今日の散歩道(197)~花好きの民家

毎日の買い物兼ねての散策路。 現在居住しているマンションに入居以降、勤務していた頃は、最寄りのJR駅に向けて毎日歩き、現在も運動・買い物・花探しを兼ねて歩いている馴染みの道路で、もう45年間も使っている事になります。 この道路は旧亀岡街道、古くから大坂と京都を結んでいた幹線道路なので、道祖神・地蔵・石碑など残っていて、古くからのお寺なども残っています。 道路際の民家は大阪万博の時の恩恵なのか立派な門構えの旧家が多く、それに混じって近年は新しい住宅も増えています。 どちらも花好きの住人が多いようで旧家はバックヤードで草花を管理し、折々に見頃の花を門前に並べて道行く人達の目を楽しませてくれています。 新しい住宅の住民も、添付写真のように玄関前に小さな花壇を作ったり、プランターや鉢植えで季節に応じた花が並んでいます。今まで歩きながら何となく花を眺めていましたが、「今日の散歩道」で花探しを始めて、こんなに色んな花が植わっていたのだと再認識した次第です。 写真のお宅の花壇では、何度も「今日の散歩道」で紹介した草花写真を撮影しました、道路の対面は桜の大木で囲まれた千里丘小学校が有って、通りすがる度に、音楽や授業での児童のにぎやかな声が聞こえて思わず立ち止まる事があります。 今日は新しい花が見つからず、穴埋めに毎日の散策路を紹介しました。 山仲春男

フランスあれこれ99 ナポレオンの無念=フォンテンブロー城

1991年(9月12日付)の写真が出てきました。パリの南部に位置する広大な森=フォンテンブローの森にある城館の一角で「白馬の階段」(通称「別れの階段」)と呼ばれる螺旋状の階段です。 さて、ナポレオンの話です。1813年ライプツィヒの戦いに敗れ、パリが陥落、ナポレオンは急ぎフォンテンブローに帰還。パリ奪還を目指すも側近や部下に見限られ、退位を決しました。翌1814年エルバ島へ追放されることになり、側近や近衛兵を前に別れの挨拶をしたそうです。それがこの螺旋階段です。一説では自殺まで図ったと言われるほどの失望であったらしい。 内地の友人から送って頂いた「ナポレオンの戦場」を読んだあとのフォンテンブロー訪問で、この別れの階段に立った時、不思議に私も無念の涙が出ました。ナポレオンの無念を私自身の無念と感じた次第です。 エルバ島に流されたナポレオンはひと時の休養でこのままでは済まされないという思いになったのでしょう。翌年100日天下と言われるパリへの帰還を決行しています。それに失敗して、今度は終身のセント・ヘレナ島への放逐を受けます。南アフリカの西にある完全な孤島です。一説によるとこの地で毒殺されたとも言われますが、享年齢50歳でした。その後遺骨がフランスに帰還、現在はフランス革命の原点でもあるアンヴァリッドに。 (余談)フォンテンブローの森は比較的平坦で広大な森林に覆れています。歴代の王侯貴族の狩猟の地でした。12世紀ころ既に狩りの休憩の館ができていたようですが、16世紀のルネッサンスと共に華やかな宮殿に変化していきます。その上、歴代の王が増改築を繰り返して、多分フランス最大の宮殿になりました。最後はナポレオンが自分の館として愛用、彼の軍事拠点でもあったわけです。 ーご近所にミレーをはじめとするバルビゾン派の画家たちのアトリエが散在します。 (余談2)私説です。ナポレオンは幼少の時から既に戦略にたけており、幼年学校時代の雪合戦の話は有名です。その上軍隊でも次々にチャンスが訪れて昇格していきます。ところが彼の最後は天運に見放され奈落の底に落ちました。彼は天賦の才に恵まれましたが、彼を取り巻く人や時代が変わり、ましてや相手も変わり天候も変わる。こういうちょっとした隙間が重なって天運に見放されたと思います。会社で功績を挙げた人が役員になり相談役になっても現役の仕事に口を挟むのを見てきました。組織は生き物、組織の私物化は死物化だと思います。