フランスあれこれ60~お酢と油=私の思い出骨董品(1)

我が家の想い出博物館にある一品です。何時の頃手に入れたものか静かに陳列棚に鎮座していますが、これを見るたびに日本の「お神酒徳利」(おみきどっくり)を思い浮かべます。 お神酒徳利は何故か2本、いつも並んで神棚にお供えします。無論お酒を供えるのですが、お供えしたお酒を頂くことでご利益を頂戴すると聞かされています。そしていつも巷で耳にするのは「あのお二人はお神酒徳利!」だという表現です。いつも二人で仲良くしている風情でしょうか。 さてフランスの骨董ですがお神酒徳利が二本とも抱き合って一体化しています。片面に男、もう一方には女性の絵柄です。彼らは仲良しで離れがたいペアーだという事でしょう。口の部分に一方は“V”、他方には”H”と書かれています。“V”はVinaigre(お酢)そして“H”はHuile(油)を意味します。即ちこれはサラダを頂くときのドレッシング材料の入れ物です。 お酢と油は混ざりません。互いに受け入れがたい背反の関係でもあります。しかしサラダには欠かせないもので、いつも一緒、そして絶妙の相性だという事です。個性は違っても非常に良いコンビネーションといえます。これぞフランスのお神酒徳利です。 なおこの品物はフランスのカンペール(Quimper)の陶器で、今では日本でもよく知られています。我が家にはほかに絵皿が二枚玄関の壁に掛かっていますのでご覧いただきます。                      

フランスあれこれ59~戦場(II)ノルマンディー上陸作戦

 1944年6月6日、英・米・加・仏などの連合軍がドイツの占領下にあったフランスのノルマンディー沿岸に上陸作戦を決行します。これが決定打となって態勢が一気に収束に向かいました。この現場を一度は見ておきたいと思っていたのですが実現したのは1992年の夏でした。 パリからセーヌ川が蛇行しながら英仏海峡に注ぐところが北の貿易港ルアーブル、この辺りから西に約80㎞位の海岸がノルマンディー海岸です。  この地方の中心の町カーンから北に向かい、バイユーの街を通過、海岸近くに戦没者の墓地がまず目に入りました。ここが最激戦地もあったオマハビーチの一角です。海岸は極めて平和な自然の砂浜に見えます。昔見た黒白映画「史上最大の作戦」の舞台で、連合軍、主として米軍が最大の犠牲を払った場所だと自然と手を合わせた次第です。  海岸沿いに東に向かい次の戦場地に入りました。ゴールドビーチです。全くの様変わりで改めてビックリ!ここは英国軍が中心で臨時の港を建設したところ、多くの残骸が今も残ります。海面の満干対策として浮き埠頭をほぼ一週間で完成、この人工港が大量の物資や機材、更には援軍を送り込むことが出来たため形勢を一気に変えることが出来たのだと実感した次第です。 この作戦でオマハビーチを中心に数千人の犠牲者が出たと言われます。(一説では2500人)しかし忘れてはいけないのは一般民間人がその十倍くらいの数で犠牲になったと言われます。上陸を始める前に連合軍の空軍が攪乱のため、更には落下傘部隊の降下で首尾軍の背後に上陸、そのための爆撃や銃撃戦などがあったようです。 ノルマンディー作戦の海岸は合計6カ所の暗号名で分類されています。各地に当時の資料館や記念館がありますが、中には大きい砂浜でバカンス地になっていて、隣接の街の一角にはカジノが出来ていたりと時代とともに大きく変化しています。 ノルマンディーで忘れられないのはリンゴです。日本のような立派なものではありませんが、そのまま食用になるのは無論ですが、矢張りリンゴジュース、更には発酵と蒸留で出来るブランディーの一種カルバドスが有名です。特にお酒好きにはカルバドスの年代物は最高のアルコールと言えます。思い出すだけで一杯やりたくなります。

フランスあれこれ58~戦場(I)ヴェルダンの戦い

 皆さん、アルザス・ロレーン地方という名前はご記憶にあると思います。現在フランスの一部ですがそう言えるのは正確には第二次大戦以降ではないでしょうか。それまでドイツとフランスの間で領土合戦が繰り返された歴史があります。その理由はライン川の交通とロレーン地方の石炭と鉄鉱石です。ラインを挟んでドイツと向き合い、ライン川沿いにドイツの産業都市が並びます。他方フランスはやはりパリが中心だけにこの地方から距離があります。しかしライン川を挟んで地続きとしてはフランスと言えるでしょう。以上が係争の背景です。 1914年サラエボ事件に端を発し、欧州の同盟関係が次々に巻き込まれ世界戦争(第一次世界大戦)に発展しました。(背景や経緯は省略するとして)西部戦線ではドイツとフランスが激しく戦うことになります。膠着状態が続いた後、1916年2月この時とばかりにドイツ軍がラインを越えてロレーン地方に攻め込みます。兼ねてそれを警戒していたフランスはヴェルダン(ロレーン地方北部)近郊に守りを主体にした要塞を築いていました。全てが地下壕です。産業革命の後でもあり、強力な大砲は無論、戦車や戦闘機まで登場しました。近代戦争の初期でもあり、考えられる安全体制であったと思います。18か月に及ぶ一進一退の激戦が続き、独仏合計で戦死者70万人と言われます。   ヴェルダンの近郊に街を取り巻くように塹壕が設置されていました。中でも一番突出していたドウオウモン要塞の攻防が激烈を極めました。後のドゴール大統領が当時陸軍大尉、負傷して三年位の間捕虜となったといわれます。その後第二次大戦下ドイツの占領下でドイツの傀儡政権を担ったペタン将軍が、当時の司令官として赴任、何とかドウオウモン要塞を取り戻します。遂にドイツ軍がヴェルダン突破を果たすことが出来ず、翌年11月コンピエーニュの森での休戦協定(註)に辿りつきます。 30年位前この地を訪ねました。激戦地ドウオウモンには両軍戦士の墓地が広がります。敵味方を問わず、また植民地からの異教徒の墓も。日本とは趣の異なる雰囲気に驚きとともに心打たれる感傷を覚えたものです。 (註)コンピエーニュの森での休戦協定についてご紹介させて頂きました。こちらをご参照ください。 https://bungeikan.heimnohiroba.com/writers/azuma/compiegne-2/

フランスあれこれ57~ミレーの「落穂ひろい」=バルビゾン村

 ナポレオンのフォンテンブローと来ると自然と足の向くのがミレーの「晩鐘」「落ち穂ひろい」のバルビゾン村です。フォンテンブローのすぐ隣り、日本からの旅行者にこの話を出すと皆さん飛びついて是非にと希望されます。しかし現地に入って、「一体どこですか?」特別目を引くものもない田舎町にビックリされるのが普通です。 アルバムから一枚の写真が出てきました。ミレーの住んだ家で呼び鈴を押す私を背後から撮影したものを頂いたものです。ドアの上には「入り口」の文字、よく見ると「J F Millet」とあります。これは1966年11月、随分古いもので現在は少しは変わっている筈です。  1867年、この写真のほぼ100年前、日本が初めて参加したパリの万国博覧会でミレーの絵画「夕べの祈り」が入賞して有名になりますが、社会情勢に不安面もあってプロレタリア画家と評されたとも言われます。有名な「落ち穂ひろい」(1857)についても出稼ぎの労働者を動員して落ち穂ひろいをさせたとか、いや、落ち穂ひろいは貧乏人に解放されたものだとか今でも議論があるとも聞きました。背景として産業革命が進行、貧富格差が広がり、プロレタリアが台頭して声を上げていたという事でしょう。 いずれにせよミレーの生前は苦労の連続で、絵画も一喜一憂、故郷ノルマンディーとバルビゾンを往復する生活だったらしい。 時はナポレオン三世の時代、そして独仏戦争に突入、ナポレオンIII自身が捕虜となり降伏、そして第二帝政が終わりました。 (ナポレオン三世はナポレオン一世の甥。また、山梨県立美術館が「種をまく人」(1850)を始め何点かミレーの作品、そしてバルビゾン派の作品を展示しています。機会があればぜひお出かけ下さい。)

フランスあれこれ56~私のナポレオン(3)ナポレオン追想

1814年ナポレオンは皇帝の座を追われエルバ島に流されて一年、その間戦勝の欧州列国はウイーンで戦後体制を話し合いますが「会議は踊る」で遅々として進まず、後任のルイ18世の悪政による国内の混乱もあって、1815年3月ナポレオンは皇位に返り咲きました。しかし欧州列国も黙っていません、ナポレオンは再び戦争に巻き込まれて行きます。そして100日を待たずに彼の最後の戦い「ワーテルロー」に・・・    私はベルギーからオランダを回遊する旅の途中でそのワーテルローに立ち寄りました。小高い丘がありそこに立ってナポレオンもここから戦域全体を眺めたのだと考えると何となく彼の心境に近づいた思いをしたものです。残念ながら彼の思い通りに行かず、最後の一戦で敗退します。彼の体調の問題もさることながら、やはり頭脳の衰えというのでしょうか、判断・行動が戦況に合わず、何よりも時間の空費が決定的な失敗につながったとのこと。 1814年6月ナポレオンが退位。そして終焉の地セントヘレナに島流し・・・ 再び思い出すのがナポレオン時計です。私はその数年前に得意先から届いたナポレオン時計が一瞬彼の戦略の根源かと思ったのですが時代が少し違っていたのでしょうか。当時携帯用の時計がなかった訳ではありませんが、実用化の面では疑問が残ります。 彼は子供の時から戦争ごっこが好きでいつも戦略的にリーダーであり負けなしだったといわれます。コルシカ島がフランスに併合され、フランス人として生まれたようですが言葉も不慣れで大変苦労したと言われます。しかし戦争に関しては天才だったのでしょう。 フランス国内での彼の評価は一般には戦略的で指導力抜群、業績は天下一品、しかし反面全体主義的独裁者で侵略者との評価もあって大きく分かれるところです。

フランスあれこれ55~私のナポレオン(2)百日天下への道

 古いアルバムを繰っていて一枚の写真を見つけました。ナポレオンの乗馬像で日付は1992年。当時はデジタル化の前で写真撮影は景色と一緒に人物の写真を撮るというのが一般的でした。(人物は切り取っています)  1814年4月フォンテーヌブローを出立してエルバ島に来たナポレオンですが、エルバ島滞在はわずか10カ月程度、しかし満を持しての脱出を敢行、ニースとカンヌの間にあるジュアン湾に上陸しました。彼の後任のルイ18世の悪評もあって彼は大歓迎を受けます。  私は夏休みを利用して南仏の旅行を楽しんでいました。その10年ほど前に突然の事故で亡くなったモナコ后妃グレースケリーの宮廷を訪ねました。丁度衛兵の交代の儀礼のタイミングでした。成程と思われる急カーブの連続で当時を偲んだあと一路パリに向かいますが、選んだ道がナポレオン街道です。比較的なだらかな坂を登る途中にグラースの街があります。北海道の富良野を想像してください。一面の花畑、フランスの香水生産の拠点です。 この後は急な山坂、アップダウンと急カーブの連続、しかし古代からの重要な交通路です。ナポレオン街道と呼ばれるのはこのグラースからリヨンの手前のグルノーブル迄を言います。  街道の中間近くシストロンの街で一泊することにしました。古くからの交通の要衝で、歴史的にはローマ時代、いやもっと古く4000年の歴史とも言われます。小高い丘の上に遺跡の断崖が残っていました。宿泊は星つきのレストランを兼ねたホテルでした。大きな庭があり一角にプールもあり、古くからの保養地を兼ねた中継基地を感じさせました。料理も良く大名気分の逗留になった記憶があります。 ナポレオンの進軍が進むにつれ参加する軍隊も大きくなり、当初の1000名が既に6000名位になっていたと言います。恐怖を感じたルイ18世はそれを阻止するため軍隊(約6000人)を派遣しますが、これがまた寝返ってナポレオン軍に加わりました。その軍隊は街道の終わりグルノーブルの近くラフレー湖でナポレオン軍と合流、この地に乗馬姿のナポレオン像が建ったという次第です。 ルイ18世は亡命、ナポレオンはフォンテンブロー宮殿に到着、百日天下の皇帝に復帰します。 次回は最後の戦いの場ワーテルローを訪ねます。

フランスあれこれ54~私のナポレオン(1)ナポレオン時計

  40年位前でしょうか、2度目のパリに赴任をしました。その直後ある得意先から記念品だと言って置時計を頂きました。何の記念だったのかは記憶にありませんが、「ナポレオン時計」だという事はしっかり覚えています。(写真はイメージで頭の帽子の部分は単純な輪の取り手でした。)応接室の棚に飾らせて頂く事にしました。その後もナポレオンの話が耳に入ることがあり、この機会にと思って内地の友人にナポレオンの本を送ってもらうことにしました。(この本は今も私の書庫に入っています。)ナポレオンの一生を通読したのですが時計の話は全く出てきませんでした。彼の戦略に大いに有効利用したのではという期待を持っていたのですが、そんなある日この時計は忽然と消えました。 その後知ったのですが、この時計はナポレオンと言ってもナポレオン三世時代のモデルだったのです。しかしお蔭でナポレオンを勉強することになったと今も感謝しています。 (ナポレオンの生涯については注記をご参照ください。)  当時日本からの来客も多く、週末の小旅行などでフォンテンブローの森に行く機会があり、その都度ナポレオンが失意の中でエルバ島に去る際、このフォンテーヌブロー宮殿の中庭に面した円形階段で近衛兵たちとの別れをした(1814年4月)という同じ現場に立ち、彼の心境を推し量ったものでした。ひと言付言しましよう。彼を取り巻く元帥府の側近どもがいとも簡単に彼を見限ったという。一方近衛兵たちはエルバ島への同行を選んだという。 ところでナポレオンと言えばブランディーやコニャックなどの年代物のブランドとしても使われます。しかしナポレオン一世時代(1806年)のコニャックが今も存在してネット価格が1本300万円にもなると言います。 次回はエルバ島から百日天下への道を訪ねます。 (注記)ナポレオンの生涯 1769年コルシカ島生まれ、幼年学校、士官学校(砲兵科)と進学、85年士官に。1789年フランス革命。革命に反対する元貴族士官の亡命などで空席が出来て昇格、94年砲兵司令官に。更に王党派の反乱鎮圧で評価されて国内軍司令官に。フランス革命へのオーストリアの介入に端を発し、イタリア方面からの進撃で成果を上げ英雄として凱旋、国民の信を得た。その後イギリスが介入、エジプト遠征中に対仏大同盟が出来、急遽帰国。内政でも力を発揮して難局を突破。経済、教育など各分野で改革を進め、遂には1804年国民投票で皇帝にまで上り詰めた。海軍力を持つイギリスの抵抗に苦慮、トラファルガー沖海戦で失敗。逆に陸ではアウステルリッツで勝利、(これを祝してのシャンゼリゼの凱旋門計画であったが完成は彼の死後で1936年)イギリス・スエーデンを除く全欧州を制圧したこの段階が彼の絶頂期だろう。そしてイギリス・ロシアの連合による圧力で産業界の打撃も大きくなり、遂に1812年彼の命取りとなるロシア遠征に踏み切ることになる。寒冷の地ロシアに長逗留したのが運の尽きとなった。そして失意の中でエルバ島へ。

フランスあれこれ53~シャルトルの薔薇窓(私のステンドグラスの始まり)

 シャルトルと言えば大聖堂、世界遺産です。 パリの南西約80km大穀倉地帯(ボース平原)の中央、遠くから大聖堂の尖塔が遠望出来ます。町は極めて静かでこの聖堂がなければ普通の田舎町です。サラサラと清水が流れる小川と緑の並木がここに住む人たちの清楚な心と世の中の平和を感じさせます。  この聖堂はフランスを代表するゴシック様式、建立は12世紀、パリのノートルダム寺院と前後した頃、そしてこの大聖堂で特筆すべきは多くの素晴らしいステンドグラスです。総面積2700平方米、登場人物4000人、中でもシャルトルブルーと呼ばれる青の硝子は透明度、深みで不思議な魅力だったとのこと。 私がフランスでステンドグラスを始めることにした際、アトリエの先生から与えられた最初のテーマは大聖堂のステンドグラスとして名高い「バラ窓」の部分でした。優しい先生のお蔭で思った以上のものが完成しました。とは言え半分は先生の手によるものです。 コロナ禍の昨今、思いついてこの作品を今年2021年の年賀状に取り入れました。理由は作品のテーマが「悪邪の征伐で民を守る」というものです。 この私の思いを皆さんにお届けしたいと思います。

フランスあれこれ52~フランスの飼い犬(2)

 前回品行方正なフランスのペット犬をご紹介しました。あれから20年位の後、2度目の駐在でフランスに赴任しました。今回は真逆のペットを見てビックリというお話です。 赴任早々、郊外の会社訪問で関係の会社の担当者と一緒に得意先を訪問することになりました。冬のパリは日の出が遅く9時頃になってやっと街がほんのりと明るくなります。そんな朝、8時頃我が家に来てくれることになり、お待たせしては良くないと時々窓から到着を待ちました。丁度約束の時間に車が我が家の前に停車するのを見て急いで飛び出しました。そして玄関口で足を滑らせてもう少しのところで階段を踏み外しそうになりました。振り返って何が原因か見たのですが犬の糞を踏んでいたのです。 その時の会話です。「お早う、運転をお願いして恐縮です。いや~びっくりしました。犬の糞を踏んでこけそうになりました!」「それは大変、でも何事もなくよかったね。それで右?左?どちらの足で?」「左足でした。車を汚さないように足元に紙を敷きました。」「お気遣いなく!それにしても無事でラッキー!更に左足ですか。今日の商談成功間違いなしです。」 会社の同僚にこの話をしたところ、そんな話は知らない、聞いたことはないとのこと。きっと彼の思い付きだったのでしょう。これこそフランス人のエスプリなのだろうと思った次第です。 それにしてもあの玄関先にペットの糞とは? 昔(その20年ほど前)のジェントルペットを考えるとちょっと想像できません。放し飼いなのか?ペットのご主人が一緒?何とも不思議な思いでした。 暫くペット事情を観察して気が付いたのですが世の中様変わりしていたのです。ペットが一つの流行となり、小型犬が多く、しかも街のそこら中糞の垂れ流し。パリ市が一時バキューム自転車で糞を集めていましたがとても追いつきません。遂に条令を作って罰金を科す事にしたものの、それでも全く改善されず、やがてうやむやに・・・

フランスあれこれ51~フランスの飼い犬(1)

私のパリ駐在最初のカルチャーショックの一つはお向かいのペット犬でした。オペラ座の北側にあるプランタン百貨店のすぐ近くのワンルームが私の単身赴任の最初の住まいでした。 お向かいのワンチャンは面長な顔、足長で背が高く実にスマートでした。時々ご主人と一緒に歩いているのを見かけましたが、首輪はついていてもリードはついていません。実に静かというか私が無視されているような風情でした。(右はイメージ写真です) 家の前まで帰ると階段を駆け上がって自分の家の前でお座りをしてドアの空くのを待っていました。ドアが開いても我先にと入らず、ご主人の後について入ります。 一日に三度(朝、昼、夕方)ひとりで外出します。日課になっているようでした。ご主人がドアを開けると一人で階段を降り、暫くすると帰ってきてドアの前で一声「ワン」、するとドアが開いて中に入ります。ドアの空くのが少々遅くともそのまま静かに待っています。日中の鳴き声も全く耳にしたことがありません。 百貨店のすぐ近くの雑踏のなかを大きな犬を一人で外出させる?と思われるかもしれませんが、プランタンのある表通りから一筋それると、結構静かな商店街、更に一筋それると住宅街です。およそ4~500m離れたところにある公園に直行、そこで用を足した後また戻るというように説明を聞きました。私は一度通りがかりで見つけたことがありますが、人を避けるようにというか、遠慮がちに道の片隅を涼しい顔で歩いていました。何ともよく訓練されたものと驚いた次第です。 その後私の家族も到着、郊外に転居、そしてある週末子連れで地方(ノルマンディー)に一泊の旅行をしました。フランスのレストランでは滅多に子供は見かけません。ところが入ったレストランにペット犬を連れたご夫婦が見えていました。大人しく床に座っていました。皆さん夕食を頂いている間何も欲しがることもなく、クンクン匂いを嗅ぐ様子でもありません。実に大人しく身動きも少なくじっとしています。逆に我が息子(2歳位ったでしょうか)大人の付き合いはとても無理です。ついには椅子から降りでごそごそ始めました。犬さんとでもゆっくり遊んでくれとばかり、子供に少し食べ物を持たせましたがペット犬が相手にしてくれません。ちらっと子供の顔を一目見ただけで涼しい顔です。おやつも要らん!といった感じです。そこでご主人が子供から食べ物を手に取ってペット犬に差し出したところ、やっと口に入れたものの愛想の悪い雰囲気で、すぐ横を向いてしまします。こんなもので騙されません!といった感じ。 フランスのペットは皆ジェントルマンいやジェントルペットだと感心したことでした。 ところがびっくり!世の中変わるものです。以下次号でご紹介します。