手拭いの暖簾(20)花篭とかんざし

「ナツひとり 仲間由紀恵」 と染め抜かれた手拭い。興行の挨拶や部屋見舞いのお返しの為の別誂えの手拭いのようです。 どのようなのような道をたどって私の手元に届いたのでしょう。どこかに細い糸が繋がっていたのかも知れません。   華やかな美人の仲間さんにはぴったりの色と模様だと思いました。 並べて吊るのは?と思っていたところ立川の駅ビルでかんざしの図柄を見つけこれでヨシヨシと機嫌よくしていました。 舞台姿に日本髪に結った可愛い姿を想像していたのでした。でも後になって知り得ました。   ピンクと藍色の反対色で釣り合っているかに見えますが内容的には全くミスマッチでした。   でもこの2枚は好きな組み合わせなのです。   「ナツひとり」は平成17年NHKで「はるとナツ」として放送されたのを(涙ながらに食い入るように見たのを覚えています)、新橋演舞場で舞台化され、内容を変えて戦後を一人逞しく生きた女性の物語になっていたようです。   手拭いの図柄と舞台とはいささか異なる感じがします。   つらい戦争のお話ゆえに優しい女らしい花篭とピンク色に夢を求め、観客の気持ちを和ませたのでしょうか。 それを確かめる細い糸の繋がっていないのが残念です。 AZ      

フランスあれこれ55~私のナポレオン(2)百日天下への道

 古いアルバムを繰っていて一枚の写真を見つけました。ナポレオンの乗馬像で日付は1992年。当時はデジタル化の前で写真撮影は景色と一緒に人物の写真を撮るというのが一般的でした。(人物は切り取っています)  1814年4月フォンテーヌブローを出立してエルバ島に来たナポレオンですが、エルバ島滞在はわずか10カ月程度、しかし満を持しての脱出を敢行、ニースとカンヌの間にあるジュアン湾に上陸しました。彼の後任のルイ18世の悪評もあって彼は大歓迎を受けます。  私は夏休みを利用して南仏の旅行を楽しんでいました。その10年ほど前に突然の事故で亡くなったモナコ后妃グレースケリーの宮廷を訪ねました。丁度衛兵の交代の儀礼のタイミングでした。成程と思われる急カーブの連続で当時を偲んだあと一路パリに向かいますが、選んだ道がナポレオン街道です。比較的なだらかな坂を登る途中にグラースの街があります。北海道の富良野を想像してください。一面の花畑、フランスの香水生産の拠点です。 この後は急な山坂、アップダウンと急カーブの連続、しかし古代からの重要な交通路です。ナポレオン街道と呼ばれるのはこのグラースからリヨンの手前のグルノーブル迄を言います。  街道の中間近くシストロンの街で一泊することにしました。古くからの交通の要衝で、歴史的にはローマ時代、いやもっと古く4000年の歴史とも言われます。小高い丘の上に遺跡の断崖が残っていました。宿泊は星つきのレストランを兼ねたホテルでした。大きな庭があり一角にプールもあり、古くからの保養地を兼ねた中継基地を感じさせました。料理も良く大名気分の逗留になった記憶があります。 ナポレオンの進軍が進むにつれ参加する軍隊も大きくなり、当初の1000名が既に6000名位になっていたと言います。恐怖を感じたルイ18世はそれを阻止するため軍隊(約6000人)を派遣しますが、これがまた寝返ってナポレオン軍に加わりました。その軍隊は街道の終わりグルノーブルの近くラフレー湖でナポレオン軍と合流、この地に乗馬姿のナポレオン像が建ったという次第です。 ルイ18世は亡命、ナポレオンはフォンテンブロー宮殿に到着、百日天下の皇帝に復帰します。 次回は最後の戦いの場ワーテルローを訪ねます。

手拭いの暖簾(18)鶴

深々と降りしきる雪の中でひっそりと翼を休めて横一列に並ぶ鶴。 降り積もる雪に厳寒の厳しさが感じられます。 その中で肩を寄せ合い労わりあっているような赤い可愛い目。この目に見つめられて私も寒い冬を乗り越えられたのかも知れません。 数ある手拭いの中で同じのが2枚あるのはこの図柄だけです。ペアに吊るされた迫力かも知れません。 かつて湿原を歩きたくて箱根の湿生花園、長野の車山の八島ヶ原湿原、尾瀬を桧枝岐の方から行きました。でもいつも人出を避けての季節外れではカサカサに乾燥していました。 2018年の7月。旅で知り合った方が釧路でネイチャーガイドをされています。(大変難関の資格のようです。)その方に私は釧路湿原、家人は北前船や開拓の歴史を知りたいとお願いして3泊4日の旅をしました。 丹頂鶴公園で飼育されているのを十分に堪能し、知識を得ていざ湿原へ。木道を歩き、いくつかの展望台では異なる方向から広大な湿原を眺めました。そして一日かけて殆ど一周しました。 冬でなければ湿原で丹頂鶴は見られませんから予備知識が鶴の飛ぶさまを想像させてくれました。余日の観光も余すところなく走り回り見物。本職のガイド付きっきりの行き届いた有意義な旅でした。 食のダントツは厚岸の岩ガキでした。 秋にもう一度来て下さいとの約束は未だ果たせていません。   AZ      

手拭いの暖簾(14)網干と網代

夏の季節に網干(あぼし)と網代(あじろ)の日本の文様。 網干は漁に使用する投網を三角錐の形に干している様子を表現しています。波・葦・船・鳥等と共に使われます。この手拭いは千鳥です。 網代も籠文と同じく伝統的な日本の文様です。夏の海はぎらぎらと太陽の照る明るく開放的なイメージです。 でもこの二枚からは静かで爽やかな涼しさを私は感じるのです。柔らかい色彩と色遣いからワビサビに通じるものを感じて、暑さをひと時忘れられるような一品に思われます。 ヨーロッパにもエジプト文明からギリシャ・ローマへ至る長い歴史の中に時代と国を感じさせる幾多の装飾文様があります。 ずっと以前カイロ博物館の玄関前でアカンサスの大きな葉っぱを見つけました。ギリシャ彫刻や柱頭にある木の葉の唐草模様のモチーフです。目の前の実物のみずみずしい濃いグリーンの葉っぱに衝撃的な驚きと思わぬ発見に感激でした。 その後上野の芸大の音楽学部の入り口の庭にりりしく空に向かって咲くアカンサスのローズピンクの花を見つけた時は「え….日本でも咲くの?」とまた感激!6月末のことでした。 日本と西洋・東南アジアの文様・装飾図鑑は静と動、或いは優雅さとたくましさ。かなりの違いはありますが共に見ていても飽きることのない楽しさです。 先日ガーデニングクラブの方が2号棟のスズランの脇にアカンサスを植えて下さいました。大きくなって花の咲くのを心待ちにしています。 AZ      

フランスあれこれ54~私のナポレオン(1)ナポレオン時計

  40年位前でしょうか、2度目のパリに赴任をしました。その直後ある得意先から記念品だと言って置時計を頂きました。何の記念だったのかは記憶にありませんが、「ナポレオン時計」だという事はしっかり覚えています。(写真はイメージで頭の帽子の部分は単純な輪の取り手でした。)応接室の棚に飾らせて頂く事にしました。その後もナポレオンの話が耳に入ることがあり、この機会にと思って内地の友人にナポレオンの本を送ってもらうことにしました。(この本は今も私の書庫に入っています。)ナポレオンの一生を通読したのですが時計の話は全く出てきませんでした。彼の戦略に大いに有効利用したのではという期待を持っていたのですが、そんなある日この時計は忽然と消えました。 その後知ったのですが、この時計はナポレオンと言ってもナポレオン三世時代のモデルだったのです。しかしお蔭でナポレオンを勉強することになったと今も感謝しています。 (ナポレオンの生涯については注記をご参照ください。)  当時日本からの来客も多く、週末の小旅行などでフォンテンブローの森に行く機会があり、その都度ナポレオンが失意の中でエルバ島に去る際、このフォンテーヌブロー宮殿の中庭に面した円形階段で近衛兵たちとの別れをした(1814年4月)という同じ現場に立ち、彼の心境を推し量ったものでした。ひと言付言しましよう。彼を取り巻く元帥府の側近どもがいとも簡単に彼を見限ったという。一方近衛兵たちはエルバ島への同行を選んだという。 ところでナポレオンと言えばブランディーやコニャックなどの年代物のブランドとしても使われます。しかしナポレオン一世時代(1806年)のコニャックが今も存在してネット価格が1本300万円にもなると言います。 次回はエルバ島から百日天下への道を訪ねます。 (注記)ナポレオンの生涯 1769年コルシカ島生まれ、幼年学校、士官学校(砲兵科)と進学、85年士官に。1789年フランス革命。革命に反対する元貴族士官の亡命などで空席が出来て昇格、94年砲兵司令官に。更に王党派の反乱鎮圧で評価されて国内軍司令官に。フランス革命へのオーストリアの介入に端を発し、イタリア方面からの進撃で成果を上げ英雄として凱旋、国民の信を得た。その後イギリスが介入、エジプト遠征中に対仏大同盟が出来、急遽帰国。内政でも力を発揮して難局を突破。経済、教育など各分野で改革を進め、遂には1804年国民投票で皇帝にまで上り詰めた。海軍力を持つイギリスの抵抗に苦慮、トラファルガー沖海戦で失敗。逆に陸ではアウステルリッツで勝利、(これを祝してのシャンゼリゼの凱旋門計画であったが完成は彼の死後で1936年)イギリス・スエーデンを除く全欧州を制圧したこの段階が彼の絶頂期だろう。そしてイギリス・ロシアの連合による圧力で産業界の打撃も大きくなり、遂に1812年彼の命取りとなるロシア遠征に踏み切ることになる。寒冷の地ロシアに長逗留したのが運の尽きとなった。そして失意の中でエルバ島へ。