シンゴ旅日記インド編(108)走れ!インど演歌(その4)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) インドで働く日本人で工場を任されている人は、きっとこんな気持ちではないでしょうか?私のことではありませんよ。私の会社はきちんと納期を守り、5Sを実施し、断水も停電もありません。お~いおい、総務~、トイレの水が流れないよ~。あれっ、電気が消えたよ。ディーゼル発電機を回して~。 雪国(作詞:吉幾三) 工場長 好きよ あなた 今でも 今でも 暦はもう少しで 今年も終わりですね 逢いたくて 恋しくて 泣きたくなる夜 そばにいて 少しでも 話を聞いて 追いかけて 追いかけて 追いかけて… 雪国 うそよ あなた きのうも けさでも わたしはもう少しで 我慢も終わりですね つくってよ しっかりと 納期をまもって 現場にいて 少しでも ハッパをかけて 残業して 徹夜して 土日に出て 工場長 窓に落ちる 風と雪は 女ひとりの部屋には 悲しすぎるわ あなた 酔いたくて 泣きたくて ふるえる唇 そばに来て 少しでも わがまま聞いて 追いかけて 追いかけて 追いかけて… 雪国 床に落ちてる ボルトとナットは 整理整頓の5Sに かなり遠いは 工場長 締めがゆるく 溶接漏れで ふるえるベース そばに来て 少しでも 芯だしをして 測ってみて 動かしてみて 確認して 工場長 好きな人はいるの あなた バカね バカな女ね 意地をはってた私 逢いたくて 夜汽車乗る デッキの窓に とめどなく 頬伝う 涙のあとを 追いかけて 追いかけて 追いかけて… 雪国 買いたい客はいるの 工場長 どこよ どこにいるのよ 見積りほしい客が 逢いたくて 夜汽車乗る 予算ないから とめどなく 人が押す わたしのあとを 売りたくて ネゴしたくて 注文ほしくて 工場長 逢いたくて 恋しくて 泣きたくなる夜 そばにいて 少しでも 話を聞いて 追いかけて 追いかけて 追いかけて… 雪国 部品来ず 明日が出荷 泣きたくなる夜 業者に行って すこしでも 話をつけて 組み立てて 検査して 出荷して 工場長 (わたしの替え歌の原点みたいな『俺ら、神社に行くだ~』) ♬ハァー、鳥居ある 玉砂利ある、お神酒もスルメも食べられる、狐もいる 猿もいる ときには眠る猫もいる、稲荷もある 八幡もある 天神様もお仲間だ、幟ある お祭りある 寅さんたちが やってくる、俺 こんな神社好きだ 俺 こんな神社大好きだ、今度も行くだ 神社に行ったら、鈴を鳴らして 二礼ニ拍手だ 丹羽慎吾

フランスあれこれ40~南仏プロヴァンスのローマ遺跡(2)アルル

アルルはマルセイユと同じBC600年頃、こちらもギリシャの植民都市として発足、以来常にマルセイユと競合する立場であり続けた街です。 アルルはマルセイユの西約80km少し内陸部に立地し、スイスアルプスに源流を持つローン河の下流近くにあります。目的はこちらも交易の要衝として発展します。当時は手漕ぎの船で小回りが利いたからでしょう、沿岸の港に留まらず内陸まで物流の手を伸ばしたという事です。その意味で港のコンセプトがマルセイユと少し違っていたと言えます。やがてガリアとローマの波に翻弄され、ついにはローマの内紛に巻き込まれたのですがカエサル側についたのが幸運をもたらし、その後は一大発展をとげることに。以来アルルはローマの拠点となり、ローマの古兵が植民するなど、経済のみならず文化も取り入れる事になりました。  アルルの古代遺跡としてはまず円形競技場、紀元前一世紀末頃の建立でローマのコロッセオより古いと言われます。直径136m、観客数26000と言われ、建造時アーチ3層(現在2層)だった由。中世に要塞に改造され、最上部アーチの石を使って見張り台に転用したり、その後約200戸住宅に改造され、中には商店や礼拝堂などもあったらしい。19Cにこれらを一掃したのですが、住宅として維持されたお蔭で遺跡の原型は綺麗に残されたようです。(写真は私が1990年12月31日滞在したホテルの窓から撮影したものです。下の層が低く見えるのは一部地下に沈んでいるからです。) もう一つ古代の劇場があります。定員12000、一部は石材として壊されたようですが立派に原形をとどめています。舞台が巾100mとも言われ今も当時を十分偲ばれます。  必ずしもローマ遺跡とは言えませんが(ローマ時代から15世紀まで続いた)アリスカン墓地について触れたいと思います。ローマ街道の一つアウレリアス街道に沿って広大な墓地があったようです。当時は有名人が立派な石棺に収められて並んでいて死後の天国と思われていました。ローン川の上流から豪華な石棺で運ばれる故人も多く、時には小舟にお布施を付けて無人の船で流されてきたお棺もあったとか。その中でも立派な彫刻のお棺は消え、今では緑豊かな街道沿いにずらりと並ぶ古石のお棺が人を呼んでいるとか。 さて現在のアルルはと言えばローマ遺跡以外に目ぼしいものも少なく、町も寂れ、マルセイユとは比較も出来ない格差となっています。むしろヴァン・ゴッホの名前が知られているかと思います。晩年この地で描いた有名な絵画「黄色いカフェ」や「跳ね橋」が実在しますが、何れも有名になってから再建されたものです。但しこの跳ね橋はローマ時代に作られた運河に掛かっています。 この運河はローン川に寄り添うように地中海まで続きます。何故運河が造られたかという疑問があります。ローン川は雪解けの頃流れが急で遡上することが難しいという問題があったようです。BC200年頃にローマの協力で掘削が進んだとされています。(これらの写真は1991年Ⅰ月2日、私のアルバムからです。)

シンゴ旅日記 特別寄稿  帰国者のボヤキ(その4)成田待機生活初日の巻

成田のビジネスホテルで15 日間の待機生活が始まりましたんや。その初日の朝ですわ。私はインドネシアでは毎朝5時頃に目が覚めてました。日本とは2時間の時差があるさかい日本の時間でいうと7 時ですわな。けど成田のホテルではなんと日本時間の朝5 時に目が覚めてしもたんです。インドネシア時間ではまだ深夜の 3 時でっせ。 私の体内時計は一体どうなっているやろね。それとも体が衛星電波時計みたいに自動的に日本時間に切り替えてくれたんでしゃろか。外はまだ真っ暗でした。テレビをつけましたら「おはよう日本」をやってまして、久しぶりでした桑子さん、ちょっと前までジャカルタでは夜の9 時のニュース、チカランでは7 時にお会いしていましたわな。 そんでチャンネルを回して、ちゃう、回すんと違います、押すんですね。これって同じことを河野大臣がツイッタ ーで書いてましたな。どこの局も台風がゆっくりと関 東に向かってるちゅうニュースばっかりでしたわ。ええですな日本は、日本語でしゃべってくれるテレビ番組ばっかりで。それに番組表がテレビ画面に出るん ですよ。いちいち新聞の番組表を見んでもええんですわ。それに見たい番組のとこにや矢印で移動してリモコンを押すだけでそこに替わるんでっせ。受像機は Samsung やのうてSony でしたもんね。 そんであちこちのテレビ番組を見てましたけどお腹が空いて来たんで前の晩にコンビニで買ったオニギリ1個ととん汁で腹ごしらえをしたんですわ。7 時半すぎにルームサービスで朝食が来ることは知っていましたけど空腹には勝てんかったんです。オニギリを食べ終わってもルームサービスまで時間があったんでコンビニに行くことにしましたんです。まるで買い物好きの主婦みたいでやね。外は曇ってましたけどもう十分に明るかったですわ。何を買いに行ったんかちゅうと寒かったんで下着のシャツを買おうと思ったんです。 日本はまだ 10 月やからT シャツ一枚で過ごせるやろと思ってまして肌着のシャツを持ってきておらんかったんですわ。けど前の日から関東地方は11 月中旬の寒さになってたんです。シャツはそのコンビニには置いていませんでしたけど何か買わんとあかんと思ってドリップコーヒー10個入りを買ってホテルに戻りましたんや。 そして7 時半過ぎにドアがノックされたんでドアを半分引くとネクタイ締めたホテルマンがルームサービスの弁当をドア越しに渡してくれましたわ。なんか収 容所で一人分の食事を係官から受け取ったような感じでしたで。弁当のほかにはインスタント味噌汁とパン2個とバターやマーガリン、ジャムのあの小さなパックもそのビニール袋に入ってましたわ。ちょっと前にオニギリを食べていましたんで空腹感はおませんでしたけど弁当とパン二個 を全部平らげましたわ。我ながらよく食べるもんですな。なんも運動してへんのにね。そうそう部 屋が狭いんで机の上で食事したりパソコンしたりするときにイスに座るとその脚がベッドにビッタリ  とくっついてそれ以上後ろにずらすことができんのです。 そんでイスから離れるときにちょっと腰をひねらなあきませんのや。するとちょっと腰がグキッと痛んだんです。ちゅうのは帰国前の土曜  日にアパートで大きなトランクに荷造りしたときに腰を痛めたんですわ。飛行場で預け入れる荷物は一個23kgにせなアカンのです。そんで重いトランクを手に持って体重計に何回ものって23kg以下に収めたんですわ。二個も大きいトランクがあったさかいに中のもんを出したり入れたり、入れ替えたりで大変でしたで。そんで日曜日に昼食送別会をしてくれるちゅうお誘いをお断りして寝てましたら腰の痛みはのうなったんです。けど長時間の飛行機の中とホテルでの座ってばかりの姿勢やったさかい腰に負担がかかったんでやろね。 それで私はコルセットを付けましたんや。なんで私がコルセット持ってるのかって?そのコルセットはチカランで同じ年配の飲み友達がもってけって私にくれたんですわ。その友達は数か月前にひどい腰痛になって座ることしかできん  かった時があったんですわ。そんで私が腰痛になったことを知って飛行機の中では狭いところに  座ってばっかりやからと彼が使ってたコルセットと腰痛用の薬4 種類をくれたんです。それも出発前夜の送別会の席でですわ。薬は病院でもらったんと同じもんをその日にわざわざ薬局で買ってきてくれたんでっせ。ありがたいもんですな。まさかの友は真の友Rainy day friend is a true friend でっか、いや学校では A friend in need is a friend indeed と習ったたんとちゃうかな、どっちやろ。そして同病相哀れむFellow sufferers pity each other ちゅうやつでわな。 帰国する飛行機の中では腰は痛まんかったんやけどえらい冷房が効いてて鼻水が出て止まらんようにな ってたんで薬局で腰の痛み止めの湿布薬と風邪薬を買おうと思ってスマホで近くに薬局がない かどうか調べましたんや。すると歩いて行けるところに薬局がおましたんです。そんで「シャツ」と「湿布薬」と「風邪薬」と机の上にあったメモ用紙に書いてから午前中は横になって休んで昼過ぎに外出することにしましたんや。 最近は買い物に行くときにメモしとかんと忘れますんですわ。チカランでも自炊してましたんでスーパーに買いもんに行って帰ってきて、あれ買うのを忘れてちゅうてまたスーパーに買いにいったことが何回もありましたわ。それからですわメモするくせがついたんわ。日本にいるときに嫁はんがいつもスーパーに行く前に買うもんをメモしてて、そんなん全 部頭に入らへんのかなあと思ってましたけどよう理解できるようになりましたわ。単身赴任ちゅう のは主婦の苦労がようわかりまんな。嫁さんに感謝、感謝ですわ。若い時に食事中に新聞読んでてごめんなさいです。 そんで午後になりましたんで外出しようと部屋のドアを開けますとドアの 下に何かを包んだ白いビニール袋が置いてありましたんや。その中には新しいシーツやガウンや アメニティちゅうもんが入っているもんでした。そのビニール袋を部屋の中に入れてまた廊下に出ますとどの部屋のドアの下にもおんなじ白いビニール袋が置いてありましたわ。ホテルの外に出ますと曇り空でした。 スマホの地図を頼りに歩いていくとJR 成田駅に出ましたんや。駅舎を見て二年前に家族旅行で千葉に来たときに嫁さんと次女とこの駅に来たことを思い出しましたわ。その時は長女も一緒に千葉の養老渓谷に2泊3日の旅行しましたんです。房総半島を横断する  小湊鉄道といすみ鉄道に乗りましたんやで。お寺で写経したり港町の魚市場に行ったり、そうそう「月の沙漠」ってどこが舞台か知ってまっか。 あれは鳥取県の砂漠やのうて千葉県の御宿(おんじゅく)でっせ。それにあの歌の題名は「砂漠」やのうて「沙漠」なんですわ。沙には「すなはま」ち ゅう意味があるんやそうです。 そんで最後の日に長女は一足先に岡崎に帰って私はジャカルタ  に次女はシンガポールに戻る前の晩でしたわ。二人を見送りたいちゅう嫁さんと3人で空港近くのホテルに泊まったんです。そんで3人で夜に成田山に来て参道で日本最後の夜やちゅうてウ ナギ料理を食べて三重塔を見に行ったんですわ。成田山の参道ってウナギ料理で有名なんです。ちゅうのは成田の西にある印旛沼でウナギがぎょうさんとれたんで成田さんへの参拝客にも てなしてきたそうですわ。JR 成田駅から新勝寺までの参道のおおよそ800mの間に60軒ほどのウナギ料理屋さんがあるそうでっせ。私は今回二週間も成田におるんやけどウナギ料理は見るだけの生活ですわ。待機生活が終わる最後の日にウナギ料理を食べて岡崎に帰ったろかいな。けど岡崎で食べる一色ウナギの方が美味しいやろかなあ。 あかん、私は薬を買いに行った んですわな。私は JR 成田駅の構内を通り抜けて西口に出ましたんや。そして西口に続く高い遊歩道を降りで少し歩きますと目指す薬局があったんやけど閉まっていましたわ。他に薬局がないかと近くを歩いてみますとクリニックがありその横に処方箋を扱う薬局がありましたんや。けどそこも閉まっていたんですわ、きっとその日は空海さんの宿曜経でいうと運の悪い日やないかと思い ましたわ。 なんで空海さんが出てきたかちゅうとね成田の新勝寺は空海さんが始めた真言宗やからですわ。そんでその日は薬を買うのをあきらめて駅の方に戻りますとなんと駅に上る階段のすぐ横にマツモトキヨシがあったんですわ。さっき来た時は駅から続く高い遊歩道を歩いて違う方向へ降りたんわでお店があることがわからへんかったんです。わあ、やっぱり空海さんは私を 見すてんと助けてくれはったと感謝しましたわ。 そのお店で痛み止めと風邪薬を買いましたんや。年配の男性店員さんはえらい親切で「どのような症状ですか」と聞いて鼻炎に聞く「鼻炎」ちゅう薬と腰痛用の貼り薬を選んでくれましたわ。支払いを済ませてお店を出ようとすると雨が本 降りになっていましたんでその薬屋さんで透明のビニールの雨傘を買いましたわ。 そしてその傘をさして歩いてホテルに戻る途中の大きなコンビニで買い物をしましたんや。そのコンビニは駅に行くときにみつけましてね、その時は中に入ってシャツがあることを確認しておったんですわ。そで帰りに買いたかったんはシャツと夕飯の弁当とドリップコーヒーを飲むのためのコップですわ。 ドリップコーヒーを朝に買うたんですけどカップを買うんを忘れておったんですわ。やっぱり買いもんするときはメモをしなあきませんな。コップは普通の紙コップ 10 個入りしかありませんでしたわ。 そんで半袖のシャツ二枚と紙コップ10  個セットとコンビニ弁当を持ってレジに行ってお金を払おうとしますと店員さんの後ろにジュースを売る機械が置いてあってその横に長い紙コップがあるのが目に入ったんですわ。そのLサイズのコップにコーヒーをようけ入れることがでけると思って欲しくなったんで弁当を温めてもらっている間に店員さんに「あの長いコップを売ってください」とお願いすると店員さんは「ちょっと待ってください」と言ってジュースのメニューをジッーと見てコップだけの値段を調べてましたが価格が載ってないようだったんで「ただです」と言ってその大きなコップを温め終わった弁当と同じビニール袋に入れてくれましたわ。 マツモトキヨシといいコンビニといい日本の店員さんは優しくて親切でんな。それに道路を横断するときすべての車が止まって私が渡るのを待ってくれますんや。日本は歩く人に親切な国になったんやね。そして雨の中を傘さしてビニール袋を三つ手にもってホテルに戻りましたんや。そんで食事する前にメールを開きますとチカランのサービスアパートからメールの連絡が入ってて預かった洗濯もんや退去した 部屋にある棚やスタンドはどうしますかって問い合わせが入ってましたんや。というのはアパート  との契約があと一カ月残ってましたんですわ。私はジャカルタから通ってる部下がひとりおりまし たんで、もし暴動かなんかでジャカルタに戻れん時には私のおったアパートに泊れるようにと備品も少し残してきたんですわ。ちゅうのはね私がジャカルタから帰国する前の日から学生や労働者が大きなデモをしだしたんですわ。それは政府が雇用を創出するために投資をしやすいようにと労働法や投資法など11 分野をひとくくりにして改定するちゅうもんですわ。インドネシアはタイやベトナムに外国からの投資で負けてますんでちょっと投資する企業の方に有利にしたんですわ。その法案が最近国会を通ったんで学生や労働者が最低賃金や退職金が下がるゆうて政府に反発しだしたんです。けど日本と同じできっと裏では政治的な駆け引きがあるんとちがいますやろか。 そうそう、それに二つもらってました部屋のカードキィのうち一つを返さなアカンかったけど私が空港で運転手さんに渡すのを忘れてしもて持って来てしまってたんですわ。そのカードキィについて費用を払う必要があるかどうかもメールで聞いていたんです。それで私はアパートの メールをくれた人にすべてチカランの私の後任者に話してあるので彼に聞いてくださいと返事し ましたわ。その日はそのあと弁当を食べてマッチ箱のような浴槽で体を縮めて温まってから寝ましたわ。鼻水もまだ出てたんで前の晩に買うたウィスキーもワインも封を切らずに机の上に置いたままでしたわ。それらは風邪が治ってからいただくことにします。 これが待機生活一日目です。はい。それにしてもコロナ感染者についてはどのテレビ局も東京の感染者や死亡者ばっかり話してまんな。これは成田が関東で東京の放送局のテレビ番組のせいやろか。けど検疫で 7 人の感染者がでたって言ってましたわ。待機生活に入った人が感染者になる割合ってなんぼなんでっ しゃろな。けど明日からこんな生活が続くんでしゃろか。 丹羽慎吾

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その4

私の好きな作品の一つに、「蜘蛛女のキス」(1976年作成、1988年日本公開、アルゼンチン)があります。 この映画、刑務所の監房の二人のやり取りではじまります。この二人は政治犯とゲイの囚人の組合せ?何故でしょうか、不思議です。 監房内での二人のやり取り、そして劇中物語の中で語られる架空?の映画のストーリ、現実と架空の世界の行き来するようなストーリ、不思議です。 これが南米文学で言うところのマジックリアリズム?なのかしらとも思いました。 何を愛するのか?愛するために何を手放し、何故どうしてそうするのだろうか? ゲイの囚人を演じたウィリアム・ハートの演技は強く印象に残ります。 まだLGBTですとか性の多様性と言うことが世間に公に論じられていなかった1970年代に仕草や内面を繊細に表現し演じているように感じます。 その後現在まで観た性の多様性を扱った作品の中でも秀逸の演技かもしれません。 そしてラスト近くでのゲイの囚人がとる行動、ラストシーンの二人で小舟に乗り沖に見える島へ向け漕ぎ出します。現実?か架空?か、このシーンに映画を観る人は何を思うのか。 アルゼンチンの映画ではありませんけれども、「皆殺しの天使」(1981年日本公開、メキシコ)、「ビリディアナ」(1964年日本公開、メキシコ)、ここにも「狂気(狂喜)」が在るように感じます。 南米の多くの国の成り立ちをみますと、現地の人々の元々の文化、植民地化、旧宗主国の文化などが色濃くあります。 元から原住していた人、旧宗主国の人、旧宗主国からの移民、各国の独立後の移民(日本人もここに多くの足跡を残しています)、黒人、そして混血の人びと、そのような複雑な人種構成と階層があり社会基盤があり歴史があります。 ブルーブラッド(青い血:Blueblood)と言う言葉もあります。 貴族の血と言う意味があるようです。ヨーロッパに血筋の礎をもち純血であることを高貴としてとらえていることがわかります。 アルゼンチンのワインでラベルに「青い心臓」が描かれているモノがありました。これも何か意味がありそうですね~(^-^)。 △△その5へ、つづく~。

追憶のオランダ(85)最終回 航空会社職員の機転

最近は事情がかなり変わったと思われるが、今から20年以上もの昔は飛行機を利用する場合空港に着いてから実際に搭乗するまで随分と時間を要したものだ。特に、行楽シーズンなどはカウンターの前に延々と列を作らされる羽目になる。出発時刻が刻々近づくのになかなかチェックインさえできない、ハラハラ、イライラという経験をされた方も多いことだろう。あるいは空港までの途中の道路で渋滞に巻き込まれて、空港になかなかたどり着けそうになかったことがあるかもしれない。たとえ運よくギリギリ空港に滑り込めても、無事搭乗できるかどうか。私もこんな経験を何度もしたものだ。心に残った二つのケース。 ひとつのケースは、乗っていた便の到着が遅れたが、乗り継ぐべき便はその日の最終便ということもあってか乗り継ぎ便は出発を遅らせ待っていてくれるという機内でのアナウンスがあったので安心していた。ところが、着いてみると乗り継ぐはずの便のチェックインカウンターは既に手続きを終了してしまって誰もいない。万事休すかと、そこでの一泊を覚悟しかけた時だった。しかし、天祐とはこのこと、救われたのだ。。その航空会社の係員と思われる若い男性を見つけので事情を話すと、「大丈夫、その便に乗れますよ。僕がお連れします。ただし、ちょっと距離があるのでこれに乗って。」と、大したことではないような感じ。そして、空港でよく見るカートに乗せてくれ、普段は通らないいわば空港の裏方の通路を走り、ゲートまで案内してくれた。アタッシェケースだけだったのでできたことだと思うが、少なくとも、カウンターではチェックインしていない(記憶は定かではないが、ゲートでチェックインしたのか)。おかげで、その最終便に乗ることができ、翌日のアポイントもキャンセルせずに済んだ。これは英国航空、ヒースロー空港でのこと。 もう一つのケースは、ある朝バルセロナに出張するため自分の車で空港まで運転していたが、途中で大渋滞に巻き込まれ、時間的に充分余裕を見ていたはずなのに空港到着が予定よりもかなり遅れてしまった。ともかく車を駐車場に入れ、チェックインカウンターに走った。着いた時は既にその便の手続きは終わっていたようだったが、手荷物一つだったので係員の女性は笑顔ですぐにチェックインを済ませ搭乗券を渡してくれた。時計を見ると、既に出発時刻を過ぎている。その搭乗券を見て、さらに驚いた。便名だけは正しく記載されているが、私の名前はなく、その代わりにLast moment passenger(最後の乗客)とのみ。そして座席番号もなくNo seat, no meal guaranteed.(座席・食事は保証されません)と書いてあるので、この期に及んで余計な事だが彼女に尋ねてみた。「食事などなくてもいいが、座席はあるんでしょうね?」と。すると彼女がウインクして言うことには「Run!(走って!)」と。このバルセロナ行きは一番遠いゲートなのだ。ともかく、走りに走って搭乗ゲートに着くと、殆どの人が搭乗し終わりあと3-4人が残っているのみ。ともかく、ゼーゼー息を切らしながら最後の人の後に続いた。これぞ滑り込みセーフであった。名前こそないもののチェックインだけは済ませてあるので、別にそんなに走らなくてもよかったのだが、出発をさらに遅らせてしまうのは他の大勢の乗客にも申し訳ないので、真剣に走った。時々、迷惑な客がいますよね。皆が搭乗してしまっているのに「出発が遅れて申し訳ございません。あと一人のお客様を待っています。」というアナウンスがあり、その後で悠々と悪びれもせず乗ってきて皆の出発を遅らせる横柄で迷惑な客が。私はこんな客にはならずにすんだ。それよりも心配だったのが、もし乗り遅れてしまうと、その日の予定が完全にくるってしまい相手に迷惑をかけてしまうことだった。もしそうなっていたら、どこか公衆電話から(その頃は携帯電話は普及していなかった)相手の会社に今日のアポイントは私が飛行機に乗り遅れたのでキャンセルして欲しいと伝え、謝ることになっていただろう。保証はしません(No guaranteed)ということだった座席にも座れて、機体が動き出した時には、改めて彼女の機転に救われたという思いが強かった。これは、KLMオランダ航空、スキポール空港でのことでした。 この2社の職員の機転のきく対応に助けられたというお話でした。 *********************************** これまでご愛読頂いた読者の皆様へ: この文芸館に「オランダ点描」の投稿を始めたのは一昨年の11月2日のことでした。気が付けば今月末でちょうど丸2年となります。最初の「オランダ点描」が終わったあとスポットで2話を挟みましたが、さらに続いて「追憶のオランダ」ということでオランダのあれこれをこれまた筆者の独断と偏見で書き綴ってきました。当初はすぐにネタ切れになってしまわないかと心配していたことを思うと、こうして2年もの間よく続いたものだと筆者自身が正直驚いています。 追憶ということで、あれこれ思い出しつつの当時のオランダの様子をご紹介してきました。しかし、この浅学ではやはり書けるネタがだんだんと尽き果て来たこともあり、また30年近くも前のことなので記憶自体も定かではなくなって来ました。ということで、誠に勝手ながら今回の「追憶のオランダ85話」をもちまして最終回とさせていただきます。 長い間この拙いものをご愛読頂いた皆様には心より感謝申し上げます。 本当に有難うございました。 宮川直遠

シンゴ旅日記ジャカルタ編(25)  シンガポールへ社員旅行(前編)の巻

(記載内容は2019年当時のものです。) 11月早々に社員旅行でシンガポールに二泊3日で行ってきました。 社員の家族も入れて総勢50余名でした。 到着したシンガポールの空港は新しいターミナル4でした。 機内から建物に移るとすぐに手荷物検査と身体検査がありました。普通は出国時に出発ゲートで行う検査を入国してすぐに行うので不思議に思いました。身体検査はあの小さな円形のケージに入って透視される機械です。 検査を終えてイミグレに向かう途中でみながトイレに行き、出てきた社員たちはトイレがきれいであることに感心していました。 またイミグレでは指紋を取る機械にスクリーンが付いていて、そこにパスポートの顔写真が映し出されるなど今までみたことがない新しい設備でした。 皆が入国検査を終えて荷物受取場に一緒に行こうと集まっていると、私と同年齢の現地側取締役が検査中にどこかに連れて行かれたと報告がありました。 同行していた旅行社のガイドにどうなってるのと聞くと『彼の名前がインドネシアの汚職で騒がれているリッポー財閥のファミリー名と似ているので本国照会を受けているのです。』とのことでした。 リッポー財閥は開発した土地(メイカルタ)で県知事を巻き込んだ汚職事件があり、ファミリーのひとりがシンガポールにいたとかで新聞で騒がれていました。 現地取締役が疑われた理由というのは、そのリッポ^-財閥のファミリー名がリアディで、現地取締役の名前はハリアディさんだったからなのです。私たちは先に荷物を受け取り、ロビーに出て取締役を待っていました。一時間ほどすると我が取締役は嫌疑が晴れ私たちのもとに無事戻ってくることができました。 シンガポールでの日程は初日が市内観光、二日目がユニバーサル・スタジオ・シンガポール(USS)見学、そして最終日は朝から自由行動で午後にホテルに集合しバスで空港に向かうと言うものでした。 空港で時間を取られたため、昼食前の市内観光の時間がなくなり、レストランに直接向かいました。昼食後はGardens by the Bayに行き集合写真を撮ったあとに20分くらいの自由行動時間がありましたので、私は家族連れや夫婦で来た社員の邪魔をしないよう一人で歩きました。Gardens by the Bayには大きなドームの植物園がありましたが、今回は時間が無くて入ることが出来ず外からドームの中を覗きこむだけでした。 バスに戻る時間が迫ったので集合場所の方に向かいましたが、同じような景色ばかりで道に迷ってしまいました。私の携帯にはスタッフから早く戻って来てくださいと連絡がありました。 私は通りかかった女性係員に観光バスの乗り場がわからなくなったので教えてほしいと頼むと、彼女は親切にその乗り場近くまで案内してくれました。さすが観光立国シンガポールですね。 みなと合流すると今度はマリーナ・ベイを海を挟んで眺める場所に行きました。 その後は定番のマー・ライオン見学となりました。バスが黒いラッフル像のある博物館の前に駐車させたので、ラッフル像の前で記念写真を撮り、歩いてシンガポール・リパーに掛かった橋を歩いて渡り、マー・ラインの広場に向かいました。 そのあとはインドネシア人が好きだと言うチョコレート屋さんと観光客相手のお土産屋さんと二軒続けての買い物ツアーとなり、そして夕食を取るレストランに向かいました。 レストランにはこれまた売店が併設されており、店の人が我々に番号のついてシールを上着に貼って行きました。これは旅行会社かバス会社に売上の手数料を払う目的だったでしょうが、食事前に買い物を済ませていたので誰一人として売店に立つものがはいませんでした。 私たちが宿泊したホテルはインド人が多く住むセラングーン・ロードの近くにある団体旅行客専用の小さなホテルでした。私の部屋は狭いシングルルームで、バス・ルームに浴槽はあるのですが、長手方向と短手方向の一方がコの字方に壁になっており、もう一方の短手方向から浴槽に入るという窮屈な造りでした。 シンガポール旅行二日目です。 その日はユニバーサル・スタジオ(USS)にバスで直行し、10時から17時までそこで過ごす予定でした。でも、私は夕方に皆と別れてシンガポール住む娘と食事をすることにしていました。 USSでも私はひとりで歩いていろんなアトラクションを見ました。 各アトラクションへの料金はすでに入場料に含まれているので無料でしたが、人気のあるところは一時間以上の待ち時間となっていました。映画会社が作った遊園地なので映像やアクションが満載でした。ちなみに私は日本のユニバーサル・スタジオに行ったことがありません。 私が駐在していた頃のシンガポールの観光スポットと言えば、セントサ島、小さなマーライオン像、植物園、チャイナタウン、オーチャード・ロードのプラナカン、ラッフルズホテル、シンガポール博物館などで、テーマパーク的なものはハウ・パー・ヴィラ(旧タイガーバームガーデン、1937年)、バード・パーク(1971年開園)、タン・ダイナスティ(中国時代劇映画村、1992年開園、1999年閉鎖)、ナイト・サファリ(1994年開園)、それに加えて中国庭園/日本庭園やワニ園もありました。 17時にイースト・コーストで娘との夕食の待ち合わせのため16時に部下二名とUSSを出ました。 セントサから本島への移動は、朝はバスで橋を渡ってきましたが、帰りは昔、乗ったゴンドラで戻ることにしました。しかし、どの乗り場からゴンドラに乗れば良いのかわかりませんでした。 島内にモノレールが走っていて、ゴンドラ乗り場がどの駅からでるのかよく分らなかったのです。 モノレールは無料でしたが、ゴンドラは往復チケットを買わねばならないと言われちょっと高い出費となりました。 ゴンドラから見下ろすと、セントサ島が埋めててられているのでしょうか、本島とセントサ島の間の海の部分が狭くなっていました。 マウント・フェーバーでゴンドラから下りて、タクシー乗り場を探し、イーストコーストに向かいました。 タクシーの運転手はかつて日系の船会社のコンテナー関係の仕事をしていたという60歳を超えた人でした。運転手さんはタクシーを始めて間がないが、GPSで目的地がわかり、スマホで予約が出来るので経験が必要ないと言っていました。そして、シンガポール政府は頭が良いよねと言うので、私は駐在時に覚えた政府批判のシャレを思い出し、与党の人民行動党(PAP)の略語は『Pay And  Pay』や『Poor Also Pay』 の頭文字だよねと言って笑いをとりました。 イーストコーストのレストランへはちょっと遅れて着き、先に来ていた娘と合流しました。 娘はその店に友達とよく食事をしに来るらしく、女性副店長と顔見知りで、大きな蟹を注文するとその副店長は親切に殻を割って私たちのお皿に身を分けてくれました。 部下二人と娘はほぼ同年配なので楽しく語り合い、美味しく食事を終えました。 また私は最近購入した360度カメラで食事風景を撮って楽しみました。 食事後は娘と別れ部下とホテルに戻りました。 その日は日曜日で、二日後にはインドのデバリ(燈明祭り)でしたので、ホテルの近くの大通りはアーチ状に色鮮やかなイルミネーションが飾られていました。 ホテルに一旦戻ったのですが、部下のひとりが夜の町を歩きましょうと言うので私もホテルの外にでました。そして、二人して片道一キロほどの通りをほろ酔い気分で歩きました。 通りを歩いている人、商店で買い物する人はすべてインドの人たちばかりでした。 ですから店の名前にチェンナイやマドラスが付けられているがいくつかありました。 シンガポールおよびマレーシアのインド人たちは歴史的にまた地理的にも南インドのタミール人が多いのです。よく言われるのはマレー半島がポルトガルや英国の植民地時代だったころにヤシ園やゴム園で働く労働者として南インドのタミール人が連れてこられたというものです。 二日目が終わり、最終日の三日目は後編に続きます。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(107)走れ!インど演歌(その3)の巻

走れ!インど演歌の巻 (2014年10月記) 演歌には人妻を愛する歌がたくさんあります。日本では昔から不倫や間男など、男の人が女性と遊ぶ面白さを『一盗二卑三妾四妻』で表していますもんね。かあちゃん、これは昔のことですからね、念のため。 いや、今では男女逆の時代でしょうか?かあちゃん、心から愛してるよ。 『さざんかの宿』(1982年)は大川栄策の歌です。彼は本名を荒巻逸造といい、福岡県大川市の生まれです。作曲家古賀政男の最後の弟子です。1969年に『目ン無い千鳥』でデビューしました。苦労した歌手です。 インド駐在員も苦労しています。広いインド市場を回る必要があるのであります。 さざんかの宿(作詞:吉岡治) インドの宿 くもりガラスを 手で拭いて あなた 明日が 見えますか 愛しても 愛しても あゝ他人(ひと)の妻 赤く咲いても 冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿ぬいた指輪の 罪のあと かんでください 思いきり 燃えたって 燃えたって あゝ他人(ひと)の妻 運命(さだめ)かなしい 冬の花 明日はいらない さざんかの宿せめて朝まで 腕の中 夢を見させて くれますか つくしても つくしても あゝ他人の妻 ふたり咲いても 冬の花 春はいつくる さざんかの宿 くもるメガネを 手で拭いて あなた 工場が 見えますか さがしても さがしても ああ砂のなか 赤く染まるは グジャラート 夕陽わびしい 西インドの宿ぬけた車の タイヤあと 埋めてください 思いきり 押したって 押したって ああ泥の中 出張かなしい 雨のケララ 傘はいらない 南インドの宿せめて朝まで 部屋のなか 原価を見させて くれますか たしてたって かけたって ああ赤字です いつもきている カルカッタ 利益はいつ出る 東インドの宿 丹羽慎吾

新加坡回想録(51)リトルインディア

シンガポールのセラングーンロード周辺にリトルインディアと呼ばれる地域がある。ここを訪れると、カレー粉やスパイスにジャスミンと線香などの強烈な臭いが溶け合って道路に漂っているからすぐにわかる。土産物屋の店先に置かれたラジカセからインド音楽が流れてきたり、サリーを着た女性が数人通りを歩いているのを見ると、まるでインドの街角に佇んでいるような錯覚に陥ってしまう。 あちこちのお店にはインドシルクや金銀細工などが並べられ見るだけでもエスニック気分満喫で楽しい。またバナナの葉に盛られたカレーなどを味わえば気分はもうインドそのもになる。彼らインド人のほとんどは南インド出身のタミール族である。シンガポールは元々イギリス領インドの一部であったのでこの辺りにインド人が集まってきたのは自然の成り行きだった。 1825年イギリスは大量のインド人労働者をシンガポールに送り込み道路やビルの建設に従事させた。 彼らはシンガポール建国の貴重な労働力であったのだ。セラングーンロードにイギリス人が住み着き始めたのは1880年に入ってからである。 この約7%を締めるインド人の生活を見るのもシンガポールの理解に役立つだろう。 1840年代には、当時の主な社交場であった競馬場があり、ここリトルインディアにヨーロッパ人が多くに住んでいた。また、牛飼いがいて、煉瓦釜があった。牛の売買が定着すると、そのほとんどがインド人によって売買されるようになった。商人がインド人移民労働者を雇ったためである。特定の商品やサービスがよく売れ出し、モスクやヒンズー教寺院が建った。 しかし、こうした場所も人も今は姿を消してしまった。この歴史的な場所の時間は止まったままのようで、花輪売り、モダンなレストラン、デザイナーズホテル、アート集団など、古くからある商売と新しい事業が隣りあって並んでいる。 現代のリトル・インディアは、シンガポールでも指折りの活気ある地区だ。セラングーン・ロードやその辺りの通りを散策する時には、混在するヒンズー教寺院、中国寺院、モスク、教会を見てまわるとよい。 お腹をいっぱいにするなら、南インドのベジタリアン料理や、北インドのタンドリー料理、ロティ・プラタ(丸いパンケーキ)やテタレ(マレーの「引き茶」)などの地元料理で。店員が熱いミルクティを「引く」姿に、ぜひご注目を――ちょっと面白いすばらしい演出だ。 ショッピングも、お忘れなく。24時間営業のショッピングモール、ムスタファ・センターには、電子機器から食料雑貨まであらゆるものが売られている。オープンエアのテッカ・センター、金細工店、サリー屋もある。中心市街に近く、ボヘミアンな雰囲気が漂っているために、リトル・インディアを自分の巣と呼ぶアーティストも少なくない。 ディパバリ(通常は10月~11月)やポンガル(1月半ば)の期間中にぜひ訪れてみるとよい。喜びに満ちたお祝いを楽しく見学できるだろう。 (西 敏)

フランスあれこれ39~南仏プロヴァンスのローマ遺跡(1)マルセイユ

先ずはプロヴァンスについて一言。ここはフランスの南部地中海に面した一帯で、緑豊かで太陽がいっぱい、フランス人に最も好まれる地方の一つ、東に行けばニースにカンヌ、西に向かえばスペインの南バルセローナへと続きます。元来フランス人の元祖ガリアの人達の住んでいた地域です。 フランス第三の都市マルセイユ。ご存知のように地中海に面した大きな港町です。歴史的には紀元前600年頃ギリシャ(小アジアのフォーカイア族)が開港、当時はマッサリアと呼ばれ、貿易と文化の窓口として発展、その後ローマのガリア征服に大きく貢献したのですが、残念ながらこの街にはローマ遺跡はありません。しかしこの港を背景に栄えたプロヴァンス地方に多くのローマ遺跡をもたらしたことは間違いありません。 マルセイユにとっての不幸はローマの内戦でした。カエサルとポンペイウスの不仲の際、長い付き合い上マルセイユはポンペイウスを、そして近くの街アルルがカエサル側について戦うことになり、カエサルの勝利でアルルに良いところを全て持っていかれる結果となります。(アルルについては次回のテーマです。)  しかし港としての効用は消えることなく時代とともに発展、特に1869年スエズの開通で交易の要としての地位が揺るがぬものとなりました。直後1873年(明治6年)岩倉使節団がアメリカ・ヨーロッパの視察の後マルセイユから乗船してスエズを通過して帰国の途についています。50数年前私がパリに赴任した同じ頃、日本からの留学生の多くはマルセイユに上陸したと聞きました。 当時の港は現在レジャー用のヨットやクルーザーで埋め尽くされ、その西側に広大な貿易新港が出来ています。(写真は旧港です)  特別のローマ遺跡という訳ではないがギリシャ時代からの埠頭の残骸やローマ時代の城壁の名残は残っています。 もう一つ旧港の外に岩の小島シャトウー・ディフ(イフ島)があります。港の入り口をガードする自然の要塞でもあったようです。マルセイユをガードしながら街と港の発展を見守ってきたと言えます。実際1530年頃この島要塞の城が建造され(現在のイフ城)、その後何時の頃からか特別の留置場として利用されるようになり、政治犯・宗教犯などを中心に、本格的な刑務所に変革されて行ったようです。第2次大戦後まで監獄として使われていたとも聞きます。 (マルセイユについての私の思い出を一つ追記させて頂きます。やはり50年位前のことです。 ワインを醸造した際の樽の底に沈殿する糟から酒石酸という天然酸味料が取れます。日本で粉末ジュースが人気だったこともあり日本は上得意だったようです。マルセイユにこの酒石酸の大手メーカーがありお訪ねしました。社長さんが私の顔を見るなり両手を大きく広げて抱き着いてきました。一瞬大げさなご挨拶だと思ったのですが、気が付くと目に大粒の涙で泣きじゃくっていました。話を伺ったのですがその日の朝、丁度私くらいの年の作業員が樽に落ちて亡くなったのだと言います。勤勉ないい奴だったと言ってまた涙でした。以来その社長さんとは親子のような関係が出来ました。) (マルセイユ旧港の写真は30年位前のアルバムから、そしてイフ城はネットからです)

アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その3。

さて、ここでアルゼンチンめ含め南アメリカ大陸(南米)と言われたりラテンアメリカと言われて思い浮かぶコトやイメージはどのようなものでしょうか? 中学の社会科や高校地理A・Bを私は思い出しながら(^-^)、単語を思いつくままに列べてみました。 赤道直下、アマゾン、ジャングル、アンデス山脈、マチュピチュ、インカ・マヤ・アステカ遺跡、フンボルト海流、エル・ニーニョ、ラ・ニーニャ、ウェゲナーの大陸移動説、大航海時代、マゼラン海峡、パタゴニア、セルバ、カンポ、マットグロッソ、パンパ、サバナ、ボサノバ、ショーロ、マリアッチ、チャマメ、ガウチョ、アルゼンチンタンゴ、盆踊り(ラプラタ盆踊り)、死者の祭、とかとかとか~。 そこには地形と奥深く水平方向に広い自然環境あり、そこから生まれる気候と植生のなかに生きて根ざす人びとの文化と生活と歴史が在りますね。 南アメリカ大陸は、メキシコ半島とカリブ海沿岸からパタゴニアまでです。この中でアルゼンチンは南米大陸の半分から下(南)を占めます。強風吹きすさぶ氷河のあるロス・グラシアレスの少し先までがアルゼンチンの国土になります。そこはもう南極大陸のすぐ近くです。 アルゼンチンも、日本列島のように南北に長い長い国ですね。 南米アマゾンのジャングルなどの緑の地獄(グリーンイフェルノ)と言う感じではなく、乾燥して風吹きすさぶ荒涼とした草原、命の源になる母なる「水」から距離を感じさせられる世界なのかもしれません。 英語のドライ(dry)に乾燥と言う意味以外にも、飾らない、辛口、渇き、などの意味がありましたように思います。乾燥は「渇き」から生まれる「狂気(狂喜)」みたいな「何か」を生む要素のようにも感じます。 湿潤な温帯を生活の基盤に縄文時代から日本列島に住み続けてきました私たち日本人とは視点の違うこともあると思います。 そのような意味でもアルゼンチンが放つ「狂気(狂喜)」にひかれるのかもしれません。 △△その4へ、つづく~。