フランスあれこれ59~戦場(II)ノルマンディー上陸作戦

 1944年6月6日、英・米・加・仏などの連合軍がドイツの占領下にあったフランスのノルマンディー沿岸に上陸作戦を決行します。これが決定打となって態勢が一気に収束に向かいました。この現場を一度は見ておきたいと思っていたのですが実現したのは1992年の夏でした。 パリからセーヌ川が蛇行しながら英仏海峡に注ぐところが北の貿易港ルアーブル、この辺りから西に約80㎞位の海岸がノルマンディー海岸です。  この地方の中心の町カーンから北に向かい、バイユーの街を通過、海岸近くに戦没者の墓地がまず目に入りました。ここが最激戦地もあったオマハビーチの一角です。海岸は極めて平和な自然の砂浜に見えます。昔見た黒白映画「史上最大の作戦」の舞台で、連合軍、主として米軍が最大の犠牲を払った場所だと自然と手を合わせた次第です。  海岸沿いに東に向かい次の戦場地に入りました。ゴールドビーチです。全くの様変わりで改めてビックリ!ここは英国軍が中心で臨時の港を建設したところ、多くの残骸が今も残ります。海面の満干対策として浮き埠頭をほぼ一週間で完成、この人工港が大量の物資や機材、更には援軍を送り込むことが出来たため形勢を一気に変えることが出来たのだと実感した次第です。 この作戦でオマハビーチを中心に数千人の犠牲者が出たと言われます。(一説では2500人)しかし忘れてはいけないのは一般民間人がその十倍くらいの数で犠牲になったと言われます。上陸を始める前に連合軍の空軍が攪乱のため、更には落下傘部隊の降下で首尾軍の背後に上陸、そのための爆撃や銃撃戦などがあったようです。 ノルマンディー作戦の海岸は合計6カ所の暗号名で分類されています。各地に当時の資料館や記念館がありますが、中には大きい砂浜でバカンス地になっていて、隣接の街の一角にはカジノが出来ていたりと時代とともに大きく変化しています。 ノルマンディーで忘れられないのはリンゴです。日本のような立派なものではありませんが、そのまま食用になるのは無論ですが、矢張りリンゴジュース、更には発酵と蒸留で出来るブランディーの一種カルバドスが有名です。特にお酒好きにはカルバドスの年代物は最高のアルコールと言えます。思い出すだけで一杯やりたくなります。

フランスあれこれ58~戦場(I)ヴェルダンの戦い

 皆さん、アルザス・ロレーン地方という名前はご記憶にあると思います。現在フランスの一部ですがそう言えるのは正確には第二次大戦以降ではないでしょうか。それまでドイツとフランスの間で領土合戦が繰り返された歴史があります。その理由はライン川の交通とロレーン地方の石炭と鉄鉱石です。ラインを挟んでドイツと向き合い、ライン川沿いにドイツの産業都市が並びます。他方フランスはやはりパリが中心だけにこの地方から距離があります。しかしライン川を挟んで地続きとしてはフランスと言えるでしょう。以上が係争の背景です。 1914年サラエボ事件に端を発し、欧州の同盟関係が次々に巻き込まれ世界戦争(第一次世界大戦)に発展しました。(背景や経緯は省略するとして)西部戦線ではドイツとフランスが激しく戦うことになります。膠着状態が続いた後、1916年2月この時とばかりにドイツ軍がラインを越えてロレーン地方に攻め込みます。兼ねてそれを警戒していたフランスはヴェルダン(ロレーン地方北部)近郊に守りを主体にした要塞を築いていました。全てが地下壕です。産業革命の後でもあり、強力な大砲は無論、戦車や戦闘機まで登場しました。近代戦争の初期でもあり、考えられる安全体制であったと思います。18か月に及ぶ一進一退の激戦が続き、独仏合計で戦死者70万人と言われます。   ヴェルダンの近郊に街を取り巻くように塹壕が設置されていました。中でも一番突出していたドウオウモン要塞の攻防が激烈を極めました。後のドゴール大統領が当時陸軍大尉、負傷して三年位の間捕虜となったといわれます。その後第二次大戦下ドイツの占領下でドイツの傀儡政権を担ったペタン将軍が、当時の司令官として赴任、何とかドウオウモン要塞を取り戻します。遂にドイツ軍がヴェルダン突破を果たすことが出来ず、翌年11月コンピエーニュの森での休戦協定(註)に辿りつきます。 30年位前この地を訪ねました。激戦地ドウオウモンには両軍戦士の墓地が広がります。敵味方を問わず、また植民地からの異教徒の墓も。日本とは趣の異なる雰囲気に驚きとともに心打たれる感傷を覚えたものです。 (註)コンピエーニュの森での休戦協定についてご紹介させて頂きました。こちらをご参照ください。 https://bungeikan.heimnohiroba.com/writers/azuma/compiegne-2/