シンゴ旅日記インド編(87)我輩は牛でんねん カーストの巻

我輩は牛でんねん カーストの巻 (2010年10月記) えっ、何ですって?インドのカーストについて知りたいですって。 あんさん、段々と、きわどい質問になって来ますな。 我輩もインドで生まれた牛やさかい、ある程度分かっとるんですが、これがややこしいんですわ。 カーストって何やと思いまっか? えっ、バラモン、クシャトリア、バイシャ、スードラの四つの階級やろってですか? そうやろな、そう思われますわな。 でもな、カーストちゅう言葉そのものはポルトガル語でんねん、血統ちゅう意味ですわ。 そやから使われ出したんは16世紀以降やね。 インドではな、カーストと言うても大きく分けて2つあるんですわ。 ヴァルナとジャティですわ。 ヴァルナはあんさんが今言わはりましたバラモンとかで分ける四つですわ。 でもな、本当はその下に不可触民があるんですわ。 身分で分けるちゅうことですわな。 ヴァルナってね、サンスクリット語で『色』ちゅう意味ですねん。 えっ、何ですって?インドネシア語でも『色』のことのワルナと言うんですって。ホ~ン。 この色ちゅう意味な、大体分かりますやろ。 キタからキタヒトがミナミにイタヒトを見てな、あっ、こいつら顔や手の色が違うわ、ちゅう訳ですがな、体の色で差別したのが始まりなんですわ。 キタからキタヒトな、キタキタって、ややこしいな、そんでもキタからキタヒトな、アーリア人ですがな、 サンスクリット語を話してましたわ。 アーリアってな、高貴な者ちゅう意味でんねん。 中央アジアからインドと反対の方向に行った人たちな、アーリアと同じ語源のイラーンになったんですわ。顔もよう似てはりますやろ。 そして、一時ヨーロッパで流行ましたやろ、サンスクリット語とヨーロッパの言葉はインド・ヨーロッパ語族言うて昔は一つやったて。そんでドイツのヒットラーさんはゲルマン民族こそが優秀で高貴なアーリア人であるって言わはったでしょ。えっ、知りませんて、そうでっか。 けどなイギリスはずるいんですわ。 インドを植民地した時代にな、インドはイスラム教徒が来る前はヒンズー教徒が支配しておった、その支配者はバラモンでイギリス人と同じアーリア人やってちゅう理屈を付けてな、植民地支配を正当化したんでっせ。 今ではヨーロッパ人とアーリア人な、直接関係ないちゅうのが本流でっせ。 でもな、インド人てヨーロッパ人と同じ顔したヒトがようけおりまんねん。 きっと、どっかでは、つながってると我輩は思いますわ。 この前の戦争中に日本もな、アイヌのヒトが東方アーリア人やってドイツに煽てられましてな一緒に戦争してな、一緒に負けてしもたんでわ。アカン、話を戻しますわ。 バラモンちゅうのは神さんの能力であるブラフマンを持つ者ちゅう意味でんねん。 その次が政治や軍隊を担当するクシャトリアでんがな。権力を持つ者ちゅう意味ですわ。 その次が農業や牛を飼ってたヴァイシャですわ。 ヴァイシャさんたちが貢物をして上の二つのバラモンとクシャトリアを経済的に支えたんですわ。 あとで商業が起きるとな、商人達もヴァイシャ階級になったんですわ。 ヴァイシャの意味ですか?部族のメンバーを意味するヴィシュから来てるんですわ。 そんで、その下が、上の三つのヴァルナに仕える奴隷みたいなスードラでんがな。 でもな、上三つのヴァルナはな、バラモン教の儀式に出れたんですわ、 男の子が第二の誕生式やちゅうバラモン教の入門式に参加するやつでんがな。 そこで生まれ変わるちゅうんで再生族って言われまんねん。 最後のスードラは参加できませんやろ、よってお母さんから一回しか、生まれへんから一生族と呼ばれて差別されてまんねん。 スードラちゅう名前は、アーリア人に征服されたどこかの部族の名前から来たらしんですわ。 そのスードラの下にな、不可蝕民でチャンダーラとかダリットとか、マハールとかいろいろ呼ばれる不浄なものを扱う階級があるんですわ。今で言うアウト・カースト、指定カーストでんな。 そんでな、上位4つのヴァルナがどうやって出来たかちゅう神話があるんですわ、人間の基となるプルシャという神さんのな、口からバラモンが、両腕からはクシャトリアが、両腿からヴァイシャが、そして両足からスードラが生まれたちゅうてね。 まるでイザナギが黄泉の国から逃げてきて体を洗ったらアマテラスとか、スサノオとかで生まれたちゅうのと、ウリ二つでんな。 インドでもウリ二つちゅうのやろか?マンゴ二つやろか、インドリンゴ二つやろか? まあ、エエわ、ヒンズー教も日本の神道と一緒で浄、不浄がありますんや。 上位三カーストが浄で下の二つが不浄でんな。 それでね、カーストのもう一つの分類のジャティですわ。 サブ・カーストとも言われまんねん。職業で分類してまんのや。代々継いで行くんでっせ。 会社でいうたらヴァルナが役職で、ジャティが部署みたいなもんでっしゃろな。 それでやね、ジャティは一職業、一ジャティやから、ヴァルナよりも種類がようけありますんや。 我輩もな、ヴァルナはせいぜいあっても100で、ジャティは3,000くらいかなって思っていましたんや。そしたら、去年政府がな、ヴァルナは6,000、ジャティは65,000もあると言うやないですか。 モー、ビックリしましたがな。 そんで、話飛びますけどインドな、何でIT産業が発達したか知ってまっか? えっ、ネルーがアメリカのマサチューセッツ工科大学のMITを真似て、インドにインド工科大学IITを設立して、今は7つものキャンパスがあったり、インド人は英語が出来るし、19x19が暗算で出来るし、ラジブ・ガンディがコンピューター。ボーイと言われて、IT産業を誘致したからやないかってですか? あんさん、結構知ってまんな。 そやけどな、IT産業で働く人がな、どのカーストに入るか知ってまっか? 新しい職業な、今までにジャティがおませんやろ、そうすると、新しいサブ・カーストになるんですわ。 IT産業ってな、上のカーストとも下のカーストとも関係おませんやろ。 それに、コンピューターの中だけで自分一人ですやろ、そやからカーストがあんまり影響おまへんのや。 そんでIT産業が発達したとも言われてまんのや。 カースト制度な、1950年公布のインド憲法では全面禁止と書いてありまんのやで。 なんせ、憲法を起案したヒトが不可蝕民のアンべードカルさんでしたさかいな。 でもな、ガンジーさんはな、カーストを無くせとは言ってませんのやで。 ワーク・シェアリングでエエやないかって言ってましたんや。 だだな、アウト・カーストはイカン、廃止やって言ってはりましたわ、えっ、吾輩が聞いたんかってですか、そんなん直接聞いたわけやないけどね。カーストって言うても複雑なんですわ。 今の政府な、知ってますか、4大カースト以外のヒトをな、指定カースト、指定民族、その他後進諸民族言うてな3つに分けてはるんやで。 指定カーストいうたらアウト・カーストでんがな。 指定民族は、これな、少数山岳民族でんがな、その他後進諸民族はヒンズー以外のヒトでんがな。 これな、一体、誰のことやって、ハッキリしてませんねん。 それに、これな、階級ちゅうよりも収入の少ない人の分け方でんがな。 そんで指定カーストと指定民族にはな、大学入学とか、役人さんになるのに22%の特別枠を設けてますんやで。 指定民族になれば優遇枠があるちゅうで指定民族にしてくれちゅうのも出てくるんですわ。 なんやよう分からん話でっしゃろ。 そんで、時々上位カーストのヒトがな、逆差別やいうて騒いでまんがな。 えっ、マレーシアにもブミ・プトラ政策ゆうて同じような枠があるってですか?ホ~ン。 そんでな、インド政府な、憲法でカーストを禁止しとるから表立って調査出来んのですわ。 そんで実態を知らんと言うてもな、国家予算で特別枠つけてどのくらいおるかの数字持ってはるんですわ。おかしな話でっしゃろ。 それな、指定カーストが16%、指定民族が8%、その他後進諸民族が27%やちゅうんですわ。 あわせて51%でんがな。 でもな、その他後進諸民族がな、もっとおるちゅう噂でんねん。 そんでな、こりゃ、調べなアカンちゅうて、来年の国勢調査で皆がどのカーストか調べるちゅうてはるんですわ。ホンマに出来るんやろか、そんなこと? そんでカーストの下の方のヒトな、昔からこりゃタマらんがなゆうて、カーストから逃れるために他の宗教に移るヒトもいるんですわ。 差別のないイスラム教とかキリスト教とか仏教とかに移るんですわ。 でもヒンズーのヒトな、イスラム教やキリスト教のヒトをアウト・カーストか、それ以下に見てるんですわ。 これではインドがパキスタンとかバングラデシュのヒトと仲良うできるわけがないですわな。 逆にヒンズー教に入りたいヒトは一番下のスードラになるんでっせ。 ヒンズー・ナショナリズムって知ってまっか? 日本でいうと自民党と青年の家と公明党と創価学会とがくっ付いたような運動でんがな。 それが政党でいうとBJPちゅうインド人民党が中心になってまんがな。 これな、ややこしいんで、またいつかお話しまっさ。 そんで、話が飛びますけどな、インドのヒトは死んだ後はどうなると思ってるか知ってまっか。 輪廻転生、サン・サーラでんがな。 えっ、同じ名前の雑誌が日本にあるってですか?ホ~ン。 ヒトの霊魂は不滅や、ちゅうんですわ。 死ぬとな、この世でしたことをな、閻魔さんが判断してな、次の世にな、いろんな姿で生まれ変わると信じてますんや。 えっ、あんさんも、子供の頃に、見たことがあるってですか? 閻魔さんがいて血の池、針の山の絵巻物があったってですか?ホ~ン。 それもありまんのやけどな、インドの人な、ヒトが死ぬとその霊魂は火葬の煙と一緒にお月さんに行って、そんで雨となって地球に降ってくるちゅうんですわ。 そしてな、地中に入ってな、食べモンに入ってな、そして男はんの体内に入って、セイシとなってヨメさんの体に入って、赤ん坊として、また生まれて来るちゅうんですわ。 でもな、ヒトに生まれるか、どうかは生きてる間にエエことしたかどうかによって決められるんですわ。 エエことしたヒトはバラモンやクシャトリアに、悪いことしてヒトはスードラやそれ以下の牛、馬、豚として生まれるちゅうんですわ。 そんでな、エエことを一杯してな、もうこれで以上ありません、完成やちゅうヒトはな、火葬にされて、ブラフマンの世界に行ってもて、もう、生まれ変わることはないちゅうでんな。 これがゲダツちゅうやつでんな。 そやもんでな、みんな、一生懸命に、生きてる間にゲダツしたいと思うてな、修業してはるんですがな。それでな、インドで貧困層を無くそう、土地改革や、農民の権利拡大や言うてもな、選挙になるとあきませんのや。 大勢の貧しい農民がこの世ではエエことしとかなアカンから地主さんに投票しましょ、そうすれば、エエことしたことになるんで、次の世で生まれ変わった時はランク上のカーストになれるわ、ちゅうて地主さんに投票しますんや。そんでなかなか改革が進まんちゅうわけでんがな。 難しいもんですな、ヒトさんの考え方な、よう分かりませんわ。 えっ、あんさんも、子供の頃におばあさんに、死ぬのか怖くないか聞いたことがあるってですか? そんで、その時におばあさんが、何で死ぬのか怖いものか、おばあさんが知ってるヒトはみんなあっちに行ったんで、死んだらまた会えると思うと嬉しいくらいやと言っておったってですか?ホ~ン。 […]

フランスあれこれ31~セーヌの源流を求めて

古いアルバムを眺めていて発見した小さな思い出旅行です。時は1990年4月29日漸く季節も良くしかも三連休だったようです。欧州では既にバブルが頂点を超え景気の峠の見えた頃ですが、日本はむしろこれからと言う状態。日本からの来客は私達商社を相手にせず金融機関を頼りしていた頃でした。 この機会にとばかりパリを脱出、美食と美味しいワインの里ブルゴーニュを目指しました。パリの南東およそ160kmオーセールが最初の訪問地でした。セーヌ川の支流ヨンヌ川に沿って出来た街ですが古くはローマ時代からの通商交易の中継地の一つです。古い街の一角は今も歴史を匂わせる雰囲気です。その第一は幾つかある古い教会です。中でも私の趣味のステンドグラスを求めて選んだのがサンテチエンヌ聖堂でした。聖堂に入る前に入り口で見つけたのは写真の看板、これを見てビックリ!それは古くは「1429年2月27日ジャンヌダルクが神のお告げで故郷を出立、“ジアン”を目指す途中にこの聖堂に立ち寄ってお参りした。それから丁度500年、即ち1929年に記念としてこの記録を残した」ものでした。今まで夢のようなとしか感じていなかった話が突然目の前に身近な人物として甦った想いでした。何かに触れるとか実際の現場に立つことが歴史を知る上で大変貴重だと言う想いです。この聖堂は4〜5世紀頃に建立、その後15~16世紀に増改築や建て替えなどの変遷を経ています。当時の面影や如何と思われます。 翌日はいよいよセーヌの源流を求めての散策です。散策とは言え全て車です。セーヌに沿った町はセーヌの名前がついています。やっとたどり着いた源流の町はスルス・セーヌですが民家らしい家は目に入りません。地域一帯は緑一色、そして静寂そのもの。やっと源流のシンボル「セグアナの女神」を見つけました。セグアナと言うのはガリア人の女性形、古代この地域に生息した人種ですがフランス人の元祖ケルトの一派です。ドゴール大統領の名前もこのケルトからきている由でフランスではちょっとしたステイタスかも知れません。私ども以外全く人気もなく女神も寂しそうでした。早速ご近所の散策へ。車で移動、徒歩で沼地を眺めたり、この付近一帯がセーヌの源流なることを確認しました。やっと数枚の写真を手にしましたのでその一枚をご覧いただきます。 セーヌ川について付記します。全長776㎞、セーヌの本流の他にも大きい支流をもっています。これらの支流も含めてセーヌ川は縦横に運河とつながり、全国的な物流ルートとなっていました。パリはその最大の拠点だったという事です。 最後に残ったテーマが舌づつみと喉こしの話です。ブルゴーニュはボルドーと並ぶワインの産地です。同時にレストランもワインのレベルに並ぶと言われていました。中でもよく耳にしたホテル・レストラン「ラ・コート・ドール」(“La Cote d’Or”は黄金の丘と言う意味でこの地域の県名です)を予約しました。その日の特別料理として“Fete de Legumes”(野菜祭りの意味で野菜だけを使った料理)がお勧め、またソムニエのお勧めの白ワイン「シャブリ グラン クリュ」“CHABLIS Grand Cru”、いずれも最高!家内共々大満足でした。この名前のレストランは日本にも進出していてご存知の方も居られるかと思います。残念ながら当時の写真はアルバムにありません。 最終日この地域の歴史上の古都アヴァロンを訪ねました。こちらも古くは古代ローマ時代ローマ軍の前線基地としても歴史に残ります。当時の要塞(古城)は破壊され、かすかな思い出を残すのみです。ジュリアス・シーザーも何度か通過、或いは滞在したと思われます。以来混乱と再建を繰り返しながらも地理的拠点を維持したようです。街のシンボルは時計塔です。要塞が壊滅した15世紀、街の監視塔として建造されたと言います。現在は近くに高速道路が出来たこともあって聊か置き去りにされているのは時代の流れと言うほかありません。 今回は写真が出てきたこともあってフランスの観光案内にあまり出てこない案内をさせて頂いたつもりです。

追憶のオランダ(64)アンティークタイルへの旅

私のオランダ生活はたかだか6年弱。当初からアンティークタイルを収集しようなどとは思っていなかった。しかし、気が付くと随分のめり込んだものだ。それも後半の3年の間に、である。それは、ある古書店でタイルに関するある本と出合ったのが直接の引き金になったように思う。それは、ヤン・プラウス( Jan Pluis )という人の書いた「Kinderspeelen op Tegels(タイル上の子供の遊び)」という題名の本(左の写真)で、文字通り「子供の遊び」をモチーフにしたタイルばかりを収集し一冊にまとめてある。その本の内容に魅せられて自分自身でも収集を始めてしまったのだ。それからというもの、骨董屋を見て回るのは当然のこと、美術館もあちこち見て回った。さらに、古い建物なども公開されているもの、由緒ありそうなレストランなど覗いて見たが、こちらは、実際に使用されている建物の中でどんなタイルが、どのように使われているかを見るいいチャンスでもあった。また、タイル専門の博物館へも何度も足を運んだ。それは、オランダ東部のアーンヘム( Arnhem ) の郊外にあるオッテロー( Ottelo )という町のタイル博物館、デルフトのランベルト・ファン・メールテン( Lambert van Meerten )、北部フリースラントのレーウワーデン( Leeuwarden )にあるプリンセスホフ( Princesshof )など。   オッテローのタイル博物館では会員にもなりいろいろな関連情報をもらった。なかでもタイル関連の出版物の案内やタイルの即売会の情報は私にとってはとても有難かった。案内があればその都度どこであれ出かけて行ったものだ。顔なじみになった何人もの骨董屋ともそんな即売会場で度々出会い、何枚も買い込む(体よく買わされる?)ことになる。そうそう、思い出した。なぜオッテロー まで行くことになったのか。普通ではなかなか考えがおよばない場所なのだ。それは、アムステルダムの小さな骨董屋で、そこの親父と話していて「それなら、一度オッテローのタイル博物館に行ってみるといい」と勧められたからだ。小さな町だからすぐ見つけられるというので、翌日すぐ車を走らせた。それ以降、何度通ったことか。右の写真はその展示風景。 デルフトのランベルト・ファン・メールテン、は由緒ある17世紀の旧宅を博物館にしたもので、壁面いっぱいに往時のタイルが展示してある。殆ど客が来ることがないので、いつも独り占めの感覚を味わえる貴重な場所だった。また、ここではタイル関連のいろいろな出版物を買った。右の写真はその図録。オランダ語は難しいが豊富な写真があるのは参考になった。さらに、プリンセスホフは、あのエッシャーの父が日本から帰国後に一時住んでいたこともあるという昔のフリースラント州の貴族の邸宅で、そこを陶器専門の博物館にしている。ちなみに、芸術家のあのM.C.エッシャー もここで生まれたと聞く。ここでもまたエッシャーと出会ってしまった。 (続く)