

追憶のオランダ(57)車社会

私はそんなに車の運転が好きな方ではない。子どもが生まれてから何となく車は持つようになったが、たまに近所を運転するくらいで、遠方と言えばゴルフに出かける時くらいだった。そのゴルフも、だれか便乗させてもらえる人がいたらお願いした。その理由は、ゴルフの後ビールを飲みたいからというだけのこと。また、日本は公共交通機関が結構網羅されているのでたとえ車がなくてもあまり不便さは感じない。特に、ハイムに住むようになってからというもの、駅が近いこともあり、なおさら車を使う頻度は減ったように思う。 オランダに住んでみて、やはり事情が日本とは大きく異なっていた。もちろん、公共交通機関はあるものの、生活そのものが車中心の生活だ。それはオランダだけに限らない。ちょっと、そこまでという買い物にも、車だ。ということで、私も赴任早々やったことと言えば、住む家の物色よりも運転免許の切り替えだった。車は定住する住まいが定まらないと購入は出来ないが、社有車は免許を切り替えさえすればできる。ともかく、車がなくては何も始まらなかった。 どこへ行くにも初めての所ばかり。これは当然のこと。しかし、初めての所へ簡単な住所だけを頼りに行くにも、通りと番地だけが分かっていれば、まずそんなに迷うことはなかった。日本だと住所だけで目指す場所を探すのは簡単ではない。何丁目という一定の広さのところにバラバラと番地が割り振られていて、あまり規則的ではないことが多いので、今のような便利なナビゲーションのシステムがなかった20年前なら、番地まで細かく入った住居地図がなければなかなかむずかしかった。しかも狭い道を地図を座席の横に置いて見比べながら家を探すのは大変だった。 それに比べてオランダだけでなくヨーロッパでは、すべての道に名前が付けられている。たとえ、袋小路のようなものにも一応名前が付けられている。まず、この点が日本とは大きく異なる。そして、その道の両側に、片方の側には奇数、反対側には偶数と順番に番号がふられている。したがって、全くの未知の土地に行ってもその通りさえ見つけられれば、後は番号を順に追って行くだけで簡単に目指す家までたどり着ける。 また、高速道路も無料だし、一般道路との接続がスムーズにできるよう合理的に設計されていて、たとえ出口を間違えてしまった時など、気がつけばすぐにまた乗り直しができるようになっている。日本だと、一旦降りてしまうと料金も別にかかるし、今度乗るためには一般道路を走り、入り口を探さなければならない。これも簡単ではない。やはり、日本は車社会になり切れていない感じがする。 そんなことから、オランダにいる間は車の運転があまり好きではない私も結構平気で出かけたものだ。ただ一つ経験する機会がなかったことは、ドーバー海峡のユーロトンネルをくぐって、左側通行のイギリスに車で乗り入れることだ。トンネルの中で左車線と右車線がねじれるようにして繋がっているのだと頭の中で想像していたが、これは違いだった。後でわかったことだが、列車に車ごと乗りこんで運んでもらうのだそうだ。 ここで、道についてのオランダ語を数えてみた。こんなのがある。カッコ内は英語。 Straat(Street)・Weg ( Way/Road )・ Laan (Avenue) ・Steeg ( Alley) ・Pad ( Path)・Baan(Path)など 。