森本剛史君との思い出12~社会人時代・熊野エキスプレス編

森本剛史君は、かつて、熊野人・新宮人に向けてメールマガジン「熊野エキスプレス」を発行していました。ご存知の方も多いと思いますが、ご存知ない方のためにほんの一部をここに紹介したいと思います。 私が運営するウェブサイト「熊野エクスプレス」で、今後新企画として紹介する予定の「我がらの新宮弁講座」講師・城和生さん、同じく新企画「その時、熊野は動いた」の作家・新宮正春さんなど多彩な方々の投稿も出てきます。 ー--------- 限定80部(転載可)年末特別企画号「収穫祭」2003年12月29日 ■熊野エクスプレスは東京発の不定期メールマガジンです。「シングタンク21」という熊野出身のマスコミ人グループが中心になり、新宮出身のライター森本剛史が独断で誌面を編集しています。熊野の話を真ん中において、東京→熊野、熊野→東京、世界→熊野、熊野→世界のコミュニケーションができたらいいなと考えています。なお、編集部に送られてきたメールは無断で掲載しますので、よろしく。 編集長 森本剛史 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ■□ーーーーーーーもくじーーーーーーーーーー■□ ☆★ 1. 編集長の独り言 ☆★ 2.「今年の収穫」←読者ワイワイ18名が参加←豪華版! ☆★ 3. 我がらの新宮弁講座16 付録 ☆★ 4. 風流人まもやんの「熊野上流階級の生活と意見」 Kumano Letter ←←新連載 ■□ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー■□ ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー □■1.編集長の独り言 ■□ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ▼熊エプ21号を発行した後、ふと「今年の収穫」というキーワードが浮かびました。そや、それで特別号を作ったろと、さっそく皆さんに「緊急依頼」ということでメールを出した次第です。僕の「今年の収穫」は、熊エプを発行して面白い人と知りあったり、ネットが広まったこと。2番目は、友人の西クンのおかげで念願のHPを立ち上げることができたこと。3番目にデジカメを購入して仕事で使い始めたことかな。なんと言ってもやはり7月のHPの立ち上げが「大収穫」でしたね。今年は、僕にとって「ネット元年」でした。おかげさまで、HPへのアクセス数が1万を超えました。パチパチ。まだ訪問してくれてない方、ぜひアクセスしてください。http://ryokodo.blog.jp/(※当時のサーバーから移転済) ▼友人のデザイナーの電話で知ったのだけれど、12月上旬のJ―WAVE(FM放送)のジョン・カピラの番組で、我が旅好堂のHPを取り上げてくれたそうだ。アジアに強い、旅本のオンライン古本屋と紹介。今のところPRの効果はまだ出ていませんけど。ありがたいことです。 ▼暮れも押し迫った27日と28日、神奈川県津久井湖の近くの川のそばで、恒例の耐寒キャンプを敢行しました。東京のお燈祭仲間との忘年会で、50を超えたおとっつあんの酒飲み会。今年で8回目。あいにく前日が雪で、雪面の上にテントを張りました。焚き火を囲んで鍋料理、ビール、日本酒、泡盛、ウィスキーで盛りあがりました。仲間の口琴(アイヌのムックリ)の演奏会などもあり楽しかったです。が、狭いテントの中に体を横たえてていると、雪の冷たさが背中を覆い、寝るどころではなかった。 ▼読者の前久保大兄からメールをいただきました。前文を掲載します。 編集長さま いつも楽しいいマガジンをありがとうございます。送っていただきますと、ただちに3部をプリントしまして、弟、妹、母に郵送しております。「熊野エクスプレス」はわたしたち一族に、郷愁と癒しと、熊野人としての誇りと生きる力を与えてくれて います。今では、バイブル的な存在になっております。厚くお礼を申し上げます。このたびは何かを書かせていただこうと思っておりましたが、仕事が忙しくてパソコンの前に座る暇がありませんでした。お許しください。恐らく私以上にお忙しいい方々が寄稿されて、編集されて、このようなムチャクチャに面白いマガジンが発行されているはずです。それなのに私は・・・・自責の念にかられております。これに懲りませずに、どうか来年もよろしくお願い致します。 どうか良い年をお迎えください。 前久保和也 ▼今年もいろいろとありがとうございました。途中ちょいと発行ができませんでしたが、マ、許してください。今後ともよろしくお願いいたします。「今年の収穫」は18本も原稿が集まりました。謝謝深謝。よいお年をお迎えください。来年もよろしく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー □■2 年末特別企画 「今年の収穫」■□ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「今年の収穫」を送ってくれぃ!とみなさんにメールを出したら、わずか15分後に今西兄から返事がありました。その後小竹さんから、新宮さん、青野さんからも・・・。謝謝深謝。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●小竹正美さん/元アルプス電気北京支店長。熊エプ・元北京特派員。 (1) 38年間の会社生活にサヨナラして自由になったこと。職業欄に「無職」と書く快感! (2) 初めて自費出版したこと。送料、宅急便が郵便局より45%安く、あらためて郵政民営化に大賛成。 (3) 新宮高校同期の悪友6人で熊野古道を歩いたこと。霊気を感じながら熊野の神々に御加護を感謝。 熊野万歳! (↑今年はいい1年だったみたいですね。無職ならぬ「無食」になりませぬことを!) ★ ●今西 主さん/日本デザインセンター、博報堂、オリベッティなどでコピーライターとして活躍。今年、何でか知らんが郷里の熊野川上流九重へUターン。「ワン・アンド・オンリー・クラブ」という、ゴルフクラブを九重に作ったこと。家の前、草刈り場の、ワンホールだけのミニコース。緩やかな丘に、穴を掘ってフラッグを立てただけのパー3。30ヤード位で、パターは使わない。 (↑おしゃれやのう。熊野川上流階級の社交場にならんこと祈っています。クラブのブレザーに付けるエンブレムのデザインは、九重名物の「鮎のなれ鮨と九重茶」をデザインしたものなど如何?今度、シングルプレーヤーの、かず坊を誘って行きたいもんです。ところで、クラブ会員権はハウマッチ?) ★ ●新宮正春さん/作家、熊エプ執筆陣。元報知新聞巨人軍キャップとして有名。長島元監督の「影の仲人」として知られている。夫人は水墨画家。 大当たりの年でした。医者と「腹を割って」話ができた夏で、こんなことは初体験。貴重なベッド暮らしとなりました。看護婦さんはすべて美人揃い。小生、縦じまのパジャマを愛用していましたが、看護婦さんにはチェックに見えたかも。小生のヨコシマな心と重なって。ところで、我が子のように可愛がっていたプレイリードッグのサスケが、小生の手術のちょうど一月前に、 まるで身代わりのように天国に召されました。いまだに家のあちこちに残る彼の歯型を見て、家内はよよと泣き崩れています。なかには仕事に詰まって歯噛みした小生のがあるとも知らず。(↑その後お体の具合はどうでしょう? 今年は新宮さんにとって「ベッド」と「ペット」の1年だったんですね。看護婦はどうしてみな美人に見えるのでしょう?) ★ ●城かず坊/ご存知、熊エプの人気コラム「我がらの新宮弁」の執筆者。熊野アサブラ同好会平日会員。後述の「我がらの新宮弁講座」と合わせて堪能して。 収穫・その1 新宮弁講師をハッている私としましては、やはり「方言の大海」にハマってしまったことが、一番の収穫です。熊野川沿いに育ちましたが、ごくごく地元の言葉と思っていたものが、熊野川沿いものかは、奥熊野から高野龍神、畿内を経て中国・四国・九州のみならず、岐阜・長野・伊豆諸島から佐渡に至るまで「全国展開」を見せていたことを発見してビックリ。以下の如くです。 かず坊の「方言トリビア・ベストテン」 1・「げー」と「くろにえる」が新宮と岐阜に(だけ)ある。 2・あいぶ(歩く)が伊豆諸島、伊豆半島にもあった。 3・うめる(風呂の湯をうすめる)と信州でも言う。長崎、福岡、広島では「うべる」、島根では「おべる」 という。 4・がらんぼ(河童)と似た、「がらっぱ」(河童)が鹿児島にあった。 5・佐渡でも「行ってくらんし」、「あののー」と言う。 6・伊豆諸島でも「売ってぇー」と言って、お店に入って行く。 7・おっさん(和尚さん)と静岡、鳥取でも言う。 8・たつ(戸を閉める)が山口・高知・徳島・静岡・茨城にもある。 9・おどろく(目が覚める)と広島、徳島でも言う。 10・きびしょ(急須)は全国的にあり、くちなわ(へび)も西日本全域にあるというのに熊野にはない。 (↑へえぇ、へえぇ、へえぇ!) 収穫・その2 少年野球の教え子が甲子園で4番!(わずか1年の在籍でしたが)。野球関係者にとって、「甲子園」は憧れの大ブランド。エルメスより上を行き、プロ野球より上を行く。しかも4番ですゾ!松井の「ヤンキースの4番」より嬉しかった(埼玉・聖望学園でした)。 収穫・その3 グフッ、ワイや、かず坊や。清原やないデ(急に大阪弁)。あんナー、「なれずし」造ったんや。家の周りに「しくしゃ(山しょうが)」ようけできてナ。こら、なんどせなアカン思て、やったんや。ほいで、食べてみたらヨー(急に新宮弁)。うまいんヤゲ、これが。イケるんやだヨ。これが、一番の収穫かも。 ★ ●河野和憲さん/彩流社編集部勤務。串本高校から桐蔭高校へ。野球部で活躍(?) 今年の収穫は以下のごとしです。 下北沢・白樺書院の外の書棚で、草森紳一「女の魅力百景色① しぐさについて」(ワニ文庫、1990)を、80円で入手したこと。小生、草森さんのものは棚で見つけた際には、例外なく購入するのですが、いわゆる上製本ではなく文庫の草森さんのものを手に入れたのは今回が初めてでした。雑誌「男子専科」と「タイフーン」に掲載していたエッセイをまとめたものですが、カバージャケットと本文には、あの「湯村タラ」のイラストが採用されており、マニア垂涎モノであります。マチガイない! [次点]子母澤寛「新選組異聞」(中公文庫)を200円でゲット。子母澤さんの聞き書きの手管に脱帽です!(こんどは子母澤さんの「愛猿記」を手に入れたい!2004年は申年。小生も申年ですからね。)こんなのでよろしいでしょうか?どうぞよろしくお願いします。 (↑ラッコよ、大事なこと忘れてないかい? 君たちの結婚、結婚式だよ!) ★ ●大下勝巳さん/日本広報協会理事。「おやじの会」世話人として講演で全国を回っている。 ■今年の収穫 熊野古道を歩いた 1年遅れの還暦記念に熊野古道を歩いた。まず7月に、新高12回卒の同期6人で瀧尻王子から本宮大社まで中辺路約40キロを1泊2日で。次いで11月、大門坂から那智高原、大雲取越・小雲取越を通って請川の手前5キロの「百間ぐら」まで、およそ25キロを1日半で。合わせて65キロ歩いた。中辺路では土砂降りの雨と雷の歓迎を受けた。川と化した道(多少誇張ぎみ)を全身ずぶぬれで進んだ。継桜王子のそばにある、とがの木茶屋で一泊。翌朝、囲炉裏を囲んで食べた茶がゆがおいしかった。7時半出発。ほぼ10時間歩いて夕方5時過ぎに本宮大社に到着。 雲取越は、新高22回卒・山岳部OBの尾屋勲さんとの二人旅。実は、独りでは道程に自信がなかったので尾屋さんに頼んで一緒に歩いてもらった。ところが予期せぬことに脚にきた。小口から桜峠への上り坂で、大腿部がつって歩けなくなり、うずくまってしまった。越前峠から一気に800メートル下ってホッとしたのも束の間、こんどは4キロの行程で400メートル上る。 この急坂でバテた。丹沢で鍛えた脚もいうことをきかない。まずい、と一瞬不安にかられたが、そこは尾屋さん。手渡してくれた沖縄産の黒砂糖をほうばり、休憩。屈伸運動をすること約数分。なんとか歩けるようになって事無きを得た。「百間ぐら」から見る熊野の山々・果無し山脈はモヤの中にかすんでいた。私にとって古道は、中学時代にお燈祭りの上り子になって以来の劇的な熊野体験だった。 【注】尾屋勲さんは(有)森の国の代表で、佐野在住。東京からUターン後、無農薬の米づくりや木工を手がける一方、平成14年に自然農法、熊野古道ウォーク、沢登りなどが体験できる自然学校「熊野の自然体験スクール」を設立。URLは下記の尾屋さんの文を読んでください。 (↑大下大兄、忙しいのに)2回も熊野古道を歩くとは元気やね。新宮高校同窓会の講演も評判が よかったですよ) ★ ●尾屋勲さん/新宮市佐野で百姓兼木工製作兼熊野古道ガイドをやっている。熊野自然体験スクールを開校し、ハイキング、山登り、木工、農業などの指導をしている。TEL&FAX:0735-31-5755。熊野アサブラ愛好会会員 今年の収穫というと、まず第一に百姓ですから米作りでしてまだ17回目ですがとにかく今年は雨ばかりで、以前にもこうゆう年がありましたが。虫(稲ツト虫)と病気(穂いもち病)が出まして病気は天候回復を待つしかないのでオテントウさんまかせなのですが、虫は田の草取りの時に手でつぶしましたが、とにかくきりがない。だいぶん殺生をしました。閻魔大王に殺虫罪で、地獄に落とされるのでは。キンチョールの社長よりましで、湯の峰に行かんしと言ってくれるでしょうか?収穫は昨年は豊作でして今年は前年比7割くらいでした。一年食えるので、まあいいかと言うより まだ昨年のお米食べてます。 もう一つど素人が、熊野に修学旅行誘致等のお客さんを呼ぼうと自然学校を始めましたが、なかなか上手くいきません。ただ今年は人とのつながりができ、まったくの夢物語が少し現実味を帯びてきました。とにかく動くことだと思っています。 (↑熊エプ愛読者も微力ながら協力しますよ) ★ ●上野一夫さん/古座在住。熊野の日本狼について、ちとうるさい。熊野アサブラ愛好会会員。 今年の収穫は、飼育していた「オオカミ犬」・・アラスカオオカミ94%が亡くなった件がきっかけで、オオカミ犬「バルト」の追悼をこめて書き上げた「熊野の日本狼」を南紀州新聞に掲載してもらったことです。・・・自分勝手に売り込んだから。 熊野地方に伝わる日本狼の話しを、まとめた長編物だったのですが・・・。 新宮・熊野川の奧の人で日本狼に関する話しを知っている方、ささいな事でもいいから教えてください。大作・・・?「熊野の日本狼」の冊子をお送りします。「あさぶら」を「げたばこ」にしまって夏が来るのを待ちます。 (↑上野大兄、来年「熊野の日本狼」を連載しようかいのう?) ★ ●大川由華さん/新宮で高校時代を送る。「東京で生まれ、新潟→埼玉→長野→宮城→新宮→埼玉と渡り歩いています」とは本人の弁。(前号で宮城県出身と間違えて書いてごめん。正真正銘の東京都出身です)現在、フリーの編集者。主に学研を舞台に活躍。 風邪で寝込んでいるところで、ちょうど先日申し込んだなれ鮨が届きました。思ったより、くせが少なくて少し肩透かし。編集長はどこのお店がお勧めでしょう? (↑オイラ、なれ鮨はだめなんです。かず坊は自分で作れるほど詳しいですよ) ところで、「今年の収穫」ですが。 […]

森本剛史君との思い出11~社会人時代・東京編

シンガポール駐在を経て、東京に勤務することになった私でしたが、忙しさは相変わらずで毎日夜9時~10時まで残業することも多くあまり気持ちに余裕を持てない日が続きました。帰国後は、名古屋の自宅を賃貸に出し、社宅に住んでいました。後、諸事情で神奈川県に住まいを移しましたが、その頃から少しばかり気持ちにゆとりが出てきたように思います。 私は、もともと机に座って新聞を読んでいるような仕事が嫌いで、出来るだけ外に出て客先周りをするのが好きでした。出かける方向が合うと、ついでにちょっと立ち寄って森本君に合うのが楽しみでした。代々木八幡の事務所にも度々会いに行きましたし、小田急線相模原の事務所にも、足柄や海老名やに出かけた帰りによく立ち寄りました。 少し遅めの時間になったときには缶ビールで一杯やりながら、あの、本がいっぱい詰まった部屋で昔と同じように語りあったものです。そのうち、彼からひとつの相談を持ちかけられました。これまで、100か国以上の国を訪問して書いてきた彼自身の紀行文を紹介しつつ、若い人に紀行文の書き方を教えるコーナーを作って募集をかけるためのホームページを持ちたいというものでした。 ホームページ「旅好堂」 当時はまだホームページ制作を始めて間もない頃で技術も未熟でしたが、やりがいのあることだったので喜んで引き受けました。どんなサイトにしようかと意見を闘わせ、その結果、少しずつ形になっていくのがとても楽しく二人で悦に入っていました。彼は顔が広かったので友人たちも協力して素材を提供してくれバラエティに富んだものになっていきました。 こうして出来上がったのが「旅好堂」(数年前閉鎖)です。彼の多くの友人たちからの評判もよくとても喜んでくれました。私も一人の投稿者として自分の旅行記を載せ、娘たちの旅行記も追加してますます家族づきあいが深まっていきました。彼が亡くなったことがショックでこのサイトを一度閉鎖しましたが、後に思い出としてしばらく残すことにしました。 代官山蔦屋での活躍 こんなふうにときどき彼の事務所に立ち寄っていろいろな関心事を話し合うということが続きました。ある日、真剣な顔で、彼はこう言いました。「今まで、長年一匹狼で仕事を続けてきたけど、体力も落ちてくるし仕事の量も減ってきたこともあるし、ある会社の面接試験を受けようと思っている」と。 聞いてみると、今元気のいい会社「TSUTAYA」が代官山に今までにないコンセプトで書店を出す予定で人材を募集しているとのこと。面白いのは、各ジャンルにひとりコンシェルジュをおいて本の選定から構成までその担当コーナーのすべてを任せるというものでした。その旅行部門に応募してみようと思っているんだけど、どう思うというのです。 私は、剛やんからこの話を聞いたとき、これは決まり!と即座に思いました。若い時から世界中を飛び廻り100か国以上を訪れて、それらの国の歴史、文化をはじめ観光情報などを取材した蓄積は誰にも負けないものがあります。その蓄積の大半は頭の中に残っており、彼ならお客からどのような質問・相談があってもその場で即座に情報を提供できると思いました。 剛やん、天職見つけたり!と私は、思い切り彼の背中を押しました。そして見事合格!次に会った時の彼の喜びようはそれはもう大変なものでした。この歳になって少し不安になっていた収入も安定したので、やりたいことを思いきりできる。毎月給料が振り込まれるというサラリーマンの安定感を今この歳になって享受できるとほっとしていました。 「職場を見に来てくれよ」と言われていたので何度も行きました。ときには妻と娘たちを連れて一家総出で行きました。娘たちも彼の旅行記を読んでいましたし、書き方のコツを習いたいとも言っていました。彼は生き生きとして顧客の相談に応じ、標準語ながらちょっとだけ新宮弁のイントーネーションが混じるのを聞いて微笑ましく思いました。 そのうち、テレビやラジオの取材もどんどん増えていって、すっかり時の人、話題の人になりました。そうなると、会社の方も放っておきません。ただのコンシェルジュの仕事のほかにも、併設してある喫茶店でイベントを開いたり、関連の会社で熊野旅行の企画をして剛やんが一緒について行くようなことも始まりました。 彼が多忙になっていくにつれ、なかなか会うこともできなくなっていきましたが、ある日、小田急電車内で偶然会いました。聞くとその日は休みだけど新宿の紀伊国屋まで行くのだといいます。やはり本屋としては大手の代表格である紀伊国屋が今どんな本を揃えているのかなど、要は敵の様子を探りに行くところでした。燃えているなと感じました。 訃報 剛やんの訃報に接したのは、友人から届いた一枚の葉書でした。彼がTSUTAYAに入る前、まだそれほど忙しくなる前、東京近郊に住む数名の同級生の集まりがありました。この集まりも剛やんが率先して企画して始まったもので、ときどき都合のつくものが集まって食事会をしていました。そのメンバーのひとりからはがきが届いたのです。 聞くと、その前年の暮れに手術を受けていたとのことでした。ついこの間まで、あの洒落た書店で大活躍していた彼が突然いなくなることなど誰が想像できるでしょう。呆然として暫く何もできませんでした。小学校1年生のときから、57年間の長い間ずっと付き合ってきた友、私自身の人生にも少なからず影響を与えた大事な友が・・・。 新宮、蓬莱、城南、新高、大阪、シンガポール、代々木八幡、相模原、・・・それまでの思い出のシーンがほんとうに走馬灯のように浮かんできました。今、自分がちょっと体調が悪く気が弱くなっているからなのかどうか、剛やんのことを書き留めておきたいと急に思いたち、この思い出の綴りとなりました。 何だか中途半端な終わり方になりましたが、今回はここまでとしたいと思います。機会がもしあったら、また書くかもしれません。最後まで、拙文を読んでいただき、ありがとうございました。 友よ、ありがとう。 西  敏  

森本剛史君との思い出10~シンガポール2・炒飯編

剛やんと久しぶりにシンガポールで再会して以降も、妻の弟家族や長女の幼稚園のときの先生など様々な友人たちが来星してくれました。国内にいてもなかなか会えない人たちにも、外国にいるからこそ会えるということもあったと思います。 ある日、剛やんから、待望の一冊が届きました。彼がシンガポールで取材し、私がわずかながらも協力したあの一冊「海外食べあるき・ショッピング シンガポール」(1988年10月初版発行・S社)でした。 見ると、あの「幻の炒飯」は、どの高級レンストランよりも、どの一流ホテルよりも大きく、見開き2ページに亘って紹介されていました。やるな!剛やん。やっぱり感性は一緒やった!うれしかった!おまけに、あいつ、協力者として、私の名前まで巻末に紹介してくれていました。 でもこの本はもう、書店で見ることはありませんので、「幻の炒飯」のページのみ紹介したいと思います。 ◇究極の炒飯ここにあり◇ シンガポールに住んでいる日本人の間でつとに有名な幻の炒飯に遭遇することができた。 店の入り口左に炭火のかまどがあり、ここが調理場。痩せたおばさんが煙のなかで大きな中華鍋を握っていた。彼女の細腕の右の力こぶだけは小さなお餅をのっけたように盛り上がっている。鍋から空中に放り投げられた飯が炎と交差する時、ジャッと音が出た。香ばしい匂いが店内に漂う。 おばさんは米の一粒一粒がくっつかないように、しかも米の一粒一粒に卵がまんべんなく絡むように力を込めて鍋をかきまわし、飯を宙に舞い上げる。まるで、炎と決闘しているようだ。声をかけたが、口も利きいてくれない。注文は別のおばさんがとりに来た。 9卓の丸テーブルは全部ふさがり、お客は黙って待っている。その上をふたつの扇風機がゆっくり回っている。奥には神棚があり、その下には油でテカテカ光っているオレンジ色の電話機。隣の食器棚のガラス戸には12枚の茶色に変色したサッカーチームの絵葉書が貼ってあった。 30分たって、大きな皿に盛った3人前の炒飯ができ上がった。カニ肉をはじめとしてシーフードもたっぷりと入っている。口に入れてみると、ふわふわでしかもパラッとしている。口一杯にカニ肉のいい香りが広がった。実に気品のある、この逸品だった。 この店の名前は「榕光」(YONG KUANG)。チャイナタウンを横切るサウス・ブリッジ・ロードからネイル・ロードに入ってカントンメント・ロードの1本手前を右に入ったところにある。左斜め前が広東料理で有名な「マジェスティック・レストラン」だ。 ちなみにこの炒飯のお値段、1人前で10Sドル(標準の3倍)、3人前だと25Sドル。シンガポールで料金が一番高い究極の炒飯である。 「榕光」(YONG KUANG) 31, Teo Hong Rd. 11:00~16:00(無休) (文:ライター・伊藤ユキ子さん) ~つづく~ 西 敏

森本剛史君との思い出8~森本剛史の10冊

2014年12月8日(月)、森本剛史君を偲ぶ会が、彼が生前勤務していた代官山蔦屋書店Garden Galleryにて開催されました。18:30開場で19:00から始まりましたが、会場は彼と親交の深かった人たちで足の踏み場もないほどに溢れていました。誰とでも気さくに付き合っていた彼の顔の広さが今更ながら感じられました。 受付をすませると、「森本剛史の10冊」と題したビラをいただきました。そこには、生涯を旅にかけた森本剛史が勧める10冊の書名が書かれてありました。65年間生きてきて、彼が絞りに絞った10冊の旅に関する名作リストです。既に読んだ本も多いですが、還暦を過ぎたこの歳になって、改めて読んでみようと思った次第です。以下に紹介しましよう。 森本剛史の10冊 1  百年の孤独 ガルシア=マルケス 新潮社 2  ユリシーズ【1】【2】【3】【4】 ジョイス 集英社文庫 3  夏の闇 開高健 新潮社 4  何でも見てやろう 小田実 講談社文庫 5  西江雅之自選紀行集 西江雅之 JTB 6  Ambarvalia/旅人かへらず 西脇順三郎 講談社文芸文庫 7  世界は一冊の本 definitive edit 長田弘 みすず書房 8  罪と罰〈1〉 | 〈2〉| 〈3〉 ドストエフスキー 光文社文庫 9  坊ちゃん 夏目漱石 新潮文庫 10  ブルックリン・フォリーズ オースター 新潮社 教養を身につけるには、古今東西の名作を読むに限る。「百年の孤独」は南米コロンビアが舞台だし、「ユリシーズ」はダブリンの一日の物語、「ブルックリン・フォーリーズ」はニューヨークのブルックリン地区を背景に素敵な変わり者たちの幸福の物語。すべて旅と関連する本を選んでみた。(森本)

森本剛史君との思い出7~社会人時代・大阪編

大学を出ると、剛やんは東京で、私は大阪で就職しました。社会人となって1、2年目は、誰でも仕事を早く覚えようと懸命に働くものです。商社に入った私は、ちょうど石油ショックのころで景気も良くそのせいか残業も多く、会社と独身寮を毎日往復するだけという忙しい日々を過ごしていました。まして東京と大阪なので会う機会はほとんどなく、会えうのは帰省した時くらいでした。 大阪での久々の再会 社会人となって3年半経ったころに私は結婚して吹田市の社宅に住んでいました。ある日のこと、久しぶりに剛やんから連絡があり彼の奥さんを同伴して我が家を訪ねてくるというのです。もちろん大歓迎で再会を喜び合ったのはいうまでもありません。それまでのお互いの無沙汰のすきまを埋めるようにして飲むビールの味は格別の旨さでした。聞くと、新婚旅行を兼ねて再び世界一周の旅に出る直前でした。相変わらずの行動力で学生時代と少しも変わらない若々しさにまた刺激を受けました。 久しぶりの再会を喜び、二人を送り出してからまもなくして私の人生においての大きな波がやってきました。それは、勤めていた会社の合併と義父の経営する会社の倒産、そして義母の難病罹患でした。とてつもない大きな波が一挙に押し寄せてきたのです。自分の勤める会社が吸収合併されて、首切りが始まり全社員の10分の1しか残れないという状況の中、明日の生活に不安を抱えた毎日でした。 残れる確率が10%という戦々恐々とした日々を過ごす中、一人二人と去っていく同僚たちを見ながらさて自分はどうしたものかと考えていました。まだ20代だったので、年配の社員より少しは可能性はあると言われましたが、団塊の世代で景気のいい時の大量採用により同期入社の社員も大勢いました。そのうち私にも、ある大手酒造メーカーからサンフランシスコに出す新しい事務所の駐在員を探しているのでどうかという話が舞いこんできました。 この話は学生時代から抱いてきた夢を叶えられる非常に魅力的な話でしたが、種々の理由から断念しました。また、義父からはこの際、自分が経営する会社へこないかという誘いがありましたが、考えた末これも断りました。結局は、最後まで10%の確立にかけてみようと、もし駄目なら、言葉は悪いけれど日雇い人夫をしてもいい、何でもやると開き直って心に決めると何だか胆が座った感じで少し落ち着きました。ただ、妻は自分の実母の病のこともあったのでもっと苦しかったと思います。 結果は、何とか残留組に入ることができ、新会社の名古屋支店勤務が決まりました。しかしほぼ同時に、義父の経営する会社が倒産し、義母の難病にかかっていた高額なヘルパー代が払えなくなりました。致し方なく、妻が母親の看病につくことにし、当時1歳だった長女を新宮の実家に預かってもらうことにしました。一難去ってまた一難、ふたつの会社の倒産、重病、転勤、別居と続きましたが何とかなると思うほかありませんでした。 大阪を出るとき、妻と「この三重苦を乗り越えられたら、その先にはきっといいことがあるから!」とくじけないで頑張ることを誓い合いました。親元とはいえまだ1歳だった娘は元気にやっていけるだろうかと心配はつきませんでしたが、妻も母親の看病によく頑張ってくれました。 ちょっと自分の話しが長くなり、剛やんの話が出てきませんが、この頃は、旧交を温める余裕がなかったからかもしれません。しかしこの名古屋転勤がきっかけとなってまた、意外なところで彼と再会することになるのです。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出6~大学時代・教育実習

こうして森本君と私は、高校時代まではよく顔を合わせて一緒に何かをするということが多かったですが、大学に入ると会うことすらほとんどなくなりました。自宅から通っていた高校までの生活とは違い、大学に入るとまずはそれぞれの土地での新しい生活に慣れなければならない。会う機会と言えば、お互いがたまに帰省したときくらいになりましたが、久しぶりに会って近況を報告し合うのも楽しいものでした。なかでも忘れられないのは、私が城南中学校で行なった教育実習でした。 教育実習 私は、かねがね英語を使う仕事、海外へ行くチャンスのある仕事をしたいと思っていました。とりあえず教員免許を取得しておこうと思い関連の単位はすべて取得していました。3年生の時に教育実習があり、実習をする場所は自分の故郷でもよいということだったので、迷わず自分が卒業した城南中学校を選んだのです。 久しぶりに、自分の母校にやってきて英語を教えるということは何だか不思議な感覚でもあり、また楽しいことでもありました。教えた生徒の中には、自分の弟や剛やんの弟(現新宮市観光協会専務理事)もいました。実習では、英語が苦手な生徒に、ちょっとした関心を持って取り組めば、それほど苦労しなくても楽しく覚えられるコツを伝えたく思い実践しました。 その頃、剛やんの家(森本薬局)では、AFSの交換留学生としてアメリカから新宮にやってきた女子生徒を受け入れていました。名前は、Pamela Ann Napierさん=パムちゃんで、剛やんの妹さんが同級生でいろいろと彼女のお世話をしていました。ふと思いついて、このパムちゃんが学校にきてくれたら、生徒たちもいい体験ができるのではと思ったのです。 頼んでみると、快く引き受けてくれました。ある日の放課後、私は学校の図書館を借りて、パムちゃんと生徒たちとの懇談会を開催しました。パムちゃんは、さすがに交換留学生で、社交的でいろいろと生徒たちに話しかけてくれましたが、生徒たちは恥ずかしさもあってなかなか話ができないでいました。生徒の殆どが外国人と初めて話をするという状況だったので無理もありません。前もって質問を用意して練習しておくなど、もう少し準備をしておけばよかったと思いました。なにせ、実習期間が2週間だったので、その時間がなかったことが残念でした。 その後も、パムちゃんとは、森本きょうだいと一緒に海に泳ぎにいったりと、自分も楽しいひとときを過ごしました。昔も今も、新宮では外国人を見かけることは少ないように思っていましたが、熊野古道が有名になってからは、訪れる外国人が増えて少しは出合う機会も増えているようです。若い人は外国語を身につけてどんどん世界へ進出していってほしいと思っています。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出5 ̄高校時代・英会話

蓬莱小学校、城南中学校と進み、森本君と私は当然のように新宮高校に入学。市内ではあるが少し距離があったので自転車通学ということになった。このころになると、将来の進む道も少しは考えるようになるものだろうが、奥手というか子供だったのか私はそれほど真剣に考えたことはなく、ただ漫然と英語を生かせる仕事につきたいと思うようになっていた。 英会話 小さい頃、父親に教えてもらったことはたくさんありましたが、将棋のほかに特に興味を引いたのがA、B、Cという見られない文字でした。何故か興味を覚えた私は、比較的早くアルファベットを覚えてしまいましたがその後何をどうすればよいのかわからずにいました。小学校6年生になってようやくそのチャンスが巡って来て、町の英語塾に通うことになったのです。 これが何故か楽しくて、当時学校で借りて読んでいたシャーロック・ホームズもいずれは原書で読みたいと思い始めていました。後に、Sherlock Holmsを英語で読むことが実現し、更にはホームズが住んでいたことになっているロンドンのベーカー街221bを訪れさえしたのです。塾の石垣先生(実は高校3年の時のクラス担任でもある)もちょっと変わった面白い先生で益々英語に魅かれていきました。 剛やんは、私よりももっと早く目覚めて英語に強い関心があり、当時、有名だった松本亨のラジオ英会話を勉強していました。リンガフォンとかの専用テープ(当時はCDではなくテープやソニックシートが一般的だった)もありましたが、高額でとても手に入る代物ではありませんでした。その点、NHKのラジオテキストは数百円だったので小遣いでも買えるので、よし僕もと思ったのです。 外国に行ってみたい、英語を不自由なく話せるようになれば外国人と何でも語りあうことができると、他の勉強はさしおいて英語だけに興味が集中していたころでした。例によってまた剛やんの登場です。 高校ではESSに所属していましたが、学校内では外国人と話す機会は皆無でした。高校のすぐ近くにテレジア教会かあり、それに隣接して幼稚園がありました。そこに教会があることは知っていましたが、信徒でもない自分が教会に足を踏み入れるという発想はゼロでした。そこが、剛やんの発想の違うところで、外国人の神父さんがいるのだから行けば英語で話しができるので利用しない手はないというのです。(写真はESSメンバー。真ん中が森本、左が私) これまで彼の言うことをいろいろと一緒にやってきて楽しいことは多かったけど、後悔するようなことはありませんでした。こうして教会通いが始まりました。土曜日だったか、日曜日だったか、数人のグループで毎週通うようになると神父さんもわれわれの訪問を快く迎えてくれました。今なら幼稚園児がやっているようなことを私たちは高校生になって始めたのです。 当時、その教会には、イギリス人のベテラン神父さんとアメリカ人の若い神父さん(多分修業中)の二人がいました。行くとまず、聖書に書いてあることの勉強を少しして、あとは会話をしたりゲームをしたりで楽しい時を過ごしました。手と膝をたたいてリズムをとりながら、自分の役割名と誰かの役割名を続けて言う「大統領」というゲームがありました。名前を言われた者は、即座に反応して同じように言わなければいけないというものでした。 日本語でもあるこのゲームの役割名を英語に変えて省略したものを用いました。大統領は「President」なので、略して「Pres」、書記は「Secretary」なので「Sec」というように。ちょっと頭を使うようで難しいと思うかもしれませんが、要は、慣れの問題でした。そうやって、日頃外国人と話すというチャンスがなかなかない新宮の町で、全く新しい世界が始まりました。 時には、若い神父さんと一緒に電車に乗って遠出して(阿田和だったと思う)、ボーリングをしたこともありました。このようにして高校時代もやっぱり剛やんと関わりながら過ぎていきました。この神父さんとの付き合いで、自分の英会話能力が向上したとは思いませんが、少なくとも、外国人と面と向かって相手の目を見て話をするというある種の度胸のようなものは確実に身についたように思います。怖気づくことがなくなりました。 英会話の方は、中学生にあがった頃から、剛やんがやっていたラジオ英会話(松本亨先生)、その後テレビ英会話(初級が田崎清忠先生、中級が同時通訳者で後、参議院議員となった國広正雄先生)と移り、続けて受講していました。後々社会人になって貿易の仕事で英会話が必要になった時、この頃に覚えた例題の決まり文句がすらすら出てきたのには驚きました。やはり無駄ではなかったと思いました。そこそこしゃべれるようになったのは、剛やんからの刺激のお蔭だと思っています。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出4~中学校時代・授業で先生をいじめる

授業で先生をいじめる(「いじる」のほうが正解か?) 私は好奇心が強くどんなことにも興味があったので、学校の授業自体は嫌いではなかった。ただ、家に帰ってからの予習や復習が嫌いでまずしたことがなかった。自由に好きなことができる時間がなくなるからだ。その代わり、成績が悪いと言われるのも嫌だったので授業中は集中して真剣に聞くことだけは実践していた。(いじめることになるN先生から授業中の目つきが鋭いと言われていた) ある日、剛やんがやってきて、「とっちゃん、ちょっと面白いことを考えたんやけど、どうやろ?」という。「なに?」と身を乗り出す私。今度はどんな提案か興味津々で聞いてみるとそれは、これまでにはないちょっと変わったものだった。国語のN先生の授業の時に、数名で質問攻めをすれば、1時間のその授業を潰せるのではないかというものだった。要は、真面目な生徒を演じながら授業の邪魔をしようという魂胆なのだ。 丁度その日の時間割に、N先生の授業が入っていたのでさっそく実行に移したのです。授業が始まってすぐに、剛やんがまず、「先生、前回の授業についての質問があります!」と手を上げた。このように、受け身ではなく自分から積極的に質問してくる生徒を特に評価している先生だったので、もちろんこれに答えて熱心に説明を始めた。ある程度、やり取りが進んだころを見計らって今度は私が手を上げて意見をいう。この辺りは阿吽の呼吸というやつだ。同じように、次は例の森君が続ける。 この時の授業内容は、「・・・は」「・・・が」などの助詞についてであった。(60年近く前の話だが、まだ覚えている!)「断定の助詞はどれか」という話題で意見を言い合った。これを繰り返して結果は大成功!とうとう新しいところには進めず授業をまるまる潰した結果になったので、3人は英雄気分で大満足!今なら、ハイタッチというところだろうか。先生には少し気の毒なことをしたが、若気の至りで反省しつつも、一方で忘れられない楽しい思い出となっている。その後、何年経ってもこの話題を出してはそのたびに大笑いした。(今の時代なら逆いじめで問題になりそう) これまで、いろいろと彼の提案したアイデアに乗ってきたが、今回のようないたずらっぽいものはこれが最初で最後だった。その先生に恨みとかがあるわけではなく、ただ、面白がって、ほんとうにできるかどうか試したいという軽い気持ちなのだ。そしてこのイタズラが、職員室では、あのクラスは真面目で熱心な生徒が多く素晴らしいと評判をとったのだからわからない!きっと読者の中にも同じような経験があるのではないだろうか。 私は、このような遊びを含めたすべての行動のアイデアが、彼のどこからどうして湧いてくるのかを考えてみた。結論は、彼が読んだ様々な本から来ているのではないかと思っている。彼は本好きで、どこに行くにもいつも片手に本を持っていた。それに私と会うと、いつもまず最近読んだ本の話をした。このことは学生時代から社会人になってもずっと変わらなかった。 森本君が世界一周の旅に出たのも、小田実の「何でも見てやろう」がきっかけだったし、まさにその精神で、100か国以上もの外国へ出かけていって何でも見てきたのであろう。森本剛史を作り上げたのはまさしく「本」だったような気がしている。もちろん、本を読んでも理解力と吸収力とが必要であるし、それを実戦に活かすことができるかどうかはまた別の能力が必要であろう。旺盛な行動力とその活かし方に秀でていたのが森本剛史だったと思うのだ。 小学校時代の話に戻るが、私は本を読むことよりも体を動かす方が好きな子供だった。放課後はほとんど毎日、ソフトボール、それもクラスのチームと別の草野球チームに所属していた。人数が集まらないときは相撲だった。栃錦と若乃花が活躍した栃若時代の真っただ中だった。クラスの番長で体の大きい原君とはいつも勝負していた。コンクリートの階段の角におでこをぶつけて3針縫う羽目になった、しかも原君と私と同じ部分をお互いに一度ずつ。 読んだ本の冊数では絶対に完敗している。 ~つづく~ 西 敏    

森本剛史君との想い出3~中学校時代・クラブ活動

森本君とは、小学校4年生から別のクラスとなり、中学校でまた一緒になったりしたが、家が比較的近かったこともあり会いたければいつでも会えた。お互いに他にも新しい友達ができ、常に一緒にいたわけでなかったが、何かあると声がかかるという関係はずっと続いていた。今回は中学時代の話である。 クラブ活動 城南中学校へ進んでからは、お互いにクラブ活動に力を入れるようになり、会う時間は減っていった。森本君はバスケットボール、私は野球に夢中になった。その昔、新宮高校野球部は甲子園で”古豪”と呼ばれた時期があり、高校野球ファンには平安高校や北海高校と並んで全国でよく知られていた。そんな過去の栄光もあり、練習といえばそれは厳しいものがあった。 毎朝、5時過ぎに近くの小高い山「蓬城山」に集合して、山道の階段を何十回と上り下りして走る。別の日には、大浜に集合して砂浜を1時間ほど走る、走る。私は身体はそれほど大きくはなかったが、運動神経には少々自身があり、小学校の少年野球(実はほとんどがソフトボール)では常にピッチャーで4番だった。意地もあって、1年生の春から毎日の猛練習に耐えて抜く覚悟でいた。 そんな頑張りにも限界があり、半年後の秋に実施された健康診断で非情な結果が待っていた。新入部員の1年生(20名くらいいたと記憶している)のうち私を含め9名が全員、急性腎臓病と診断され、即クラブ活動を中止せざるを得なくなった。これ以上やると本来の勉学に差しつかえるというのが理由だった。こうなると本人よりも親が反対する。こうして甲子園への夢は絶たれた。 昭和33年、長嶋茂雄が颯爽とプロ野球界に登場し、その大活躍で日本の全国民の目をひきつけていた。そして、新宮高校の前岡投手はあの金田投手の再来といわれ一世を風靡したのだ。甲子園で流れる校歌も素晴らしいなどと持ち上げられたりもした。そんなこともあって、地元の野球少年はみんな憧れをもって野球部に入り、練習がどれだけきつくても音を上げず、甲子園を目指して懸命について行ったのだった。しかし残念ながら前岡投手はプロではその才能を発揮することができずやがて忘れ去られていtった。 急性腎臓病、若年性高血圧症、ネフローゼ症候群などと診断された私は、尿にタンパクがたくさん出てしまう結果、身体のあちこちにむくみが出るようになった。向う脛を指で押すと、押した部分だけペコンとへこんで暫く元に戻らないという症状が典型的だった。以後、食事療法として塩気のものを食べられずに嫌な思いをしながら悶々と時を過ごした。 そんな状態が半年以上続いて、少し良くなった頃、運動好きだった私はめげずに今度は卓球部(野球部よりは少し軽めで楽だと思った)に入り卒業まで続けた。森本君はバスケットを続けていて、同じ体育館だったので、「おー、やってるな」と時々確認し合うような感じだった。ただ、クラブ活動に専念するあまり時間的な余裕がなくなり、小学校のときのようにいつもつるんで歩くということはなくなっていた。 天文部創設 そんな忙しい日々を過ごしていたある日のこと、剛(たけ)やん(みなずっとそう呼んでいた)が、当時城南中学校にはなかった天文部を創りたいと持ちかけてきた。そういえば、一度、校庭に天体望遠鏡を据えつけて、夜、希望者に星を見せるというイベントがあった。たしか、土星の輪っかがかろうじて見えるなどと騒いだことがあったような気がするがはっきりとは思い出せない。 思うことを何でもやってしまうのが剛やんの得意とするところ。提案してくることが何故か私にも興味のあることが多く、ついそれに乗っかることになる。結局、もう一人、クラスメイトの森誠君を加えて3人で城南中学天文部を結成!当時、森君の家が相筋というところにあり、町の灯りからはちょっと離れて夜になると真っ暗になる場所だったので、夜空の観測にはもってこい。徹夜して、星の移動写真を撮ったりした。 星の移動写真を撮る方法は、三脚にセットしたカメラのレンズを空に向け開放(バルブ)にしておいて、学生帽で蓋をする。一定の時間ごとに学生帽の蓋をさっとはずしてまた閉じるという原始的なやり方だった。これが結構うまくいったので、市が主催した何かの展示会に、太陽系の惑星の位置模型を作り応募した。冬場の徹夜観測は凍えるほど寒いので、あまり痛くない柔らかめのボクシンググラブをはめてお互いがプロボクサーの真似事をして暖まった。 部としての活動は結局大したことはしなかったが、何せ「無」から「有」を作ってしまうところが森本君の行動力の凄いところ。今、城南中学校に天文部はあるのだろうか? ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出2~ブラジルに渡った1年5組の級友

2011年秋、故郷新宮で合併のため間もなく閉鎖となる蓬莱小学校の同窓会が開かれました。卒業以来ちょうど50年になる年で初めての同窓会でした。幹事から開催の連絡を受けた私は、閉校と言う言葉に寂しさを感じながら、一も二もなく参加を決めました。 閉校に伴って発行された記念誌「ふじだな」には、森本剛史君が書いた文が、卒業生のメッセージとして掲載されていました。彼は、東京でトラベルライターとして活躍する先輩の一人として新宮高校でも公演を行ったこともあり、原稿の依頼がいったものと思われます。 内容はブラジルに渡った1年5組の級友についてのエピソードでしたが、当時、遠くアメリカやブラジルへの移民団が新天地を求めて海を渡ったことが思いだされます。旅立ちの日、クラスの仲間が新宮駅まで見送りに行きました。幼な過ぎて移民と言う意味がよくわからないまま、ただ友とのわかれが寂しかったものです。 私自身は、数か月後にブラジルに渡った女の子から一通の手紙を受けとりました。大半は忘れてしまいましたが、「お元気ですか?ブラジルでは、お父さんのことを「パパヤ」お母さんのことを「ママヤ」といいます。」と書かれた言葉だけは今でも鮮明に覚えています。大きく乱れた子供の字でしたが、友と別れた寂しさが滲み出ていました。 森本君の書いた文章の最後の部分で親しかった友人として私の名前が紹介されていました。このことは彼から直接聞いておらず、見つけた私の姉から知らされました。仲がよく小学校から高校までずっと行動を共にしていたことの表れだと思います。ここでは、その文章をそのまま紹介します。 ー--------- ブラジルに渡った1年5組の級友 蓬莱小学校 昭和35年度卒業生 森本剛史 「俺よう、来月ブラジルへ行くんや。」蓬莱小学校校庭で、三角ベースの野球を楽しんでいたときだった。1年5組(担任は、榎本玲子先生)の同級生、堀切君が突然こう言った。「移民やろう?」と僕は切り替えした。「うん、家族全員で神戸からな。ブラジルのサンパウロへ行くんや。」昭和30年代初頭のことだった。 熊野地方は、明治時代から移民が盛んだったので、堀切君が突然地球の裏側へ行くと言っても、それほどびっくりすることではなかった。まわりを見渡せば、どこそこのいとこが、ブラジルでコーヒー栽培をして大成功しているとか、という話をよく聞いていた。 1976年、新婚旅行を兼ねて9か月間世界一周をしたとき、サンパウロに立ち寄った。日本人街を歩いているときに、ふと堀切君のことを思い出した。そうや、彼が移民でやって来たのはこの街や。僕はさっそく和歌山県人会へと足を伸ばした。たくさんの和歌山県出身者がサンパウロに住んでいたので、県人会館も立派な建物だった。 県人会館で事情を説明し、名簿を見せてもらったが彼の名前はなかった。担当の人は、それなら「串本」という日本食レストランへ行って聞いてみたら。あそこのおばあちゃん新宮の出身と聞きましたから」と言ってくれた。 「串本」で久しぶりの和食を食べ、店を切り盛りしていたおばあちゃんに堀切君のことを尋ねて・・「堀切ねえ、聞いたことない名前やねえ。それやったら新宮出身で故郷の人脈に詳しいAさんのとこへ行ってみたら、どうかいのう。」とアドバイスされた。 結局、4軒の熊野出身者のお宅を訪ねた末に、彼の勤務先がわかった。サンパウロ最大の青果市場の中の花屋さんで働いているという情報だった。その翌日、僕は市場に向かった。彼は僕のこと、覚えてくれたるかいね。ちょっとしかクラス同じやなかったさか、多分僕のこと知らんやろね。そう思いながら市場に行くと、が~ん、市場は休みの日だった。翌日早朝、サンパウロからイグアスの滝に飛ぶことになっていたので、結局彼とは会わずじまい。でもいつかは会えると信じよう。 もうひとつ、多分蓬莱小5年生のときだったと思う。担任は南良一先生だった。クラスメートの下部さんが、家族でロサンジェルスに渡った。彼女は阿須賀神社の近くに住んでいた。 ロサンジェルスにグルメの取材に行ったときのことだ。高校時代のクラスメートがロスに住んでいて、彼に連絡を取り久ぶりに旧交を温めた。彼と話していると新宮人で蓬莱小学校出身の女性を紹介してやるということで、会ったのが下部さんだった。何たる奇遇。小学校時代はふっくらとしていたが、実際の彼女はほっそりとしていて、美人になっていた。 蓬莱時代の友達の話で盛り上がったが、僕のことはほとんど覚えていなかった。でも、僕の実家の前の山中善行君のことはよく覚えていて、少しがっかりした思い出がある。 僕は還暦を過ぎてはや4年。まだまだ現役で仕事をしているが、仕事の合間の楽しみは故郷の仲間と会うことだ。蓬莱時代の友達では、伊藤忠を定年退職した西敏君、白百合女子高校でフランス語を教えていた稲垣雅子さん、イトーキに勤めていた榎本善行たちがいる。会えば故郷の話。故郷は遠くにありて思うもの。でも蓬莱小学校が廃校になるのはやはり寂しい。 ー------------------------- (これは、森本剛史君がまだ元気だったころに書いた文章で、読むと懐かしさと共に先に逝ってしまった寂しさが募ってくる。) 西 敏 ~つづく~