手拭いの暖簾(32)棟方志功

真夏の暑い日に予約をして日本民芸館へ棟方志功展を見に行きました。 そしてまた11月に ”アイヌの美しき手仕事” 展を見ました。 棟方志功の作品はあちらこちらで見ていましたが又新しい発見もありました。そしてアイヌ展ではアイヌ民族の生活用品でありながらそれはもう工芸・芸術の域に達していて飽きずに目を凝らせてしっかり楽しんで来ました。 ミユージアムショップで棟方志功の手拭い5種類を見つけました。 志功展の時は見つけられませんでしたから “もう一度おいで!” ということだったのでしょうか! 「鯉」 はすぐに決まったのですが悩んだ挙句もう一枚は 「葛飾」 を選びました。でも売り切れ。民芸館は来年の春まで休館。 発売元 「ぎんざ たくみ」に電話を何度掛けても通じないので、以前に行ったことがあることを思い出して行ってきました。 出かけた甲斐があり手に入れることが出来ました。大満足です。 民芸の生みの親、柳 宗悦さん達の作られたお店で80年の歴史があるそうです。所狭しと日本中の民芸品が並んでいて、どれもこれも欲しくなってしまうほど気持ちの和らぐものばかりです。 美術館は一人で楽しむもよし、友達とお喋りをしながら共に感嘆の声を上げながら見て、ランチをするもよし、ミュージアムショップでまたいくつかの発見と知識を得て買い求めることも出来ます。楽しい所です。 藍染めはどの季節にも合いますが鯉はやはり5月でしょうか。今からその様子を想像して楽しみにしています。 AZ  

フランスあれこれ70~アルビジョア十字軍とカタリ派の里=観光案内にない観光地

フランスの駐在時代は仕事に関係するところにしか出向かないし、仕事が終われば直行でパリに帰るのが普通です。駐在が終わり日本に帰国後3年、改めてフランスの田舎巡りをしようという事で出掛けました。久しぶりにパリの友人に会い、友人から是非紹介したいところと耳にしたのが掲題のカタリ派の里です。簡単に話を聞いたのですが、丁度「神がそれを望んでいる」すなわち聖戦として十字軍が中東に出向いていた時代、ローマ教皇の地元ともいうべき北イタリヤから南仏一帯に同じキリスト教でもローマ教皇に従わない異教派、通称「カタリ派」が存在した。カタリはギリシャ語を語源とすると言われるもので清貧・禁欲に生きることを意味するらしい。いわば当時のローマ教皇のやり方に背を向けたと言えそうです。(私の友人は当時のローマのやり方を批判してカタリ派に賛意していたのを思い出します。) アルビジョワ十字軍のアルビジョワですがフランス南西部にある田舎町“アルビ”からきています。北イタリヤ・南仏がローマの圧力に屈して行きますが、このアルビを中心に地方の豪族も参加して執拗な抵抗がありました。そこでローマ教皇がアルビ地方のカタリ派打倒のために十字軍を呼び掛けたという次第です。これがアルビジョワ十字軍です。それには社会的背景があり北フランスなどの王国が領土拡大の機会ととらえてこの呼びかけに参加したという事です。1209年スタートして1229年までの20年間の抵抗でカタリ派は一応消えますが、それでもアルビの北約20㎞のコルドの要塞都市に立てこもるなど抵抗します。異端探しがその後も続き、異端審問による徹底的な追及で改信すれば一応許されるとしても最後まで抵抗して火あぶりの刑にされるまで信念を貫いたものもいたと言う。そして1260年頃にようやく終結したとのこと。 時代が古く痕跡を探しても多くは見当たりません。まずアルビではロートレックの美術館(古い宮殿)や、サント・セシル大聖堂などの旧市街(後に世界遺産に)を見学、次の町コルド(“Corde au Ciel” 天空のコルド)に向かいました。成程ローマに抵抗する人たちが追及を逃れて立て籠もった街と言われる環境でした。時代も古く確たる痕跡はないものの当時を偲ぶには十分な雰囲気でした。逗留したホテルも古く、ひょっとしたら当時のものかと思わせる建物とその作り、更には街の雰囲気(写真はすべてコルドで私のアルバムからです)にすっかり魅了された次第です。

おぼろげ記憶帖 10 関西の言葉

何人かが集まった折、 「出身地はどちら」 と尋ねることがあります。 行ったことのある土地ならその時を思い出して話が弾み、行ったことがなければお聞きして知ることが出来れば楽しいのです。 その時の答えに 「関西です」 との返事が返ってきた時私は執拗に 「関西のどこ」 と尋ね続けます。 それは関西 特に大阪では話し言葉がとても大事だと思うからです。 一口に関西といっても京都・神戸・和歌山・奈良。範囲を縮めて河内弁・岸和田弁そして大阪弁。西宮・芦屋・伊丹なども私の知る限りその土地ならではの言い回しがあるようです。 大阪弁も市内の北の方は船場の言葉。谷崎潤一郎の「細雪」の世界ですが 南の方はまた違うようです。 12歳まで育った場所の言葉が定着すると聞きました。(外国語は35歳まででないと習得は出来ないとも言われていますが…。) 現在は昔と違って人の移動も頻繁になりその土地の言葉がしっかりと根付き、残るという事は難しくなったかもしれません。 NHK朝のテレビドラマ 「おちょやん」 のモデルの浪花千栄子さんはとてもきれいな なにわ言葉でした。8歳までのあの河内弁が!と思う時ごりょんさんの厳しい躾の賜物でしょう。 明治15年生まれの私の祖母はやはり船場言葉でした。目上・目下、男女、相手の地位やお付き合いの程度で細やかな敬語の使い分けがあります。傍にいるだけでその関係がしっかりと分かるのです。商売をするうえで相手を傷つけず自分の気持ちをシッカリと伝える知恵でもあったと思われます。 また同じ言葉でも抑揚の違いで全く別の意味になることもあり、 「まあまあ」 とか 「よしよし」 とか言葉を二つ重ねての擬音をよく使い短い言葉で気持ちを的確に伝えることが出来ます。大阪の言葉は書き言葉ではなく話し言葉なのだと思います。 成人してもなお大阪に暮らした私にはどこかのんびりとした言葉に郷愁を感じる昨今です。そして吉本新喜劇のあのテンポの早い言葉には付いて行けず、テレビに向かって 「そうと違うねん!そんな言い方をしたらあかん!」 大声で言っている私がいます。 AZ        

手拭いの暖簾(32・ 終)棟方志功

真夏の暑い日に予約をして日本民芸館へ棟方志功展を見に行きました。 そしてまた11月に ”アイヌの美しき手仕事” 展を見ました。 棟方志功の作品はあちらこちらで見ていましたが又新しい発見もありました。そしてアイヌ展ではアイヌ民族の生活用品でありながらそれはもう工芸・芸術の域に達していて飽きずに目を凝らせてしっかり楽しんで来ました。 ミユージアムショップで棟方志功の手拭い5種類を見つけました。 志功展の時は見つけられませんでしたから “もう一度おいで!” ということだったのでしょうか! 「鯉」 はすぐに決まったのですが悩んだ挙句もう一枚は 「葛飾」 を選びました。でも売り切れ。民芸館は来年の春まで休館。 発売元 「ぎんざ たくみ」に電話を何度掛けても通じないので、以前に行ったことがあることを思い出して行ってきました。 出かけた甲斐があり手に入れることが出来ました。大満足です。 民芸の生みの親、柳 宗悦さん達の作られたお店で80年の歴史があるそうです。所狭しと日本中の民芸品が並んでいて、どれもこれも欲しくなってしまうほど気持ちの和らぐものばかりです。 美術館は一人で楽しむもよし、友達とお喋りをしながら共に感嘆の声を上げながら見て、ランチをするもよし、ミュージアムショップでまたいくつかの発見と知識を得て買い求めることも出来ます。楽しい所です。 藍染めはどの季節にも合いますが鯉はやはり5月でしょうか。今からその様子を想像して楽しみにしています。 AZ  

森本剛史君との思い出8~森本剛史の10冊

2014年12月8日(月)、森本剛史君を偲ぶ会が、彼が生前勤務していた代官山蔦屋書店Garden Galleryにて開催されました。18:30開場で19:00から始まりましたが、会場は彼と親交の深かった人たちで足の踏み場もないほどに溢れていました。誰とでも気さくに付き合っていた彼の顔の広さが今更ながら感じられました。 受付をすませると、「森本剛史の10冊」と題したビラをいただきました。そこには、生涯を旅にかけた森本剛史が勧める10冊の書名が書かれてありました。65年間生きてきて、彼が絞りに絞った10冊の旅に関する名作リストです。既に読んだ本も多いですが、還暦を過ぎたこの歳になって、改めて読んでみようと思った次第です。以下に紹介しましよう。 森本剛史の10冊 1  百年の孤独 ガルシア=マルケス 新潮社 2  ユリシーズ【1】【2】【3】【4】 ジョイス 集英社文庫 3  夏の闇 開高健 新潮社 4  何でも見てやろう 小田実 講談社文庫 5  西江雅之自選紀行集 西江雅之 JTB 6  Ambarvalia/旅人かへらず 西脇順三郎 講談社文芸文庫 7  世界は一冊の本 definitive edit 長田弘 みすず書房 8  罪と罰〈1〉 | 〈2〉| 〈3〉 ドストエフスキー 光文社文庫 9  坊ちゃん 夏目漱石 新潮文庫 10  ブルックリン・フォリーズ オースター 新潮社 教養を身につけるには、古今東西の名作を読むに限る。「百年の孤独」は南米コロンビアが舞台だし、「ユリシーズ」はダブリンの一日の物語、「ブルックリン・フォーリーズ」はニューヨークのブルックリン地区を背景に素敵な変わり者たちの幸福の物語。すべて旅と関連する本を選んでみた。(森本)

森本剛史君との思い出7~社会人時代・大阪編

大学を出ると、剛やんは東京で、私は大阪で就職しました。社会人となって1、2年目は、誰でも仕事を早く覚えようと懸命に働くものです。商社に入った私は、ちょうど石油ショックのころで景気も良くそのせいか残業も多く、会社と独身寮を毎日往復するだけという忙しい日々を過ごしていました。まして東京と大阪なので会う機会はほとんどなく、会えうのは帰省した時くらいでした。 大阪での久々の再会 社会人となって3年半経ったころに私は結婚して吹田市の社宅に住んでいました。ある日のこと、久しぶりに剛やんから連絡があり彼の奥さんを同伴して我が家を訪ねてくるというのです。もちろん大歓迎で再会を喜び合ったのはいうまでもありません。それまでのお互いの無沙汰のすきまを埋めるようにして飲むビールの味は格別の旨さでした。聞くと、新婚旅行を兼ねて再び世界一周の旅に出る直前でした。相変わらずの行動力で学生時代と少しも変わらない若々しさにまた刺激を受けました。 久しぶりの再会を喜び、二人を送り出してからまもなくして私の人生においての大きな波がやってきました。それは、勤めていた会社の合併と義父の経営する会社の倒産、そして義母の難病罹患でした。とてつもない大きな波が一挙に押し寄せてきたのです。自分の勤める会社が吸収合併されて、首切りが始まり全社員の10分の1しか残れないという状況の中、明日の生活に不安を抱えた毎日でした。 残れる確率が10%という戦々恐々とした日々を過ごす中、一人二人と去っていく同僚たちを見ながらさて自分はどうしたものかと考えていました。まだ20代だったので、年配の社員より少しは可能性はあると言われましたが、団塊の世代で景気のいい時の大量採用により同期入社の社員も大勢いました。そのうち私にも、ある大手酒造メーカーからサンフランシスコに出す新しい事務所の駐在員を探しているのでどうかという話が舞いこんできました。 この話は学生時代から抱いてきた夢を叶えられる非常に魅力的な話でしたが、種々の理由から断念しました。また、義父からはこの際、自分が経営する会社へこないかという誘いがありましたが、考えた末これも断りました。結局は、最後まで10%の確立にかけてみようと、もし駄目なら、言葉は悪いけれど日雇い人夫をしてもいい、何でもやると開き直って心に決めると何だか胆が座った感じで少し落ち着きました。ただ、妻は自分の実母の病のこともあったのでもっと苦しかったと思います。 結果は、何とか残留組に入ることができ、新会社の名古屋支店勤務が決まりました。しかしほぼ同時に、義父の経営する会社が倒産し、義母の難病にかかっていた高額なヘルパー代が払えなくなりました。致し方なく、妻が母親の看病につくことにし、当時1歳だった長女を新宮の実家に預かってもらうことにしました。一難去ってまた一難、ふたつの会社の倒産、重病、転勤、別居と続きましたが何とかなると思うほかありませんでした。 大阪を出るとき、妻と「この三重苦を乗り越えられたら、その先にはきっといいことがあるから!」とくじけないで頑張ることを誓い合いました。親元とはいえまだ1歳だった娘は元気にやっていけるだろうかと心配はつきませんでしたが、妻も母親の看病によく頑張ってくれました。 ちょっと自分の話しが長くなり、剛やんの話が出てきませんが、この頃は、旧交を温める余裕がなかったからかもしれません。しかしこの名古屋転勤がきっかけとなってまた、意外なところで彼と再会することになるのです。 ~つづく~ 西 敏  

フランスあれこれ69~白衣の王妃の黒い部屋=シュノンソー城

週末のパリは観光客であふれます。土曜日はお土産や自身の買い物、日曜日は観光です。その観光ですが通常は私の気分で行く先を決め来客にご一緒頂くのですが、特に日の長い春から夏にかけては好んで郊外をご案内しました。パリの東西南北沢山の名所があります。その中の一つがロワールの古城巡りです。城の数は数えたことはありませんが100前後はあるかと思います。 一口で城と言ってもこの地方には古くは城塞、城館、そして館すべてがシャトー(城)です。中世以降城塞に生活味を加えて城館に、更には最初から生活を目的に館を作ったのでしょう。 今日ご案内のシュノンソー城は最後は館ですがスタートはロワール川の支流(シェール河)に掛かる水車小屋でした。水車は粉ひきが目的ですが誰でも持てるものではありません。当地の領主の許可のもと、収入の一部を上納することで認められたものです。話によれば最初の持ち主は領主の財務官だったとか。お金持ちでもあり館にしようと考えたが仕事が忙しく、館の建設を奥方に一任したとのこと。その結果極めて優雅な館が出来上がったと言います。その後アンリ2世の愛妾が居住、この辺りから改装や増築、庭園の整備などが続き、更にアンリ2世のお妃ルイーズ・ド・ロレーンが居住しますが、夫アンリ2世が暗殺され、悲嘆にくれた彼女はその後「白衣の王妃」として「黒い部屋」で生涯を終えることに。この間さらに改装と庭園の拡大など王宮として優雅さを増したとのことです。 何度もこの城館を訪ねているが団体旅行でもなく案内の説明は聞いていなかった。城館には礼拝堂、宴会場、幾つかの居室が鮮やかな装飾で飾られているが、一室だけドアが閉まっている部屋がありました。何気なくドアを開けた時、一瞬「これは公開の部屋ではなく、物置か?それとも未改装の古い部屋か?」と思った次第です。後で知ったのですが、この部屋が「白衣の王女」が夫アンリ2世が暗殺された後、彼を偲びながら余生を喪に服したと言う「黒い居室」だったと知った次第です。 (城館の写真は私のアルバムからで1992年、右に大きな庭園が広がります。部屋の写真はネットからです。)

手拭いの暖簾(31)立山

コロナ禍のGo Toトラベルで立山に行かれたお稽古のお仲間。お土産にと2枚の手拭いを届けて下さったのです。 山の手拭い、「オコジョの衣替え」 と 「バードウオッチングバード」。 オコジョは夏と冬の二つの季節がエメラルドグリーンの鮮やかな色をバックに染められていています。 何匹もの可愛い目がこちらを向いていてとても愛らしい! ライチョウは冬支度。雪の中に保護色の真っ白ではどうして見つけるのでしょう? 赤い小さな目を双眼鏡で目を凝らして見つけるのでしょうか? 実際に出会ったことのある人は本当に可愛かったと今なおほんわかとした顔で話してくださいます。いつか出会いたいものです。 手拭いの暖簾については一度もその方とは話題になったことがないのです。 でも心には止めて頂いていたのでしょう。暖簾だから色のバランスは悪いけれど2枚にしましたと。そのお積りだと思って早速に上下ミシンを掛けて吊りました。気持ちが通じ合ってとても喜んで下さいました。 手ぬぐいの取り持ちでなお一層二人のお付き合いが深くなりました。とても嬉しいことです。 この気持ちと手拭いを大切にしたいと思います。 AZ  

森本剛史君との想い出6~大学時代・教育実習

こうして森本君と私は、高校時代まではよく顔を合わせて一緒に何かをするということが多かったですが、大学に入ると会うことすらほとんどなくなりました。自宅から通っていた高校までの生活とは違い、大学に入るとまずはそれぞれの土地での新しい生活に慣れなければならない。会う機会と言えば、お互いがたまに帰省したときくらいになりましたが、久しぶりに会って近況を報告し合うのも楽しいものでした。なかでも忘れられないのは、私が城南中学校で行なった教育実習でした。 教育実習 私は、かねがね英語を使う仕事、海外へ行くチャンスのある仕事をしたいと思っていました。とりあえず教員免許を取得しておこうと思い関連の単位はすべて取得していました。3年生の時に教育実習があり、実習をする場所は自分の故郷でもよいということだったので、迷わず自分が卒業した城南中学校を選んだのです。 久しぶりに、自分の母校にやってきて英語を教えるということは何だか不思議な感覚でもあり、また楽しいことでもありました。教えた生徒の中には、自分の弟や剛やんの弟(現新宮市観光協会専務理事)もいました。実習では、英語が苦手な生徒に、ちょっとした関心を持って取り組めば、それほど苦労しなくても楽しく覚えられるコツを伝えたく思い実践しました。 その頃、剛やんの家(森本薬局)では、AFSの交換留学生としてアメリカから新宮にやってきた女子生徒を受け入れていました。名前は、Pamela Ann Napierさん=パムちゃんで、剛やんの妹さんが同級生でいろいろと彼女のお世話をしていました。ふと思いついて、このパムちゃんが学校にきてくれたら、生徒たちもいい体験ができるのではと思ったのです。 頼んでみると、快く引き受けてくれました。ある日の放課後、私は学校の図書館を借りて、パムちゃんと生徒たちとの懇談会を開催しました。パムちゃんは、さすがに交換留学生で、社交的でいろいろと生徒たちに話しかけてくれましたが、生徒たちは恥ずかしさもあってなかなか話ができないでいました。生徒の殆どが外国人と初めて話をするという状況だったので無理もありません。前もって質問を用意して練習しておくなど、もう少し準備をしておけばよかったと思いました。なにせ、実習期間が2週間だったので、その時間がなかったことが残念でした。 その後も、パムちゃんとは、森本きょうだいと一緒に海に泳ぎにいったりと、自分も楽しいひとときを過ごしました。昔も今も、新宮では外国人を見かけることは少ないように思っていましたが、熊野古道が有名になってからは、訪れる外国人が増えて少しは出合う機会も増えているようです。若い人は外国語を身につけてどんどん世界へ進出していってほしいと思っています。 ~つづく~ 西 敏  

おぼろげ記憶帖 09 お喋り会

あちらこちらで女性が何人か集まりお喋り会が始まります。 話題は多方面に飛び広がり、とめどなく、きりなく続きます。情報を交換したり知恵を出したり頂いたり!そうして気分も新たに果てしなき主婦業の家事雑事に戻っていけるのだと思います。 令和2年 2020のコロナ禍で行動の自粛、三蜜を避けての非日常は気持ちを鬱々とさせました。 日頃ランチのレストランは女性ばかりで  「男性は入って行けない」 と言われて少し遠慮もありました。 今は負けずにとは言わなくとも男性の 「一杯の飲み会」 と共に必要なことと思えるようになりました。コロナのお蔭です。 どなたもお喋り会では標準語。お国訛りが出ないのです。不思議に思って 「お国はどちら?」 と尋ねることにしました。 まァ~何と北は北海道の女満別から南は奄美大島の方々とお目に掛かっていたのです。 これは日本の学校教育が行き届いているからなのでしょうか。 かく言う私はどんなにか頑張って直そう、標準語で話そうとしても無理! 駄目だったのです。それでもお仲間に入れて頂いて時々アクセントを言い換えられたり、それどういう意味?と聞かれたりしながら楽しい時間を過ごしています。 AZ