フランスあれこれ50~フランス生まれのスポーツ=ペタンク

皆さんペタンク(Petanque)と言うスポーツをご存知でしょうか。私が50数年前に見たペタンクの風景は正に写真のような光景でした。パリの街角やちょっとした広場や公園の一角で、皆さん実に楽しそうにプレーしていた光景を思い出します。私も一度だけボールを握らせて頂いたことがあります。 ハイムの多摩川寄りにある下布田公園でもいつか見かけたことがあります。どうやら日本でも高齢者の軽いスポーツとして昨今大変良く知られているようです。 ところで果たしてこれはスポーツでしょうか。いささか疑問のあるところです。ところがビックリ!2024年のパリ・オリンピックの競技に採択されるかもしれないという話が耳に入りました。まさかとは思いますがね~  そこでネットで少し調べてみました。このペタンクはフランス、中でも南仏プロヴァンス地方で1900年頃に生まれたとのこと。一説では1910年港町ラ・シオタ(La Ciotat)が発祥の地とも。両足をそろえて球を投げるという意味の言葉「ピエ・タンケ」(Pied-Tanque)からきている由です。最初のPiedはフランス語で「足」、あとの言葉はこの地方の方言「オック語」ではないかと思います。それにしてもこの看板にはゲームとか遊びとなっていてスポーツとは書いていません。 ヨーロッパを中心に今や世界の人気スポーツ、いや人気ゲームと言えます。ルールは簡単で氷上でないカーリングと言えば良いでしょうか。でも中なか奥深いものがあります。 昔は年寄りの時間つぶしの印象、でも時代も変わってオリンピックとは正直驚きです。 (この原稿のあとハイムの老人クラブの役員さんから情報を頂いたところ、ご近所はおろか多摩区、いや川崎市、更に神奈川県など広く地区予選や大会を開催していて相当に大きな競技人口のようです。ただハイムは少し横を向いているのか?静かだと。)

フランスあれこれ45~原子力発電=ジスカルデスタン元大統領(追稿)

過日ジスカルデスタン元大統領の訃報をご紹介した際、大統領の業績の一つとして原子力発電推進と書きました。彼の大統領就任の直前、第一次オイルショック(1973)に見舞われました。それが彼の原子力へのこだわりのきっかけになったことは間違いありません。 私の二度目のパリ赴任が1988年、その少し前1986年にチェルノブイリ原発事故が発生しています。赴任の当時はまだその影響を引きずっていて、フランスへの影響や、子供たちへの健康被害などよく会話のテーマになりました。しかし最も吃驚したのは当時既にフランスの電力の凡そ70%が原子力になっていたことでした。それを実感したのはパリの郊外に出ると大きな原子力研究所があり、少し遠出をすると俄かに空模様が悪くなり、更に少し走ると以前の青空に戻ると言う現象を自覚した時でした。原子炉の冷却水の蒸気が原因だったのです。冷静に考えるとセーヌ川を含めロワール川やローン川などフランスを代表する大きい川に沿って、点々と発電所が建設されていました。 ご存知のようにフランスの代表的で且つ日本でも良く知られた科学者にキューリー夫人がいます。彼女は自身の研究の放射能が原因で命を落とします。(ウラン鉱石からラジウム放射性物質を発見)しかし彼女の夫が仕事のパートナーであり、また息子が同じ分野で研究を続けました。さらに彼女の以前(19C末)にベクレルと言う言葉(放射線の単位)の語源になったアンリー・ベクレルもフランスの科学者です。フランスとしてはこれら先人の功績を放置できなったことは想像に難くありません。 2020年現在のフランスの原子力発電は6,600万KWで発電量の実に77%とのこと。発電量はアメリカに次ぐ世界第二位となっています。 本稿は原子力発電についての私見を申し上げるものではありません。参考までにイタリヤの原子力はゼロ、そしてドイツも極めて少ないですが方針として今後全面休止に向かうと宣言しています。(イタリヤはフランス・ドイツからの電力購入が多い、ドイツは天然ガス重視のようです。) (写真は2019年操業を停止したドイツの発電所)

フランスあれこれ44~元大統領ジスカルデスタンの死を悼む

第20代フランス大統領ジスカルデスタン(Valery Giscard d’Estaing)がコロナで去る12月2日逝去と言うニュースが流れました。享年94歳。 私が最初にパリに赴任した1964年当時はドゴール大統領でしたが、学生運動から始まる5月革命でポンピドー大統領へバトンタッチされました(1969)。その直後私は帰国。やがて第一次オイルショック(1973)があり、暫くしてポンピドー大統領が急逝、後任としてジスカルデスタン大統領が若く47歳で就任したのが1974年でした。フランスとは仕事のつながりもあり、又ドゴールの印象が強かったためでしょうか、その後の政治の動きが耳に入ってきたものでした。ただ特別に知識があるわけでもなく、今回のニュースで改めて各新聞やネット情報を整理してみました。 結論から申し上げるとジカルデスタンに対する評価は色々で、彼の若さと実行力から「フランスのケネディー」と呼ばれ、或いは国際感覚が豊かで「偉大なる欧州人」の評価もあれば、片や彼の着想は認めても傲慢で冷淡だとか、左右両派の信頼がなかったとのコメントもあります。表現を変えれば自信がありすぎ、一方的で、人間関係が今一つだったのかも知れません。 彼の業績の一つは1975年最初の六か国首脳会議の提案です。これがサミットのスタートとなりました。日本から三木武夫首相が出席しました。またドイツのシュミット首相と好関係を築き欧州統合を強く推進しました。欧州通貨制度でリーダーシップを取り現在の通貨ユーロへの第一歩となりました。国内ではエネルギーの将来を考え原子力発電を強力に推進したとも言われます。 1979年第二次オイルショックなどで経済が低迷、1981年二期目の再選を目指す大統領選挙で社会党のミッテラン候補に僅差で敗れました。私が二度目の赴任をしたのが1988年です。 1989年欧州議会議員に選出され、2002年欧州将来像諮問会議議長となり欧州憲法草案を提案するに至りますが皮肉なことに自国フランスの国民投票で否決されました。この間フランス政界の長老として君臨したものの彼を慕う人は少なかったようです。 今年9月肺の感染症で入院、一旦は退院したものの11月再度入院、今回はコロナ感染と診断されたと言われます。 ご冥福をお祈りします。 Tomma  

ルーヴルと私 怖い思い出

パリに行ってルーヴル美術館を訪問しなかったことはありません。何度訪れても感激を新たにするのですが、その中でも特に忘れられない思い出をひとつ・・・ mats ルーヴルが好き 今まで何度行っているのだろう?と振り返るとその昔ベルギーに駐在員として暮らしていた数年間には2回行っただけなのに、帰国してからは出張や旅行でフランスに行く度に必ず訪れているので少なくとも15回くらいは行っていることになります。概ね、ルーヴルが古代から1800年代半ばまでの作品、オルセーがそれ以降、第一次世界大戦勃発の1914年までの印象派・ポスト印象派を中心とする作品、ポンピドゥがその後の作品というように時代で区分して各美術館で展示されていますが、オルセー5回、ポンピドゥに到ってはただの1回だけと訪問回数に大きな差があり、私はルーヴルファンなのです。ピラミッドから入館して、サモトラケのニケの像に続く階段を目の前にすると、「ああ、またやってきた」という感慨に浸るのですがこの階段を上ってしばらく人の流れに乗って進むと自動的にモナリザの部屋に至ります。常にひときわごったがえしていて、みんなある種の興奮状態で人混みのスキマから絵を見よう、スマホで撮ろうと必死です。私の場合はモナリザを遠目に確かめてから、その部屋が位置するドゥノン翼からシュリー翼、リシュリュー翼とヨーロッパ絵画を中心に巨大迷路のような美術館を延々と見て廻り4~5時間を過ごします。見たことのあるものばかりのはずなのにその都度新鮮な感動と、顔見知りに再会したような親近感を覚えます。         モナリザと過ごした時間 随分昔ですがパリに3週間ほど休暇で滞在した折に、フランス人建築家の友人と何日か過ごしたことがあります。彼が設計している住宅の工事現場を訪れ、また、クラシックな迎賓館の修復工事の現場会議にも出席(単に友人というだけの立場)したのですが、その時にルーヴルでも改修工事の設計をやっているので現場会議に出てみるかい?ときかれました。普通ではあり得ない話なのでもちろん答は「ウィ!」です。ルーヴルでのこのような会議、展示品の移設作業などは、夜間あるいは休館日である火曜に行われることが多いようで、彼は私のために火曜の業務用入館パス(当日限り有効)を取得してくれました。火曜、入口のピラミッドから二人で入館、誰もいない館内を改修計画について説明してもらいながら進みモナリザの部屋まで一緒に行くと、「もし特に会議に興味がなかったら館内を散歩していてもいいよ」と言われ、本音のところ会議で一人ポツンと座っていてもそれほど面白くはないのでそれに飛びつきました。かくして私は部屋に残り彼は会議に向かいました。それからモナリザ(フランスでは“ジョコンド”で通っています)を目の前で眺め、ある意味では対話してたっぷり1時間以上、他には誰もいない、一人きり、いや二人きりで時空を越えたひとときを過ごしました。その後、部屋を出るとイタリア絵画の廊下で同じくレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」の撮影作業を何人かでやっていましたが、それ以外は誰もいませんでした。喧噪に満ちたいつもの雰囲気とは別世界の静寂と孤独に包まれます。 怖い話  そんななかでふと、シュリー翼の3階にあるジャック・ステラ(17世紀のフランスの画家)の何枚かの絵を見たくなり、ドゥノン翼の隣に位置するシュリー翼を目指しました。ところが、無人の館内をずいぶん歩いた末に何かがおかしい・・・ちっとも目的の方に向かっていないのに気がつきました。こんな展開になるとは思ってはいなかったので館内マップも持っていません。ただ、館内の表示は至れり尽くせりで、現在位置と方向は示されている、例え迷ってもあちこちにピラミッドマークがあり、それに従えば全館の中央に位置する入口のピラミッド地下部分に簡単に出られるはずなので焦る必要はないのですが、さらに進んでいくうちに完全に迷っていることがわかりました。とたんに恐ろしくなりステラの絵はもうどうでもいいからとにかく出たい・・・ところがピラミッドマークの標識のあるいくつかのドアがロックされていて開かず、廊下なりに暗い館内を進まざるを得なくなり、巨大な迷路なのか、それともそれよりもっと恐ろしいものではないのかと無人の美術館の恐怖に怯えました。「ナイトミュージアム」という、夜になると博物館の展示物たちが動き出すという荒唐無稽な映画がありましたがそんなことまで思い出す始末。さらに、古い展示物の中には昼間は観客たちの喧噪の中でおとなしくしているものの怨念を抱えたものも少なくないのでは?そして、あろうことか進行方向の先の表示を見ると「古代エジプト」、こんな時には一番近づきたくないところですが、今更戻るわけにも行かず走り抜けるようになんとか無事通過、そこからやっとのことでピラミッドの明るい地下部分がまるでトンネルの出口でもあるかのように廊下のずっと先の方に見えて全身から力が抜けるほど安堵した時までは余り記憶が定かではありません。至福と恐怖がみごとにセットになった一日でした。

十男63歳 十人の子を養う親はあれども一人の親を養う子はまれなり

いわゆる名言、金言と言われる言葉をボクは日記や手帳によくメモるのだが、いつの日か忘れ去る。身の丈に合わないのか心動く器量がないのか。そんなボクでも一つ忘れられない言葉がある。 10人兄弟の7人を喪って六男、九男、十男のボク計3人になった。「残った3兄弟 毎年一回は会って話をしないか」と六男が提案した。それぞれの自宅で会うのはたとえ兄弟でも気遣いが生じるので、旅館・ホテルなどを利用して連れ合い同伴6人で会うことになった。 2013年秋 初会合は山口市のかんぽの宿。3組6人が立ち寄った常栄寺というお寺に雪舟庭園があり、そこの石碑に刻まれた言葉=写真=。 「十人の子を養う親はあれども一人の親を養う子はまれなり  佛典」 「わし(私)らの親のことのようだなぁ」と一同顔を見合わせた。碑の前で親の苦労した出来事を改めてお互いが思い起こし、昔話が弾んだ。だがボクだけ後半の「一人の親を養う子……」に考え込んだ。ボクは「まれ」にさえなっていない。 写真=島根県益田市の旅館「荒磯館」で盛り上がる3兄弟(左から九男、ボク、六男=2015年6月)

十男60歳 葬儀1か月後、兄ちゃんがまた死んだ

四男の死(享年73)から1か月後、76歳の二男が亡くなった。晩年は脳梗塞から色々な病気を併発した。弟の死を知らされ病床で号泣した。 二男だが長男が夭逝したためお鉢が回って家長・当主に抜擢された。勉強が嫌いではないが、苦手だった。その上、上手に立ち居振る舞いができない。「器用でない人」が望みもしなかった当主になり生涯の重荷になったのではないか、と思う。 父が兄を隣町の蔵元に住みこみで働かせることにした。社会勉強させる配慮だったろう。ボクが高校生の頃だ。働き始めて1週間後くらいして兄がボクの下宿に訪ねてきた。「おれ、(仕事)やっぱりついていけないんだ。家に帰りたい」と泣きそうな顔で言う。聞けば杜氏仲間と共通の話もなかったようだ。ボクは「仕事を辞めて家に帰ったら」とは言えなかった。とりあえず500円をポケットに入れ、近くの軽食喫茶に行った。高価だが思い切って鍋焼きうどんを注文した。卵も野菜もたっぷりで寒さを吹き飛ばすくらい熱く、二人黙々と食べた。話もとりとめのないものだった。食後、兄は「もう一度、職場に行ってみるよ」と言った。嫌々だったのだろうがそう言った。 数週間後、「どうにか勤めを終えて帰ってきたよ」と父から連絡があった。 ボクが新聞社に入社が決まった時、親と同じように喜んでくれたのが兄だった。弟・六男は警察官で「警官やマスコミ関係者が兄弟にいる限り、わしは頭は悪いが悪い事だけはできないなぁ」が楽しそうにボヤいていた。身内だがこんなに偉ぶらない人に出会ったことがない。結婚後、2男1女をもうけた。家業を守り、両親を夫婦で最期まで看た。人間、勉強だけじゃない、大切な事をちゃんと果たすこと。周囲の心配をよそに不器用兄は成し遂げた。もちろん義姉のサポートも大だ。ボクら下の兄弟夫婦は義姉を目標にした。 「わしは何もできない人間」と口癖だったが「とんでもない。兄さん、(自分のいいところ)分かってない。あんたのおかげにボクら下の兄弟はみんな自由に生きられた」。 一緒に食べた鍋焼きうどん、物凄く安くついた、ボクのその後の人生にとって、そう思う。 =庭先で休憩中の兄を写す、写真を撮られるのがあまり好きでなかった兄の珍しい1枚= 吉原和文

十男60歳 兄ちゃんが死んだ

四男の兄が亡くなった。兄弟が多ければ自ずと葬儀も多いと思われるだろうが、一番下の十男のボクには悲しみは“ひと10倍”だ。 目を覚ますと枕元に真新しい野球のグローブがある。ボクは風邪で小学校を休んでいた午後。「兄さんからだよ」と母が言う。隣県の紡績工場に勤める四男の兄は帰郷するたびにボクに土産を持参した。「リア王」「メロス」などちょっと難しい本もあったが、この日は野球のグローブだ。 「これは本革じゃね(だね)ー!」。飛び上がった。グリースもついている。それまではビニール製のグローブで、ボールを受けると手が痛く、捕りにくかった。本革グローブを持っている仲間はいなかった。高熱が下がる感じがした。翌日の田んぼでの〝三角ベース〟で新グローブのボクが主役、鼻高々だった。兄は結婚後も、自分の子供が生まれても、転勤してもお土産は欠かさなかった。 そんな兄が帰郷の際「どうせオレは〝口減らし〟されたのだ」と杯を交わす父に愚痴った。四男で家業の農業を手伝っていたが、二男が家を継ぐことになり父の計らいで紡績工場に就職した。だが兄は「俺は外に放り出された」が口癖だった。高度成長を前にした日本の昭和三十年代のことだから、どの家の事情も似たようなものだったろうが……。コツコツ貯めたカネで末弟のボクが喜ぶものを買い、一方で親に自分の境遇を愚痴る。家庭を持ってもそれは変わらなかった。 その兄がバイク自損事故で死んだ。定年後、趣味の野菜畑から帰宅中のこと、炎天下の夏作業で「疲れた。先に帰る」と一緒にいた義姉さんに言い残した直後だった。転倒した。73歳だった。 ボクは亡骸に「兄さん、まだグローブのお返しをしてないよ」と泣くと「おまえ、生意気言うんじゃないよ!」とボクにあの愚痴る顔で言っているようだった。大好きだったが兄の心の内は今も分からない。それから1か月後、今度は二男の兄が亡くなった。 ※写真は1955年(昭30)、四男の兄の就職先が決まりその出発前に撮ったもの(らしい)。 吉原和文

十男17歳 高2 “恋人”を奪われた

「女の子の人気投票」が高校2年時、男子の保健体育の自習時間に行われた。クラスの塩道哲也が『お気に入りの女子』総選挙を提案したのだ。塩道は「あしたのジョー」の力石徹のような奴で顔も体も声もデカい、押しもある。クラスはすぐまとまる。中島四郎、山中富雄、山下勤など率先して選挙管理委員になる。選考対象は同学年全クラスの女子。 ボクは「三浦法子(のりこ)さん」という人に投票した。「スーちゃん」こと田中好子さんに似ており、静かな物腰で日本的、ボクは好感をもっていた。 第1回選挙、総投票数約20票。投・開票は黒板に「正」の字。結果は日頃の評判通りだった 1位 富永二恵 7票 2位 斎藤京子 5票 3位 工藤久恵 4票 …… 上位は頭も良いし、美人だ。私の三浦票は1票だけ、最下位だった。 塩道は「おい、誰や!貴重な1票を三浦ごときに入れとるのは」と笑った。ボクは黙っていた。 ボクは次回もその次も投票した。が、いつも1票だった。だが5回目くらいの選挙から様子が変わった。三浦票が1票、また1票と増えてきたのだ。ついにある日、あろうことか三浦法子がトップになったのだ!。 ボクは落胆した。自分一人のものであった彼女がヒロインに上り詰め、はるか遠い存在になってしまったのだ(ボクとの距離は初めから遠かったのだが)。 「まぁいいや、ボクの見る目が正しかったのだ」と自分を慰め言いきかせた。「三浦法子」は以降、トップや2位を守り続けた。 卒業して数年後、「高校卒業者名簿」が届き、ボクはクラスの卒業年度を見て仰天した。 「塩道(旧姓三浦)法子」とあった。夫はあの明日のジョーの「塩道」ではないか! 「貴重な1票を」とホザいた(つい、あしからず)塩道じゃないか! ともあれ十男ボクの初めての〝失恋〟だった。 (一部仮名にしました) 吉原和文

十男14歳日記 昭和38年8月15~18日

誤字・意味不明、理路不整然日記の続き。中学2年の8月。五十余年後の今「あれから随分成長した」という証(あかし)がないのも事実(日記は原文のまま)。 8月15日 木 ☼ 昭和二十一年八月の今日十五日、私達の母国 日本はポツダム宣言を受諾した。天皇が敗戦を告示。日本国民は泣き叫んだ。そして今日この記念すべき日に戦没者の慰励祭。そして今日を盆という。 今夜は盛大?な盆祭で踊りがあった。僕は皆さんが踊られるのを見て心打たれた。このみじめな敗北を忘れて仮装や子供達は楽く過ごしている。でもこの場、いや全国全民がこのみじめな敗北の浅没者を心から慰さめてないよう私はその事をこの中学生にも知らせたかった。 8月18日 日 ● 全然黒くなっていない。みんな白い。教室中は夏休み前と同じだ。本途に白い。長い夏休みも昨日で私達は終止符を打ち今日登校したが今年は寒かった夏のせいかみんなの元気そうな顔が見えない。残念である。今日は模擬があり昨日さぼったので全然できなかった。で今夜はあれでも三時半まで勉強した。今は八月十九日である。やはり「あやまちて改めざるこれを…」であるな。下関商準決勝へ。池永好投2対1今治西を敗る。巨人久方ぶりの猛打。十対一。絶好調金田をひとひねり。王28、29号。長島29号で一戦に並ぶ。力と伝統の巨人軍。 (吉原和文)