十男63歳 十人の子を養う親はあれども一人の親を養う子はまれなり

いわゆる名言、金言と言われる言葉をボクは日記や手帳によくメモるのだが、いつの日か忘れ去る。身の丈に合わないのか心動く器量がないのか。そんなボクでも一つ忘れられない言葉がある。 10人兄弟の7人を喪って六男、九男、十男のボク計3人になった。「残った3兄弟 毎年一回は会って話をしないか」と六男が提案した。それぞれの自宅で会うのはたとえ兄弟でも気遣いが生じるので、旅館・ホテルなどを利用して連れ合い同伴6人で会うことになった。 2013年秋 初会合は山口市のかんぽの宿。3組6人が立ち寄った常栄寺というお寺に雪舟庭園があり、そこの石碑に刻まれた言葉=写真=。 「十人の子を養う親はあれども一人の親を養う子はまれなり  佛典」 「わし(私)らの親のことのようだなぁ」と一同顔を見合わせた。碑の前で親の苦労した出来事を改めてお互いが思い起こし、昔話が弾んだ。だがボクだけ後半の「一人の親を養う子……」に考え込んだ。ボクは「まれ」にさえなっていない。 写真=島根県益田市の旅館「荒磯館」で盛り上がる3兄弟(左から九男、ボク、六男=2015年6月)

十男60歳 葬儀1か月後、兄ちゃんがまた死んだ

四男の死(享年73)から1か月後、76歳の二男が亡くなった。晩年は脳梗塞から色々な病気を併発した。弟の死を知らされ病床で号泣した。 二男だが長男が夭逝したためお鉢が回って家長・当主に抜擢された。勉強が嫌いではないが、苦手だった。その上、上手に立ち居振る舞いができない。「器用でない人」が望みもしなかった当主になり生涯の重荷になったのではないか、と思う。 父が兄を隣町の蔵元に住みこみで働かせることにした。社会勉強させる配慮だったろう。ボクが高校生の頃だ。働き始めて1週間後くらいして兄がボクの下宿に訪ねてきた。「おれ、(仕事)やっぱりついていけないんだ。家に帰りたい」と泣きそうな顔で言う。聞けば杜氏仲間と共通の話もなかったようだ。ボクは「仕事を辞めて家に帰ったら」とは言えなかった。とりあえず500円をポケットに入れ、近くの軽食喫茶に行った。高価だが思い切って鍋焼きうどんを注文した。卵も野菜もたっぷりで寒さを吹き飛ばすくらい熱く、二人黙々と食べた。話もとりとめのないものだった。食後、兄は「もう一度、職場に行ってみるよ」と言った。嫌々だったのだろうがそう言った。 数週間後、「どうにか勤めを終えて帰ってきたよ」と父から連絡があった。 ボクが新聞社に入社が決まった時、親と同じように喜んでくれたのが兄だった。弟・六男は警察官で「警官やマスコミ関係者が兄弟にいる限り、わしは頭は悪いが悪い事だけはできないなぁ」が楽しそうにボヤいていた。身内だがこんなに偉ぶらない人に出会ったことがない。結婚後、2男1女をもうけた。家業を守り、両親を夫婦で最期まで看た。人間、勉強だけじゃない、大切な事をちゃんと果たすこと。周囲の心配をよそに不器用兄は成し遂げた。もちろん義姉のサポートも大だ。ボクら下の兄弟夫婦は義姉を目標にした。 「わしは何もできない人間」と口癖だったが「とんでもない。兄さん、(自分のいいところ)分かってない。あんたのおかげにボクら下の兄弟はみんな自由に生きられた」。 一緒に食べた鍋焼きうどん、物凄く安くついた、ボクのその後の人生にとって、そう思う。 =庭先で休憩中の兄を写す、写真を撮られるのがあまり好きでなかった兄の珍しい1枚= 吉原和文

十男60歳 兄ちゃんが死んだ

四男の兄が亡くなった。兄弟が多ければ自ずと葬儀も多いと思われるだろうが、一番下の十男のボクには悲しみは“ひと10倍”だ。 目を覚ますと枕元に真新しい野球のグローブがある。ボクは風邪で小学校を休んでいた午後。「兄さんからだよ」と母が言う。隣県の紡績工場に勤める四男の兄は帰郷するたびにボクに土産を持参した。「リア王」「メロス」などちょっと難しい本もあったが、この日は野球のグローブだ。 「これは本革じゃね(だね)ー!」。飛び上がった。グリースもついている。それまではビニール製のグローブで、ボールを受けると手が痛く、捕りにくかった。本革グローブを持っている仲間はいなかった。高熱が下がる感じがした。翌日の田んぼでの〝三角ベース〟で新グローブのボクが主役、鼻高々だった。兄は結婚後も、自分の子供が生まれても、転勤してもお土産は欠かさなかった。 そんな兄が帰郷の際「どうせオレは〝口減らし〟されたのだ」と杯を交わす父に愚痴った。四男で家業の農業を手伝っていたが、二男が家を継ぐことになり父の計らいで紡績工場に就職した。だが兄は「俺は外に放り出された」が口癖だった。高度成長を前にした日本の昭和三十年代のことだから、どの家の事情も似たようなものだったろうが……。コツコツ貯めたカネで末弟のボクが喜ぶものを買い、一方で親に自分の境遇を愚痴る。家庭を持ってもそれは変わらなかった。 その兄がバイク自損事故で死んだ。定年後、趣味の野菜畑から帰宅中のこと、炎天下の夏作業で「疲れた。先に帰る」と一緒にいた義姉さんに言い残した直後だった。転倒した。73歳だった。 ボクは亡骸に「兄さん、まだグローブのお返しをしてないよ」と泣くと「おまえ、生意気言うんじゃないよ!」とボクにあの愚痴る顔で言っているようだった。大好きだったが兄の心の内は今も分からない。それから1か月後、今度は二男の兄が亡くなった。 ※写真は1955年(昭30)、四男の兄の就職先が決まりその出発前に撮ったもの(らしい)。 吉原和文

十男17歳 高2 “恋人”を奪われた

「女の子の人気投票」が高校2年時、男子の保健体育の自習時間に行われた。クラスの塩道哲也が『お気に入りの女子』総選挙を提案したのだ。塩道は「あしたのジョー」の力石徹のような奴で顔も体も声もデカい、押しもある。クラスはすぐまとまる。中島四郎、山中富雄、山下勤など率先して選挙管理委員になる。選考対象は同学年全クラスの女子。 ボクは「三浦法子(のりこ)さん」という人に投票した。「スーちゃん」こと田中好子さんに似ており、静かな物腰で日本的、ボクは好感をもっていた。 第1回選挙、総投票数約20票。投・開票は黒板に「正」の字。結果は日頃の評判通りだった 1位 富永二恵 7票 2位 斎藤京子 5票 3位 工藤久恵 4票 …… 上位は頭も良いし、美人だ。私の三浦票は1票だけ、最下位だった。 塩道は「おい、誰や!貴重な1票を三浦ごときに入れとるのは」と笑った。ボクは黙っていた。 ボクは次回もその次も投票した。が、いつも1票だった。だが5回目くらいの選挙から様子が変わった。三浦票が1票、また1票と増えてきたのだ。ついにある日、あろうことか三浦法子がトップになったのだ!。 ボクは落胆した。自分一人のものであった彼女がヒロインに上り詰め、はるか遠い存在になってしまったのだ(ボクとの距離は初めから遠かったのだが)。 「まぁいいや、ボクの見る目が正しかったのだ」と自分を慰め言いきかせた。「三浦法子」は以降、トップや2位を守り続けた。 卒業して数年後、「高校卒業者名簿」が届き、ボクはクラスの卒業年度を見て仰天した。 「塩道(旧姓三浦)法子」とあった。夫はあの明日のジョーの「塩道」ではないか! 「貴重な1票を」とホザいた(つい、あしからず)塩道じゃないか! ともあれ十男ボクの初めての〝失恋〟だった。 (一部仮名にしました) 吉原和文

十男14歳日記 昭和38年8月15~18日

誤字・意味不明、理路不整然日記の続き。中学2年の8月。五十余年後の今「あれから随分成長した」という証(あかし)がないのも事実(日記は原文のまま)。 8月15日 木 ☼ 昭和二十一年八月の今日十五日、私達の母国 日本はポツダム宣言を受諾した。天皇が敗戦を告示。日本国民は泣き叫んだ。そして今日この記念すべき日に戦没者の慰励祭。そして今日を盆という。 今夜は盛大?な盆祭で踊りがあった。僕は皆さんが踊られるのを見て心打たれた。このみじめな敗北を忘れて仮装や子供達は楽く過ごしている。でもこの場、いや全国全民がこのみじめな敗北の浅没者を心から慰さめてないよう私はその事をこの中学生にも知らせたかった。 8月18日 日 ● 全然黒くなっていない。みんな白い。教室中は夏休み前と同じだ。本途に白い。長い夏休みも昨日で私達は終止符を打ち今日登校したが今年は寒かった夏のせいかみんなの元気そうな顔が見えない。残念である。今日は模擬があり昨日さぼったので全然できなかった。で今夜はあれでも三時半まで勉強した。今は八月十九日である。やはり「あやまちて改めざるこれを…」であるな。下関商準決勝へ。池永好投2対1今治西を敗る。巨人久方ぶりの猛打。十対一。絶好調金田をひとひねり。王28、29号。長島29号で一戦に並ぶ。力と伝統の巨人軍。 (吉原和文)

十男14歳日記 昭和38年2月4~7日

誤字・脱字・意味不明・理路不整然、しかも下手な字。信号機もない、塾もない、家庭教師とも無縁の田舎の中学2年生の日記。公開する勇気が“恐い”。(日記は原文のまま)  2月4日 月 雪 毅兄へ手紙出す 大雪である。昼からの休みにバスケットを初めて試みた全然上手ではないが仲々おもしろいものである。まだルールを完全に完成していないのでよく分からないが覚えて行こうと思う。夜、父が意地をはって「俺は当選したから嬉しいで」と言っておられたがこの前の夜はのんで情けないと言っておられた。めったに言わない父である「良かった~~」の連発である。父の心は良くわかる。いや僕にも計り知れない苦しみがあるのだ。「いいからいいから」の調子で進むことを望むだけだ。今日書取のテストがあった。医療の療の字を尞と書いた。最高九十八点はいきそうである。直今日のは二十七回公民館で「かわなみ-ン」をかる。 2月5日 火 晴 日直 本文略 2月6日 水 晴後雨  本文略 2月7日 木 晴 すっかり雪もやんだ為か夕夜一時頃なったサイレンはなだれの事故であった。山根下の山根敏さんたかの家が高さ百米の所から雪なだれがしてつっこみ寝ていたおっさん、長男、嫁、子供二人計五人が生き埋めになった。死亡された。下校中現場を見るとおもちゃ、家具などあちこちに。「無残」であった。その取材の為 各方面から飛行機で飛んで来て計十一機が来る始末であった。誠に恐いものである。これをきっかけとして匹見町も今日は雪かき。皆さんも無事に一生を送りたいものですね。ハイ ソレマデヨ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誤字・脱字・意味不明・理路不整然、しかも下手な字。信号機もない、塾もない、家庭教師とも無縁の田舎の中学2年生の日記。公開する勇気が“恐い”。(日記は原文のまま) ***************** 吉原和文

十男9歳 埋葬のヤギを掘り出す!?

近所で飼っていたヤギが病死した。おじさん数人が畑に埋葬した。夕方、ボクの兄貴分・隣の兄ちゃんが弟分4人を引き連れて埋葬場にこっそり集まった。「人間は死んだら骨になると聞いた。ヤギは1日でどう変わるかなあ」と小学3年生のボクが聞いた。「じゃ明日、堀り起こしてみよう」と兄貴が言い、密かに発掘することが決まった。 翌日、5人がスコップなど持ちより、掘った。子供なのでずいぶん時間がかかったが掘り起こした。しかしヤギは死んだ時のままの姿で骨にはなっていなかった(当たり前)。 その時「コラーっ」と背後に大声がした。埋葬したおじさんに見つかったのだ。「おまえら何しとるんじゃ」。仲間の一人一人が 「熊とかイノシシは」 「死んでも食べられる」 「ヤギは死んでも」 「食べられんから、かわいそう」 「食べることが」 「できるかもしれんと思って」 「掘っただけじゃ」 と途切れ途切れに屁理屈を言いながら、走りながら、ボクたちは逃げた。 しかし、それが後に大変なことになった。 「吉(よし)仲屋(なかや)(僕の家の屋号)の和ちゃんらはヤギを食った」と集落で評判になった。「それも掘り起こして生(ナマ)のままだったらしい」と尾ヒレがついた。5人組はすぐ逃走したので食べることなどとてもできなかったのだが。半世紀たった今も集落の人が「ヤギを食べた子供たち」の〝汚名〟を思い出しはしないかとビクビクしている。 昨夏 帰省の折、ヤギの元埋葬地に立った。草木で覆われていた。当然だが掘った跡形もない。そばの大きな柿の木は、ところどころ朽ち、かろうじて佇んでいた。怒り・追っかけたおじさんと5人組の一人も泉下の人になった。ヤギの墓標のことを知る人は少なくなった。 吉原和文