シンゴ旅日記ジャカルタ編(20)  日帰り旅行 その1 ボゴール植物園の巻

日帰り旅行 その1 ボゴール植物園の巻 インドネシアの草花が見たくなり、ある日曜日にボゴール植物園(クブン・ラヤ)に行きました。 しかし、そこは樹木が主体でしたので、期待したように沢山の草花を見ることができませんでした。 (ウィキペディアからの抜粋) ボゴール植物園はクブン・ラヤ(大植物園)といって、世界でも有数の大きな植物園です。植物園の面積は80ha以上あり、15,000種以上の植物を見ることができます。オランダの統治時代にボゴールはオランダ人居留地として発展しました。そして、ボコール植物園も元々は蘭印総督府の庭園だったのです。その後、一時的にジャワ島の支配が英国に移った1812-1816年に、ボロブドール遺跡を発見したり、巨大な花のラフレシアの発見で知られる英国人のラッフルズ(1781年~1826年、シンガポールの創設者)がボゴールに居住し、庭園も改造してイギリス風庭園としたのです。そして、英国の撤退後にオランダの所管に戻った1817年に正式に植物園として開園しました。この植物園はオランダの植民地経営がもたらしたアジアにおける輸出産品・育種研究の歴史的遺産の一つであり、タバコ、コーヒー、キャッサバ芋等の普及はボゴール植物園なくしては語れないとまで言われています。この他にも天然ゴムや茶,コーヒー,コショウ,サトウキビ,綿花,オイル・パームなどはこの植民地戦略に基づいて世界各地で栽培されるまでになったのです。日本の統治下では、植物園と標本館ともに、植物学者の中井猛之進が園長に就任し、日本軍隊からの大木の伐採要請を拒否して園を守ったとされています。 私と運転手さんは朝の7時にチカランを出発しました。 ボコールへの高速道路は混んでいなくて、9時前にボゴールの町に入りました。 歩道にはトレーニングウェアーを着た大勢の人たちが歩いていました。 運転手さんが休みの日はウォーキングが盛んであると説明してくれました。 朝食を食べて居たかったので運転手さんと植物園の近くのKFCに入って腹ごしらえをしました。 店内は多くの人たちで混雑していました。 インドネシアもファーストフードのお店が人々の生活に溶け込んできたのでしょうね。 その後植物園に行きました。入場料は一人16,000ルピア(約130円)でしたが、赤十字財団の寄付みたいなものを1,000ルピア(約80円)追加されました。 入場するとすぐに園内の案内板があり、それを見てどちらから回ろうかと運転手さんと相談しました。園内はあまりに広いでの一日では回り切れないだろうから、右回りに外側を歩いて行くことにしました。まず最初に歩いたところは道路の両脇がヤシの木ばかりのところでした。 そして歩けども歩けども大きな樹木ばかりでした。 私は歩きながら運転手さんに本で仕入れた植物のにわか知識を披露して行きました。 園内にはシードバンクの棟もありましたが、そこは閉まっていましたので、外側から窓を通して中を眺めると、いろいろな植物のタネが展示してありました。 また売店があり、お土産品として食虫植物のウツボカズラやハエトリクサも販売されていました。 私は運転手さんにこのように昆虫を食べる植物があるんだよと説明すると彼はびっくりし、ウツボカズラの中を覗いて虫がいるのを見てこれまた驚いた表情をしていました。 園内をどんどん歩いて行くと、高い木々ばかりに出合いました。 あるところでは太い、大きな木が二本並び、空に向かって高くそびえて立っていました。 私が商社の木材部時代にインドネシアから輸出したメランティ(フタバガキ科)の大木でした。 板根とは 樹木の地表近くからの側根の上部が平板状に著しく偏心肥大し樹木の支持や通気の働きをする根のこと。熱帯雨林の高木やマンぐろーず植物に多い 園内を右回りにどんどん歩いて行くと守衛さんが立っている門がありました。 そこは大統領の住むボゴール宮殿でした。デヴィ夫人も住んだところなのでしょうね。 ボゴール宮殿の建物は、1834年のサラック山の大噴火の後に再建されたもので、歴代のオランダ総督とイギリス総督一人 (ラッフルズ) そして戦中のジャワ島司令官だった今村中将が住んだ歴史があるそうです。   初代園長ラインヴァルト(1773年~1854年) ドイツ生れ、アムステルダムで植物、化学を学ぶ。 インドネシアがオランダの所管に戻った1817年にボゴールに着任。ジャワ人が家庭や医術で使用する植生の収集に乗り出した。農業と園芸におけるプロモーションを目的に、整備が進んだ。 在任中の1822年までに、約900種を47haの敷地に栽植・整備した。(ウィキペディアから抜粋) 日曜日でしたので植物園のあちこちでは家族連れ、会社のグループ、友達同士たちがあちこちに座り、食事をしたり、中にはカラオケをしているグループもありました。 私たちは9時前に入園し三時間以上歩き通しでしたので、ちょっと疲れ、お腹も空いてきました。 私は運転手さんにまだお昼だし、もっとお花が多い公園が近くにないか調べてもらいました。 すると、スマホで調べていた運転手さんがありますと答えましたので、そこへ向かうことにしました。 Callicrpa Jopanica クマツヅラ科ムラサキシキブ属の落葉低木。湿り気の多いところを好む 6月ころに淡い紫色の花を咲かせるが晩秋まで残る美しい紫色の実の方が印象的である。花の名は源氏物語の紫式部に由来する。 KFCの駐車場まで戻り、そこから花の多い公園をめざしました。 途中でスンダ料理のお店で食事をとりました。 食後に高速で花の多い公園を目指して高速道路を走っていると、渋滞に出合いました。 車がちっとも進まないので、その花の多い公園には次の日曜日に出かけることにして、その日の旅行は切り上げてチカランに戻りました。 大航海時代とモルッカ諸島(香料諸島) 15世紀初めからポルトガル、スペインによる大航海時代が始まりました。 そしてそれにオランダや英国などが加わりました。 大航海時代が始まった理由はインドネシアのモルッカ諸島で獲れる香辛料(ナツメグ、クローブなど)を獲得することであったと言っても過言ではないと思います。 香辛料は当時の西洋諸国において高価な商品だったのです。 それまでの地中海経由、イスラム商人経由でなくヨーロッパ諸国がインドネシアを目指したのです。 日本に初めてキリスト教をもたらしたイエスズ会のザビエルもポルトガルの商人、軍隊など一緒にアジアに来ました。 ザビエルはモルッカ諸島にも布教に出かけ、そしてマレーシアのマラッカで日本人のヤジローに出会い、日本に興味を持ち来日したのです。 一方、スペインは西回りで香料を入手できると思い、南北アメリカ大陸に向かいました。 歴史って面白いですね。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(99)ワテは運転手(コチ)の巻

シンゴ旅日記インド編(99)ワテは運転手(コチ)の巻 ワテは会社の運転手でんねん。社長さんは日本人ですわ 。 ワテな8月15日の独立記念日の休日に休暇を4日半もらって土日をくっつけて 7 日間の休みをもらいましたんや。 独立記念日は1847年の8月やさかい、今年で65回目なんですわ。 日本では今年は67回目の独立記念日なんですってね。 何でワテが七日間も休みを取るのかってですか? それは、ワテの 従兄弟 の結婚式にコチちゅうとこに行くんですわ。 結婚する従兄弟ちゅうのは、死んだオカンの弟の息子ですわ。 コチは昔でいうコーチンですわ。最近の地方語優先の風潮でコチちゅうて、名前が変わりましたんや。ボンベイがムンバイ、マドラスがチェンナイと変わったんとおんなじですわ。 そや、今日はコチをコーチンって言いますわ。 コーチンは南インドのケララ州の町ですわ。州都はトリヴァンドラムで、州の人口は33百万人ですわ。南インド言うたら、チェンナイのあるタミール・ナド州、バンガロールのあるカルナータカ州、ハイデラバードのあるアーンドラ・プラデシュ州、そしてコーチンのあるケララ州で、インドの南部 4州って呼ばれてますんでっせ。 それぞれの州はタミール語、カンダナ語、テ ルグ語、マラヤーラム語が主要言語なんですわ。みんなドラヴィタ系の言語で文字も、ちょっと似てるようで違うんでっせ。 プネからコーチンまででっか、そりゃ、電車で 丸一日かけて行くんですわ。飛行機なら二時間もかからんと行けますけどね。 プネから電車に乗ってコラプールちゅう、内陸の町を通って、ご存知のゴアちゅう港町に出て、それか ら海岸沿いをずーっと走ってく電車なんですわ。ケララ・エクスプレスちゅうんですわ。 料金でっか、片道1500ルピー(2100円)ですわ。二段ベッドの寝台列車でAC付でっせ、料金は三段ベッドよりもちょっと高いけど、個室よりも安いんですわ。 プネから弟と妹と妹の息子と結婚式に行きますんや。弟は仕事の都合で後で来るちゅうんで、妹と甥っ子と一緒の電車で行きますんや。 コーチンより途中停車するゴアの方がもっとエエ町なんでっせ。 ここは歴史があって、海もきれいで、外国人観光客もおおて、アカン、アカン、話題が逸れそうやから、コーチンの方に戻りますわ。 コーチンもゴアに劣らず昔からの歴史ある港町なんですわ。ともにアラビア海に面してますやろ、昔からローマ帝国とか、イスラム商人とか、ポルトガルと、オラン ダとか、イギリスと商売したりしてたとこですわ。 そやから、ほかのインドの町と比べて、結構、早うからキリスト教が入って来てましたんや。 そんで、コーチンの町は大きく分けて三つに別れますんや。東側が鉄道やバスのある内陸部分で、その隣にウィリントンちゅう人 工の島があって、その隣がアラビア海に面したフォート・コーチンで すわ。この昔からの風情を残すフォート・コーチンが見所ですわ。 そこにはポルトガルの航海士のヴァスコダ・ダ・ガマ(1469年?~1524年)の墓のある教会がありますんやで。遺体はポルトガルに送られたんやけど、その後が残ってますわ。その教会の名前は聖フランシス教会ちゅうんですわ。 ポルトガルはカトリックやけど、その後に来たプロテスタントのオランダが1663年からコーチンを占領したもんで、教会はプロテスタントに変わってもうて、オランダ人のお墓もあるんでっせ。 その教会の近くには、同じようにポルトガル時代に作られたもっと古い教会で、サンタ・クルス聖堂がおますんやで。 それに、ポルトガル時代の1555年にコーチンの藩王につくられた宮殿が、その後に来たオランダの総督の屋敷になったんで、ダッチ・パレスと呼ばれるニ階建ての建物がありますんや。今は昔のまんまの家具なんかが展示されておって博物館みたいになってますわ。ユダヤ教の礼拝堂シナゴーグもありますんやで、紀元一世紀ごろにローマ帝国に滅ぼされたパレスチナのユダヤ人が、商人になって世界各地に散ったんですわ。 その一部がインドの西側や東側にやってきたんでっせ。コーチンではユダヤ人町ができるくらい大勢 いたんですわ。香辛料貿易を一手に引き受けていたんでっせ。 そやけど、コーチンのユダヤ人は『十分にユダヤ的であり、インド的である』といわれたんですわ。 きびしいユダヤ教のしきたりを守ったんやけど、生活にヒンドゥー教を取り入れたりしたんですって。けど、1948年にイスラエルが建国されると、みんな行ってもて、もう3家族しかおらんちゅう話でっせ。 教会は無料で入れるけど、ダッチ・パレスは一人10ルピー払わなあきませんのや。それに写真の撮 影が禁止なんですわ。 シナゴーグですか、ワテは入ったことないんで、入場料がいるかどうか分かりませんのや。そうそう、フォート・コーチンの一番北の海岸沿いではチャイニーズ・フィッシング・ネットを使った魚取り を見ることができますんやで。 石のオモリと人力で、沈めたり上げたりする網がズラーっと、海岸沿いに並んでおって、そこで取れたての魚を道端で売ってまんのや。 それにお土産屋さんも道端に並んでおって、ちょっとした観光地ですわ。そやさかい、見学にくる外国の人も多いんでっせ。インド人かて、ようけ見に来てまっせ。海鮮レストランや、バーなんかもありますわ。けど、お酒はゴアの方が安いんでっせ。税金が少ないからですわ。アカン、アカン、どうしてもゴアが出て来てしまいますわ。 博物館と言えば、つい三年ほど前に出来て、個人が集めたものを展示してるForklore Musiumちゅう博物館は見ものでっせ。 入場料は200ルピー、カメラ持ち込みは50ルピーとちょっとお金を払わなあかんけど、紀元前からの遺物なんかも集めたちょっとした博物館ですわ。入口で裸足にならないけませんで。 そんで帰りには受付でコメント書いたりできますよや。その博物館を紹介した40分もののDVDを200 ルピーで売ってますんやで。 またコーチンは、そりゃー、なんといっても、食いモンですわ。 海のすぐ側やさかいに、お魚、エビ、カニ、イカなんでもありですわ。料理方法も外国人観光客が多いよってに、ヨーロッパ風やったり、日本の天ぷら風な盛り付けもある んでっせ。社長さんが来はったったら、毎晩ワインと海鮮料理でニコニコ顔やろうね、きっと。 えっ、ワテらが長いことコーチンに行って、どこに泊まるのかってですか。心配いりませんのや。 ワテの叔父さん、国立の銀行勤めですんや。その奥さんは国鉄勤めですわ。 その子供たち、ワテの従兄弟たちは、ガルフ(中東)に働きに行ってますんや。そんで、今度結婚する従兄弟はガルフから帰って来て、なんや商売するらしいですわ。そんで、叔父さんの家かて、フォート・コーチンの海岸沿いにある、めっちゃ広い家なんですわ。ワテら兄弟家族が何人行っても泊まることができるんでっせ。それに、結婚式は二日続きですがな。まあ、大勢の人が集まると思いますわ。オカンですか?男2人、女4人おる兄弟だったんでっせ。 みんな、政府や大きな会社に勤めてますんや。ワテだけですわ。運転手やってますんわ。トホホですわ。 あっ、そうそう、ケララ州は識字率(リテラシー)がインドで一番高いんでっせ。それにキリスト教徒が多くて、英語を話す人も多いんで、街の中の看板は英語表示が多いんですわ。 いっぺん、行ってみなはれ、コーチンはエエとこでっせ。 日本も土佐のコーチンちゅうところは海の町らしいでんな。海鮮料理が『ごじゃんとうまい』って言うらしいそうでんな。ほな、ワテ、ちょとコチへ行ってきますわ。 ワテがおらんでも忘れなさんなよ、『コチ吹かば思い起こせよ』ちゅうやつですわ。ほな、さいなら。 付録:Forklore Meseum ミニ案内 三階はステージになっていて、定期的に民族踊りなどを上演します。 丹羽慎吾

新加坡回想録(47)キンタマーニ(バリ島)でゴルフ

その名前を聞くと、日本人なら誰でも「えっ!」とちょっと驚きを隠せない名前ではあります。でもご心配なく、これはれっきとしたインドネシアにある山の名前です。キンタマーニはデンパサールから車で約2時間半ほどに位置する標高約1500mの高原で、バリ有数の避暑地、リゾート地です。 アグン山(2153m)、バトゥール山(1717m)など高山に囲まれ、自然豊かな環境にあります。バトゥール湖は三日月形のカルデラ湖で、活火山であるバトゥール山のクレーターによりできたものです。湖畔には温泉も湧いており、外輪に、キンタマーニ、バトゥール、ペネロカンの村々があります。 ある時、出張でこの地に行くことになりました。というより、どうしても行ってみたかったので、仕事で行けるようにと必死になって商売を作ったというのが本音です。 当時、シンガポールには「Y」という日本のデパートが進出し成功をおさめていました。駐在してすぐ、仕事のあまりなかった私は、すぐにこの会社を訪ね、日本人マネジャーKと毎週末、プライベートでゴルフをして仲良くなっていました。食品関係で何か新しいことを起こそうとすると、やはり現地で力を持った会社を相手にするのがベストでした。 バリ島に何処か商売になりそうな会社がないか調査したところ、缶詰メーカーBがあることがわかりました。製造している商品の中にツナ缶がありました。一方、Yデパートのツナ缶売り場には、いくつかのブランドが取り揃えられ並んでいました。そこで、担当のマネジャーに持ち掛けたのは、「Yデパート」のPB(プライベートブランド)を作らないかという話でした。 マネジャーKは、ツナ缶のPBを作るという話は、今までどの会社からもなかったことで面白いと反応。後は、品質がきちっと管理出来て採算が取れるならやってもいいといい返事をくれました。PBの話は、販売量が増えて一定の数量を超えれば、日本のスーパーなどどの会社も考えることで新しい話ではありませんでしたが、時と場所が違えば成りたつ話でした。 ・・・と言う訳で、バリ島に行くことになったのです。朝一番に飛んで、缶詰工場を訪問し、工場の衛生管理を中心に如何に品質が保たれているかを中心に見学しました。ついでに、エビの養殖場を回り次の商売のネタをさぐりつつ無事に仕事を終えました。週末に合わせていたので、宿泊はキンタマーニ山の頂上にあるホテルに泊まりました。 このホテル、標高が高いので部屋には暖炉がありましたが、夜中に寒くて目が覚めるほどでした。こんな南の国に来て暖炉に当たるというこれまた貴重な経験をしました。翌朝はゆっくり起きて、併設されているゴルフ場でたっぷりとプレーを楽しみ帰国の途につきました。マネジャーKは大喜び。おかげで、ツナ缶の輸入もうまくいき、その後も同社とは良い関係が続きました。 (西 敏)

追憶のオランダ(76)赤ちゃん誕生

どこの国でも赤ちゃんの誕生は喜ばしく、家族でなくとも微笑まずにはいられなくなる。住んでいる近所を散歩していて、ふと気づいたことがあった。あるお宅の玄関先に色とりどりの風船や様々なもので飾り付けをしているのだ。何か祝い事があったかとは思ったが、後で聞けばその家に赤ちゃんが生まれたことを知らせるサインとのこと。ああ、こうして皆にも知らせるのか、なかなかいい風習だと感じた。 それから、会社の同僚に赤ちゃんが生まれた時のこと。生まれたと聞いて、しばらくして彼が社内の皆に何やら持ってきたらしく、賑やかな声が聞こえてくる。彼が持ってきて皆に振舞っていたのは、ラスク(オランダではBeschuitという。発音はビスハウトに近い。)の上に水色(薄いブルー)のなにか粒々の、どうもお菓子のようなのだ。それは赤ちゃんが生まれた時に周りに振舞うオランダ特有の習慣らしい。オランダ人が大好きなアニスシードに食用色素で色を付けた砂糖で固めてある子供の誕生を祝う定番のお菓子なのだ。男の子の時は水色、女の子の時はピンクということらしい。さっそく、ご相伴にあずかった。大抵の日本人はこのアニスというのがあまり得意ではないらしく、私がそのお菓子を平気で食べるのを見て、その同僚はとても驚いた顔をするのだ。彼は、もしかすると私は多分このお菓子を食べないかもしれないと思っていたようだ。しかし、私は彼の予想を裏切った、全く大丈夫。それ以前にも、私はオランダ人が好きなドロップという一見那智黒という黒飴のような色のアニス味の飴を平気で食べているのを見て驚かれたことがあったが、彼はその事実を知らなかったのだ。「あ、そうか。お前はドロップも食べるのか。」と改めて感心されてしまった。 そのお菓子は、粒々のアニスシードの実の部分は砂糖がかかっているがこの実には特有の髭が出ているので、これがアニスシードであることは食べる前から分かった。この砂糖で固めたアニスシードの菓子のオランダ語の呼び方がこれまた面白い。Muisjes(ちっちゃいネズミちゃんという意味。発音はマウシェスに近い。)という愛称なのだ。おそらく形から発想した名前だろう。砂糖で固まったところがネズミの胴体、アニスのひげの部分がネズミの尻尾に見えるから?上の写真ではひげの部分がよく見えない。この解釈が正しいかどうかはオランダ人に確かめてはいない。ともかく、ラスクにこのmuisjesをのせたもの(Muisjes op beschuitという)を皆に振舞って赤ちゃんの誕生を祝うのである。  

シンゴ旅日記ジャカルタ編(19)  日帰り温泉地チアテルの巻の巻

日帰り温泉地チアテルの巻 (2017年10月記) 温泉と言ってもインドネシアの温泉と日本の温泉のイメージは異なります。 日本では温泉とは海や山にある大きなお風呂や露天風呂に裸でゆったりと浸かってリラックスするものです。そして美味しい地元の料理を食べたりします。インドネシアはそうではないのです。 私の今回を含めて二度目のインドネシアの温泉での経験からすると、こちらでいう温泉は山あいの小川に温かい水が流れ、そこで足湯、腰湯をするものです。そして、温泉地には家族、友人と行き持参した料理を一緒に食べるというピクニック気分だとだと思います。 私は先月末に中部ジャワのグチの温泉地に行ってから、インドネシアの温泉地に興味を持ち、きっと他には日本のように肩まで熱い湯に浸れるところがあるのではないかと期待しました。 それで会社で部下たちにジャカルタ、チカランの近郊にそんな温泉地がないか尋ねました。 そして勧められたのがバンドン近郊のチアテルでした。 ある日曜日に日本人部下と出張者とでそのチアテルに出かけることにしました。 チアテルに行ったことのある私の運転手さんが道案内を兼ねていました。 チアテルはジャカルタからは150km、私の住むチカランからは110kmの所にあります。 ネットでチアテルの写真を見ると、立派なホテル施設あり、サバイバル遊園地あり、そして美女たちが川の周りでポーズを取っている写真が紹介されており、私は期待に胸を弾ませるばかりでした。 朝8時にチカランを出発しました。 一緒に行った二人は私がタイ、インドに駐在時に機械の製作や据付で来てくれた気の置けない若い仲間でした。チアテルに向かう車中では一緒に仕事をしたころの楽しかった思い出や、ほかの仲間の失敗談などで語り合っていきました。 チアテルはバンドンの北35kmの所にあります。 バンドンへはチカランから高速道路に入り、途中の分疑点で右(南)に向かうのですが、我々はそこを曲がらず、そのまま真っ直ぐに東に進み、スバンで高速道路を下りて田舎道に入りました。 スバンの町並みを過ぎて田舎道に入ると道路脇ではパイナップルを売る小屋が立ち並んでいました。それを過ぎるとお茶畑が続く丘陵地帯でした。 あとで知ったのですがチアテルはタンクバン・パラフ(ひっくり返された船)という標高2,076mの火山の麓に位置する温泉地なのです。 この山の由来にはインドネシア人が誰でも知っていると言う有名な昔話があります。すみません、それを知りたい方はネットで『インドネシアの民話「サンクリアン」(Sangkuriang:タンクバンプラフの起源)』で検索してみてください。ギリシャ神話かディズニー映画にも出て来るような昔話なのです。 私たちは10時半に目的地のチアテルに到着しました。車で通過するゲートでひとり32,000ルピア(270円)、車30,000ルピア(250円)の入園料を払いました。 .私たちは土産物屋さんが回りに並ぶ駐車場に車を止め、車を降りて運転手さんと一緒に遊園地に向かいました。 入口近くではガメランの生演奏とラーマヤーナに出て来る人形の歓迎を受けました。チアテルの温泉地に来たことがある運転手さんの案内で園内を歩いて行くと、ここも山から流れている熱い湯の谷川を利用した温泉地であることがわかりました。 最初にあったのが足湯でした。リュックを背負ったまま湯に足をつけるとかなり熱いお湯でした。 そして足湯を終えて、谷川に沿って坂を下っていきました。 するとネットで見た広い池があり、多くの人々が腰湯をしていました。 しかしネットの画像に写っていたような若く美しい女性たちはいませんでした。 そこで湯に浸かるのかなと思っていたら、運転手さんがまだ先がありますと言って、私たちをその先に案内してくれました。 すると、人々が浸かっていた池から流れる水が滝となり、狭い谷を流れ、その両側が休憩所になっているところに出ました。その休憩所では家族連れがピクニックよろしく食事をしていたり、上半身裸で横になって気持ちよさそうにマッサージを受けている人たちもいました。 私たちはその休憩所を一周して池に戻り、近くの更衣室の入口で2,000ルピア(17円)を払って水着に着替えてから、池に向かいリュックなどの荷物を運転手さんに預け、池の中に入っていきました。池の底は丸い石が敷き詰められていてまるで川原をはだしで歩くようで、歩きにくいものでした。 それでも、慎重に前に進み、ちょっとした滝に打たれたり、三人で腰を下ろして湯に浸かりました。 私は体全体で湯に浸かりたいと思い、倒した体を後ろ手で支えようとしたら片足が上がってしまいました。その姿勢からシンクロナイズド・スイミングみたいに両足を水面に出したポーズとなりました。 それで、他の二人にも同じようなポーズを取るように言うと二人は恥ずかしがっていましたが意を決して私の真似をしました。それを荷物の番をしていた運転手さんが写真に撮ってくれました。 池から上がり、次にはいくつもの大きな急須から流れ落ちる湯を頭から浴びるところに行きました。 そこで三人で頭から湯を浴び、急須の出口を手でふさぐと他の出口の湯の流れがどうなるかなどして遊びこれで温泉も終りかなと思っていたら、運転手さんがまだ別の温泉があると言って、今度は下りて来た坂道と別の道を登って行きました。 すると湯けむりを立てて流れ落ちる滝が見えるところに出ました。 写真に撮っても湯けむりか水煙がわからないだろうねと言いながら記念撮影を取りました。 滝の場所から少し登って行くと、洋弓射撃場、カラーボールを使った戦争ゲーム場、そして薬草の足湯かと思ったら魚が古い皮膚を食べてくれるスキンケア―の池がありました。 そして歩いていると運転手さんがここにはプールもありますと言うので、私たちはそこに行くことにしました。運転手さんはプールの外でコーヒーを飲んで待つといいました。 プールの入場料はひとり45,000ルピア(380円)でした。プールは広く、深さによって二つに仕切られていました。十分に熱かったので泳ぐことよりも、ゆっくりと浸かることにしました。 ちょっと湯の中に潜ると少し塩分が混じっているのか目を開けると刺激がありました。 水中眼鏡(古い表現ですねえ)を持ってこなかったのを後悔しました。 プールから上がると12時近くになっていました。待ち合わせした運転手さんが、ここから5km先にタングバン・パラフと言う火山があると言って携帯で写真を見せてくれました。 私たちは折角ここに来たからとその火山に行くことにし、行く途中で食事をしようと言うことになりました。チアテルを出発し急な坂道に建っている食堂で鶏、ヤギ、ウサギのサテを食べました。 食事を終えて、さらに車で走り、火山の登り口に着くとゲートがあり入山料を支払うことになりました。 いくら支払うのかと運転手さんに聞くと、窓口の人が私たちにKITAS(滞在許可証)はあるかと聞いているというのです。 滞在許可証のあるかないかで入山料が違うのです。滞在許可証がある外国人の休日料金はインドネシア人と同じ3万ルピア(250円)で、それがないと30万ルピア(2,500円)とのことでした。 そして車は35,000ルピア(290円)支払う必要がありました。 平日料金はそれぞれ20,000ルピア(167円)、200,000ルピア(1,670円)でした。 それにしても10倍とはインドネシア観光局も考えねばなりませんね。 私はインドの観光地にも同様に外国人価格があったことを思い出しました。 ゲートを過ぎ山頂に向かう山道は急で、曲がりくねり、日本のように安全対策がとられていなので下りて来る車とすれ違う時はスリルのあるものでした。山頂では執拗な土産売りの人たちと楽しく会話し、ガイド代わりに火山の説明を聞き、景色を堪能してチカランに戻りました。 何年か前までは火口まで下りて行き、足湯などが出来たそうです。現在は火口を一周するコースも歩く場所が制限されています。 丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(98)ワテは運転手 倒れつながりの巻

ワテは運転手でんねん、ご主人は日本人ですわ。 先週は大変でしたわな、雨季がやっと来たかなと思ったら、大雨ですがな。 そやそや、会社からの帰りですわ。 いつも、社長さんを先に降ろして、そして日本人社員おふたりさんをお届けするんですわ。 朝はその逆ですけどね。 社長さんのアパートは町の中やのうで、植物園や競馬場の近くなんでっせ。 近くにちっちゃいお店があるだけですわ。 そんでもって、大きい道から、ちょっと小道に入らなアカンのですわ。 先週の帰りに、その小道に入りましたらな、すぐ前にいた乗用車が急停車して、Uターンを始めましたんや。またかいな、インド人特有の行き先間違いかいな、と思って車停めて待ってたんですわ。 そんで、その乗用車が後ろに行きよったさかいに、前に出ようとしたら、あきませんがな、木が倒れて道を塞いでましたんや。 これやったんかいな、乗用車がUターンしたんわ、と思いましたわ。 ワテらも、Uターンですわ。 路地にバックして、Uターンしようとしましたらな、社長さんが、ちょっと待てちゅうて、車を降りて写真を撮りに行かはりましたわ。 そんで、Uターンして大きい道に戻って、もう一本先の道を右に回って、軍人さんの住宅街を通り抜けて社長さんのアパートへの道に出ましたがな。 社長さんな、こんな抜け道があったんかちゅうて、窓から外を見てはりましたわ。 そして、そやそや、ここで会社からの道とぶつかるんや、休みの日には時々ここを自転車で通っとるちゅうて言わはりましたわ。社長さんのアパートから日本人おふたりさんのアパートへ行くんは、来た道と違う方向へ行くさかい、木が倒れとった道は通らんでエエのですわ。 そんで、次の日の朝ですわ。社長さんを迎えに行って、前の日の道を通りますとな、通れましたんや。 倒れた木が車が通れる位に切ってありましたんや。 社長さんな、ちょっと車を止めぇって言わはって、また写真撮影でんがな。お好きですな写真撮るのが。 そんで、その日は午前中に、珍しく社長さんと営業マンが車の一時間のお客さんところに行くことになりましたんや。 なんでも機械の据付状況の確認らしいですわ。 そんで、お客さんのとこに行って、用事が済んで、事務所に戻るんが、昼をちょっと過ぎたんで、ランチを買って帰ろうちゅうことになったんですわ。 ワテがいつもノンベジのランチを買う店に行きましたんや。そんで道端に車を停めて、ワテはランチ買いに出て、社長さんと営業マンが車の中で待ってましたんや。 ワテが、ランチを買って、持って、車に戻りますとね、社長さんが、車の外に出ておって、歩道に立ってますんや。なんやろうなて思うたら、ここも雨で木が倒れてて、その木がノコギリで刻んでありましたんや。 社長さんの側に行きましたな、社長さんがちょっと見てみい、この木は幹がえぐれてる木で、そこに歩道を掃除するホウキなんかがしまえるようになっておる。そして、集めたゴミをそこで燃やした跡があるって言わはるんですわ。ワテはそんなもんかなあって思って、ランチ持って車に乗りましたわ。   車に戻った社長さんが言ってはりましたわ。 シンガポールやタイでもそうやった、日が射すから、雨に濡れるからと言って木陰に車を置いて、戻って来ると、大きな枝が車の上に落っこちて来ておったりしたそうですわ。 先週は、そやそや、社長さんがデジタル表示のメーターが付いたオートの話題もありますわ。 ワテら、滅多にオートに乗らへんから、知らんへんかったけど、デジタルのメーターが付いたオートが、最近はあるらしいでんな。 その日は、あれですわ。ワテ、最近ちゅうか、雨季になりますとな、痛めた右肩が痛みますんや。 ディスロケーション、つまり脱臼したことがあるんですわ。 昔、教会で高いとこに飾り付けしようとして、落っこちて脱臼したんですわ。 そんで、その日は午後から医者に行くちゅうて、会社を早引きさせてもらったんですわ。 そんで、社長さんや日本人社員さんはオートでアパートに帰りなはったんですわ。 その次の日ですわ、社長さんを迎えに行くと、社長さんな、ドア開けて、席につくなり、乗ったでぇ、乗ったでぇ、デジタル表示のメーターが付いてオートに乗ったでぇ、って興奮してじゃべり始めたんでっせ。そして、日本人社員さんにしつこい位、何が書いてかった、料金体系はこうやったって説明してはりましたわ。それから、社長さん、デジタルと違って、旧式のオートのメーターの場合は距離が表示されておって、オートを降りる時には、運転手が体を後ろに向いてメーターで距離を確認して、料金換算表をポケットから出して、いくらやって言うとか、社長さんのアパートからモールに買い物に行くと、行きはメーター料金で支払ったけど、帰りにモールのオート乗り場では、社長さんのアパートに行くとその帰りにお客がいないちゅうて三倍もの料金をふっかけられるとか話してはりましたで。 社長さん、そんなに、興奮するほど、デジタルのオートの料金表が珍しいんでっしゃろかなぁ。 しょうがおませんわな。社長さんアナログの人やし、携帯やでもノキアとプロバイダーの違いをご存知ないし、パソコン見てはって、ニュースが読めるのに、なぜメールができんのやって、ハードとソフトとプロバイダーがごっちゃ混ぜになってる人やから、仕方がおませんな。 今日の話でっか、木も倒れるし、メーターも倒すさかいに、倒れつながりちゅう話でんな。 ほな、さいなら。えっ、今日はえらい短い話やないかってですか。 ほな、おまけですわ。オートの料金の説明をしまっさ。1ルピーは1.4円で計算して下さいな。 丹羽慎吾

新加坡回想録(46)ドリアン

ドリアンは、日本ではそれほど馴染みのない果物ですが、「果物の王様」とも呼ばれ、栄養が豊富、甘みの強いねっとりとした果肉、そして何より独特の強烈な臭いなど、話題に事欠かない東南アジアの果物です。 特にその臭いは時に「生ゴミの臭い」とも形容され、現地の人でも好き嫌いが別れます。その強烈な臭いから、東南アジアのホテル、飛行機、電車にはしばしば「持ち込み禁止」と表示されています。 今、タイから日本に空輸されるフレッシュ・ドリアンは、品質・サイズにもよりますが、6000円~1万円前後しているのではないでしょうか? 冷凍ものならネット通販で500gが4000円くらいであるようですが。いずれにしても相当な高値です。 シンガポールに住んでいたころ、道端でリヤカーのようなものに積まれたドリアンを時々買いました。35年ほど前の話なので記憶がはっきりしませんが、確か10~20S$(シンガポールドル=当時約60円)だったと思います。 御存じの通り、あの強烈な匂いでつとに有名ですが、私は、最初ホヤでも食べられなかった程なので、ドリアンはとても食べられませんでした。日本でいうところの「くさや」のような感じでしょうか。好きな人はとことん好きで、匂いが漂ってくると、食べたくて食べたくて仕方なくなるようです。 そのドリアンですが、一度だけ仕事で取り扱ったことがあります。当時、シンガポールで有力な日本のデパート「Y」がブルネイでも展開しており、何か新しい仕事ができないかと訪問しました。食品関係なら何でもやるつもりで商談した結果、ドリアンをタイからブルネイに輸出することになりました。 さて、仕入れルートを確保するためタイのドリアン農園を訪ねることになりました。バンコック支店の協力を得て一面ドリアンの木が並んだ農園に足を踏み入れましたが、不思議とあの匂いがしませんでした。熟して発酵することであの匂いが出るのだろうが、農園では未熟なので匂いがでないのではと勝手に想像しました。 後になって、匂いの原因を調べてみました。遺伝子解析によると、臭いの原因はメチオニンガンマリアーゼと呼ばれる酵素によるものと判明しているそうです。これにより、ドリアンが成熟する過程で揮発性の硫黄化合物が発生、独特な臭いを発するようになります。研究者たちによると、この臭いは動物を引き寄せ、種を広範囲に運ぶ役割を持っているといいます。  ドリアンの好きな人は、この話を読んだだけできっとよだれをたらしていることでしょう。 (西 敏)  

追憶のオランダ(75)運転免許 大日本帝国が活きている

オランダに赴任して最初にしたことと言えば、外国人登録と自動車運転免許の切り替えであった。その際、証明写真を撮るが、まずそこから勝手が少し違っていた。日本はその種の写真は真正面を向いて撮る。しかし、オランダでは、真正面はダメだという、20度くらい斜に構えて、左斜めから耳の形がはっきりと見える写真でなければならないのである。証明用に必要だろうと何枚か日本から持参していた写真は結局使えず、オランダ流に撮り直すことになった。しかし、その撮り方には慣れないためぎこちない表情で写ってしまった。幕末に初めて写真を撮られた人のような感じさえしている。それが運転免許証に貼られてしまったのだ。一応、日本を出る前に忙しいところ時間を割いてわざわざ二俣川の運転免許センターまで行って国際免許証というものも発行してもらって行ったが、それも結局使わず仕舞い。その努力は完全に無駄になってしまった。日本の通常の免許証からの切り替えで簡単に済ませることができた。 そして、手にしたオランダの免許証を見て大いに驚いた。そこにはまだ「日本帝国」が活きていたのだ。というのも、そこには「日本帝国免許証からの切り替え」と記載されていたのだ。つまり、免許証に「het Keizerrijk Japan」と堂々と書いてあるのだ。Keizerrijk というのが皇帝の国、つまり帝国ということ。日本には天皇陛下がおられるので、やはりそう呼ばれるのかと思った。ともかく、左の拡大写真をご覧ください。 さらに、この免許は1993年に発行してもらったものだが、この反対側の面にはぎこちなく写った私の顔写真とともに2021年の私の誕生日まで有効とも記載されており、したがってまだ有効なのだ。そして、6年ほどオランダにいたが、日本のような何年毎とかの更新の手続きはなかった。おおらかなものだ。

シンゴ旅日記ジャカルタ編(18)  散歩しながら考える(ひこばえ)の巻

散歩しながら考えるの巻 ひこばえ (2019年10月記) 朝散歩で道路脇や家の庭先の花々や木々を眺めます。 植物はじっとしていて、動物のように動き回りませんが、したたかに生きています。 そのたくましく生きる力を「接ぎ木」や「挿し木」に見た時には驚きました。 さらに驚いたのは幹が根元や途中から切られても、残った幹から生えている枝とか葉を見た時です。元の幹の成長が止まってしまっても、それを乗り越えて生きて行こうとする若い枝や葉です。 それを見ると思わず「頑張れよ」と言いたくなってしまいます。 この幹を切られても生えてくる葉や枝のことを「蘖(ひこばえ)」ということを知りました。 大きな幹に対して若芽がまるで孫(ひこ)のようなので「孫生え」と名付けられたのです この「ひこばえ」は広葉樹によく見られる現象で、スギやマツなどの針葉樹ではあまりみられないようです。 このひこばえ(蘖)に昔から日本人は生命力の強さを感じ俳句にしています、 ひこばえは春から夏に掛けて見られるので春の季語になっています。 蘖や 涙に古き 涙はなし   中村草田男(1901年~1983年) 私がこの句に出会ったとき想像した場面は次のとおりです。 ある老人が幹を切られ朽ちかけた古い株に新しく生えてきたみずみずしいひこばえを見ました。 そして老人は思いました。 ああ、大木は切り取られてしまったが、新しい芽が出てきて生きようとしている。 まだ古い切株は死んだように見えても、その力を若い芽に与えようとしているのだ、若い芽に自分の知識や経験を与えようとしているのだ。 そして、若いひこばえは古い切株の代わりに生きて行こうと思っているのだ。 私もこの切株のように年を取ってしまったが、心の中ではひこばえのように生きる力があるのだ。 ああ、感動して思わず涙が流れ出てきてしまう。 ああ、この私の体は古い切株だが、今流れ出るこの私の涙は今の私だ、このひこばえのようだ。 「ひこばえ」でネットを検索していましたら、朝日新聞に重松清が「ひこばえ」という題名で小説を書いていました。2018年の6月1日にスタートして2019年9月30日に終了しました。 その小説の掲載前の作者紹介と作者の言葉は次のとおりです。 (作者紹介) 重松さんは1963年、岡山県生まれ。91年「ビフォア・ラン」でデビュー。 98年に本紙で連載した「エイジ」で翌年の山本周五郎賞を受賞しました。 01年に「ビタミンF」で直木賞。10年「十字架」で吉川英治文学賞。早稲田大学教授。 「ひこばえ」は父の死をテーマとした物語です。 弔いをめぐる様々な問題を通して、現代の家族の姿を見つめます。 (作者の言葉) 一昨年、父を亡くし、大学の教壇に立つようになって、自分は前の世代からなにを受け継ぎ、次の世代になにを手渡すのか、いわばリレーのバトンについて考えることが増えました。 新しいお話では、その問いを正面から、腰を据えて見つめるつもりです。 若い頃から父親と息子の物語を好んで書いてきた僕も、55歳。亡くなった親との付き合い方、すなわち、親をどう弔い、どう偲(しの)んでいくか……。 そんな問いも折り込みつつ、いまの歳でなければ書けないお話に挑みます。   なお、刈り取った稲の株から生えてくるひこばえを「ひつじ」と呼び穭、稲孫と書きます。 また、穭稲(ひつじいね)・穭生(ひつじばえ)ともいい、稲刈りのあと穭が茂った田を穭田(ひつじだ)といいます。俳句では秋の季語になります。 ひつぢ田に紅葉ちりかかる夕日哉   蕪村 「蕪村句集」 ひつぢ田の案山子もあちらこちらむき 蕪村 「夜半叟句集」 ひつぢ田や青みにうつる薄氷      一茶 「寛政句帖」   日本人の自然や季節を観察する鋭く優しい目、そしてそれを言葉や文字 に替えていく感性って素敵ですね。   丹羽慎吾

シンゴ旅日記インド編(97)ワテは運転手 携帯置忘れの巻

ワテは運転手でんねん。社長さんは日本人ですわ。ちょっとボケというか、物忘れが多い人ですわ。 何でかちゅうとね、しょっちゅうやないけど、アパートの鍵は忘れる、ガスコンロの火を止めたか心配や、バンガロールの空港でインターネットのモデムを置き忘れる、海外行くのにパスポートは忘れる、それに、この前なんか携帯をコチ空港の充電台の上に忘れてプネに戻って来はったんでっせ。 その日は日曜日やったけど、ワテお迎えに行ったんですわ。 そんで、いつものように空港の外で社長さんから電話があるんを待ってたんですわ。 プネの空港な、ビルの側に車を止めることができんのですわ。 ちょっと止まるだけで、すぐに警備ちゅうか軍人さんみたいな人が来て、早う車を動かせーて、うるさいんですわ。 そやから、いったん空港を出て、また入ってと、ぐるぐる回ったりすることもありますんや。 そやけど到着時間がとっくに過ぎても、社長さんからの電話がおませんのや。 そんで、こっちから電話したら、なかなか出んのですわ。 何回かかけ直していると『誰や、お前は』ちゅう声が聞こえましたんや。 びっくりですわ。てっきり社長さんが、ちょっと荷物が出てくるのが遅れてるとか、今着いたとこやちゅうて言わはるかと思てたのに、『誰や、お前は』ですわ。 そんで、その電話の主にその携帯は私のボスのものですちゅうて、話をし出すと、どうも携帯がコチの空港の充電台に置いてあったらしゅうて、電話に出た人は空港の人やったみたいですわ。 そんで、その人は社長さんが乗らはった飛行機会社SpiceJetの人から連絡があって、待合室の携帯充電台に電話の忘れもんがあったんで、それを今さっき預かっておるちゅう話でしたわ。 社長さん、また、やりはったなって思いましたんや。 それで、社長さんは携帯がないもんで電話してこんのやわと思(おも)たんですわ。 そやから、車を空港の外の駐車場に入れて、到着出迎えのところにいきましたんや。 そうして待っておったら、社長さんが荷物転がして出てきはりましたわ。 すまん、すまん、携帯をコチの空港に忘れたって言わはるんですわ。 そんで、荷物を持ってあげて、駐車場まで歩いて行って、車に乗ったら、それからは、社長さんのおしゃべりですわ。ワテからいかにワテが心配しておったちゅう話をする間がおませでしたんや。   社長さんな、コチの空港で搭乗券をもらった時に、まず、こりゃアカンと思いなはったらしいですわ。 座席番号が13Aやったんやて。 社長さんな、コチへは本社の人と一緒に行かはったんですわ。その人はチェンナイに戻るんやけど、コチ空港を飛び立つ時間がほとんど一緒やったから、ホテルから空港へ一緒に行ったんですって。 そしたら、その人はエンジニアでパソコン以外にもなんやかんや電子機器をいっぱいカバンに詰めてはったんやて。 それに、その人はタバコを吸う人で、背広の内ポケットにライターを一個内緒で入れて置いたんやて。 インドではライター一個でも、飛行機への持ち込み禁止なんを、その人は知っておったんやけど、まあ見つかってもライター一個やて、思ってたそうですわ。 そんで、社長さんがボディ・チェックを先に済ませて近くで待っておったら、その本社の人は、ライターは見つかって取り上げられるわ、カバンは全部ひっくり返して中身をまたX線の機械にいれらるわで、検査が終わるのに時間が掛かりそうやったちゅうんですわ。 そんで、社長さんな、待合室に先に入って、ぐるぐる歩いて見とったら、携帯の充電台があって、線が何本も出てたんを見て、自分の携帯のバッテリーの残りが少ないことが気になっていたんで、携帯にピンを差し込んで台の上に置いたらしいですわ。 そうしたら、本社の人が検査を終えて待合室に来たんで、そのまんま、その人の側に行って、混んでる待合室で二人座れる席を探してコチの町はよかったなあって、話とったら、すぐに社長さんの乗るプネ行きの搭乗案内があったんで、ゲートに向かって飛行機に乗ったんやて。 13のAの席な、窓際やったけど、ちょうど窓のない席やったんやて。 社長さんな、これが13Aの縁起の悪いもんかって思ったんやて。 しゃあないから本を読んでいこうと思って、通路側に、まだ誰も座っておらへんかったんで、通路に出て、それ、あの、頭の上の棚、そうそう、オーバーヘッド・コンパートメントちゅうんですか、そこに入れたカバンから日本の文庫本を取り出して、本を読み始めたんやて。 そして、客がどんどん入って来て、通路側の座席に太った人が座ったんやて、真ん中の席は誰も座らんかったそうですわ。 そんで、社長さん、いつものように携帯のモードGENERALからFLIGHTに変えようと胸ポケット触っても携帯がなかったんで、あれっと思って足元に置いた肩かけカバンの中を見ても携帯がなかったんやて、おかしいなあ、携帯はチェックインする前に、運転手、ワテのことですわ、にかけたはずやし、X線の機械を通す時に携帯を肩かけカバンの中にいれたはずやし、あっ、そうや、充電台に置いたまんまやって思い出したんですって。 空港のゲートから飛行機までは歩いて来たし、まだ、タラップが掛かっておるし、出発まで10分以上もあるしと思うて、飛行機の入口まで行こうとしたんやて。 そんで、通路側に座ってた太った人に『すみません、すみません』ちゅうて通らせて貰おうとしたら、その人は一旦締めたシートベルトを手間取って外しながら『What Happened?』って聞かはったらしいですわ。そして、めんどくさそうに通路に立って、社長さんを通してくれたんやて。 社長さんな、入口まで狭い通路を急いで歩いて、タラップの上にいる3人の乗務員に携帯を空港に忘れた、行って取ってくるちゅうたんですって。 そしたら、もうアカン、行くことはできん、携帯のモデルは何や、色は何や、どこら辺に置いたんかちゅうて聞かれたそうですわ。 社長さんな、乗務員の人が取って来てくれると思ったんやて。 そして、席に戻りなさいって言われたんで、また狭い通路を歩いて13の列に行って、また13Cの太った人に、めんどくさそうに立ってもらって13Aの窓のない席に座ったんやて。 13Cの太った人が、社長さんにあんたは日本人か、どうしたんやと聞かれたんで、社長さんは、日本人です、携帯を空港に忘れましたって答えたそうですわ。そうしたら、その13Cの人は通路を挟んだ 13Dの奥さんみたいな人に、社長さんのことを説明してはったそうですわ。 そして、社長さんが、その13Cの人と話をすると、その人はデリーの人で、13のD・E・Fに座ってる家族の人たちとコチに三日間の休暇で来てたらしいですわ。 社長さんは、乗務員から何にも連絡がないし、タラップが外れかけたんで、心配そうな顔をしたら、13Cの人が頭の上の乗務員呼び出しのボタンを押してくれたんやて。 そしたら、CAが席にやって来たんで、社長さんが、私の携帯は見つかりましたかって聞いたら『We can’t find it.』 って言ったんやて。そんで、とうとう離陸やったそうですわ。 社長さんな、コチは初めてのところなんで、窓際に座って飛び立つ時にコチの景色を写真に取ろうと思てたのに、窓はあらへんし、大事な商売道具の携帯は忘れるわで、落ち込んでおったらしいですんや。 そんで、インドで携帯を失くしても出て来るのやろか、空港で失くしたから大丈夫やろか、けど、シンガポール時代に携帯を失くしたお友達が、一日経って携帯の紛失届けを出したけど、その一日の間に中近東かどこかに通話されておって、どえらい通話料を取られたことを思い出したり、いや、二時間でプネに着くさかい、そしたら、運転手、ワテのことですわ、に言うて、すぐにキャンセルすればエエのや、インドは同じ番号で再登録できるはずや、っていろいろ考えてはったらしいですわ。   そんで、ちょっとは落ち着いたら、ホテルから空港に来る間の車のなかで、本社からの出張者さんが、用意してくれて、全部飲んでもたペットボトルの水が効いて来て、おトイレに行きたくなったんやて。 そんで、おトイレに行こうと13Cの人を見たら、その人は顔を上に向けて、いびきをかいて寝てはったんやて。 社長さんな、その人を起こすのもなんやと思って、我慢しようと思いなはったらしいわ。 そやけど、飛び立って30分位経って、プネへは、まだ1時間半あるって思ったら我慢できんようになって、13Cの人に近づいて、そん人の肩を叩いて起こして、まだめんどくさそうに立ってもらって、トイレに行って用を済ましたんやて。 そんで、自分の席に戻ろうと思ったら、13Cの人はまた、ぐっすり寝込んではったんで、手ェーを伸ばして、13Bの席に置いてあったご自分の肩掛けカバンをとって、二つ前の空いてる席に座ったんやて。その間、13Cの席の人は寝たままやったそうですわ。 二つ前の列だけAからFまで席が空いてたそうですわ。 さあ、窓際に座って外の景色をと思ったら、背もたれのところにある折りたたみのテーブルが壊れておってガムテープで留めてあったそうですわ。 それに、外はもう雲の上の方を飛んでるんで、写真も撮れんので、11のB席に座って寝ていったそうですわ。 プネに降りるちゅう放送で目を覚まして、運転手が待っておるやろな、どうやって連絡しようか、それよりもSpiceJetの事務所が先やなと思いなが着陸するんを待ったんやて。 社長さんな、着陸してからの『携帯は空港ビルまでスイッチを入れないでください』ちゅう放送にちょっとさみしさを感じたんやて。そんで、周りで喧しく鳴る携帯の音にいらついたらしいですわ。 そんで皆と同じように席を立って、通路に並んで、通路をちょっと戻ってカバンをオーバー・ヘッド・コンパートメントから取り出した、降りるのをまったんやって。ドアが開いて、出口に向かうと、出発した時に携帯が見つかったかどうかを尋ねたCAがタラップの下のスタッフにどうしたらいいか聞いて下さいと言ったんやて。タラップの下では係りの人が搭乗券をチェックしてたんですわ。 社長さんらが乗らはったフライトはプネを経由してデリーまで行くさかいに、間違って降りる人がいないように搭乗券をチェックしてまんのやて。 社長さんな、そのタラップの下の人に携帯をコチ空港に忘れたんやけどちゅうと、その人は降りる人の搭乗券を確認しながら、『手荷物を受け取ってからSpiceJetの事務所に行って下さい』て言ったんやて。 社長さんな、一旦は荷物取り場に行ったんやけど、荷物が出てくるのが待てんさかいで、SpiceJetの空港内事務所に行ったんやて。 そしたら、係りの女性が親切に聞いてくれて、コチの空港に電話して確認するさかい、ちょっと待ってくださいって言われたんで、また荷物取り場に行って、カバンをとってSpiceJetの事務所に戻ってきて、返事を待ったんやて。結構、時間がかかったそうですわ。 その間に窓越しに、ワテが車の中で電話しているのが見えたそうですわ。 でも、声が届かんし、まどろっこしいなぁて思たんやて。 そやけど、空港内には駐車ができんから、ワテの車は外に出ていったそうですわ。 そのうちに、コチから乗った飛行機の乗務員の人たちも事務所に来て、なんや記帳して出て行ったりしたんやて。その中には携帯が見つかったどうか聞いたCAもいたんやて。 そんで社長さん、待っておったら、ハンドトーキーみたいな電話を持った男の掛かりの人が来て、あたたの電話が見つかりました。Authorization Letterを書いて下さいって言われたんやて。 何や、それは、って社長さんは思いなはったんやて。 そしたらその係りの人が真っ白なA4用紙を持って来て、ここに、コチ空港関係者様から始まって、私は空港に電話を置き忘れました、SpiceJetの係りのものに受け取りを委任します。携帯のモデルはノキア、色は黒って書いて名前を書いてサインをしたんやって。 そんで、明日のフライトでプネに到着すると思うから本人か代理の人が取りに来てくださいと言われたそうですわ。 そんで、やっと、ホットして出口に向かって急ぎ足で来て、外で待ってたワテと出会えてちゅう寸法ですわ。長い話ですわ。アパートに着くまでその話ばっかでしたわ。 ただ、途中で美味しいインド・ワイン買うちゅうてリッカーショップとタマゴが要るちゅうて、タマゴ屋に寄りましたけどね。 社長さんな、物忘れが多いもんで、ご自分で色々と対応策ちゅうのを考えてはるらしいでっせ。 社長さんな、ちょっと高血圧で、毎朝二錠づつ、お薬飲まなアカンらしいんでっせ。 そんでも、時々飲むのを忘れるんやて。 そやから錠剤の入った薄っぺらい入れもんの裏にマーカーで日にちを書いて、飲んだか、飲まんかったか調べてはるらしいですわ。 特に、出張に行った時や、飲みすぎた翌日は、薬を飲むのを忘れるちゅうことらしいですわ。 そういえば、前の社長さんも、玄関に『携帯、手帳、ハンカチ、財布、、』って書いた紙を玄関横に貼ってはりましたわ。 ワテでっか、物忘れなんかしませんで。けど、今朝、社長さんから『会社で飲むコーヒー用の砂糖を明日買って、朝持ってきますって言ったのに、なぜ買ってこなかったのですか』って聞かれましたわ。 ワテは、すんませんって小さな声で謝りましたけど、昨日の帰りがけは、買って来るつもりやってんでっせ。そやけと、そんなん、ワテはチャイしか飲まんし、会社に来てから買いに行けばエエと思ったし、急ぎのことやないと思ったんでっせ、えっ、これを物忘れちゅうんですか。 ちゃうとおもうけどなあ。無関心ちゅうやつやろか。 丹羽慎吾