新加坡回想録(27)世界の駐在地ベスト3

シンガポール(Singapore)は赤道直下の国のため1年中夏の気候で日本のように四季がありません。熱帯気候ばかりが強調されるものの、日本人駐在員にとって、治安、医療、教育、食事など家族生活全般に亘って他の駐在地と比べると非常に恵まれたところで誰もが希望する駐在地でした。当時、世界に数ある駐在地の中で、シドニー(Sydney)、サンフランシスコ(San Francisco)と並んで”世界の駐在地ベスト3″=”3S“のひとつと言われていました。 人が生活する上で大切なこととして「衣食住」とよく言われますが、その前にもっと大切なことがあります。まず、治安の良さは日本人駐在員にとって最も大事な要素と言えます。世界には、政治や宗教、民族など歴史的に長きにわたって治安の悪い国が依然として少なくなく、そのような国に駐在することは仕事とはいえ大変なリスクを伴います。従って、治安の問題があるような国には家族同伴ではなく単身で赴任することが多いです。 次に、医療事情も重要な要素になります。健康な人でもいつどこで病気なるかもしれません。まして外国には日本では考えられないような病に罹ることもあるので注意が必要です。怪我や病気をしたときに信頼できる病院があれば一応安心できますが、世界にはまだまだ医療事情に問題がある国がたくさんあります。当時、インドネシアの駐在員が健康診断のためにシンガポールに来ていたことがありました。 教育面でいうと、当時、シンガポールには世界で最大の日本人学校がありました。日本人学校小学部及び中学部では、文部科学省の学習指導要領に基づいた教育を受けることができ大変恵まれていました。多くの海外駐在地には日本人学校のないところも多く苦労された方もいると聞いています。当時は、日本人幼稚園と高校はありませんでしたが、私が帰国した後に、幼稚園も高校もできたようで更に環境はよくなっています。 さて、「衣」はシンガポールではほとんど心配は要りません。極端に言うとTシャツと短パンがあれば生活できます。むしろ、いろいろなファッションを楽しむということが出来ないことを嘆く日本人女性がいるくらいです。我々も、秋から冬にかけてセーターがいらないことにある種の寂しさを感じたこともあります。 「食」についても、シンガポールは文句のつけようがありません。現地の料理で問題ない人は非常に安くあげられますし、少々高いのを我慢すれば、世界各地の料理が楽しめる環境にあります。日本から大手デパートや一流料理店も進出しており日本料理も十分楽しむことができます。むしろ、日本ではあまり行かない(行けない?)ような高級料理店にも(仕方なく)家族で出かけることもありました。 このように、「世界の駐在地ベストスリー(3”S”)」といわれたシンガポールに駐在できたことは非常に幸運であったと思っています。 (西 敏)

新加坡回想録(26)幻の炒飯

長年の友人との再会を喜び彼らの取材旅行に協力して以降も、会社の顧客や同僚以外に家内の弟家族や長女の幼稚園のときの先生など個人的な知人、友人も大勢来星してくれてそれぞれ再会を楽しむことができた。国内にいてもなかなか会えない人たちにも、外国にいるからこそ会えるということがあるものだ。 暫くして、友人から待望の一冊が届いた。彼がシンガポールで取材し、私がわずかながらも協力したあの一冊「海外食べあるき・ショッピング シンガポール」(1988年10月初版発行・S社)だった。慌ただしくページを繰って見る。もちろん「幻の炒飯」がどのように扱われ掲載されているのかを一刻も早く知りたい。 見ると、あの「幻の炒飯」は、どの高級レンストランよりも、どの一流ホテルよりも大きく、見開き2ページに亘って紹介されていた。やるな!やっぱり感性は一緒だった!うれしかった!おまけに、あいつ、協力者として、私の名前まで巻末に(パンパシフィックホテルの次)紹介してくれていた。クリックで拡大) でもこの本はもう、古本屋以外では書店で見ることはないので、「幻の炒飯」のページのみここで紹介したいと思う。(記事は1988年現在のもの) ◇究極の炒飯ここにあり◇ シンガポールに住んでいる日本人の間でつとに有名な幻の炒飯に遭遇することができた。 店の入り口左に炭火のかまどがあり、ここが調理場。痩せたおばさんが煙のなかで大きな中華鍋を握っていた。彼女の細腕の右の力こぶだけは小さなお餅をのっけたように盛り上がっている。鍋から空中に放り投げられた飯が炎と交差する時、ジャッと音が出た。香ばしい匂いが店内に漂う。 おばさんは米の一粒一粒がくっつかないように、しかも米の一粒一粒に卵がまんべんなく絡むように力を込めて鍋をかきまわし、飯を宙に舞い上げる。まるで、炎と決闘しているようだ。声をかけたが、口も利きいてくれない。注文は別のおばさんがとりに来た。 9卓の丸テーブルは全部ふさがり、お客は黙って待っている。その上をふたつの扇風機がゆっくり回っている。奥には神棚があり、その下には油でテカテカ光っているオレンジ色の電話機。隣の食器棚のガラス戸には12枚の茶色に変色したサッカーチームの絵葉書が貼ってあった。 30分たって、大きな皿に盛った3人前の炒飯ができ上がった。カニ肉をはじめとしてシーフードもたっぷりと入っている。口に入れてみると、ふわふわでしかもパラッとしている。口一杯にカニ肉のいい香りが広がった。実に気品のある、この逸品だった。 この店の名前は「榕光」(YONG KUANG)。チャイナタウンを横切るサウス・ブリッジ・ロードからネイル・ロードに入ってカントンメント・ロードの1本手前を右に入ったところにある。左斜め前が広東料理で有名な「マジェスティック・レストラン」だ。 ちなみにこの炒飯のお値段、1人前で10Sドル(標準の3倍)、3人前だと25Sドル。シンガポールで料金が一番高い究極の炒飯である。 「榕光」(YONG KUANG) 31, Teo Hong Rd. 11:00~16:00(無休) (文:ライター・YIさん) このお店、もう一度行ってみたいが。今もあるのかどうかわからない。 (「蓬城 新」こと 西 敏)

新加坡回想録(25)ガイドブックの取材協力

赴任して2年少し経ち、新しい外国生活にも慣れた頃、トラベルライターである友人から取材協力をお願いしたいとの連絡が入った。旅行雑誌の取材でシンガポール出張が決まったので、現地事情の提供に是非協力してほしいとのことだ。地図で名のある出版社Sが発行するガイドブックの編集長としてカメラマンとライターとを引き連れて三名で来星するという。 取材班は、カメラマンのMさん、ライターのIさん、リーダーの友人Mの3名のチームだ。今回の彼らの仕事は、海外旅行ハンドブック「海外食べあるき・ショッピング」シリーズのシンガポール編を担当するものだった。その時までに、①ハワイ、②香港、③台湾、④韓国と刊行済みでシリーズ5番目となるということだ。この種のガイドブックは履いて捨てるほど溢れているので何か他誌にはない特徴を持たせたい、できれば現地在住の日本人しか知らないような穴場的なところを教えて欲しいという。 実は、私には彼から連絡があったときにすでに一つの腹案があった。この友人とは小学校一年生でクラスメイトになって以来の長いつきあいで、私自身の人生にとって多かれ少なかれ影響を与えた人物である。その彼からの依頼に喜んで応じたのは言うまでもないし、彼が何を期待しているかは聞かずともわかる間柄であった。彼との思い出話は数多くあるので別の機会に改めて書きたいと思っているくらいだ。 どんなガイドブックでも外す訳にはいかないグルメスポットやレストランをひと通り回った後、そこに連れて行った。目的の小さな食堂は、チャイナタウンの一角にあり、おばちゃんが1人で腕を振るって評判をとっていた。そこで提供される炒飯が、当時、日本人の間で話題になっていて、それは「幻の炒飯」と呼ばれていた。 特徴はとにかく蟹がいっぱい入っていて他では味わえない豊かさを感じることのできる大好きな味だった。値段は、通常の3倍(S$10)するので、後でもめることを避けるためでしょう、おばちゃんが、10ドルだけどいいんだね?といつも必ず確認してから作り始めるのだった。 当時の私の仕事は、何でもいいからこの支店で一人食べていけるようにすることが課題だったので、とにかく東南アジアを歩き廻っていた。とりわけ、シンガポール国内のレストランやホテルを廻り、食品原料の流れなどを調査することも仕事の一貫として必要なことだった。 あちこちのレストランと親しくしていたおかげで取材にも協力的だったので、時間の許す限りできるだけ沢山のところに連れて廻った。でも、チームが最も気にいったのは結局「幻の炒飯」で、この本の目玉にできるととても喜んでくれた。私としても「してやったり」で小さい頃から「ウマが合う」と言われてきた、友人と私の感性がぴったり一致したということの証明だった。 取材が一段落したころ、このチームに自宅に来てもらい食事を楽しんだ。家内も、彼が2度目の世界一周旅行直前に大阪で会って以来の再会だった。家内に故郷の話をするときはいつでも彼の名前が登場したし、よく知っている存在だったのでお互い遠慮も無用で話がはずんだ。さらに初めて会う二人のメンバーからも最近の日本の状況などを聞きながら杯を交わし楽しい一夜が更けていった。 上記の私の友人「M」は、後に、代官山蔦屋が新業態で華々しく開店した時に、旅行本コーナーの初代コンシェルジュを任された人物です。ここを訪れて彼にお勧めの本を聞きそれを読んで旅行したお客さんが、その本のおかげでとても良い旅行ができたとお土産まで買ってお礼に来てくれたというエピソードがあるほど人気を博しました。おかげでテレビやラジオの取材も多く彼は一時有名人になっていました。充実した人生を送っていた彼でしたがほどなく病気で帰らぬ人となってしまいました。せめてこの記事を読んでくれていたら嬉しいと思ったのですが・・・。(合掌) (西 敏)

新加坡回想録(24)クチン・シブ・ムカ

今回は、駐在前に出張で何度も訪れた東マレーシアの町を少し紹介しましょう。今は事情が大きく変わっているようですが、当時は、仕事の関係でしかまず日本人が行くことのないようなところでした。 マレーシアは、地理的には南シナ海を隔てて、首都クアラルンプールのある西マレーシア(半島マレーシア)と東マレーシアに分かれています。東マレーシアは、ボルネオ島としても知られており、南東部はインドネシア、西北部に東マレーシアのサバ州とサラワク州そしてブルネイ王国があります。 経済的には西マレーシアの方がはるかに発展しており、当時の東マレーシアに行く日本人はおそらく石油・ガス関係か木材関係のビジネスマンが多かったと思われます。南洋材貿易が盛んであった頃は、日本人がジャングルの中に分け入って随分活躍したという話も聞きました。一方で、無計画に木を伐り過ぎてその後の森林破壊の原因となりましたが、今は伐採を制限し、切ったら植えるという20年後、50年後を見据えた方法に変わっているようです。 さて、当時の私の仕事は、ここサラワク州で製造される(サゴ椰子の幹から取れる)サゴ澱粉を買い付けて日本に輸入することでした。用途は、賦形剤、嚥下食用、打ち粉用など。日本からクアラルンプールまたはシンガポール経由でサラワク州の州都クチン(Kuchin)へ入り、そこで国内線に乗り換えてシブ(Sibu)にある会社を訪問するのです。シブには、福建省出身の中国系マレーシア人が多く、私の取引先の会社も福建系でした。(最初の写真左が社長の Mr.Chua) クチンは州都だけあってそれなりに発展しておりきれいな印象がありましたが、実際には乗り変え時間が短くゆっくりする時間がなかったので詳しくは知りません。社長のMr.Chuaが経営する会社は、クチンから飛行機で40分ほど東北にあるシブにありました。シブは、ラジャン川とイガン川の合流点に位置しており、海までの距離はおよそ60km。福建省の福州市出身の華僑が多く暮らしており、Mr.Chua一族もまさにその福建系でした。 同社は多数の小規模経営の工場から未精製の澱粉を原料として集め、シブにある工場で精製し真っ白なきれいな澱粉に仕上げて輸出していました。この未精製の澱粉工場は、シブからさらに離れたムカ(Mukah)、ダラト(Dalat)にありました。道路は西マレーシアのように整備されておらず、ボルネオ島の農村部に行くには飛行機か川を舟で行くしかありませんでした。(今は高速道路もあるようです。) 社長と二人でボートに乗りマングローブが生い茂るその茶色の川をダラトまで何時間もかけて行きます。お腹がすくとひと房持ち込んだバナナを食べます。ふと、ボートの後部に付いているモーターを見ると「kawasaki」と書いてありました。ここにも日本があると感心。未精製澱粉の小規模工場を一軒一軒廻って、社長は次の船積みに間に合うロットを確認していきます。勿論値決めもしているようですが福建語なのでいくらなのかわかりません。(このことが後に中国語を習うことになったきっかけです) 360度周りを見渡すと茶色い川とジャングル、空を見上げれば真っ青な空、きれいな川や海のそばで育った自分からすると、あ~、世界の果てまで来たんだ、という感じがしました。川の水が茶色いのは、泥炭や落ち葉がどんどん分解して水に溶けてくるためだろうと思います。しかし、手ですくってみるとそれほど茶色くはありません。 さて、シブからムカまでボートでも行けますが、時には飛行機で行きます。15、6人乗りの小型のプロペラ機でしたが、驚いたことに、搭乗前に一人ずつ体重を測りました。プロレスラーか相撲取りの団体ならわかりますが、普通の旅客なら人数だけ確認すれば大体ことは済みそうに思いましたが面白さの方が勝って腹は立ちませんでした。 この飛行機への搭乗は、機の真後ろから乗るタイプのもので初めての経験でした。操縦室と客室の間に仕切りが無く、一番前に座ると機器に自分の手が届きそうな感じで操縦士の作業が手に取るようにわかります。もちろん、スチュワーデス(当時はC.A.とは言わなかった)は乗っていないので、機内サービスもありません。30分も経ったかなと思う頃にもう着陸態勢に入りムカ空港(写真中)に到着です。見ると滑走路は芝生でした。 そして、ムカで泊まったホテルには、「豪華冷機大旅社」という看板がかかっていました。英訳すると「Gorgeous Air-conditioned Grand Hotel」」と言ったところですが、実際はボロボロの木造でした。でもこれが当時のベストホテルだったのです。(写真右) 日本~シンガポール間は(シンガポール航空)のジャンボジェットで、シンガポール~クチン、クチン~シブ間は200人乗りくらいのマレーシア航空機で、そして最後、シブ~ムカ間は上記の15、6人乗りのプロペラ機(写真左)でと、当たり前ですが、だんだんと小さくなっていくのが何だか面白く印象深かったのを思い出します。 全て40年前の話なので、各地の町もホテルも飛行場もすべて近代化により、今は様変わりのようです。 初めて行ったときに、社長がお土産にと言ってくれたのが、有名な首狩り族(イバン族)が作った木彫りの人形でした。1体30㎝以上はある結構大きなもので、槍を持ったり装飾品をつけていたりいろいろな格好していてとても興味深いものでした。仕事で行ったはずなのに、初めて乗った小さな飛行機は何だか遊園地の乗り物に乗っているような気がしたし、お土産までいただいて観光旅行のように楽しい出張でした。。勿論、しっかり値決めもして随分儲けさせてもらったのは言うまでもありません。 プロペラ機  今は↓ ムカ空港 今は↓ 豪華冷機大旅社 今は↓ (西 敏)

新加坡回想録(23)クリスマス

かれこれもう35年ほど前の話で、記憶が一部なくなっていたので、娘に連絡して事実確認をして書いています。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 12月上旬ともなると街はもうクリスマスムードいっぱいで、あちこちでイルミネーションがこれでもかと輝いています。特に、LEDが開発されてからは、色合いが微妙に違う複雑なものも出来るようになって、中にはもう立派な芸術作品と言えるものもありあります。 今でこそ日本でもそれぞれの街やお店が競うように装飾を施し、行きかう人の目を楽しませてくれていますが、35年ほど前は今ではもう想像できないくらい何もありませんでした。ところが、赴任先のシンガポールで迎えた初めてのクリスマスはまったく様子が違いました。 街全体がきらびやかに彩られ、特に中心街のオーチャード通りに行くと、そこには見たことない景色が広がっていてまさに眩しい光の海でした。これは、昔、イギリスが統治していたことの影響なのでしょうか。 上の娘が小学校3年生、下の娘が幼稚園の時でした。二人は、日ごろから欲しいと思っているものをいくつか挙げてサンタさんに手紙を書きました。サンタさんの存在については、幼稚園児はまだまだ信じ切っていましたが、姉の方も何となく疑問を持ちながらも確信が持てないような感じでした。その手紙で疑い深く「何頭のトナカイで来るんですか?」などいくつか質問をしていたようです。まだ少し疑いをもちながら。 そこで私は一計を案じました。娘たちの手紙に”英語”で返事を書いて枕元に置いたのです。ところ変わればで、どんな反応を示すか見てみたいと思ったからです。丁度、上の子は英会話学校と家庭教師で英語を学び始めたところでした。勿論、すべては理解できないので、あくまでもサンタさんからの手紙の体で訳してあげました。 やっぱりシンガポールだから手紙も英語で来るんだねと、その時は納得したように見えましたが、クリスマスシーズンであっても暑いシンガポールのこと、「まさかあの服装で来ないよね。アロハで海パンはいて、サーフボードに乗って来たりしてー!」などと話したことは覚えています。 後で聞くと、いつも一緒に遊んでいる友達の家でも、やはりサンタさんから手紙への返信があったけれど、そこには、日本語がローマ字で書いてあったそうです。その子はまだ英語を習っていなかったので、お父さんが気を使ってそうしたのだそうです。この時、娘は、各家庭でそれぞれのパパが読み手のスキルに合わせて対応していることを知って、「やっぱりパパだ!間違いない」と思ったといいます。 上の娘は、欲しいもののひとつに「英語のミニ辞書」を挙げていた。小さいころからこまっしゃくれていて、話す内容も大人びたちょっと変わった子でした。我が子ながら面白い子だなと思い、翌日、さりげなく「これ使う?」と言って英語のミニ辞典を渡したらしいです。(らしいというのは私自身はもう忘れていましたが、当の娘の方は、はっきり覚えているといいます。)この時、「あ、手紙見とるな・・・サンタやな?」と思ったそうです。 もうひとつ、シンガポールに行く前の年に、新聞の4コマ漫画で、ある家庭のお父さんが「そろそろプレゼントを置こうかなー」という描写があって、「やっぱりそうなんだ!」と思ったそうです。どおりで疑っていたわけです。 こうしてみると、子供たちも、周りで起こる様々なことから判断していろいろと考えを巡らせ、学びながら成長していくものだということよくわかります。3歳下の子は、ただただお姉ちゃんの言うことを信じてついていくだけだったようですが、もしかしたら、姉から聞いたことを自分の同級生に自慢げに話していたかもしれないと想像するのも面白いですね。 (西 敏)

新加坡回想録(22)BBQ

日本のマンション暮らしでは、休日に行くキャンプくらいでしか楽しめなかったBBQが、シンガポールでは、日常生活で楽しむことができました。日本人が住むフラット(マンション)には、大抵、プールがあり、プールサイドにはBBQピットが備わっていました。 仕事上の付き合いでも特別に親しくなった人とか、個人的な知り合いで現地を訪れるお客さんたちも、大抵の場合自宅に招待していましたが、このプールサイドでのBBQはとても喜ばれました。当地では、週末のこのような日頃の激務を癒せるシーンが一般的で、牛肉は、いつもオーストラリアから特別に取り寄せた上等肉でした。 実は、畜肉関係の某有名会社がシンガポール支店を開設する時にお世話をした関係で、同社がオーストラリアに所有する牧場から特別に調達する肉を(有料ですが)いつも分けていただいており、これが超美味!柔らかくてとても美味しく日本で食べる豪州肉とは全く違う味でした。 一般的に日本食は高価でしたが、これといって食べられないものは殆どなく、世界中の料理が食べられる環境でした。因みに、アメリカから輸入されるカリフォルニア米も美味しく、食に関してはいろいろと贅沢をさせていただきました。 (西 敏)

新加坡回想録(21)家族旅行

シンガポールに住んでいて家族旅行をするということになると、最も手軽で簡単に行ける先はマレーシアです。都市国家であるシンガポール国内は、東西の距離が車で2時間、南のビジネス街から北へ一時間も走ると最北の町ウッドランドに到達し、その先は地続きのコーズウェイを渡るともうそこはマレーシアです。ですから、国内旅行というのはありえません。 マラッカ マラッカは、マラッカ海峡の由来となった港町でマレーシアの最古の都市です。オランダ植民地時代の名残をあちこちに見ることができます。西洋の影響を受けたレンガ造りのオランダ広場やサンチャゴの砦など、カラフルで異国情緒にあふれているのが見どころでしょう。 世界文化遺産にも登録された建物が多く残る歴史の詰まった重要エリアと言えます。ランチにはマレーシアと中国の文化が融合した家庭料理「ニョニャ料理」がおすすめです。 ティオマン島 マレーシアのパラダイスとして注目される、リゾートアイランドがティオマン島です。あまり知名度が高くないため手付かずの自然が魅力で、コバルトブルーの海とサンゴ礁、ホワイトサンドのビーチ、美しい緑が生い茂る楽園です。シンガポールには良い海水浴場がなく、きれいな海を求めるならマレーシアかインドネシアということになります。 陸路では、シンガポールから車で3時間ほど、そこから約1時間フェリーで移動すればそこはリゾートアイランドティオマン島!シュノーケリングやグラスボトムボートなど、マリンアクティビティの宝庫です。 飛行機はチャーター便のみが就航しており1時間ほどで行けます。私たちも3家族で一緒に行きましたが、飛行機は16~20名ほどしか乗れない小さな飛行機でした。 (西 敏)

新加坡回想録(20)ワインとの出会いⅡ

ココア視察団一行が帰国した後、この人の言葉が妙に気になって、その後少しづつワインに関する本を読むようになった。ただ、いくら冊数を重ねて行っても、大体は同じ事ばかり書いてあり、自分の求める情報はなかなか得られずに2、3年が過ぎた。 帰国後も、時々は本屋に立ち寄ってワイン関連の本を読んでみたが、結果は同じであった。暫くして田崎真也が国際コンクールでの優勝(1995年)もありワインブームが起こった。シンガポールでのワイン通の一人と出会ってからもう7、8年経っていたが、まだ味がわからず旨いと思えないでいた。 これはもう飲むしかないと思い、片っ端から飲んでみることにした。といっても、高級ワインなど飲める身分でもないのでひたすら安いワインだ。安いワインでも有名な産地がそれぞれのブドウを使って製造しているので特徴はあるはずだと勝手に考えてとにかく数をこなしていく。 日本のワインの取り扱い業者は、海外のワインメーカとそれぞれの契約に基づいて輸入している。大手であっても一社で世界のあらゆる種類のワインを販売しているわけではない。求めるワインを購入するためには、そのワインを専門に取り扱っている輸入業者の販売店に行かなければならない。 それからは、暇に任せていくつものワイン販売店を回って歩くようになった。それと、新しい銘柄がある程度のロットで輸入されると、「試飲会」を開く会社があるのを知り参加してみることにした。試飲会でひとつよいことは、無料で試飲できるワインがあることの他に、有料でも、グラス1杯分だけの価格で安く試飲できることである。 随分長い間、本屋巡りを続けた後、ある日一冊の本と出合った。ワインの性格(バラエティ)を整理する方法として、著者は、世界の代表的なワイン製造国であるフランスの国土を4つの地方に分けて説明していた。原料である 葡萄の性質・性格はその土地の気候や土壌によって決まるが、フランスはこの4つの代表的な性格を説明するのに丁度よい要素を全て持っていたからである。 この本で腑に落ちたというか、まさに目からウロコの衝撃を受けてからは、もっとワインの世界に入ってみたくなった。因みに、その後の1年間で約200種類ほどのワインを飲んだ。勿論、安いものが中心だったが、時々少し値の張るものも試した。このことがきっかけで、私はワインの世界へまずます魅了されていった。 蘊蓄を語ろうが語るまいが、要は、美味しく飲めればそれでいい。そして、自分に合ったワインを早く見つけるには先人の経験を役立てぬ手はないし、自分の好みとの違いも分かる。もうひとつ、ビールなど別につまみがなくて、それだけ飲んで十分美味しい酒もあるが、ワインは料理と併せて飲むのが一番というのが私の結論になりつつある。それでも、まだまだわからないことばかり多く、ワインとは実に奥深い飲み物である。 (西 敏)

新加坡回想録(19)ワインとの出会いI

私のワインとの出会いはシンガポールで始まった。ワインの話で”シンガポール?”と不思議がる方もおられると思うが、勿論シンガポールでは、ワインは製造されていないだろう。赤道直下の国では、ワインの製造に適したブドウは出来ない。 ワインの生産される主な地域は 北緯30度~50度 南緯30度~50度、平均気温10℃~16℃の地域に限られていて、この地域を称してワインベルトと呼ばれている。多くの植物がそうであるように、ブドウにも栽培適地があり、ワイン用ブドウ品種の栽培適地がこの範囲となっているのだ。 5年以上の駐在期間に多くの訪問客のアテンドをしてきたが、その中で特に印象に残る一人がいた。その人は、日本の某チョコレートメーカーの技術者で、シンガポールのココア製造メーカーとマレーシアのカカオ農園を視察に来星していた一団の一人であった。 一日の仕事を終えた後、夕食にと海岸近くのシーフード・レストランに招待した。フレッシュな魚や貝に舌鼓を打っていただいたが、その時、ビールを飲む人が多い中一人だけワインを所望された。「牡蠣にはシャブリ」ときたものだから、ああ、この人も例の蘊蓄語りの嫌な人物かと訝しい思いでいた。 大事なお客だからむげにも出来ずふんふんと話を聞いていくうちに、少し違うものを感じるようになっていった。どうも、自分の知識をひけらかしているだけではないような気がして、敢えて意地悪な質問をいくつかぶつけてみた。すると、いかにも技術者らしくひとつひとつ丁寧に解説してくれた。 その中で、一つ気に入った言葉があった。それは、長い歴史の中で培われえてきたワインだから先人の言うことには一理はあるけれど、何も教科書通りに飲む必要はない。”牡蠣にはシャブリ”と言われるのもそれなりの理由があって言われているが、”一人だけが美味しいと感じるワインもある。” ボトルを開けるたびに私もご相伴に預かっていたが、さほどの感激もなく美味しいとも思わなかった。それまでワインを美味しいと思ったことはなく、炎天下で飲むビールが最高と思っていた。仕事の話はそっちのけで、この人にいろいろな質問をぶつけていくうちにワインに対する興味が少しだけ湧いてきた。 ~ワインとの出会いⅡにつづく~ (西 敏)

新加坡回想録(18)中華レストラン

シンガポールには中華レストランが数え切れないほどあります。今は、世界中のどの国でも中華レストランのないところはないでしょうが、とくにシンガポールは多いです。それもそのはず、国民の4分の3が中華系の人たちですから。 観光立国として今や人口の3倍もの外国人観光客が訪れる国ですから、食の文化は発展しています。もっとも、発展と言っても新しい料理ができるという意味ではなく、昔からある伝統的な料理のバラエティが多く揃っているということでしょう。 同僚たちとは、どこの海鮮料理が美味しかったとか、今どこで上海ガニが食べられるとか、いつも情報交換をしていました。そして、休みの日になると家族で行ってその真偽をたしかめ、仕事上のお付き合いにも生かしていました。 ある時、美味しいと評判の中華レストランに行ってみたところ、味が変わっていてがっかりして帰ったことがありました。後で聞いてみると、そこは、シェフが引き抜きに会って交代してから味が落ちたとの話でした。勿論、個人個人好みは違うし一概には言えないのでしょうが、中華料理はやはり香港が世界一で、シンガポールで美味しいと評判をとる店はほとんど香港からシェフを呼んでいるとのことでした。 たまたま、私は食品関係の仕事を担当していたこともあって、シンガポールのほとんどの日本レストランとお付き合いがあり、日本人の板前さんから食に関する情報は入りやすいという事情がありました。今や超有名な和食調理人とゴルフを一緒に楽しむこともしょっちゅうでした。苦労話や裏話もあれこれ聞いたはずですが、正直あまり覚えていません。 同じ材料を使ってもシェフの腕次第で旨くもまずくもなる料理の世界は複雑で奥が深いですね。 (西 敏)