オランダ点描(21)郵便

数ヶ月前のことだったが、朝事務所に出勤していつものように郵便物にざっと目を通していると、その中にそれまではあまりなじみがなかった会社名の大型の封筒がありました。よく見てみると、何と前日に出席したある会合の昼食会の時、同じテーブルについて初めて名刺交換をした人物からのものであることがわかりました。まだその時点では「なんだ、昨日は書類を送ったなどとは言ってなかったが、こちらとコンタクトをとろうとしていたのか・・・。」と思って、封を切りました。しかし、同封された小冊子に添えられていた手紙には、「昨日は大変楽しく話ができてよかった。この小冊子は何かの参考になると思うので送ります。今後ともよろしく。」とあるではないですか。 咄嗟に、驚きで何が何だか分からなくなりました。慌てて封筒の消印を確かめたら、はっきり昨日の日付と午後の時間が読み取れます。また、昼食後別れた時間を思い出して「2時を少し回っていた」ことを確認し、さらに、車で市内の事務所まで帰る所要時間、私の名刺を秘書に渡し小冊子を送るよう指示し、それが発送されるまでの時間、後は郵便局の手で翌日の朝一番で私の手元にその封筒が届くまでの流れを想像してみました。自らが直接持参したとしても、翌朝一番というのは容易な事ではないと思われるのに、普通郵便(速達などではなく)として、そんな早く集配できることって、日本ではあるだろうか?と、思わず知らず日蘭を比較してしまいました。そして、その時は大変な驚きを感じました。これが、わずか100円足る足らずの料金で成り立つサービスだろうか? *注) オランダのビジネスマンのさりげないスマートさとオランダ郵便局PTTPostの仕事の迅速さに感激して、その日は一日中妙な興奮のまま過ぎたことをつい昨日のように思い出します。 *注)1996年当時の郵便料金 一般封書が80セント(50円程度) 大型封書が1.6ギルダー(100円程度)

オランダ点描(20)ジュネーバー

日本の皆さんはこの「ジュネーバー」という名前をあまり聞かれたことはないのではと思います。これはオランダのSoul drinkともいうべき酒の名前なのです。アルコール度数40度の麦類などから作った蒸留酒です。GeneverともJeneverとも書きますが、ジュネーバーと聞こえるような発音をします。 私のジュネーバーとの出会いは、10年ほど前日本に出張に来たオランダ人(今、その人物と一緒に働いてます)に土産にと茶色の細長い陶器の瓶(内容1リットル)にはいったものをもらったのが最初です。さっそく、その場で同僚とともに3人で飲み始めました。通常は冷凍庫に入れて、ギンギンに冷やして(冷凍庫でも凍りません)飲むものらしいですが、その時は冷やさないまま冷たいビールをチェーサーにして。 その第一印象はと言えば、まずアルコール度数も割に高く効きそう、ちょっと慣れない特有な香りがする・・・、でも結構いける、というものでした。気がつけば2時間くらいであっという間に1リットル瓶が空になってしまいました。そこまではしっかり覚えていたのですが、不覚にもその後は記憶が完全に飛んでいました。 私は今、そのジュネーバーの国に住んでいるのです。当然、会社に日本からの客が来れば、まずは味わってもらいます。感想を聞いて、お世辞も含めて気に入ったと言ってもらえる割合はそんなに高くないのが、私としては少し残念です。やはりこれはほんとうの酒飲みの酒でしょうね。 焼酎の一種ですからアルコール度数は当然このくらい高い。初めての人が躊躇うとすればやはり独特の香りではないかと思います。この香りの本体こそがこの酒の名前の由来にもなっているのです。ヒノキ科の針葉樹の実「ジュニパーベリー」(右の写真)などで香りをつけているとのことですが、「など」の方に重点がある香りなのです。ずばり、アニスの香りです。 もともとは焼酎にいろいろ薬草をつけ込んだ日本の薬用酒「養命酒」のようなものも色々な種類があり、その中のもっともシンプルなものがこのジュネーバーなのです。また、これがオランダからイギリスに紹介され、そこで発展したのがドライジンなのです。こちらの香りはジュニパーベリーではありませんが、今では兄貴分のジュネーバーよりもすっかり世界的に有名になってしまっています。私も若い頃はジンフィズなどというジン・ベースのかわいいものを飲んでいましたね。 日本人は、アニスの香りがあまり好きではないようですが、不思議なことにお隣の唐土(チャイナ)の白酒(パイチュウ)とかドイツのシュタインヘーガー、スウェーデンのアクアビット、それから水で割ると白濁するギリシャのウゾなどいずれもアニスの香りのついたものが好まれているのも面白いですね。 アニスの話が出たところで、もう一つお話しすると、オランダではドロップの元祖ともいうべき真っ黒の飴があります。しかし、日本の黒飴とそっくりなのでその感覚で口に入れた日本人は、十中八九すぐに吐き出します。そうです、これもアニス味なのです。 また、カラフルなキャンディーもありますが、色と味は無関係、一様にアニス味で、見事にだまされます。私も最初はこの味に少し抵抗もありましたが、これは意外にもすぐ慣れてしまいました。いつだったか、会社の同僚が悪戯のつもりでくれたそのドロップを平気で舐めていると、しばらくして「お前は珍しい日本人だ。」と言って目を丸くします。なぜと聞くと、歴代の日本からの駐在員たちはどうやら皆敬遠していたとのこと。郷に入っては郷に従え。これが一番です。 そんな訳でもないですが、我家の冷凍庫にはジュネーバーの1リットル瓶が常に最低2本出番を待っています。いつ会社の同僚や近所のオランダ人たちが遊びに来てもすぐ振舞えるように。でも、時々補充を忘れて1本しかないこともありますが。 注)この写真は、帰国後の今も私が愛飲し続けている同じ銘柄のジュネーバーです。

オランダ点描(19)歩道

ハイウェイとか主要道路となるとさすがに石畳とかレンガ敷きのところはありませんが、街なかの普段の生活空間である道路は、特に歩道については石畳・レンガ敷きがほとんどです。ハイヒールの女性とか、足の不自由な老人とかにとっては微妙なデコボコがあり必ずしも歩きやすくないのではないかと気になりますが、どうもオランダの女性も老人もこの方が好きなようです。 石畳やレンガ敷きの道はアスファルトの持つ扁平な無表情な感じとはちがい、どこか温かみが感じられるからかもしれません。例えば一時的な大雨が降った場合、アスファルトかコンクリート舗装の路面では雨は地面に吸収されずすぐに道路脇に水たまりをつくってしまい、思わぬひどい目に合わされることもしばしばです。レンガ敷きの道なら効率よく雨水を吸いこんでくれます。降った雨水を無理なく地表から地下におくりこみ、水の自然循環という観点からも理にかなっています。 最近の日本は、昔のような土の道がどんどん少なくなって都市化・近代化の名のもとに至る所がコンクリートに覆われてしまい、折角の天の恵みの雨もすぐに行き場を失い道路に大きな水たまりを作り、その果ては濁流となって道路際の側溝を目指してあっという間に下水道へ。そして、地表をあまり潤すこともなく、あわただしく川から海に流れ去るだけです。豊かな地下水が蓄えられるチャンスはだんだん少なくなっているのではないかと心配されます。 そのレンガ敷きの歩道ですが、デコボコなく一面平らに敷き詰めるのはよほどの熟練が必要です。私は日本でこの作業を見たことはありませんでしたが、こちらではよく見かけます。まず、砂を敷き詰め、それを職人が2mほどの棒切れをもって一方の端を中心に円を描くように何度も一帯の砂の水準をあわせます。およそ水準ができたところで、端から一つずつレンガをおいて敷き詰めていきます。 一区画のレンガを置き終わったら、おもむろにゴムのついた大きなハンマーでレンガをトントンと叩いて回り、さらにその上に満遍なく砂を振りかけハンマーで叩きながら路面となるレンガの高さを平準にしていきます。言ってみれば極めて単純な作業ですが、私はしばらく職人の動きに見入ってしまい、職人から怪訝な顔をされたことが何度かあります。 そこで聞いたことですが、職人曰く、「一度の費用はかかるが、結果的に道路を長持ちさせるには、レンガを縦に(レンガの3面ある中の、細長い面を上に)敷き詰めるんだ。」と言っていたのを覚えています。写真は、そのレンガの並べ方が分かります。

オランダ点描(18)外国人

オランダで住む外国人は、まず滞在ビザが必要。そのうえで外国人登録というものを外事警察でする必要があります。そういうややこしい手続きについてのお話ではありません。どこの国でも外国人の扱いは程度の差こそあれややこしいものと相場が決まっています。私たち家族も含め、現在オランダには大勢の外国人が住んでいるはずです。 そこで、誰が自国人で誰が外国人かをどうやって見分けるのか?果たしてそれは可能か?という素朴な疑問がありますが、オランダ人はどのように答えるのでしょう。彼らは、普段はほとんど外国人を区別して生活をしていないということでしょう。外国人に対して、日本人ほど注意を払って、気にしていないということかもしれません。普段は区別する必然性を感じていないということでもありましょう。 まず、オランダ人という単一民族がある訳でもなく、典型的な多民族国家なのです。つまり、白色人種・黒色人種・黄色人種(この区別の仕方はもう古いのかもしれません)で表せるすべての人種というのが雑居する形になっています。もともとは、ゲルマン系の白人だったはずですが、海外進出して植民地を増やし、アジア系・中米アフリカ系の国民を増やし、さらに移民なども受け入れてきた結果今のような多民族国家になったわけです。 過去には、同じオランダ人の間でも肌の色や出自での差別というのはあったと思いますが、今では少なくとも私たち外国人がわかるような露骨な差別はあまり見られないように思います。多民族国家のオランダ人の中に、たとえどんな肌の色を持った外国人が紛れていても外観だけでは全くわからないということ。 パスポートとかの身分証明書を提示しない限り、オランダ人自身が肌の色とか目の色とかの外観からは自国人か外国人かの識別は出来ないわけです。したがって、我々のような黄色人種が町を歩いていたり、隣で日常生活をしていても、外国人としての扱いを受けることはまずありません。もちろん、こちらも近所の人には仕事で日本から来ましたと挨拶するので、その場合はむしろオランダの生活に慣れない外国人として扱ってくれますが、買い物に行った時などは、オランダ人と同じ扱いで最初からオランダ語でベラベラやられます。 そこで、日本人としての素朴な疑問ですが、多民族国家の国同士が戦争にでもなったりしたら、お互いどのように敵味方を区別して戦うのでしょうか?制服を着ているから区別が出来ても、制服を脱いでしまえばどうなるの?言葉にしても、流暢にお互いの国の言葉もしゃべる人間はいくらでもいる。 このことは、昔ブラジルに出張した時も感じたことです。彼らの軍隊も白・黄・黒、さらにその中間色の混成部隊でした。その時未解決の疑問が、今またオランダで生活をしていて顔を出しました。

オランダ点描(17)自転車

街角の街灯の支柱や橋の手摺などに太い鎖のついた頑丈な錠前で結び付けられている自転車。これはオランダでよく目にする光景です。その自転車といえば骨太で作りだけは非常にしっかりしているが、よく見るとスタンドもブレーキらしきものも付いてない至って簡単なもの。自転車としての最低限必要な部品だけという代物です。スタンドというものがなく自立できないからこそ、こうやって何かにもたせ掛けたりして止めざるを得ないのです。 ブレーキもなくていいの?どうやって止まるの?が次の質問でしょう。それは、子供の三輪車と同様ペダルの回転を足を踏ん張って止めるか、直接足を地面に踏ん張って力づくで止めることになるのです。いかにも原始的な方法です。最近は、もう少しシャレた(我々には当たり前ですが)ハンドルのところに手で操作するブレーキが付いた自転車も見かけるようになりました。写真は、アムステルダム中心部、左手奥に見える建物が、オランダの最大手デパートBIJENKORF( バイエンコルフ)。 そんな自転車ですが、オランダではとても優遇されています。その証拠に、歩行者に歩行者専用の歩道が用意されているように自転車にも専用レーンが完備されていて、車、歩行者から分離されています。そのレーンは当然自転車専用ですが、それ以外でも自転車は車よりも優先で、いかに自転車の方に非があって事故になろうとも、相手が車であれば、その車が全責任を負わされることになります。法律で自転車が保護される(過保護あるいは超過保護)ことになっています。 したがって、自転車レーンと車道が重なっている交差点のようなところでも、自転車は結構無頓着に突っ込んでくるのが普通です。自転車のマナーが悪いとか、我が物顔だとかいう以前に自転車に乗った人は保証されている優先権をそのまま行使しようとしているだけなのです。また、歩行者がうっかり自転車専用レーンを歩いたり立ち止まったりしていると、自転車の運転者からものすごい剣幕で怒鳴られることもしばしば。 御存知の通りオランダは国中が真っ平なため、まさに自転車大国・自転車天国です。しかし、日本で育った私は自転車に優先権があろうがとても車と勝負する勇気はありません。まだ、天国には行きたくないですからね。 また、自転車大国ではいろいろな変わり種の自転車をよく見かけますので、それらに出会うのも楽しみです。仰向けに寝そべってペダルを漕ぐものとか、親子の自転車が連結したものとか、それはそれはいろいろあります。正直言って、よくこんなものを考えるなあ・・・。日本はオランダのように融通が利かない(?)から、ブレーキがなかったり、あまり妙な形のものは確か公道を走れなかったですよね?

オランダ点描(16)空

オランダに来るまではこんなに空が大きかったとは正直思いませんでした。 高いところにでも登れば当然周りがよく見渡せ、その分空も広く見えます。しかし、日本では日常の生活の中で見る空はいつもどこかに建物とか山、木立に遮られ、一部が切り取られた空しか見られませんでした。地平線などというのもほとんど見られませんでした。 ところが、オランダは九州くらいの狭い国なのですが、実に広々しているのです。いたるところでほとんど障害物に邪魔されない大きな空が見られます。車で5分も郊外に出れば頭上には360度、空です。 ただ一つ残念なのは、真っ青な空が少ないこと。概して、北ヨーロッパ特有の低い灰色の空が多いことです。そのため、たまにからりと晴れあがると思わず大声で叫びたくなります。4-5月頃などにたまにほんとうの晴天が何日か続くことがありますが、そんな時は「これで一年間の晴天の日を使い切ってしまうのか・・・。」と先の事を考えて淋しい気がします。それほど一年間の日照時間そのものが少ない土地柄なのです。 北欧は暗いイメージがあるかもしれませんが、然にあらず。結構晴天の日が多いのです。また、南欧はこれまた太陽がいっぱい。その間にあるオランダとかドイツは暖かい大西洋で次々とできる低気圧の通り道となって、年中天気が変わりやすく、一日のうちにも春夏秋冬と一年の季節をすべて味わうこともよくあります。 革ジャン・セーター・半袖シャツ、さらには雨傘・コートとすべて使うこともそれほど珍しいことではありません。というくらいですから、雲も新しいものがどんどん湧き出してきて、その動きも非常にはやいのです。晴れていたと思ったら、もくもく雲が出て、あっという間に一雨。長降りこそしませんが、ともかく天気の変化が目まぐるしい。 16・17世紀のオランダの絵画にはこれまでになかった風景画という新しいジャンルが生まれ、その絵の中には大きな空と、千差万別の雲というのがよく描かれています。ともすると退屈しそうな題材ですが、実によく観察されいろいろな表情を持った雲として見事に描かれています。 実際毎日空を見上げていると、いつかどこかの美術館で見た絵の中の雲に出会うことがあります。日本からの出張でわずかの時間しか滞在しなかった時はそれらの雲の絵を見て「なぜ、こんなに空を大きく、雲ばかり描くのか?」と不思議に思ったものでした。しかし、ここで生活してみて、空と雲は生活の一部になっていることを改めて思い知らされました。昔は人間も現代よりももっと自然に近かったわけで、画家たちも自然の中の一瞬の芸術品を絵筆でカンバスに固定させたのでしょう。 あ、最後に、これまでで最も印象の強かった空の景色をお話しておきましょう。 夕暮れ時、頭上の空は午後から出ていた分厚い雲で覆われてもう夜のように暗くなっているのに、地平の近くだけはわずかに雲の隙間があり、ちょうど沈みかかる夕陽が真横からまぶしく輝き、あたりを真っ赤な血のような色に染めている。ハウダ(日本の人にはチーズで有名な町ゴーダという方が馴染みがあるかもしれません)の先レーウウェイクで見た景色です。いつか表現してみたい。漆黒の漆と鮮やかな朱漆、それときらめく金粉で。 今、オランダに来て、漆塗り(信じられないでしょうが)を習ってます。

フェルメール

フェルメールはこれまでにいくつもの作品が盗難にあったり、また贋作問題で法廷闘争まで起きたりと、ともかく話題の多い画家で日本でもいろいろな人たちが論評していますので、詳しくはそちらにお任せして、私とフェルメールとの出会いについてお話します。 初めて彼の作品を見たのは、1993年デン・ハーグのマウリッツハウスの「真珠の耳飾りの少女」と「デルフトの眺望」でした。ついで、アムステルダムの国立美術館の「小径」と「牛乳を注ぐ女」でした。これらの作品は非常に見ていて快いものでしたが、人物描写をした他の作品は、フェルメールには本当に申し訳ないが、私には顔の表情(特に、目元)が薄気味悪く感じられてなりませんでした。ということで、皆さんがフェルメール、フェルメールと言われるほどには興味は持てませんでした。 彼の生まれたデルフトは、私が当時住んでいたロッテルダムからも近くてオランダの中で私の最も気に入った町で、個人的にはあまり用もないのにただぶらり、また一社だけあった重要な取引先をしばしば訪問、たまには日本からの客の観光案内にと、ほぼ毎週くらいに行っておりました。その意味では、彼自身が歩いた同じ場所を私も歩き回っていたことになりますが、それを知ったのもさらに後のことでした。 ある時のこと、興味本位でその「デルフトの眺望」(写真)を描いた場所に行ってみようと思い、あちこち探し回りました。しかし、それらしい場所はあるのですが、どうも建物の位置関係がおかしい。結局、この絵は、彼が画面上で再構築したものだったことがわかりました。 その絵でもう一つ気になって仕方がなかったのは、遠くに見える新教会の尖塔の突端の部分が現在よりも短く描かれていること(画面中央より少し右の白っぽい高い建物)。この教会は彼自身が洗礼を受けた教会でもあるので、彼が現実に見たものと違った形で描いたとも思えません。したがって、現在のものはフェルメール後に尖塔の部分が改修されたものなのか?と思いつつ、その点は未確認です。 これもまた肝心の絵の主題に関わることではないのですが、「ヴァージナルの前に立つ女」などの背景の壁の一番下に横一列細かく描かれている「タイル」にタイルコレクターである私の目が釘付けになりました。そこにはいろんな格好をしたキューピッドが小さく描かれています。装飾用の壁タイルとはいっても、古い邸宅などにあるマントルピースの内壁に張り詰めたもの以外にはあまり見たことがなかったので、この絵を見て、なるほど昔はこのように使っていたのかと納得したものです。したがって、これらのタイルは床を掃除する時にいつも箒などにコツンコツンやられて、傷だらけになる運命だったのです。私のタイルコレクションも無傷のものは非常に少ない、むしろ傷は長い時代を経てきた証なのです。 それともう一つ、顕微鏡の発明者アントニ・ファン・レーベンフック 注)と彼が懇意にしていたらしいこと。私は実物を見たことはないのですが、この辺を研究している福岡伸一氏によれば、レーベンフックの観察画がフェルメールの亡くなった年から急に描写の質が落ちたことを挙げておられます。フェルメールは友人でもある彼の本の挿絵を書いていたのか・・・。そして、「地理学者」とか「天文学者」のモデルはきっとレーベンフックその人ではないかと確信するようになりました。「絵のモデル料」と「挿絵の原稿料」が多分見合ったのでしょうね。最後にはレーベンフックはフェルメールの遺産管財人まで引き受けていますので、生前の親交の程が伺えます。 注)顕微鏡については、彼とよく混同されるイギリス人ロバート・フックという人がいます。 1996年5月、フェルメールファンの待ちに待った大フェルメール展がマウリッツハウス(写真左)で開催されました。御存知のようにフェルメールは生まれてから死ぬまでデルフトを出ずに一生を過ごした珍しい画家で、その作品数も30数点と多くはありません。それらの作品は世界中に散らばっていますが、今回そのほとんどの作品が一堂に集められる企画ということで、普通の企画展以上に注目を集めていました。後にも先にもこれだけ集まることはないだろうということで、ヨーロッパ内外からも大勢の人がマウリッツハウスに詰め掛けて来ていたようです。 鑑賞するには、事前に申し込みが必要で、しかも入場券には日時が指定されるというこれまでにないやり方でした。日時を指定までしたのは、さほど大きくないマウリッツハウスに一時に大勢の客が殺到するのを避けるためですが、何だか堅苦しい感じもしないではありませんでした。幸いにも、2枚入場券を入手でき、女房ともどもおかげで割とゆったりと鑑賞することができました。左の写真は、その時のチケットと解説書です。私個人として、一番薄気味悪いと感じる絵がチケットを飾っています。フェルメールさん、ごめんなさい。 現在「上野の森美術館」で展示会開催中です!

追憶のオランダ(86)幻のゴリラ

これは1995年当時の話で、まだ少し生々し過ぎて書くのを少し憚られ、「オランダ点描」には書けなかった話です。2018年の今、時効でもないですがやっと今ならよかろうと思い、当時を思い出して書くことにしたものです。 1995年東京恩賜上野動物園(以下上野動物園)で故増井光子さんが園長をなさっていた頃、ゴリラの飼育も可能な新しい設備を用意してどこかからゴリラの家族を譲ってくれる先を探しておられたようでした。オランダの東部アペルドーンという町にある猿園「アーペンフル」がその情報を聞きつけ、私の勤めている会社に上野動物園への仲介を打診してきました。というのは、その猿園の園長の兄弟がたまたま私の会社で勤務していたことがきっかけだったのです。 アーペンフルはいろいろな種類の猿を広い敷地内で長年飼育して、それまでにもリクレーションで子供を連れて遊びに行ったこともありました。ゴリラについては既に2組の家族を飼育しており、そのうちの1家族(確か7-8頭だった)を上野動物園に譲渡することには前向きであり、我々も本社経由上野動物園と連絡を取り、また輸送に関する問題点などを詳細に詰める作業に掛かりました。 問題は、5月でもあり東京都の予算が既になく、急遽臨時の予算を組んでもらう必要がありましたが、当時の知事は青島さん、何とか博を間際で取りやめにした実績を持つ方だったので、この臨時予算も承認されるかどうか非常に不安がありました。しかし、非公式な話では感度は悪くなさそうとのことで、皆の期待が膨らんでいました。 当時ゴリラ飼育を担当されることになっていた方にも輸送時の対応・受け入れ態勢のこととか随分ご尽力いただきました(この方は後に多摩動物園長として転出されました)。そして、すべて本決まりになるかならぬかの寸前でした。急に思わぬところから横槍が入り、突然アーペンフルから正式にこの交渉の打ち切りを通告してきたのです。 ゴリラとか絶滅危惧種の動植物については、いろいろ国際的な条約等もあり厳しい制約を受けることは知っていましたが、このゴリラたちは人工飼育による動物でもあり、動物園同士その点についてはいかようにも調整できるものと我々は素人であるがゆえに安易に考えて心配はしておりませんでした。 その時知ったのですが、ゴリラについてはドイツ西部のある町にある協会の会長が最後になって「日本に譲渡することは認めない。」との最終決定を下したというのです。しかも理由は最後まで明らかにされませんでした。我々としては口惜しさに、何が背景にあるのかいろいろ考えてみましたが分からず、理由なき反対、日本はこの会長の覚えが愛でたくなかった、としか受け取れませんでした。 その騒動の後、私は一時帰国し大変申し訳ない結果に終わったこと上野動物園には深くお詫び申し上げました。さらに、数か月後漏れ聞くところでは、ヨーロッパ内の国になら譲渡は問題ないとかで、真偽の程は定かではありませんがその候補としてとしてフランス・スペインの動物園の名前が上がっていたようです。 日本では、ゴリラの飼育は難しいというのか?と思わずこの会長に聞きたくなりました。しかし、同時に協会の考え、会長の個性までしっかり掴めていなかったことが、結局はこちらの敗因だったと反省しきりでした。 宮川直遠

オランダ点描(15)城塞都市

幕末最後の戦いが行われたのは箱館(函館)、五稜郭。正五角形の均整のとれた城塞、その故郷はなんとオランダにあり。江戸時代の日本は長崎出島でわずかにつながっていたオランダからそのアイデアだけを受け容れ、現実にその形を再現してしまっていたのです。オランダの北部ドイツ国境に近いBourtangeという町にある城塞(写真)の姿が、五稜郭の原型のようで、集落の周りを城壁で囲み、外側に何重にも深い水濠をめぐらし、死角を少なくするように三角あるいは星形の張り出しを作り、砲台を設け外敵に備えようという構えです。集落の中心には尖塔のある教会と広場をもち、中心から始まる5つの放射状の道(実際は10本の道)の両側に整然と並んだ民家、城壁の土塁の高さは民家の屋根程あり、ぐるりと取り囲んでいます。その先に星形の出城となる部分が水濠に向かって突き出しています。そして、大砲が外に向かって照準を合わせる形です。 しかし、実際のその防御能力については、弓矢・投石が数少ない長距離攻撃の武器であった時代には頼もしいものであったことが想像できますが、大砲等の火力が充実してきた近代においては大いに疑問が残ります。しかし、皮肉なことに大砲の威力が増す時代になってからの方がこれらの城塞が美的にもより洗練されてきています。 私も城塞遺構の現存する何カ所もの町を訪ね歩きましたが、その町の全体が表現している造形美は、地面に近い視点からはあまりにも大きすぎ、自分の目で鑑賞することはついにできませんでした。Bourtangeなどは非常に小さい方なので分かるのですが、Heusden・Naardenなどは上空から俯瞰しない限り町の全景がどうなっているのか全く分かりません。オランダの主な都市の城塞化されていた痕跡を見るなら、やはり空から見るのが一番のようです。 この町は昔、一体どんな形をしていたのか?それを知るにはいいものがあります。17・18世紀に印刷されたエッチングの古地図です。一軒ごとの家並みまで描きこまれており、当時の面影がよく表されています。主要な都市のものを収集するというもう一つの楽しみになっています。さらに、現在の地図と比較する面白さ。出来れば、その両方をもって天気のいい日に空から遊覧飛行が出来ればもっと楽しいと思っていますが、未だ実現はしておりません。楽しみはもう少しとっておこうと思いつつ・・・。 注)ついに、帰国までに遊覧飛行は実現できませんでした。 ただ、それに代わる楽しみができました。私の帰国後、急速にインターネット等の情報が発達し便利なものが出来ています。その一つ、GoogleEarthです。上空から近づけて、遊覧飛行に近い(写真ではありますが)上空からの景色を楽しめます。またストリートビューを使えば、昔歩き回った道をたどることもできます。  

オランダ点描(14)オランダ語

「オランダ語は喋れますか?」とよく聞かれますが、残念ながら私は「いいえ。」と答えざるを得ません。その後で、「オランダ語は発音も大変難しくて、結局ほとんど努力せずに諦めました。」と付け加えることにしています。まあ、2-3年して喋れなかったのでその先あまり上達は期待できそうにないという、早めの自己診断でした。事実その通りで、4年近く経った今で、いくつかの挨拶程度の表現と単語をせいぜい200-300語(もっとあるかな?)覚えている程度で、これでは知っている単語をいくらつなげても一般の大人とオランダ語での会話はなかなか成立しません。 日常、オランダ人にオランダ語で話しかけられることは当たり前ですが、その時もこちらが少し躊躇するそぶりを見せたら、こいつは喋れないんだなと気を利かせて、ほとんどの人たちがすぐに英語に切り替えてくれます。また、イギリス人には悪いが、私にはイギリス人の英語よりも分かりやすい英語なのです。そんなことも手伝って、私のオランダ語不勉強はますます本物になってしまっています。オランダで住んでいながら、オランダの人たちには大変申し訳なく感じています。 オランダ語は文字で書かれている限りでは(オランダ語を喋れない私が偉そうに言うことではないですが)、ドイツ語と英語の中間のようで、どちらにも共通の単語も使われていて、何かわかりそうな気だけはするのですが、お役所とかの正式の書類はとても歯が立ちません。当然です。その都度、これ何の書類かと、同僚に尋ねます。 昔の日本人がどのようにしてオランダ語をマスターしたのか?ほんとうに通訳として喋れていたのか?多分喋れる人はごく少なく、むしろ書き言葉として文章を解釈していたのではないかと勝手に想像しています。その数少ない状況証拠として私が考えるのは、「化学」という意味のオランダ語にあります。日本にはのちに「化学」という言葉が定着する前まで、オランダ語のCHEMIEという言葉を音訳(?)して「舎密」という字を使って、「セイミ」と読んでいた。しかし、オランダ語の実際の発音はどのように聞いてもカタカナで書くと「ヘミー」であって、「セイミ」というように頭が「S」の音から始まる言葉ではありません。やはり、綴りに惑わされて読んで音にした漢字を当てはめたように思えてなりません。やはり、日本人は会話よりも読み書きからという戦後の英語教育がいまだに抱えている問題を昔から持っていたのでしょうか。