フランスあれこれ102 セーヌ川にかかる芸術橋(ポンデザール)で恋の誓い

セーヌ川に架かる橋で最も良く知られているのはポンヌッフ(新橋の意味。パリでは最も古く、17世紀初めに建て替えられた時はまさにに新橋でした)。そしてこの橋の一つ下流に架かるのが最も新しい橋でポンデザール(芸術橋の意味。19世紀初めの建造)、ルーブル美術館にちなんで名づけられたようです(写真の背景はルーブル美術館です)。 ルーブル美術館からこの橋を渡ってすぐの所に国立美術学校があり、セーヌの川沿いを少し下ったところにオルセー美術館があります。 橋の基礎は石ですが、本体構造は鉄橋、しかも通路は木材で歩行者専用。ゆったりとしたセーヌの眺めと両サイドの歩道を見下ろす、心休まる橋です。橋にはベンチや花壇もあって、恋を語るのには絶好の環境と言えます。 橋は網目模様の鉄線の柵(金網)です。恋に落ちた二人は、恋の契りとその思い出に南京錠をかけて鍵をセーヌ川に投げ、二人の愛の永遠を誓ったのです。これが人気となりパリ市民は無論、広く海外からも訪れて、南京錠で橋が埋め尽くされるようになりました。やがて鍵の重みが極限に達して一部に破損が出始めたこともあり、パリ市は網目部分を全て撤去することにしました。     丁度この前後に私は旧ユーゴスラビアの旅の途中で同じような光景を見かけました。スロベニアの首都・リュブリャーナの中心街の川を跨ぐ橋の南京錠を。 懐かしい思い出です。

フランスあれこれ101 コンシェルジュの過去と未来

みなさん、「コンシェルジュ」という言葉をご存知ですよね。本来フランス語ですが日本でも帝国ホテルなど一流のホテルの玄関口でなんでも相談・案内人として古くから存在しました。最近では大手のマンション、病院、百貨店、更にはスーパーマーケットなどにまで名前が出てきます。いずれも昔の一流ホテルでの存在感が進化したのでしょう。 一方本家のフランスでは、衰退といおうか消えていくばかりです。一般にコンシェルジュというのはホテルもさることながら、共同住宅の門番つまり管理人のことなのです。ただ日本の管理人と違って住み込みで、共用部分の掃除、新聞や郵便物などの各戸への配達、日常のゴミ出しなどの雑用全般を担当しています。 建物の入り口ドアのすぐ裏がコンシェルジュの住まいで、ワンルームの室料・ガス・電気・水道を含めすべて無料。ただし給料は非常に低いと聞いています。年末に居住者の皆さんから若干の心づけをもらいます。生活は厳しく通常は独身の女性が多いようです。 今から半世紀以上前ですがパリ駐在当時のアパートのコンシェルジュの小母さんには大変お世話になりました。慣れないパリでの生活で色々と教えて頂いたのですが、時にはベビーシッターもお願いしたことがあります。子どもは学生アルバイトのシッターにはどうしてもなじまず、日頃話しかけてくれる小母さんの方がよほど親しみがあったのだと思います。その都度、適当なお礼はしていましたが、ほんとうに助かったものです。このコンシェルジュは既婚者で、夫は近くの鉄工所勤めと耳にしていましたが、ふだんは全く手伝いません。アパート代を節約して老後の貯えに努めていたのでしょうか。 当時耳にしたのはフランス人が少なくスペインやポルトガルからの移民、更にはアフリカ系の移民が担当するようになってコンシェルジュ自体の存在が薄く小さくなっていったようです。 最近は更に技術の応用もあって、住民は自分の部屋だけでなく玄関ドアの鍵も持参するだけでなく暗礁番号、更には顔認証などと進化、清掃などは全て外部の業者任せするなどほとんど解放状態になったと聞きます。その結果環境として結構物騒になったようです。ひどい時は各戸の玄関のドアをぶち破られたとも聞きました。 (本稿に該当する写真などはネットでも見つかりませんでした)

フランスあれこれ100 優雅な船上生活

パリの中心部に近くセーヌ川に繋がる運河、かつては物流の一大拠点でもあった船溜まりに船上生活を楽しむ人々。 先ずは最近のGoogle Mapをご覧頂きましょう。写真は運河に並ぶ平底船(運河専用の小型船舶)ですが、これはその一部だけで、運河の北にあるバスチーユ広場(革命広場)まで約300m位続きます。セーヌ川をノートルダム寺院を少し遡上したところで、かつては物流の一大拠点でもあった港(アルセナル港)につながる運河(サンマルタン運河)の一角です。 平底船は運河専用で、船底が平坦に出来ています。無論かつては物流専用だったのですが昨今これを住居として水上生活を楽しむ人が増えていると言われます。それもただ住宅の代わりに水上生活というのではありません。優雅な生活を送っている資産家や十分な年金で豊かに暮らす人たちのあこがれだと言います。一定期間の賃貸も可能ですが、自宅を売却或いは賃貸に出して、無期限に水上生活を楽しむために購入する人も少なくないと言われます。物件不足で海外(特にオランダらしい)から購入することも。気に入った街であれば長逗留、或いは季節によって行く先を決めることも出来ます。 右にフランスの運河地図をご覧いただきます。私の印象ではもっときめ細かく張り巡らされています。 一度パリから遠く離れた所で旅行中の水上世活を楽しんでいる人に出会ったことがあります。地図の中央下の”SOUTH”と書かれた辺り(カルカッソンヌ近辺)だったかと思います。西に向かって大西洋に抜けるようで運河の水位調整のドックを待っている様子でした。その時の話では運河を使ってドイツやオランダその他もっと遠くまで行けると聞いた記憶があります。 昨今は水上生活ツアーまであるようです。

フランスあれこれ99 ナポレオンの無念=フォンテンブロー城

1991年(9月12日付)の写真が出てきました。パリの南部に位置する広大な森=フォンテンブローの森にある城館の一角で「白馬の階段」(通称「別れの階段」)と呼ばれる螺旋状の階段です。 さて、ナポレオンの話です。1813年ライプツィヒの戦いに敗れ、パリが陥落、ナポレオンは急ぎフォンテンブローに帰還。パリ奪還を目指すも側近や部下に見限られ、退位を決しました。翌1814年エルバ島へ追放されることになり、側近や近衛兵を前に別れの挨拶をしたそうです。それがこの螺旋階段です。一説では自殺まで図ったと言われるほどの失望であったらしい。 内地の友人から送って頂いた「ナポレオンの戦場」を読んだあとのフォンテンブロー訪問で、この別れの階段に立った時、不思議に私も無念の涙が出ました。ナポレオンの無念を私自身の無念と感じた次第です。 エルバ島に流されたナポレオンはひと時の休養でこのままでは済まされないという思いになったのでしょう。翌年100日天下と言われるパリへの帰還を決行しています。それに失敗して、今度は終身のセント・ヘレナ島への放逐を受けます。南アフリカの西にある完全な孤島です。一説によるとこの地で毒殺されたとも言われますが、享年齢50歳でした。その後遺骨がフランスに帰還、現在はフランス革命の原点でもあるアンヴァリッドに。 (余談)フォンテンブローの森は比較的平坦で広大な森林に覆れています。歴代の王侯貴族の狩猟の地でした。12世紀ころ既に狩りの休憩の館ができていたようですが、16世紀のルネッサンスと共に華やかな宮殿に変化していきます。その上、歴代の王が増改築を繰り返して、多分フランス最大の宮殿になりました。最後はナポレオンが自分の館として愛用、彼の軍事拠点でもあったわけです。 ーご近所にミレーをはじめとするバルビゾン派の画家たちのアトリエが散在します。 (余談2)私説です。ナポレオンは幼少の時から既に戦略にたけており、幼年学校時代の雪合戦の話は有名です。その上軍隊でも次々にチャンスが訪れて昇格していきます。ところが彼の最後は天運に見放され奈落の底に落ちました。彼は天賦の才に恵まれましたが、彼を取り巻く人や時代が変わり、ましてや相手も変わり天候も変わる。こういうちょっとした隙間が重なって天運に見放されたと思います。会社で功績を挙げた人が役員になり相談役になっても現役の仕事に口を挟むのを見てきました。組織は生き物、組織の私物化は死物化だと思います。

フランスあれこれ98 パリの公園(2)ヴォージュ広場

パリで最も古いと言われる公園です。パリ駐在で赴任してまだ間もない頃小さな取引先がこの公園にありましたので、とりあえず顔見せに訪問しました。帰りがけにこの得意先から教えられたのは、すぐ近くにビクトル・ユーゴ記念館(ユーゴ自身が暮らしたという住宅)があるということでした。折角のお話なのでちょっと立ち寄ったのですが超特急で中を見学、と言うより通り過ぎるだけで今回は失礼!という感じでした。私はこの公園の素晴らしい眺めに圧倒されていたのです。 場所はフランス革命発端のバスティーユ広場の近くで大通りから少し入ったところです。通常の公園と異なり実に整然としていて都市計画の模範的な原型と理解できます。東西約150m位の正方形、四方が立派な道路で狭い歩道と三車線くらいの車道(一方通行で駐車可)で、更に四方を囲む統一されたルネサンス様式の建物、その一階にはアーケードがあります。南面北面の向かい合わせに王の館と王妃の館が向かい合わせに建っています。 さて、この公園は元来貴族の憩いの場で騎馬戦の舞台でもあった由。16世紀の中頃アンリ二世がモンゴメリー伯爵との馬上試合で思わぬ事故で他界。(想像ですが槍どうしで交叉した際不幸にも槍先が折れ、しかもそれが王の顔面を直撃したようです。)舞台は一旦取り壊されますが、その後再建され公園の中央付近にルイ13世の騎馬像が歴史の面影を残しています。 私の知っているアーケードですが当時はお店は一軒もありませんでした。確か小型の美術館と高級レストランが私の記憶に残っています。昨今旅行者も増え土産物屋やカフェなどが出来、結構賑やかになっているようですが、雰囲気が壊されていないかいささか心配するところです。

フランスあれこれ97 パリの公園(1)ルクサンブール庭園

パリ観光で、よほどの長期滞在かあるいはついででもない限り公園の見学はあまり予定しないのでないかと思います。今回はサンミッシェルの学生街の一角にある私にとって感動の庭園(ルクサンブール公園)を先ずご紹介させていただきます。私はパリでステンドグラスを習いました。そして古い教会巡りをして多くの作品を見学して回りました。そんな中で訪ねたこの庭園では正直なところカルチャーショックを受けました。 春先のお天気に恵まれた日だったかと思います。この公園、別名で自由の公園とも呼ばれるだけあって何でも自由、芝生の上での日光浴はフランス人の得意。ジョギング、ヨガや太極拳、それにペタンク、チェスやブリッジ、読書は無論そして毛糸を編む婦人。これらを楽しむための特別のコーナーやテーブルが完備。場所柄学生たちの議論、それに割り込む中年の紳士(ひょっとしたら先生?)そして何よりも多いのは老若を問わず仲良く手を繋いだカップル、そして私のように一人でそぞろ歩く寂しげな男女。皆さんベンチは無論使い放題の自由席。 公園の中程にプールがあり、子供たちの絶好の遊び場です。ヨットを浮かべ上機嫌の子供たち、その場で借りることも出来ます。 庭園は典型的なフランス庭園で対照的に配置、常緑の木々や可憐な花のガーデニング。ところどころ木の陰に姿を見せる多くの彫刻ブロンズ像。この公園の一角に「自由の女神」のオリジナル像があります。高さ3m位の小型ですがあくまでもこちらが原型。 公園の一角に古い城館があります。現在これはフランス上院議員会館で現役の議事堂です。日本の参議院議事堂というところです。歴史をちょっと紐解きますと、時代が16世紀に遡ります。後に初代のフランス国王となるアンリ四世(1553~1610)がルネッサンスで財を成したイタリヤのメディチ家から二人目の王妃マリー・ド・メディシスを娶りますが持参金目当てだったのか二人の関係が良くなかった。マリー王妃は気の進まぬルーブル宮殿を出て、ルクサンブール公園のこの地にイタリヤ風の別荘を作り移り住みます。時あたかもイタリヤのルネッサンス、最高の建築技術が導入されたとのこと。その後この邸宅が改修されて上院の議会になりました。

フランスあれこれ96 パリのシャンソン酒場

古い昔を思い出して懸命にネットで調査してやっと見つけました。 (1)”Caveau des Oubliettes“(カボー・デ・ズブリエット=忘却の地下蔵) 場所はセーヌ川の左岸、丁度ノートルダム大聖堂の対岸あたりです。古い建物の地下倉庫への入り口のようなドアを開けて階段を下ります。途中にちょっとした展示ケースがあり、中世の貞操帯やフランス革命当時のギロチンを見て強い衝撃を受けた記憶が鮮明です。この地下蔵は中世の地下牢という事で丸天井、即ち鉄筋やコンクリートではなく石の積み上げでしょう。すぐに感じたのは安全か?地震は?という恐怖でした。入り口でグラスワイン付の入場料を払いました。会場は既に満席、やっと席を譲ってもらって席に着きましたがテーブルなし。どんどん歌唱が続いていて、曲の変わり目に少しの人が出入りできました。そのうち曲によっては観客も立ち上がって合唱です。非常に判りやすい一曲だけ今も記憶しています。 (2) “Au Lapin Agile”(オ・ラパン・アジール) こちらは日本人にも大変人気のある酒場で、パリにおいでになった方の多くは訪ねられたかと思います。バブルの最盛期などは日本からもここを訪ねるツアーがあったと聞いています。場所はモンマルトルの丘の一角、サクレクール大聖堂やテルトル広場の近く。いつも満員大盛況で予約なしでは滅多には入れない。それでも一度飛び込みで入ったのですが、余興で歌手が客席の間を歌いながら練り歩き、時にはちょっとしたタイミングを見て来客のネクタイを挟みでカットするのに当たってしまいました。私ではありません、日本からの同行のお客さんです。翌日ネクタイを買いにショッピングのお付き合いをしました。 (余談)(1)のカボーはローマ遺跡も残るパリ発祥の地の一角でもあり、丸天井を眺めてひょっとしたらローマ遺跡の一部かも?と思った次第です。まだ日本のカラオケが欧州に入る直前だったかと思います。曲によって多くのお客、いや全員が立ち上がって合唱というのは驚きでもあり、カラオケの前触れだったようにも思います。記憶している曲は “Chvaliers de la table ronde, goutons voir si le vin est bon・・・・ ” (2)のオ・ラパン・アジールですがバブルの最中、特に日本人が浮かれていた頃です。イラクがクエートに侵攻、これを機に欧州ではバブルにちょっとした変化が見られました。しかし日本はアジアの時代とばかりバブルに突っ込んでいったと思います。ネクタイのカットは常時のことだったとは言え、時代の変化を知らず遊び惚けている私達(日本人)へのちょっとした注意喚起だったのでは?

フランスあれこれ95 バスティーユの天使

パリの広場と来ると、バスティーユ広場は欠かせません。別名革命広場で、革命以前は牢獄、その前は邸宅、発足は要塞だったようです。革命で民衆が立ち上がった際、アンバリッド(廃兵院)で銃器、そしてこのバスティーユ牢獄で銃弾を民衆が手にしたと言います。フランス革命の発端は1789年のことです。この後牢獄が取り壊されて広場に。 フランス革命は産業革命と並行していて社会構造の大きな変革の流れに乗るものの、宗教、王家、貴族に対抗するブルジョアが台頭、先ずは金持ちの市民が参政、しかし王政復古の矛盾を含んでおり、やがて七月革命(1830)、更に二月革命(1848)、最終的に短期間ではあれパリコミューン(1871)を経てやっと共和制に。実に一世紀近くを要した革命でした。 広場の中央に建つ1830年の7月革命の記念塔は高さ凡そ50m、上には自由の天使(一部の案内書では女神と混同していますが、男性です)が立っています。塔の中には革命で命を落とした人々を悼み慰霊碑があるようです。 半世紀以上前になりますが、初めてのパリに赴任で一度この塔を訪ねました。まだ若かったこともあり238段の階段を上って頂上を目指そうとしたのですが、残念ながら閉鎖中との看板で実現できませんでした。そして現在も慰霊碑の参拝までで塔の上には上がれないようです。 二度目の赴任でこの近くに行った時には新しいオペラ座(国立パリ・オペラ座)が広場の一角に出来ていました。革命200年記念の1989年7月14日完成と言います。その直後一度このオペラ座に参りました。広さ、近代的な建築、音響効果、更には舞台の一角に発声や音楽、更にはストーリーの解説がデジタル画面で表示され、かつてのオペラ座(オペラ・ガルニエ)とは対照的な印象を受けました。

フランスあれこれ94  自由の女神

「自由の女神」と言うと先ず思い浮かべるのはニューヨークですが、いや多分フランスにもあるはずだと考えるでしょう。 実はパリ駐在の最後の頃、我が家はその近くにありました。 パリ市内ではセーヌ川の一番下流となるグルネル橋の下、中の島の西端(下流側)に凛として立っています。右岸を少し下って見える女神の後ろにエッフェル塔が見えました。しかし不思議に思ったことはパリを背中にして下流に向かっています。ふと気が付いたのですが、方向は西、延長していくとアメリカです。ニューヨークを遠望している事になるのでしょうか。   ここでちょっと時代考証をしてみました。まずアメリカ合衆国独立(1776年7月4日)の100周年を記念してフランスがアメリカに自由の女神を贈り、1884年に塔が完成しました。つまりイギリスからの独立にフランスが拍手を贈ったという事です。 そしてフランスに住むアメリカ人が1889年フランス革命100周年記念としてパリに小型の女神を贈ったのです。そのフランスの女神がアメリカを遠望しているのは、イギリス人にとって余り良い気はしなかったでしょう。 日本にも自由の女神があるのをご存知でしょうか。私が帰国したのは1996年でしたが、丁度その頃当時のシラク大統領が再三日本を訪れています。日本もパリに日本文化会館を設立したり、日仏関係は極めて緊密で良好でした。そこでシラク大統領の提案で「フランス祭り」を1998年に東京で開催、その成功に感謝の意をという事でフランス経済界が自由の女神を日本に送ったのです。現在お台場公園の一角(フジテレビの近く)で右手を高く挙げています。私もいささかの関係(お手伝い)をさせて頂いたのですが、胸を張れることは、この女神像が三例目の公式な女神のだという事です。 日本にもアメリカにも、そしてフランスにも多くの女神像があると言われます。それだけ多くの人の心を引き付けているという事でしょう。 「自由の女神」の源はローマ神話“リベルタス”、像の原作者はマルセーユのポワチエ・アングレーム、彼の生地にも女神が立っていると言われます。 自由の女神の話をして欠かせないもう一点があります。ルーブル博物館に入ってすぐの部屋の壁に掲示されている「人民を導く自由の女神」ドラクロワの絵画です。 (以下余談です)この絵の背景は1830年の七月革命と言われています。ご存知の通りフランス革命は1789年。しかしこれはブルジョワによる革命でやがて王政復古、そしてこの七月革命で再構築、更に18年後の1848年には二月革命を経て共和制へと進み革命が完結に向かいます。

フランスあれこれ93 エッフェル塔の眺め

私はこの時季つまり秋のエッフェル塔の眺めが素晴らしいと思います。中でも陸軍士官学校を背にシャンドマルス(戦争の神マルスの野原)を通して見たのが最も印象に残っています。広場の両面の紅葉、青空に聳えるエッフェル塔です。元来この広場は士官学校の練兵場だった訳です。(余談ながらナポレオンもこの学校の卒業生です) 観光客を含め多くの人がこのエッフェル塔を絶景だと眺める場所は反対側、セーヌ川の向こうにあるシャイヨー宮からではないかと思います。(観光写真の多くはこちら側です) エッフェル塔は1889年、フランス革命100年の記念の年に開催された第4回パリ万国博覧会のシンボルとして企画されました。産業の発展、技術革新など社会の大きな変革の時代です。鉄の素材としての活用が大きく伸び、建築は無論、鉄道、道路、中でも橋梁などが大きく発展していました。 ここで登場頂くのは私のフランスでの最初の友人で日系二世の“L.Sさん”です。彼はまれにみる秀才、超一流のポリテクニックを卒業、更に当時最も注目されていた“Ecole Nationale des Ponts et Chaussees”(通称”ポン・デ・ショウセ“で道路や橋梁の建築専門学校)を卒業した建設省の役人でした。彼から色々この分野のことを教わりました。(私とは全くの専門違いです) 元来博覧会が終わったら取り壊す予定だったのですが、今後も残そうという運動と共に、それに反対する動きもありました。無線電波を軍隊が利用するという話が持ち上がって、命拾いしたと言います。 その他もう一つ私の注意を引いたのは、エッフェル塔が自殺の名所だということです。確かに最上階の展望台を含め三つの展望デッキは全て胸辺りまでのフェンスだったと記憶します。当時、経済・社会の情勢によって毎年のように3~10人位の自殺件数と聞きました。(現在はきっとフェンスの補強がされていることでしょう) その後経済発展、更にはバブル経済へ。そして旅行ブームと重なって観光客が激増。エッフェル塔も行列ができるほどの繁盛でした。 そして今ではパリの観光に欠かせない存在です。時代が変われば世の中も変わるという事ですね。でもエッフェル塔の眺めは今も昔も変わりません。