シンゴ旅日記インド編(112)インドで両替の巻

インドで両替の巻 (2010年9月記) 日本に一時帰国する前日に円を買わねばと思いつきました。それで私は総務担当に『銀行に開設したばかりの私の口座からルピーをおろして円を買いたい』と伝えました。 総務担当が『E-チケットとパスポートが手許にありますか?』と私に確認を求めました。インドで外貨を買うためには海外へ行くことを証明する必要があるのです。私のパスポート、Eチケットはともにカバンに入れてありましたのでそのことを総務担当に伝えました。 彼から『それでは、行きましょう』と言われ一緒に銀行へ行きました。私が口座を開設したのはインドで一番大きな民間銀行です。インド全土に何千店も支店があり、プネだけで50店もあるといいます。そのプネの第一支店に行きました。 ルピーをまずATMで下ろそうとしました。しかし私はインドの銀行のATMを使うのは初めてでした。銀行のATMは行内に置いてありませんでした。銀行から50mくらい離れた角を曲がったところにATMのコーナーがあるのです。 それで歩いて行って総務担当に使い方を教えてもらいました。まずカードを差し込んですぐに抜くのです。そうすると画面に何語にするかと表示されるのです。英語を押しました。すると当座預金か総合預金かと表示されました。その次からは日本と同じく残高確認か、預金か、引き出しかなどなどと画面に現れました。 私は無事にルピーをおろして銀行に戻り為替窓口に行きました。女性の担当者です。少し偉そうな態度なのです。彼女が現金での両替は手続きが面倒になるので口座からの引き落としの方が早いと言いました。 私はおろしたばかりの現金が手元にあるので現金での交換を主張しましたが、女性担当者は現金は銀行で預かり私の口座にあとで入金処理しておくので両替の金額は口座から振替えろとしつこく言いました。 私はそれに従うことにしました。すると彼女はルピーからどの通貨に換えるのか聞いてきました。『円です』と、私のそばにいた総務担当が私より先に答えました。女性担当者が円には直ぐには交換できないと言いました。 私は総務担当に向かって『じゃあ、まあ、いいか、じゃ米ドル。』と伝えました。女性担当者から3枚くらいの書類を渡されそれに記入して出せと言われました。その書類に記入する場所は事務所の隅っこのテーブルでした。総務担当は昔この銀行のこの支店に一時勤めていたことがあったのです。でも、彼の同期はすでに出世してこの支店に居ないようです。現在の窓口担当者は総務担当が知らない人ばかりとのことでした。なお、書類への記入は彼が全部してくれました。 15分位して窓口に戻ると女性担当者がそこにはいませんでした。小間使いのような男の人が寄ってきて『今、食事中だから待っていてくれ』と言いました。そんな馬鹿な!?すでに午後の2時を過ぎているのに!! 総務担当が少し憤慨したように『ここではだめです。外に出ましょう。Money  Changerに行きましょう』と言いました。私は彼に言いました。『貴方はこの銀行での両替の他に電話会社にも行って料金の支払いを済ませる必要があるのでしょう。それでは電話会社の方に先に行って支払いを済ませてからここに戻りましょう』で、二人で表に停めてある車に戻りました。 しかし車が走りだすと総務担当は携帯でどこかとやり取りをはじめました。そして運転手に命じて道路端に車を停めました。その近くは2月にテロ事件のあったGerman  Bakeryがあるところとわかりました。総務担当が私に『降りないで下さい』と電話しながら言いました。 私が何か見つけると車を降りて直ぐ写真撮ることを知っているのです。先ほども銀行の前で額にヒンズーの印(ティルカ)を付けた物乞いに10ルピーを渡して写真を撮ったりしたからです。 すると、総務担当が運転手に何か言うと車が動き出しました。総務担当は携帯をかけながら『GPO』という言葉を頻繁に発していました。GPO、GPOそうかGeneral Post Officeかと私は思いました。そのGPOの近くに来ましたが総務担当はまた電話をし続けていました。両替商の場所が分らないようです。郵便局の対面か、並びかと電話で聞いていました。そこで同じブロックを2回ぐるぐると廻り小さな商店が4軒ほど連なるところの駐車場に入って行きました。 その中の一軒の入り口に『Travel Center』と書いた看板があり、その下に『Foreign Money Transfer』と書いてありました。まさか地下銀行じゃないだろうなと思いましたが、私が両替する金額はたかが知れていると思い総務担当に続いてお店の中に入って行きました。 先客が一人ありカウンターの中の人が対応していました。先客は私たちが入ってからすぐにお店をでていき、我々の番となりました。総務担当が両替をしたいと説明をしているようですが、なんか駄目みたいです。カウンターの人は二階にいる人を呼びつけていろいろ説明していました。結局両替をするにはEチケットとパスポートのほかに居住証明書が要るとのことなのです。 私はそれを用意していませんでした。総務担当はさっき行って来た銀行ではチケットとパスポートで良いと言われたと強く抗議しました。私は彼にもう今日は両替をあきらめてもいいよ。両替は明日空港でするから問題ないと伝えましたが、彼は腹の虫が治まらないようです。ポイと私に Eチケットとパスポートを投げてよこしました。 そして車に戻り総務担当と一緒に携帯電話会社に寄り支払いを済まし事務所に戻りました。結局、両替は2時間かけて出来なかったのです。 その夜、日本に着ていくカッターシャツにアイロン掛けていたら携帯電話が鳴りました。番号を見るとインドの国番号で、女の人の声で『ハロー、ハロー』と言いました。私は『Who is calling?』と訊きましたが、返事がありませんでした。いつもの間違い電話かなと思い携帯を切りました。すると直ぐにまた電話がかかってきて『銀行です、定期預金に興味ありますか』と言ってきました。相手は私の預金している銀行からでした。きっと私が口座を開いたのを知ってかけてきたのでしょう。それで私は『今のところ預金に興味はありません、いま夜の7時過ぎです。ビジネス時間は過ぎました。家でリラックスしています。さようなら』といって一方的に電話切りました。 その銀行は両替するのに待たせておいて定期預金の勧誘を夜中に電話だけでするとは何事でしょうね。両替は翌日空港でしましたが、これも両替できる限度の金額がありました。 まだまだ良くわからない国です、インドは。 丹羽慎吾  

シンゴ旅日記ジャカルタ編(29)  頭痛三度目の正直の巻

一ヶ月以上前から右後頭部が痛みだしました。 それで、先々週に病院でMRIを撮ると脳には異常がなく、虫歯が原因ではないかと言われました。 なので、先週は同じ病院の歯科虫歯だった右奥歯を抜いてもらいました。 しかし、頭痛は治りませんでした。それどころか右の耳も痛くなってきたのです。 なので、今週はまたまた同じ病院の耳鼻科に行きました。 それは、火曜日の午後5時の予約でした。 けれど、4時に病院に着いたので、コーヒーショップでカフェ・ラッテを飲んで時間を潰しました。 そして、5時前に前回と同じ医療サービスの青年とロビーで会い、耳鼻科の診療室に行きました。 しかし、5時に先生は現われませんでした。 やっと、30分程遅れて先生が到着し。診察が始まりました。 先生は若い女医さんでした。私が最初に診てもらう患者でした。 はじめに、先生は私が持参したMRIの写真を見ながら、これは右の鼻が詰まっているからですと指摘しました。先生は写真の鼻の部分を示しながらここが少し曲がっており、右側の副鼻腔への入口を圧迫していて空気が入らず、酸素不足で神経を痛めているとの説明してくれました。 その説明が終わると検査に移りました。 細いパイプの先にカメラが付いた内視鏡を右の鼻の中に入れられました。 目の前にあるスクリーンにそのカメラが撮る映像が映し出されました。 鼻の中に入るまでは鼻の下のヒゲが、中に入ると鼻毛がまるで植物園で見たツル草のように思えました。その中をカメラがどんどん進んで行くのです。まるでジャングルを進む探検隊です。 そしてツルが無くなると、そこからは岩で閉じ込められたような洞窟が映しだされました。 先生がこのように扉が閉じられていて空気の通り道がありませんと説明してくれました。 そして次に左側の鼻の中に同じように内視鏡を入れ、こちらは通り道があるでしょうと洞窟の割れ目のような入口を見せてくれました。 その後に同じ内視鏡で耳の中を調べられました。 私は右の耳が痛かったのでそちらは掃除をしていましたが、左の耳の方はあまり掃除をしていませんでした。右の耳の検査を終えて左の耳の中を内視鏡が進んでいき鼓膜を写し出すまでに、その通路にカスが散乱しているのをスクリーンで診てしっかり掃除してくるのだったと後悔するとともに女医さんの手前恥ずかしくもありました。 その次は喉の検査でした。これは内視鏡は使わずヘラで舌を押さえて行われました。 扁桃腺が一つしかありませんねと聞かれました。そうなのです。私は子供の時に扁桃腺の手術を受けたのですが一個切ってから泣き出したのでそれで手術中断となりまだ一個は残ったままなのです。すべての検査を終えて先生から治療方法を聞きました。 まず一週間分の鼻腔へのスプレー薬を2種類と、錠剤を二種類出すこと、一週間後にまた検査に来ること、そして、この病気は完治するまで3ヶ月は様子を見る必要があるとのことでした。 私は通訳の人に一体なんという病気ですかと聞くと、彼は英語で答えましたが、よく分らなかったので日本語で何というのですかと聞くと、スマホでその日本語を教えてくれました。 スマホには「急性鼻副鼻腔炎」とありました。そして、鼻の構造の複雑さを始めて知りました。 治療を終えて2階に上がり、薬局で薬を出してもらうまで通訳の青年と話をしながら待ちました。 通訳     実は今夜は会社の送別会があるのですよ 私        遅くまで同行してもらって申し訳ありません 通訳     いいえ、仕事ですから問題ありません 私        食事会の会場までお送りしますよ 通訳     いいです、この時間は道が混んでいますからゴージェックで行きます。 私        会場はどこですか 通訳  近いです、ここから30分くらいのところです 私        じゃあ、やっぱりお送りしますよ 通訳     それでは、食事会に参加しませんか 私     あなたの会社の食事会に他人が入ったらしらけますよ 通訳   問題ありません、日本に行く仲間の送別会なのです 日本の会社の社長さんが参加するとなれば皆が喜びますよ 私        じゃあ、顔だけ出して失礼することにしましょうか 通訳     ちょっと待ってください、リーダーに確認します。 (電話をした後で) リーダーが歓迎すると言っています、是非とも参加してください。 私        ありがとう、でも、私は今、糖質制限中で、ご飯なしでお肉が食べたいのです。 通訳     そのお店はオージービーフの美味しいお店です、 値段は高くありません、みなで割り勘ですから問題ありません。 私        そうですか、それではご一緒します。 ということで彼を送りながら彼の会社の食事会に参加しました。 13人のメンバーで食事会が行われていて、私たちが到着した時にはほぼ食事は終わっていました、そして、二組くらいにわかれて楽しくお話しをしていました。 私と通訳の人のステーキはあらかじめ注文してあったので到着するとすぐに出てきました。 私は食事を終えると、参加していた3人の日本人にそれぞれの出身地や今までの勤務地を聞いたり、私のアジアでの経験を話したりして座を盛り上げました。 そしてお勘定の時間になったので、私から皆で記念写真を撮りましょうと言って、女性陣は椅子に座り、男性陣は後ろに立ってもらいました。 私は「はい、笑って」「はい、親指をたてて、サムアップ」と音頭を取りながら何枚もの集合写真を撮りました。 みなさんはそれから二次会に行くようでしたが、いくら図々しい私でも、そこまではついて行かず、みなさんと握手をして別れ、車に乗り込みチカランに帰りました。 医療サービスの青年からは病院で先生が来るまでや、薬局での待ち時間に、いろいろ日本での介護士の経験を聞きました。 彼は介護施設、精薄施設で働いた経験があり、認知症の人の介護は大変ですと教えてくれました。 中には食べ物と排泄物との区別がつかない人がいるので、相手がわかるまで何度も何度も来り返して教えなければないなかったとか、すぐに怒り物を投げつけるひとがいるとか、夜中に徘徊する人がいる時は一時間ごとに見回りに行かねばならないとかです。大変な労力だと思います。 また、インドネシア人の看護師介護福祉士候補の受け入れ制度はEPA(経済連携協定)によ10年ほど前に始まり、その青年は第二期生であるとのことでした。 私は知り合いから介護士看護師に合格したインドネシアの人が日本での就職をしないですぐにインドネシアに帰国してしまうらしいねとか、最近、日本政府はインドネシアよりもベトナムから介護士看護師を多く受け入れるようですよとか、台湾では多くのインドネシア人がハウスキービングで働いていますよとかの話題をiPadで新聞記事を見せながらお話ししました。 彼からは政府間の制度であるEPAとは別に、最近は技能実習生制度で看護師や介護士の資格がとれる民間交流の制度ができたとききました。 EPAは日本語がわからない人たちを日本に派遣し日本で日本語を学ぶ方法を取っているが、技能実習生制度はインドネシアで日本語検定試験(N4)を合格した人だけが行ける制度にして、日本ですぐに役立てるようにしていく仕組み作りが必要であるとのことでした。 技能実習生制度では送り出し側と受け入れ側が民間ですので、インドネシア側の送り出す団体と日本側の受け入れる団体がしっかりしている必要があることなどの説明もありました。 私は耳の治療を始めて5日が経ちました。まだ頭痛が少しありますが、時間をかけて治します。 でも、頭痛の原因であると診断され、抜いてしまった私の奥歯は何だったんでしょうね。 日本の歌舞伎の隈取りも副鼻腔に関係あるのでしょうか? 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(111)インドの電気事情の巻

インドの電気事情の巻 (2010年7月記) インドの電気事情はよくありません。出張で地方に行きますとお客様の工場はおおよそ週一日の停電日があります。中には毎日3時間に加え週一日の停電のところもあります。 インドは水力発電に頼っていますが、2012年から始まる5カ年計画では原子力発電所の増設が盛り込まれており日本を含む先進国の受注競争が始まっています。 私たちのお客様は鋳物工場ですのでスクラップを溶かすために大量の電気を消費します。電気が来なければ仕事ができず稼働率が下がります。電気代は製造原価の半分近くを占めます。しかし自家発電ではコストがかかり過ぎます。 インドでは3月から5月までの乾季が特に電気事情が悪いのです。この電力不足がインドの工業化の妨げの一つであると思います。 私の住むプネは毎週木曜日が工業電力停電(メンテ)の日です。電気を多く使う工場はその木曜日を休日とし日曜を出勤日に振り替えているところもあります。停電は一般家庭にも影響しています。私の住むアパートは自家発電機があるのでまだ良い方です。停電は夕方に多く停電になると一旦蛍光灯の明かりが消え数秒後に再び点灯します。アパートの自家発電が稼働したのです。しかし冷蔵庫やクーラーからは音が聞こえません。静かなままです。発電機の容量が少ないので蛍光灯と天井ファンのみへの電気の供給で、コンセントへの供給は止めているのです。 ですから冷蔵庫が、テレビが、クーラーが、洗濯機が使えません。コンセントから電源を取るパソコンは困らないのかですって?私の前任者も困っていたのでしょう。盗電まがいの方法でしのいでいました。それは玄関上の電球を外しそのソケットに電球ソケット用コンセントを差し込んで延長コートを接続してパソコンに電源を供給できるようにしてあるのです。 私の事務所の場合はもっと大変です。商店形式の店舗2小間(中でつながっている)を借りて事務所としています。停電対策はバッテリーです。最初はガソリンエンジン式の発電機を予定していたのですが、発電機ですと地下の駐車場に置いておかねばならないので停電となると駐車場までエンジンを掛けに行かねばならないので直ぐ切り替えができるバッテリー式になっているのです。バッテリーを事務所の天井の低い二階に16個、一階に6個と置いています。長時間の停電には対応できません。バッテリーには充電用と停電時の切替用にインバーターがついていました。そのインバーターではエアコン2台までが限度で4台あるすべてに対応できなかったので、これではいかんと私がインバーターの仕様アップを業者に依頼するよう部下に伝えました。 すると修理のためインバーターを業者のところに持ち込んでいる間に停電がありました。帰宅直前でした。インバーターがないのでシャッターをバッテリー電源で下ろすことができませんでした。どうやって入り口のシャッター二つを下ろすのか?チェーンです。手動式です。大変な時間と労力を要します。私もやってみましたが手にチェーンのさびがべっとりとついて汚れました。 チェーンは当然事務所の内側についています。シャッターを閉じたあと後にどうやって外に出るのか?その出口は事務所用でない隣の小間からです。そこは常時シャッターが閉まっていてそこのシャッターは建物の外でクルクルとハンドルで回して上げ下げする方式なのです。 そのクルクル回すハンドルはどうするのか?それは外の郵便受けに入れて帰るのです。不用心ですよね、まったく。次の写真は毎朝のシャッターを開ける手順です。 先日は私が事務所に朝一番乗りし二つ目のシャッターを開けている時に停電になりました。一つ目も丁度上の写真のように半開きの状態でした。それでその半開きのドアから腰を屈めて中に入りました。しかし事務所って電気が無ければ何もすることないですよね。電気が来るまで入り口の階段で書類読んでいました。前述のインバーターが修理され帰ってきました。しかしバッテリーではやはりエアコン2個に対応するのが限度と言われました。そして据付業者が来てインバーターを二階に上げて再接続しようとしたのですが、どれが高電圧用配線かどれがバッテリー用配線か接続かを業者が分らなかったのでそのままにして帰ってしまいました。インドって時間が沢山ありますよ。このインドの時間を輸出してお金を稼ぐ方法はないものかしら。   丹羽慎吾

新加坡回想録(57)紅白歌合戦

家族でシンガポールに移り住んで、日常生活ががらりと変わるのは当たり前のことである。海外生活について先輩たちにその経験をいろいろと伺うと、出てくる話はやはり医療事情や食糧事情、子供の教育の問題など生活に密着した話が中心で苦労した話が多い。 その点シンガポールは、医療、食事、教育、どれをとっても大きな問題にはならず、当時、世界中で最も恵まれている国のひとつと言われていた。唯一の不満は気候のことくらいで、ほとんど一年中暑い夏が続くので四季のある日本が恋しくなるのである。赤道直下で涼しさが欲しくなるという無いものねだりの発想だ。 娯楽面では、テレビを見ることがほとんどない。英語放送はあっても日本語放送がないので特に子供たちは見なくなる。ニュースは日経新聞があるのでさほど問題にはならない。生活のほとんどの面で他の国より恵まれているのだからそれくらい我慢すべきであろう。 彼の地に移り住んで初めての大晦日、紅白歌合戦を見ることができないのが何となく不満な人が多かったようだ。単なるテレビの歌番組ではあるが、それほど日本人の心に奥深く入り込んでいたのかと今更ながら思う。しかし、我々が在住している間に、その「紅白」も見られるようになったのだ。 多くの日本人が利用するあるホテルが気を利かせて日本でビデオに録り、直ぐに航空便で届けるという快挙をやってのけたのだ。年が明けてから、ホテルのロビーに置かれた大きな画面で数家族が集まって視ることになる。シンガポールに近いマレーシア・ジョホール州東部のリゾートホテルでは、毎年必ず「紅白」を撮り正月に見せるということで評判をとっていた。 恵まれた環境の中で過ごした5年間であったが、さらに思いもよらず「紅白歌合戦」まで見ることが出来たという贅沢な話でした。 (西 敏)

フランスあれこれ42~ハッピー・リタイヤメント(1)送別会?歓送会?

半世紀も昔の思い出話です。パリ駐在で赴任して暫く、仕事上の知人と言うか友人がパリに見えました。週末でもありのんびりとブローニュの森を散策、ひと休みを兼ねて夕食までの時間つぶしにカフェに入りました。しかし生憎すごい人で超満員、ボーイが出て来て「今日は貸し切りでご利用いただけません」と門前払いでした。でも、それを見ていたパーティーの何人かが「いいじゃないか、まあ、入って!入って!」と言う具合で引き込まれました。 このパーティーはハッピー・リタイヤメント即ち退職のお祝いだと言います。そして「日本からお祝いに見えました!」という事で紹介されたのは定年退職にはまだちょっと早いと思われる紳士、にこにこ嬉しそうに「大歓迎です!」とばかり握手を求められました。皆さん結構お酒がまわっていて、人それぞれに言いたい放題、結局何を話したのかあまり記憶に残っていません。 30分位お邪魔したあと散会の雰囲気で私共もその流れに乗って失礼しました。結局私どもの夕食はパリに戻っていつもの日本料理店となりました。行きつけのレストランでもあり早速先ほどの次第を店長(オーナー)にお話しました。 彼曰く「フランス人はいろいろ、でも日本のように仕事にしがみつかない。人生の目標は仕事=義務から逃避すること。そしてもう一つ、リタイヤのパーティーはリタイヤする本人のおごりで、決して日本の送別会ではない。」ところ変われば品変わるという事ですね。

新加坡回想録(56)娘がTVに!

その日は特に外出の用もなく一日中事務所内にいて、本社や他の支店との連絡や顧客との電話のやり取りに終始し平凡に過ぎようとしていた。夕方7時を少し回った頃一本の電話が鳴った。受話器を取ると、いつも親しく付き合いをしている会社の日本人マネジャーK氏からであった。 「西さん、直ぐにテレビを見て! 今、あなたの娘さんが出ているよ!」 「え!?どういうこと?」 「5チャンネルSBC(シンガポール放送)のニュースだよ!」 あとで知ったことだが、ある時シンガポール日本人小学校と現地の小学校(テマセック・プライマリースクール)との間で親善交流会が催されたそうな。その日は4年生の娘のクラスの生徒全員が相手校を訪問する日に当たっていた。普段の学校生活について話合った後、縄跳びやあやとりなどの遊びを披露して楽しんだそうだ。 その時、シンガポールを代表するSBC(シンガポール放送:5チャンネル、NHKみたいなもの)から取材班が来ており、生徒たちはインタビューを受けた。アナウンサーが何人かにマイクを向けて感想などを聞こうとしたが、英語が分からない生徒が多く困っていた。 3年生で移住した娘は、この時までに1年間ほど英語学校(ATT)に通っており少し話せるようになっていたので、アナウンサーの要求に応えることが出来た。そのインタビューの様子がSBCの7時のニュースで放映されたのだ。 たまたまそのニュースを視たK氏が私に即電話をくれたのだ。おまけにビデオにまで撮ってくれて後からいただいたので家族揃って見ることが出来た。事前に聞いておれば準備していたのだが、それも叶わないところ知人の機転でよい想い出の記録となった。 思えば、長女が初めて外国人相手に英語をしゃべったのは、家族でシンガポールに向かう飛行機で外国人CA(当時はまだスチュワーデスと呼んでいた!)相手につぶやいた「エクスキューズ・ミー、オレンジジュース・プリーズ」だった。たどたどしい日本語英語だったが通じて喜んでいた! この子は小さいころから物おじしないところがあり、実は移住直後に日本人学校ではなく英語が勉強できる英国系の学校に行きたいと言ったのだった。理由を聞くと、外国人の友だちが欲しいという単純なことだった。娘の希望する学校へやってもよいと思わないこともなかったが、学費が2倍と高く諦めたのだった。 学費のことは娘に内緒にして、日本人学校があるから行けないんだよと諭して諦めさせた。ところが、後から通っている生徒がいることが分かって嘘がばれた。その代わりに、英語の家庭教師を週に2度、別に英語専門学校に通わせると見る見るうちに上達していった。好きこそものの上手なれである。 その時から1年後、放送局のアナウンサーにインタビューを受けて応えている姿は親として面映ゆくもあり成長の証を見るようでもあった。 帰国後、娘は勤める会社を突然訪れた外国人に少し相手をしたことを除いては特に英語を活かすことはなく、他人からよく勿体ないと言われる。ただ、度々出かける海外旅行では旅行会社のお仕着せプランを利用せず、殆ど自由旅行を楽しんでおり言葉で困ることもないようだ。 もうテレビに出ることもないだろうから、懐かしい想い出である。 (西 敏)    

新加坡回想録(55)住宅事情

シンガポーリアンの人口の約8割が「HDB」に住んでいます。HDBとは「Housing Development Board」の略で、シンガポール国民を対象とする公団住宅のこと。公団住宅なので外国人は購入できないのですが、借りることは可能です。実際、単身でシンガポールへきている日本人の多くがHDBを借りて、何人かでシェアしている場合があります。 マスタールームとコモンルームがあり、バス、トイレが2つ以上あるタイプが多いようです。お湯につかる習慣がないので、ほとんどバスタブはついていません。場所によりますが、家賃は約月700~1000Sドル(約4万5000円?6万5000円)。 HDBは賃貸料金もコンドミニアムにくらべると安く、1階はホーカーセンターや地元クリニック、スーパーも近くにある場合が多いのでとっても便利です。洗濯物を干している光景もよくみられます。上の階の人が色ものを洗濯してあまりしぼらないまま干すと、下階で干していた白い洋服に洗濯ものの水がしたたって、色がついてしまう悲劇もあるんだとか。 では、外国人がどこに住んでいるかというと、コンドミニアム(民間による高層住宅)に住んでいる場合が多いです。多くの日本人駐在員はコンドミニアムに住んでおり、もちろんシンガポーリアンも住んでいます。コンドミニアムには、プール、ジム、テニスコート、バーベキューピットなどが敷地内にあり、入り口にはたいてい24時間体制でセキュリティーがいます。 市街から離れている場合は、最寄りのMRTまでシャトルバスサービスもあり、大きなコンドミニアムになると、ちょっとしたコンビニやスパ、カフェが入っていることも。シンガポールの高層住宅で便利だなと思うのは、HBDでもコンドミニアムでも、下記のような「ダスト・シュート」が各ユニットもしくは各階についており、日本のようにきまった曜日に分別してゴミ出しをしなくていいのは楽です。 分別しないので、このゴミ出し口の大きさに入るゴミであればいつでも捨てられます。ただ、すぐに閉めないとなかからごきぶりが出てくるときもあるので要注意。 そのほか、かなり少数派ですが戸建てタイプの住宅もあります。これらの住宅は、テラスハウス、セミディタッチトハウス、バンガローに分類されます。テラスハウスとは、2階~4階建くらい住宅が数件連なって建てられているタイプ。 セミディタッチトハウスも、厳密には一戸建てではなく、片側の家の壁が隣の家とくっついて建てられているタイプです。   一見二世帯住宅のようにみえますが、隣に住んでいるのは赤の他人。壁が隣合わせになっているので、シンガポールに来たころは不思議に思う人も多いです。 バンガローは、一軒家のこと。たいてい広い庭とプールもついていることが多いので、西洋人は好んでバンガローを借りることが多いようです。 シンガポールで高級住宅街というと、やはりオーチャード近辺やリバーバレー River Vally。日本人も多く住んでいますが、06年から07年にかけて賃貸が高騰し、郊外へ引っ越す人も多くいました。ちなみに、オーチャードエリアのコンドミニアムはユニットのサイズにもよりますが、1億円からというお値段。08年には停滞していた不動産業界も、今年に入って景気の回復を見込んでか新しいコンドミニアムの販売促進が目立ちます。 シンガポールでは何軒もの物件を所有するのはめずらしくなく、投資目的にコンドミニアムを購入し、貸出しておいて、値段が上がったところで売りに出すということがよく行われています。 では、シンガポーリアンがみんな億ションを買えるほどリッチなのかというと、もちろんそうではありません。事業が成功したとてつもないお金持ちもいますが、上記のようにうまく儲けている人もいれば、失敗して借金地獄に落ちたという話もよく聞きます。ただ、株か土地、物件の売買はうまくいけば儲かる手段のようで、何人か集まるとたいていこの手の話題で盛り上がっています。 最近は外国からの投資家もこういった物件を購入しているらしく、中国本土、中近東の人たちが多いのだとか。通常の物件のほかに、2010年にはマリーベイにカジノとホテルが完成し、セントーサ島にもユニバーサルスタジオやカジノの建設が進められています。  

シンゴ旅日記ジャカルタ編(28) ジャカルタの病院で歯を抜くの巻

「インドネシアの歯医者に行くと抜かなくてよい歯まで抜かれるよ」と聞かされていました。 しかし、私はジャカルタの病院に行き、歯を抜いてもらいました。その顛末です。 右後頭部の痛みが一週間続いたので先週の木曜日にジャカルタの病院の脳神経外科でMRIを撮ると、脳に異常はなく虫歯となっている右の奥歯が原因だろう言われました。 すぐにその病院の歯医者で翌日の4時半の予約を取りました。 翌金曜のお昼に二時間半の余裕を持ってジャカルタに車で出かけましたが、金曜午後の渋滞に巻き込まれ車は進まず予定の時間に到着できず、歯の治療をキャンセルせざるを得ませんでした。 それで土曜、日曜と脳神経外科でもらった痛み止めと抗炎症の薬を飲んで過ごしたのですが、頭の痛みは治まりませんでした。 月曜に出社して早速、医療サービス会社に歯医者の予約がすぐにできないかと聞きました。 すると翌日の火曜日の午後2時15分に診察できるという返事が返ってきました。 それで月曜日は痛みを我慢して仕事をし、翌日の火曜日に今度は渋滞に巻き込まれてもよいようにと、時間に余裕をもたせ午前11時に会社をでました。 すると午後1時前に病院に着いてしまいました。 診察時間まで待ち時間ができたので病院の中をゆっくりと見ることにしました。 一階にはコンビニもカフェショップもあり、ロビーではグランドピアノが置かれ年配の男性が静かな音楽を奏でていました。まるで大きなホテルのロビーでした。 二階に上がるとレストランがありました。私はお腹が空いたので食事を取りたくなりました。 しかし、歯の診療を受けるのですから食後に歯を磨いておこうと一階に降りてコンビニで歯ブラシを求めたのですが売っていませんでした。 それでも空腹には耐えられなかったので、二階のレストランに戻り食事を取ることにしました。 私は、只今糖質制限中です。おコメは食べないようにしています。 メニューを見ると私の好きなソト・ブントゥット(オックス・テール・スープ)がありましたが、その日はソト・ベタウィ(牛肉のココナッツ・カレー・スープ)がおいしそうに見えたので、ライス抜きで二人前を頼みました。食事を終えてもまだ時間がありましたので一階に降りカフェでコーヒーを飲みました。 2時を過ぎたのでその日に対応してくれる医療サービス会社の担当者に電話をしました。 すると一階のロビーの遠くでスマホを耳に当てながらキョロキョロと人を探している男性が現われました。私がカフェの方にいるよと電話で知らせると、彼が私を見つけ来てくれました。 そして、簡単な打合せをすると彼は一階の右側の診療室のあるコーナーに入って行きました。 私はコーヒーを飲み終えると彼が消えたコーナーに入って行きました。 その入口には「Uro Nephirogy Center」と書いてありました。 何のことだろうとスマホで意味を調べると尿と腎臓と出てきました。泌尿器科のことです。 中の待合室には医療サービスの男性の姿が見当たりませんでした。 私は待合室に座って先ほどの医療サービスの人が来るのを待ちましたが、診察時間が来ても彼は現われませんでした。ここは泌尿器関係だから彼の入って行ったコーナーを私が間違えたのだろうと考え、その待合室を出てロビーで彼が現われるのを待つことにしました。 ロビーの椅子に腰を掛けるとピアノの曲が五輪真弓の「心の友」に変わりました。 ピアノを弾く人が私を日本人と知ってサービス心で弾いてくれたのでしょうね。 その気遣いにお礼を示したくて私はピアニストの方を見て笑顔で答え、足でリズムを取りました。 診察時間をかなり過ぎていたのに医療サービスの男性が現われないので私から電話をすると、先ほど私が待っていた泌尿器科のコーナーのドアが開いて彼が現われました、 そして彼は歯医者さんが間もなく戻ってきますので中に入って待っていてくださいといいました。 一緒にそのコーナーに入って行くと歯科の待合室は泌尿器科の受付より更に奥にあったのです。 歯医者の先生が来るまで待合室で医療サービスの男性からいろいろと話を聞きました。 彼は日本で介護士の試験に受かり倉敷に5年いてインドネシアに戻り今の会社で働いているのです。今年に入りチカランのマンションで自殺した新婚の日本人男性や、空港で脳梗塞で亡くなった日本人男性の後処理を担当したとのことでした。 彼に一旦世話になったお客さんがコールセンターを通さずいろいろと相談してくるようです。 また、彼は日本とインドネシアの介護士の交流をもっと深めて行けるようにしたいと夢を語ってくれました。しばらくするとお医者さんが来たので二人で診療室に入りました。 先生に挨拶して診察椅子に座わると先生は私の歯の全体を見てから、歯のパノラマ写真を三階で撮って来るように指示しました。 三階は先週脳のMRIを撮った階でいろんな先端設備が置いてありところでした。 日本と同じように頭の回りをグルっと回転する機械で歯のレントゲンを撮りました。 そしてまた一階の歯医者さんの部屋に戻ると、すでにその写真が出来ており、お医者さんからいろいろ説明がありました。 医者     右奥の歯に穴が開いていて、そこに食べ物のカスが溜まり神経を犯している この写真のこの歯茎のところに神経の腫れがでているのがわかるでしょう 私        それは歯を抜かねばならないということですか 医者     もう歯に穴があいているので抜いた方が良いと思う 私        歯を抜くと他の歯の安定が悪くなるので日本では歯を抜かない治療をしますよ 医者     それは前歯の話です。あなたの歯は一番奥なので他の歯には影響ないと思います 私        王冠とかブリッジとかの方法はありませんか 医者     一旦抜いて数か月後にインプラントをされてはどうですか、この病院でもできますよ 私の虫歯となった奥歯は5月の帰国時にかかりつけの歯医者さんから王冠を作りましょうと言われていた歯でした。さらにその日本のお医者さんからはなるべく早く帰国して治療してください、その治療期間には一週間はかかりますとも言われていました。 私        今、ここで歯を抜くことができますか? 医者     はい、できます。 私は歯を抜く覚悟を決めました。 ヒトの歯は親知らずを入れて上下16本づつでで32本あります。親知らずを入れないと14本づつでで28本です。 8020(ハチマル二イマル)運動というのがあります。80歳になっても自分の歯を20本持っていればなんでも美味しく食べられると言うものです。昭和62年(1987年)には80歳の人の平均は4.7本でした、歯を大切にしようとする意識が浸透してきて平成28年(2016年)にはそれが15.2本まで増えて来ています。しかし、これは平均で数字なので、自分の歯を20本以上持っている人と、数本しかない人との二層化の傾向にあるようです。 私は抜歯手術が始まる前に手術の様子を写真に撮るように医療サービスの人に依頼しました。 私は手術中に目を閉じていました。麻酔が掛かっていますが、あのチクッとする注射の針の痛みも、器具でグイグイと歯を抜いて行くのも顎から伝わってきました。 しかし思ったより短時間で抜歯は終了しました。 手術後に先生へお礼を述べ、医療サービスの人と薬局に行って薬をもらいました。 私は抜いた歯を小さなプラスチックの容器に入れてもらい持ち帰りました。 長い時間一緒に生きてきた私の分身ですから成仏するようにどこかで埋葬してあげようと思います。歯の治療費は海外旅行者保険の適用を受けることができません。 治療費全額を一旦本人が払い、医者の診断書、領収書そして規定の用紙に記入して日本本社に送り健康保険の適用を受けるのです。本人負担分は治療手術項目が点数によって違うのです。 これで私の歯は27本になってしまいました。8020以上になるようにこれからは気をつけます。 今日は歯を抜いてから5日経ち、右後頭部の痛みはほとんどなくなりましたが、今度は首の後ろが少し張ってきました。これはジャカルタまで何回も車で往復したので、その長時間乗車で首が疲れてしまったのでしょうか? 丹羽慎吾

新加坡回想録(54)食べ歩きのすすめ

シンガポール人ほど食道楽な国民はいないんじゃないかと思えるほどこの町にはレストランが多い。人口の7割強を中国人が占めている以上中国料理店の多さは他を圧倒しているがその料理のバリエーションの幅の広さも特筆ものである。 広東料理をはじめ潮州、福建、海南、四川に北京そして日本ではなかなか味わえない客家料理の店もある。 日本人に人気があるのはエビやカニをふんだんに使った海鮮料理。 生きたエビをブランデーで酔わせて生のまま食べる料理(Drunken Prawn)などは珍しく日本人受けするようだ。また、シンガポールらしさを体験したい人には現地の人たちに混じって屋台での食事も楽しい。 インドやマレー料理などアジアの地方食豊かな郷土料理もある。そしてねね料理というマレー料理と中国料理とがミックスされたシンガポール独特の料理もある。シンガポールの文化を象徴する料理である。 これらのアジアの料理以外にもフランス料理からイタリア、ドイツ、スイス、メキシコと世界のレストランが勢揃い。 本格的な西洋料理もゴージャスな雰囲気の中で味わえるここはアジア最大のグルメシティである 。 極論すればシンガポールでは名所旧跡巡りはそこそこにして 世界の味めぐりを楽しんだ方が得策かもしれない。この街では食べることとショッピングに集中したほうがずっと旅の思い出として残るだろう。 食べて買うことに興味がある人には何日滞在しても飽きることがない街である。 (西 敏)

シンゴ旅日記インド編(110)デリーの観光地の巻

デリーの観光地の巻(2010年8月記) 出張でデリーに行った時の写真を紹介します。 インド門はデリーとムンバイにあります。デリーのインド門は第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑です。 インドは戦後の独立を条件にイギリスに協力して参戦しましたが、大きな犠牲を払いながら独立は叶いませんでした。壁面には戦没者1万3500人の名前が刻まれています。 英領インドの首都は1911年にカルカッタからデリーに移りました。 なおムンバイにあるインド門は首都移転の1911年に当時のインド皇帝である英国王ジョージ5世夫妻の来印を記念して建てられました。   2.クトゥブ・ミーナール(世界遺産のひとつです) ニューデリーの郊外15kmのところにそびえ立つ725mの塔です。イスラム教であった奴隷王朝(13世紀初)がヒンドゥー教徒に対する勝利記念に建てたものです。   3.ランバーグ宮殿(ジャイプール) すみません。デリーの写真が少ないのでジャイプールの宮殿を紹介します。ここは今ではホテルになっており昼食を食べに行きました。真ん中の写真に写っている人は私ではありません、同行者です。一番右の写真はそのジャイプールの昔の天文台にあった惑星の呼び名の一覧表です。インドにはまだまだ観光名所が一杯ありますよ。有名なアグラのタージ・マハール廟、岩山を彫って作ったアジャンダ・エローラの石窟寺院、神に召される川ベナレスの水浴などなど、インドにこられるときは東西南北に分けて何回も来てください。来るたびに分らなくなくなりますよ、この国は。 丹羽慎吾