森本剛史君との想い出5 ̄高校時代・英会話

蓬莱小学校、城南中学校と進み、森本君と私は当然のように新宮高校に入学。市内ではあるが少し距離があったので自転車通学ということになった。このころになると、将来の進む道も少しは考えるようになるものだろうが、奥手というか子供だったのか私はそれほど真剣に考えたことはなく、ただ漫然と英語を生かせる仕事につきたいと思うようになっていた。 英会話 小さい頃、父親に教えてもらったことはたくさんありましたが、将棋のほかに特に興味を引いたのがA、B、Cという見られない文字でした。何故か興味を覚えた私は、比較的早くアルファベットを覚えてしまいましたがその後何をどうすればよいのかわからずにいました。小学校6年生になってようやくそのチャンスが巡って来て、町の英語塾に通うことになったのです。 これが何故か楽しくて、当時学校で借りて読んでいたシャーロック・ホームズもいずれは原書で読みたいと思い始めていました。後に、Sherlock Holmsを英語で読むことが実現し、更にはホームズが住んでいたことになっているロンドンのベーカー街221bを訪れさえしたのです。塾の石垣先生(実は高校3年の時のクラス担任でもある)もちょっと変わった面白い先生で益々英語に魅かれていきました。 剛やんは、私よりももっと早く目覚めて英語に強い関心があり、当時、有名だった松本亨のラジオ英会話を勉強していました。リンガフォンとかの専用テープ(当時はCDではなくテープやソニックシートが一般的だった)もありましたが、高額でとても手に入る代物ではありませんでした。その点、NHKのラジオテキストは数百円だったので小遣いでも買えるので、よし僕もと思ったのです。 外国に行ってみたい、英語を不自由なく話せるようになれば外国人と何でも語りあうことができると、他の勉強はさしおいて英語だけに興味が集中していたころでした。例によってまた剛やんの登場です。 高校ではESSに所属していましたが、学校内では外国人と話す機会は皆無でした。高校のすぐ近くにテレジア教会かあり、それに隣接して幼稚園がありました。そこに教会があることは知っていましたが、信徒でもない自分が教会に足を踏み入れるという発想はゼロでした。そこが、剛やんの発想の違うところで、外国人の神父さんがいるのだから行けば英語で話しができるので利用しない手はないというのです。(写真はESSメンバー。真ん中が森本、左が私) これまで彼の言うことをいろいろと一緒にやってきて楽しいことは多かったけど、後悔するようなことはありませんでした。こうして教会通いが始まりました。土曜日だったか、日曜日だったか、数人のグループで毎週通うようになると神父さんもわれわれの訪問を快く迎えてくれました。今なら幼稚園児がやっているようなことを私たちは高校生になって始めたのです。 当時、その教会には、イギリス人のベテラン神父さんとアメリカ人の若い神父さん(多分修業中)の二人がいました。行くとまず、聖書に書いてあることの勉強を少しして、あとは会話をしたりゲームをしたりで楽しい時を過ごしました。手と膝をたたいてリズムをとりながら、自分の役割名と誰かの役割名を続けて言う「大統領」というゲームがありました。名前を言われた者は、即座に反応して同じように言わなければいけないというものでした。 日本語でもあるこのゲームの役割名を英語に変えて省略したものを用いました。大統領は「President」なので、略して「Pres」、書記は「Secretary」なので「Sec」というように。ちょっと頭を使うようで難しいと思うかもしれませんが、要は、慣れの問題でした。そうやって、日頃外国人と話すというチャンスがなかなかない新宮の町で、全く新しい世界が始まりました。 時には、若い神父さんと一緒に電車に乗って遠出して(阿田和だったと思う)、ボーリングをしたこともありました。このようにして高校時代もやっぱり剛やんと関わりながら過ぎていきました。この神父さんとの付き合いで、自分の英会話能力が向上したとは思いませんが、少なくとも、外国人と面と向かって相手の目を見て話をするというある種の度胸のようなものは確実に身についたように思います。怖気づくことがなくなりました。 英会話の方は、中学生にあがった頃から、剛やんがやっていたラジオ英会話(松本亨先生)、その後テレビ英会話(初級が田崎清忠先生、中級が同時通訳者で後、参議院議員となった國広正雄先生)と移り、続けて受講していました。後々社会人になって貿易の仕事で英会話が必要になった時、この頃に覚えた例題の決まり文句がすらすら出てきたのには驚きました。やはり無駄ではなかったと思いました。そこそこしゃべれるようになったのは、剛やんからの刺激のお蔭だと思っています。 ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出4~中学校時代・授業で先生をいじめる

授業で先生をいじめる(「いじる」のほうが正解か?) 私は好奇心が強くどんなことにも興味があったので、学校の授業自体は嫌いではなかった。ただ、家に帰ってからの予習や復習が嫌いでまずしたことがなかった。自由に好きなことができる時間がなくなるからだ。その代わり、成績が悪いと言われるのも嫌だったので授業中は集中して真剣に聞くことだけは実践していた。(いじめることになるN先生から授業中の目つきが鋭いと言われていた) ある日、剛やんがやってきて、「とっちゃん、ちょっと面白いことを考えたんやけど、どうやろ?」という。「なに?」と身を乗り出す私。今度はどんな提案か興味津々で聞いてみるとそれは、これまでにはないちょっと変わったものだった。国語のN先生の授業の時に、数名で質問攻めをすれば、1時間のその授業を潰せるのではないかというものだった。要は、真面目な生徒を演じながら授業の邪魔をしようという魂胆なのだ。 丁度その日の時間割に、N先生の授業が入っていたのでさっそく実行に移したのです。授業が始まってすぐに、剛やんがまず、「先生、前回の授業についての質問があります!」と手を上げた。このように、受け身ではなく自分から積極的に質問してくる生徒を特に評価している先生だったので、もちろんこれに答えて熱心に説明を始めた。ある程度、やり取りが進んだころを見計らって今度は私が手を上げて意見をいう。この辺りは阿吽の呼吸というやつだ。同じように、次は例の森君が続ける。 この時の授業内容は、「・・・は」「・・・が」などの助詞についてであった。(60年近く前の話だが、まだ覚えている!)「断定の助詞はどれか」という話題で意見を言い合った。これを繰り返して結果は大成功!とうとう新しいところには進めず授業をまるまる潰した結果になったので、3人は英雄気分で大満足!今なら、ハイタッチというところだろうか。先生には少し気の毒なことをしたが、若気の至りで反省しつつも、一方で忘れられない楽しい思い出となっている。その後、何年経ってもこの話題を出してはそのたびに大笑いした。(今の時代なら逆いじめで問題になりそう) これまで、いろいろと彼の提案したアイデアに乗ってきたが、今回のようないたずらっぽいものはこれが最初で最後だった。その先生に恨みとかがあるわけではなく、ただ、面白がって、ほんとうにできるかどうか試したいという軽い気持ちなのだ。そしてこのイタズラが、職員室では、あのクラスは真面目で熱心な生徒が多く素晴らしいと評判をとったのだからわからない!きっと読者の中にも同じような経験があるのではないだろうか。 私は、このような遊びを含めたすべての行動のアイデアが、彼のどこからどうして湧いてくるのかを考えてみた。結論は、彼が読んだ様々な本から来ているのではないかと思っている。彼は本好きで、どこに行くにもいつも片手に本を持っていた。それに私と会うと、いつもまず最近読んだ本の話をした。このことは学生時代から社会人になってもずっと変わらなかった。 森本君が世界一周の旅に出たのも、小田実の「何でも見てやろう」がきっかけだったし、まさにその精神で、100か国以上もの外国へ出かけていって何でも見てきたのであろう。森本剛史を作り上げたのはまさしく「本」だったような気がしている。もちろん、本を読んでも理解力と吸収力とが必要であるし、それを実戦に活かすことができるかどうかはまた別の能力が必要であろう。旺盛な行動力とその活かし方に秀でていたのが森本剛史だったと思うのだ。 小学校時代の話に戻るが、私は本を読むことよりも体を動かす方が好きな子供だった。放課後はほとんど毎日、ソフトボール、それもクラスのチームと別の草野球チームに所属していた。人数が集まらないときは相撲だった。栃錦と若乃花が活躍した栃若時代の真っただ中だった。クラスの番長で体の大きい原君とはいつも勝負していた。コンクリートの階段の角におでこをぶつけて3針縫う羽目になった、しかも原君と私と同じ部分をお互いに一度ずつ。 読んだ本の冊数では絶対に完敗している。 ~つづく~ 西 敏    

森本剛史君との想い出3~中学校時代・クラブ活動

森本君とは、小学校4年生から別のクラスとなり、中学校でまた一緒になったりしたが、家が比較的近かったこともあり会いたければいつでも会えた。お互いに他にも新しい友達ができ、常に一緒にいたわけでなかったが、何かあると声がかかるという関係はずっと続いていた。今回は中学時代の話である。 クラブ活動 城南中学校へ進んでからは、お互いにクラブ活動に力を入れるようになり、会う時間は減っていった。森本君はバスケットボール、私は野球に夢中になった。その昔、新宮高校野球部は甲子園で”古豪”と呼ばれた時期があり、高校野球ファンには平安高校や北海高校と並んで全国でよく知られていた。そんな過去の栄光もあり、練習といえばそれは厳しいものがあった。 毎朝、5時過ぎに近くの小高い山「蓬城山」に集合して、山道の階段を何十回と上り下りして走る。別の日には、大浜に集合して砂浜を1時間ほど走る、走る。私は身体はそれほど大きくはなかったが、運動神経には少々自身があり、小学校の少年野球(実はほとんどがソフトボール)では常にピッチャーで4番だった。意地もあって、1年生の春から毎日の猛練習に耐えて抜く覚悟でいた。 そんな頑張りにも限界があり、半年後の秋に実施された健康診断で非情な結果が待っていた。新入部員の1年生(20名くらいいたと記憶している)のうち私を含め9名が全員、急性腎臓病と診断され、即クラブ活動を中止せざるを得なくなった。これ以上やると本来の勉学に差しつかえるというのが理由だった。こうなると本人よりも親が反対する。こうして甲子園への夢は絶たれた。 昭和33年、長嶋茂雄が颯爽とプロ野球界に登場し、その大活躍で日本の全国民の目をひきつけていた。そして、新宮高校の前岡投手はあの金田投手の再来といわれ一世を風靡したのだ。甲子園で流れる校歌も素晴らしいなどと持ち上げられたりもした。そんなこともあって、地元の野球少年はみんな憧れをもって野球部に入り、練習がどれだけきつくても音を上げず、甲子園を目指して懸命について行ったのだった。しかし残念ながら前岡投手はプロではその才能を発揮することができずやがて忘れ去られていtった。 急性腎臓病、若年性高血圧症、ネフローゼ症候群などと診断された私は、尿にタンパクがたくさん出てしまう結果、身体のあちこちにむくみが出るようになった。向う脛を指で押すと、押した部分だけペコンとへこんで暫く元に戻らないという症状が典型的だった。以後、食事療法として塩気のものを食べられずに嫌な思いをしながら悶々と時を過ごした。 そんな状態が半年以上続いて、少し良くなった頃、運動好きだった私はめげずに今度は卓球部(野球部よりは少し軽めで楽だと思った)に入り卒業まで続けた。森本君はバスケットを続けていて、同じ体育館だったので、「おー、やってるな」と時々確認し合うような感じだった。ただ、クラブ活動に専念するあまり時間的な余裕がなくなり、小学校のときのようにいつもつるんで歩くということはなくなっていた。 天文部創設 そんな忙しい日々を過ごしていたある日のこと、剛(たけ)やん(みなずっとそう呼んでいた)が、当時城南中学校にはなかった天文部を創りたいと持ちかけてきた。そういえば、一度、校庭に天体望遠鏡を据えつけて、夜、希望者に星を見せるというイベントがあった。たしか、土星の輪っかがかろうじて見えるなどと騒いだことがあったような気がするがはっきりとは思い出せない。 思うことを何でもやってしまうのが剛やんの得意とするところ。提案してくることが何故か私にも興味のあることが多く、ついそれに乗っかることになる。結局、もう一人、クラスメイトの森誠君を加えて3人で城南中学天文部を結成!当時、森君の家が相筋というところにあり、町の灯りからはちょっと離れて夜になると真っ暗になる場所だったので、夜空の観測にはもってこい。徹夜して、星の移動写真を撮ったりした。 星の移動写真を撮る方法は、三脚にセットしたカメラのレンズを空に向け開放(バルブ)にしておいて、学生帽で蓋をする。一定の時間ごとに学生帽の蓋をさっとはずしてまた閉じるという原始的なやり方だった。これが結構うまくいったので、市が主催した何かの展示会に、太陽系の惑星の位置模型を作り応募した。冬場の徹夜観測は凍えるほど寒いので、あまり痛くない柔らかめのボクシンググラブをはめてお互いがプロボクサーの真似事をして暖まった。 部としての活動は結局大したことはしなかったが、何せ「無」から「有」を作ってしまうところが森本君の行動力の凄いところ。今、城南中学校に天文部はあるのだろうか? ~つづく~ 西 敏  

森本剛史君との想い出2~ブラジルに渡った1年5組の級友

2011年秋、故郷新宮で合併のため間もなく閉鎖となる蓬莱小学校の同窓会が開かれました。卒業以来ちょうど50年になる年で初めての同窓会でした。幹事から開催の連絡を受けた私は、閉校と言う言葉に寂しさを感じながら、一も二もなく参加を決めました。 閉校に伴って発行された記念誌「ふじだな」には、森本剛史君が書いた文が、卒業生のメッセージとして掲載されていました。彼は、東京でトラベルライターとして活躍する先輩の一人として新宮高校でも公演を行ったこともあり、原稿の依頼がいったものと思われます。 内容はブラジルに渡った1年5組の級友についてのエピソードでしたが、当時、遠くアメリカやブラジルへの移民団が新天地を求めて海を渡ったことが思いだされます。旅立ちの日、クラスの仲間が新宮駅まで見送りに行きました。幼な過ぎて移民と言う意味がよくわからないまま、ただ友とのわかれが寂しかったものです。 私自身は、数か月後にブラジルに渡った女の子から一通の手紙を受けとりました。大半は忘れてしまいましたが、「お元気ですか?ブラジルでは、お父さんのことを「パパヤ」お母さんのことを「ママヤ」といいます。」と書かれた言葉だけは今でも鮮明に覚えています。大きく乱れた子供の字でしたが、友と別れた寂しさが滲み出ていました。 森本君の書いた文章の最後の部分で親しかった友人として私の名前が紹介されていました。このことは彼から直接聞いておらず、見つけた私の姉から知らされました。仲がよく小学校から高校までずっと行動を共にしていたことの表れだと思います。ここでは、その文章をそのまま紹介します。 ー--------- ブラジルに渡った1年5組の級友 蓬莱小学校 昭和35年度卒業生 森本剛史 「俺よう、来月ブラジルへ行くんや。」蓬莱小学校校庭で、三角ベースの野球を楽しんでいたときだった。1年5組(担任は、榎本玲子先生)の同級生、堀切君が突然こう言った。「移民やろう?」と僕は切り替えした。「うん、家族全員で神戸からな。ブラジルのサンパウロへ行くんや。」昭和30年代初頭のことだった。 熊野地方は、明治時代から移民が盛んだったので、堀切君が突然地球の裏側へ行くと言っても、それほどびっくりすることではなかった。まわりを見渡せば、どこそこのいとこが、ブラジルでコーヒー栽培をして大成功しているとか、という話をよく聞いていた。 1976年、新婚旅行を兼ねて9か月間世界一周をしたとき、サンパウロに立ち寄った。日本人街を歩いているときに、ふと堀切君のことを思い出した。そうや、彼が移民でやって来たのはこの街や。僕はさっそく和歌山県人会へと足を伸ばした。たくさんの和歌山県出身者がサンパウロに住んでいたので、県人会館も立派な建物だった。 県人会館で事情を説明し、名簿を見せてもらったが彼の名前はなかった。担当の人は、それなら「串本」という日本食レストランへ行って聞いてみたら。あそこのおばあちゃん新宮の出身と聞きましたから」と言ってくれた。 「串本」で久しぶりの和食を食べ、店を切り盛りしていたおばあちゃんに堀切君のことを尋ねて・・「堀切ねえ、聞いたことない名前やねえ。それやったら新宮出身で故郷の人脈に詳しいAさんのとこへ行ってみたら、どうかいのう。」とアドバイスされた。 結局、4軒の熊野出身者のお宅を訪ねた末に、彼の勤務先がわかった。サンパウロ最大の青果市場の中の花屋さんで働いているという情報だった。その翌日、僕は市場に向かった。彼は僕のこと、覚えてくれたるかいね。ちょっとしかクラス同じやなかったさか、多分僕のこと知らんやろね。そう思いながら市場に行くと、が~ん、市場は休みの日だった。翌日早朝、サンパウロからイグアスの滝に飛ぶことになっていたので、結局彼とは会わずじまい。でもいつかは会えると信じよう。 もうひとつ、多分蓬莱小5年生のときだったと思う。担任は南良一先生だった。クラスメートの下部さんが、家族でロサンジェルスに渡った。彼女は阿須賀神社の近くに住んでいた。 ロサンジェルスにグルメの取材に行ったときのことだ。高校時代のクラスメートがロスに住んでいて、彼に連絡を取り久ぶりに旧交を温めた。彼と話していると新宮人で蓬莱小学校出身の女性を紹介してやるということで、会ったのが下部さんだった。何たる奇遇。小学校時代はふっくらとしていたが、実際の彼女はほっそりとしていて、美人になっていた。 蓬莱時代の友達の話で盛り上がったが、僕のことはほとんど覚えていなかった。でも、僕の実家の前の山中善行君のことはよく覚えていて、少しがっかりした思い出がある。 僕は還暦を過ぎてはや4年。まだまだ現役で仕事をしているが、仕事の合間の楽しみは故郷の仲間と会うことだ。蓬莱時代の友達では、伊藤忠を定年退職した西敏君、白百合女子高校でフランス語を教えていた稲垣雅子さん、イトーキに勤めていた榎本善行たちがいる。会えば故郷の話。故郷は遠くにありて思うもの。でも蓬莱小学校が廃校になるのはやはり寂しい。 ー------------------------- (これは、森本剛史君がまだ元気だったころに書いた文章で、読むと懐かしさと共に先に逝ってしまった寂しさが募ってくる。) 西 敏 ~つづく~    

森本剛史君との想い出1~出会い・小学校時代

私の親しい友人であった森本剛史君が2014年9月22日、闘病むなしく亡くなって7年になります。生前、彼は、代官山蔦屋書店で、旅行コーナーのコンシェルジュとして多くのファンを集め、大人気を得ていました。書店勤務を始める前は、フリーのトラベルライターとして世界100ヶ国以上を巡り、数々の旅行情報を世に提供していました。一例をあげれば、一時東北新幹線の車内におかれたパンフレットに三内丸山遺跡についての記事がありましたが、これも彼の手によるものでした。 豊富な経験を生かして蔦屋書店のコンシェルジュとなった彼は、まさに水を得た魚のごとくでした。彼の訃報は毎日充実した日々を送っていた矢先のことで、私にとって大変大きなショックでした。小さいころから一緒に遊び、学び、還暦を過ぎるまで60年近い年月を友として付き合ってきた彼は、私の一生に少なからざる影響をを及ぼした人物で想い出は泉のように湧き出てきて尽きることはありません。 ふと思い立ち彼との想い出を少しばかり書いてみようということになりました。まず思い出すのは、若いころ「将来は古本屋のおやじになりたい」と彼がよく言っていたことです。君は、古本屋どころか大書店の一角を任されるという大任を果たしたのだから、今はそちらで、案外満足しているのかも知れないね。君のことを少し書くので見ていてほしいと思います。 ①小学校時代 昭和30年4月、蓬莱小学校に入学、クラス分けが行われて私は1年5組に入りましたが、同じ組に森本剛史君がいました。担任は榎本玲子先生といって若くて美しい先生でした。 剛やんは市内で薬局を経営する森本薬店の長男で近所でも元気で評判の子供でした。一方、私の父親は国鉄に勤務し新宮駅の電信室で毎日トンツー・トンツーとモールス信号を打ちながら地道に一家を支えるサラリーマンでした。 違った環境で育った二人でしたが何となくウマが合って親しくなるのにさほど時間はかかりませんでした。クラスは3年生までそのまま持ちあがりとなったこともあり、放課後は彼と遊ぶことが増えていきました。 彼はとても明るくて人見知りをしない、そして人一倍好奇心の強い性格でした。好奇心の強いところが私と似ていてそれがお互いに引きあった要因だったかもしれません。今日は何をして遊ぼうか、つぎつぎと新しいことを提案してくるのです。 ある時は、ウクレレを弾き、ある時は本を読んだ影響で催眠術に興味を持って弟にかけてみたりと行動範囲に際限がありません。彼の影響で、私も後にウクレレを弾き、やがてギターへと興味が続いていきました。 ~つづく~ 西  敏 (小学校6年生)

おぼろげ記憶帖 06 いただきます

食事の最初に 「いただきます」、 終わりに 「ごちそうさまでした」 と手を合わせて言います。 なんとたくさんの意味と気持ちのこもった言葉でしょうか。 野菜や果物、魚や肉その他の加工品の数々をつくる人達、流通の人たち。調理してテーブルに乗せる人たち。幾多の人々の手を煩わせてやっと食事が出来るのです。 感謝の気持ちを込めての 「いただきます」。 子供のころ 「お米はお百姓さんが汗水たらして作られたのだから一粒でもおろそかにしては眼がつぶれる。バチが当たる」 と言い聞かされていました。どうして眼がつぶれるのか訳も聞かずにいました。 そして食べ終われば 「ご馳走さまでした」。 食べることによって命を長らえていることに感謝して明日へ希望を託しての言葉だと思います。キリスト教ではお祈りをされますが、広い世界で一つの単語でこのような含みのある表現の出来る言葉があるでしょうか。本当に素晴らしい言葉だと思います。 国により民族・宗教によっても特徴豊かな料理があります。そしてそれぞれ食事の作法は異なり、それに見合った食べ方があるようです。 東京では世界中の料理を食べることが出来ますから一つずつ試せたら、と思わずにはいられません。日本料理のお箸を使う作法は箸置きから手にするまでの動きがとても滑らかで美しく思われます。もしかしたらお茶事の懐石料理から来たものなのでしょうか。 握り箸・迷い箸・移り箸はお行儀の悪いことでお箸の持ち方も正しく持てば上手に食べることが出来ます。私は幾ら稽古しても正しくは持てずに今に至っています。 ナイフやフオークでは両肩を張っての食事。手で掴んで食べる料理もありますがとても優雅とは言えないようです。 最近は物も食べ物もあふれかえっている日本。それが当たり前になっていて、ともすれば感謝の気持ちを忘れそうになっている私自身がいます。アフリカや東南アジアで食べる物がなくてやせ細っている子供たちがいることを認識して日々を過ごさなくては、それこそ「バチが当たる」かも知れません。 AZ *写真は、昭和15年当時の家庭での食事風景  

おぼろげ記憶帖 05 堀川

大阪は「水の都」と呼ばれていて網の目のように堀川が巡らされている。江戸時代に大坂の街の発展に伴い淀川デルタ地帯の整地をした。低地の排水と地面のかさ上げ用の土砂の必要から堀川が掘られて舟運に利用された。これはスマホの検索から得た知識です。 終戦後間もない昭和23年に入学したのは堀川小学校。戦災から免れ、鉄筋3階建ての立派な校舎で25mのプールもありました。(そこから数百mの所は焼けたのですが・・)1873年明治6年の創立だそうです。また通った高校も3年後は150周年だと同窓会記念行事の準備を始めています。明治に学制が頒布されて同じ年の創立であることが判りました。何と新しい教育制度の一番乗りだったのでした。 南の今宮戎神社、今宮さんに対して北は堀川のえべっさん(戎)。1月9日の宵戎、10日のほん戎、11日は残り福。笹に熊手や戎さん、縁起物をいっぱい付けて貰って「商売繁盛で笹持って来い」と囃し立てながら小躍りで歩いて帰ります。 堀川、正式には天満掘川(てんまぼりがわ)というそうです。川沿いには同級生の家が何軒もありました。 メリヤス屋のむっちゃんの家は店員さんもたくさんでした。 「どざえもんが上がったぞ!」 と言う叫び声。子供たちは、 「子供は来たらあかん!」 と言われても怖いもの見たさに駆け出していました。 引き上げられてむしろを被せてあったのを一度ならず3度も見てしまいました。 うどん屋のせっちゃんの家に近づくとおいしい出しつゆの匂いがしてきます。裏手がすぐに堀川でしたから黄色いたくあん(沢庵)「おこうこ」 と呼んでいました。切れっぱしを貰って紐にくくり付け長く垂らしてザリガニ釣りを楽しみました。小学校低学年の頃です。 いつの間にか思い出の堀川は埋め立てられ自動車専用道路になり、その上を阪神高速がビュンビユン走っています。堀川橋は川に掛かっているのではなく、自動車道を跨いでいました。 生まれ育った大阪はドンドン変わりゆき、両親も亡くなった今は同窓会と二つのお墓参りに帰阪するのみでどちらが本命かわからない親不孝をしています。 生まれたのは堂島川のほとり、育ったのは堀川。 住んだのは大川から東横堀川に通じる堰の傍、パリのセーヌ川。 そして現在は多摩川。 散歩は二ケ領用水。 それぞれほんの目と鼻の先の距離です。 水の都の大阪とは縁の切れない大阪人間なのかも知れません。   *写真は昭和23年当時の国鉄大阪駅(東口)   AZ  

おぼろげ記憶帖 04 晴れ着(2)

東京オリンピックの翌年(1965年)から4年余りと20年後の平成元年から7年半余りの2度に亘り合計12年を夫の転勤に従いパリで過ごしました。 その間に幸いにもフランス人の結婚披露パーティーに3回招かれました。5・6月の北国の遅い春から夏への花々の咲き乱れる最高の季節です。会場は出身地や住まいの近くでそれぞれパリの少し郊外でした。ホテル・教会・レストランの庭にパラソル型のテントが張られていました。 シャンパンで乾杯の後はお祝いのダンスパーティーの始まり。最初は勿論新郎新婦。次は新郎と新婦のお母さん。新婦と新郎のお父さんという順序です。その後はどんどんと輪を広げて挨拶と共に踊るのです。華やかで賑やかで楽しいパーティーです。服装も長い年月の間TPOをわきまえた洋装で過ごしてきたファッション華やかな人達です。見ているだけでも楽しい時間でした。 という私は胴が長く、足の太短い完全な日本人体系。こんな時はやっぱり着物の出番です。フランス語の充分でない私を着物が助けてくれました。誰もかれも遠慮がちとはいえ、 「これ全部絹で出来ているの? 触ってもいい?」 と上から下まで触りまくり、遂には着物の裾をめくりあげて、 「これも絹?」 という有様でした。 原則的には一つの洋服には3系統の色を使い、その他はアクセサリーやスカーフで華やかさを補うフランス。日本の着物は何色もが混ざり合って調和がとれています。真反対の色使いの多さにも驚かれました。 面目躍如とした3回の晴れ着でした。頃合いを見てそれぞれに退出しますが若い人たちは夜明けまで踊り続けるとのことでした。 驚いたり感心したことが2つありました。 一つは結婚の届を区役所に出すと何月何日誰と誰が結婚します。異議のある人は何日までに申し立てをするようにと掲示板に公示されること。私達の出席した結婚式の一つは新聞に公示されたのを見ました。良家の慣習かもしれません。国境が地続きになっているヨーロッパには世界中の民族が集まり、国籍の異なる人たちの結婚も多いことから面倒が起きないようにという事のようです。 もう一つは最初の赴任から大変お世話になった方のお嬢さんでした。仏日の家庭でした。息子と同い年で幼稚園に行くまで片言の日本語とフランス語で仲良く遊んでいました。お祝いをどのようにすればいいかを尋ねました。デパートのブライダルコーナーにリストを作ってあるとのこと。何とまあ驚きました。新生活に必要な品物の大きいものから小さいものまで。価格の高価なものから廉価なものまでびっしりとリストアップされていました。予算に応じて選びお金を支払ってくればよいのでした。私達は初めてのことにたじろぎ選ぶことができず、金額を小切手に書き入れてお祝いにしました。そういう事も出来るようになっていました。何事にも合理的なフランス人の一面を見た思いでした。 AZ *写真は、1965年開催の東京オリンピック開会式の様子(市川崑監督映画から)  

おぼろげ記憶帖 03 晴れ着(1)

大阪では数え年13歳の時に嵐山の松尾大社へ「十三まいり」のお参りする風習があります。 小学校6年生。「紐落とし」ともいって子供の着物の肩みやげとからげを解いて大人と同じ着物の着付けにします。子供から大人への儀式なのでしょう。その着物を着て私は祖父母に連れられて京都へ行きました。知恵を授けて頂くお参りで、家に帰りつくまで後ろを振り返ってはいけないのです。折角頂いた知恵を落としてしまうからなのです。 その後、日をおいてまたその着物を着てもう一人の祖母の所へ一人で出掛けました。これは無事に育ったことの報告とお祝いなのでしょう。二人の叔母も来ていて「よく来たねえ。いいおベベ(着物)を作ってもらってよかったねえ」と褒めてもらったことを覚えています。今でいうJRで駅の数4駅の距離。そう遠くないのですが何しろ雑踏の大阪駅で乗り換えて行くのです。今なら12歳の子供を一人、しかも着物姿で出掛けさせるでしょうか? 何度も行って道順は解っていますが、「気を付けて行っておいで」と送り出して無事に行き着くようにと心配しても近頃に起こりうる諸々の危険については全く心配していなかったようです。子供から大人へ移り行く試練だったのでしょうか? それとも嫁姑、小姑との気持ちの持ち様であったのでしょうか? ずっと後に嫁してからふと気になった事柄でした。 もう一つのお参りは芸事の上達をお願いするお参り。天満の天神さんは学問の神様ですが本殿の裏手に別のお社があります。そこへ節分の日のお参りするのです。家を出て帰り着くまで喋ってはいけない。家から天神さん迄歩いて10分余りの距離ですがそれはなかなかに難しいことです。お稽古ごとのお師匠さんに教えられ、人けの少ない夕方にこれも一人で出掛けました。そして無事にお参りを済ませました。 昭和28年(1953年)から29年に掛けてのことです。古きよき時代であったと懐かしく思い出されます