手拭いの暖簾(35)風神雷神図

万年筆とインキ瓶のある不思議な風神雷神図の手拭い。藍色の濃淡だけのさっぱりとして、でも何かしら心惹かれる一枚です。我が家の手拭いの暖簾が最近代わり映えがしないので、「こんなおしゃれなのが見つかりました」とプレゼントに頂いたのです。 風神雷神図屏風は俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一の3枚が江戸時代前期、中期、後期に描かれていて、それぞれ国宝、重要文化財であり日本の誇る文化財です。尾形光琳と酒井抱一は出光美術館で二つ並べて見た記憶があります。もしかして俵屋宗達のも見たような見ていないような、残念ながら記憶がありません。勿体ないことです。 4枚目の、古典なのかモダンなのか理解し難いこの手拭いが妙に気に掛かり、遂に発売元の “かまわぬ”に電話をしました。銀座の伊東屋の専属発売品(もしかしてデザインが伊東屋?)で、制作は“かまわぬ”とのこと。不思議な図柄についての説明は「風神が屏風から飛び出し、インクをこぼして足跡を付けたのを雷神が怒っている図」だと返事を頂きました。納得!納得!これで安心して吊るすことが出来ます。そして一般人の知らないところでの商業の裏というか、からくりを垣間見ることになり、慣れ親しんだ銀座伊東、屋がビル建て替えのために閉店することも知りました。コロナ以来世の中が少しずつ変わっていくようで、淋しい気持ちにさせられた一枚の手拭いでした。 AZ    

佐藤春夫の少年時代(12)

・父の医学修業と新宮での開院(3) 豊太郎が「懐旧」の中で「和歌山の医学校」と「の」を表記しているのは、きわめて正確です。このころまだ和歌山医学校は誕生していなくて、豊太郎が卒業した年の明治15年7月「和歌山医学校」が成立しているからです。 豊太郎が入学した明治12年4月は、和歌山病院と称していて、もともと明治7年11月和歌山市7番町4番官邸の敷地・建物の払い下げを受けて医学校兼小病院として開設されたものが、明治9年2月に和歌山病院と改称され、東京医学校から院長を迎え、和歌山県病院条例、入学生徒通則・教則といった制度面も整えられて発足したものです。生徒通則によれば、正則と変則とに分かれ、正則は14歳以上で定員は30名、就学年限は5年で、他府県出身者は授業料年1円を徴収されたと言います。3年で課程を終えた豊太郎は変則で学んでいたのでしょうか。そうすると、以後の東京の順天堂への遊学はすでに折り込み済みのことであったのかも知れません。 「和歌山医学校」に改称されるのは明治15年7月、豊太郎の卒業後で、設備・体制を整えて翌16年2月の「和歌山医学校規則」によれば、早くも甲種医学校の認可を受けています。明治15年5月に公布された「医学校通則」によれば、甲種医学校の修業年限は4年、入学資格としては初等中等科卒業以上の学力が要求され、卒業生は無試験で医術開業免状が交付されました。明治17年で府県立医学校30校のうち甲種医学校は13校でした。しかしながら明治19年4月の「中学校令」の公付は、医学教育界をも大きく変貌させ、全国5ケ所に設置されることになった官立高等中学校の医科を中心に再編成されることになり、「和歌山医学校」は閉校を余儀なくされるのです。明治20年4月から付属病院だけが和歌山県病院として県の中核病院であり続けますが、それも日露戦争による財政難のために明治37年度限りで廃止となり、38年4月には日本赤十字社和歌山支部病院に引き継がれ、日赤和歌山病院は明治43年5月小松原4丁目に新築移転、7番丁の跡地は和歌山市役所となるのです。(和歌山県立文書館だより」9号参照) 『和歌山県文書館だより』9号より転載 豊太郎は明治19(1886)年3月14日、和歌山の医学校に通学した時、下宿した竹田家の長女政代と結婚しました。竹田家の下宿から医学校までは城のお濠を前にして、ごく近い距離でした。政代は豊太郎より1歳年長でした。懸泉堂の実家とは齟齬(そご)を来たしていましたから、新宮でのささやかな新婚生活の始まりとなったことでしょう。 この年4月1日町村制の実施によって、新宮は、新宮横町他23町村の名称を廃止して、新宮町が誕生し、戸長役場が廃止され、新宮町役場が置かれました。この年10月には紀州勝浦沖でイギリス船ノルマントン号が遭難、英人乗組員27名は全員ボートで脱出しますが、船内に放置された日本人乗客23名や中国人、インド人の火夫は溺死します。 英国の領事裁判で、船長への判決が獄3ヶ月であったことなどをめぐって、わが国の世論が沸騰して、大問題になってゆくのです。鹿鳴館での舞踏会等にうつつをぬかし、西洋文化礼賛だけの姿勢への批判に拍車がかかり、欧米との不平等条約改正を進めつつあった政府も、その内容が漏れたりして一頓挫をきたし、井上馨外務大臣は辞任にも追い込まれてゆきます。国会開設を間近かにして、自由民権運動が次第にしめつけられてくる中で、その後の社会的動向にもおおきな影響を与える事件でした。 ノルマントン号事件「ドバエ」1887年6月15日(牧原憲夫著『民権と憲法』岩波新書より転載) 巷(ちまた)では、1番は「岸打つ波の音高く・夜半(よわ)の嵐に夢さめて・青海原(あおうなばら)をながめつつ・わが兄弟(はらから)は何処(いずく)ぞと」、4番は「ついうかうかと乗せられて・波路(なみじ)もとおき遠州(えんしゅう)の・七十五里もはや過ぎて・今は紀伊なる熊野浦(くまのうら)」など、全部で59番まである歌として、軍歌「抜刀隊」のメロディーに乗せて歌われたのです。わが国の権威はどこにあるのかと問う内容は、時節柄もあって国民のナショナリズムを高揚させ、不平等条約の改正要求が一段と強まったのです。 漢方医ではなくはじめての西洋医としての豊太郎の新宮での開業は、そんな世論の中でしたが、豊太郎を庇護し、その後交流を深めたのは、豪商森佐五右衛門という人です。森は藩政の頃から藩の御用を務めた商人で、50歳前に家業を長子に譲り、すでに隠居、時の藩主水野忠幹から「朗路(さえじ)」の名を撰せられていました。諸芸に優れ、ことに茶道、生け花、和歌に堪能であったと言います。豊太郎は和歌の道を学んだということです。森が隠居していた邸宅を借りて開業したことが、知遇を得る縁になりました。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (熊エプ編集長・西 敏)

佐藤春夫の少年時代(11)

テーマ:館長のつぶやき―佐藤春夫の少年時代 ・父の医学修業と新宮での開院(2) 順天堂医事研究会は、明治18年から起こり毎月2回の集会を持ったといいますが、明治20年1月には「順天堂医事研究会報告」第1号が出ていますから、豊太郎は明治25年末か26年初めに上京して発表を行ったのでしょう。明治30年に野口英世が順天堂に職を奉じてこの雑誌の編集に当たったということです(「順天堂の歴史」小川鼎三・順天堂創立125周年記念講演「順天堂医学雑誌」)。 豊太郎は明治15年優秀な成績で和歌山の医学校を卒業した後、さらに医術を学ぶべく東京に遊学して順天堂に学んでいます。 順天堂は1838(天保9)年、佐藤泰然によって江戸の薬研堀に開塾された蘭方医学塾が始まりで、5年後「順天堂」と命名されて、現在の順天堂大学に及んでいます。天保14年には泰然は下総の佐倉藩に見込まれ、江戸を引き払っています。佐倉藩は他藩に先駆けていち早く西洋医学を採用した藩です。豊太郎の「昔佐倉の順天堂で子宮外妊娠に開腹術を施した事があつたとかいふが」とあったのは、幕末の佐倉時代ということで、明治になってからは豊太郎のが最初の誉れということになります。                       『閑談半日』 所収の「熊野と応挙・蘆雪」は初出が未詳。「老父のはなし」も収められています。 佐倉では長崎で学んだ佐藤泰然の養子佐藤尚中が、江戸では実子の松本良順(明治以後、順を名乗ります)がそれぞれ活躍し、幕末の医学教育の総元締めの役割を果たしています。 明治2(1869)年の冬、紀州熊野浦高芝の船人で豊太郎の母方の中地屋(なかじや)の一族である佐藤治右衛門(21歳)らが乗っていた船「住吉丸」が漂流、太平洋を漂っているところをアメリカの補助機関船に助けられるという出来事が起こっています。サンフランシスコに上陸すると、佐藤百太郎(ももたろう)という在留の日本人少年が通訳に出てきました。治右衛門は望郷の念に駆られ、2ヶ月くらいで帰国するのですが、その際百太郎の母堂宛の手紙を託され、届けたのを大変喜ばれたということがありました。 その日本人の少年佐藤百太郎は、順天堂の2代目佐藤尚中の長男でした。手紙を届けた親切が幸いして、順天堂では紀州高芝の者と云えば好意をもってくれていたということです。百太郎は医科の道に進まず、実業家として日米貿易の先駆者となり、日本における百貨店の創設者ともなるのです。百太郎は明治4年には、岩倉使節団一行の通訳も務めています。 豊太郎が東京に遊学して順天堂で学ぶのも、治右衛門と百太郎の関係がきっかけになったからだったと言われています。(「熊野懐旧録」佐藤良雄著の「熊野漂流民佐藤治右衛門と順天堂百太郎のサンフランシスの出会いについて」参照)。 豊太郎が順天堂で外科を志して師事した松本順が、明治23年春、田辺から中辺路を経て本宮に入り、瀞峡を見学して、新宮にやってきたことがありました。新宮からは豊太郎が案内して那智、勝浦、下里、古座を巡り、串本の無量寺で丸山応挙、長澤蘆雪の絵を鑑賞しました。それらの絵にいたく感動した松本は、応挙と蘆雪の子弟関係の機微について豊太郎に話し、国宝級のこれ等の絵を一般閲覧に供しているのは危険で、紙質の保存上も良くない、複製品の代え襖を作るのが良いと言って、寄付のノート帖を作らせて、最初に「松本順」と記したということです(春夫の「熊野と応挙・蘆雪」・『閑談半日』昭和9年7月所収)。松本は日本最初の陸軍軍医総監で、後に森鷗外もこの職に就きますが、わが国の衛生学の基礎も築き、マスク使用の有効性を初めて主張したとも言われています。この年9月、勅撰の貴族院議員にもなっています。 遡って「懐旧」によれば、豊太郎が地元の太地や那智で漢学の基礎や科学的知識を学んで、医学修業のために郷関を出るのは、明治11年3月、17歳の時でした。親戚宅に滞在し東京へ出て大学予備門に入るつもりだったようですが、まもなく重い脚気病にかかってしまいます。脚気は明治3年、4年にかけて大流行し、以後毎年6500から1万5千余の死者を出していた難病で、当時は原因が不明で、結核と並ぶ二大国民病でした。病原菌説や中毒説など種々論じられましたが、帝国陸軍では白米供給を頑なまでに貫き、日清・日露の戦役では多くの戦病死が脚気によるものだったのです。 豊太郎も志を果たせず、故郷帰還を余儀なくされます。幸い回復しましたが、遠方に行くことは許されず、和歌山の医学校に翌明治12年4月入学し、1年後主席を占め、3年の課程を経て卒業しました。郷関に帰ってしばらく医科を為したようですが、上京の念は消えがたく、譲渡されるべき資を当てに上京、順天堂で学んで医業を積み、主に外科学を修得して明治18年夏帰郷、23歳になっていました。やがて和歌山滞在中の下宿の娘との「自由結婚」を巡って、養父母らと齟齬を生じてゆくのです。

フランスあれこれ109 パリの潔癖家族

日本と比較して、パリは決して清潔な街ではありません。ヨーロッパ全般に靴のまま居間に上がります。玄関口に靴の泥拭いのマットのあるのは上等、いずれにせよ下足のまま部屋に入ります。一般の住宅では(高級住宅は別として)部屋にビデはあってもトイレは一旦廊下に出てご近所と共用というのが多いようです。 パリ市内でトイレと言えば先ずはカフェで借りるのが普通、狭い階段を下に降りてドアを開けると1m四方位の白いタイルで中央に一つの穴が開いているだけで、それも男女共用、あげくの果ては利用後一応自分で洗浄、即ち天井から降りているロープを引っ張って水で洗浄するのですが、これがびっくり!大量の水が飛び出して足元が水浸しなんてことも。ロープを引っ張ると同時にトイレを飛び出してドアを閉めるのですが、先ず一度は失敗するのが通常。 さて、タイトルの本題です。ある日(およそ60年位前の話です)ちょっとしたことで知り合ったご近所から、夕食にお招きいただきました。最初で最後の超潔癖家族のお話です。 パリでは珍しい一戸建て別荘風の建物で、入り口を入ってまずびっくり、それは素晴らしい庭園でした。中央のライトが夕暮れの庭園を照らし、花壇もあでやか。少し小道を歩いて玄関へ。そこで靴を拭う訳でもなく靴カバーを拝借、そして部屋に進みます。広い居間もすっきり、整理整頓は無論、壁の絵画や棚の置物も出しゃばらず、実に落ち着いた雰囲気です。ちょっとした歓談も非常に素直という印象を持っています。頂いた名刺ではドクター(docteur)即ち博士となっていますが、事情があって現在薬品会社の販売促進だと言って笑っていました。やがてテーブルに、そしてワインで乾杯・・・お皿が変わるごと奥さまがそれを持って台所へ、帰りには次の料理と言った具合、家内が一度お手伝いと皿運びをしたのですがビックリして戻ってきました。台所には何もないと言います。最後に近いタイミングでお手洗いと称して私もお手伝いの真似でお皿を持って台所に入ったのですが本当に何もなく綺麗さっぱり!正直、私もビックリ!不思議と驚きでした。 暫くして本屋で”Interieurs Parisiens”(パリっ子のインテリア)という本を見つけて購入、これは今も私の本棚にあります。この本の紹介写真の一つがこの潔癖家族の内装ではないか?と思ったり、それとは真逆でとんでもないインテリアの紹介だったり、要はパリジャンは千差万別、ピンからキリまで色々だと実感する次第です。(写真は上記の本からです)      

佐藤春夫の少年時代(10)

・父の医学修業と新宮での開院(1) 春夫の作品「老父のはなし」(昭和8年10月「文芸春秋」)は、春夫が生まれた年、明治25年の出来事として、父から聴いた話です。1月のこととありますから、まだ春夫は誕生していません。木村元雄(げんゆう)という老医の手紙をもっての往診依頼、長雄友諒という知り合いの手紙をもった往診依頼、ふたりの依頼が鉢合わせになってしまいました。「木村の方は熊野川を三四里日足(ひたり)まで泝(さかのぼ)つてそれから又山道を二三里登つて那智山のうしろに出る大山(おおやま)といふ大雲取・小雲取の間の小村。長雄の方は那智山下の井関村でこれは新宮から俥(くるま)で往ける五里足らずである。」結局、大山から険峻を越えて、井関に回ることにして出かけます。舟旅で句を案じつつの行程ですが、患者宅に着いたのは深夜の1時半。「患婦は三十五歳で三回分娩した位はまづわかつた。望診上体格は無論悪くはないが多少衰弱して血色もよくない。/先づかたの如く脈を診たりしてから腹帯を解かしめ、覆うたガーゼを去ると、あツと驚いた。患婦の臍の上右に小さな手がニユーと突き出て生へて居るではないか。はて妙だなと夢心地に自分の眼を疑ひながら松明りを近づけさせて見るやつぱり手には違ひない。真つ青でまるで蝋細工のやうではあるが触れてみると細工ものではない。あまりに不意で途迷うた。わしは臆病な男だから山中の一つ家しかも夜半若しや狐にばかされたのではあるまいか、今飲んだ酒もへんな匂ひがすると思つた。」とあります。                         大雲取・円座石(わろうだいし)熊野川町・大山(現新宮市)のすぐ近くにある。 (写真提供:新宮市) 夜が明けて冷静になってきて、これは子宮外妊娠かなと思ったということです。家族との会話で「勿論病気です子宮外妊娠と謂うてね、子ぶくろの外へ子どもが宿つたのです。それが出るところがないから破れて来たといふ様なわけと見えるね。まあ破れたのが為合せだね。」とあります。 明け方、木村老医もやってきて打ち合わせ。新宮まで連れてゆくわけにもゆかず、手術の準備を整え「腹壁を開いて胎児を取り出して見ると能く発育した男児で胎盤はもう腐爛に傾いてゐた。跡は腹壁を縫合して術を終つたのは午前九時であつた。」まさに不眠不休のまま、後事を木村医師に託して険峻な大雲取を那智山方面に向かいます。初めての大雲取越えです。「前方は渺茫(びょうぼう)無限の太平洋その雄大には言葉を呑んで驚いたまま自分免許の俳人終に一句も出ぬ。」状態。大海原の広がりは、疲労困憊の体躯には絶好の癒しになったことでしょう。川関の患者はあまり心配いらぬ病状で、その日のうちに新宮に帰還しました。 「翌年わたしは上京したので順天堂医事研究会席上これを報告し会報にも掲載された。四五年後婦人科雑誌に昔佐倉の順天堂で子宮外妊娠に開腹術を施した事があつたとかいふが、明治になつてこの術を行うたのはこれがはじめてであると書いてある、と友人宮本一郎氏から聞いた事がある。尤も自分のこの手術は破れて胎児の手が出てゐるのを見て已むを得ずした施術で一向手がらにはならぬ。その行き方が普通でなかつたのと、お前が生れる直ぐ前の出来事で印象が深かつたのが近ごろ方哉の誕生のことや何かから思ひ出されて来たので記憶にあるままを話したわけである。」とあるのは、終わり近く。 明治26年6月「順天堂医事研究会報告」に掲載されている「腹腔妊娠治験」が、それに当たります。 ちなみに木村元雄医師とは、戦時下、「横浜事件」という不当な言論弾圧事件で逮捕された雑誌編集者木村亨(とおる)の祖父に当たる人です。木村亨は戦後も、冤罪事件の犠牲者として、国の責任を追及して再審請求などで戦い続けるのです。

今日の散歩道(269)~ヒメオドリコソウ(姫踊り子草)

草むらで見つけた「ヒメオドリコソウ」、これはシソ科の多年草で、花の輪生している姿が、花笠を被って踊っている「踊り子」に見えることで、付いた名前です。 ヨーロッパが原産で明治中期に渡来したものですが、帰化植物となって本州の各地に分布しています、ホトケノザと草姿が良く似ているので、私も最近までそうでしたが、混同している人が多い植物です。 繫殖力が強く、一度生えると、あっと言う間に周辺植物を駆逐して仕舞うので、農家にとっては厄介者の雑草です。食べられる野草の本では、天婦羅 胡麻和え おしたしでの食用を推奨していますが、ネットの書き込みでは、口触りが悪くて美味しくないとの意見が多いようです。 葉っぱを乾燥させた物はハーブティーにすると、糖度が50%の花の甘みと香りの良さが好評なようで、腰痛にも効果が有るそうですが、私は試していません。 ヒメオドリコソウの花言葉は「春の幸せ」との事です。 さて、一日一花を紹介してきた「今日の散歩道」ですが、3月末をゴールに設定していたのですが、改めて調べると昨年スタートしたのが4月6日でした。 この時期は園芸種 野生種共に、咲く花も多いので、4月5日を最終日と延長しました、もう少しの間お付き合い願います。 山仲春男