十男記者に社会の洗礼

「末っ子十男」のボクは記者研修を終え、幹部の前で配属希望先を聞かれた。同僚ほとんどが「社会部」「経済部」「運動部」など取材部門を希望していたがボクは「整理部」と答えた。高校時代に新聞部で少し新聞というものをかじっていたので「取材最前線もいいが、紙面を1面から最終面まで作ることができるポジションは整理部(現在の編成部)」と信じていたからだ。 「キミ、なぜ整理部希望なの?」と居並ぶ幹部の一人が聞いてきた。室内でもサングラスをかけ怖そうな人だ。ボクは「九州の取材記者は米国大統領や総理大臣に直接会えません(Y新聞西部本社は当時小倉にあった)。整理記者は1面から最終面まで、内外世界のトップが相手、事件事故事象を一手に引き受け捌(さば)ける花形です。記者手当も最上位と聞きましたので」と恥ずかしげもなく生意気を言うと、幹部らは顔を見合わせていた。 配属は希望通りになった。ボクは「これで親孝行できる」と喜んだ。その時はとんでもない職場ということなど知るよしもなかった。 配属初日、整理部長に挨拶に行った。「あっ!」驚いた。部長席に座っているのは昨日の“サングラスおじさん”だった。両足をデスクに上げたまま(その足が短い)、風体はずんぐりむっくりでまるでちびっ子アル・カポネだ。ボクが頭を下げると部長は「挨拶はええ(不要)、そこで見とけ」とそれだけ。ひと通り夕刊の編集を見てその日は終わった。 翌日、先輩記者のそばに座わらされた。「しばらくは見学だろう」と思った、が大間違いだった。「さあこれを組んで来い」先輩はいきなり割り付け用紙(新聞1ページ大)を渡した。いきなり出来る訳がない、と思ったがその目が怖くて新聞を組む活版職場に向かった。活版担当者は割り付けを見ながら勝手に組んでしまった。ボクはあたかも自分が指示して組み上げたような顔で先輩に見せた。先輩は「よく組んだな。だが今、飛込(最新ニュース)入った。すぐ組み替えてこい、急げ」。再び活版へ直行したが……。 「バカモーン」活版デスクの大声が職場中に響いた。「おまえさん、今、何時と思っているんだ!組み替え時間などあるものか!もうすぐ印刷時間だぞ」とボクを罵倒した。ボクが怯え戸惑っている時、先輩の整理記者がやって来た。ボソボソと何か伝えた後、あの罵倒デスクとすばやく組み替え作業をし始めたのだ。印刷時間に間に合った。 鉛活字の時代で活版職場は油と活字で墨まみれ、初日からボクの手はもちろんネクタイとカッターシャツも真っ黒になった。「これはヒドイところにきたものだ」。その夜、下宿で新しいシャツを取り出しながら、罵声も思い出し、一人うなだれた。 あとで聞いた話。怖いサングラス部長は、あらかじめ先輩記者と活版デスクらに「きょうは吉原という新人にやらせる。よろしく頼む」と内々に頼んでくれていたという。その配慮に驚き、心で感謝した。ずんぐりむっくりアル・カポネと言って、すみません。というよりこの職場の厳しさと温かさを知った日でもあった。

十男 新聞記者になる

 11人きょうだいの末っ子「十男」のボクは高校生時、公務員などを希望する就職コースのクラスにいた。部活動は新聞部。年に3~4回発行する高校新聞を取材、制作していた。新聞を作る楽しさや読者(高校生)の反応に新聞作りが非常に魅力のあるものだと、感じ始めていた。 高校3年になり、担任に「先生、僕は高校卒業後に新聞社で働いてみたいとも思うのです」と言った。 「どんなことしたいの?運転手、バイト?」と先生。 「記事を書いたり校正したり、見出しをつけたりします」とボク。 「そりゃ、大学に行かんとだめだよ。」 「えっ!?」 常識がないといえばそうなのだが、とても新聞社希望者の心得ではなかった。 同学年で友人のAさんがボクの将来の夢を知ると「吉原君、この夏、死んだ気で勉強する気があるなら僕と毎日勉強しよう。国語、社会はまあまあだろうから大学は英語が勝負になるよ」と言う。夏休み、彼がボクの下宿に訪ねてくるようになった。「ともに勉強する」は口実で彼が実質的な家庭教師だった。英語のリーダーや受験テキスト、大学入試のポイントなど細かく教えてくれた。同学年なのにまるで「師弟関係」、特訓は夏休み中続いた。 決して裕福とはいえない農家の十男の父親の進学条件は授業料や生活費が安くつく「国公立、近くの大学」だった。ボクは唯一受験した市立北九州大学(現北九州市立大)英文科に合格した。ボクにはできすぎの大学だ。Aさんはとても喜んでくれた。(※Aさんは一浪後に日本最高学府といわれる大学に進んだ)。 4年後、ボクは大手Y新聞社を受験した。長嶋茂雄大好きがその理由の一つだったかも。幸運にも数か月前たまたま読んだ(ふだんは読んでいない)英字新聞の記事が英文和訳の問題にそっくり出た。合格した。高校時代の夢が今実った。Aさんと大学進学を許してくれた両親・家族ら多くの人に心から感謝した。 (吉原和文) (写真は「高校3年の夏、裏山で勉強ひと休みの筆者=Aさん写す」)

末っ子十男 命名の怪

私は農家の十男。きょうだい全11人の末っ子。長女が生まれて以来、男が十人、私はそのトリ。今なら「テレビ番組の大家族特番」だ。姉兄とは母親父親ほど年齢が離れており、すでに上8人は黄泉に旅立った。 進学時の申請書や会話の時に「十男」と知った時の相手の反応が一番興味深かった。ニヤっとする先生や友達が多かった。「お前んとこ、にぎやかでいいなぁ」と羨む人もいたがそれは少なかった。もし両親が「もう子供作りはそろそろ」と理性的?な判断した折には、今のボクは存在しないので改めて両親に感謝、感謝だ。 昭和23年(1948)暮れ瀕死状態で産まれた。「産めよ増やせよ」の時代から戦後まで産み続けた40歳の母体は耐えられなかったのだろう、羊水が流れ、産声も出なかったという。命はなんとか一週間持ち命名の日、祖父が「顔はあんまり可愛くない(いらぬお世話)し、もし生きたとしてもまともに育たないだろう。しかし、最低限、自分の誕生年ぐらい言えなければ。昭和23年だから「和二三」・かずふみ・でどうだ」と提案した。何ともいい加減な命名だが事実そうなった。 出生届け役の叔父に窓口の人が「和二三」では可哀想です。読みは「ふみ」なので「文」にしたらどうですか」と進言、そして戸籍は「和文」になった。父親の承諾もえずOKした叔父も叔父だが変更させた窓口も役所らしからぬ“越権”だった。  問題は「和文」になった事を肝心の本人に知らせていなかったことだ。当然、自分を「和二三」と信じ小学校に入学した。1年生の1学期の終業式の日。 「吉原君、どうして自分の名前をいつも真面目に書かないの?」と担任女先生。 「えっ?和二三と書いとるけぇ、なんでいけんの」 「あなたの名前ここに書いてありますよ」 先生からもらった通信簿の名前欄を指差した。「和文」とあるのを見て本人は目を丸くした。 「先生、これが僕の名前ですか」 先生「そうだけど・・・・・?え“っ~~ッ?なんで――っ」 今度は先生が目を丸くした。 短い命だろうと思った子が無事に学校に入るまでになったことに産婆さんはじめ親族や集落のみんなも驚いたという。だが自身の正式な名前を知った時の驚きはその比ではなかったと自分では思う。 (吉原和文)

フランスあれこれ(14)7月14日はパリ祭

7月14日はパリ祭です。今までにもテレビなどでご覧になったと思います。朝からシャンデリゼ大通りで盛大な軍事パレードがあり、大統領の閲兵のもと、パレードには陸海空軍は無論、戦車、騎兵隊、更には消防団や看護師などが登場、そして最後を飾るのは退役軍人や外人部隊です。そのさなか空軍の三色旗煙幕が轟音とともに上空を通過します。即ち国を守る集団全てが参加します。午後はエッフェル塔の麓での大音楽祭、更に夜はセーヌ川での花火大会と終日お祭り騒ぎです。 フランス国民にとってパリ祭は特別のもので、この日ばかりはフランス国民の心が一つになります。年中行事となっているストなどすべてを忘れて国を支える人たちへの共感を覚える一日なのです。翌日は一転してバカンスの始まり、南に向かう主要幹線道路に車が溢れ終日渋滞となります。パリ祭を見て、これでひと安心と言うことでしょうか。 ところで皆さん、ご存知ですか?パレードの先頭集団が学生だ!という事を。一見海軍将校集団にも見えるのですがこれがエコール・ポリテクニック(通称ポリテク)と言う最高学府の一つです。しかも理工学部だけしかありません。長いサーベルをもって胸を張って先頭を行進します。大統領の前まで来ると号令一発、高々とサーベルを上げて“頭~左!”と言った感じ。軍国主義の時代を思わせる風情です。この集団の次が陸軍士官学校更には海軍兵学校の学生。こちらは短刀をもっています。 何時の頃かはっきりしないのですが、イラクのクエート進攻、或いはベルリンの壁が取り払われたころだったろうか、いずれにせよ1990年頃だったと思います。この先頭集団、すなわちポリテクニックの先頭リーダーに女性がいたのです。パレードを見ていた人たちから女性だ!と言う声とともに拍手が沸き上がり、「信じられない」「これはジャンヌダルクの生まれかわりだ!」と周囲が騒然となりました。私はそんなに珍しいのかと思いましたが、その後ポリテク卒業の友人から聞いた話では、数年前に女性がポリテクに初めて入学したと言って大騒ぎをした由、その後人数も徐々に増え、当時は例年2~5名くらいの入学があるとのこと。それにしても成績トップならこそ先頭を進むのだという話。フランス人が驚くのも納得です。 皆さんの疑問は「一体パリ祭とは何だ?」でしょうね。それはフランス共和国誕生記念日と言うか建国記念日です。単純に”14 juillet”(キャトーズ・ジュイエ即ち7月14日)と呼んでいますが、1789年フランス革命の発端となったバスティーユ襲撃がこの日なのです。英語では”Bastille Day”です。 ポリテクニックの話を少し追記します。フランスでは高等学校を卒業した後バカロレアという全国一斉の試験を受けて大学入学の資格を手にします。成績に応じて自分の道を進むのですが、一部の秀才は2年間の予備校に進み、再度の厳しい試験に合格してやっとグランデコールに入学します。そのグランデコールの一つがポリテクニックです。大学の授業料は無料ですが、グランデコールの学生は給料をもらうと言います。すなわち公務員としての待遇です。さらに卒業生の大半が官僚や大企業のトップを目指します。日産=ルノーのカルロス・ゴーン前会長もポリテクニックの卒業生です。 もう一つ裏話をお耳に入れます。パリのルーブル美術館の近く、ある日本レストランにミッテラン大統領(当時現役)が隠し子と一緒に現れると耳にしました。可愛い娘さんだとも噂されていました。数年後その娘さんがポリテクニックに入学したと聞きました。今は多分政界或いは官僚として、はたまた一流企業で大活躍していることでしょう。

フランスあれこれ(10)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(III)

2度のフランス駐在も終わり、20年ほど前に日本に帰国しました。叔母さんに最初にお目に掛かり大変お世話になって以来約40年位たっていました。突然柴田さんが私の前に現れたのです。場所は軽井沢です。 私の親友で同じ高校同級生、今も地元に住んでいる友人J.U君ですが、私の帰国以来10年、毎年夏の終わり頃に彼の会社(大阪朝日放送)の軽井沢寮で落ち合って数日を一緒に過ごしていました。今から10年ほど前の軽井沢でのことです。その友人から「今日は社長が来ることになっている」と聞きました。その社長さんの名前が柴田さんと聞いて一瞬ビックリ!まさかと思いましたが、元朝日新聞、パリ支局の経験もあるとの話。高い確率でありうる話、ぜひ食事もご一緒したいとJ.U君にお願いしました。 確かめるまでもなく下宿の先輩でした。暖炉の上にあったあの写真のご本人。フランス語学校のあと一年程トウールの大学に籍を置いていた様子。早速ワインを抜いて、思い出すまま色々とお話をしましたが、私の記憶違いが多くどんどん修正される始末、滞在期間の長さだけではなさそうでした。台所の手伝い、庭の草刈りや掃除、その他色々お手伝いしたことも伺いました。そうした平素の行いから叔母さんが柴田さんを我が子のように慈しまれたのではないかと想像しますが如何なものでしょうか。 結論を申し上げると、私がフランス語学校の事務所で下宿を紹介された折、一番のお勧めとして叔母さんを勧められたこと、これは日本人が来るというので僅か3か月という短期間の滞在にもかかわらず私を迎え入れてくれたこと、そして家庭教師をして頂いたこと、三度の食事で料理の話、チーズの事、ワインの知識など色々教えて頂いたこと、最後にワインのボトリングまで経験させて頂いたこと、すべては柴田さんの品行に魅せられた結果だとその時になって気づいた次第です。改めてお二人に心から感謝申し上げる次第です。「気が付くのが遅すぎる!」とお叱りを受けそうですね。 その後柴田さんについて少しばかり調べましたのでご報告させて頂きます。私より4年先輩、京都大学のあと朝日新聞、当初は社会部で警察廻りを、そしてフランス留学のあとサイゴン(ベトナム戦争時代)、パリ、ロンドン、やがてヨーロッパ総局長、本社の編集局長と栄進、私が二度目のパリに出向く頃は朝日放送役員、お目に掛かったときは社長をされていました。若い頃からフランスやヨーロッパに限らず世界のニュースや人々の暮らし、ものの見方などを紹介、週刊朝日にも連載で掲載したとのこと、更には多数の出版もされています。2013年6月最後の出版「地球の味わいⅢ」を大阪の友人J.U君経由でお送り頂きました。 私の知る範囲でフランス人を魅了した最初の日本人だったと思います。 (柴田さんの写真はインターネットで見つけたものです) 追記=友人のJ.U君から柴田さんに関する追加の情報が寄せられましたのでご紹介します。多分朝日新聞入社後間もない頃かと思います。1970年代から断続的に頻発した大阪釜ヶ崎騒乱の折、柴田さんがドヤ街に潜入して住民と寝食を共にして記事を書いたとのこと、その折の布団の嫌な臭いが忘れられないと言っていた由です。 私の持論ですが光の裏に影がある。日本の高度成長を支えた陰の力の貢献も忘れてはいけないと思います。

フランスあれこれ(9)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(II)

こんな写真が出てきました。5月21日(1964年)とメモされていました。叔母さんの隣には私が座っていました。ご主人が私のカメラで撮影したと思います。そう、叔母さんは私の家庭教師でした。ご記憶でしょうね。週末ごとに学校から作文の宿題が出されました。私が苦心惨憺しているのを見て私の作文を添削してもらった事があります。それを私の字で書き直して学校に提出しました。先生が皆の宿題を手にいつもと違ってげらげら笑いながら教室に現れました。教室の皆も訳も分からず貰い笑いをしたものです。私は何か不吉な雰囲気を感じていましたが、案の定先生が黒板に私の作文を書きだしました。先生曰く「私より先に作文を添削した先生が居られました。」文章はともかく単語が随分間違っているというか、多くのフランス人(特に老人)が間違って書いているものだと言うのです。私はちょっと苦笑いをしていたのでしょうか、多くの人が私の作文と理解したようで私を見つめる人が多かったと思います。でもお蔭で私は多くの人から声をかけて貰えることになり、良い意味で友人を得たという事です。 叔母さんには直接の勉強だけでなく日常の生活でも色々ご配慮いただいたことを知っています。食事の折、料理の名前や材料などを教えて頂きました。例えばチーズなどは毎日違ったものを買って出してくれたと承知しています。 一度セイロンから来たという友人に誘われ彼の下宿に行きました。古い2CV(Citroenの安い車)でしたが、下宿は歴史のありそうな豪華な農家でした。台所に続く大きな酒蔵があって樽からワインをグラスに直接取り出し、しかも次々の樽の味見をしたものです。「公認されているので盗み酒ではありません!」と言う風情でした。何れにせよ立派なワインカーヴでした。このセイロンからの学生、奥さんも子供もいて何となくセイロンの大金持ちか、或いは優雅な外交官だったかもしれません。 週末色々な企画であちらこちらの古城巡りをしました。言うまでもなく、フランスの中でも指折りの観光地、そしてトウールはその中心地ですよね。都度ガイド兼先生の解説付きなのですが私はまだ言葉も良く分からず残念至極。しかも当時は日本語の解説書を持ち合わせませんでした。 ある日叔母さんから今度の週末の昼頃は外出禁止、家にいるように言われました。先生の命令です。当日お昼前叔母さんの親戚の方らしい人やご主人の知人が数名集合。私も呼ばれて裏庭から半地下に入ったのですが、そこがワインの貯蔵庫。10個くらいのワイン樽がありました。先日の農家の樽に比べてはるかに小型でしたが、何種類かのワインの貯蔵庫だったのです。今日はその一部を瓶詰にするとのこと。作業のあと庭にテーブルを出して賑やかに味見のパーティーをしましたね。これも私の滞在期間中の一つの経験として企画してくれたことは間違いありませんね。そして今考えるとこれが多分私の研修終了でパリに旅立つ前の送別会だったのかもと推測します。 丁度この頃気が付いたのですが居間の暖炉の上に一枚の写真が額入りで置いてありました。日本人らしい、しかも私と似た年恰好、無論私ではありません。私はどなたですかと伺ったところ、「前に下宿していた日本人でムッシュー・シバタ」と聞きました。話はこれまででしたが柴田さんと言う名前はずっと私の耳に残っていました。やがて判明しますが、それは数十年後の事でした。その話は次回にさせて頂きます。 東 孝昭

フランスあれこれ(8)下宿の叔母さん(トゥールのお母さん)への手紙(I)

こんな写真が出てきました。日付は1964年4月23日となっています。お世話になり始めて2週間くらいでしょうか。この頃は当然のことながらフランス語を話せる状態ではありませんでした。お世話になった3か月の事を思い出しながら、当時お話出来なかったハプニングをお耳に入れたいと思います。 パリ駐在を命ぜられ、東京羽田からオランダ航空で出発したのはその年の3月末だったと思います。アンカレッジ経由のボーイング707でしょうか。北極上空を通過したという証明書を貰った記憶があります。しかし目的地アムステルダムの天候不良でスコットランドの空港(Prestwick Airport)に予定を変更して緊急着陸、数時間の待機となりました。その後乗り換えも順調でなく結局最終目的地デュッセルドルフに到着したのは予定の翌日、しかもその日は復活祭の休日でした。出迎えてくれる筈の現地の駐在員とも連絡がつかず、空港で電話番号探しで右往左往しました。三日ほど打ち合わせと称して再びオランダに車で旅行、その後やっとパリに赴任しましたが、ホテルに一泊したあと事務所に顔を出したところ、すぐにもフランス語学校のあるトウールに移動するように言われました。学校は既に一週間くらい前から始まっていたようす。事務所のスタッフが列車の時間を調べてくれたり、幸いなことに丁度事務所に来ていた日本人留学生(ガイドのアルバイト探しで来ていた)が駅まで車で送ってくれました。 時間があったので軽い昼食としてサンドウィッチを買って駅の近辺で時間をつぶしました。丁度良い時間だと思って駅に帰ってびっくり!、列車は既に出発した後でした。腕時計が止まっていたのです。さて次の列車は?と調べたところ3時間位あと迄ありません。止むを得ずそれを待って再び駅に戻ったところこの列車は季節列車で不定期の由。更にその次の列車は?2時間後!パリとトゥールの距離は約230km、約3時間。そしてやっとの思いでトゥールに到着したのが夜の9時頃だったかと思います。 さて駅前でホテル探しです。駅頭に旅行鞄を置いて近くのホテルから順番にと思ったのですが、最初のホテルで満室と言われ、満室の場合はその旨の看板がドアに掛かっていることが判りました。どこも全てのホテルがコンプレ”Complet”即ち満室となっています。最初のホテルに戻って途方に暮れていたところホテルのオーナーさんでしょうか、今日は休日だからどこも満室でしょうと言います。何か良い方法?と相談しましたが英語が通じません。ちょっと待てと言って奥に入ったあと中学生くら いの女の子を連れて来て、学校で習っているのだから英語で話してみよといった感じ。結局通じなかったのですが、物置のような部屋を紹介してくれてこれで良ければという事になりました。 さて翌日フランス語の学校へ出向きました。遅れて入学の手続きと下宿の相談をしました。いずれもパリ事務所が事前に申し込んでくれていたものです。紹介された下宿は3軒、お勧めはこの順番ですとメモ付きでした。一日の勉強のあと教わった通りの順番でまず伺ったのが叔母さんのお宅でした。駅前のホテルに預けた荷物を持って参りますと伝えたのですが英語が通じなかったようです。ホテルに戻り、今度はタクシーで叔母さんのうちへ参りましたが、玄関に鍵が掛かっていました。またしても旅行鞄を玄関に置いてご近所を散策して戻ったところ今度はその鞄がなくなっていました。半分ひやひや、そして半分ヤレヤレ。結果オーライでした。 それから3か月大変お世話になりましたが、その折の思い出は次便でとさせて頂きます。 (写真はトウール駅前で噴水の周りにホテルが7軒くらい取り巻いていました) 東 孝昭

高く咲く花

住宅地の塀のあちこちにノウゼンカズラの蔓が伸び上がっている。盛夏の頃と比べると、花の数が減り、花の姿に勢いがないが、九月に入っても、やはり草木の中で目立つ花である。この熟れた柿の実の色をした花を見ると、決って「カーキにアーカいハーナ咲く」という唱歌が浮かんでくる。我ながら苦笑するほかない現象である。 この花を最初に心にとめたのは、七歳か八歳の夏だった。少し遠出をして、級友の家に遊びに行った。ノウゼンカズラが高い柿の木に絡まり、あでやかな色で木を覆い尽くしていた。柿の花は白い小さな花、唱歌の「カーキ」は垣、と知ってはいても、ノウゼンカズラの花と柿の木がしっかり一体になってしまった。 ノウゼンカズラは、原産地、中国で、凌霄(りょうしょう)花(か)と呼ばれる。霄には、空、雲の意味がある。空に向かって高く咲く姿を表す名である。佐藤春夫はこの花が好きだったという。慶應のキャンパスに咲いていたこの花のことを「感傷的で良かったが」と書いている。空を向いて勢い良く咲く、鮮やかなノウゼンカズラの花の群は、どう見ても感傷的だとは思えない。 春夫自身の特別な経験と結びついているのだろう。または、中国に何かそれらしい故事があるのかも知れない。郷土の詩人ということで、春夫の詩は、子供の頃から身近にあった。文庫本を自分で持ったのは、中学生になった時だ。中学生になったばかりの春、私は、内籐ルネの絵カードの一枚に心を奪われた。ぱっちりした目の少女が、耳に大きな巻貝の殻を当てている絵に、「私の耳は貝の耳 海の響きをなつかしむ」という二行が印刷されていた。ジャン・コクトーという人の詩だという。何と美しい表現だろうと驚嘆した。私はそのカードを大事にし、くり返し眺めていた。それが父に見つかった。そういう女々しいものはやめなさい。父は厳しく言い、春夫の詩の文庫本を私に与えた。父が推奨したのは、「若者」や「望郷五月の歌」だった。 翌年の春には、西脇順三郎の「天気」に出会い、衝撃を受けた。目の前に、明朗な新しい世界が開けるようだった。天才にしか詩は書けないのだと感じた。自分で詩を書こうとは少しも考えていなかったのに、そういう感想を持った。 以来、西脇順三郎の詩を愛読し、多くの現代詩人の詩を読み、佐藤春夫の詩文を懐かしいものとしてきた。三十歳の頃、自分で詩を書き始めたのは、生きにくいという個人的な現実を内面的に克服するためだった。 有名詩人をむやみに自分に引きつけて語るのは憚られるが、雑駁な造りの同じ木造校舎で私も学んだ。その後、良きことだけを心に描いて上京したであろう佐藤春夫のことを、このごろ折にふれ想像する。春夫は、録音中に「幸いにして私は…」と言って息絶えた。うらやましい境涯である。うらやましいが、彼と同じような抒情詩をいま書くわけにはいかない。形を今風にしてみても、現在の詩の世界では評価されない。 一方、春夫の小説の構成や仕掛けには、あっと驚く。春夫は、作家として全体的なまとまりがないと、欠点のように評されたらしい。まとまりがなければいけないのか、と小説も試みる私は言いたい。乱反射する発光体である方が、文学者としては魅力的ではないのか。「星」を読んで、私は涙をこぼした。姉妹のように育った二人が同じ男に嫁ぐという古い中国の物語である。現代人から見れば、容認できない話であるのに、人間への洞察の深さ、受身であるしかない人の悲しみを慈しむ美しい文章に、圧倒される。 荻 悦子