佐藤春夫の少年時代(8)

父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(4) 春夫にとって「懸泉堂」は、父祖伝来の地、そこを歌った作品の代表としてまず挙げられるのは「故園晩秋の歌」です。散文詩風な表記で、文語の長歌形式を取り、短歌形式の「反歌」が添えられています。 春夫自筆の「故園晩秋の歌」 初出は大正13年1月号の「婦人之友」で、副題に「水墨集の著者に」とあります。「水墨集」は北原白秋が前年の6月に刊行した詩集で、代表作「落葉松(からまつ)」などが収められ、日本的東洋的な枯淡を目指しているとして話題になりました。この作品は、4月新宮で刊行された文芸雑誌『朱光土』にも「古園晩秋の歌」として再録されています。 「故園晩秋の歌」は大正15年3月に第一書房から刊行された「佐藤春夫詩集」に収められています。なお、「南紀芸術」2号(昭和6年11月)にも転載されますが、それぞれの表記には異同があります。「佐藤春夫詩集」から引用してみると(意味上、アキを作ってみました)、 「ふる里のふりたる家のあはれなる秋のまがきは人ありてむかし植ゑにししらぎくのさかりすぎたり あれまさる桑のはたけは人ゆかぬ畔(あぜ)のかたみち釣鐘の花かれにけり  古井戸の石だたみには人しらぬ鶏頭の花うつぶせにたふれさくなり ひとりただ園をめぐりてとほくゆく雲をねぎらひうつつなる秋の胡蝶をあはれみてわがたたづめば山ちかみくるる日はやし 反歌 ふるさとのふりたる家の庭にして晝(ひる)なく蟲(むし)をきけばかそけし   」 懸泉堂はすでに使命を終えた佇(たたず)まいで晩秋を迎えています。初出では、「白菊の花さかりなり」であったのが、「さかりすぎたり」になり、「釣鐘の花生ひにけり」が「かれにけり」になり、初出にはない「ひとりただ園をめぐりてとほくゆく雲をねぎらひ」が挿入されています。佇まいの荒廃ぶりや寂寞(せきばく)がより増して表現されていると言えます。そうして、長歌の最後は「山ちかみくるる日はやし」は、山が近いので日が暮れるのも早い、の意です。初出では「山近み」となっていました。この山は、懸泉堂の西側にある大丸山と呼ばれるさして高くない山でしょう。山裾から椿が植えられていたことから「椿山」という号が生まれ、婿養子で入った駿吉は、「大鞠山」の漢字を当て、自身も「鞠峯」と号したのです。 鞠峯(二代目百樹。明治45年冬撮影) ところで、「くるる日」の「る」がひとつ欠落した「くる日」となって、ミス表記したのが、昭和7年1月刊行の改造社版「佐藤春夫全集」第2巻でした。以後、講談社版全集(昭和41年4月)、臨川書店版全集(1999年3月)にも誤りが踏襲されています。 春夫には、「懸泉堂の春」という文語調の短文もあって(大正15年1月「婦人之友」)、病後を養う老父が素描されています。 春夫がこの頃、父や懸泉堂を描いたのは、父が懸泉堂の家督を継ぎ、懸泉堂に隠居して、春夫は帰省のたびにここが滞在先となることが多かったためです。 辻本雄 一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

佐藤春夫の少年時代(7)

父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(3) 「砧」に描かれているのは、幕末に起こった世直しのための蜂起、天災や飢饉で困窮する庶民を見るに見かねて起こした大坂奉行与力であった大塩平八郎の乱、その余波が熊野に居る椿山の身をも巻き込んだのです。椿山の教え子で親族関係にもあった湯川麑洞(げいどう・新、浴、幹、民太郎、君風、清斎などと名乗っています)は、伊勢に遊学中、大塩平八郎(号中斎)に見込まれ、大坂の中斎の塾・洗心洞で学び、まもなく塾頭に抜擢されています。大塩が「洗心洞箚記(せんしんどうさっき)」上下2巻を上梓する時、入門1年足らずの麑洞にその跋文を書かせているほどです。しかしながら、大塩らの挙兵を察した麑洞と、同じように学んでいた弟周平(しゅうへい・号は樗斎・ちょさい)とは、蜂起の事前に父親の病気にかこつけて塾から脱走するのです。脱走した友人の彦根藩の宇津木共甫(うつききょうほ)は仲間に斬り殺されています。まさに危機一髪の脱出で、麑洞兄弟は堺の宿で火の手の上がる大坂を眺めています。その後の大塩の乱の残党狩りは厳しいものがあったようです。麑洞兄弟も在所の下里で逮捕され、和歌山に送られてゆきます。この時椿山も、「お上」から相当に絞られ、骨身に堪(こた)えたようです。春夫が父から聞き出したこととして、「砧」には描かれています。結局、麑洞兄弟は無罪放免となります。向学心旺盛な麑洞はその後、江戸に出て幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)でも研鑽を重ねてゆくのです。 「砧」が収録されている大正15年4月改造社刊行の「まどひらく」の箱 「砧」と言う作品が重要な問題をはらんでいるのは、椿山親子に与えた、お上に楯突いた大塩の乱のトラウマが、豊太郎親子における知人の医師大石誠之助を刑死に追いやった「大逆事件」のトラウマと重ねて深読みできる点です。「砧」には、「大逆事件」に関する言及はただの一言もないのですが。そうしてそれは、つまり「大逆事件」は「大塩の乱」から63年後のことだったのです、世代間で忘却の彼方に追いやられるには、まだまだ早すぎる期間だったと言えます。 鏡村の急死に伴い、椿山の落ち込みようは目に余るものがありましたが、鏡村の妹百枝に天満の宮本家から駿吉を婿養子に迎え、鞠峯(きくほう)と号して懸泉堂を継がせます。温厚な性格で教養も積み、豊太郎にも素読を教え、地域の信頼も繋ぎました。 佐藤春夫夫妻や弟秋雄、さらには両親が眠る下里の墓地には、春夫の祖父鏡村(惟貞)の墓石もあり、若死にした鏡村の業績をたたえる湯川麑洞の賛辞が三方の側面にぎっしりと刻み込まれています。「懐旧」(活版本)の「石碑」の項には、碑文の全文(漢文・なお昭和13年刊の「下里町誌」には読み下し文が記載)が記されています。大塩の乱後であろう、麑洞が故郷で蟄居し清貧に甘んじている間、20歳ほど年下の鏡村は、麑洞の学問を学びながら身の回りの世話をしていたと言うことです。鏡村の夭折を惜しむとともに、生まれた男児(豊太郎)がまるで似姿の如く、将来への期待も叙せられています。 湯川麑洞には嘉永年間に記された「懸泉堂記」という全文漢文の文もあって(「下里町誌」には読み下し文)、懸泉堂の地勢を述べ水の重要性を指摘、そこで育まれた椿山の徳も称えられています。墓碑銘と言い、この懸泉堂記と言い、先師椿山からの依頼に麑洞が応えたものでしょう。 麑洞の学識を見込んだ領主水野忠央(ただなか)は、洋学の柳河春三(やながわしゅんさん)、国学の山田常典、漢学の湯川麑洞を召し抱えます。麑洞には藩校の督学(学長)をも命じています。その後忠央が新宮に蟄居を命じられると、常典、麑洞ともに新宮入りしています。明治の世となって、学制が頒布され新宮小学校が開校されると、麑洞は教授に任ぜられ、名誉校長として県下では最高の35円の俸給で遇せられたと言います。教授手伝いとして真砂長七郎(まなごちょうしちろう)、その後地方の教育界を担う山田正、松田魁一郎(まつだかいいちろう)も麑洞に学び、漢詩人、俳人として名を成す福田静処(せいしょ・把栗・はりつ)も幼少の頃学んでいます。麑洞は明治7年60歳で病没します。 椿山は明治3年4月10日、71歳で逝去しました。ちょうど生誕の日と同じでした。64歳で息子鏡村を亡くし、「一時は狂気したかとまで思はれた」(「懐旧」)と言います。 明治5年太陰暦が廃止され太陽暦が採用になりました。11月3日が新しい年の幕開けとなり、早い正月の到来で、11歳の豊太郎は喜びのあまり友達に触れ回ったと言うことです(「懐旧」)。 辻本雄 一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

佐藤春夫の少年時代(6)

父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(2) 豊太郎の父鏡村(有伯、又百、諱(いみな)は惟貞)は、「緘口勿言天下事 放懷且讀古人書」という詞を座右の銘にしていたと言います。「文久元年、学成りて郷に帰り未だ年久しからざる或る日、程近き港に米利堅(メリケン)の黒船来ると聞きてこれを見ての帰るさ熱病を得て遂に起たず。(略)青雲一抹の煙、壮心一椀の土のみ。」と、春夫は父豊太郎への思いを偲ばせながら述べています(「蕙雨山房の記」・大正11年12月・東京朝日新聞)。 この座右の銘は「天下国家の事を口に出して言ってはいけない、心を穏やかにして古人の書いた物を読むべきである」という意味で、政治的行動への参加を厳しく戒めたものですが、「懸泉堂」の柱に、竹製の軸に彫られたものとして架けられていたということです。   いまでも懸泉堂に残る、家訓の竹製軸 椿山は京都の地で学んでいた若者たちが、幕末に尊王攘夷の「新思想」に感化されて、過激になりがちなのを察知し、息子もそうなるのを恐れて熊野に呼び戻し、「懸泉堂」を継がせようとしました。鏡村が望んだ江戸行きも許されず、熊野に帰る身となったのです。「鏡野隠逸」などとも名乗っていたようです。一族につながる「卯(とみ)」(「富」という表記も)という女性と結婚します。豊太郎の母です。 しかしながら、知的好奇心が旺盛な鏡村には、田舎の知的環境にはなじめないものがあったのではないでしょうか。ペリーの「黒船」来港の様子が、「風評」として飛び交っていたらしく、「当十日ニ浦賀ニ入舟之評も御座候貴地ハ此砌(みぎり)風評如何ニ御座候哉」と、鏡村宛ての書簡も残されています。ペリーが2度目に浦賀に来航するのは、嘉永7年1月16日です。異国船の黒船はまた、攘夷の象徴であるとともに、西洋への窓口でもありましたから、田舎の若者たちの知的な興味も掻き立てられていたことが分かります。それから約7年後の文久元年10月、いわゆる「黒船」が、隣の集落の浦神(うらがみ)の入り江に停泊していました。これはアメリカ船ではなくイギリス船で、「南紀徳川史」が記している、紀州の沿岸を測量して勝手な振る舞いをしたと言う記事に照合するものであろうと言うことです(「熊野懐旧録」佐藤良雄著)。 鏡村は友達4、5人と許可を取り、小舟を近くまで漕ぎつけ大きな黒船を何刻にわたって観察しました。夕方帰る途中大雨に襲われ、草鞋(わらじ)掛けでの山道踏破であったことなどから、翌々日から発病、高熱に悩まされるようになりました。京都で修業した時のこと、世間のこと、家のことなど譫言(うわごと)を残して数週して息絶えたのです。傷寒(チフス)が死因であったと言います。 この「緘口勿言天下事 放懷且讀古人書」の箴言(口を緘して言ふ勿れ天下事 懐(おもひ)を放つには且(しばら)く古人の書を読め・春夫の読み)は、おそらく椿山が鏡村に与えたものであろうと、豊太郎は春夫に語っています。そのことを述べて、この詞の由来を詳しく説明しているのが、春夫の作品「砧(田舎のたより)」(きぬた)(大正14年4月「改造」)という短篇です。 戦後、春夫は「世界のネジ釘」(昭和26年6月「三田文学」)のなかで、この箴言、処世訓から書き始め、自分も時局などには拘わらず、佐久の山中で陶淵明でも読んでいるべきであろうが、しかし、日本の今後は「東洋平和のため」「世界平和のため」に「世界のネジ釘」の役目を果たさねばならない、「このネジ釘はむやみにきつくしめすぎればそれ自体がこわれる仕組になつてゐるが、と云つてあまりにゆるめたりうつかり取外したりすれば東洋の平和、世界の平和はこのネジ釘のあたりから怪しくなることも確実なのである。」と述べています。 辻本雄 一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

佐藤春夫の少年時代(5)

父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(1) 春夫の父豊太郎が書いた「懐旧」という作品は、「蕙雨山房主人稿」と表題に記され、春夫の手によって2度刊行されています。最初は昭和8年、豊太郎の古稀の賀に際してのもので、活版で160部が私版され、関係者に配布されました。受け取ったひとりが春夫の師永井荷風で、賞賛する読後感を春夫宛てに送ってきます。2度目は昭和17年、父の中陰明けに知友に配られたもので、亡父の自筆清書稿の印影本として、父の手書きを活かし、その序に当たる部分に、荷風の自筆書簡を差し挟む体裁を取っています。娘保子(春夫の姉)の求めに応じなどと注記もありますが、刊本に先立って一部は、同人誌「脈」(正木不如丘・ふじょきゅう・編)大正13年12月号などに掲載されたようです。 さて、「懐旧」は豊太郎の5歳の時の悲しいつらい記憶から始まっています。 1862(文久2)年生まれの豊太郎は、父親の顔を知らないままこの世に誕生しました。誕生する約3ケ月前、父はもうこの世の人ではなかったからです。享年28歳でした。20歳で後家となった母は、やがて豊太郎を残して他家に嫁いでゆき、豊太郎はしばらく里子に出されています。だから「懐旧」の内容は、さながら父母恋しの記述で溢れていると言えます。母とも別れざるを得なかった豊太郎にとって、父母恋しの傷跡は、終生ついてまわったようです。 下里懸泉堂(2014年撮影) 豊太郎が生まれた「懸泉堂(けんせんどう)」の家(下里村大字八尺鏡野(やたがの)678)は、山側に滝が落ちていたことから名づけられたと言われ、土地の者たちは「ケンセ」と呼称していました。江戸時代から代々の医家で、祖父椿山(道敏・百樹、以後代々百樹を名乗る)は医業とともに家塾も営みながら、地域の興産にも貢献しました。廃池を修復して田地への水路を確保したり、養蚕を奨励したり、種痘も実施しました。幕末、天然痘が全国的に流行し、天保時代、熊野の地でも流行、ジェンナーが牛痘ウィルスによる免疫法を発見、オランダ人によって日本にも伝えられます。椿山は京都でもその方法が伝授されると聴いて出かけています。天然痘の予防ワクチンの作製では、白浜出身の小山肆成が著名で、私財をなげうって研究用の牛を買い集めたと言われていますが、椿山と同じ時期だけに、情報交換などがなされていたのかもしれません。 玄関に掲げてある看板。(2019年撮影) 椿山は同じ地の伊達(だて)家の「峨洋楼(がようろう)」で学んでから独立しましたが、両塾は江戸期から明治期にかけて多くの逸材を輩出し、下里は学問の地としても名を馳せました。椿山は、春夫をして「懸泉堂文学の祖」と言わせた国学者中村維順の娘よね(米子)を妻として迎え、夫妻で和歌の贈答をするなど、夫婦して子弟も教え、「懸泉堂歌集」などが編まれています。春夫が谷崎潤一郎の夫人であった千代と結婚した折、千代に一時「米子」を名乗らせて、その教養にあやかろうとさせた時期があります。 中村維順も晩年青木勇蔵と改名して紀州藩に仕え、京都や江戸で在勤したと言いますが、京都では国学者・歌人として著名な富士谷御杖(ふじたにみつえ)、江戸では南画家谷文晁(たにぶんちょう)とも交流するほどの教養人でした。絵本小説「峯の吹雪」5冊本を書いたりもしています。春夫が「懸泉堂文学の祖」と位置付けるのも宜(むべ)なるかな、と納得させられます。 豊太郎の回想によれば、稽古場という1棟があり、14、5歳を頭に7、8歳までの子供が50人ばかり、別に母屋の一室では同じ歳頃の女子が14、5人学んでおり、さらに青年も4、5人、学んでいたと言うことです。豊太郎も7歳の春からここで素読などを学び始めたと言います。「懸泉堂塾則」には、日常生活における細かいしつけに係わることと共に、「貴賤貧富親疎之差別を論ぜず」とあって、「朋友は、相互に世話をし合い睦まじくすること」を求め、さらに上席の者は年下の者への気配りもするように求めていたりします。明治5年の学制発布により塾は廃止となりましたが、父母たちの懇請によって明治9年高芝小学校が開校するまで続けられ、半世紀余の歴史を刻み続けたのです。 辻本雄 一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

フランスあれこれ105 消えたエアシューター(速達郵便)

およそ60年前、パリに赴任した頃に見た当時の通称“ブルーメール”(緑の郵便)には、感心するやら驚くやら、ある種のカルチャーショックを覚えました。そして約20年後に二度目の赴任をした時にはすでに姿が消えていました。 それは一体何だったかといいますとパリ中に張り巡らされたエアーチューブ(圧縮空気パイプ)を使った速達配送郵便です。電話での交渉内容を時を置かずにサイン交換で確認する手段として利用されていたのです。郵便局での受付から3時間以内の配達が原則で、早い時には30分とかからなかったそうです。 パリでは電柱がなく、電線はすべて地下に配線されています。あるいはパリの大改造以来地下水道が張り巡らせていますので、エアーチューブの設置も比較的容易だったと想像できます。 いささか過去の遺物だと言いながらもフランス人の自慢話として聞いたのは、先の大戦(第一次・第二次世界大戦)では大変活躍した、あるいはその頃が最盛期だっただろうということでした。要は軍事用の機密文書の速達便だったというこでしょう。時代の変化とともに電話の普及、Telex、更にはファックスの普及などによって、コストと利用価値の観点から衰退したのでしょう。 ちょっと調べてみるとこのシステムは日本でも実用化されていた(或いは今も?)ようです。ただ市中に張り巡らせるというような規模ではなく、病院とか大会社など一つのビルの中で利用されていた(いる?)ようです。しかしネットの時代、早晩消える運命でしょう。 上の写真は日本の病院で今も使われているものです。 また、左の写真は1966年に、このシステムの100年記念として発行された切手です。 ※このシステムは1866年から。電話は1890年頃から、Faxは1930年頃から実用化が始まったと言います。 <

佐藤春夫の少年時代(4)

春夫の誕生(4) 春夫が幼年時代を回想した「わが生ひ立ち」と題した文はふたつあります。大正8年7月8月、大阪朝日夕刊に連載されたもので「幾つかの小品から成り立つ幼年小説」と副題が付されたものと、大正13年8~10月の「女性改造」に連載されたものです。 大正15年1~11月の「新潮」に連載された「回想 自伝の第一頁」では、「はしがき」に「全く僕は、今までにも「わが生ひ立ち」を二度も企てて中絶してしまつてゐる。/ままよ、僕はもう一ぺん始める。」とあります。                                 新宮市船町にある生誕跡地の表示 側面には父豊太郎が詠んだ「生誕の句」が(揮毫は春夫) 焼失した生家に係わるものに関しては、3歳の折、熊野川で溺れかけた話。家からほんの近くに河原へ下りてゆく道がありました。7歳の姉が泣きながら自宅に帰り、春さんが川へ這って入って行ったという。慌てて駈けつけてみると、幸い辺りにいた人に救いあげられていたということです。親は死にかけた話としてよく語った、と言うことです。5歳の春に行われたという新築の家への移住については、記憶は飛んでいると、春夫は語っています。その年の秋、姉に連れられて生家を見に行きました。「見たところごく有りふれた同じ造りの二階家が二三軒、軒を連ねてゐたのは、恐らく同じ持主の借家ではなかつたらうか。思ふに、父がその後すぐ病院を建てるに当つてM―といふ、当時、町で第一と云はれてゐる材木商の持家でもあつたらうか。」(「追懐」・昭和31年4~5月「中央公論」)と述べています。この家での断片的な思い出として繰り返されているのは、庭でウサギを箱から出してしまい、倉と隣家の隙間に逃げ込まれて往生した話、それに近所の子が「ぬすんだのじゃない!」と大声で泣き叫び、巡査まで出入りした大騒動。「その狂ほしく泣き叫ぶ声が、恐怖を私にまで感染させた。」経験でした。「私はこの家の二階と梯子段とのありさまを、暗のなかの仄明りに認めるがごとくに思ひ浮べ得る。」(「一ばん古い記憶」・「わが生ひ立ち」所収)とも述べています。 さて、登坂に建てられた父の病院、及び自宅は、「父の病院は町の東にある。城山の山麓の荒地を拓いて建てられた。土地は北に山を負ひ南は城のお濠の一部がまだ残つて池になり、池のぐるりには竹藪や桜の堤、黄櫨の古木の夕もみじなどがあつて、自らに南窓の四時の眺めは自然の庭園になつてゐた。(略)山麓を切り拓いた土地は崖によつて山に接してゐたから崖下の庭は山につづいて自らに山中の趣があり、山鳥が去来した。」(『日本の風景』の「(2)父の家」)という環境で、春夫は幼いころから自然と共に、自然の中で育ったのです。 俳人でもあった父豊太郎は、春夫に幼い時から自然を眺め、観察することの大切さを教えた、と言います。春の初めころには、「初かわず」を聞きに行こうと散歩に連れ出したりしたそうです。カエルの泣き始めです。俳句と言うものは、ものの始めと終わりを喜ぶものだとも教えたということです。春夫の小動物や鳥などへの興味も幼いころから育まれました。「さるまわし」の猿を譲り受けることを望んだ稚(おさ)ない春夫に、それが失敗し、ぐずられる話などもあります。猿回しのさるは生活の糧であるがゆえに譲ってもらえないのだということを悟らせる話にもなっています(「さるまわし」・「こころに光を 四年生」昭和33年6月・全集未収録)。 登坂の家は、「蕙雨山房(けいうさんぼう)」とも称されていますが、おそらく豊太郎の命名で、「恵雨」、恵みの雨、慈雨にちなんで、「蕙雨」とは、草の香りを運んでくる雨と言う意味を込めた造語とも言えます。「山房」とは、山の中の住居、山荘の意と共に、書斎の意味もありますから、ここでは「書斎」の意です。夏目漱石の「漱石山房」の名がまず浮かびますが、漱石を敬愛してやまない豊太郎にとっては、しかも書幅を所有し、書簡を何通か受け取っている豊太郎としては(最新版「漱石全集」(2019年9月、11月)には、書簡番号1535、1554、2453、2527の4通が紹介)、十分に意識していたに違いありません。 春夫に「蕙雨山房の記」(大正11年12月・東京朝日新聞)のある所以でもあります。 辻本雄 一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

佐藤春夫の少年時代(3)

春夫の誕生(3) 春夫の回想文などには、「火事で焼け出されて」熊野病院に転居を余儀なくされたという記述がほとんどないところから、すでに熊野病院内に転宅してから、生家が焼失したことになります。「五つまで住んでゐたその家は、私たちがゐなくなつて間もなく町の大火事で焼けた。」(「わが生ひ立ち」・大正13年8~11月「女性改造」)と記されています。 豊太郎の知人であった小野芳彦の日記に、明治27年9月3日熊野病院が登坂に開院されるという記述がみえます。城山の南麓、登坂の地に竹藪を切り開いて建設した病院は、「熊野病院」と名付けられたようですが、そのとき名称変更したのかどうか判然しません。時に「佐藤病院」とも呼ばれていたようです。 紀州徳川家の付家老の水野氏の居城であったお城は、明治維新後たちまちに取り壊され、いち早く民間に譲渡されていますから、薩長の藩閥政府の支配下で、世情を察知した人々は荒廃に任せるままの状態だったのです。民間所有であった関係から、城跡に展望塔が出来たり、動物園が出来たり、おそらくわが国では唯一、城下を鉄道トンネルが貫通しています。 春夫の回想文を参考にすれば、明治29年春、病院棟横に自宅を建設して転居、7棟になったと言うことですが、その年の秋、姉に連れられて、焼失前の生家を訪れています。いまでは、ほんの目と鼻の先の距離に当たるのですが、当時はお濠の土堤が残り、小山の八幡山がありました。 この大火の直後、発刊されたのが「熊野新報」紙です。「新宮市史年表」では、12月1日発刊とありますが、それだと12月2日の大火の記事は載っていないことになります。現存する2号(12月22日付)から推察すれば12月15日付創刊で、毎火曜日の刊、医師でもあった宮本守中が社主、「丹鶴叢書」の編纂者で国学者山田常典の息山田正(号は菊園)が主筆、創刊号は大火の被災を大きく報じる内容だったはずです。その痕跡は2号にも刻まれています。町政の「改革派」と言われた人々の拠り所となった同紙は、豊太郎らも志を同じくするものでした。後に宮本は「改革派」の人々に推されて町長を務めています(明治38年3月30日~39年2月28日)。 佐藤春夫(右)と弟夏樹(左)(明治34~35年ごろ) 春夫の生誕前後、新宮の町は二つの大きな災害に見舞われ、その復興の槌音がこだましている環境だったと言えるのです。そうして国家的な大事としては、明治27、28年の日清戦争を挟んでいますが、春夫にとっては、年齢的にもまったく記憶にはなく、ただ日清戦争実記という雑誌の合本や日清戦争画報という本の裏などに、その後春夫は、墨で縦横に軍人の絵などを描いていたようで、長く蔵の隅にそれらが残されていたということです。(「わが生ひ立ち」) 辻本雄 一~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

佐藤春夫の少年時代(2)

春夫の誕生(2) 明治22年の大洪水は、十津川水系の山塊が大きく崩壊、本宮神社が流され、奈良県十津川村も大被害を被って、多くの住民が北海道移住を余儀なくされた大惨事でした。未開の地であった北海道での開拓の労苦で「新十津川村」が作られてゆく経緯は、いくつかの書物で語られています。 この時、新宮でも未曽有の洪水被害に見舞われました。町全体が浸水し、町民は高台に避難していたのですが、いったん水が引き始め一段落と思って安堵していた折、第二波の水が押し寄せてきたと言います。幸い昼間で、死者等は出なかったようですが、十津川の山山の大崩壊で堰き止められていた水が、再び押し寄せてきたのです。浸水被害の状況などは「新宮市誌」(昭和12年刊)に詳しく記されています。千穂ケ峰の山際、清閑院の石垣上には、その時の水位を表示した標が作られています。 春夫は、後年(昭和28年10月「群像」)「洪水のはなし」を書いていて、自身が生誕する直前、父の体験談や聞き取った話を記述していますが、そこに清閑院の隣、瑞泉寺(ずいせんじ・通称大寺)の鐘楼に避難した男床辰の話も出てきます。妻子を裏山に逃がし、腰にぶら下げた瓢箪から、酒をちびりちびり傾けていると、眼下に泥水が押し寄せてきました。 また、春夫の生家をも焼失させた明治29年の大火については、「明治廿九年十二月二日午後十二時新宮道下(どうげ)町某洗湯屋より火を発し、折柄西北の強風に煽られ、火は四方に延焼し火元の道下町は勿論のこと、南して別当屋敷(べっとうやしき)、横町を焼き尽して龍鼓橋(りゅうこばし)畔に至り、西北するものは雑賀町(さいかまち)より下本町、上本町、御幸町(ごこうまち)、上船町等を焼きて下船町に及び森家に至り、付近各町村よりの消防隊の尽力にて翌三日午前七時に至りて鎮火せり、焼失戸数八百十戸、納屋八百〇八戸、土蔵二十五棟に及」んだ(「新宮市誌」)と言います。この時、薬師町にあった丹鶴山東仙寺も焼失、その後一帯は、大王地の花街として生まれ変わってゆくのです。 石造りの龍鼓橋までは、町方(まちかた)、それから外は地方(じかた)といわれましたが、旧城下に当たる町方の多くが焼失区域でした。焼失区域のうち一番東北に当たる区域が、下船町の「森家」の一画で、その辺が春夫の生誕の家であって、敷地面積2畝26歩(86坪)、明治24年11月豊太郎が坪井亀之助から購入したものとなっていますが、もともとは坪井が森家から手に入れたものと思われ、豊太郎一家は、それ以前から住み続けていたものと推測されます。 ところで、龍鼓橋から西側の山、千穂ケ峰の岩肌を落ちるのが龍鼓の滝です。父豊太郎は隠居して、龍鼓の滝の下あたりに山荘を構えたいとの望みを持っていたようですが、それはかないませんでした。 春夫の『日本の風景』(昭和33年1~12月雑誌「心」)の「(2)父の家」には、次のように述べられています―「父は、また町のはづれ王子ケ浜の王子権現の祠(ほこら)のうら手にある松山の小さな盆地のなかに芋畑(いもばたけ)をつくり柿やみかんを植ゑて晩年はこの地に隠居して松琴鼓濤(しょうきんことう)の間に老いたいと云つてゐた。 父の空想してゐた隠居所はもうひとつ西山のほとんど中央にある竜鼓滝(りゅうごのたき・ママ)の渓流(けいりゅう)に沿つた竹林のなかにもあつた。この方は毎日、診察室の窓から滝を眺めてはその下の土地を想望(そうぼう)して心に清閑(せいかん)を楽しんでゐる様子であつた。」 辻本雄一 この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を「ハイム文芸館」に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 (西 敏)  

佐藤春夫の少年時代(1)

この度、佐藤春夫記念館館長・辻本雄一氏による「館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代」をハイム文芸館に転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。 ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・ はじめに~コロナ禍も先行きが不透明なまま、記念館も3月から休館状態が続き、ようやく6月2日から細心の注意をしての再開となりました。かって、「館長のつぶやき」として、「断章を拾う」「台湾行」を連載したことがありましたが、今回からしばらく、「佐藤春夫の少年時代」を連載します。蟄居同然のなかで、書き始めたものです。新宮中学を卒業して、上京するまでの春夫の姿を、春夫の回想文などを交えながら、素描してみます。明治時代の新宮の町の様子などにも触れてみたいとも、思っています。【2020年5月 辻本雄一 記】 *** 春夫の誕生(1) 佐藤春夫が和歌山県東牟婁郡新宮町船町119番地に、呱々(ここ)の声を上げるのは、1892(明治25)年4月9日早朝でした。父豊太郎、母政代の長男として、です。近くにあった新宮郵便電信局で電信為替事務を1日から始めたばかりで、豊太郎がさっそく利用したものかどうか。医師として開業していた豊太郎は、鏡水(きょうすい)と号して俳句をたしなみ「よく笑へどちら向いても春の山」と詠(よ)んでいます。熊野の山桜がこんもりと目立ち始める頃でした。 1932(昭和7)年10月27日、東京で春夫の長男方哉(まさや)が生まれたとき、春夫は下里の懸泉堂(けんせんどう)に居る父宛てに「マスラヲウマル」の電報を打ち、下里郵便局で受信して豊太郎に届けたのは、下里出身で東京で出版業に携わり、晩年那智山郵便局を営んだ田代均の父で、父はいつまでも語り草にしていたということです。春夫は33(昭和8)年1月号の「婦人公論」に、「マスラヲウマル―父となるの記」を寄せています。豊太郎にも長男誕生への期待が大きなものがあったろう、と想像されます。何せ、まだまだ家制度が重かった時代、長男の地位は特別なものがありました。 春夫の兄弟姉妹では、姉古萬代(こまよ)は幼くして亡くなり、4歳上に姉保子(やすこ)が生まれています。1895(明治28)年7月には弟夏樹が生まれ、豊太郎は「思ふさま茂れやしげれ夏木立」と詠んでいます。98(明治31)年6月には3男が誕生しましたが、「春・夏」と名付けた関係から、秋雄と命名、「行くさきにこぼれ物あり秋の雞(とり)」と詠みました。 一時、保子の子龍児に「冬樹」を名乗らせようとして、断られたというエピソードが残されています。 明治40年頃の本町通り。現速玉大社大鳥居から丹鶴城址方面を望む。正面突き当りに、豊太郎の「熊野病院」があった。 春夫が生まれた年の新宮町は、戸数2538戸、人口1万838人の記録があります。本町通りの改修計画に16円33銭9厘の予算が計上されていますが(「明治二六年六月事務引継書」・「新宮市史資料編下巻」)、速玉神社から新宮城跡へのこの本町通りは、当時の町のメインストリートで、1889(明治22)年8月20日以降の熊野川大洪水の爪痕がまだ色濃く残されていました。この通りは、やがて煉瓦を砕いたような渋土の赤土が敷き詰められ、外から来た人は、まず道の明るさに目を見張ったということです。赤土の道は、豊太郎の病院横の登坂の切通しから熊野地の方まで延びていました。もちろん舗装などはまだない時代ですし、登坂の道ももっと狭い、自転車が辛うじて通れるほどの幅で、豊太郎がタヌキと格闘したと噂された道でもありました。春夫の作品「私の父が狸と格闘をした話」(大正10年8月「婦人公論」)は、まさに狐につままれたような話のなかに、少年の不安が仄見える雰囲気を醸し出している童話的な作品と言えます。登坂の道が、今に近い幅で掘り下げられ、拡張されたのは、お濠が埋め立てられて丹鶴通りが出現(大正11年11月)してから後のことでした。 辻本雄一

フランスあれこれ104 アペリティフ(食前酒)

一般に食前酒と言えば食欲を旺盛にすると言われ、食事前の一杯と言われればそういうことかと一応納得するのですが、私はパリの経験でちょっと違った印象を持っています。 通常約束時間を守らないフランス人ですが、夕食の約束でレストランに行くとバーで既に一杯をやっています。結局私もそのアペリティフにお付き合いすることになります。ちょっとお喋りをしてテーブルについてやっとメニュを見て料理を注文するわけですが、料理に合ったアペリティフだったとは思えません。 さて最初のアペリティフは“キール”(kir)。黒すぐりのリキュール(蒸留酒)を白ワインで割ったものです。何度か頂いたことがありますが今一つ好きになれませんでした。先日このリキュールをサミットで発見、改めて一度味見をしたいとすぐに購入しました。ブランド名は“Le Jay”(サントリーが販売)でした。(右のボトルです) もう一つよく目にしたのは“リカール”(Ricard)ですが、これはどうしても私には苦手でした。南仏の甘草を原料にしたアニス酒で、アルコール度が高いので水で割って頂きます。フランス人に言わせると何度か口にする度に好きになり、やがて病みつきになるそうでしたが信じがたい印象でした。このリカールもネットで購入が可能なようです。 これらの食前酒は常時カフェで飲んでいる人を見かけました。時には朝から続けてお代わりを注文している人もいる位です。やはり病みつきになっているのかと思います。年齢的には中高年に多かったと思いますが、勿論食前酒ではありません。 もう一つ思い出しました。まだうら若い女性がちょうど出勤時にカフェに飛び込んできて“アンデユミ・シルブプレ”(生ビールをお願い)と注文し、それを言葉通り一気飲みし、すぐに走りながら事務所に飛び込んで行きました。昨夜遅くまでの飲み過ぎか?それともこれが日常の習慣なのか?日本では想像も出来ない光景でした。