十男8歳 人魂(ひとだま)(火の玉)を見た

隣家のおじさん(主人)は物知り博士だった。でも病気がちで働いているのを見たことがない。天気のいい日は一人、縁側で日向ぼっこ。眼鏡、痩せて、顔は青白く、芥川龍之介という人に似ていた。 いつもラジオを聞いていた。訳の分からない会社の名前と値段を言うだけだった。ボクはいつのまにか「○○製薬ひゃくふたじゅうなな円5円やす」「××製菓ひゃくふたじゅうえん、3円だか」と暗記できるぐらい覚えた。何でこんなものが面白いのだろう、と思った。また「広瀬城」の山中鹿之助や「扇の的」を的中させた那須与一。信長の「鉄砲戦略の話、広島に落ちた「原子爆弾」の話まで色々教えてくれた。時々来る紙芝居より楽しかった。おじさんに耳垢(あか)をとってもらうのも好きで「早く耳垢が溜まらないかなぁ」と思ったくらいだ。 ある夏、おじさんが亡くなった。多分40歳くらいだった。土葬(当時)が済んだ夜8時ごろ、火の玉、いわゆる「人魂」が飛んだのを目撃した。色は青白く、少し黄色っぽかった。一緒にいた高校生の兄(八男)も「見た」。家の前の田んぼの上空約20mを右から左へゆっくりと飛んでいった。 「あっ火の玉だ、ねっ、火の玉だろ?」とボクが言うと、兄は「あぁ・・、確かに・・」と息をのんだ。時間にして10秒くらい。でもボクらは怖くなかった。 「おじさん……、だよね」とボク、「そぅじゃな(そうだな)」と兄。 あの火の玉はおじさんがボクたちに「さよなら」を言いに来たのだと思った。 母は「このことは誰にも言ってはいけないよ」と僕たちに言った。理由は漠然と分かったのでそれ以降、その話はしていない。日記には書いた。 (吉原和文)

十男の父 🈡 農業・公人・親 3つの顔  

11人の子の父としての顔、農家の跡継ぎとしての顔、公人としての顔、など様々な顔が父にはある。父の経歴は以下の通り(「地方自治人事調査会」より主に抜粋)。 尋常高等小学校14歳で卒業、家業の農業に就く。18歳で結婚後に入隊、召集解除後35歳で村議当選、2年半後収入役になる。戦中は在郷軍人分会長、公職追放後に復帰後は村・町議会議員18年、監査委員6年、農協理事20年、森林組合長18年、その他土地改良区、社協、郡老人クラブ連合会長などを歴任。全国議長会表彰、県知事表彰。 自治功労で勲五等瑞宝章(昭和56年)。 農家の長男で勉強する時間などなかった(はず)。だが父は書く字も正確だし、難解な漢字や言葉にも精通していた。戦前、戦中、戦後の混乱の時代に一体、どこで身に着けたのか分からない。議会議員選は周囲の要請にシブシブ出馬している(ようにみえた)。 首長選にも出馬要請されたことがある。しかし「その器ではない。今の人(現職)が私より良い」と固辞した。現職の学歴と父のそれは明らかに違った。劣等・鬱屈感からの逃避にボクには当時思えた。しかし「身の丈を知る、足るを知る」父なりの信念・矜持を持ち合わせていたのだと今は思う。ボクが父の立場だったら、すぐ木に登る豚になっただろう。 「花輪16、盛り篭28、弔電120通、弔辞4人、参列者約500人」父の葬儀には田舎にもかかわらず沢山の人に見送られた。「あんたのお父さんの葬式すごかったよね」と今でも言われる。 徳は積めば身につくかもしれないが知識はそれを吸収する場が必要と思う。父からそれがどこにも見当たらない。ボクは一応 大学出だが知識も知恵も浅い、平々凡々の人生で恥ずかしい。お金だけは貯めてもいないし勿論残してもいなかった。むしろ窮々していた。自分の父でありながら「彼はいったい何者だったのだろう?今も分からない」と遺影を見上げながら思うことがある。 添付写真説明=丁寧に更新していた年賀状宛先の住所録(一部)=(父の忘備録より) (吉原和文)

十男の母🈡 ほろ苦クリスマス

私が小1、7歳の時のクリスマスの夜のことだ。夕食後、2歳上の兄と口論していた。 「サンタクロースがいると思ってるのか」 「いるよーだ。サンタは絶対いる」 「どこにいるんだよ」 「そりゃ、今はいないけど……とにかくサンタはくるの」 というようなことだったと思う。 私は「いる派」だった。いない派の兄と「じゃ、プレゼント入れ用の靴下を置いて寝て証明しよう」ということになった。就寝前に土間に靴下を置いた。サンタが靴を脱がずに簡単にプレゼントを置ける場所はそこしかない、と思ったから。わくわくドキドキ、眠れぬ一夜がすぎた。 翌朝、期待に胸を膨らませ靴下を見ると……前夜の〝寝そべった〟状態のままだった。大きなプレゼントが入っている様子はない。だが「諦めるのはまだ早い」僕はゆっくり、靴下をさわった。だが期待外れに終わった。やはり何もない。「サンタも誰も来なかった……」僕は涙が出そうになった。「えーい、クソ―!」と悔しいあまり、持っていた靴下を板床に放り投げた。その時、靴下が「コン」と音をたてた。 靴下の中に何か入っている。「なんだろう?」恐る恐る中身をよくみると硬貨十円玉が一枚、入っていた。 僕は「サンタから欲しいのはプレゼントだ。こんなお金なんかいらん」と再び靴下を投げ捨てた。その時、母は黙っていた。子ども心ながら母が何か情けなさそうな顔をしていた、目に涙のようなものもあった。その時点でもサンタの正体が僕にはわかっていなかった。  サンタがいる、いないで口論し、靴下を置く僕たちを見て母は急きょ、プレゼントを探したのだと思う。農作業が終わった冬の夜、プレゼント調達など田舎でできる訳がない。迷った母は夜、そっと十円玉をいれたのだろう。クリスマスプレゼントなど、それまで、もらったこともない、したこともなかった明治生まれの母の一生懸命考えた末の初めてのクリスマスプレゼントだったのだ。 「悪いことをした」「母さん、あの時はごめん」 母を悲しませたクリスマス。母が旅立って今年で16年。毎年、クリスマスがくるたびに世間のお祭り騒ぎと別に私には、ほろ苦い“懺悔”の日になっている。 (吉原和文)

十男の母② 高齢母の授業参観日  

ボクは母が39歳の時の子ども。当時では高齢出産だった。友達の母親達は20~30代で母にとっては自分の子供世代だ。授業参観では母は今でいうアラフィフ、一生懸命にお化粧していたように思う。子ども心にも「きょうのお母ちゃん、朝、仕事をしていた時と全然違うなあ」と思った。ボクのために母は頑張っていたのだ。 母は2男4女きょうだいの4女。11歳の時に父親、ほどなく母親も病死した。17歳の時、1歳年上の父に嫁いだ。長兄が父親代わりになって嫁入り支度の面倒をみたという。夫(ボクの父)も10歳時に母を亡くし身よりが7歳の弟だけだったので境遇が似ている。加えて母の嫁ぎ先には舅、継母の姑、異母弟の小舅姑がいた。二人は身寄りのない者同士だった。 近所に一人いわゆる恵まれない家庭の友達がいた。ランドセルも買えず風呂敷に包んで登校していた。修学旅行も不参加。母はその子の為に使い古しのランドセルや学生服、教科書などをきれいに再生した後、母子に渡した。修学旅行の際にはその子への土産代として、決められた小遣い上限額より別途、お金をボクに持たせた。母子は心底喜んでいた。 母は94歳で亡くなったが長兄の嫁さんが最期まで自宅で看た。認知症が始まってから次々家族の名前を忘れていったが驚くことに息を引き取るまでの嫁さん(義姉)の名前だけは忘れなかった。自分の夫でも子供でもない(表現は悪いが)赤の他人である義姉だった。 家に余裕のカネがなくても困っている他人さまの子を陰で支える。息をひきとる最期まで世話になった義姉の名前を忘れない。ひらがなもロクに書けなかった母だが「思いやり」と「ありがとう」に徹した強い女の信念があった。母の生い立ちから「薄幸」と感じるのはボクの偏見でしかないようだ。 写真=皇居勤労清掃奉仕団に参加した父と母(昭和30年代、詳細な日時は不明) (吉原和文)

十男の父②子だくさんの原点 

11人の子の親だから、ボクの父はさぞ筋骨隆々、逞しく精悍な男!さにあらず、ごく普通の農家の親父だ。ただちょっと寂しいおっさんずライフだ。 明治末の農家の長男だ。両親(ボクの祖父母)は男2人を生んだ後、離縁した。子供は男親が引き取った。ボクの父が10歳の時、実家に帰っていた実母は31歳で亡くなった。祖父はその2年後、後添え(継母)をもらい4男1女をもうけた。父と弟は次々に生まれる異母弟や妹とともに育つことになる。身よりは3歳下の実弟だけだった。 実母を失い孤独の寂しさに耐えた力が、その後の父の人生を形成したのかもしれない、とボクは思う。「夫婦、親子、兄弟は多くて仲良いのが一番だ」が口癖だった。幼い頃に抱いた母への思いは後々の「11人の子だくさん家庭」への伏線になったのかもしれない。 父は酔っては大好きな「星影のワルツ」を歌った。だが晩年は、時々涙目になっていた。「別れることは辛いけど…」「一緒になれるしあわせを二人で夢見た…」父にとってはこの歌は恋人を想う歌ではなく、幼い弟と想い続けた実母の面影ではなかったか。 父の還暦祝いを(我が家で)催したのは我々子供が主ではなく、父が仲人を務めた五十数組みの“子供たち”だった。100人以上の大宴会で学生だったボクは、その夜の宴は「まるでお祭り」と記している。世話好きで他人の面倒をよく見た証左だろう。 平成5年(1993年)7月7日、父は85歳で亡くなった。その朝も牛用の草刈りをしていた。夕方、ひと風呂浴びていつもの夕涼み中に台所から母が「ごはんですよ」と声をかけたが返事がない。母が部屋を訪れると静かに眠っている父を見つけた。急性心不全(医師)だった。 75年前に星になった実母と七夕の夕べに再会し「星影のワルツ」を歌っていたに違いない。生前ピンピンコロリができたらいいな、と言っていた。幼い時の辛苦と大人になっての面倒見の良さをお天道様が見ていて願いを叶えたのかもしれない。

十男の母①パンツのゴム通し 

ボクが高校生の時、実家には山積みの下着パンツとゴムがあった。母の内職の材料で下着のゴム通しだ。報酬は定かでないが「1枚で1円」だったか。「あまりカネにはならんが、少しでも、ね」と母は下宿先から帰省したボクに笑って言った。 ボクは「すごいね。頑張ってるんだね」と口では言ったが、心の中では「パンツのゴム通しなんて(カッコ悪い)。夜なべをして手袋を編んでくれる方がまだいいのに」と思った。 母が94歳で逝ってしばらく後、遺品を整理していた兄から電話があった。タンスの奥底から現金書留が出てきた、差出人はお前(和文)だ、と言う。ボクが送ったままの状態で、お金も手付かずだったという。33年前のボクの初月給の一部で、エラソーに「好きなものでも買いなさい」というような内容の一筆も添えていた。母は後生大事にしまっていたのだ。 受話器を持つボクの手が震えた。昔 パンツのゴム紐通しをしていた母へ、感謝のかの字も言わないどころか、恥ずかしいとまで思っていたのだ。しかも月給とりになったら“上から目線”でカネを送っていた。 ボクは中学卒業まで母親と同じ布団で寝た。この話をするとたいていの人が「なんだよ、お前、恥ずかしくないのか?」と笑う。上の兄たちは母親が次々弟を生むこともあり、母親に抱かれて眠ることはなかったろう。その分、末弟のボクが母親の愛を独占したことになる。末っ子十男の特権だ。 「ヰタ・セクスアリス」風に言えばボクが性に目覚めたのは高校生だったから、中学まで母と寝ることが恥ずかしいとか違和感はなかったのだ。それより母のゴム通し内職に対するボクのちっぽけな心の方が、もっと「さもしく恥ずかしい」ことだった。 (吉原和文)

十男の父①その収入

父は86歳で亡くなったが遺した手帳に末っ子十男・ボクの高校・大学時代の仕送りなど要したお金の詳細が記してあった。 昭和39年度 155,470円 高校1年 昭和40年度 137,300円 高校2年 昭和41年度 184,400円 高校3年 高校計  477,170円 昭和42年度 300,800円 大学1年 昭和43年度 242,800円 大学2年 昭和44年度 241,400円 大学3年 昭和45年度 428,000円 大学4年 大学計 1,213,000円 初めて見る数字で10円単位まで細かく丁寧に記していた。高校時代の仕送りは1か月平均1万3,000円。昭和40年前後、日本人のサラリーマンの月給が5~6万円くらいの時代なので普通の農家の我が家では相当の負担であったはず。 ボクの自宅近くに高校分校はあるが過疎化が進み廃校が噂されていたから、高校希望者のほとんどが町外に出た。「子供は高校だけは出そう」という時代になっていた。ボクもその一人だ。自宅から40キロ離れた益田市の県立高へ入り下宿することになった。バイトなど認められない時代で、4畳半の部屋、2食付き。授業料、教科書代、小遣いなど、全額 親の仕送りだった。 高1の夏休み、農業のかたわら団体職員をしている父の勤め先に行く用事があった。不在の父の机上に、たまたま父の報酬明細書がある。悪い気がしたが、恐る恐る覗いてみた。驚いた。1か月の父の報酬手取り額は僕への仕送りの額とほぼ同じだった。 父はその時56歳、非常勤とはいえ、その団体の長だった。正直言って、その数倍くらい報酬があるとボクは錯覚していたのだ。父が集めた現金1万3,000円――世の中を甘くみるにもほどがある、身にしみた。 毎月の仕送りは現金封筒に印鑑を3か所丁寧に押し、中にいつも1枚の便箋「無駄遣いをしないよう、勉強がんばりなさい」1行だけ、あった。 ボクは年を重ねても、手帳に記した仕送り額とあの夏の報酬明細書は忘れられない。 (吉原和文)

十男、憧れのマドンナと結婚

農家の十男で末っ子の新米記者は24歳で結婚した。相手は周囲の独身仲間たち憧れの的の女性(22)だった!恋愛でもお見合いでもない。イケメンどころかルックス十人並みでないボクが高嶺の花と結婚できたのは……。 古里の父親とある日、電話をしていた時 「お前、結婚したいような人(女性)おるんか(いるのか)?」と突然質問してきた。 「そんな人いないよ。ただちょっと好きだなぁ、という人はいるけど、結婚まではとてもとても」とボク。人気の的のマドンナを想像して言っただけだった。 数日後、父はボクの中学時代の恩師と共に田舎から突然訪ねて来た。驚くことに結納の調度品一式持参している。恩師はどうやら仲人役のようだ。 「お前が好きという人が一番じゃ。さあ顔合わせに行こう」と父。「急にそんなの困る。相手に迷惑」と思ったが、バスと電車を乗り継ぎ、遠路はるばる来たのにムゲに言う勇気はない。マドンナに経緯を話すと彼女はしぶしぶ実家に連絡した。 それまで彼女と恋沙汰話もちろんない。しかしボクは不思議なことに肩の力が抜けて、気楽に話はしてきた。きっとフーテンの寅さん流に言えば「やけのヤンパチ 日焼けのナスビ…わたしゃ入れ歯で歯が立たないよ」感覚で歯が立たない、と思うと自然流で話ができたのかもしれない。寅次郎とマドンナ吉永「歌子さん」の関係のよう。 さて彼女の家。両親は突然の客に結婚の承諾どころか、どう対応していいものか思案投げ首状態だ(当然です)。しばらくして彼女の祖父・長老がゆるりと登場して「これもご縁じゃ、結婚させたらどうか」とひと声。ボクの父も仲人先生も彼女の両親含め一同びっくり。それで話が進んだ。両家お互い農業というのも話のタネにはなった。彼女もまさかこんな形でこんな人と婚約するとは夢にも思わなかっただろう。一番驚いたのはボクだった。 退職する彼女の女友達らが「ねぇ、どうしてあんな吉原さんなんかと結婚するの?」と次々聞いてきたそうだ。「あんな」とか「なんか」の吉原 正直へこみました。でも自分だって彼女にそう質問したかもしれない。 月下氷人は父親だが、ボクの兄たちも24歳前後で結婚させている。多分、末っ子を早く片付けて安心しようとの一心だったのかもしれない。 ボクは本州島根、彼女は九州福岡生まれ。本州と九州を結ぶ大動脈・関門橋が開通した昭和48年、結婚式を挙げた。 (吉原和文)  

十男記者に社会の洗礼

「末っ子十男」のボクは記者研修を終え、幹部の前で配属希望先を聞かれた。同僚ほとんどが「社会部」「経済部」「運動部」など取材部門を希望していたがボクは「整理部」と答えた。高校時代に新聞部で少し新聞というものをかじっていたので「取材最前線もいいが、紙面を1面から最終面まで作ることができるポジションは整理部(現在の編成部)」と信じていたからだ。 「キミ、なぜ整理部希望なの?」と居並ぶ幹部の一人が聞いてきた。室内でもサングラスをかけ怖そうな人だ。ボクは「九州の取材記者は米国大統領や総理大臣に直接会えません(Y新聞西部本社は当時小倉にあった)。整理記者は1面から最終面まで、内外世界のトップが相手、事件事故事象を一手に引き受け捌(さば)ける花形です。記者手当も最上位と聞きましたので」と恥ずかしげもなく生意気を言うと、幹部らは顔を見合わせていた。 配属は希望通りになった。ボクは「これで親孝行できる」と喜んだ。その時はとんでもない職場ということなど知るよしもなかった。 配属初日、整理部長に挨拶に行った。「あっ!」驚いた。部長席に座っているのは昨日の“サングラスおじさん”だった。両足をデスクに上げたまま(その足が短い)、風体はずんぐりむっくりでまるでちびっ子アル・カポネだ。ボクが頭を下げると部長は「挨拶はええ(不要)、そこで見とけ」とそれだけ。ひと通り夕刊の編集を見てその日は終わった。 翌日、先輩記者のそばに座わらされた。「しばらくは見学だろう」と思った、が大間違いだった。「さあこれを組んで来い」先輩はいきなり割り付け用紙(新聞1ページ大)を渡した。いきなり出来る訳がない、と思ったがその目が怖くて新聞を組む活版職場に向かった。活版担当者は割り付けを見ながら勝手に組んでしまった。ボクはあたかも自分が指示して組み上げたような顔で先輩に見せた。先輩は「よく組んだな。だが今、飛込(最新ニュース)入った。すぐ組み替えてこい、急げ」。再び活版へ直行したが……。 「バカモーン」活版デスクの大声が職場中に響いた。「おまえさん、今、何時と思っているんだ!組み替え時間などあるものか!もうすぐ印刷時間だぞ」とボクを罵倒した。ボクが怯え戸惑っている時、先輩の整理記者がやって来た。ボソボソと何か伝えた後、あの罵倒デスクとすばやく組み替え作業をし始めたのだ。印刷時間に間に合った。 鉛活字の時代で活版職場は油と活字で墨まみれ、初日からボクの手はもちろんネクタイとカッターシャツも真っ黒になった。「これはヒドイところにきたものだ」。その夜、下宿で新しいシャツを取り出しながら、罵声も思い出し、一人うなだれた。 あとで聞いた話。怖いサングラス部長は、あらかじめ先輩記者と活版デスクらに「きょうは吉原という新人にやらせる。よろしく頼む」と内々に頼んでくれていたという。その配慮に驚き、心で感謝した。ずんぐりむっくりアル・カポネと言って、すみません。というよりこの職場の厳しさと温かさを知った日でもあった。

十男 新聞記者になる

 11人きょうだいの末っ子「十男」のボクは高校生時、公務員などを希望する就職コースのクラスにいた。部活動は新聞部。年に3~4回発行する高校新聞を取材、制作していた。新聞を作る楽しさや読者(高校生)の反応に新聞作りが非常に魅力のあるものだと、感じ始めていた。 高校3年になり、担任に「先生、僕は高校卒業後に新聞社で働いてみたいとも思うのです」と言った。 「どんなことしたいの?運転手、バイト?」と先生。 「記事を書いたり校正したり、見出しをつけたりします」とボク。 「そりゃ、大学に行かんとだめだよ。」 「えっ!?」 常識がないといえばそうなのだが、とても新聞社希望者の心得ではなかった。 同学年で友人のAさんがボクの将来の夢を知ると「吉原君、この夏、死んだ気で勉強する気があるなら僕と毎日勉強しよう。国語、社会はまあまあだろうから大学は英語が勝負になるよ」と言う。夏休み、彼がボクの下宿に訪ねてくるようになった。「ともに勉強する」は口実で彼が実質的な家庭教師だった。英語のリーダーや受験テキスト、大学入試のポイントなど細かく教えてくれた。同学年なのにまるで「師弟関係」、特訓は夏休み中続いた。 決して裕福とはいえない農家の十男の父親の進学条件は授業料や生活費が安くつく「国公立、近くの大学」だった。ボクは唯一受験した市立北九州大学(現北九州市立大)英文科に合格した。ボクにはできすぎの大学だ。Aさんはとても喜んでくれた。(※Aさんは一浪後に日本最高学府といわれる大学に進んだ)。 4年後、ボクは大手Y新聞社を受験した。長嶋茂雄大好きがその理由の一つだったかも。幸運にも数か月前たまたま読んだ(ふだんは読んでいない)英字新聞の記事が英文和訳の問題にそっくり出た。合格した。高校時代の夢が今実った。Aさんと大学進学を許してくれた両親・家族ら多くの人に心から感謝した。 (吉原和文) (写真は「高校3年の夏、裏山で勉強ひと休みの筆者=Aさん写す」)