ルーヴルと私 怖い思い出

パリに行ってルーヴル美術館を訪問しなかったことはありません。何度訪れても感激を新たにするのですが、その中でも特に忘れられない思い出をひとつ・・・ mats ルーヴルが好き 今まで何度行っているのだろう?と振り返るとその昔ベルギーに駐在員として暮らしていた数年間には2回行っただけなのに、帰国してからは出張や旅行でフランスに行く度に必ず訪れているので少なくとも15回くらいは行っていることになります。概ね、ルーヴルが古代から1800年代半ばまでの作品、オルセーがそれ以降、第一次世界大戦勃発の1914年までの印象派・ポスト印象派を中心とする作品、ポンピドゥがその後の作品というように時代で区分して各美術館で展示されていますが、オルセー5回、ポンピドゥに到ってはただの1回だけと訪問回数に大きな差があり、私はルーヴルファンなのです。ピラミッドから入館して、サモトラケのニケの像に続く階段を目の前にすると、「ああ、またやってきた」という感慨に浸るのですがこの階段を上ってしばらく人の流れに乗って進むと自動的にモナリザの部屋に至ります。常にひときわごったがえしていて、みんなある種の興奮状態で人混みのスキマから絵を見よう、スマホで撮ろうと必死です。私の場合はモナリザを遠目に確かめてから、その部屋が位置するドゥノン翼からシュリー翼、リシュリュー翼とヨーロッパ絵画を中心に巨大迷路のような美術館を延々と見て廻り4~5時間を過ごします。見たことのあるものばかりのはずなのにその都度新鮮な感動と、顔見知りに再会したような親近感を覚えます。         モナリザと過ごした時間 随分昔ですがパリに3週間ほど休暇で滞在した折に、フランス人建築家の友人と何日か過ごしたことがあります。彼が設計している住宅の工事現場を訪れ、また、クラシックな迎賓館の修復工事の現場会議にも出席(単に友人というだけの立場)したのですが、その時にルーヴルでも改修工事の設計をやっているので現場会議に出てみるかい?ときかれました。普通ではあり得ない話なのでもちろん答は「ウィ!」です。ルーヴルでのこのような会議、展示品の移設作業などは、夜間あるいは休館日である火曜に行われることが多いようで、彼は私のために火曜の業務用入館パス(当日限り有効)を取得してくれました。火曜、入口のピラミッドから二人で入館、誰もいない館内を改修計画について説明してもらいながら進みモナリザの部屋まで一緒に行くと、「もし特に会議に興味がなかったら館内を散歩していてもいいよ」と言われ、本音のところ会議で一人ポツンと座っていてもそれほど面白くはないのでそれに飛びつきました。かくして私は部屋に残り彼は会議に向かいました。それからモナリザ(フランスでは“ジョコンド”で通っています)を目の前で眺め、ある意味では対話してたっぷり1時間以上、他には誰もいない、一人きり、いや二人きりで時空を越えたひとときを過ごしました。その後、部屋を出るとイタリア絵画の廊下で同じくレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」の撮影作業を何人かでやっていましたが、それ以外は誰もいませんでした。喧噪に満ちたいつもの雰囲気とは別世界の静寂と孤独に包まれます。 怖い話  そんななかでふと、シュリー翼の3階にあるジャック・ステラ(17世紀のフランスの画家)の何枚かの絵を見たくなり、ドゥノン翼の隣に位置するシュリー翼を目指しました。ところが、無人の館内をずいぶん歩いた末に何かがおかしい・・・ちっとも目的の方に向かっていないのに気がつきました。こんな展開になるとは思ってはいなかったので館内マップも持っていません。ただ、館内の表示は至れり尽くせりで、現在位置と方向は示されている、例え迷ってもあちこちにピラミッドマークがあり、それに従えば全館の中央に位置する入口のピラミッド地下部分に簡単に出られるはずなので焦る必要はないのですが、さらに進んでいくうちに完全に迷っていることがわかりました。とたんに恐ろしくなりステラの絵はもうどうでもいいからとにかく出たい・・・ところがピラミッドマークの標識のあるいくつかのドアがロックされていて開かず、廊下なりに暗い館内を進まざるを得なくなり、巨大な迷路なのか、それともそれよりもっと恐ろしいものではないのかと無人の美術館の恐怖に怯えました。「ナイトミュージアム」という、夜になると博物館の展示物たちが動き出すという荒唐無稽な映画がありましたがそんなことまで思い出す始末。さらに、古い展示物の中には昼間は観客たちの喧噪の中でおとなしくしているものの怨念を抱えたものも少なくないのでは?そして、あろうことか進行方向の先の表示を見ると「古代エジプト」、こんな時には一番近づきたくないところですが、今更戻るわけにも行かず走り抜けるようになんとか無事通過、そこからやっとのことでピラミッドの明るい地下部分がまるでトンネルの出口でもあるかのように廊下のずっと先の方に見えて全身から力が抜けるほど安堵した時までは余り記憶が定かではありません。至福と恐怖がみごとにセットになった一日でした。

新加坡回想録(45)ラッフルズホテル

ホテルについて追加で少し書きます。最近のシンガポール観光情報には必ずと言っていいほど写真が載っているのが「マリナベイサンズ」で、今一番人気のようですね。まずローケーションがよく、話題の屋上プールは他にはない気分を味わえることでしょう。 駐在時に、お客さんを案内して必ずお連れしてたのは、「ラッフルズ・ホテル」です。ここは、シンガポールの歴史を語る上で欠かせないコロニアルホテルで、シンガポール・スリングを飲んでも飲まなくても必ず行ってみて欲しいところです。 シンガポール建国の父ラッフルズの死から60年後の1886年アルメニア人のサーキーズ兄弟四人がラッフルズの名前を取ったホテルの経営を始めました。イギリスの植民地でもあり世界的に重要な貿易港シンガポールに建つこのホテルは国際的な名声を得るのにたいした時間はかかりませんでした。 この町に住むヨーロッパ人はこのホテルに集まりディナー、舞踏会、コンサート芝居などを楽しんだそうです。このイギリス的なホテルはヨーロッパの作家たちに気に入られ、ジェイコムラッド 、R キプリング、ヘルマンヘッセ、そしてサマセットモームなどは長期駐在しました。 モームのお気に入りの部屋はパームコートに面した78号室でした。彼の作品に登場するヨーロッパホテルはこのホテルだと言われています。1930年代の不況とそれにつながる太平洋戦争により一旦幕を閉じます。イギリス軍の降伏後、日本軍の将校の宿舎となり、名前もシンガポールの日本名を取って「湘南旅館」という駅前旅館風の名前に変えられてしまいました。 現在、シンガポール最古のラッフルズはホテルというより観光名所。世界各国から観光客が訪れ、イギリス植民地時代の上流社会の生活を想像しながら優雅な曲線を描くアーチ型の窓を見上げています。 ラッフルズホテルの歴史はそのままシンガポールの近代史とぴったりと重なると言っても過言ではなく、英国統治時代を彷彿とさせます。”イギリスよりイギリス的”と言われるラッフルズホテルのその白亜の佇まいは「ラッフルズ、その名は東洋の神秘に彩られている」とモームに絶賛されました。昼下がりのひとときをモームの「月と6ペンス」でも読んでゆっくりと過ごしてみてはいかがでしょうか。 (西 敏)

フランスあれこれ35~コンピエーニュの森(独仏休戦協定)

今まで(1)パリから東のセーヌ川の源泉、(2)西のガイヤ-ル城とルーアン、そして(3)パリから南のジアンと運河の立体交差を見て来ました。今回はパリから北に80㎞コンピエーニュの森を訪ねます。 結構広大な森ですが比較的平坦、中央付近に森を見晴らす小高い丘があり、なるほどと思える古くからの狩場です。縦横に直線道路が整備されていましたがカーナビのない時代は辻々の案内看板が頼りでした。 歴代の国王や貴族の館が森の片隅にあったとか。様変わりしたのが18世紀末。ルイ15世がそれに手を加え、更に息子のルイ16世がオーストリアからマリー・アントワネットを迎えるために増改築して広大で壮麗な館を作ったと言います。革命後ナポレオン1世、更にナポレオン3世が増改築、家具内装などヴェルサーユ宮殿に負けず劣らぬ豪華絢たるものにしたと言います。     この森について(宮殿ではありません)欠かせない話があります。第一次、第二次二つの欧州大戦の休戦協定がこの森の一角で行われたという事です。私がここを訪ねた最初は多分50年位前だったかと思います。森の中に一台の鉄道の客車が止まっていました。客車の入り口に踏み台があって自由に中を見学することが出来ました。 1918年11月11日第一次世界大戦の休戦協定がここで結ばれました。何故こんな森の中でという疑問ですが、フランスには戦争継続を叫ぶ一般市民が多く、交渉は静かにそして暴力的な彼らの目に触れないという事があったようです。(上の写真)協定は2度ほど延長され、最終講和条約はヴェルサーユ宮殿で1919年6月28日締結されました。 次に第2次大戦です。1940年5月、初戦で圧倒的な侵略を見せたドイツに対し、早くも6月にはフランス側から休戦の申し入れを行いました。1940年6月22日に休戦協定が締結されたのですが、ナチス・ヒトラーはこのコンピエーニュの森を指定し、1918年と同じ客車内での協定締結を要求しました。この客車は戦勝記念としてドイツに送られたのですが、その後戦災で消滅したようです。 私が見た客車は同系の類似したものだったようですが、現在はそれも近くに建設された記念館に展示されているようです。 コンピエーニュについてもう一つ欠かせない話があります。またまたジャンヌダルクの登場です。多分これが最後です。彼女がルーアンで火あぶりの刑を受ける前、この町で捕縛されたのです。

追憶のオランダ(74)バカンスにはトレーラーハウスを引いて

オランダの夏休みは、年が改まると同時に準備が始まります。家族で、その年の夏休みの計画を練り始めるというのです。今年のバカンスはいつからいつまで、そしてどこへ行こうと、家族中で話し合って家族全員の休みを調整しながら計画を立てるのです。とくに、子供がいる家庭ではそれが毎年の恒例の行事となっているようです。実際の休暇を取る時期は、6月から9月ころまでの間が多いのですが、私の勤めていた会社でもその期間に大体連続で3週間くらい休む同僚が多かったように記憶しています。日本では考えられないくらい、しっかりと休みを取ります。というより、休みを取るために働いているという感覚です。休みを取ると、その間その人が担当している仕事は一時停滞します。よほどの重要案件でもなければ、周りの同僚もピンチヒッターで仕事を肩代わりするということも殆どありません。それを知らずに取引先からは電話もかかってきますが、今休みを取っていていつまで不在だと伝えれば、大体の人は納得してくれます。日本だと、こうはいきません、代わりに誰か変わってやってくれと大騒ぎになります。しかし、よく考えれば、社会全体がこの時期には誰しも長期の休暇を取るものだという理解があれば、自分自身も同じことをやるわけで、そこはお互い様ということなのです。 そして、オランダ人はこの家族と一緒の長期休暇には多くの人が車にトレーラーハウスを付けて引っ張っていきます。これならどこへ行こうが、宿賃はかかりません。特にバカンスのシーズンともなるとホテルの予約も大変だろうし、レストランでの食事を考えると費用はバカにはなりません。そこへ行くとトレーラーハウスは泊まるのも、食事をするのも自由自在でとても経済的です。そんなわけで、この時期には観光地などではオランダナンバーを付けたトレーラーハウスがあちこちで見られます。また、オランダの個人の乗用車をみると、多くの車にはトレーラーハウスを固定するための大きなフックが取り付けられています。しかし、少し残念ですが、このトレーラーハウスを引っ張ている車は行く先々ではあまり評判がよろしくありません。第一、道路を走るのにあまりスピードが出せず、ほかの車の邪魔?になることもしばしば。また、観光地では、ホテル代をはじめあまり(ほとんど)お金を落とさない。そこで口の悪い連中は、金を落とさないケチのオランダ人が来たということになります。経済観念がしっかりしているが故のトレーラーハウス旅行なのですが、視点が変われば、単なるケチにしかみえないものでしょうか。あなたならどうします?

シンゴ旅日記ジャカルタ編(17)  散歩しながら考える(接ぎ木)の巻

散歩しながら考えるの巻 接ぎ木    (2019年9月記) 朝散歩で住宅地のお家の庭先の草花を眺めて歩きます。 ところどころに色の違う花の咲いたハイビスカスの植木や、すくっと伸びた幹の先に葉がトリミングされた植木がありました。 一本の木に複数の色を持つ花が咲くのだろうか? 綺麗にトリミングできる木があるのだろうか? それらの木々に近づいて枝をよーく見てみるとそれらは「接ぎ木」だったのです。 植物が子孫を増やしていくための生殖方法には有性生殖と無性生殖があります。 接ぎ木は無性生殖のうちの一つである栄養生殖なのです。 そして接ぎ木と言えば桜のソメイヨシノが有名です。 ソメイヨシノは江戸後期に伊豆諸島のオオシマザクラとエドヒガンとの交配で作られたクローンなのです。ソメイヨシノは江戸の染井村の植木職人たちによってつくられ、西行法師で有名な吉野と合わせて名付けられ、昭和の高度成長期に日本中にたくさん植えられました。 そのソメイヨシノは地域ごとで一斉に花を咲かせます。 それはソメイヨシノが接ぎ木や挿し木で増えていったからです。 接ぎ木の根のある下の部分を台木といい、切断してつなぐ上の部分を穂木(接ぎ穂)と言います。植物の根の上(台木)に目的の植物の枝(穂木)をつなぐため台木と穂木は近縁な方が定着しやすいのですが、実際には同種ではない組合せもよく使われます。うまくいけばつないだ部分で互いの組織が癒合し、一つの植物のような姿で成長します。接触させた位置より上は穂木から生長したものであり、それより下は台木の植物のものであり、遺伝的に異なっています。 ソメイヨシノは自家不和合性植物で同じ木の花のめしべとおしべでは受精しません。 違う木のソメイヨシノとは受精し種子はできるのですがクローンなので発芽できません。 他の桜の花とは受精しますが違う遺伝子を持つ桜になってしまいます。 ですから接ぎ木でできたソメイヨシノはすべてが同じ遺伝子を持っているので地域ごとに同時に花を咲かせるのです。そして、同じ遺伝子を持つがゆえに耐性のない病虫害には全ての木がやられてしまうという弱点も持つことになるのです。 ソメイヨシノの両親であるオオシマザクラは成長が早く、エドヒガンは丈夫で長生きする桜だったため、根が浅く広く張ります。それで最近では根本近くまで舗装されたり、花見の人で土の表面が固まって成長が阻害されたり、温暖化による悪影響も受けつつあるようです。 青森の弘前城のある弘前公園には日本一古いと言われる樹齢130年のソメイヨシノがあり、東京の小石川植物園には樹齢140年のソメイヨシノの株があります。 なお、日本には桜の種類は野生種10種、自生種100種、園芸品種200種の桜があるとのことです。さて、私の好きなアデニウムにも接ぎ木で色の違う花を咲かせている植木もありました。 また、接ぎ木を野菜に応用したトムテト(またはポメト)はご存じですよね。 ナスとジャガイモの組み合わせはエッグ・アンド・チップスというのですよ。 でも接ぎ木は人間世界でいうと昔の武家や商家のご主人様がふがいない跡取りの代わりに優秀な婿養子をもらってお家の跡を継がせていくのに似ていますね。   丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(96)ワテは運転手 国勢調査の巻

ワテは会社の運転手でんねん。 えっ、何やてですか? ワテがどうやって車の免許を取ったのかってですか? 言ってもエエのやろか、言わん方がエエのやろか、はたまた、言ってもエエのやろか。 ワテな、正規の手続きで免許を取ったんとは違いますねん。 それはワテが15,16才の頃ですわ。 そのころはまだ親父(おやじ)が生きておって、車を持っておりましたんや。 親父ですか、チェンナイ生まれですけどね、プネのTATA自動車に勤めておったんですわ。 メカニックですわ。ワテの親父って結構苦労しはった人ですねん。 そんで、そのころ、ワテな、親父の車をちょっと借りてわ、乗り回しておったんですわ。 若いときはちょっとワルでしたんやで。 その頃のワテな。今は飲みませんけどな、ウィスキーをようけ飲んでましたんやで。 そやから、今の社長さんの二日酔いの気持ちもよう分りますんや。 車の免許でっか、ホンマやったら、まず試験所に行って、簡単な交通規則をYes、Noのボタンで押して規則を知ってるかがチェックされ、その場でOKかそうや無いか決まるんですわ。そして、一ヶ月間の仮免許がもらえるんですわ。その間に助手席にブレーキが付いとる車に指導員に乗ってもらって、一ヶ月後のテストでOKが出れば、免許がもらえるんでっせ。 けどな、ワテは代理店を通じて免許を買うたんです。 インドは昔も免許を取れるのは18歳以上やったけど、ワテは16歳で取った、いえ、買うたんです。 払ったお金はたしか2000ルピーでしたわ。 免許証と言えば、インドはIDカード、納税番号カード(PAN)、ガスボンベ購入証明書やいろんな証明カードが必要なんですわ。今度も新しいカードが出来たんでっせ。Aadhaarって言いますんや。 これな10年に一回な、1のつく年に国民みんなの調査、そうそう国勢調査(センサス)があってな、そのためやそうですわ。今までのいろんな証明書が、ひとつになるんちゅうのでっせ。12桁番号のあるカードですわ。 そやから、ガスボンベを買う時も通帳は要らんようになるんですわ。 いままでは、ガスポンベ専用の通帳にいつガスを充填したかって手で書いてたんでっせ。 けど、これからは、この番号を言えば、コンピューターで一発で登録できるんでっせ。 すぐれもんでっしゃろ。 そやけど、今はまだ、この通帳がないとガスの充填ができませんのや。 そやから、この前日本人駐在員がガスが切れたからボンベを買いたいちゅうて言わはったけど、この通帳持ってはらへんかったから、表向きでは買うことができませんでしたんや。 表向きでっせ。世の中、コインと一緒で裏表がありまんのやで。 ついでに言いますとな、ボンベを一本買うたらね、次に買えるのは20日以上たたなアカンのでっせ。 この新しいIDカードのデータの中には、ワテがワテであるちゅう証拠の指紋や掌の紋それに目の虹彩(アイリス)も登録されてまんのやで。つまり、国勢調査の内容が全部分かってしもうとるんですわ。   今回の国勢調査な、すごかったでっせ。 A3用紙くらいの紙の裏表に質問がびっしりですわ。 家族は何人や、宗教は何やとか、自転車は何台あるか、車やパソコンや携帯は持ってるか、土地はどれくらいで、家は自分のものか、それらを買ったお金はどこからやってですわ。 まだ、ありまっせ、給料は何ぼや、家にトイレはあるか、それは排水溝付か無しか、煮炊きはガスか薪かなんかですわ。 今回の調査な、270万人の調査員の人が20日間で150世帯ずつを回って、3億4千万の調査票を集めはったそうですわ。 けどワテの場合は近くの集会所に行って、記入したんでっせ。 みんなが、みんなでおませんのや。 うちの弟なんか、長い列やったんで行かへんかったんですわ。 けど、そのうちに新しいID番号が必要になるちゅうと、役所に行って、質問に答えんとカードがもらえんらしいそうですわ。 そんで、インドですがな、質問状の言葉は一つやおませんのや。 16種類の言葉で使い分けしたんでっせ。 けど、田舎から出て来て、あの道路に座って生活しとる人にもいちいち質問してきいたんやろか。 この国勢調査でわかったんが、インドの人口は12億1千万人で、世界人口のまあ2割弱を占めるちゅうことですわ。日本が1億2千8百万人ちゅうさかい日本の9.5倍あるんでっせ。 1950年(昭和25年)の統計ではインドの人口は3億7千万人でしたんや。 そやから60年間で3倍以上の増え方ですわ。けど、ようけ増えてまんなあ。 中国も60年前は5億4千万人で、今では13億4千万人でっしゃろ。 2.5倍しかおませんやろ、中国とは昔、戦争で負けたけど、人口の増え方ではインドの勝ちですわ。 日本は60年前が8千3百万人やったから1.4倍にしかおませんな。 これから約40年後の2050年にはインドが世界一の16億1千万人になって、二番目が中国の14億1千万人になるんでっせ。 日本でっか、今から人口が減って行ってもうて、1億人ですわ。 もっと、きばらなあきませんで。そのうちに日本に人がおらんようになるんとちゃいまっか。 えっ、心配せんでもエエってですか?何でですか。 子供を産む人は産む、産まん人は産まん。産まん人は子孫を残さん。産む人はどんどん子孫を残す。そやよってに仰山子供を産む遺伝子を持っとる人ばっかが残るから、子供が仰山できる。 そやから人口は減らんてですか。へぇー。なんか、風吹けば、イケヤ、ちゃう、桶屋がもうかるちゅう日本の三段論法のような話でんな。 そやけど、タイに多いオカマさんは子供が作れんはずやけど、なんで、ぎょうさんおるんでっか。 えっ、それは知らんってですか。 そんで、インドの世帯数は2億4千6百万ですわ。ちゅうことは、一軒あたり4.9人ちゅうことですわ。 日本は2千2百万世帯やから、一軒あたり2,5人ちゅうとこですか。 えっ、一番の多いんのが山形県の3.0人で、一番少ないんのが東京の2.1人ちゅうんですか。 インドな、文字を読める人も増えたんでっせ。10年前と比べて9.2%増の74.0%ですわ。 日本は99.8%もあるんやてね。すごい国でんな。日本は。えっ、日本には昔から寺子屋があって、読み書きソロバンを教えておったちゅうんですか。ヘェー。 インドでは平均しますとな、男の人は読み書きが82.1%やけど、女の人が65.5%でんねん。。 そして、これな、地方によってバラつきがあるんですわ。 北部のラジャスタン州やと、男の人が80.5%で、女の人が52.7%でんねん。 まだまだ男尊女卑であるちゅうことがはっきりしてますねん。 話は変わりますけどな、おうちにオトイレがあるかどうかも調べてまんのやで。 そんでおうちに、おトイレがあるんは47%ですわ。半分の家がおトイレがおませんのですわ。 ちゅうことは、半分以上の人が外でしとるちゅうことでですわ。 そやけどな、携帯も含めて電話を持っとる家が63%もあるんですわ。 ちゅうことは、携帯もって野原で用を足してる風景があるちゅうことですわな。 日本でもあれでっしゃろ、おトイレはほとんどあるそうですけど、ポットン式やタンクに溜めるもんとかがあって、パイプで流していく下水道は70%くらいやそうないですか、そんで田舎ではまだまだ、下水道は整備されとらんちゅう話でっせ。あんまり変わりがないんとちゃいまっか。 えっ、下水道とトイレはまったく同じではないんですか。ヘェー。 そんでな、肝心の電気や水道ですわ。 電気の来ているおうちは70%で、水道は43.5%ですねん。 おうちに電気や水道なんかがのうても、生活できますちゅうことですわ。 水道が無い人はどうしてますかって、共同の水くみ場を利用してますんや。 よう、地方へ行くと見ますやろ、頭に水がめ乗っけて歩いてる女の人や、手に水タンクもって運んどる子供たちを。 電気が来ん家は夜はどうするのかってですか、そりゃ寝るしかおませんな。 そやさかい、人口がどんどん増えていくんやろか。 そうやったら、日本も人口減少を防ぐために電気の来ん夜を週に一回か二回設けたらどないでっか。 お料理を作るときにガスや電気を使ってるんは都会では65%やけど、地方では11%で、平均しますとな、29%だけですわ。そんえ、67%の人たちが、まだ薪や牛の糞を燃やしてまんねん。 これも、もうご存知のごとくちゅうやつですわ。 テレビのある家は増えてまっせ。43%でんがな。 日本では白黒テレビが1960年(昭和35年)で44.7%でやったから、インドも今の生活レベルはそのくらいのもんでっしゃろか。 けど、今は全部カラーテレビやし、日本でカラーテレビが40%を超えたんは、それから11年後の1971年(昭和46年)ころやから、インドのレベルは日本のその頃になるのやろか。 さあ、わからんなあ、どうなんやろ。 自動車は今回の国勢調査はようわからんので、他で調べてみますとね、インドは人口千人あたりで、18台(2009年)ですわ、日本は576台(2011年)ですから、まだまだでんな。ちゅうかこれからですわ。 お給料でっか。これでんがな、問題は。 インドにいてはる日本人の奥さんが新聞発表から作らはった表がありますんで、それをご紹介しますわ。その人のプログからのコピーでんねん。 そんで国勢調査な、けったいな質問もありましたで。 ワテのほかにワテの親父やお袋や嫁さんはどこの町で生まれましたか、あなたが生まれたところと、今いるところが違うばやいは、今のところに来て、何年経ちますか、なんで今のところに居ますか、ちゅう質問がありましたんや。 ワテは親父の生まれた町は知ってますけど、お袋も嫁さんもどこの町で生まれたか知りませんのや。 そんで、お袋と嫁さんに聞いてくれって書きましたがな。 お袋ですか、死んでからもう10年経ちますけどね。 ワテは生まれはチェンナイやけど、ワテが生まれてすぐに親父とお袋がプネに引っ越したんですわ。 そやから親父に聞いてくれって書きましたわ。 親父ですか、死んでもう7年経ちますわ。ほな、さいなら。   丹羽慎吾

フランスあれこれ34~運河の立体交差

皆さんご存知でしょうか。フランスの国土の面積は日本の1.5倍、日本は85%が山岳だがフランスは15%、人口が日本の半分として一人当たり約17倍の平地面積という計算になります。パリを少し出ると比較的ゆるやかな平原が広がります。この地理的な条件からセーヌ川は大きく迂回・蛇行して流れが緩やか、一大水運として利用され、その結果パリも発展できたという背景があります。この水運の延長が網の目のように張り巡らされた運河網です。 運河が物流の手段だったのも自動車が生まれる以前の環境での話。折角の遺産も現在は非常に限られた利用だと聞きます。一つは局地的な水運と農業などの水源、それとわずかな観光だと聞きます。この場合の観光というのは例えばリタイア(或いはリタイヤー)の後小舟を手に入れてのんびりと水上の生活と旅を楽しむという事です。 今回はこの運河の立体交差を見ようと出かけました。(1991年5月)場所はフランスで一番長いロワール河の中流にあるブリアール(Briare)です。パリから南に約130km、途中すぐ近くのジアン(Given)に立ち寄りました。 ジアンはこじんまりした街ですが、町の中央小高い丘の上に聖ジャンヌダルク教会(Eglise Sainte Jeanne d’Arc)があります。またしてもジャンヌダルクの登場です。「セーヌの源流を求めて」の中で訪ねたオーセールの教会を通過した後この教会に立ち寄っています。その後も3度この街を通過した、或いは滞在したという記録が残っています。 ジアンは陶磁器で日本でもよく知られています。写真は我が家の思い出の一品です。 寄り道はそれくらいにして今日の目的地ブリアールに向かいます。ジアンから5km位、同じロアール川に沿った隣町です。町としての特徴は今一つ、むしろブリアール運河、中でもこの立体交差が町を支えているというところ。 この運河はセーヌ川とロワール川を繋ぐ運河で、その間の距離58km、1605年に着工、その後紆余曲折があり、再三工事が中断、最終的に1642年に完成したと言います。水位の異なる運河を利用できるようにするための水門38門と言われ、当時としては大変な難工事であったことが偲ばれます。その見せ場は写真のロワール川をまたぐ立体交差です。   その後運河が更に延長され地中海に流れるローン川の支流につながります。その結果運河伝いに北海と地中海が繋がり、東西ではドイツに、そしてライン川を経由してオランダにまで連絡される結果となっています。もっともこれらすべてを走破した人がいるとしたらお金持ちのご隠居さんだろうと推測します。 この種の運河の立体交差は他に何か所かあるようですが、ロワール川に掛かるという事が人気の根源でしょうか。さらに言えばこの地域一帯の歴史がそれを補強しているのでしょう。   日帰り旅行の帰りに北に約20kmモンタルジー(Montargis)に立ち寄りました。ここはフランスのベニスとも言われ、町中運河だらけと言うか、それが見事に整備され町との一体感を表しています。古くは古代ローマ時代、いやそれより昔に遡ると言われ、多くの遺物が残っているようです。小高い丘の上に中世の城館跡が見られ、多くの水で防御された自然の要塞だったと思われます。街を散策しましたが特に新しい発見はありませんでしたが、町の中心部分に出て子供たちの楽団パレードに出くわしました。メーデーの日というのに子供のパレードとは?いや私共の歓迎か?と思いましたが、同時にパリと違った穏やかな環境を見た思いです。

追憶のオランダ(73)クラーリンゲンのイモリのミイラ

オランダに来て2軒目の家として住んだクラーリンゲンの家は、会社の公邸になっていた。そこには大きな庭があり、人工の池も作ってある。おそらく昔の住人は魚でも飼っていたのだろう。私達が住みだしてからは、何も飼ってはいなかった。しかし、春先になるとカエルやらイモリやらが来て卵を産む。カエルはすぐいなくなるが、イモリは結構そのあとまでいる。そのうち何匹かを水槽に入れて部屋に置いて飼っていた。エサもちゃんとやっていたが、ある時気づくとその水槽が空っぽになっているのだ。イモリは死んだわけではなく、蓋の部分に小さい隙間があったらしく逃げ出してしまったようなのだ。爬虫類のヤモリとは違い、イモリはカエルと同じ両生類なので水が近くにないと困るはずだが、死んだのでなければいいかと思い、ずっとそのことは忘れてしまっていた。 ある時、部屋の掃除をしていて、部屋の隅に置いてあった箱を動かして、そこに奇妙なものを見つけたのだ。ほこりを被っているがよく見れば、それは干からびてしまったイモリなのだ。すっかりやせ細って、生きていた時のぽちゃぽちゃした感じは全くなく、どちらかというと骨格標本のような感じになっていたのだ。気の毒な事をした。逃げる方向を間違え屋外までは逃げられなかったのか・・・。部屋の片隅で逃げ場所を失って命尽きたのかと少し憐れになった。 そこで考えた。そうだ、このまま捨ててしまわずに、これに漆を塗ろう、漆で固めてやろう。私はその頃から漆塗りを習い始めていたのだ。そして、このイモリのミイラにも何度か生漆を塗った。実際は塗るというより漆をしみこませるのだ。木の盆や椀などの木目を見せる拭き漆という手法だ。漆なら防腐効果もあり、補強にもなり、一挙両得だ。 その漆塗のイモリは今も手元に置いてある。生きている時は分からなかったが、骨格標本のようなミイラになったので、足の指先までキチンと形を留めている。体長はわずか5cmほどの小さいものだ。もちろん20年前に生きていた時のようなぽっちゃりとした体型ではなく、腹の赤い色もなくなってしまったが、むしろこの精悍な感じがいいと思っている。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(16)  散歩しながら考える(愛しのアデニウム)の巻

散歩しながら考えるの巻 愛しのアデニウム  (2019年9月記) 根本が千種万様の形を持つ「砂漠のバラ」と言われるアデニウムに私は魅せられてしまいました。 人は物を好きになると自分の手元に置きたくなるものですよね、私も自分で育てたくなりました。 それで休日に運転手さんに頼んで花屋さんに連れて行ってもらいました。 花屋さんと言っても自動車道路沿いに鉢植えの植物が沢山並べてあるところでした。 そのうちの一つのお店というか小屋に入り、アデニウムの小さな苗木を二個買いました。 お店の人はこの花は乾燥を好むので水は与えず、そのまま育てれば良いといいました。 私はプラスチックの鉢と新しい土を買い花屋さんに苗木を入れ替えてもらいました。 そして鉢二個を車に積んで会社に向かいました。 というのは、私のアパートの部屋にはベランダないので、平日の大半を過ごす会社でアデニウムを育て、社員たちにも見せてあげたかったのです。 会社に着いて、玄関の入口の日当たりが良い場所に鉢を並べました。 そして毎日玄関を出入りするたびに苗木を眺め、我が子の成長記録のように写真を撮りました。 私は購入した時にすでに枝の先端が切られていた方の苗木が気になりました。 一週間経つとその苗木の切り口の横から葉が生えてきました。 そして、一ヶ月経つとその葉の枚数も増えてきました。 しかし、それから二ヶ月、三ヶ月経つと成長が止まったように見えました。 逆に根本のふくらみが買った時よりも痩せてきたようです。それはもう一方の苗木も同じようでした。 これはきっと栄養が足りないのではないかと思い、肥料を買おうと思いました。それでまた休日に運転手さんと肥料を買いに花屋さんが集合している団地のようなところへ出かけました。 その花屋団地の入口のお店に入りました。花の手入れをしていた若い青年に私は木が痩せて来たので肥料を下さいと言うと、その青年はきっと水をやり過ぎたのでしょうと言いました。 そして、私を案内して、店先に並んだ花木の間を縫うようにアデニウムの苗木の所に行き、その苗木を鉢から引っこ抜いてその根を見せて、このように水分が多いと成長が止まってしまうと説明してくれました。そして痩せたアデニウムの対処方法として、苗木を鉢から引き抜いて土を良く払い、逆さまにして三日間陰干しして植え直すようにとアドバイスしてくれました。 するとその時に側に居た私の運転手さんが土は替えなくていいのかと尋ねると、 青年は現在どんな土を使っているのかと聞き、運転手さんが最初に苗を買った 時のままだと答えました。 すると青年はパシール・マラン(マラン地方の砂)にしなさいと言って、砂という より粗い玉土のようなものが入った袋を勧めてくれました。 私は土を変えただけでは心配だったので小さな箱入りの肥料も砂と一緒に買い 会社に向かいました。 会社に着くと休日だったので守衛さんが何をしに来たのかと驚きましたが、 私は運転手さんと二人で苗木を鉢から引き抜き土を払い、紐で苗を縛って玄関前の陽のあたらない木陰に吊るしました。そして花の面倒をも見てくれてもいる守衛さんに、私たちの作業の説明をするとともに、絶対に水はやらないようにと念を押しました。 それから三日後の平日の午後になり私は、鉢への植え替えの約束をしていた運転手さんを電話で呼び出しても出ないので、私は待ちきれずに席を外して、玄関に向かい、陰干ししている苗木を紐から外して、新しくパシール・マランを入れた鉢に植え替え肥料を少し与えました。 今度は根本をすっかり覆うように砂を盛りあげました。 今は毎朝、会社に行くと「早く育てよ、早く太れよ」とアデニウムを眺めるばかりです。 それにしても、あの花屋の好青年が親切にそして熱っぽくアデニウムの対処方法を教えてくれた姿が忘れられません。花を愛する人は優しい人が多いのでしょうね。それは私も含めて。グフッ。 (余談)植え替えをして二日目の夕方、退社時に玄関に行くと鉢植えが玄関の中の受付の台の上においてありました。守衛さんに鉢がどうして受付台の上にあるのと聞くと、先ほど雨が少し降ったので花が濡れると私が怒ると聞いていたので中に入れましたとのことでした。守衛さんは夜と昼で交代します。雨が降り花を中に入れた守衛さんは私が水をやるなと言った守衛さんとは違いましたが、守衛さん同士できっと引き継ぎをしていたのでしょうね。ありがたきかな。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(95)ワテは運転手 見る管理の巻

ワテは会社の運転手でんねん。社長さんは日本人ですわ。 この社長さん二年前に来はったんやけど、前の社長さんと違って、結構、おもろい人でんねん。 ワテが最初にこの会社に入った四年前は、今の社長さんやのうて、前の社長さんの時代でしたわ。 その時は前の社長さんと、この前定年しはったインド人の営業マンとワテだけの三人でしたんやで。 お二人がバンガロールからプネに引っ越して来られたんですわ。 前の社長さんも営業マンも奥さん連れでしたわ。 その営業マンな、プネの生活に慣れへんかったんやろか、一年位して体調を崩して、バンガロールに奥さんと帰ってしまわれたんですわ。 カルナータカ州とマハーラシュトラ州では言葉が違ったからやろか。けど、その営業マンはインドの5つくらいの州の言葉を話せましたんやで。今おる営業マンとはえらい違いですんや。 でもな、会社は、その前の営業マンの人を、コンサルタントちゅうか、顧問ちゅう肩書きで、引き続いてお給料を払って、時々お仕事をお願いしてたんですわ。 ワテと同じ契約社員でしたんや。けど、ワテは今年から正社員になりましたけどな。 そやけど、今年の5月にその契約が切れた時に、退社になってしもうたんですわ。 今の社長さんが、バンガロールまで行って、その辞めはる営業マンさんに挨拶してきはりましたわ。 その営業マンさんな、まだ63歳やから、まだ働きたいちゅうてたらしいですが、社長さんが、自分も60歳になりました。もう若い世代に仕事を任せようやないかちゅうて、決めはったちゅうことですわ。 結構冷たい人でんな、社長さん。 社長さんな、日本の本社では、ワテと反対に今年から契約社員になったそうですわ。 でも、やってはる仕事は今までと変わりませんのやで。   ワテが会社に入った時は、前の社長さんたちがバンガロールから来はったばっかしで、事務所もあらへんかったんで、社長さんのアパートでお仕事をしながら、事務所を探して、今のこのショップに入ったんですわ。二階建てで、お店がずっーと並んでおる集合店舗ですわ。 そのうちの四つのショップを借りたんですわ。 番号でいうと43,44,45,46ですわ。 そやけど、その時は、今みたいに、会議室やトイレや食器洗うとこまだできておらんで、コンクリートの打ちっぱなしでしたわ。 そんで、そのショップの上にお店がある業者に内装をお願いしたんですわ。43と44の間の壁と、45と46の間の壁をそれぞれぶち破って二部屋にしたんでっせ。 それに、メゾネットタイプゆうて、事務所の中に二階がありまんのや。低い天井の二階やけどね。 今、事務所としてみなが使ってますんは、43と44をぶち抜いた部屋の方ですわ。 45と46の方は、一階はテーブルを置いて昼食ができるようにしましたんや。そして、その二階は書類や、部品なんかの物置として使ってまんのや。 その時の改造な、いろいろありましたんや。 今の社長さんが来はった時にも、まだ、やらなあかん工事は残ってたし、支払いも残ってたんでっせ。 発電機なんか、最初はディーゼルの見積もりやったけど、終いにはバッテリーに代わってましたんや。 そんで、今の社長さんが、もうエエ、元の契約書に基づいて、出来たもんと、出来んもんをはっきり分けぇー、追加は追加で別項目や、払った金額をはっきりせぇーちゅうて、一遍に決めてしもたんですわ。見かけによらず強引なとこあるんですわ、社長さん。   この事務所の家賃の支払いは四つのショップごとに四つに分かれてまんのでっせ。 オーナーはインド人のお父さんと息子3人の4人の名義ですわ。 家族で名前を分散してまんのや。税金対策やろね。 そんで、この事務所に移ってから、今の営業マン、経理そしてメンテマンが入って来たちゅう訳ですわ。そやから、今の社長さんが来はった二年前は、ワテを入れてインド人は4人でしたんや。 ワテは、前の社長さんがバンガロールから来はった時からの社員やから、一番古い社員ですねん。   そんで、今の社長さんが来はった時は4人が一階で、みんなで仕事してましたんや。 そやけど、すぐに社長さんは会議室で仕事するって言うて、会議室を自分のお部屋にしはりましたんや。きっと、会議室を作ったんわエエけど、まったく使われてへんかったんで、アメリカ映画みたいに、自分の部屋として使いたかったんでしゃろか、それよか、あの営業マンの電話の大声が、うるそーて仕事が出来んかったんとちゃいまっか。 そんで、ちょっと経ってから、経理に二階に移りなさいって言わはったんです。 何でも、事務所のお金や、個人の給与や、税金のことを、他のスタッフがおるところやのうて、別のところでせなアカンちゅうわけですわ。その時はワテは、まだ、下のグループでしたんや。   そして、去年な、日本人社員さん二人とインド人一人が会社に入ってきましたんや。 そんで下のスペースが狭うなって来ましたやろ、ワテにも二階に行けちゅうことになりましてな。 その次に社長さんも二階に移らはったんですわ。二階の天井な、高さが175センチしかおませんのや、ちっこい経理やワテは天井の高さは関係おませんけどな、社長さん自称180センチですんや。ホンマは、177センチやそうでっせ。けど、社長さんが二階で歩く時は、かがんで歩かはるんでっせ。社長さんな、アリス・イン・ワンダーランドになったみたいやちゅうてはりますわ。そんなこと、ゆうたら可愛いアリスさんが可哀想やけどな。 今の社長さんな、来はってから、目で見る管理や、表にせぇー、グラフにせぇーてうるさいほど言わはるんですわ。 そんで、来はってすぐに、時計を買って来い、インドの地図を買ってこい、壁にボードを貼れ、会議室に黒板ちゅうか、白板を買ぇーちゅうて、部屋中をボードだらけにしはりましたわ。 そして、日本に一時帰国されますとな、マグネットの玉や棒みたいなもんを買って来はりますのや。 この前は日本人形や日本の景色のついたマグネットを買うて来はりましたで。 日本て、100円ショップちゅうのがあるらしいでんな。社長さんな、そこで買うて来はるらしいわ。 社長さんな、その100円ショップちゅうのがえらい好きらしゅうて、その他にも、黄色いマーカーや鉛筆や、ビニールファイルや、なんやかんあ、全部そこで、ぎょうさん買うて来はるみたいでっせ。   そんでや、社長さんな、営業には壁に掛けた地図に納入先の名前と機械の型式と写真を入れた紙をはって表示せえ、ボードには見積もり案件を一覧表にして張り出せーでっしゃろ、メンテには設備の仕様書を張り出せぇー、メンテ予定表を張り出せぇーですわ。 前の社長さんのときの部屋の雰囲気がまるっきり変わってしまいましたがな、えろーにぎやかな事務所になりましたで。 そんでね、ちょっと古うなったデータをいつまでも、張ってますとな、『何ですかこれは。いつの時代のものですか。ここに張り出してあるものは、あなたたちの今の頭の中にあるものですよ。あなたたちの今やってる仕事は、過去のものですか』って、嫌味を言わはるんでっせ。   嫌味といえば経理が最近では、一番の被害者ですわ。 なんせ社長さんと一緒に毎日二階におりますもんね。 社長さんな、来はった年の年末に帰らはった時に、机の上に置く一ヶ月毎のカレンダーを経理に渡して、『これに一ヶ月の予定を記入しなさい、そして毎日その予定を見て、一日が終わったら、その日の実績を記入しなさい』ってやってましたけどな、これあきませんな。 インドの場合は電気や電話の支払いが不定期なんですわ。 メールで来たり、代理店が持ってきたりですわ。 それに、入出金や外国人登録から昼飯の手配まで経理が一人でやってまんのや。 経理に言わせると、そんなんや、あんなんで、書類のファイルも満足にする時間もありませんちゅうのですわ。するとな、社長さんな、運転手のワテに経理を手伝ぇーですわ。 そして、キングファイルを買って来い、旧式の留め具やのうて、新しい留め具のやつですわ。 そんで、ワテがファイルを買ってきますとな、経費ごとにまとめて仕切れぇー、月別にせぇー、担当者別にせぇー、って、ワテがファイルばっかせなアカンのですわ。 社長さんな、経理ばかりか、営業にも、まずファイルがしっかり出来ん奴は、頭の中が整理でき取らん証拠やちゅうてはりますんや。その割にはご自分の机の上は書類だらけですけどな。 そんで、ワテは運転手の仕事のほかに、ファイルは買いに行かされるし、請求書を受け取って来なあかんし、支払いに行って来なあかんし、ファイリングせなあかんし、えらい忙がしゅうなりましたわ。 それに、経理がワテを部下みたいに使い出したんがちょっと気にいりませんのや。 ワテの方が年はちょっと下ですが、入社は経理よりも、営業よりも、メンテよりも、それに社長さんよりも先輩なんでっせ。   そんで、社長さんな、経理にも壁一杯の大きなボートを買うたりましたんや。今度は、それに一ヶ月のカレンダーを書いて、予定を入れろ、未処理案件を書き出せぇー、終了予定日と実際の予定日を記入せえー、未処理案件は毎日確認せえって言ってはりますのや。   そんなん、予定立てろって言うても、インド人には無理でっせ。インド人は、やるかやらんかが問題で、いつ、やるかちゅうとこは関係おませんのや。 そんなん、社長さんも、ご自分が好きなインドの神話を読んでもらえば分りそうなもんですわ。 日本の神話には嘘かホンマかしらんけど、一応ちゃんと年代が書いてあるそうでんな。 そやけど、インドの神話はいつの出来事かわかりませんのや。 ビシュヌさんなんか10も、20も変身しまんのやで、時間を追っておったら話しが進みませんのや。 それに、時間が書いてあっても何万年とか、何億年とかメチャクチャ長い時間ですんや。わかりますやろ。インド人に時間の感覚がないんのが。   そんで去年の末ですわ。 社長さんな、お客さんに配るちゅうてダイアリーブックを200部も注文しましたんや。 そして、ワテら一人一人にもそのダイアリーを配らはって、これで毎日やることを記入しなさい、朝の打合せの時に使用しなさいって言わはったんですわ。 ワテな、英語はしゃべれますけどな、書くことが苦手なんですわ。 運転日誌でも、社長さんから、これはamですかpmと書いてあるのですか、この訪問先は何と書いてあるのですかって、毎朝いじめられているんでっせ。 でもね、去年までは、ワテだけ契約社員やったんやけど、今年からは正社員にしてもらったんでっせ。運転手やから勤務時間は他の正社員とはちょっとちゃいますけどね。 労災にも入れたし、それに、出張に行きますとな、日当のほかにワテとメンテマンだけ残業代がつきまんのや。有難いことですわ。 やけど、社長さんな、その出張日当や残業代の申請書にサインしはるときに、これは何時から何時までの残業ですかとか、市外へ行く特は昼からの出発や、午前中の戻りは半日扱いですよとか、きびしゅうチェックしはるんですわ。 それに最近は車に給油するたんびに、走行距離を給油リットルで割って、リットル当たり何キロ走れるのか毎回計算してくださいとか、一日に何キロ走ったかをその日の終わりのマイレージからスタートした時のんを引いて計算してくださいとかす言わはる時がおますんや。 休みの日にワテが勝手に車を使ってると疑っておらはるんやろか。 車は日本人社員さんのアパートの駐車場に置いてくさかい、そんなこと出来んこと知ってはりますやろにね。 ちょっと前の日曜日に、社長さんがその社員さんのアパートに昼ごはんを食べに行かはった時に、車が無かったんで、次の週に、どうして車がアパートになかったんやと聞かれたことがありますわ。 ワテは、ちゃんと社長さんに、座席カバーが汚のうなったんで、車をワテの家に持って入って、その座席カバーを洗っておきますって言ってあったんやけど、それを忘れはったんやろね。 今度は社長さんに、ご自分で目で見る管理してもらわなアカンと思ってる今日この頃でんねん。   ワテな、今日も、経理と銀行へ行くゆうて出てきてまんねん。 経理な、今、そこの銀行へ行ってまんねん。そんでワテわ、ここでチャイを飲んで休んでますのや。 あっ、経理が銀行から出てきよったわ。 早う、帰らんとまた、あの社長さん、うるさいさかいに、ほな、帰りまっさ。さいなら、さいなら。 丹羽慎吾