新加坡回想録(7)強い通貨・弱い通貨

シンガポールの通貨はシンガポールドル(S$)。お札は、円よりも米ドルよりも小さめで、一見おもちゃの札のようでもあります。初めて見たときは、何だか「まだまだ発展途上国です。ひとつよろしくお願いします」と遠慮がちに言っているような感じがしたのを覚えています。 マレーシアの通貨リンギット(マレーシアドル)とも何となく似ているのは元々同じ連邦国だったこともあるでしょう。1983年、私が赴任した当時の為替は、1シンガポ-ルドル=120円程度でした、米ドルが240円であったので丁度その半分です。この時のマレーシアドル(リンギット)はシンガポールドルより少し(10%ほど)弱かったと思います。 紙幣のデザインはどうでもよいですが、各国通貨の交換レートつまり為替の動きは非常に重要なファクターでその国が他国と比較して経済発展をしているのかどうかの良い指標となります。私が駐在した5年半の間にシンガポールドルは対日本円で、ざっくり言うと驚くなかれ何と120円から60円になりました。この間、日本円はというと対米ドルで、1ドル=240円から120~130円になっていたのです。シンガポールドルは米ドルにリンクしたように動き、ドル円の比率に従って同様の動きを見せたのでした。 当時日本は継続的に好調な経済を維持しその後のバブル崩壊に向かってまっしぐらでした。シンガポールは独立後まだ20年と経たない発展途上国ではありましたが、他の途上国に比べて驚異的な成長を遂げていました。豊富な国土を持たないデメリットを逆手にとり、外国資本の技術をうまく取り入れ、軽工業から石油精製などの重工業に切り替え、80年代になると土地が不要な金融や観光事業に力を入れました。あの時既にロンドン、ニューヨークに続いて世界の3大金融センターと言われるまでになっていました。(その後香港にその地位を譲ることになりますが) 私が帰国した1989年の後に、シンガポールが隣国のマレーシアと比較して経済発展のスピードを更に速めて行ったことの証しとして、為替レートの推移を見るとよくわかります。ざっくり比較すると次のようになります。 Year シンガポール(ドル) マレーシア(リンギット) 1983 1 1.1 1989 1 1.4 2019 1 3.0   (1983年~2019年:クリックして拡大表示できます)     (西 敏)

新加坡回想録(6)シンガポールの教育制度

シンガポールの教育制度は、日本のそれと似ているところもありますが、実は全く違う大きな特徴がります。通常6歳になると6年制の小学校に入学し、その後4年制の中学校に進みます。しかし、小学校の段階ですでに選別とエリート教育がスタートするのです。すなわち4年の終わりに、全員が能力クラス分けの試験を受け、中学に進めるコースと、卒業後は職業訓練学校に進むかもしくは就職するコースに分けられ、この時点で後者のグループは進学の道が閉ざされてしまいます。 小学校の終わりに、前者コースの生徒は、「小学校卒業試験」を受け、80%が合格して中学に進学しますが、残りの20%は職業訓練学校に行くか就職せざるを得ません。中学を終了すると「GCE”O”レベル)」(普通水準教育終了証)と呼ばれる卒業試験を受けますが、これに合格した生徒のうち優秀な生徒(上位10%)は「ジュニア・カレッジ」と呼ばれる二年制の高校に進みエリート教育を受けます。その次のランクの生徒が、「プリユニバーシティ」と呼ばれる3年制の高校に、残りが「ポリテクニック」(3~4年)と呼ばれる高等技術学校に入学することになります。 最後に高校を卒業すると「GCE”A”レベル」(上級水準教育終了証)と呼ばれる卒業試験があり、優秀なものがシンガポール国立大学か南洋工科大学に進学し、次のレベルはポリテクに進みなおします。大学は3年制ですが、優秀な10%の学生は、この後「オーナーズコース」と呼ばれる1年制コースに進みます。 他方、国家奨学金受給生は、まずジュニア・カレッジの1年目末の成績をもとに優秀な生徒がリストアップされ、2年目の成績を見て最終的に決められます。そして、将来エリート官僚となる100名強の高校生は、高校卒業後、国内ではなく欧米の有名大学に送り込まれます。 これがシンガポールの教育制度ですが、同じ年代でも、エリート学生は、小学校6年、中学4年、高校2年、大学4年の道を進み、能力なしと判断された生徒は小学校6年間で終えて、労働市場に放り出されてしまいます。この教育制度の特徴は、試験の成績によって義務教育段階からはっきりとコース分けすること、選別試験に漏れた生徒には復活の道がないことです。浪人とか、もう一度試験を受けるとかの再挑戦の道はありません。 そして、徹底的に振り分けられた優秀な者が、政府(人民行動党)に吸収され国の統治に関わっていきます。そのこと自体は悪いことではないと思いますが、優秀な若者が民間で活躍するチャンスが少なくなることはいかがなものでしょうか。ペーパーテストの成績が悪かった生徒が成長して会社を興し大成功をおさめるケースはたくさんあるので、さしたる心配は不要なのでしょうか。 ここまで読んだ読者の中には、きっと、「厳しすぎる」とか、「人間には大器晩成型やペーパーテストでは計れない豊かな才能の持った人々もいるのに、このような教育システムはそれを伸ばせないだけでなく、その芽を摘み取ることになるのでは」と思う人が多くおられると思います。 このような教育制度やエリート的能力観に対し批判的なシンガポール国民も大勢います。しかし、実態は政府の力が強過ぎてどうしようもないのが実情です。独立以来、人民行動党の一党独裁体制が続いていることで、資本主義国家で最も社会主義国家に近いと言われるゆえんです。 (西 敏)

新加坡回想録(5)三つの幸運

1965年、シンガポールはマレーシアから分離独立しました。それまでリー・クアンユー首相率いるシンガポール州政府は、マレーシアと一体となって国として繁栄して行こうと努めてきました。ところが、マレー系と華人系の民族についての根本的な政策の違いにより、はじき出されるという望まない形で独立することになってしまいました。それは言わば、「望まない独立」であったことを知らない人は少なくありません。 シンガポールは独立後、60年代後半、70年代、80年代と驚異的な経済発展を遂げました。そこには、リー・クアンユーというカリスマ的政治家が率いる政府(人民行動党)による的確な政策があったことは間違いない事実でしょう。しかし、それに加えて「三つの幸運」があったことも大きいと私は思います。 まず、第一の幸運として、東南アジアにおける地理的優位性を挙げなければいけないでしょう。この小さな島国はイギリスの植民地時代からこの地理的優位性を生かして東西貿易の中継地点として重要な役割を果たしてきました。活発な貿易を可能にする港湾、道路、通信などのインフラは植民地時代にある程度できていました。これに加え政府は、ジュロン地区の沼地を埋め立ててさらなる一大工業団地を整備しました。そしてこのことが、後の外国資本誘致政策に大いに役立つことになったのです。 次に、二つ目の幸運は政治面でのこと。シンガポールは多民族国家ですが、75%以上を華人が占める華人の国であると言えます。その華人国家が、北と南をマレー系(イスラム教)の国に挟まれ、民族、文化、宗教の面でも相いれない難しい関係にありました。 マレーシアのマレー人優先政策(ブミプトラ)とシンガポールが主張するすべての民族が平等であるとの政策とが相いれず結局は分離独立せざるを得なかった訳ですが、このことから、武力衝突こそなかったものの極めてとげとげしい関係が続き独立後も一触即発の状態でした。 一方、インドネシアは、63年に始めたシンガポールとの貿易禁止措置を独立後も継続していました。対インドネシア貿易は総貿易の三分の一程を占めており、地場産業のない貿易立国にとってこれは死活問題でした。ところが、独立後2か月も経たない65年10月にシンガポールと敵対関係にあったスカル大統領が失脚しました。新たに権力を握ったスハルト大統領は対外的には対立よりも強調、国内的には政治よりも開発重視の政策路線を打ち出したのです。 この事態は、隣国との友好関係なしには成り立っていかない小国の行く末に大いにプラスになりました。外国資本を呼び込むためには自国の政治的安定が第一の条件です。海外進出を図ろうとする諸外国は、治安に不安の残る国には二の足を踏むからです。このように、自助努力ではどうにもならに周辺地域の変化が二つ目の幸運をもたらしました。 最後に、当時、先進諸国の経済成長で世界貿易が飛躍的に拡大していましたが、これに伴って生産工程の分業化で、多国籍企業は安価な労働力を求めて途上国への大量投資・進出を始めていました。このことは、工業化推進のために外国企業を積極的に受け入れようとしていたシンガポールの政策とどんピシャリと一致したのです。そして進出した外国資本は開発に必要な資金、技術、輸出市場を”セット”でもってきました。外国資本は政府や地場産業では創出できない雇用機会まで提供してくれました。これが三つ目の幸運でした。 (西 敏)

新加坡回想録(4)資源を持たない国の悲哀

「増える国土面積」の記事でもお伝えしましたが、シンガポールという国は奄美大島ほどの大きさしかない島国です。国の発展・繁栄を目指すには当然何らかの産業を興していかなければなりませんが、国土が極端に狭いというハンディキャップは拭いようのない事実でありました。 大きな森があれば林業、広い土地があれば農業ができますが、木を切るべき森もなければ耕すべき土地もありません。良い漁場があれば漁業もできますが、ほとんどが外国から移民した人々であり伝統的な漁業で栄えたわけでもありませんでした。 島で最も高いところでも標高わずか173mほどの丘(ブキティマヒル)であって高い山がなく、水さえマレーシアから調達しなければならないという国です。とにかく狭さを少しでも補うべく海を埋め立てて国土を増やしてきましたがそんなことで根本的な解決にはなりません。 さて、1965年にマレーシアから分離独立したシンガポールは、どのようにしてあの驚異的な経済発展を遂げたのでしょうか?農村という後背地を持たないシンガポールは食料の自給自足は不可能で、生活必需品のほとんどを外国からの輸入に頼っている状況で、国民の誰もが明日からの生活に不安を感じていました。 政府がとった政策の第一は、外国企業の誘致でした。外国企業を誘致すると言ってもそれほど簡単なことではありません。政治的な安定度はどうなのか、労働力の勤勉さなど質的にはどうなのか、投資した資本を回収できる可能性はどうなのか、シンガポールとアジアの他の発展途上国との比較で優位性はあるのかなど、進出する方にとってはあらゆるリスクを検討しなければならないでしょう。 結果的には、外国資本の誘致に成功して、他のアジアのどの国よりも急激な発展を達成しましたが、その理由は何だったのでしょうか。この辺の事情は今後の記事に譲りたいと思います。 (西 敏)

新加坡回想録(3)増える国土面積

赤道直下の小さな島国であるシンガポールの大きさを形容するのに、昔は「淡路島」と同じくらいと言われました。独立の年1965年のシンガポールの国土面積は581.5㎢であるのに対し淡路島の面積は592.55㎢なので、この例えは間違いではないし両方とも”島”であることでイメージしやすかったと思います。 普通国土面積というものは毎年それほど変わるものではないはずです。ところが、この国だけにはその言葉が通じない。まるで人口や経済指標のように毎年変化しています。1965年に581.5㎢であったものが、一時、淡路島に代わって例えの対象となった東京23区mの627.57㎢を追い越して、2017年には721.5㎢にまで増えているのです。 勿論この国土面積の増加は、埋め立てによるものであることは言うまでもありません。この50年少しの間にシンガポールの国土面積は24%ほど増えました。土地が少ないと新たな産業を興すこともできません。土地を持たないというデメリットを逆手にとって80年代には金融などを発展させてきましたが、やはり最低限の土地は確保したいということでしょうか。 ところで、この数字に近い面積の島を探してみるとありました。それは、712.35㎢の奄美大島です。私の頭の中には30数年前の「淡路島くらい・・・」という言葉が染みついて残っているので今でもついそう言ってしまうことがあります。今後は、気を付けて「奄美大島くらい・・・」と言わなければならないでしょう。 因みに、日本の面積は37万8000㎢、マレーシアのそれは33万800㎢(日本の90%)であることを考えるとシンガポールはいかに小さいかがわかります。その小さな島に中国系、マレー系、インド系、その他の民族が犇めき合ってそれぞれ別々の文化や宗教を持ちながら暮らしています。 (西 敏)  

新加坡回想録(2)多民族国家

私の記憶が正しければ、赴任当時のシンガポールの人口は約360万人、それに対して年間の外国人観光客数は約400万人でした。海外からの観光客数が人口より多いということを聞いたときは驚きました。現在の人口はというと約570万人(2017)で、外国人観光客数は約1,850万人(2018)ほどになっており人口の約3倍になっています。 シンガポールが日本と大きく違う点のひとつに多民族国家であるということがあります。当時たしか中国系が約75%、マレー系が約15%、インド系が約5%でしたが、この比率は現在でもあまり大きくは変わってないようです(中国系74%、マレー系13%、インド系9%、その他3%(2017年)。これらの民族がこの島へやってきて住みついた経緯については、前回の「シンガポールの歴史」のところで少しだけ書きました。 私が赴任した職場においても大体それくらいの比率で現地社員がいました。ただ、担当する仕事は大体決まっており、中国系の人が事務を、マレー系の人が社用車の運転手でした。ここで、日本人駐在員一人一人に社用車がつくなど、贅沢だと思うかもしれませんが、それには理由がありました。 日本人がシンガポールで働くためには、日本人一人に対して何人かの現地人を必ず採用しなければならないという規制がありました。我々が自分で運転してもよさそうなものですが、この決まりに従って現地人を雇う必要があったのです。私の部には、福建人の営業担当男子部員一人と秘書役の広東人女性、そして社用車の運転手としてマレー人の男性が付いてくれていました。大きな部になると日本人が3人もいるところもありましたが、原則として車は部ごとに1台でした。 もう一つの理由は、もし日本人が運転中に事故を起こした場合、罰則がどのようになるかわからないという恐れがあったからです。まだまだ発展途上国であったシンガポールでの法律によって、日本人が100%平等に裁きを受けられるかどうかわかりません。その意味では仕事中の運転は現地人に任せた方が無難であったのです。私についていてくれたマレー人の運転手との忘れられないエピソードがあるのですが、それはまた別の機会に書くことにします。 (西 敏)

新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(下)

日本による占領と軍政 イギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していました。このため1941年に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けました。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わりました(シンガポールの戦い)。 その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名されました。その後日本から多くの官民が送られ、過酷な軍政が敷かれることになりました。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために強制徴用されました。 また当時は日中戦争の最中でもあったため、中華系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の「布告」を発行し、抗日独立運動家やその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害したといわれています(シンガポール華僑粛清事件)。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成しました。 再びイギリスによる植民地支配へ 1945年8月に、日本の敗戦により第二次世界大戦が終結し日本軍が撤退したものの、日本と入れ替わり戻ってきたイギリスによる植民地支配は継続することとなり、長年の念願であった独立への道は再び閉ざされてしまうこととなりました。 しかし、長年マレー半島において搾取を行った宗主国イギリスに対する地元住民の反感は強く、その後も独立運動が続くことになりました。第二次世界大戦によって大きなダメージを受けたイギリスには、本国から遠く離れたマレー半島における独立運動を抑え込む余力はもう残っていない上、諸外国からの植民地支配に対する反感も強く、いよいよ植民地支配を放棄せざるを得ない状況に追い込まれていきます。 マレーシア連邦 1957年にマラヤ連邦(Persekutuan Tanah Melayu)が独立し、トゥンク・アブドゥル・ラーマンが首相に就任します。その後1959年6月にシンガポールはイギリスの自治領(State of Singapore)となり、1963年にマラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともに、マレーシア連邦(Malaysia)を結成しました。 しかし、マレー人優遇政策を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党(PAP)の間で軋轢が激化していきました。1964年7月には憲法で保障されているマレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生し死傷者が出る事態となりました。 分離独立 1963年の選挙において、マレーシア政府与党の統一マレー国民組織(UMNO)とシンガポールの人民行動党(PAP)の間で、相互の地盤を奪い合う選挙戦が展開されていたことにより関係が悪化します。ラーマン首相は両者の融和は不可能と判断し、ラーマンとPAPのリー・クアンユー(李光耀)の両首脳の合意の上、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立しました。独立を国民に伝えるテレビ演説でリー・クアンユーは涙を流しました。 (西 敏)

新加坡回想録(1)シンガポールの歴史(上)

1980年代に仕事の関係でシンガポールに5年半ほど駐在しました。シンガポールは、今ではすっかり人気観光地になり、多くの日本人が連日訪れているようですが、当時はまだ知る人ぞ知る国で、駐在の話が決まった時に同僚の一人が、「シンガポールってマレーシアの一部だよね」と言ったものでした。 もう30年以上も前の話なので記憶も薄れかけていますし少しずつ思い出しながらの記述になりますが、体験したことを中心に書いていきたいと思います。最近の現地の様子と言えば、マリナ・ベイサンズのように様変わりの部分も多いことと思いますが、一昔前のシンガポールと理解してお読みいただければ幸いです。 また、そこはこんな風に変わったよとご存知の方は、コメントなりで是非お教えいただければありがたいです。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ (1)シンガポールの歴史 シンガポールはマレーシアの南に位置する島の都市国家で、気候は熱帯気候に属し、国内には多様な文化が存在しています。古く14世紀ころまではテマセックと呼ばれていたこの地は、やがてシンガプーラという呼称が定着していました。この名前にも諸説ありますが、サンスクリット語で「ライオンの街」を意味していると言われることから英語でライオンシティなどと呼ばれるようになりました。 シンガポールの歴史を語る上で欠かせないキーワードは、イギリスによる植民地支配、マレーシアなど近隣諸国との関係、多民族国家であること、初代首相リー・クアンユー、そして忘れてはならないのは日本軍がかつて占領していたという事実でしょう。 イギリスによる植民地支配 1819年人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たします。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取りつけました。この時、名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進め、1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなりました。 近代シンガポール建国の父と言われるスタンフォード・ラッフルズ卿の像は、現在ラッフルズ卿上陸地点とエンプレス・プレイスに2つあり、また、歴史ある優雅な外観とホスピタリティの高さで世界中の旅行客を魅了する高級ホテル、ラッフルズホテルにその名を残しています。 無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していきました。既に所持していた港町ペナンと、新たに獲得したマラッカとともに、シンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められました。 イギリスの植民地となったことで、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、そして中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割、また、ヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても大きな発展を遂げました。 この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国南部(主に福建省や広東省、潮州、海南島など)、南インド(主にタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来したことが、現在の多民族国家の起源となっています。 シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続きました。20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなりました。 イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まりや弾圧を行いました。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、後に初代首相となるリー・クアンユーです。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布。1948年3月、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加しました。 ~シンガポールの歴史(下)に続く~ (西 敏)  

新加坡回想録(62)「ピ!ポ!パ!」

40年ほど前、まもなく30歳になろうかというくらいの時の話。後に駐在することになるシンガポールに初めて行くことになった。商社で澱粉の輸入を担当していた私は、東マレーシアのボルネオ島で生産されるサゴ澱粉(サゴ椰子の幹から抽出される澱粉)の仕入れ契約のために出張した。 現物の商品はボルネオから北上して直接日本に輸入されるが、取引は当時のシンガポール支店(現在は現地法人)経由でなされていたため、行き帰りは必ずシンガポールに立ち寄っていた。時には販売先である大手薬品会社の担当者を案内することもあり、その意味では、当時から観光地として人気のあったシンガポールに立ち寄ることがいい接待にもなった。 今や、世界でも先進国の仲間入りをしたと言っても過言ではないシンガポールだが、土地が狭い(淡路島くらいの面積)ことを逆手にとった政府の政策が功を奏し、当時でもロンドン、ニューヨークに次いで、世界の”3大金融都市”のひとつと言われるまでになっていた。 日本と大きく違うのは多民族国家であることで、国民の約70%が中国系、約15%がマレー系、約9%がインド系とさまざまな人種で構成されていた。開発途上国の中では成長率が著しく良かったので、そこに欧米をはじめ多くの国が進出していった。日本も負けじと多くの会社が事務所を置いていたので、世界でも珍しいほど日本人学校も充実しており、医療事情などと併せて日本人にとって住みやすい都市国家であった。 教育面でも、小学校3年生で生徒の最初の能力選別が始まるとういう徹底した英才教育で知られていた。多民族国家であるから、もちろん家庭ではそれぞれの出身の国の言葉を話すが、国語として指定されたのはマレー語と英語である。国民として英語を話す必要に迫られたが、年配の人やあまり教育を受けていない人たちの英語はよく言われる「シングリッシュ」で発音がよくなかった。 ある日のこと、多くの人々で賑わう旧ニュートンサーカスの屋台で食事を楽しんでいた。昔から屋台は有名だが観光化し過ぎた最近の屋台とは少し事情が違いまだ素朴さがたくさん残っていた。ガヤガヤと騒がしい中で隣のテーブルからひときわ大きい声が聞こえてきた。 「ピ、ポ、パ!」と叫ぶ声が聴こえる。「うん?、ピ、ポ、パ!」って何のこと?プッシュホンでもあるまいし。 耳をすましてよく聞いてみると、話しているのは紛れもなく中国系の人たちだが、言葉は中国語ではなくどうも英語らしい。悪いとは思いつつも、もう少し聞き耳をたててみた。 よく聞いてみてようやく意味がわかった。それは、「ピープルズパーク(People’s Park)」のことだった! 現地の人の英語の特徴のひとつで短く切るように話すのでそう聞こえたのだった。いわゆる「シングリッシュ」だ。シングリッシュをしゃべる彼らは、もっぱら中国系が多いように思う。それも中国南部地域特に福建省出身の人たちが多かった。しかし、この「シングリッシュ」を軽蔑することはできない。 発音がどうであろうと、日本人である私の目から(耳から)見ると、少なくとも彼らは、母国語以外の外国語を話している訳で、外国語を受けつけようとしない多くの日本人とは違う。それに、「ピ、ポ、パ!」に関しては、イントネーションを強調しているわけだから、案外日本人の平坦な発音よりは英語に近いとも言えなくもない。 多民族国家であることで、必要に迫られて毎日生活するために使っている英語。決してきれいな発音ではないが意思疎通には問題がない。帰国してこのことを同僚に話すと、笑い話のようにとられることが多かったが、40年経った今でも、本質は別のところにあると思っている。 世界中の誰もが母国語のように英語をしゃべることが重要ではない。それよりも母国語でしか話せないような”内容”をいかに世界で通用する言葉で伝えることができるかが重要ではないか。日本語で言えば、「寿司」や「津波」などよりも「わび」「さび」が英語で伝えられるようになることのほうが大事なのではないかと思う。歴史や文化の違いを乗り越えて国民感情の奥底にある機微を理解しあえれば無用な諍いがなくなるような気がしてならない。 西  敏