佐藤春夫の少年時代(20)

母方の系譜と春夫の「初めての旅」(4) 実さんがアメリカへ渡ってから5、6年、ある年の暮近く、実さんから久しぶりの便りがきます。他に、「例の母の嫂(あによめ)の兄」からの便りでは、実さんは「肺病」が悪くなって日本に帰りたいのだが、旅費に困っていると書いてありました。 それから1ヶ月半後、実さんは「父の家」に帰ってきて、離れで養生することになりました。お土産として買ってきた12個の缶詰めのうち1個が膨れあがっていました。それは腐っていると言って、父は開けてみると大変な異臭がして人の指が出てきました。缶の中から出てくる人間の指、ややグロテスクな感じですが、「実さんのことを考へると、きつとあの気味の悪い指の罐詰のことも思ひ出す。どんな人の指であらう、わざわざ日本まで来て私の家の空地の隅へ埋められたのは。」とあります。後年の、プロレタリア作家葉山嘉樹の名短篇「セメント樽の中の手紙」の哀愁に通ずるものを感じさせられますが、こちらは出てくるのは、女工の手紙ですが。 タイトルの「胡弓」は、最後にしか出てこないのですが、「それは罐詰の罐を上も底もくりぬいてしまつて、その上を油の滲(し)みた画学紙で張り、竹の棹をすげて、絲(いと)は針金でできてゐた。」という手細工の胡弓です。「私」は仕切りに実さんの部屋を訪れ、アメリカでの経験を聞かせてもらっているうちに、急に黙って胡弓を弾き出したりするのです。そのうち離れへの出入りを禁じられてしまいます。縁側で日向ぼっこをしながら、実さんの胡弓が漏れてくるのを聴き続けています。「その後二三年して実さんは死んだ。多分二十六七であつたらう。今ゐたらもう四十になつてゐるであらう。」で「実さんの胡弓」は結ばれています。  豊太郎を頼ってくる母の一族と言えば、春夫の「ただ一人の従兄」、伯父の故竹田槌五郎の家族のことがあります。槌五郎の死去4、5年後、妻「カメノ」と遺児「達」、それに槌五郎や政代の母「とみゑ」が、和歌山から新宮にやって来ます。明治21年生まれで春夫より4歳年長の従兄は、城跡のお城山周辺の遊び相手としては格好の友人になってゆきます。明治34年4月から和歌山県立第2中学校(田辺中学)新宮分校が設置されることになり、「わたくしの父は義兄の遺児のために学資を和歌山へ送る代りに、手許に置いて勉強させようといふつもりで一家を新宮に呼び寄せたもののやうに思へる。三人を呼んでみたが、家に置くことはしないで、家からあまり遠くない場所に借家を一戸借り与へて住まはせたのが、登坂を越えて向う側、熊之地の入口のさびしい場所で、お城山の東にある森と小山と三方を山や丘や森に囲まれて、南の一方だけはひらけた袋小路の奥のやうな、町の発展から取りのこされた盆地であつた。」(「追憶」)。先に祖母は父の家に同居しており、春夫が部屋をよく訪ねたという記述もあったことから、この家には母子だけが住んでいたのかも知れません。それは小浜(おばま)へ抜ける道にも通じていたのでしょう。「従兄はその後五十年足らず生きてから、戦時中に胃癌で死んだが、その頃からひどい胃病で癌の心配をしてゐたものであつた。胃病の治療策として彼は運動熱心で野球に熱中してゐた。小さなわたくしが中学生の野球仲間に加はつたのも従兄がゐるからであつた。しかし従兄もわたくしとともに野球をすてて、それに代へて散歩をしようと云ふので、外に仲の好い友達もなく、いつもわたくしを散歩に誘ひ出したものであつた。」それから毎日のように、「わたくし」がいままでほとんど隈なく知り尽くしていたつもりのお城周辺の間道を次々と見つけ出していったと言います。「従兄とのこの散歩は十歳のごろのわたくしの軟い頭に深く刻み込まれてゐると見えて、その崖の径やその下に大きく渦巻いく青い淵など、その後久しくわたくしの東京での夢のなかに現はれたものであつた。」と言います(「追懐」)。 この従兄の住まいは、春夫の後年の作品「わんぱく時代」で描かれるお昌ちゃん母娘の住んでいる佇まいに投影され、間道を散策した経験はわんぱく少年たちの行動に描写されていったのだ、と言えます。 写真上:登坂から小浜へ越える峠道 写真下:この下が小浜、熊野川の向こうは三重県。いずれも久保嘉弘撮影で昭和30年代の風景。佐藤家に残されていた写真で、春夫が「わんぱく時代」執筆にあたり、中学校の同級生久保に依頼したものと思われる。 春夫の作品で母親にスポットを当てたものに「慈母の恩」(昭和21年1月「芸苑」)があります。次男や3男が主に乳母に育てられたのに比べて、春夫は「自分は十ぐらゐまで母の乳をふくんでゐたもののやうである。」と言います。この作品の最後の方で、生前は子どもにも話さないでほしいとあったので、母の死後父が、母が幼い時養子に出され興行師に回されて得意の薙刀を曲芸風に行い、客の人気を博していたという母の秘話を語る場面があります。父は「お前たちの母といふ人は子供ながらにさういふ苦労にも堪えた人だつたといふ事を知らして置きたかつたからである。」と結んでいます。 厳格な父と優しい母、春夫は少年時代から優しい母に救われて何度かの窮地を潜り抜けることが出来ました。生来神経質であった春夫の行いに、親身に寄り添ってくれた母が年を追うにしたがって、その恩を春夫自身も肌身に感じ取っていった様子が、エピソードを交えながら語られているのです。

佐藤春夫の少年時代(19)

・母方の系譜と春夫の「初めての旅」(3) 既に取り上げた長雄道二の私家版「漫筆」という冊子本に、「竹田と鈴木」と題する項があり、そこには、「吾が勝浦に小学校を創設せしは明治八年なるが、明治二十年新小学校令実施に因り勝浦小学校と改称し、同三十五年高等科を併置して勝浦尋常小学校となす。其の間訓導の更迭屢(しばしば)ありしも明治八年就任の竹田槌五郎と明治二十年就任の鈴木珍丸とが任期最も長かりし。而して竹田は資性高潔国士(こくし)の風格を備へ、鈴木は剛毅朴訥近仁(ごうきぼくとつ・じんにちかし)の性格ありし。」とあります。現在勝浦小学校に残る記録によれば、竹田槌五郎は明治21年赴任したように受け取れるのですが、それは明治19年の小学校令施行後の記録であって、実に明治8年という早い時期に赴任していて、和歌山で南方熊楠を教えた、そのごく直後と言うことになります。 勝浦小学校は明治8年12月13日正念寺において開校式を挙げていますから、児童40名教師2名であったといいます、この2名のうちの一人が竹田槌五郎であったと言えます。同10年9月海翁寺に校舎を移転、15年10月26日脇の谷に校舎を新築、那智小学校勝浦分校と称しました。21年4月1日、2学級69名で、勝浦村立尋常小学校と改称しています。 これまでは春夫の言などもあって、漠然と妹政代が佐藤豊太郎に嫁したことなどが機縁であろうと推測されてきたのでしたが、長雄の発言の方が信憑性は高いものがあります。豊太郎や長雄道二が竹田家に下宿したのも、槌五郎を介してのものであったかもしれないし、熊野から和歌山の医学校で学ぶ人脈のようなものができていたのかも知れません。 まだ正式な教員資格のようなものも存在せず、全国に小学校を普及させるに当たって、巡回教師の制度なども行われたらしく、槌五郎と勝浦との関係もそんなかで実現したのかも知れません。勝浦小学校の自立の功績が評価されたのでしょうか、長年の勝浦での実績があったればこそ、村長にも推されたのでしょう。槌五郎が勝浦小学校訓導を辞職するのは明治23年7月18日、この年9月24日から25年4月1日まで勝浦村村長を務めています。妹政代が長男春夫を出産して、喜びのあまり駆け付けてきた4月9日以降は、まさに村長を退いた直後だったのです。 豊太郎の新宮での開業、熊野病院の開院など、その成功もあってか、政代の実家竹田家ゆかりの人々も、豊太郎を頼って新宮にやってきました。豊太郎も十分に面倒をみたのでしょう。政代の妹熊代も比較的早くから同居していたようです。             大正12年7月1日発行『赤い鳥』(赤い鳥社)               「実さんの胡弓」の頁 春夫の作品、「実(みのる)さんの一族は、私の母方の遠い親戚に当つてゐる。実さんのお父さんは事業に失敗してからは、私の父をたよつて海を渡つて来た。さうして私の父の病院の会計をしてゐた。」で始まる「実さんの胡弓」(大正12年7月「赤い鳥」)は、童話風の哀切極まりない話です。 実さんは、姉と弟3人の5人兄弟でしたが、母と父とが相次いで亡くなってしまいます。「五人の兄弟は皆そろつて私の父に引取られた。」実さんは15、6歳の時、アメリカへ行くのだと言い出しました。「私の郷里の方では渡米熱が盛んで、みんなそこへ出稼ぎに行つたものだ。」周りの者はまだ子供だからと反対しましたが、実さんは頑として応じませんでした。母は実さんの心持ちを推し測って「あの子だつて、そんな遠いところへ好んで行きたくはなかつたにきまつてゐる。ただ親がなくつて兄弟が四人もよその家で世話にならなければならないのがいやだつたのだらう。それに較べるとお前など仕合せなものだ。」と、「私」はよく諭されたと言います。父の洋服を仕立て直したりして実さんは出発していきました。町外れの森の中にその姿が見えなくなった時、母は「癪(しゃく)を起した。」、以来母の持病となったと言うことです。「癪を起す」とは、胸や腹が急にさし込む痛さに見舞われることです。 実さんは父が神戸から乗船するように勧めたにも関わらず、東京見物でもしたかったのでしょうか、横浜から乗船し、直後に横浜でコレラが流行、神戸からの乗船者はすぐにサンフランシスコで下船が許されましたが、横浜からの者は下船が許されず、2ケ月ほど留め置かれたということです。 「私の母方の祖母」と言いますから、満屋村から竹田豊三郎(文化14年生まれ)に嫁入ったとみゑ(天保4年生まれ)のことで、この人もまた「やつぱり父の家にゐた。」。「私」はおばあさんの部屋へ行ってよく話し相手になったので「親切な子」だと亡くなるまで褒めてくれたようです。おばあさんは頻りにアメリカのことを聞きたがりました。それは、「私」の伯父の家内と言いますから、槌五郎の妻立岩カメノでしょうか、そのカメノの兄がアメリカで医者をしていました。それに実さんもアメリカに渡りました。そんな血縁の者が居るアメリカの様子を知りたがった、ということでしょう。 実さんは「そこで皿洗ひをしたり葡萄採りをしたりして金を儲けては勉強してゐるといふことであつた。何でも夏休みの時だけ仕事を精一杯して、外の時には学校へ行くのださうだ。」。 恐らくアメリカに渡る前に実さんも読んだであろう「渡米雑誌」。そこには苦学しながら生活する術や体験談が多く記され、若者の渡米熱を煽っていました。実さんの生活も特殊なものではなく、スクールボーイという制度などもありました。上流家庭に住み込んで、家事なども手伝いながら、通学を保障してもらう、そんな生活です。後に新宮で医院を開業する大石誠之助もスクールボーイとして、アメリカの地で医師免許を取得しています。そうして、自身のアメリカ体験やアメリカ生活の心得などを「渡米雑誌」に寄稿しているのです。

佐藤春夫の少年時代(18)

・母方の系譜と春夫の「初めての旅」(2) 政代の兄、竹田家の当主竹田槌五郎は、明治31年7月3日和歌山市南牛町の自宅で亡くなっています。進行性筋萎縮症を患い、死因は沈墜性肝炎でした(死亡診断書より)。安政4年3月22日の生まれで、享年41歳でした。 「母の兄の最後の槌五郎ははじめ小学校の教師などをしてゐたが、後には妹婿(つまりわたくしの父)をたよつて熊野の方へ来て三等郵便局の局長をしてゐたといふ。ちやうどわたくしの生れた明治二十五年ごろは紀州の勝浦にゐたので、新宮まで五里の道を駆けつけて妹の安産を喜び、わたくしの前途をも祝福してくれたと聞く。しかしわたくしはこの伯父に見おぼえはない。この人はわたくしの六歳の晩夏に脳溢血か何かでまだ四十を出たばかり、あと厄だかの若さで亡くなつたからである。」(「追憶」・「中央公論」昭和31年4月)と春夫は述べていますが、「はじめ小学校の教師」をしていた明治6、7年頃、和歌山市湊紺屋町の雄(おの)小学校で教えたのが世界的な博物学者南方熊楠でした。熊楠は「当時七、八歳なりし小生をことのほか愛し、平民の倅ながら後来必ず天下に名を抗(あ)ぐるものと毎々いわれ候」と記しています。この手記は、春夫が亡くなってから公開されたもので、春夫は眼にする機会がありませんでした。熊楠の伝記本としては3作目に当たるとされる佐藤春夫の『近代神仙譚―天皇・南方熊楠・孫逸仙』が乾元社から刊行されたのは1952年3月で、この手記を目にして、自身の伯父が熊楠の幼少期にその才能を見抜いていたことを知っていたならば、何か一家言はあったであろうことを想像させられるのは楽しいことです。この本は2017年11月河出書房文庫本で『南方熊楠 近代神仙譚』と改題されて刊行されましたが、「今なお色あせない名著」として唐澤大輔が解説文を書いています。「本書が、今なお色あせず、むしろヴィヴィッドに我々に迫ってくるのは、佐藤春夫の抜群の言語センスと鋭いと洞察力によるものであろう。また、その素晴らしい構成力にも感嘆させられる」として、その後の研究では一般化している、熊楠と羽山家の人たちとの不思議な縁にいち早く着目した春夫の慧眼に触れています。             1952年 乾元社から刊行された『近代神仙譚』 「姉は後に和歌山の伯母の許に寄寓して和歌山の女学校に学び、祖母の家へもよく行つたから村の名もよくおぼえてゐるであらうが、わたくしは家での呼び方に従つて湯川氏の在所をただ「三(み)つ家(や)」とばかりおぼえてゐる。」(「追懐」の「その三 祖母の家」)とある、春夫の祖母(とみゑ・天保4年生まれ)の里湯川家の「三つ屋」とは、那賀郡小倉(おぐら)荘の満屋村(現和歌山市)のことで、父は湯川嘉左衛門といいます。「紀伊続風土記」の「満屋村」の個所には、家数49軒、人数174人、「地士 湯川善十郎」の表記もあります。地士とは、戦国期紀州は土豪の小勢力が分割支配したにとどまり、戦国大名が成長しなかったこともあって、紀州に入った徳川頼宣は、土着のまま名字帯刀の武士身分を許し、庄屋とともに地方の代官の役割を担わせました。時代と共に地士の数は増え、商家や医家などにも広がっていったようです。その地士湯川善十郎と嘉左衛門との関係は不明ですが、おそらく一族と解してよいのでしょう。 その「三つ家」の家は、「子供ごころにも甚だすばらしい家に思へた。黒い柱やすすけた台所の天井に見る小屋組のがつしりと見えてゐる田舎屋がめずらしく、そこの大きな戸を自分であけようとしても、とても子供の力では開けたてできないのが面白くくやしくて」完全に自分で開け閉めできるように努力した。さらに、「最も気に入つたのは祖母の家の奥座敷が大きな池の上にのし出して造られてゐたことで、わたくしはその座敷のまはりの椽の手すりにつかまつたままいつまでも池の鯉を飽かずに眺めて遊んだものであつた」(「その三 祖母の家」)ということが、自身がその後、池と言わず、静かな水に面した風景が最も好ましいものと感じる原体験と言えるものでした。 晩年、自身が命名した湯川のゆかし潟の地に、居宅を構えようとしていたということも、長年の夢の実現を試みようとしていたのでしょう。

フランスあれこれ111 セーヌ川にかかるビラケム橋

ご存じのエッフェル塔のセーヌ川を挟んだ対岸がシャイヨー宮殿、この間の橋がイエナ橋、そして問題の橋はもう一つ下流側にあるビラケム橋です。不思議なのは2階建てになっていて上に地下鉄が走り、下の中央が歩道で、両脇に車道があります。最初は誰がこんな橋の設計を?そしてその理由は?という疑問を持ちました。教えられた回答は単純明快、地下鉄が後から出来たので改造したということで一応納得。今回改めてその背景を古いパリの案内書やネットで調べてみました。時代背景には興味深いものがあります。 1862年第2回パリ万博に日本が初めて参加、フランスの先進性を見てビックリしたわけですが、第3回のパリ万博が1878年に開催されました。この万博のシンボルが“自由の女神”の頭部分でした。アメリカ独立から約100年という事もあり、この後ニューヨークの自由の女神を制作して送られました。ただフランスがドイツに敗れた普仏戦争の後でドイツは万博に招待されなかったといういわくつきの万博の時にこの橋が建造されました。建設当初は単純に人だけがセーヌの対岸に渡る歩道橋でした。対岸にはパリ16区のパッシーと言う商店街があってそこに人を寄せる心算だったのではないかと思います。当時この橋の名前が「パッシー歩道橋」でした。 1889年第4回パリ万博(この時エッフェル塔がシンボルになった)を境に交通事情が急速に変化します。1903年橋の改良工事に取り掛かりますがきっかけはメトロ(パリの地下鉄)、同時に自動車道路も並行して工事されることになりました。 橋の中央付近から下に降りるとセーヌ川の中央に人口の中洲、そして“白鳥の散歩道”と言われる細長い小道があります。せいぜい1km程度で次の橋(グルネル橋)に来ます。その先端に自由の女神のオリジナルの一つが立っています。これはフランスの革命100年を記念して当時の在仏アメリカ人から贈られたと聞きます。この辺りから見るエッフェル塔は絵になる雰囲気です。自由の女神は川下、即ち西を向いています。その先の向こうはニューヨークと言う次第。 さてこのビラケム橋の名前ですが、先の第2次世界大戦の最中、1942年、アフリカ北部のリビアでフランス自由軍とドイツのロンメル将軍率いる陸軍との激しい戦闘があり、フランス兵約3000名の犠牲を出しながら要塞を守ったと言われます。その地の名前であるBir Hakeimを後世に残すためという事が背景です。橋が大きく改造されたことが名前を変えるのにも都合の良いタイミングだったかと思います。  

佐藤春夫の少年時代(17)

・母方の系譜と春夫の「初めての旅」(1) 「甘やかされた子ども」は「いつも詩人である」、「つまり詩人をつくる為めには甘い母が必要なのだ」(「わが父わが母及びその子われ」)とされる春夫の母政代は、和歌山市湊の竹田家の出で、「紀州徳川家の御庭奉行」であったと、これまで言われてきました(直接の春夫の言や全集年譜)。 春夫の作品「追憶」によれば、伏虎城(和歌山城)の写真を見て、前景に映っている「扇の芝」という広場は「わたくしの母の家の裏木戸につづく二百歩ばかりの小路を出た突き当りに見える広場」であった。母のおぼつかない記憶によれば、竹田氏は「もと四国の某藩主に仕へてゐたが、その藩主が入婿として(?ママ)和歌山へ迎へられた時、竹田氏の祖先も供人となつて来て紀州の藩士となつた家であつたが、代代槌五郎を名とし、最も重く用ゐられた時代がお庭奉行と云ふものであつたといふから」とあるところから、「御庭奉行」という職が当てられているのですが、春夫は「殿様のお茶室のぐるりにゐた閑職らしく」と解しているものの、「御庭奉行」はむしろ隠密、密偵の役割で、紀州藩主から8代将軍に就いた徳川吉宗は、江戸幕府のなかにこの職を設け、紀州から連れて来た17人の者を主に大奥の動向を探らせたのが始まりとされ、やがて将軍直属の密偵として市中の風聞や諸大名の動静を探る役割を担うようになっていったのです。 武内善信氏(元和歌山市立博物館学芸員)の示教によれば、「四国の某藩」とは紀州藩初代の徳川頼宣(よりのぶ)の次男頼純(よりずみ)が藩主となって3万石で入封した伊予西条の松平家で、紀州藩の支藩のような立場で、西条松平家の藩主は3度紀州藩の藩主になっていますが、「入り婿」の立場の者はいません。最初は、5代藩主吉宗が将軍となったので、6代に西条から宗直が、8代の重倫が幕府から隠居を命じられたので、9代に治貞が、13代の慶福が将軍家茂になったので、最後の藩主として14代茂承が、それぞれ紀州に入っています。14代は幕末なので、竹田氏が同伴して紀州入りしたのは、6代の宗直か、9代の治貞の折であろう、と言います。 竹田槌五郎の父豊三郎が載った藩士名簿には(「文久元紀士鑑 乾」「和歌山御家中御目見以上以下 伊呂波寄惣姓名帳」・『和歌山県史近世史料1』所収)、豊三郎は「切米二五石」 「虎之間席並 大御番(おおごばん)」と出ているということで、「家が近かった」「沢の老人」というのも、当時の絵図には竹田家の隣家に出ている沢善右衛門のことで、その子が沢潤一郎であろうと言います。沢家も「勘定方」ではなく、同じ「大御番」で「切米二五石」、下級武士ですが、藩主に「御目見」(直接、接見が可能)以上の藩士で、「大番」とも呼称される「大御番」は、歴(れっき)とした戦闘部隊の役割だったと言います。  「何しろ母の祖父の槌五郎は一種の幇間的寵臣であつたらしく、扇の芝に近い湊南牛町といふ城に近い土地に相当に広い屋敷を与へられてゐたもののやうであつたが、長州征伐以後藩の財政の困難につれて藩士一同も困つてゐるところへ維新になつていよいよ微禄にしてしまひ、はじめは人に貸して置いた土地を追々と人に掠められた末、(略)徳川さまでも瓦解のご時勢だからといつも口癖のやうにさうつぶやきながら一切をあきらめて、(略)終に十間ほどあつた母屋の大半を開放して、そのころ出来た県庁の小役人や諸学校の教師や学生などを止宿させて口を糊するまでに落ちぶれてゐた。」(「追憶」)ということです。             写真は「絵図」。竹田家・沢家が表記され、扇の芝も表記されている。(武内義信氏提供) 佐藤豊太郎はこの竹田家に下宿して、医学校に通ったのです。 明治31年7月、春夫6歳の夏、母政代に伴われての「初めての旅」は、母親の里和歌山への里帰り、兄の竹田槌五郎が41歳で病没した時の前後だったようです。「追憶」や「日本ところどころ」では、明確に「弔問」と記されているのですが、「回想」では「母はその時、中風で死の床にゐる兄を見舞ふために和歌山へ出発したのだ。さうして僕は伴はれた。」とあります。「わが生ひ立ち」では、「その枕辺に座つたことがあつたーそれもまだ生きてゐた病人(な)のか、それともゝう回復しなくなつた病人の枕辺であつたか、それさへ思ひだすことがおぶつかない。」とあって、記憶ははなはだ曖昧です。そうして、どの作品にも野辺送りの叙述がまったく描かれていなくて、記憶から飛んでいます。 どの作品にも共通して描かれているのは、小さな船(100トンとも300トンとも)の船旅の困難さ、和歌山の紀ノ川河口の港青岸での艀(はしけ)での上下船、母の里の佇まい、それから母の母、祖母の実家を訪れた時の田舎の屋敷の佇まい、などですが、ただ就寝の折、新宮で待つ父親が急死してしまうのではないかという恐怖感に襲われたと言うことです。伯父の臨終に立ち合ったからでしょうか。 母親の危篤の兄の介抱、臨終の看取り、野辺送り、一段落しての母親の里への汽車の旅、「全くこの旅行は、思ひも及ばないほど僕に有益であつた。僕が能くものを観たり感じたりする力は、別個の周囲に置かれて、その間に著しく養成せられたらしい。僕はこの幼少の旅に就て、数多くのさうしてより以上に質に於て渥味(こく)のある印象を、今も心に蓄へてゐる。―いずれは至極あどけないものではあるが。」と言い、「この旅を一期劃としてこの以後、僕には子供ながらにも多少つながりのある生活らしいものがややに展開し出してゐるのに気がつく。即ち、ものごころが完全についたのだ。」とも言います。(「回想」) 春夫はこの年4月、新宮尋常小学校に学齢より早く変則入学しています。4月9日生まれの春夫は、学齢通り通学させるよりも早い目に通学させる方が有益だろうと考えての父親の計らいだったようです。

佐藤春夫の少年時代(16)

・父の医学修業と新宮での開院(7) 元治元年(1864)生まれで、代々太地の地の医家の息子で、勝浦で開業していた長雄道二の私家版「漫筆」(昭和9年2月)の中に、「熊野と病院」と題した次のような文があります。道二は豊太郎より2歳年下ですが、幼いころから切磋琢磨した仲で、先に「老父のはなし」に出てきた那智山下井関村の長雄友諒は道二の叔父で、豊太郎も道二も薫陶を受けています。道二も和歌山の医学校に学んだ時、豊太郎と同じ竹田家に止宿、「或夏佐藤豊太郎氏に随伴して根来に至り、一廃寺を仮りの宿と定め起き臥しせしことありき。」と言っています。 「我が熊野に於ける病院の元祖は明治二十年時代に佐藤豊太郎氏の設立せる熊野病院にして、規模広大ならざりしも、遉(さすが)は地方に於ける唯一の治療機関として将(はた)又斬新の治術を渇望せる時代の寵児(ちょうじ)として、引く手あまたの繁盛振りは佐藤の敏腕を事実の上に表はして、多年の奮闘遂に絶大の効果を獲得して熊野杏林界(きょうりんかい)の花と謌(うた)はれ王者と仰がれたり。然るに処世に巧(たくみ)なる彼は何を感じ何を策してか、突然病院を捨てて北海の国に躍進せしが幾何(いくばく)もなく帰郷して、祖父以来顧みざりし懸泉の清水(しみず)にゆあみしつつ世外に超然たり。予惟(おも)ふ渠(かれ)は沈思遠慮小心膽大にして経済的観念強く進退去就に吝(りん)ならざる人なり。蓋(けだし)今日の大を致せる是等諸因の化学的飽和作用に因(よ)らざるはなし。予曽(かっ)て佐藤に倣(なら)はんとして能(あた)はず遂に糟糠(そうこう)を嘗(な)む。今にして之を懐(おも)へば実に夢のうき世に夢を視(み)し心地ぞするなり。」 「吝(りん)ならざる人」とは、惜しむことはない、悔やむ事はないの意ですが、道二は旧知の間柄である豊太郎の生き方の大胆さ、豪気さにやや不安を感じながらも、ある意味羨望の念を抱いていることも分かります。 丹鶴山下の景(『今昔・熊野の百景』より)(お濠の手前右が新宮町役場。通りをはさんで熊野病院。天理教会の屋根もみえる。熊野川の向こうは三重県の山々) 熊野新報記者であった永広柴雪(えひろさいせつ)は、熊野病院が建設された頃の思い出を「新宮史話」として綴っています(「紀南新聞」昭和32年7月9日付)。それによれば、病院の横の登坂の道路は急坂で、左側には民家はなく、右側お濠の土手の上に小さな木造平屋の新宮町役場がありました。役場から向こう右側に三勢文という木賃宿ほか、3、4軒の民家が並び、共同井戸があってそこを右に折れ、椎の木林の山道伝いに伊佐田に通じていました。 城の山裾を開いて石積み工事を行い、そこに建てられた熊野病院は、速玉神社の鳥居と向き合う形で西側に面し、前の石段に二筋の石が敷かれているのは、人力車の運行の便宜を考えてのものでした。正面左側は仲之町方面にかけて芝生の土手が続いていました。土手の向こう左側には、「お下(しも)屋敷」と呼ばれる下級武士の長屋があり、通りに面して武家屋敷特有の真ん中に横木が入った「曰(いわ)く窓」付き(「曰く」の漢字が横に棒が一本入っているとことからこの呼称がつきました)で、2、3ケ所に入口がありました。やがて中学時代の春夫らの溜まり場にもなる「お下屋敷」です。 永広はまた、宴席での豊太郎の様子も伝えています。 東牟婁郡医師会の総会は瑞泉寺(大寺)と決まっていて、「酒も可なり強く」(下戸であった春夫とは対照的です。)酒席では頼山陽の「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河を過(わた)る」の詩吟を朗唱したと言うことです。武田信玄と上杉謙信との「川中島の戦い」を題材にした、頼山陽の漢詩「不識庵機山を撃つの図に題す」の謡い出しで、不識庵とは上杉謙信の法号、機山とは武田信玄の法号で、謙信の軍勢が機先を制して夜中千曲川を渡った様を叙しています。一方で、老妓の三味線で端唄(はうた)物などもうたったということです。端唄と言うのは江戸時代に流行した三味線音楽としての小唄類で、特に「紀伊の国は音無川の水上に立たせたまふは船玉山(せんぎょくざん)」ではじまる端唄「紀伊の国」は、幕末に大流行しました。作者は、新宮藩の江戸詰め家老関匡と玉松千年人兄弟が作り、二世の川上不白が校閲したものであることを、小野芳彦が調査、それを受けて南方熊楠が「民俗学」(昭和5年7月・8 月・10月)に発表しています。豊太郎が愛唱したのも「紀伊の国」だったのでしょうか、硬軟取り混ぜた対応と言えます。 このころ、瑞泉寺の本堂は新宮では一番広い空間で、さまざまな集会が催されたようで、町議会の議場にもなっています。 熊野新報社社長で医師でもあった宮本守中は、長く医師会会長を務めた関係で、永広も記者としてではなく、会長秘書のような役割で総会に参加していたようです。 禄亭大石誠之助が拘束されて東京に護送されてゆくとき、人力車の上から永広柴雪に投げかけたという「門外先生によろしく」との最後のことば(「熊野誌」6号・1961年7月)は、門外と号した医師仲間の宮本守中のことです。宮本はいわゆる「改革派」の領袖で、明治38年3月から翌年2月まで新宮町長を務めています。 佐藤豊太郎が新宮の地で開院していたのは、北海道へ行って途中閉鎖していた時期があるとは言え、明治19年から大正11年までのことでした。 例えば、「牟婁新報」明治39年1月24日付2面には「○熊野院長解任 東郡新宮町の熊野病院長医学士森田槇太郎氏は今回院務の都合により解任となり去廿日東郡を発し東京に向ふ」の記事が出ています。解任の理由等、これ以外の事はまったく不明ですが、明治41年病院を一時閉鎖して青木眼科医院に貸与したことと言い(春夫全集の年譜では明治40年とありますが、41年が正しい)、豊太郎の北海道行きと関連していることは間違いがないでしょう。豊太郎の北海道での農場経営も、任せていた人に背かれたりしたことなどもあって、順調であったとはいえず、本拠を止若から十弗に移したりしています。十弗で診療所のようなものを設けたこともあるようですが、大正期に入って再び熊野での病院経営に力を尽くし、新しく耳鼻咽喉科の医師を招いたこともあるようです。 大正6年10月と言えば、豊太郎は熊野での病院を再開していたのでしょう、北海道の農場の問題の処理に妻政代が派遣されたことがあり、東京から春夫も同行したようです。さらに春夫は、大正13年8月今度は弟の住む北海道の農場を訪れています。その折の体験談が、蜜蜂を飼う男の話「雁の旅」(昭和12年4月「中央公論」)です。母親の姓である竹田を継いだ弟夏樹は、慶応大学理財科で学んでいた時から、演劇や映画に興味を深め、小山内薫の劇活動に係わったこともありました。しかしながら関東大震災の災禍はそれらの道を断念せしめ、北海道の父の農場に定住することを決意させます。30歳の時でした。土地の人が、風が強くてとても住宅には向かないという豊頃町十弗の高台に居を構え「馬耳東風荘(ばじとうふうそう)」と名付けます。馬の耳に念仏、周りの人の言うことには耳を貸さない、という意味を込めたものです。しかしクリスチャンとして地域の人たちの厚い信頼を勝ち取り、近所に郵便局がなくて不便だと土地の人々が言うので特定郵便局を作ったり、隣町に池田女子高校(現江陵高校)が出来たときには校長に就任、昭和33年1月春夫はその学校の校歌を作詩、息子の方哉(まさや)が作曲を手掛けて贈っています。 春夫の最晩年の作品「わが北海道」の「序章 ふるさとの思ひ」では、「この土地には父母とつながる思ひ出が多い。しかも、熊野の地にゐる時の父母よりもかへつて印象は深かつた。/そもそも、ふるさとといふのは縁故のある土地といふ意味だから、生れたのもふるさと、育つたのもふるさと、住んだところもふるさとと呼んでよいのである。さういへば、北海道の十勝は、ほんのふた月あまりであつたとは言へ、わがはじめて住んだ他郷であつたから、一種のふるさとには相違なく、その時は家族みんな揃つて住んだため他郷ながらも今になるとふるさとの感がふかいのでもあらう。」と述べています。 AD

佐藤春夫の少年時代(15)

・父の医学修業と新宮での開院(6) 豊太郎の新宮での開業は、かなり早い時期からの目論見であったのかもしれません。大阪遊学から東京行への望みが脚気病によって絶たれた時、そうして祖母や養父母の強い要望を容れて、明治12年4月和歌山の医学校への入学が決まる以前、明治11年12月「日不詳」に、佐藤豊太郎は新宮町7634番地の「佐藤辰右衛門」の廃嫡の戸籍を再興、届け出受付が受理されているからです。 「父が目星をつけた土地が栄えたと同じやうに、父が創設した病院も成功してゐた。/父は外科が専門で、山間の労働者に多い怪我人を治療する目的で、外科を主にした病院を思ひついたものらしい。養父母が実子に跡をつがせたい意嚮のあるのを見て、当然の相続権を放棄し、その代りに勝手な結婚をしたわたくしの父は、那智山南麓の祖先の地から新宮に出て、廃家になつてゐた同姓の他人の家を相続した形で、養父母とは全く絶縁してゐた。それが養父母の側にも、その干渉なしに生きられるわたくしの父にとつても好都合であつたのであらう。」(「追懐」)と、春夫は述べていますが、戸籍再興の時期は結婚のはるか以前のことで、春夫の姪の、豊太郎の孫にあたる佐藤智恵子も「懸泉堂と春夫」(「熊野誌」38号・平成4年12月)という文章で、絶家していた家を再興し別戸を開き戸主となったことに触れていて、そこでは明治11年のことと、明確に記されています。豊太郎はまだ17歳でした。 豊太郎の養父鞠峯(百樹)には5男2女が居ましたが、男子2人は幼少の内に亡くなり、3男は学業半ばで病に倒れています。長女もやがて兄たちの後を追い、2女梢は若林欽堂の後妻となって、若林芳樹らを育てました。昭和36年芳樹が編した「欽堂詩鈔」の叙で、春夫は中学生の時代、学校傍の若林宅に昼弁当を食べに立ち寄り、その書斎を眺めた思い出などを記しています。 鞠峯の3男の延吉は、明治13年4月の生まれ、東京の独逸協会に遊学して医学の道を目指し、後継として期待されましたが、病魔に侵され止む無く帰郷、その後熊野病院に入院して治療に努めましたが、甲斐なく明治36年11月に没しています。延吉は「採圃」とも号して句作にも精を出していたようで、その詩魂は春夫にも受け継がれているのではないかとは、清水徳太郎の見立てです(「新宮町新派俳句事始」・「熊野誌」特集号・昭和55年6月)。 「「自分は辰右衛門家を再興したのでその佛をまつって居ますし今はどうすることも出来ません。ただ自分は一旦別戸した以上自分でどこまでも貫きたいという一心です。決して家を思はぬというような不心得はないのですという話をしました」と百樹死後に書いた回想記にしるしています。何としても自分を納得させられないものがあったようですが遂に止むなく、新宮の佐藤家は(名跡のみですが)春夫にゆずり、自らは下里に帰って名実共に懸泉堂の四代目の戸主となったわけです。大正十一年でした。」と、跡継ぎをすべて亡くして失意の鞠峯から、懸泉堂の相続を再三依頼された豊太郎は断りの言を伝えながらも、引き受けざるをえなくなった事情を、佐藤智恵子は先の文章に記しています。 ところで、豊太郎が熊野病院の経営からやや遠ざかり始めたのは、総合病院としての「新宮病院」が開院されたことも一つの原因だったと言えます。新宮町内の有志を中心に奈良県の十津川や北山の山林業者、木材業者などにも呼びかけ、出資者80名余、拠出金2万4千円で建てられた総合病院、内科、外科、耳鼻咽喉科、産科、婦人科、小児科を有し、しかも東京帝国大学出の医師を多くそろえた病院であっただけに、なかなか太刀打ちできない状況が生まれてきたのではないでしょうか。さらにそこには政治的な状況も絡んでいて、総合病院招致に力を尽くしたのは、いわゆる「実業派」(旦那連)といわれる人たちで、豊太郎などが支持した「改革派」「革新派」と言われる人たちとは、一線を画しており、種々な施策をめぐって対立が先鋭化し始めていたのです。 新宮病院は明治41(1908)年9月、筒井八百珠(つついやおじゅ)の勧めで、一般人の寄付によって、この地に紀南地方唯一の総合病院として出発しました。初代院主は新宮で開業していた松井南洋(まついなんよう)、院長は東京から招聘された西川義方(にしかわよしかた)が努めました。                 新宮病院(手前の瓦屋根とグランドは第一尋常小学校。熊野川方面から仲之町方面を望む。)                 明治41年9月24日付「熊野実業新聞」に掲載された新宮病院の特別広告 開院当初は現在よりももっと面積が広く、木造2階建て、表は槇の生垣で囲まれ、松や青桐、山桃などの植え込みがあり、玄関は洋風。北側の裏は、第一尋常小学校(後の丹鶴小)に隣接していました。しかし、この建物は、1946(昭和21)年12月の南海大震災による火災で焼失してしまいました。 筒井八百珠(1863―1921)は、新宮仲之町の生まれ。筒井家は新宮藩の剣道指南の家柄、新宮病院隣りに屋敷を構えていました。三重県医学校から東京帝国大学医科大学を卒業、千葉医学専門学校を経てドイツに留学して研鑽を積みました。その著『臨床医典』(大正10年南江堂刊・ドイツ語医書の翻訳)は、当時の医学生の必読の書で、長年のベストセラーであったと言えます。筒井が千葉にいた頃、新宮の裕福な木材商らが東京深川の木場に支店を多く出していました。それらの人々に総合病院の設立の要を説いて、医師派遣の手配などを行ったのです。1913(大正2)年岡山医学専門学校の第2代校長に任ぜられ、その後岡山大学医学部創設に尽力しました。絶えず郷土の人々を思いやり、よく面倒をみて、病人の保証人なども買って出たと言います。「鳩ぽっぽ」の作詞者東くめは、筒井の姉琴世(ことよ)の長女に当たります。 病院長の西川義方(1880―1968)は和歌山市の生まれ。東京帝国大学医科大学卒業後、筒井八百珠の推薦で、新宮病院の院長として新宮にやってきました。文学的な才能も豊かで、すでに「明星」派の同人として活躍していました。「挽材(ひきざい)の鋸屑道(のこくずみち)のやは(わ)らかき熊野の海の春の長閑(のど)けさ」「熊野川若鮎(わかあゆ)さ走る早き瀬(せ)に妹(いも)とし立たば何か思は(わ)む(ん)」など、熊野の地での歌を多く残しています。新宮在任中、尾崎作次郎の娘やすと結婚。1914(大正3)年院長を辞職して上京、日本医学専門学校(現日本医科大学)教授となり、その後、大正天皇の侍医を務めました。 ドイツ文学者池内紀に『二列目の人世 隠れた異才たち』という本(2003年晶文社刊、のち集英社文庫)があります。1番を選ばない生き方としてモラエスほか16名が取り上げられていますが、そのうちの1人が西川義方でした。

佐藤春夫の少年時代(14)

・父の医学修業と新宮での開院(5) 北海道はまた、農地の開墾・開拓のほかに防備の仕事をする屯田兵(とんでんへい)として、多くの士族が移住を余儀なくされた土地でもありました。 開拓使の長官であった薩摩出身の黒田清隆は、「少年よ、大志をいだけ」(Boys, be ambitious)の格言で有名なクラークを、いわゆる「お雇い外国人」として札幌農学校の初代教頭として招聘し、クラークの指導の下、北海道の農業にアメリカ式の農業を取り入れたのです。しかし、北海道以外では、アメリカ式の農法は、あまり普及をみませんでした。黒田は開拓使の官有物を同じ薩摩出身の五代友厚の経営する関西貿易商会に格安で払い下げようとしたことが発覚、自由民権運動が大きなうねりを見せ始めていた時期で、反対運動が大きくなって、政府も国会開設を約束し、払い下げは取り下げられます。この問題も絡んで政争ともなり、大隈重信らは下野せざるをえなくなります。世に、「明治14年の政変」と言われる伊藤博文らの一種のクーデターのようなものだったのです。 屯田兵制度に続いて明治19年には植民計画のもと全道的な開発が始まりますが、特に樺太経営とロシアの南下への防備対策から石狩平野の開拓は喫緊の課題とされていました。 新天地を求めて600戸、2489名の者が、被災の難を逃れて、十津川村を後にしたのは、明治22年10月、神戸から3班に分かれ船で小樽に向かったのです。ドック原野に入植したのは翌年6月、政府の保護の下ではありましたが、未開の大地の厳しい自然との格闘は辛酸を極めたと言います。文武両道を尊んできた村人は、明治24年3月に南北に1校ずつ小学校を建て、明治28年には母村にならって高等教育の場の私立文武館を建てます。明治30年代になると北陸地方などからの移住者も増加しました。こうして「新十津川村」は発展していったのです。 豊太郎が森の意向をも受けて北海道への視察旅行に出かけるのは、明治31年夏の事であったといいますから、開拓をめぐっての国の諸問題はいちおう下火になって、新十津川建設に向かっての槌音の響きも熊野の地には伝わってきていたのでしょう。そうしてこの頃では、政府の力こぶ(補助金の支出など)も石狩川流域から十勝川流域に広がっていました。しかし十勝川はこの年と37年に大洪水に見舞われています。 「父も追々目鼻もついて来るとは言へ田舎の城下町の小病院では満足し切れない夢を持つて、こんなせせこましい井戸の底のやうな小世界の安住からは脱け出したい。と言つて、既に妻帯して、男女ふたりの幼児をかかへた身は、今更、若い者たちの争うて出かけるアメリカへ出かけることもできない。」(『わが北海道』の第4章「わが父のこと」)という春夫は、そこに「身の不遇を歎じて風雲を得たならば、もつと為す有る身であつたやうなことを愚痴つてゐた父」の姿を見、父の北海道行きは「明治の日本人相応に開拓者精神からの行動」であったと評価しています。 『わが北海道』(昭和39年6月新潮社刊)題字は春夫、春夫の急逝により、「あとがき」を井上靖が書いている。  「わが北海道」によれば、船酔いで苦しむ母子を介抱したことから知り合ったのが河西支庁長であったことから、その便宜を受けて払い下げを受けた最初の土地は、明治33年12月「十勝国中川郡十弗原野基地七番地から東一線二十六番地に亘る二十戸分約百町歩の土地」で、その後、無償付与の許可も受けて、豊太郎は本腰で農場経営に乗り出していったのです。 「明治四十年から四十一年にかけて、わたくしの父は郷里で募集して数家族に旅費、支度金を貸与して渡道せしめた。みな小作人として開墾地に入植したのである。この一団とともに父自身も病院は一時閉鎖して他に貸しつけ、薬局生をひとり書生としてひきつれ止若村に仮寓を設けたのも四十年であつた。はじめて渡道してからちやうど十年目で、彼が北海道の土地や林と取組んでゐる間に国は満州でロシヤと戦争をしてゐたのであつた。」 豊太郎が仮寓として定めたのは、十勝国中川郡止若(やむわつか)(現・十勝郡幕別町)、十弗(とうふつ・現豊頃町)で農場を経営しました。明治38年に鉄道の根室本線が釧路・帯広間が開通、40年には旭川とも繋がっています。明治42年止若に製渋(せいじゅう・タンニン)工場も出来ています。タンニンとは、渋(しぶ)とも言われ、多くの植物に存在する水溶性化合物ですが、強い結合力があって皮類を鞣(なめ)す働きをします。動物の皮などはそのまま使うと腐敗したり、乾燥すると固くなったりしますので、その欠点を取り除く方法が「なめし」であって、「皮」が「革」になるわけです。 春夫が母親と初めて北海道に渡り、父の農場を見、父が春夫の進学先と考えた札幌の農学校を見学し、帰途東北の松島を遊覧する旅行をしたのは、明治41年8月のことで、新宮中学4年生の夏季休暇を利用してのものでした。

佐藤春夫の少年時代(13)

・父の医学修業と新宮での開院(4) 森佐五右衛門は、明治26年5月から翌年の4月まで新宮町長を務めています。わずか1年間だけでしたが、そのことが早い目の隠居生活につながるのかもしれません。 森の隠居所は「千種葊(あん=庵)」と言い、新宮町の西側の隅、相筋(あいすじ)にあり、本邸は下馬町(しもうままち)にありました。相筋は明治の末に遊郭が設置される、三本杉があって、丸池があった、そのほんそばでした。 森は明治34、5年頃から糖尿病に悩まされ、38年の9月に養生を兼ねて京都に移住したようです。森の母親は京都生まれで、森は青少年時代からしばしば京都に遊んだと言うことです。明治39年豊太郎は見舞いのために上洛します。森は「はるばると渡り来ましし紀の海のそれより深し君がなさけは」という和歌を詠んで歓待してくれました。医業も忙しかろうが骨休めも兼ねしばらく滞在してはということで、10日間ほど滞在するうちに、森は急に「脳症を起され溘焉(こうえん・人の急な死)として長逝された。噫(ああ)其永別の悲磋(ひさ・悲しい嘆き)誌さんとして筆進まず几上に俯して歔欷(きょき・むせび泣き)これを久うす。時に夜窓秋雨瀟々(しょうしょう・寂しき雨)。/さびしくも閨(ねや)の窓うつ秋の雨ふりにしことをしのぶ夜すがら」と、豊太郎は万感の思いを込めて記しています。「ふりにし」は、雨が降ると「古い昔の思い出」との掛詞です。京都で逝去した森を偲んで書いた「森朗路翁を憶ふ」という文章(「南紀芸術」第2編第10冊・昭和9年1月)の結語に当たる個所です。               蕙雨山房主人(佐藤豊太郎)の「森朗路翁を憶ふ」が載る『南紀芸術』。表紙装幀は星野古陵画、題字は蕙雨山房主人。               その書き出し部分では、「翁の老友玉潔和尚は義気に富み且つ進歩主義の人で、私が開業した頃まだ西洋流の医者が少なかつたので私を鞭撻し又保護して下され、書生風を脱するには茶道を学ぶがよいと申され其初歩を授けられた」と書いています。豊太郎は森の周辺の文化人、知識人と親しくなり、漢学的な素養に磨きをかけました。のちに新宮中学開設に尽力し、春夫の中学時代の後見役にもなる漢学の大家小野芳彦との交流もそんななかで生まれたようです。小野は豊太郎よりも2歳年長、下里の高芝の地で明治10年代に小学校の教員をしたとき、佐藤家と縁のある佐藤源兵衛宅に止宿、のちにその養女を妻として、やがて生地の新宮に帰ってきて馬町に住みました。新宮中学で長く教鞭を執り、南方熊楠に資料等 を提供するとともに、郷土史の大家となります。死後刊行された浩瀚な大著『小野翁遺稿 熊野史』(昭和9年3月新宮中学同窓会刊)はその成果です。死の直前まで書き継がれた膨大な日記(明治大正昭和に亘る40数冊・昭和7年2月9日書き終えて床に就き明くる早朝、脳溢血で倒れ不帰の客となりました。享年73)は、新宮中学の歴史を辿るのに利用され、一部「新宮市史資料編下巻」に引用されているものの、研究が手つかずのまま眠っているのはいかにも惜しい。 春夫が父豊太郎の恩人森佐五右衛門に多く言及しているのは、最晩年の作品『わが北海道』の第4章「わが父のこと」です(「わが北海道」は昭和39年1月から3月「北海タイムス」に74回に亘って連載。6月新潮社から刊行されますが、春夫急逝後のことでした)。実家から飛び出す形で見も知らずの地、新宮で開業した豊太郎にとって「その時の地獄の佛、親切な家主さんが、父の患者の第一號ともなつて生涯わが父をこの上なく信頼し愛して父の力強い後援者ともなつた」と言います。「維新後も町内屈指の豪商であつた。偶然にもかういふ人を患家の第一號に持つた人の、醫者としての信用は町でも重きをなして、わが父の醫者としての信用の絲口はここにひらけたものであつた。」とも言います。 さらに、この森の援助が「この病院ばかりではなく、父がかねての夢を知つてかどうか、北海道へ進出にあたつても後援者となつたのは實にこの森老人であつた。」とも述べていて、豊太郎の北海道開拓の機縁も森を通してのものだったようです。 日清戦争後、木材を主とする新宮の商売人たちが、植民地となった台湾や朝鮮半島への注目から、そちらへ進出するものが多かったなかで、森が目を付けたのは北海道だったことで、豊太郎もすっかり意気投合したようです。かれらの先達として、大水害で被災した十津川村民が大挙北海道開拓に活路を見出そうとしたこともひとつの励みになったことでしょう。 明治2年(1869)に、明治政府は蝦夷地を「北海道」と改め、開拓使という役所を置きました。開拓史は官営工場の運営や、鉱山の開発などを行い、また北海道の開拓のため、日本各地から移住者を募って移住させました。 北海道の開発に伴い、先住民のアイヌ民族は従来の土地を失います。また、政府はアイヌに対して同化政策を強制、アイヌの風習の多くは否定されていったのです。アイヌの人びとは、日本語の使用や、日本風の姓名を名乗ることを強制されていったことも忘れてはならないことです。

手拭いの暖簾(36)白うさぎと花

手拭いがリバイバルでその良さ、使い道が再評価されて、古くからの老舗の手拭い屋に加えて所謂雑貨屋と称するアイデアを売り物にする店が増えてきました。デザインもモダン、色彩も華やかな手拭いを目にするようになりました。この白兎と花もその一枚です。今年の干支はうさぎなので、このような図柄が作られたのでしょう。はてさて花の名前が判らずにいます。 これは昔ながらのシャトル織機で織られたコットン100%の表示がありますが、片面のみの染めになっています。以前からの手拭いは注染染(ちゅうせんそめ)と言い、糊で防いで布地を何枚も重ねた上から染料を注ぐ日本独自の伝統的な型染めと、検索で教えて貰いました。裏も表も同じ色に染色が出来、染料のにじみやぼかしを活かして雅趣豊かな深みのある多彩な染色が出来るという事です。 時代の移り変わりに従って、日本古来の手拭いにも変化が見られるようになりました。古くから使い慣れて来たものの良さを大切にしながら、新しいタイプの製品にも目を向けていかなければならないようです。 この一枚も出不精になっていた私への贈り物!選ぶ好みも人それぞれで、吊った暖簾を見た人たちの反応もそれぞれに違いました。自分の考えに固執することなくあちらこちらの意見を聞くことも又大切であると、今更ながら思ったこの赤い一枚の手拭いでした。 AZ