追憶のオランダ(84)Late FridayとBlaak の青空市場

オランダは日本のように店が夜遅くまで開いているということはなく、レストランとかは別にして、通常の日用品などを商っている店は早々と閉まってしまう。ただ、それでは皆不便に違いなかろうが、それはそういう昔からの習慣だから仕方がないと思っているようす。しかし、やはり不便さには抗しきれなかったのか、昔からの慣習を破り、我々が生活をしていた頃にも「週に一度だけ」曜日を決めて夜遅く(確か10-11時頃までだったと思うが)まで店を開けるようになっていた。町によってその曜日は違っていたらしいが、ロッテルダムでは金曜日がそうだった。「Late Friday」といって、この日は店が遅くまで開いているので、私が仕事を終えて一旦家に帰ってからまた家族と一緒に食事や買い物に出かけたものだ。別に買い物をしなくても、まだ店が営業をしている明るい夜の町に家族そろって出かけるのはある種の解放感というのもあり、それはそれでいいものだった。 買い物と言えば、食料品などは近所にあるスーパーマーケットで十分だ。私の住んでいる近所にもアルバートハインというオランダ全国に店を持つ最大手のスーパーマーケットや、デントームという店もあった。しかし、野菜などの生鮮食材などは、毎週市がたつ青空市場によく買いに行ったものだ。場所はロッテルダムセントラムのBlaak(ブラーク)の広場。すぐそばに有名なキュービックハウスなどがある。毎週土曜日には多くのテント張りの店がでる。食料品から日用雑貨、お花、植木等々、ほとんどの生活用品が揃っている。みな対面販売だから、別に買い物をしなくても見物してまわるだけでも結構楽しめる。オランダは多民族国家なので、いろんな国の珍しいものも売られているし、いろんな人種にも出会える。 また、オランダ人は非常に気さくで、店の商品に触っても別に文句を言われることはない。私はそこまではしなかったが、オランダ人は平気であちこち味見をしてから買うこともしているようだった。とてもおおらか。その点では同じゲルマン民族ながら、隣のドイツとは大分違う。ドイツでは勝手に店の商品を触ることはご法度だ。 冬場になると、私はBlaakの市場に出る屋台のベトナムルンピアを食べるのが楽しみだった。ベトナム風揚げ春巻きであるが、香辛料が独特で一度食べてからというもの病みつきになった。その熱々をほう張りながら店を次々覗いて回る。同じルンピアを持った人、フライドポテトの三角の入れ物を持った人、それぞれの匂いを振りまきながらざわざわと雑踏の中をすれ違う。 野菜などは、もちろん少量でも売ってはくれるが、大体はキロ単位でとなる。だから、果物・ジャガイモ・玉ねぎとか買い出すと、あっという間に4-5キロになってしまう。重くなると一旦車まで戻りトランクに放り込んで、もう一度引き返してまた市の雑踏の中をブラブラ見て回る。 いくつかある八百屋の中の一つにとてもひょうきんなオヤジがいた。その人が、先日日本のテレビ局の取材を受けていたらしく、偶然つけたテレビの街歩きの番組に出ているではないか。Blaak 青空市場の有名人だったのだ。しかし、往時の市場の風景もオヤジの姿も残念なことに写真としては全く残してなかった。今はおそらくガラリと様変わりしていることだろう。  

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その3)の巻

ジャカルタから成田に到着してPCR 検査などの手続きをしてホテルへ送ってもらう帰国者専用バスを待ってたとこから始めますわ。 時刻は夜の7時半を過ぎてましたわ。ちゅうのは飛行機が成田に着陸したんが 3 時半、機内で1時間待って、PCR 検査の結果待ちが2時間でそれが終わって預けた荷物を取りに行ったんが6時半でしたわ。そんで税関を通り宅急便や銀行のATM に行ったりで1時間かかってバス停に行きましたんで 7 時半となったんですわ。 帰国者専用バスの案内板は暗い隅に置いてありましたんでしっかり見て探さんとわかりませんでしたわ。案内板には時刻表やのうて朝の9 時15 分から夜11 時15 分までが運行時間で1時間置きに出るゆうて書いてありましたわ。 そんできっとバスは毎時 15 分に空港を出るんで 7 時 15 分のバスに乗り遅れたんやと思いましたわ。そうすると次は8時15分やと思うて空港の中に入ってイスに座ってバスを待つことにしましたんや。 寒かったんですわ空港の外は、私はTシャツとジャケットだけやったさかいな。その日の東京は11 月中旬の温度やったとホテルに着いてから見たニュースで言ってましたわ。それに台風が日本に近づいておりましたんで小雨も降ってましたわ。 スマホのバッテリーが8%になって赤色になってましたんで休憩場所の壁の下の方にあったコンセントから自分の充電器を使って充電させてもらいましたわ。8時過ぎにバス停に戻ってきますとバスを待つ人は私を入れて3人だけでしたわ。 ちょっと待つと帰国者用専用バスが来て前の入り口のドアが開いたんで私がドアの外から運転手さんに「乗っていいですか」と聞くと「まだです」と運転手さんは席に座ったまんま手元に持ったボードに何か書き込みながらこっちを向かんと愛想のう言わはったんですわ。 やっぱ関東の人の言葉は冷た いなあと感じましたわ。私は「まだ乗ったらアカンのやったらドアを開けんでもええやないか、閉めた まんまにしといたらどないや」とボヤきたかったんですが言えませんでしたわ。きっと寒さと暗いところでバスを待っておったしお腹が空いてたんで温厚な私でもイライラしてたんやろね。 そして運転手さんが手に紙を挟んだボードを持って降りてきて3人にどこのホテルに行くんか聞かはって3人の荷物をバスの横腹にある荷物入れに入れてくれましたんや。私は荷物を運転手さんに渡した後に「もう乗っていいですか」と聞きますとね「どうぞ」とまたそっけない言葉でしたわ。ついでに私が「(私の 泊まる)〇〇ホテルはバスに乗って最後のほうですか?」と聞くと「そうです、最後から2番目かな」 と答えてくれはったんですわ。 バスに乗り込みますとすでに4人ほどの人が乗ってはりましたわ。バ スが出発すると何回か止まり人が降りその都度運転手さんは席を立っては外に降りて荷物を車体の横腹から出してまたバスに戻ってきて運転してはりましたわ。空港を出て15分くらいしてからやろか私の泊まるホテルの近くに着きましたんや、お客さんはまだ一人残っておりましたわ。運転手さんはやっぱりパスを降りて車体の横腹の荷物入れから私のトランクを出してくれましたんや。親切でんな日本のバスの運転手さんは。運転して、車内アナウンスをして、荷物を入れたり出したりして、行先を教えてくれたりと一人で何人もの仕事をこなすんですわ。工場でいう多機能工ですわな。日本の文化ですわ、よその国では考えられへんことですわ。 その運転手さんに私は「ホテルにはどっちの方向に歩いていくのですか」聞くと「ここをまっすぐ行ってあそこを右に回って左側にあるよ」と簡単に教えてくれはったんです。けど私には初めてのところやさかいようわかりませんでしたんや。ええ  わスマホで調べればわかるやろなと思って運転手さんには「ありがとうございました」とお礼を言いま  したんや。 降りたとこのすぐ近くにコンビニがありましたんでホテルにチェックインしたらすぐに弁当とお酒を買いに来ようと心がはやりましたわ。はよう日本の弁当を食べたかったんですわ。ホテルまではちょっとした坂道を上って行かなあきませんでした。小雨が降り始め坂をすべらんように上るの はちょっとしんどかったでっせ。駅の周りには多くのホテルやマンションが立ち並んでいましたわ。 ホテルはビジネスホテルでしたんや。中に入ると透明なプラスチックで仕切ったカウンターが2つあってひとつの方でホテルマンが先客と話してましたわ。私はソーシャルディスタンスを守り先客の後ろに離れて立って順番を待ちましたんや。そうしてましたらもう一人ホテルマンが外から戻ってきてカウンターのなかに入って私にどうぞと言わはったんで私はチェックインの手続きを始めましたんや。 ホテルには会社から予約を入れてましたけどホテルマンは私に「どこから来たのですかそのあとどこへ行かれますか」とゴーギャンの有名な絵の題みたいなことを言わはりましたわ。そして私が帰国 者であることを確認すると「連泊のお客様へのお願いと案内」と書いた一枚の紙を渡してくれてその説明を始めましたんや。 仕事で長期に滞在する人を対象とするんで「連泊」と書いてはあるんですが、これは帰国者を対象にしたもんやと思いましたわ。なぜかちゅうとねその内容が次の通りやったからですわ。 〇朝食付きですがレストランの食事はご遠慮いただいております。お部屋までお待ちします。 書いてある言葉は丁寧ですけど「帰国者は人と接触してはアカン」ちゅうことですわな。けどポジティブに考えればこれはルームサービスですわ。私は海外の出張でもホテルのルームサービスを取ったことがおませんでしたさかい初体験になるんで嬉しかったですわ。けどあとで部屋に行くときに乗 ったエレベーターの中には「朝食はレストランでおいしい食事をどうぞ」いう写真付きのポスターが貼ってありましたけどな。それにビジネスホテルでルームサービスはあまりお目にかかれませんわな。 〇毎朝ドアの前にタオル、歯ブラシのなどのアメニティの入ったセットを置かせていただきます。 「シーツ・枕カバーの交換もご自身でお願いしております」とも書いてありましたんや。私は今までサービスアパートに住んでましたんでシーツの取り替えを自分でしたことはおまへんのですわ。そんで だんだんと自分が人と接触してはあかん ET みたいな存在になったようで淋しくなったんですわ。せっかく久しぶりに日本に帰ってきたのに人と接触できんのはむなしいなあと思いましたわ。 〇その中にはビニール袋が三枚用意しています。使用済のタオルやガウンはその袋に入れて縛ってからドアの前にお出しくださいませ。 これまた「帰国者はホテルの清掃スタッフとも接触してはアカン」ちゅうことですわな。さらにわびしくなりましたんや。シーツや枕カバーを自分替えるんやったらその分の料金は安うなっとるんやろか。 〇アメニティー類とリネン類は別々の袋に入れ、ドア前に置いて頂きますようお願いします。 「清掃スタッフはお部屋への入室を控えさせていただきますので、ご滞在中の客室清掃はお受けできません」とも書いてありましたわ。15 日間私は掃除をしない部屋で過ごすのですわ。バスタブもトイレも自分で掃除せなあきませんわ。けどこれは禅宗のお寺の修業コースだと覚悟しましたわ。 〇外出はなるべくお控えいただくようお願い致します。(万が一外出する際は必ずマスクの着用をお願いします。) なるべく控えるってどのくらいの頻度なんやろ。私は PCR 検査が陰性やったんでっせ、ある国の大統領なんか陽性で入院したのに一週間もたたへんうちに人前に出てきてますやないか。だいたいやがねぇ、待機生活の二週間が終わってから PCR 検査もラピッドテストもないっちゅうのはおかしいんとちゃいまっか。そんなんもう一回チェックして陰性であることを確認してから人前に出れるように せなアカンと思いまっせ。ちゃいまっか、ねぇ、責任者出て来い。「ほんまに来はったらどうしますんや。」「謝りますわ。」「なんて?」「ゴメンちゃい。」なんや人生幸朗生恵幸子のボヤキ漫才やがな。 結果判明後について(厚生労働省Q&A より) Q 陰性の結果が判明した後は自由に行動ができるのですか A 入国した次の日から起算して 14 日間は、事前に申告いただいたご自宅又はご自身で確保したホテル等にて待機していただきます。その際、自宅・ホテル等の待機場所からの外出や、公共交通機関(不特定多数が利用する電車、バス、タクシー、国内線の飛行機、旅客船など)を使用しないでください。 ※待機宿泊時の食事は、デリバリーサービスなどのご利用が推奨されております。 私の同僚でインドに長期出張しておったんが一週間前にやっと帰国できましてな羽田のビジネスホテルでの待機生活に入ってましたんや。彼からは朝食はレストランで取れるけど昼と夜はコンビニで弁当を買って食べてると連絡をうけてましたわ。そして近くに見える東京タワーの写真を送ってくれてましたんや。私は会社からホテルの名前を連絡してきた時にネットでその場所を調べてホテルが 成田山新勝寺に歩いて行ける距離にあることを知りましたんや。そんでチェックインする時にホテル マンに「新勝寺には散歩に行けますよね?」と念のために聞いてみたんですわ。すると「行くのでしたらひと気のない夜か早朝に行ってください」と冷たく言われましたわ。これまた帰国者は感染の可能性があるから人と接触をしてはアカンということですわな。 そして私が「洗濯ものを出すことができますね」と聞くと「ちょっと待ってください」とゆうて隣のカウンターの人と小声で耳打ちしだしましたん や。そして耳打ちされたホテルマンが「業者が受け付けてくれません。洗濯はホテルの〇階にある コインランドリーでしてください。百円玉5枚でできます。」と言わはったんですわ。チカランではサー ビスアパートやったんで自分で洗濯をしたことがおませんでしたわ。こりゃまた面倒やなと思いました わ。 私が「洗剤は自分で買って来るのですか?」と聞くと「洗剤は入れなくても自動で出てきます」とのことでしたわ。そのやり取りを引き次いで最初のホテルマンが「洗濯はできるだけ昼間のお客さんがいないときにしてください」と言わはったんですわ。なんやなんや私は完全にコロナ感染者として扱われているのかと思いましたわ。私が不服そうな顔をしていたからか「外食はできませんがホテルの周りにデリバリーのできるお店がありますので取り寄せることができます」との説明がありましたわ。 平安時代の 939 年に関東の武将・平将門が新皇と名乗り朝廷と敵対し乱が勃発しました。朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正は弘法大師空海みずからが敬刻開眼した不動明王を捧持して京の都を出発し成田の地にて御護摩祈祷を行い結願の日に平将門が敗北して関東の地に再び平和が訪れました。寛朝大僧正が都へ帰ろうとしたところ御尊像が磐石のごとく動かず、この地に留まるよう告げここに成田山新勝寺が開山されたのです。(新勝寺のHP から抜粋) 私が受け付けをしている間に隣のカウンターに新しいお客さんが来ましたんや。日本の隣の大きな国から来た人のようでしたわ。対応したホテルマンが「予約されてるお名前は何ですか」とか「パスポートを見せてください」とか「どこの代理店を通じて予約しました」と聞いてましたわ。 その若い旅人はカタコトの日本語で答えていましたが結局予約をしていなかったようですわ。するとホテルマンが「予約がないと泊まれません。部屋がないのです。」とはっきりと答えたんでその旅人はあき らめてホテルを出ていきましたんや。そらあホンマに部屋がなかったらしょうがおませんわな。きっと旅人はダメ元で来たんでしょうな。 そんなんで私はホテルマンから説明を聞き終えて 15  日間の宿泊代金を前払いして部屋のキィーを受け取って部屋に入りましたんや。日本のビジネスホテルですやろ狭いのは仕方おまへんで、覚悟はしてましたわ。思った通り机とイスとベッドがあってバス・トイレ・洗面台付きのユニットバスだけですわ。私は荷物を部屋に置いてからホテルを出てさっきバスから降りたとこのコンビニに向 かいましたんや。外は暗く小雨が降っていましたわ。けど日本のコンビニで物が買えると思うと小雨も気なりませんでしたわ。日本のコンビニは本当にええですわ。味噌汁、とん汁、しじみ汁、なめこ汁、長ネギ汁などいろんな汁物があっていろんな種類の弁当がありますもんね。一番うれしいのはお酒の値段がインドネシアより  メチャクチャに安いことですわ。五分の一くらいとちゃいまっか。ワ イン(375ml)とウィスキー(180ml)とソーダを買っても二千円し ませんでしたで、ちょっと信じられませんわ。私の住んでいたチカ ランで最近密造酒を飲んだ日本人が死亡したニュースがありましたんや。 安いお酒に手を出したんですわ。私にもその気持ちはよくわかりますで。そやから他人事やおませんでしたわ。 私はお酒類のほかにコンビニ弁当ととん汁を買うてさらにペットボトルのお茶とオ ニギリも二個買いましたわ。鼻水が止まらなかったんで風邪薬をさがしたんですが置いていませんでしたわ。そんで薬は翌日に買いに行こうと決めて勘定をすませましたんや。レジでは袋が要りますかと聞かれましたで袋は有料なんやね。インドネシアではマイバッグですけどな。 そしてルンルン気 分でこれまた暗くて小雨ふる寒い中をホテルに戻りましたんや。 お腹が空いてましたけど弁当を食べる前にスマホをホテルの Wi―Fi  に接続したんですわ。そしたらラインがドドッーと入ってきましたわ。 空港でPCR   検査の結果待ちの時に友人や家族に打ったラインの返事ですわ。そんで私は食事するのを後にしてみんなにまるで罪人扱いや収容所生活やとボヤキを書き込んで送りましたんや。 すると中には「コンビニへの外出が許可されとるんやったら遠くのとこに行ってもコンビニに行って来  たといえるわな。ほならついでにデズニ―シーにでも行って気晴らししたらどうや」というのもありましたんや。そんで私は冷静に「公共の交通機関に乗れないのです。」と返事をすると「そうなんや」との返事がありましたわ。 そして嬉しかったのはその日の朝別れたばかりの会社の運転手さんからのラインですわ。私がいなくなって淋しいとちゅうラインですわ。私は彼に沢山の思い出をくれてありがとうと返事しましたわ。ラインへの書き込みがひと段落したんで食事をすませました。チカランでも部屋で一人の食事をすることがありましたけどビジネスホテルで三方を壁に囲まれた狭い部屋で一人で食事するのは侘しいものでんな。飲もうと思って買ったウィスキーとワインでしたが風邪気味だったので結局飲めませんでしたわ。 その晩はマッチ箱のような浴槽に体を沈めて、チカランのアパートの大浴場をなつかしがりながら体を温めそのままベッドに入り明日からの15日間の監獄生活、ちゃう待機生活をどうやって楽しもうか 考えながら眠りにつきましたわ。今日はここまでにしますわ。 […]

シンゴ旅日記インド編(106)走れ!インど演歌(その2)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) 『女のみち』の次は、おなじくコミックバンドの殿さまキングズが1973年にヒットさせた『なみだの操』です。インドで過ごしている駐在員は一刻も早く、家族のもとに、日本に、そして、本社に戻りたいのです。しかし、なかなか本社にも交替要員がいないのです。インドの生活の中で我慢するしかないのですよ、これも私のことではありませんから、本当に。ねっ、おさむちゃん。 なみだの操(作詞:千家和也) なみだの駐在 あなたのために 守り通した女の操 今さら人に 捧げられないわ あなたの決して お邪魔はしないから おそばに置いて ほしいのよ お別れするより 死にたいわ 女だから 家族のために 守り通した単身赴任 今なら人に 譲ってあげたいわ 本社の決して お邪魔はしないから おそばに置いて ほしいのよ 延期となるより 辞めたいわ インドだから あなたの匂い 肌に沁みつく女の操 棄てられたあと 暮らしてゆけない 私に悪いところが あるのなら 教えてきっと 直すから 恨みはしません この恋を 女だから カレーの匂い 肌に沁みつく私のからだ お仕事したあと 飲みにもいけない 和食を食べるところが あるのなら 教えてきっと さがすから 恨みはしません この町を インドだから あなたにだけは 分かるはずなの女の操 汚れを知らぬ 乙女になれたら 誰にも心変わりは あるけれど あなたを 疑いたくない 泣かずに待ちます いつまでも 女だから 前任にだけは 分かるはずなのインドのくらし 怒りを知らぬ 坊さんになれたら 誰にも我慢の限度は あるけれど 言い訳を 信じたくない 怒鳴らず待ちます いつまでも インドだから 丹羽慎吾

フランスあれこれ38~思い出のレストラン「ピエ・ド・コッション」(Au Pied de Cochon「子豚の足」)

今から50年位前の話です。 フランスに赴任してすぐの頃、単身赴任3名が残業の後一緒に食事をしようという事になり、相談の結果当時ちょっとした噂のレストラン「ピエ・ド・コッション」にしようという事になりました。このレストランは創業1945年、パリの中心部に近い中央卸売市場(当時)の一角でした。いずこも同じでしょうが深夜や早朝に全国からの食料品が到着、一息ついて腹ごしらえに備えたレストランであることは当然です。逆に夜は時間外で薄暗く物寂しい雰囲気でした。 まずはオニオングラタンスープ、ボリュームたっぷり、味も良くこれだけでもそこそこでした。ドリンクは無論赤のハウスワイン。ここまでは十分満足。 次に店の名前の通り、そして噂の一品ピエ・ド・コッション。子豚の足ですが蹄がついたまま!こんなゲテモノ見たことがない。無動作にテーブルに置かれたお皿を見ただけで心臓が高鳴りました。 恐る恐る口に入れてみたが不味くはない、だが子豚と思うと目を閉じたくなる。口に入るのは脂肪の塊に感じた。もう一品はクー・ド・ポール(”queue de por”豚のしっぽ)。 大きなお皿を大きくはみ出す長い鞭のよう。豚のしっぽは丸くまるまっていると思っていたのだが?こちらは殆どが骨、要は脊椎の延長。口に入れるとゼラチンの感じ。人間も進化の途中でしっぽを無くしたと言うではないか!しかも焼け残りの産毛が少し残っている! その後中央市場は郊外に移転、私が2度目にパリに赴任した時はこの付近すっかり近代化され昔の面影はなくなっていました。近くを散策したこともあるのですがピエ・ド・コッションについては私の記憶から消えていました。改めてネットで調べてみてビックリ!日本語のサイトもあり、すぐにでも予約ができる。メニューを調べてみたが子豚の足も豚の尻尾は見つからない。名前だけでは理解の難しい料理がずらり、しかも値段もお安くない。内装も一転して一般大衆化してスマートに変身。ブログのコメントも多く皆さんご満足の様子。実にうまく環境変化に適応して姿を変え、うまく発展したものだと感心します。 中央卸売センターの跡地はレアール・フォーブルグ”Les Hales-Beaubourg”として文化とショッピングの街として雰囲気を一変し、一大観光地になっている。ご興味があればパリの観光案内をご参照ください。 東 孝昭  

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その2。

今まで観た映画を振り返りますと映画産業が巨大なアメリカの映画以外ですと、何故かアルゼンチンの映画もしくはアルゼンチンに関する映画が以外に多いかも~と気付きました。 何故?かしらと考えてみました。 何となくですが、アルゼンチンの映画に描かれています「狂気」?もしくは「狂喜」?のような「何か」にひかれるのかもしれません。 その『狂気(狂喜)』には、大きな「狂気」、小さな「狂気」、優しい「狂気」、美しい「狂気」などなどが滲んで出ているように感じます。 優しいや美しいと言うような、あまり「狂気」とは縁遠い言葉を「狂気」と組合せて感じさせる「何か」を映画の中に視て取るからなのかもしれません。 この感じは、もしかする南アメリカ(南米)のアルゼンチン以外の国々の映画にも存在する「何か」なのかもしれないと思います。 南米の国だけではなく、どの国にも「狂気」を感じさせる「何か」かは必ずありますし、どの様な「狂気」なのかも様々と思います。その感じとり方も人それぞれかもしれません。 日本の「狂気(狂喜)」をどの様なコトやモノに感じます?でしょうか。 幾つかありますが、私は大和絵や浮世絵や地獄絵や春画やデロリなどなどの絵画表現や工藝表現、芸能の内に日本の「狂気(狂喜)」の「何か」の幾つか感じることがあります。 それは岩佐又兵衛、河鍋暁斎、月岡芳年、甲斐庄楠音、若冲、曾我蕭白、上村松園、鰭崎英朋、柴田是真、宮川香山、国芳や北斎、鶴屋南北、近松門左衛門などなどの作品や作風からも感じます。 狩野派や等伯や作者不詳の絵、平家納経の造作や平泉金色堂の螺鈿の柱、研ぎ出し蒔絵や横浜焼などなどの工藝、盆栽や庭園、文楽に歌舞伎、そして落語や講談などの話芸など『藝』のなかにも「狂気(狂喜)」は在るように感じています。 これらの「狂気(狂喜)」は何に畏怖し驚嘆したものなのでしょうか?そこには複雑な心理がこめられていますね。 △△その3へ、つづく~。

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その2)の巻

朝の6時半に予定通りに飛びたった飛行機は午後3時半に予定通りに成田空港に着きましたんや。 私は出発してすぐに出た弁当、ちゃう機内食を食べただけでこの3週間の連日の送別会の飲み疲れのためにあとはずっ―と寝てましたんや。そやから途中で配られたチーズとハム入りクロワッサンを食べ損ねてしまいましたわ。 そうそう搭乗したらすぐにコロナ関係の書類を二枚渡されたんで必要 事項を記入しましたで。機内の搭乗客の割合は3割でしたわ。インドネシアの人が多かったんでっせ。そうそうそれに大変ですわ。機内が寒かったんですわ。私はTシャツにジャケットを羽織っただけでしたんでフィリピン上空を過ぎたあたりから鼻水がでてきて往生しましたわ。マスクと鼻の間にハンケ  チを挟んで水分を吸収させたんやけどすぐに鼻先が冷たくなるんで何回もハンケチをずらしたり折り 返したりして水分を吸ってへんところを鼻に当たるようにせなあかんかったですわ。それに台風が日本に近づいてるせいか寝ていても時々大きな揺れで目をさましたんですわ。 先を急ぎまっせ、3時 半に成田に着きましたら機内アナウンスがありましてな検疫のために機内で待機してくれですわ。 そんでしばらくするとまたアナウンスがあって国際線乗り継ぎの人が先に降りて検査を受ける、そして帰国者は2番目やとのことでしたわ。そんで一時間も機内で待ちましたで。けど大勢のインドネシア   の人たちが先に出ていきよったさかい CA が私の近くに来たとき「あの人たちは乗り継ぎの人ですか」と聞くと「そうです、アメリカです」との答えでしたわ。今どきにインドネシアの人がアメリカに何しにいくんでしゃろな。まあそんな詮索せんでええか。そんで帰国者が降りる番になりましたわ。私は機内で一番うしろの席に座っておったんで一番最後に出ましたわ。機内から通路に出ると人々が壁際に一列に並んでおったんですが私は機内から私の前を歩いて行く人について行って並んでいる人の列の横を素通りしていったんですわ。そしたら動く歩道がある広い通路に係の人がいて検査場はあちらですゆうたんでそっちの方に歩いていきましたんや。私の前を歩いていた人は動く通路に出たときに検査場と反対の方向に歩いて行ってしましたんや。そんで検査場に向かう通路にはイスが窓側に間隔を置いてぎょうさん並んでましたわ。けど誰も座っておらんかったですわ。その並んだイ スの先が検査場の入り口で机があって二人の人がいるのが見えました。けどそこまで私たちを案内してきた人が私に「すみませんが降りた順番で検査場に入ってください」ちゅうてさっき私が追い抜いてきた人達を先に通すように言わはったんですわ。あれっなんでや、と思って案内してきた人に 「私は機内から私の前を歩いいた人について来ただけです」というと「あの人達は航空会社の人ですから」と言われました。あちゃー、それならそうとはよう言ってもらわんと困りますがな。私は息を  切らして老骨に鞭打って急いで検査場に向って歩いてきたんが無駄骨に終わりましたがな。まぁ、ええですわ。そんで降りてきた人たちが私の目の前を通りすぎてその一番あとに検査受付に行くとプラスチックの小さな試験管とジョウゴちゅうかロートを渡されました。私はPCR 検査が鼻に棒を突っ込んで調べるもんやと思っていたら違うんですわ。そんでまた歩いていくと選挙の時みたいに仕切 ったブースがあってその中でその試験管に唾液を入れてくださいと言われたんですわ。ブースの中   の壁には選挙人名簿の代わりに梅干しとレモンの写真が貼ってありましたわ。私はその写真を見ながら何回も唾液を絞り出してはブースの外の立っていた検査官と「これでいいですか」「まだ足りません」「まだだめですか」「もっとです」「これで十分でしょう」「まだです」「もう出ませんよ」「あと一回お願いします」というやり取りをしてやっと終わってブース横の机のところの検査官に試験管を渡したんですわ。すると検査官は機内で記入した質問票に番号の書いてあるシールを貼って下の待合室に行ってくださいといわはったんですわ。私たちが到着したフロアーは4階でしたんや、そんで3階に降りていくとそこは大きなホールみたいなところでしたわ。 降りてすぐのところに一列で透明なプラス チックカーテンで仕切られたカウンターがいくつも並んでおりましたわ。そしてその広いホールにはイ   スが卒業式みたいに仰山きれいに並んでいて NHK の歌合戦みたいに座席の合間に A、B、C ちゅう文字の書いた立て札が立ってましたわ。 私はそのホールに降りて一列に並んで順番待ってカウン ターにいくとそこで質問表に書いてあることを確認されて「今日はどこに泊まりますか」かと聞かれま したんや。私は会社が指定したホテルに泊まることになっていましたんでそのホテルの名前を言うと「そこまではどうやって行きますか」と聞かれたので「バスが出ていると聞いています」と答えると「それは帰国者専用のバスです。空港のこの出口から出ています」と空港からの出口を示したパンフレットを渡してもらいましたわ。 そして  A-33と書いたシールを質問表に貼られそこで座って待つように言われましたんや。帰国者は公共の交通機関の利用が禁止されてますんや。家族が迎えに来て自宅で待機するか、帰国者専用バスで指定のホテルで待機生活を送るかなんですわ。そんで私は A の立て札のあるところに行きましたんや。そこは一列に並んだイスの一つ置きに番号が書いてあり私は33の席に座りましたんや。 そのホールの写真を撮ろうとしたらあちこちに「撮影禁止」の貼り紙がしてありましたけどその貼り紙を見る前にスマホで1枚写真を撮ってしもてましたわ。すんません、その写真はお見せできません。なんせ機密扱いやさかい。見せたら私は国家機密法漏洩違反で逮捕されてしまうさかいな。 その待合ホールでは2時間も待たされましたんでっせ。5分置き位に10人ほどの人が番号を呼ばれて立ち上がっては次の場所に行くんですわ。私は鼻水をかんだティッシュをホールの隅に置いてあるごみ箱に何回も捨てに行きましたわ。検査結果を待ってる間にインドネシアの会社や本社の関係者や友人や家族に安着と検査待ちの状況をラインやメールしましたで。 私たちのフライトがその日の最後の方のやったんやろかB、Cの人たちがだんだんいなくな っていきました。そして  A  グループの私の前の番号に座っていた人たちも番号を呼ばれていなくなっていきました。検査場に入って2時間後の6時半にやっと自分の番号も呼ばれて席を立ちましたわ。歩いて行って次の場所で一列に並んで待つとパーティションの向こうに机が2つがあり二人の検査官が向かい合って座っていて結果を教えてくれたんですわ。私は鼻水が出てましたんで風邪の症状が出てPCR 検査で陽性と間違えられへんやろかと心配でしたんやけど陰性の証明書をもらえましたんや。ありがたや、ありがたや。ああ守屋浩も亡くなってしもたんですね。僕の恋人東京へ行っちっち。すんません。         そんでやっと荷物を受け取るコンベアところへ行きましたんや。ジャカルタからの便の荷物は一番端っこのコンベアでしたわ。荷物はちゃんとありました。そんでジャカルタの空港で確認できたように1台の カートに荷物を全部載っけてみどり色のカウンターを通りました。 私のギターケースを見て係官が「ミュージシャンですか」と聞きました。この顔がミュージシャンに見えますか?これから旅行するとき  はギターケースもって行ったろかな。そんで私は税関を終えてロビーに出ましたがな。9か月振りの日本ですわ。ああ秋の日本、ああわが祖国ですわ。 帰国者用バスに乗る前に荷物を岡崎の家に送るべく宅急便屋さんを捜しました。というかロビーのインフォメーショのお嬢さんに聞きましたんや。すると建物の端っこにあると教えてもろたんでそこまでカートを押していきました。 すごいもんですね、きょうびの印刷技術は。宅急便の伝票の一枚に届け先を書いただけやのに荷物分の個数の伝票がすぐに出来てきましたんやで。伝票って一個分でも何枚かの感熱紙でっしゃろ、なんで伝票一枚にしか住所を書いてへんのに複数の感熱紙の伝票におんなじもんが印字できるか不思議に思いましたんや。 そんで理由が知りたくて聞くとそういう機械があるんですと言ってその機械を指指してくれま した。へぇー。確か家で嫁さんが宅急便を出すときに荷物の個数分の伝票をせっせと書いていたのになあ、私も荷物分の伝票を書く心つもりできたので嬉しい拍子抜けでしたわ。 そんで荷物預けて手が空いたんですぐに嫁さんにラインでそんな機械があるんやでと連絡しましたがな。そしたら嫁さ  んから「へぇー」ちゅう返事とともに伝票を写メして送れって指示してきたんですわ。しっかりしてまっしゃろ、うちの嫁さん。 そやそやここでもギターケースを見て私にギタリストですかって聞かれましたわ。私がプロの音楽家に見えたんかなと思たんですが、そうではのうて高額な楽器は30万円が補償の限度だからのようですわ。やっぱり私は音楽家に見えへんのかなあ。 私は荷物が少のうなったんで次はインドネシアで両替してきた日本円を銀行に預け入れようと私の口座のある銀行の ATM を捜したんですわ。他の銀行の ATM は一階のフロアーに何台もあったんやけど私の銀行のが見当たらなかったんでまたインフォメーションに行ってさっきのお嬢さんに聞きに行ったんですわ。するとお嬢さんは「4階です」と教えてくれました。 あまりに親切だったんで思わず「帰国者用のバスはどの 出口から出ますか」と知ってたことをつい聞いてしまいましたがな。するとお嬢さんは  A3用紙に地図の書いてあるもんを使って「あそこの看板の下のエレベーターで4階に行って左に銀行のATMに  行ってまた1階に降りて左に曲がって、、、」と親切丁寧に説明くれはったんですわ。ええですなあ、 日本のインフォメーションのお嬢さん、めっちゃ親切やわ。 そんで私は4階のATMに行ってついでにひとけのない出発ロビーの写真を撮って1階に降りて帰国者専用バスの乗り場に行きましたんや。それからが今回のボヤキの始まりでんがな。 あかん、ボヤキが始まる前にようさんしゃべってもうたんで、のどが渇いてしまいましたがな。続きはまたにしますけどな、ちょっとだけ言わせてくださいな。 帰国者専用の無料バスは朝の 9 時 15 分から夜の 23 時 15 分まで出てまんのやけど一時間置きなんですわ。間が悪うて私がそこに行った時は7 時15 分のバスが出発したすぐ後でしたわ。そんでまた空港の建物の中に戻って待ち時間ですわ。そして8 時15 分のバスに乗ってホテルに着いたんが夜の9時前でしたんや。 そんで本当にボヤきたいんはホテルに入ってからのことですわ。でもあれでんな、日本の技術はすごいもんでんな。空港で自動警備ロボットを見ましたんや。ガランとした空港の床の上を「こちらは空港の警備ロボットです」と声を出しながら動いてましたで。 ほな私のボヤキは後からお話しますわ。いったんこのラインのビデオ通話を切りますわな。鼻水が出てしょうがおませんねん。それに荷造りしてたんで腰も痛うなってきたんですわ。 (その3に続く) 丹羽慎吾

追憶のオランダ(83)4月30日は女王の日

今は「昭和の日」と言いますが、はるか昭和の時代には4月29日は「天皇誕生日」と言っていました。オランダではその翌日の30日が「女王の日」で、祝日になっていました。この日には極端に言えばオランダの国中がオレンジ色一色になる感じで、いろいろなイベントなども催され、お祭り騒ぎで大いに盛り上がります。ご存じかもしれませんが、現在のオランダ王家はオラニエ公ウィレムから始まったことから、オレンジ(オラニエ)色が国を代表する色となっていて、サッカーなどスポーツでもオランダはオレンジ色のグッズを使って応援していますね。 オランダでは4月30日だけは誰もが好きな場所で自由に店を開いてもよく、小さい子供までが町中の道路沿いに好き勝手に陣取って自分がいらなくなったおもちゃなどを並べて店を開いています。日本の天皇誕生日とはだいぶ趣が違うなあと思いました。それで、4月30日というのはてっきり当時ベアトリックス女王の誕生日かと思ったのですが、実はそうではなく、その前のユリアナ女王の誕生日だったのです。また、ベアトリックス女王が即位したのが1980年4月30日でもあったことから、この日を「女王の日」としたようなのでした。その後、私たちが帰国してからのことですが、2013年にベアトリックス前女王の長男アレキサンダー王子が久々のオランダ国王として即位しました。そして、4月30日は引き続き「国王の日」とするはずだったようですが、たまたま彼の誕生日が4月27日ということで、これまでの4月30日に替えて、現在はこの4月27日を「国王の日(国王誕生日)」として祝日にしているとのことです。写真はwikipediaより。 まったくの余談ですが、むかし現国王が王子の頃、ロッテルダム市内の私どもが住んでいた所に程近いところの地名や国鉄・地下鉄の駅名に「Prince Alexander」という名称を付けられていました。だから、国王になったからにはそのままPrinceでもあるまいし「King Alexander」に変えるのかと思っていましたら、そうはせずにただPrinceだけはとって「Alexander」のみとしているようですが、まだまだなじみのあるPrince Alexanderの名称を使用しているところもあるようです。

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その1)の巻

まあ、みなさん、聞いておくんなはれ。帰国者はまるでコロナ感染者扱いですわ。 えっ、何をボヤいとるんやてですか。私はジャカルタから10月7日に帰国して成田のホテルで2週間の待機生活をしてますんや。 その前にこのホテルに来るまでのお話をさせてもらいますわ。 私は朝6時半に出発する飛行機に乗るためにチカランのアパートを深夜2時に出たんでっせ。すると1時間半もかからんと空港に着いてしまいましたんや。何年か前のレバラン休みで帰国した時には3時間あれば余裕を持って着くと思 ったのに5時間近くかかって高速道路の上で飛行機に間に合わへんちゃうかとハラハラしてたことが嘘のようですわ。私は持ち帰る荷物を別送便とせんと全部トランクに詰めて帰ったさかいトランク の大きいの2個、中くらい2個、リュック一個、手提げ一個それにギターケース一個とぎょうさんありましたんや。えっ、ギターが弾けるんですかって。弾けるちゅうか、 これな、私がタイに駐在した20年位前に嫁さんが記念にって買ってくれたんですわ。高価なもんやから飾っておるだけすわ。えっ、ど このメーカーですかって?すんません、ヤイリですねん。岐阜県は 可児市の有名なギターメーカーでっせ。ヤイリには一期一会、ちゃう一五一会ちゅう4本弦の有名なギターがおますんやで、このギターな、指一本でコードが弾けるちゅう優れもんなんですわ。あの沖縄の BEGIN さんと一緒に作ったギターなんですわ。私のは普通のクラッシック・ギターですわ。 あかん、あかん、話が岐阜に向かってもうたわ。そんで私の手荷物のことですわな、トランクが大きいちゅうても1個の重さは23㎏にしてくださいちゅう決まりがあるんでっせ。そんでそれらを空港のカート1一台に載せて私が一人で運べるかどうか心配やったけど、なんと1台に全部載るもんでんな。 空港について荷物をカートに積んで4年半働いてくれた私の運転手さんにお礼を言って別れて空港の建物に入りましたんや。運転手さんは無言でちょっと寂しそうでしたわ。一緒に何回も日帰り旅行に行ったり、朝晩の通勤では車の中   で彼から新聞の話題や彼の田舎話を聞いたり、私の日本半分ホラ話をまじめに聞いてくれたりしてくれましたもんね。それになんといっても2年前に運転手さんに次男が生まれたときには私の名前を付けてくれたんでっせ。そやさかい今回はいつもの遠出の時より多い心付けを渡しましたんや。 タイの時もインドの時も毎日話をしてた運転手さんと別れるのはつらいもんでんな。あかん、なかなか本題に入っていけませんわ。 そんなんでチェックインは一番乗りでしたで、係員がまだ列を整理するあ  れ、あれ、あのー、あれです、あのテープの出てくるスタンドを立てながらお客さんの通路を作って   ましたわ。そんで30分ちょっと列の一番前に立って並んで待ってチェックインでしたわ。 そやけど日系の航空会社でんな、受付開始する前にスタッフの皆さんがお客さんの方を向いて並んで開始の挨拶をしましたで。そんでね、私の荷物は当然重量オーバーでしたんや。そんで別のカウンターに  連れて行ってもろてそこで追加料金払って搭乗券をもらいましたんや。けど超過料金のレシートをみたら重量やのうて荷物 3 個オーバーで計算した料金でしたわ。あの金額で私は儲けたんかなあ、損したんゃろかなあ。 それから手荷物検査に行く前にフロアーをいろいろ見て歩きましたんや。朝まだ4時のせいかコロナのせいかほとんどのお店が閉まってましたわ。あのスター何とかちゅうコーヒーの店も日本のうどん屋さんの店も閉まってましたけど牛丼の店は開いてましたで。私は前の晩も何回目かの最後のお別れ会を仲間にやってもろて食べて飲んでましたさかいお腹は空いてませんでしたんや。 空港のフロアーの真ん中へんに窓口がいくつか並んだとこがあってその前に人が列を 作っておったさかいそこはなんやろうなと思って行ってみたんですわ。そしたらそこはラピッドテストの証明書を発行するところでしたんや。インドネシアでは国内線にラピッドテストの証明書がいるちゅうて聞いたことありましたんで、ああこれがそれかと思いましたわ。 それ以外に見るもんがなかったんで早かったけど税関に行きましたんや。この前に帰国したときには広い建物の反対側にある国内線の入り口に行ってしもたのですが今回は間違えませんでしたで。学習効果ちゅうやつですわ。けど国際線の方に入っていつものように奥の普通客のラインに行こうとしたら女性係官がおって手前のVIP の方に行けちゅうんですわ。なんでVIP なんやと思ったんですけど飛行機に乗る人が少ないからやと思いましたわ。 そんで手荷物検査ですわ。久しぶりの飛行機やさかい何をX 線に通すか忘れてしもて、パソコンと携帯だけトレーに入れて門型検査機をくぐろうとしたら、検査機の向こうにいた   検査官からポケットの中のもん出してトレーに入れろ、時計をバンドも外してトレーに入れろ、帽子もトレーに入れろですわ。しょうがおま せんわな。泣く子と役人にはかてませんわ。 そんでX 線の機械を通した後でバンドはせなあかん、ジャケットは着なあかん、財布はちゃんとあるか、そんであれっ時計はどこやと思うたら検査官が床を指さしましたんや、ちゅうのは私は時計を最後に慌てて外して上着の上にのっけたもんやさかい機械の出口のゴムのノレンに引っかかってベルトコンベアの上に落ちてそれがその次のローラーコンベアーに来てローラーの隙間から床に落ちてしもてたんですわ。難儀な帰国ですな。 そしてイミグレですわ。もうビザ終了の手続きのEPO これなEXIT PURPOSE ONLY の略ですわ、それも先週終わってパスポートにそのスタンプ押されてましたんですわ。けど私はパスポートを見せるんは Foreigner のカウンターかKITAS HOLDER のカウンターかどっちやろかと一瞬悩んでKITAS HOLDER の方に行ったんですわ。そしたらすんなりスタンプ押してくれましたわ。 すんなりちゅうてもマスクを口から外して顔をしっかり見せろっていわれましたけどね。あの~、EPO  って日本では女性のシンガーソングライターがおりますんやね。本名を宮川栄子ちゅうて東京生まれで沖縄在住ですってね。高見知佳や香坂みゆきに楽曲を提供してるそうですわ。これらの歌手を知らん人が増えてきてまんな。 あかん、まだジャカルタ空港の中の話でしたわ。ほなら急ぎますわな。 (その2に続く) 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(105)走れ!インど演歌(その1)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) 演歌の中には『ど演歌』と言われるものがあります。コブシとビブラートを強調するのです。そして、インド生活を歌う演歌は、略してインエン?インカ?いや、ど演歌なのです。 また、演歌の詩をよくよく読むと、演歌の中の男女の関係は昔の日本の会社とその従業員の関係に似ていますね。それでど演歌で昔のインド駐在員を歌ってみます。 まずは、日本の企業がインド市場を狙って業務部の担当者をインドに出張させました。帰国後、その部員が新聞雑誌のインド記事を写して増員を起案をしました。そうしたら本人がインド駐在となったのです。それを、ど演歌の決定版といわれるこの歌、ぴんから兄弟、もとい、ぴんからトリオが1972年にヒットさせた『おんなの道』 で歌います。あの~、その業務部の人というのは私ではありませんよ。えっ、実感がこもっているって。 女のみち(作詞:宮史郎) インドのみち 私がささげた その人に あなただけよと すがって泣いた うぶな私が いけないの 二度としないわ 恋なんか   これが 女のみちならば わたしが仕上げた その報告に インドの時代よと はっきり書いた 業務の私が いけないの 二度としないわ 丸写し これが わたしへの辞令ならば ぬれたひとみに またうかぶ 捨てたあなたの 面影が どうしてこんなに いじめるの 二度と来ないで つらいから これが 女のみちならば ぬれた背中が またとおる 黒い野牛(のうし)の 一団が どうしてこんなに あるいてるの 二度と来ないで 遅刻するから これが 会社へのみちならば 暗い坂道 一筋に 行けば 心の灯がともる きっとつかむわ 幸せを 二度とあかりを けさないで これが 女のみちならば 暗い業績 一筋に 聞けば 今期は利益なし きっとつかむわ 大口を 二度と 赤字にさせないわ これが インドの店ならば 丹羽慎吾

フランスあれこれ37~シャンティーの森(アプルモンゴルフ場)

前回のコンピエーニュからパリに戻る途中ほぼ中程にあるシャンティー”Chantilly”を訪ねます。 実は森よりもシャンティーの城館”Chateau”の方が名実ともに有名です。森と湖、そして庭園、更には文化・芸術を加えた完璧な宮殿と言えます。 古くはローマ街道の痕跡が発掘されたと言われ、中世には戦場としての基地もあったと言われます。現在の城館のもとになったのが十六世紀、フランソワ一世の高級官僚モンモランシーが狩りの仲間を宿泊させるなどの目的がスタートだった由。 さて森ですが、6300haと広大ですが、別名砂の海”Mer de sabre”とも言われる地質、これが狩猟用の馬に良かったらしい。大きな宮殿の一部を馬の厩舎とするくらい、更には競馬場まで出来ることに。現在馬の調教は無論馬の博物館、更には競馬場もあり、フランスの大きな競技会も開かれています。 初代のモンモランシーも金持ちだったようですが教養もあり、代々この家系が続き19世紀オマール公に遺贈、更にはフランス学士院へと遺贈が続きます。非常に先見の明があったという事でしょうか、遺贈されて行く人はすべて先代の遺志を継いで現在に至りました。この間に素晴らしい美術館兼博物館(今に残るコンデ美術館)、更には充実した図書館まで拡充されて行きました。更に城館の一角にチャペルがあり、歴代の領主の礼拝堂になっています。  さてこの森の一角に素晴らしいゴルフ場があります。シャンティーゴルフ場”Golf de Chantilly”とアプルモンゴルフ場”Apremont Golf”です。共にフランスの名門コースです。 比較的フラットですが森と水が素晴らしい景観を呈します。私は後者のアプルモンに良く通いました。 同業の商社マンで友人の一人が定年前に突然の退社、このゴルフ場の支配人にスカウトされました。彼はフランスでの永住を決めたのです。日本人のきめの細かい配慮などフランス人にも大変人気でした。 写真はこのコースの最終ホールです。中央前方奥から手前へのロングホールで色々のハプニングが思い出されます。写真は手前のクラブハウス屋上からの景色です。(残念ながら私の撮影ではありません)   思い出に残るエピソードです。彼が転職後最初のお正月です。彼からのお声がかりでゴルフ仲間が約20名が集合。日本酒で軽く新年の乾杯をしました。気温は氷点下、とてもゴルフの環境ではなかったのですが、新支配人の「皆さんのパリの思い出として一番ホールだけでも回って下さい!」と言うお勧めで出発。しかしティーグランドで既に足跡がくっきり芝についているのに気が付きました。一応スタートしたものの、踏みつける芝生も氷の芝で一足ごとに崩れていきます。一番ホールが近づいたところで相談、これ以上グリーンに傷をつける訳にはいかないと全員で合意、プレーを終了してハウスに引き上げました。ダイニングルームには豪華なおせち料理が並んでいました。楽しく賑やかに歓談したことは昨日のように思われます。 この森の続きと言えるエルメノンヴィルの森(“Foret Elmenonville”)については、前後してしまいましたが、9月27日に寄稿しています。   東 孝昭